もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第8話 さらば、中学野球

 7月の空は、朝から容赦なく青かった。

 九条中学校のグラウンドでは、夏の中体連に向けた登録メンバーの発表が始まろうとしていた。部員たちがバックネットの前に整列する。

 黒部の足元には、背番号をつけたユニフォームが重ねてある。

 早田は、その白い布を見ていた。

 

 春にも、同じものを見た。

 あの頃より左腕は強くなり、外野フライの追い方や捕球後の動作も少しずつ身についてきた。それでも、急いで送球すれば狙いを大きく外すことがある。

 6月の練習試合では、6回裏二死二塁で代打に立ち、カーブをセンター前へ打ち返して同点に追いついた。あの手応えは忘れていない。しかし、守備には就けなかった。

 

「これから名前を呼ぶ。呼ばれた者は前に出て、背番号を受け取れ」

 

 黒部の声に、列が引き締まった。

 ひとり、またひとりと名前が呼ばれる。

 

「井出正也。4番」

「はい」

 

 井出は短く返事をして前へ出た。背番号4を確かめて、静かに戻ってくる。

 

「嵐徳夫。5番」

「はいっ!」

 

 嵐は春のときのような言い直しをせず、勢いのよい返事をした。受け取ったユニフォームの背をちらりと見て、口元を引き締める。

 井出の正確な守備と俊足、嵐の強肩と長打力。2人が選ばれる理由はよく分かっていた。

 ほかの名前も、次々に呼ばれていった。

 白いユニフォームの山が低くなる。

 最後のひとりが列へ戻り、黒部は用紙を下ろした。

 

「以上だ」

 

 早田の名は、なかった。

 春に続き、中学最後の大会でも背番号は手に入らなかった。

 打撃には手応えがある。だが、守備に不安を抱える自分のために、限られた登録枠を使うとは限らない。

 監督の判断は自然なことだ。

 春に嵐と井出へ言った言葉が、頭の中で繰り返された。

 今も、そう思う。

 左で投げると決めたのも自分だった。右で野手になれば、もっと早く試合に近づけたかもしれない。

 分かっているのに、悔しかった。

 頭では分かっていたくせに、最後まで自分の名前が呼ばれるのを待っていた。そんな自分が、いちばん悔しかった。

 早田の顔には何も出なかった。隣の部員と同じように背筋を伸ばし、黒部の話を最後まで聞いた。

 

「選ばれなかった者も、九条中野球部の一員だ。試合に出る者だけで大会を戦うわけじゃない。自分のできることをやれ」

「はい!」

 

 早田も、ほかの部員と同じように返事をした。

 

 

     *

 

 

 解散して、部員たちが用具を片付け始めた。

 早田がボールかごを持ち上げると、嵐が横から片側の取っ手をつかんだ。

 

「おい、持つぜ」

「一人で持てる」

「知ってるよ。こっちが持ちてえんだ」

 

 井出も後ろから歩いてきた。

 

「今日は余計なこと言わない方がいい気がするね」

「もう言ってるだろ」

「確かに」

 

 嵐が眉をひそめ、井出が少し笑った。

 早田は何も言わず、ふたりと並んで用具置き場へ向かった。

 

「……早田」

 

 井出が呼んだ。

 

「何?」

「俺たち、ちゃんとやってくるから」

「うん」

「見てろよな」

 

 嵐が続けた。

 

「見てる」

 

 早田は答えた。

 今、自分にできるのは見届けることだった。

 

 

     *

 

 

 夏の大会、1回戦。

 九条中の打線は、初回から勢いよくバットを振った。

 1番の井出が出塁し、すかさず盗塁を決める。後続もつなぎ、九条中が先制した。

 そして、5番・三塁手、嵐徳夫。

 1打席目。嵐は高めの球を思い切り引っ張った。

 打球は左翼手の頭上を越え、フェンスの向こうへ消えた。

 

「入った!」

 

 スタンドから声が上がった。

 ソロ本塁打。

 嵐は一塁を回りながら拳を握り、二塁を蹴ったところで笑みをこぼした。

 

 2打席目には、一塁に走者を置いて打席に入った。

 相手投手は低めや外角を突いてきたが、嵐は見送った。そして、甘い球が来た。

 嵐が振り抜くと、金属バットが鋭く鳴った。

 打球は左中間の外野手の間を越えた。

 2点本塁打。

 

「2本目だぞ!」

 

 嵐は笑顔を隠さず三塁を回り、本塁を踏んだ。

 

 3打席目。

 九条中はさらに点差を広げ、再び一塁に走者を置いていた。

 今度の相手投手は、内角を突こうとした。

 嵐は踏み込んだ。

 高々と上がった打球が、今度は左翼線寄りに伸びていく。切れるかと思った白球は、最後までフェアゾーンを保ったままフェンスを越えた。

 3打席連続本塁打。

 合計5打点。

 九条中のベンチが爆発したように沸いた。

 

「3本だ! 3本!」

「嵐、やりすぎだろ!」

 

 嵐は本塁に帰ってくるなり、ヘルメットのつばを上げた。

 

「まだ打てるぜ!」

 

 井出が迎える。

 

「この点差なら、5回で終わるだろうけどね」

「終わるまで打つんだよ!」

 

 井出も2安打2打点、1盗塁。嵐の長打力と井出の出塁・走塁能力が、どちらも得点につながった。

 

 5回終了。

 14対2。

 九条中は5回コールドで初戦を突破した。

 

 フェンスの外から応援していた早田は、手をたたいた。

 嵐の3本塁打も、井出の迷いのない盗塁も、早田にはない強みだった。同じチームの仲間であることが嬉しい。

 そして、少しだけ、胸が痛かった。

 同じ白いユニフォームを着て、あの輪の中に入りたかった。

 それでも早田は、試合後に引き上げてきたふたりへ、いつもどおり声をかけた。

 

「お疲れ」

「見てたか、早田!」

「3本とも見た」

「どうだ!」

「よく飛んでた」

「そこはもっと驚けって!」

 

 井出が横で吹き出した。

 3人は、その日の勝利を素直に喜んだ。

 

 

     *

 

 

 2回戦。

 九条中は先攻だった。

 1回表。先頭の井出が打席に立つ。

 打球は三塁前へ転がった。相手三塁手が前へ出て捕り、素早く一塁へ投げる。

 だが、井出の足がわずかに勝った。

 

「セーフ!」

 

 三塁内野安打。

 井出は投手の動きを見て、次の投球で二塁を狙った。

 捕手の送球が届くより早く、足がベースへ滑り込む。

 

「セーフ!」

 

 しかし、後続がつながらなかった。二死になって4番が四球を選び、一、二塁で5番・嵐へ回った。

 前の試合、3本の本塁打を打った打者だ。

 相手の内野手たちが一歩深く守る。

 嵐は初球を見送った。2球目の速球に空振りし、3球目は外角の球にバットを合わせ損ねた。追い込まれたあと、最後は低めの球に手を出す。

 空振り三振。

 

「くそっ」

 

 嵐はバットを戻した。

 まだ、1打席目だ。

 

 ところが、その裏に九条中は大きくつまずく。

 先発投手は先頭打者を四球で歩かせた。2番打者にもボールが先行し、捕手が間を取ったが、結局四球を与えてしまう。さらに3番打者も歩かせた。

 無死満塁。

 黒部はベンチからマウンドを見つめた。

 投手は懸命に腕を振っていたが、狙ったところへ球が行かない。

 黒部はタイムを取った。

 

「一つずつだ。今の三人のことは忘れろ。目の前の打者を見ろ」

 

 投手は頷いた。

 

「はい」

 

 マウンドを降りるとき、黒部は捕手にも短く言った。

 

「低めを使え。無理に三振を取りにいくな」

 

 4番打者への2球目。

 真ん中寄りに入った球が、右中間を破った。

 走者が二人、帰ってくる。

 なお無死二、三塁。

 続く二塁ゴロと犠牲フライでも走者が生還し、計4失点。後続は打ち取ったものの、1回裏が終わったとき、九条中は0対4と大きくリードされていた。

 3者連続四球が招いた失点だった。

 守備から戻る選手たちを、黒部は叱りつけなかった。

 

「1点ずつ返すぞ。まだ6回ある」

 

 それだけを言った。

 選手たちは頷いた。

 

 

     *

 

 

 2回表。

 6番打者が左中間へ二塁打を放った。続く7番が送りバントで三塁へ進め、8番の遊撃ゴロの間に走者が生還した。

 1対4。

 9番は内野ゴロに倒れた。

 

 3回表、井出の2打席目。

 井出は四球を選んだ。

 塁に出た井出は牽制を受けて戻ると、次の投球で走った。

 二盗成功。

 この試合、2つ目の盗塁だった。

 2番打者がセンター前へ打ち返す。

 井出は三塁を蹴った。

 迷わず本塁へ滑り込む。

 2対4。

 井出の出塁と盗塁が、得点を生んだ。

 3番が外野フライに倒れ、4番も打ち取られた。

 

 二死で、嵐に2打席目が回る。

 相手投手は嵐を警戒し、外角低めを攻めた。嵐はファウルで粘ったが、最後は空振りした。

 2打席連続三振。

 

「ちっくしょう……」

 

 嵐は唇を曲げてベンチへ戻った。

 井出が肩をすくめる。

 

「昨日3本も打つから、警戒されたんじゃない?」

「それとこれとは別だろ!」

「別なら、次は打とう」

「言われなくても打つ!」

 

 声にはまだ力があった。

 4回表は安打こそ出たが、得点には結びつかなかった。

 

 5回表。

 井出の3打席目は二塁ゴロに終わった。

 それでも2番打者が安打で出塁し、3番が左中間へ二塁打を放つ。2番走者が帰って、3対4。

 4番の打球が一、二塁間を破った。

 3番走者が本塁を踏む。

 4対4。

 

「追いついた!」

 

 九条中の応援席に声が広がった。

 早田はフェンス際で拳を握った。初回に4点を失っても、仲間たちはつないで取り返した。

 

 なお一死一塁。5番・嵐に3打席目が回った。

 嵐は深く息を吐いてからバットを構えた。

 1球目、空振り。

 2球目、ファウル。

 3球目はボール。

 4球目、低めに落ちるカーブ。

 嵐は振った。

 バットは空を切った。

 3打席連続三振。

 前日の3本塁打から一転、今日は3打席とも三振だった。

 嵐は何も言わなかった。

 6番も外野フライに倒れ、同点のまま攻撃が終わった。

 

 その裏。

 九条中は二死から安打で走者を出し、二塁へ進まれたあと、センター前への安打で勝ち越しを許した。

 4対5。

 また、1点を追う形になった。

 

 

     *

 

 

 6回表、九条中の攻撃は三人で終わった。

 

 6回裏。

 先頭打者を二塁フライに打ち取った。

 次の打者は三振。

 二死、走者なし。

 ところが、そこから投手の制球が再び乱れた。

 四球で走者を出し、続く打者には左前安打。さらに四球を与えて、二死満塁となった。

 

 黒部はベンチの前へ出た。ここで追加点を許せば、最終回の攻撃はさらに厳しくなる。

 打席には、右打者が立っていた。

 内野手たちが、ひときわ静かに腰を落とした。

 三塁を守る嵐は、腰を落とし、グラブを地面の近くに構えていた。

 

 3打席連続三振。それでも、今は次の打球を止めることだけを考えていた。

 

 投手が投げる。

 乾いた金属音がした。

 速い。

 強烈なライナーが、三塁線を襲った。

 白線のすぐ内側。抜ければ複数の走者が還る。

 

 嵐は右足で土を蹴り、三塁線へ横っ飛びした。考えるより先に、身体が動いていた。

 重い衝撃。

 グラブが後ろへ押された。

 胸から地面に落ちたが、グラブは閉じたままだった。

 

 一瞬、声が消えた。

 打者が一塁へ向かう。

 三塁走者も本塁へ走り出していた。

 だが、嵐は地面に伏したまま、グラブを高く持ち上げた。

 中には、白いボールが収まっていた。

 

「アウト!」

 

 審判の腕が上がった。

 三死。

 失点なし。

 

「嵐ぃっ!」

 

 ベンチから声が上がった。

 井出が真っ先に駆け寄る。

 

「取ったのか、今の!」

「見りゃ分かんだろ!」

 

 嵐は土まみれの顔を上げた。

 

「抜かせるかよ!」

 

 井出が笑った。今度ばかりは、からかう言葉が出なかった。

 フェンスの外で見ていた早田は、ようやく息を吐いた。あの一歩は自分にはまだ踏み出せない。それでも、胸が熱くなった。

 嵐が守ったのは、点数だけではない。

 九条中の最後の攻撃へつなぐ、1点差だった。

 

 

     *

 

 

 7回表。

 4対5。

 九条中に残された攻撃は、あと一度。

 1番・井出から始まった。

 井出の4打席目。

 相手投手の1球目を見送り、2球目を打った。三遊間へ転がった打球を遊撃手が捕り、一塁へ送る。

 

「アウト!」

 

 際どい判定だった。井出は一度だけ足元を見て、ベンチへ戻った。

 2番打者が安打で出た。

 三番の一塁ゴロで走者は二塁へ進む。

 

 二死二塁。

 一本出れば、同点。

 4番打者が打席に向かう。

 ネクストバッターズサークルには、嵐が立っていた。

 ここまで3打席とも三振。それでも4番がつなげば、もう一度打てる。

 嵐はバットを握り直した。

 

 早田はフェンスの向こうから、その背中を見ていた。

 投手が投げる。

 四番のバットが球を捉えた。

 高い打球が左翼へ上がる。

 嵐は、一歩だけ前へ出かけた。

 左翼手が後退し、打球の下に入った。

 グラブを掲げる。

 白球が、その中に落ちた。

 

「アウト!」

 

 試合終了。

 九条中、4対5。

 2回戦敗退。

 嵐は、バットを持ったまま動かなかった。

 

 その日の4打席目は、来なかった。

 

 

     *

 

 

 試合を終えた選手たちは、グラウンドに整列した。

 

「ありがとうございました!」

 

 声が重なり、頭が下がる。

 嵐の膝には土がついていた。6回に飛び込んだときのものだ。井出はユニフォームの裾を直しながら、まっすぐ前を見ていた。

 

 前の試合では嵐が3本塁打、井出も2安打2打点。だが今日は嵐が3打席連続三振に倒れ、井出も最後の打席で出塁できなかった。

 2人とも力を尽くした。それでも、九条中は負けた。

 

 選手たちがベンチを片付け始めるころ、黒部はスコアブックを閉じた。

 昨年の夏も、主将で4番捕手の村松が最後の試合で3安打2打点と奮闘した。九条中は3回戦まで進みながら、四球をきっかけに失点を重ね、5対7で敗れている。

 

 そして今年も、野手はよく打ち、よく守った。初回の4失点を取り返して同点とし、6回には嵐が決定的な一打を防いだ。それでも、4対5で終わった。

 

 野手には恵まれる。投手には恵まれない。

 黒部の頭に、何度も浮かんできた言葉だった。初回の3者連続四球がなければ――そんな考えもよぎった。

 だが、黒部は首を横に振った。

 投手に恵まれない――それで済ませてしまえば、負けた監督の言い訳になる。

 投手を育て、適切な継投を考えるのも監督の仕事だ。先発投手だって、好きで四球を出したわけではない。

 黒部はスコアブックを鞄へしまった。

 見上げると、選手たちが引き上げてくるところだった。

 嵐が先に戻ってきた。

 

「……すんません」

 

 いつもより、はるかに小さな声だった。

 

「何を謝る」

「1本も、打てなかった」

 

 黒部は嵐の土だらけの膝を見た。

 

「6回のあれを捕れたのは、お前しかいない」

「でもよ」

「打てなかった悔しさは忘れるな。だが、守ったことまで、なかったことにするな」

 

 嵐は何か言おうとして、やめた。

 

「……はい」

 

 井出も近づいてきた。

 

「監督、ありがとうございました」

 

 いつもの冗談めいた調子はなかった。

 黒部は頷いた。

 

「よく走ったな」

「走るだけじゃ、足りませんでした」

「そういう試合もある」

 

 井出は目を伏せた。

 

「……はい」

 

 黒部はふたりの肩に軽く手を置いた。

 

「片付けを済ませろ。帰るまでが大会だ」

「はい!」

 

 嵐が今度は少し大きな声で答えた。

 

 

     *

 

 

 グラウンドの外で待っていた早田に、嵐と井出が歩み寄った。

 嵐はまだユニフォームのままで、肩にバットケースをかけていた。

 

「……終わっちまったな」

「うん」

 

 早田が答える。

 井出はフェンスの向こうを振り返った。

 

「4点、返したんだけどね」

「1本、足りなかった」

 

 早田が言うと、井出は頷いた。

 

「そうだね」

 

 嵐が地面を見た。

 

「昨日は3本も打てたのによ。今日は、1回も当たんなかった」

「六回は、捕った」

 

 早田が言った。

 嵐が顔を上げる。

 

「あれが抜けてたら、もっと点差が開いてた」

「……そりゃ、そうだけどよ」

「すごかった」

 

 早田は短く続けた。

 嵐は鼻の頭をこすった。

 

「おめえにそう言われると、調子狂うな」

 

 井出が小さく笑った。

 

「褒められ慣れてないからね」

「うるせえ!」

 

 いつものやり取りだった。

 だが、誰もすぐには歩き出さなかった。

 

 早田は出場できなかった。嵐と井出は戦って、負けた。悔しさの形は違っても、この夏をやり直せないことだけは同じだった。

 やがて井出が言った。

 

「帰ろうか。片付け、まだ残ってる」

「おう」

 

 三人は、並んで歩き出した。

 

 

     *

 

 

 大会が終わり、数日が過ぎた。

 九条中のグラウンドには、1、2年生の練習する声が響いていた。

 3年生の部活動は、夏の中体連を最後に引退という形で、既にピリオドが打たれていた。

 

 早田は、部室に残していた荷物を取りに来ていた。

 右手にはめるグラブだけは手に持ち、使い慣れたバットと左投げの記録ノートを鞄へしまった。

 グラウンドの端に立つと、見慣れた景色が広がっている。

 

 事故前は右腕でマウンドに立ち、事故後は右肩のリハビリに励んだ。左で投げ始めた頃は、ほんの短い距離にも届かなかった。

 春には黒部から右投げの野手になるよう勧められたが、自分は左を選んだ。春も夏も背番号をもらえなかった理由は、今なら十分に分かる。

 それでも、選び直したいとは思わなかった。

 

「早田」

 

 振り向くと、黒部が立っていた。

 

「荷物か」

「はい」

「全部持ったか」

「はい」

 

 黒部は早田の右手にあるグラブを見た。

 

「左は、どうだ」

「前よりは投げられます」

「それは見てりゃ分かる」

 

 早田は少しだけ目を上げた。

 

「まだ、狙ったところへ投げきれません」

「そうだな」

 

 黒部は短く答えた。

 慰めるような言い方ではなかった。

 早田には、それがありがたかった。

 

 黒部にも、右で守っていれば背番号を渡せたかもしれないという思いはある。だが、今さら可能性の話をしても仕方がない。早田自身、遠回りだったことは理解している。

 

「……監督」

「何だ」

「ありがとうございました」

 

 早田は頭を下げた。

 

「試合には、出られませんでした。でも、左で練習させてもらえました」

 

 黒部はしばらく早田を見ていた。

 あのとき、左で守りたいと譲らなかった少年は、中学最後の大会に間に合わなかった。それでも、毎日欠かさず左でボールを握っていた。黒部はその頑固さを、もう十分に見てきた。

 黒部はひとつ息を吐いた。

 

「早田」

「はい」

「――ここまで意地を通したのなら、最後まで左投を貫いてみせろ」

 

 早田は、すぐには返事をしなかった。

 風がグラウンドを渡り、1、2年生のノックを受ける声が遠くから聞こえた。

 

 その言葉は、左投げが正しかったという評価でも、将来の保証でもない。

 自分で決めたのなら、形になるまで続けろ。早田には、そう聞こえた。

 

 初めて左で投げたときは、短い距離に届いただけで嬉しかった。やがて、できなかった動作を少しずつ覚えることが励みになった。

 そして今は、春と夏の選考に漏れたことも、練習試合で打てたことも、ノックで送球を逸らしたことも、自分の歩いてきた道だと思える。

 その先で、もう一度マウンドに立ちたい。左腕で。

 早田は顔を上げた。

 

「……はい」

 

 いつもどおり短い返事だったが、迷いはなかった。

 黒部は頷く。

 

「なら、身体だけは壊すなよ。焦って無茶な投げ込みをするな。今までやってきたことを、ひとつずつ積め」

「はい」

「呼び止めて悪かったな。もう行け」

「失礼します」

 

 早田はもう一度頭を下げ、歩き出した。

 数歩進んでから、グラウンドを振り返る。

 白いベース。土のマウンド。外野の土。

 右で投げていた場所。左で投げ始めた場所。

 もう、この中学の選手としてマウンドに立つことはない。

 中学野球は終わった。

 

 早田はバッグの肩紐を直し、左手を一度握って開いた。

 まだ、思うようには投げられない。

 だから、投げる。

 次は、左で。

 それだけは、もう揺らがなかった。

 

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