夏の大会が終わった7月末。早田は、家の近くの河川敷で左手に軟式球を握っていた。
朝の河川敷には、まだ涼しい風が吹いていた。
足元には水筒と練習ノート。周囲に人がいないことを確かめ、短い距離で腕と身体の動きを合わせていく。
踏み込む。腰が回る。少し遅れて、左腕が出てくる。
「ふっ」
ボールは低い弧を描いて飛んだ。
狙った方向から、少し右へ外れる。
早田は球の落ちた場所を見てから、ゆっくり息を吐いた。
右投げなら難なく届いた距離でも、左ではわずかな足の向きや腕の振りの違いが送球に表れる。
身体を急いで回せば腕が遅れ、腕を先に振れば足が止まる。
それでも、昨日はできなかった動きが、今日は一つだけ合うこともある。
そのときの感触が、早田は好きだった。
夏の大会で嵐が3本塁打を放ったことも、次の試合で打てなかったことも覚えている。6回裏、二死満塁で三塁線のライナーを横っ飛びで捕った姿は、今も鮮明だった。
あのとき、自分はフェンスの外で見ていた。
背番号は手に入らなかった。グラウンドの中に立てなかったことは、今も悔しい。
だが、左腕の送球は、まだ公式戦で任せられる水準ではなかった。
早田はノートを開き、投球数と距離、右肩の状態を記した。リハビリも、今までどおり続けている。
無理な投げ込みはしない。疲れが強くなれば切り上げる。
黒部から、最後に言われた言葉が頭から離れなかった。
『ここまで意地を通したのなら、最後まで左投を貫いてみせろ』
必ず投手に戻れるという約束ではない。それでも、黒部の言葉は次へ進む支えになった。
中学で投げる機会はもうない。ならば、次の場所を探せばいい。
まだ、その場所は決まっていなかった。
ノートを閉じたところで、バッグの中の時計を見た。
そろそろ帰って勉強を始める時間だ。
帰り道からは、下級生たちが練習する九条中のグラウンドが遠くに見えた。
早田は一度だけ足を止め、また歩き出した。
左腕にも、受験勉強にも、やることは残っていた。
*
9月。夏休みが明けた3年生の教室に、最後の進路希望調査が配られた。
担任は教卓から提出期限を伝えた。
「もう3年の秋だ。今までの希望と変わっていても構わない。ただし、何となく書いて出すんじゃないぞ。家でも話して、よく考えてこい」
生徒たちが一斉に用紙を眺める。
早田も学校名を書く欄へ目を落とした。
第一志望、第二志望。どちらの欄にも、早田はまだ学校名を書けなかった。
高校へ進んで野球を続けるつもりだが、候補を一つには絞っていない。
授業が終わり、帰りの支度が始まった頃、後ろから嵐が早田の机へやってきた。
手には、折り目のついた進路希望調査の紙がある。
「おい、おめえら。これ、もう決めたか?」
「まだ」
早田が答えると、嵐は向かいの机に着座しかけた。
「嵐。先生に怒られるよ」
井出が言う。
「座ってねえよ。座るところだっただけだ」
「それを普通は座ろうとしたって言うんだけどね」
井出は笑いながら、自分の用紙を鞄から取り出した。
そこには、すでに学校名が書かれていた。
早田の目が、第一志望の欄で止まる。
「……科学特進高校?」
「うん。そこにするつもり」
井出は、いつもと変わらない声で答えた。
嵐が用紙をのぞき込む。
「科学特進高校って、あの県立の進学校か?」
「ほかに同じ名前の学校があると思う?」
「いや、だってよ。あそこ、県内じゃ一番難しい公立だろ?」
「そうだね。私立を入れても、上にいるのは1校だけだったはずだよ」
「だったはず、って。おめえが言うと軽いなあ」
早田は、書かれた学校名をもう一度見た。
科学特進高校。よく知っている学校だった。それでも、難しすぎると決めつけて、自分の進学先として考えたことはなかった。
「井出なら、もっとほかにもあるんじゃないか」
早田が言った。
「私立の進学校とか?」
「うん」
「俺、私立は受けないつもりなんだ」
井出はあっさり答えた。
嵐が眉を上げた。
「何でだよ。おめえなら、難しいところだって受かるだろ」
「受かるかどうかと、行きたいかどうかは別だよ」
「そりゃ、そうだけどよ」
「科学特進高校なら学力の面でも十分だし、家から自転車で20分くらいなんだ。毎日通うことを考えると、かなり楽だよ」
嵐は腕を組み、しばらく考える顔をした。
「近ぇのは、いいな」
「でしょ」
井出はそこで話を止めた。家の事情まで、ここで説明するつもりはなかった。
「大学は、どうするんだ」
早田が尋ねた。
井出は顔を上げる。
「東大。理系の方へ行きたいと思ってる」
「……東大か」
「まだ大学で何を専門にするかまでは決めてないけどね」
嵐が口笛を吹きかけて、途中でやめた。
「相変わらず、考えてることが遠いな」
「三年後のことだから、そんなに遠くもないよ」
「そういう意味じゃねえんだよ」
井出は小さく笑った。
嵐が進路調査の紙を広げた。
「俺は今んとこ、自分の成績に合った私立が本命なんだよな。専願で受けようかと思ってる。科学特進高校なんざ、最初から考えてなかったぜ」
「別に、今ここで決めなくてもいいと思うよ」
「最後の調査って書いてあんだろ」
「希望を出す最後の調査だよ。受験まで全部決まるわけじゃない」
「何だ、そうなのか」
「先生の話、聞いてた?」
「聞いてたに決まってんだろ!」
井出の口元が緩む。
その隣で、早田はまだ科学特進高校の名前を見ていた。
「早田?」
「……ああ」
「何か気になる?」
「少し」
何が気になるのか、自分でもまだ言葉になっていなかった。
帰り道、二人と別れた井出は自転車を押しながら、春のある夕方を思い返していた。
今、用紙に書いた進路を考えるきっかけになった日のことだ。
*
5月。春季大会が終わった頃、井出は自室で全国模試の結果を見直していた。
前回は42位。今回は9位だった。
順位よりも気になるのは、間違えた問題だった。
計算の最後に符号を取り違えた問題が1問ある。
「……またか」
赤いペンで印をつける。
別の問題では、早合点して条件を一つ見落としていた。
42位から9位へ上がったのは喜ばしいが、本人の実力が突然変わったわけではない。
上位では1問の失点が順位を左右する。井出は取りこぼしを減らす方が大事だと思っていた。
答案を重ね、間違えた問題をノートへ書き直した。
しばらくして、喉が渇いた。
台所へ行こうと部屋を出たところで、居間から両親の声が聞こえてきた。
「正也の模試、今回は9位だったんだって?」
「そうらしいな。前は42位だったか」
「よくやるわねえ」
「あいつ、昔から勉強は得意だからな」
そこで、会話がいったん途切れた。
井出は廊下を歩きかけた。
だが、次の言葉が耳に入って、足が止まった。
「大学は、東大に行きたいって言ってたわよね」
「ああ。理系の方に進みたいらしい」
「何を勉強するかまでは、まだ決めてないのかしら」
「これからだろう。本人が行きたいところへ行ければ、それでいいさ」
いつもの調子だった。
両親は成績がよいからといって、進路を押しつけてこなかった。野球にも勉強にも、本人の意思を尊重してくれる。
井出には、その距離感がありがたかった。
「ただ、大学となるとお金はかかるわよね」
「まあな。国立だからって、何もかも安く済むわけじゃない」
「東京の大学に進むなら、交通費も考えないといけないわね」
「場合によっては、下宿することになるかもしれないしな」
「下宿したら、今度は家賃に生活費も必要ね」
父が、小さく息をつく気配がした。
「今すぐ困ってるわけじゃないんだ。だけど、まとめて必要になったときに慌てたくはないな」
「
「ああ。兄の正也だけに使って、弟の光の分がなくなりました、じゃあ駄目だしな」
井出は廊下で立ち止まった。両親が自分と弟の将来まで考えていたことを、初めて意識した。
「奨学金を使う方法もあるだろうけど」
「返さなくていいものなら、もちろん調べてみてもいいと思うよ。ただ、借りる方はな……」
「卒業したあと、本人が返していくのよね」
「ああ。借りずに済むなら、それに越したことはないだろう」
短い沈黙の間も、井出は足を動かせなかった。
「あの子、大学で勉強したいことがあるんでしょう」
「うん」
「それなら、できるだけ応援してあげたいわ」
「そうだな。本人が頑張っているんだから、家の事情で諦めさせたくはない」
母が紙を動かす音がした。家計簿でも広げているのだろうか。
「そうね。今から少しずつ備えておきましょう」
「ああ。無理のない範囲でやりくりしておこう。まだ時間はある」
「正也にも、光にも、それぞれやりたいことができるかもしれないものね」
「そういうときに困らせたくはないな」
声は穏やかだった。今すぐ生活に困っているのではない。先のことを考えて、二人は話し合っている。
井出は、そっと踵を返した。
飲み物を取りに来たことは、もうどうでもよくなっていた。
部屋に戻ると、模試の答案が開いたままだった。
9位という数字の横には、さきほどつけた訂正の印がある。
両親は自分に大学を諦めろとは言っていない。むしろ、自分が選べるように準備してくれている。
だからこそ、自分も費用や通学のことを考えたかった。
机の引き出しから、公立と私立の高校案内を取り出す。
勉強する環境だけでなく、学費や通学費も選ぶ基準だった。
家から自転車で20分ほどのところに、県内最難関の公立高校がある。
科学特進高校。
井出は、その学校の案内を開いた。
1学年は40人ずつの10クラス。普通科は1~4組が理系、5~8組が文系。理数科は9組が生物地学特進、10組が化学物理特進コースだ。
学校全体の難易度は県内2番目だが、理数科に限れば県内最難関の私立高校と並ぶ。
井出が志望するのは、理数科の化学物理特進コースだった。
大学での専門はまだ決めていない。それでも、化学や物理を深く学べる環境は自分に合っていた。
野球も続けられる。
ならば、興味だけで私立へ進む必要はない。
井出は私立の案内を一枚、持ち上げた。
どの学校にも魅力はある。だが、合格できるかどうかと、実際に通いたいかは別の話だった。
「……公立でいい、じゃないな」
井出は小さく言った。
「公立がいい、か」
両親に言われたからでも、弟の進路を自分で背負おうとしたからでもない。
自分で比較して選んだ結果だ。
井出は紙に「科学特進高校 理数科・化学物理特進コース」と記した。
その下に、東京大学という文字を置く。
まずは目の前の勉強を続けることだ。
答案を開き直し、間違えた1問へ戻る。
全国9位でも、間違いは間違いだった。
*
9月の放課後。早田は帰宅すると、進路希望調査の用紙を机に広げた。
井出の志望校は、公立では県内最難関だ。自分が簡単に入れる学校ではない。
だが、その学校には村松昭二がいた。
「……」
早田は春の卒業式を思い出した。
村松は高校でも野球を続けると言っていた。
事故前は右腕の球を受け、左投げを始めてからも、根気よく付き合ってくれた先輩だ。
左腕は一から覚え直すしかない。そう教えてくれたのも村松だった。
今度は左腕で、あのミットへ投げてみたい。
しかも、高校は自宅から歩いて10分ほどのところにある。
身近にあった学校が、初めて自分の進学先として見えてきた。
入学できても、投手になれる保証はない。
それでも、村松と同じチームで野球をする可能性がある。
早田は、その可能性を考えずにはいられなかった。
「問題は、合格できるかどうかだ」
早田は最近の試験結果を机に並べた。
英語と社会は比較的得意だ。単語や年代を覚える作業は苦にならないが、集中しすぎて父の呼びかけに気づかないこともある。
過集中は、勉強でも扱い方が難しかった。
数学と理科は基本問題なら解けるが、応用では考え込むことがある。
国語には、さらに課題が残る。
語句や漢字を覚えるのは得意だが、文章の意図を設問に沿って説明する問題では、点数が伸びなかった。
内容を理解することと、試験で求められる答えをまとめることは別だった。
「……国語か」
答案の余白に、間違えた設問を記した。
井出との学力差は大きい。それでも、今からできる勉強はある。
最初から無理だと決めるほど、遠くはない。
やることは、ある。
早田は立ち上がり、部屋の隅のボールを左手で握った。
投球も受験も、まだ思いどおりにはいかない。
けれど、そのどちらも続ければ道が開けるかもしれない。
翌日の昼休み、早田は井出と嵐を呼び止めた。
「井出」
「何?」
「科学特進高校、俺も第一候補にする」
井出は一度だけ目を丸くした。
「へえ。急に決めたね」
「まだ、決めたわけじゃない。第一候補」
「なるほど。理由は?」
早田は少し考えた。
「近い。歩いて10分の距離だ」
「それはいいね」
「勉強も、頑張れば届くと思う」
「うん」
「それと、村松さんがいる」
井出の表情が変わった。
そういうことか、と言いたげに口元を緩める。
「高校でも、村松さんに投げるつもり?」
「……投げたい」
返事は短かったが、早田は目をそらさなかった。
いつか村松のミットに左腕で投げる姿を、思い浮かべていた。
「じゃあ、科学特進高校の野球部のことも調べておかないとね」
「うん」
「もちろん、入れたとしても投手になれるとは限らないよ」
「分かってる」
「そう言うと思った」
井出は笑った。
嵐はその横で、腕を組んでいた。
「村松さんがいるのか……」
「知ってただろ」
早田が言う。
「知ってらい。そうじゃなくてよ、また一緒に野球ができるって話だろ」
「そう」
「それに、おめえを一人にしとくと、何しでかすか分かんねえしな」
「……俺?」
「ほかに誰がいるんだよ。右が使えなくなったら左で投げ始めるわ、監督に左で守るって言い張るわ。目ぇ離せるかってんだ」
早田は言い返せず、井出が口を挟んだ。
「嵐が言うと、心配してるのか面白がってるのか分からないね」
「両方だよ!」
嵐はそう言って笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「……科学特進高校、俺も候補に入れとくか」
井出が顔を上げた。
「第一志望を変えるの?」
「いや、今の本命は変えねえ。自分の成績に合った私立を専願で受けるつもりだしよ」
「そっか」
「ただ、科学特進高校も一度ちゃんと調べてみる。簡単に受かるとこじゃねえのは知ってるぜ」
「それならいいと思う」
早田は嵐を見た。
「俺のことは、別に心配しなくていい」
「そういうこと言うから心配なんだろうが」
「……そうか」
「納得すんなよ!」
井出が吹き出した。昼休みの教室に、三人の笑い声が混じった。
そのあと、井出は自分の進路調査の用紙を指で軽くたたいた。
「俺は科学特進高校が第一志望。早田は第一候補。嵐は、候補の一つ」
「そうなる」
早田が頷く。
「何だよ。俺だけ腰が引けてるみてえじゃねえか」
「そんなこと言ってないよ。考え方が違うだけさ」
井出は穏やかに答えた。
自分で調べて選んだ学校を、二人に押しつけるつもりはない。
早田は進路希望調査を取り出し、まだ空白の第一志望欄を見つめた。
候補にはしたが、今すぐ決める必要はない。
調べるのも、勉強するのも自分だ。左投げと同じで、誰かが代わりにやってくれるわけではない。
「早田」
嵐が呼んだ。
「何?」
「科学特進高校へ行けたらよ、また村松さんと野球できるな」
「うん」
「そのときゃ、今度こそ試合に出ようぜ」
早田はすぐには返事をしなかった。
中学最後の夏。自分だけがフェンスの外から見ていた。
嵐の泥だらけのユニフォームと、井出の走る姿が浮かぶ。
それを思い出してから、早田は静かに頷いた。
「……ああ」
それでも、行きたいと思える場所ができた。
早田は用紙を折らずに鞄へしまった。
窓の向こうでは、9月の光が校庭に落ちていた。
中学野球は終わった。
だが、次の野球を始めるために、今できることがある。
井出は科学特進高校へ進むために。
嵐は、自分の選べる道を増やすために。
そして早田は、もう一度、あのミットへ投げるために。
三人は、それぞれの進路を考え始めていた。