7月の空は、朝から容赦なく青かった。
九条中学校のグラウンドでは、夏の中体連に向けた登録メンバーの発表が始まろうとしていた。部員たちがバックネットの前に整列する。
黒部の足元には、背番号をつけたユニフォームが重ねてある。
早田は、その白い布を見ていた。
春にも、同じものを見た。
あの頃より左腕は強くなり、外野フライの追い方や捕球後の動作も少しずつ身についてきた。それでも、急いで送球すれば狙いを大きく外すことがある。
6月の練習試合では、6回裏二死二塁で代打に立ち、カーブをセンター前へ打ち返して同点に追いついた。あの手応えは忘れていない。しかし、守備には就けなかった。
「これから名前を呼ぶ。呼ばれた者は前に出て、背番号を受け取れ」
黒部の声に、列が引き締まった。
ひとり、またひとりと名前が呼ばれる。
「井出正也。4番」
「はい」
井出は短く返事をして前へ出た。背番号4を確かめて、静かに戻ってくる。
「嵐徳夫。5番」
「はいっ!」
嵐は春のときのような言い直しをせず、勢いのよい返事をした。受け取ったユニフォームの背をちらりと見て、口元を引き締める。
井出の正確な守備と俊足、嵐の強肩と長打力。2人が選ばれる理由はよく分かっていた。
ほかの名前も、次々に呼ばれていった。
白いユニフォームの山が低くなる。
最後のひとりが列へ戻り、黒部は用紙を下ろした。
「以上だ」
早田の名は、なかった。
春に続き、中学最後の大会でも背番号は手に入らなかった。
打撃には手応えがある。だが、守備に不安を抱える自分のために、限られた登録枠を使うとは限らない。
監督の判断は自然なことだ。
春に嵐と井出へ言った言葉が、頭の中で繰り返された。
今も、そう思う。
左で投げると決めたのも自分だった。右で野手になれば、もっと早く試合に近づけたかもしれない。
分かっているのに、悔しかった。
頭では分かっていたくせに、最後まで自分の名前が呼ばれるのを待っていた。そんな自分が、いちばん悔しかった。
早田の顔には何も出なかった。隣の部員と同じように背筋を伸ばし、黒部の話を最後まで聞いた。
「選ばれなかった者も、九条中野球部の一員だ。試合に出る者だけで大会を戦うわけじゃない。自分のできることをやれ」
「はい!」
早田も、ほかの部員と同じように返事をした。
*
解散して、部員たちが用具を片付け始めた。
早田がボールかごを持ち上げると、嵐が横から片側の取っ手をつかんだ。
「おい、持つぜ」
「一人で持てる」
「知ってるよ。こっちが持ちてえんだ」
井出も後ろから歩いてきた。
「今日は余計なこと言わない方がいい気がするね」
「もう言ってるだろ」
「確かに」
嵐が眉をひそめ、井出が少し笑った。
早田は何も言わず、ふたりと並んで用具置き場へ向かった。
「……早田」
井出が呼んだ。
「何?」
「俺たち、ちゃんとやってくるから」
「うん」
「見てろよな」
嵐が続けた。
「見てる」
早田は答えた。
今、自分にできるのは見届けることだった。
*
夏の大会、1回戦。
九条中の打線は、初回から勢いよくバットを振った。
1番の井出が出塁し、すかさず盗塁を決める。後続もつなぎ、九条中が先制した。
そして、5番・三塁手、嵐徳夫。
1打席目。嵐は高めの球を思い切り引っ張った。
打球は左翼手の頭上を越え、フェンスの向こうへ消えた。
「入った!」
スタンドから声が上がった。
ソロ本塁打。
嵐は一塁を回りながら拳を握り、二塁を蹴ったところで笑みをこぼした。
2打席目には、一塁に走者を置いて打席に入った。
相手投手は低めや外角を突いてきたが、嵐は見送った。そして、甘い球が来た。
嵐が振り抜くと、金属バットが鋭く鳴った。
打球は左中間の外野手の間を越えた。
2点本塁打。
「2本目だぞ!」
嵐は笑顔を隠さず三塁を回り、本塁を踏んだ。
3打席目。
九条中はさらに点差を広げ、再び一塁に走者を置いていた。
今度の相手投手は、内角を突こうとした。
嵐は踏み込んだ。
高々と上がった打球が、今度は左翼線寄りに伸びていく。切れるかと思った白球は、最後までフェアゾーンを保ったままフェンスを越えた。
3打席連続本塁打。
合計5打点。
九条中のベンチが爆発したように沸いた。
「3本だ! 3本!」
「嵐、やりすぎだろ!」
嵐は本塁に帰ってくるなり、ヘルメットのつばを上げた。
「まだ打てるぜ!」
井出が迎える。
「この点差なら、5回で終わるだろうけどね」
「終わるまで打つんだよ!」
井出も2安打2打点、1盗塁。嵐の長打力と井出の出塁・走塁能力が、どちらも得点につながった。
5回終了。
14対2。
九条中は5回コールドで初戦を突破した。
フェンスの外から応援していた早田は、手をたたいた。
嵐の3本塁打も、井出の迷いのない盗塁も、早田にはない強みだった。同じチームの仲間であることが嬉しい。
そして、少しだけ、胸が痛かった。
同じ白いユニフォームを着て、あの輪の中に入りたかった。
それでも早田は、試合後に引き上げてきたふたりへ、いつもどおり声をかけた。
「お疲れ」
「見てたか、早田!」
「3本とも見た」
「どうだ!」
「よく飛んでた」
「そこはもっと驚けって!」
井出が横で吹き出した。
3人は、その日の勝利を素直に喜んだ。
*
2回戦。
九条中は先攻だった。
1回表。先頭の井出が打席に立つ。
打球は三塁前へ転がった。相手三塁手が前へ出て捕り、素早く一塁へ投げる。
だが、井出の足がわずかに勝った。
「セーフ!」
三塁内野安打。
井出は投手の動きを見て、次の投球で二塁を狙った。
捕手の送球が届くより早く、足がベースへ滑り込む。
「セーフ!」
しかし、後続がつながらなかった。二死になって4番が四球を選び、一、二塁で5番・嵐へ回った。
前の試合、3本の本塁打を打った打者だ。
相手の内野手たちが一歩深く守る。
嵐は初球を見送った。2球目の速球に空振りし、3球目は外角の球にバットを合わせ損ねた。追い込まれたあと、最後は低めの球に手を出す。
空振り三振。
「くそっ」
嵐はバットを戻した。
まだ、1打席目だ。
ところが、その裏に九条中は大きくつまずく。
先発投手は先頭打者を四球で歩かせた。2番打者にもボールが先行し、捕手が間を取ったが、結局四球を与えてしまう。さらに3番打者も歩かせた。
無死満塁。
黒部はベンチからマウンドを見つめた。
投手は懸命に腕を振っていたが、狙ったところへ球が行かない。
黒部はタイムを取った。
「一つずつだ。今の三人のことは忘れろ。目の前の打者を見ろ」
投手は頷いた。
「はい」
マウンドを降りるとき、黒部は捕手にも短く言った。
「低めを使え。無理に三振を取りにいくな」
4番打者への2球目。
真ん中寄りに入った球が、右中間を破った。
走者が二人、帰ってくる。
なお無死二、三塁。
続く二塁ゴロと犠牲フライでも走者が生還し、計4失点。後続は打ち取ったものの、1回裏が終わったとき、九条中は0対4と大きくリードされていた。
3者連続四球が招いた失点だった。
守備から戻る選手たちを、黒部は叱りつけなかった。
「1点ずつ返すぞ。まだ6回ある」
それだけを言った。
選手たちは頷いた。
*
2回表。
6番打者が左中間へ二塁打を放った。続く7番が送りバントで三塁へ進め、8番の遊撃ゴロの間に走者が生還した。
1対4。
9番は内野ゴロに倒れた。
3回表、井出の2打席目。
井出は四球を選んだ。
塁に出た井出は牽制を受けて戻ると、次の投球で走った。
二盗成功。
この試合、2つ目の盗塁だった。
2番打者がセンター前へ打ち返す。
井出は三塁を蹴った。
迷わず本塁へ滑り込む。
2対4。
井出の出塁と盗塁が、得点を生んだ。
3番が外野フライに倒れ、4番も打ち取られた。
二死で、嵐に2打席目が回る。
相手投手は嵐を警戒し、外角低めを攻めた。嵐はファウルで粘ったが、最後は空振りした。
2打席連続三振。
「ちっくしょう……」
嵐は唇を曲げてベンチへ戻った。
井出が肩をすくめる。
「昨日3本も打つから、警戒されたんじゃない?」
「それとこれとは別だろ!」
「別なら、次は打とう」
「言われなくても打つ!」
声にはまだ力があった。
4回表は安打こそ出たが、得点には結びつかなかった。
5回表。
井出の3打席目は二塁ゴロに終わった。
それでも2番打者が安打で出塁し、3番が左中間へ二塁打を放つ。2番走者が帰って、3対4。
4番の打球が一、二塁間を破った。
3番走者が本塁を踏む。
4対4。
「追いついた!」
九条中の応援席に声が広がった。
早田はフェンス際で拳を握った。初回に4点を失っても、仲間たちはつないで取り返した。
なお一死一塁。5番・嵐に3打席目が回った。
嵐は深く息を吐いてからバットを構えた。
1球目、空振り。
2球目、ファウル。
3球目はボール。
4球目、低めに落ちるカーブ。
嵐は振った。
バットは空を切った。
3打席連続三振。
前日の3本塁打から一転、今日は3打席とも三振だった。
嵐は何も言わなかった。
6番も外野フライに倒れ、同点のまま攻撃が終わった。
その裏。
九条中は二死から安打で走者を出し、二塁へ進まれたあと、センター前への安打で勝ち越しを許した。
4対5。
また、1点を追う形になった。
*
6回表、九条中の攻撃は三人で終わった。
6回裏。
先頭打者を二塁フライに打ち取った。
次の打者は三振。
二死、走者なし。
ところが、そこから投手の制球が再び乱れた。
四球で走者を出し、続く打者には左前安打。さらに四球を与えて、二死満塁となった。
黒部はベンチの前へ出た。ここで追加点を許せば、最終回の攻撃はさらに厳しくなる。
打席には、右打者が立っていた。
内野手たちが、ひときわ静かに腰を落とした。
三塁を守る嵐は、腰を落とし、グラブを地面の近くに構えていた。
3打席連続三振。それでも、今は次の打球を止めることだけを考えていた。
投手が投げる。
乾いた金属音がした。
速い。
強烈なライナーが、三塁線を襲った。
白線のすぐ内側。抜ければ複数の走者が還る。
嵐は右足で土を蹴り、三塁線へ横っ飛びした。考えるより先に、身体が動いていた。
重い衝撃。
グラブが後ろへ押された。
胸から地面に落ちたが、グラブは閉じたままだった。
一瞬、声が消えた。
打者が一塁へ向かう。
三塁走者も本塁へ走り出していた。
だが、嵐は地面に伏したまま、グラブを高く持ち上げた。
中には、白いボールが収まっていた。
「アウト!」
審判の腕が上がった。
三死。
失点なし。
「嵐ぃっ!」
ベンチから声が上がった。
井出が真っ先に駆け寄る。
「取ったのか、今の!」
「見りゃ分かんだろ!」
嵐は土まみれの顔を上げた。
「抜かせるかよ!」
井出が笑った。今度ばかりは、からかう言葉が出なかった。
フェンスの外で見ていた早田は、ようやく息を吐いた。あの一歩は自分にはまだ踏み出せない。それでも、胸が熱くなった。
嵐が守ったのは、点数だけではない。
九条中の最後の攻撃へつなぐ、1点差だった。
*
7回表。
4対5。
九条中に残された攻撃は、あと一度。
1番・井出から始まった。
井出の4打席目。
相手投手の1球目を見送り、2球目を打った。三遊間へ転がった打球を遊撃手が捕り、一塁へ送る。
「アウト!」
際どい判定だった。井出は一度だけ足元を見て、ベンチへ戻った。
2番打者が安打で出た。
三番の一塁ゴロで走者は二塁へ進む。
二死二塁。
一本出れば、同点。
4番打者が打席に向かう。
ネクストバッターズサークルには、嵐が立っていた。
ここまで3打席とも三振。それでも4番がつなげば、もう一度打てる。
嵐はバットを握り直した。
早田はフェンスの向こうから、その背中を見ていた。
投手が投げる。
四番のバットが球を捉えた。
高い打球が左翼へ上がる。
嵐は、一歩だけ前へ出かけた。
左翼手が後退し、打球の下に入った。
グラブを掲げる。
白球が、その中に落ちた。
「アウト!」
試合終了。
九条中、4対5。
2回戦敗退。
嵐は、バットを持ったまま動かなかった。
その日の4打席目は、来なかった。
*
試合を終えた選手たちは、グラウンドに整列した。
「ありがとうございました!」
声が重なり、頭が下がる。
嵐の膝には土がついていた。6回に飛び込んだときのものだ。井出はユニフォームの裾を直しながら、まっすぐ前を見ていた。
前の試合では嵐が3本塁打、井出も2安打2打点。だが今日は嵐が3打席連続三振に倒れ、井出も最後の打席で出塁できなかった。
2人とも力を尽くした。それでも、九条中は負けた。
選手たちがベンチを片付け始めるころ、黒部はスコアブックを閉じた。
昨年の夏も、主将で4番捕手の村松が最後の試合で3安打2打点と奮闘した。九条中は3回戦まで進みながら、四球をきっかけに失点を重ね、5対7で敗れている。
そして今年も、野手はよく打ち、よく守った。初回の4失点を取り返して同点とし、6回には嵐が決定的な一打を防いだ。それでも、4対5で終わった。
野手には恵まれる。投手には恵まれない。
黒部の頭に、何度も浮かんできた言葉だった。初回の3者連続四球がなければ――そんな考えもよぎった。
だが、黒部は首を横に振った。
投手に恵まれない――それで済ませてしまえば、負けた監督の言い訳になる。
投手を育て、適切な継投を考えるのも監督の仕事だ。先発投手だって、好きで四球を出したわけではない。
黒部はスコアブックを鞄へしまった。
見上げると、選手たちが引き上げてくるところだった。
嵐が先に戻ってきた。
「……すんません」
いつもより、はるかに小さな声だった。
「何を謝る」
「1本も、打てなかった」
黒部は嵐の土だらけの膝を見た。
「6回のあれを捕れたのは、お前しかいない」
「でもよ」
「打てなかった悔しさは忘れるな。だが、守ったことまで、なかったことにするな」
嵐は何か言おうとして、やめた。
「……はい」
井出も近づいてきた。
「監督、ありがとうございました」
いつもの冗談めいた調子はなかった。
黒部は頷いた。
「よく走ったな」
「走るだけじゃ、足りませんでした」
「そういう試合もある」
井出は目を伏せた。
「……はい」
黒部はふたりの肩に軽く手を置いた。
「片付けを済ませろ。帰るまでが大会だ」
「はい!」
嵐が今度は少し大きな声で答えた。
*
グラウンドの外で待っていた早田に、嵐と井出が歩み寄った。
嵐はまだユニフォームのままで、肩にバットケースをかけていた。
「……終わっちまったな」
「うん」
早田が答える。
井出はフェンスの向こうを振り返った。
「4点、返したんだけどね」
「1本、足りなかった」
早田が言うと、井出は頷いた。
「そうだね」
嵐が地面を見た。
「昨日は3本も打てたのによ。今日は、1回も当たんなかった」
「六回は、捕った」
早田が言った。
嵐が顔を上げる。
「あれが抜けてたら、もっと点差が開いてた」
「……そりゃ、そうだけどよ」
「すごかった」
早田は短く続けた。
嵐は鼻の頭をこすった。
「おめえにそう言われると、調子狂うな」
井出が小さく笑った。
「褒められ慣れてないからね」
「うるせえ!」
いつものやり取りだった。
だが、誰もすぐには歩き出さなかった。
早田は出場できなかった。嵐と井出は戦って、負けた。悔しさの形は違っても、この夏をやり直せないことだけは同じだった。
やがて井出が言った。
「帰ろうか。片付け、まだ残ってる」
「おう」
三人は、並んで歩き出した。
*
大会が終わり、数日が過ぎた。
九条中のグラウンドには、1、2年生の練習する声が響いていた。
3年生の部活動は、夏の中体連を最後に引退という形で、既にピリオドが打たれていた。
早田は、部室に残していた荷物を取りに来ていた。
右手にはめるグラブだけは手に持ち、使い慣れたバットと左投げの記録ノートを鞄へしまった。
グラウンドの端に立つと、見慣れた景色が広がっている。
事故前は右腕でマウンドに立ち、事故後は右肩のリハビリに励んだ。左で投げ始めた頃は、ほんの短い距離にも届かなかった。
春には黒部から右投げの野手になるよう勧められたが、自分は左を選んだ。春も夏も背番号をもらえなかった理由は、今なら十分に分かる。
それでも、選び直したいとは思わなかった。
「早田」
振り向くと、黒部が立っていた。
「荷物か」
「はい」
「全部持ったか」
「はい」
黒部は早田の右手にあるグラブを見た。
「左は、どうだ」
「前よりは投げられます」
「それは見てりゃ分かる」
早田は少しだけ目を上げた。
「まだ、狙ったところへ投げきれません」
「そうだな」
黒部は短く答えた。
慰めるような言い方ではなかった。
早田には、それがありがたかった。
黒部にも、右で守っていれば背番号を渡せたかもしれないという思いはある。だが、今さら可能性の話をしても仕方がない。早田自身、遠回りだったことは理解している。
「……監督」
「何だ」
「ありがとうございました」
早田は頭を下げた。
「試合には、出られませんでした。でも、左で練習させてもらえました」
黒部はしばらく早田を見ていた。
あのとき、左で守りたいと譲らなかった少年は、中学最後の大会に間に合わなかった。それでも、毎日欠かさず左でボールを握っていた。黒部はその頑固さを、もう十分に見てきた。
黒部はひとつ息を吐いた。
「早田」
「はい」
「――ここまで意地を通したのなら、最後まで左投を貫いてみせろ」
早田は、すぐには返事をしなかった。
風がグラウンドを渡り、1、2年生のノックを受ける声が遠くから聞こえた。
その言葉は、左投げが正しかったという評価でも、将来の保証でもない。
自分で決めたのなら、形になるまで続けろ。早田には、そう聞こえた。
初めて左で投げたときは、短い距離に届いただけで嬉しかった。やがて、できなかった動作を少しずつ覚えることが励みになった。
そして今は、春と夏の選考に漏れたことも、練習試合で打てたことも、ノックで送球を逸らしたことも、自分の歩いてきた道だと思える。
その先で、もう一度マウンドに立ちたい。左腕で。
早田は顔を上げた。
「……はい」
いつもどおり短い返事だったが、迷いはなかった。
黒部は頷く。
「なら、身体だけは壊すなよ。焦って無茶な投げ込みをするな。今までやってきたことを、ひとつずつ積め」
「はい」
「呼び止めて悪かったな。もう行け」
「失礼します」
早田はもう一度頭を下げ、歩き出した。
数歩進んでから、グラウンドを振り返る。
白いベース。土のマウンド。外野の土。
右で投げていた場所。左で投げ始めた場所。
もう、この中学の選手としてマウンドに立つことはない。
中学野球は終わった。
早田はバッグの肩紐を直し、左手を一度握って開いた。
まだ、思うようには投げられない。
だから、投げる。
次は、左で。
それだけは、もう揺らがなかった。