もう一度、投げる ― 光の向こうへ ―   作:Philos

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第9話 禁じられた進路

 夏の大会が終わった7月末。早田は、家の近くの河川敷で左手に軟式球を握っていた。

 朝の河川敷には、まだ涼しい風が吹いていた。

 足元には水筒と練習ノート。周囲に人がいないことを確かめ、短い距離で腕と身体の動きを合わせていく。

 踏み込む。腰が回る。少し遅れて、左腕が出てくる。

 

「ふっ」

 

 ボールは低い弧を描いて飛んだ。

 狙った方向から、少し右へ外れる。

 早田は球の落ちた場所を見てから、ゆっくり息を吐いた。

 右投げなら難なく届いた距離でも、左ではわずかな足の向きや腕の振りの違いが送球に表れる。

 身体を急いで回せば腕が遅れ、腕を先に振れば足が止まる。

 それでも、昨日はできなかった動きが、今日は一つだけ合うこともある。

 そのときの感触が、早田は好きだった。

 夏の大会で嵐が3本塁打を放ったことも、次の試合で打てなかったことも覚えている。6回裏、二死満塁で三塁線のライナーを横っ飛びで捕った姿は、今も鮮明だった。

 あのとき、自分はフェンスの外で見ていた。

 背番号は手に入らなかった。グラウンドの中に立てなかったことは、今も悔しい。

 だが、左腕の送球は、まだ公式戦で任せられる水準ではなかった。

 早田はノートを開き、投球数と距離、右肩の状態を記した。リハビリも、今までどおり続けている。

 無理な投げ込みはしない。疲れが強くなれば切り上げる。

 黒部から、最後に言われた言葉が頭から離れなかった。

 

『ここまで意地を通したのなら、最後まで左投を貫いてみせろ』

 

 必ず投手に戻れるという約束ではない。それでも、黒部の言葉は次へ進む支えになった。

 中学で投げる機会はもうない。ならば、次の場所を探せばいい。

 まだ、その場所は決まっていなかった。

 ノートを閉じたところで、バッグの中の時計を見た。

 そろそろ帰って勉強を始める時間だ。

 帰り道からは、下級生たちが練習する九条中のグラウンドが遠くに見えた。

 早田は一度だけ足を止め、また歩き出した。

 左腕にも、受験勉強にも、やることは残っていた。

 

 

     *

 

 

 9月。夏休みが明けた3年生の教室に、最後の進路希望調査が配られた。

 担任は教卓から提出期限を伝えた。

 

「もう3年の秋だ。今までの希望と変わっていても構わない。ただし、何となく書いて出すんじゃないぞ。家でも話して、よく考えてこい」

 

 生徒たちが一斉に用紙を眺める。

 早田も学校名を書く欄へ目を落とした。

 第一志望、第二志望。どちらの欄にも、早田はまだ学校名を書けなかった。

 高校へ進んで野球を続けるつもりだが、候補を一つには絞っていない。

 授業が終わり、帰りの支度が始まった頃、後ろから嵐が早田の机へやってきた。

 手には、折り目のついた進路希望調査の紙がある。

 

「おい、おめえら。これ、もう決めたか?」

「まだ」

 

 早田が答えると、嵐は向かいの机に着座しかけた。

 

「嵐。先生に怒られるよ」

 

 井出が言う。

 

「座ってねえよ。座るところだっただけだ」

「それを普通は座ろうとしたって言うんだけどね」

 

 井出は笑いながら、自分の用紙を鞄から取り出した。

 そこには、すでに学校名が書かれていた。

 早田の目が、第一志望の欄で止まる。

 

「……科学特進高校?」

「うん。そこにするつもり」

 

 井出は、いつもと変わらない声で答えた。

 嵐が用紙をのぞき込む。

 

「科学特進高校って、あの県立の進学校か?」

「ほかに同じ名前の学校があると思う?」

「いや、だってよ。あそこ、県内じゃ一番難しい公立だろ?」

「そうだね。私立を入れても、上にいるのは1校だけだったはずだよ」

「だったはず、って。おめえが言うと軽いなあ」

 

 早田は、書かれた学校名をもう一度見た。

 科学特進高校。よく知っている学校だった。それでも、難しすぎると決めつけて、自分の進学先として考えたことはなかった。

 

「井出なら、もっとほかにもあるんじゃないか」

 

 早田が言った。

 

「私立の進学校とか?」

「うん」

「俺、私立は受けないつもりなんだ」

 

 井出はあっさり答えた。

 嵐が眉を上げた。

 

「何でだよ。おめえなら、難しいところだって受かるだろ」

「受かるかどうかと、行きたいかどうかは別だよ」

「そりゃ、そうだけどよ」

「科学特進高校なら学力の面でも十分だし、家から自転車で20分くらいなんだ。毎日通うことを考えると、かなり楽だよ」

 

 嵐は腕を組み、しばらく考える顔をした。

 

「近ぇのは、いいな」

「でしょ」

 

 井出はそこで話を止めた。家の事情まで、ここで説明するつもりはなかった。

 

「大学は、どうするんだ」

 

 早田が尋ねた。

 井出は顔を上げる。

 

「東大。理系の方へ行きたいと思ってる」

「……東大か」

「まだ大学で何を専門にするかまでは決めてないけどね」

 

 嵐が口笛を吹きかけて、途中でやめた。

 

「相変わらず、考えてることが遠いな」

「三年後のことだから、そんなに遠くもないよ」

「そういう意味じゃねえんだよ」

 

 井出は小さく笑った。

 嵐が進路調査の紙を広げた。

 

「俺は今んとこ、自分の成績に合った私立が本命なんだよな。専願で受けようかと思ってる。科学特進高校なんざ、最初から考えてなかったぜ」

「別に、今ここで決めなくてもいいと思うよ」

「最後の調査って書いてあんだろ」

「希望を出す最後の調査だよ。受験まで全部決まるわけじゃない」

「何だ、そうなのか」

「先生の話、聞いてた?」

「聞いてたに決まってんだろ!」

 

 井出の口元が緩む。

 その隣で、早田はまだ科学特進高校の名前を見ていた。

 

「早田?」

「……ああ」

「何か気になる?」

「少し」

 

 何が気になるのか、自分でもまだ言葉になっていなかった。

 帰り道、二人と別れた井出は自転車を押しながら、春のある夕方を思い返していた。

 今、用紙に書いた進路を考えるきっかけになった日のことだ。

 

 

     *

 

 

 5月。春季大会が終わった頃、井出は自室で全国模試の結果を見直していた。

 前回は42位。今回は9位だった。

 順位よりも気になるのは、間違えた問題だった。

 計算の最後に符号を取り違えた問題が1問ある。

 

「……またか」

 

 赤いペンで印をつける。

 別の問題では、早合点して条件を一つ見落としていた。

 42位から9位へ上がったのは喜ばしいが、本人の実力が突然変わったわけではない。

 上位では1問の失点が順位を左右する。井出は取りこぼしを減らす方が大事だと思っていた。

 答案を重ね、間違えた問題をノートへ書き直した。

 しばらくして、喉が渇いた。

 台所へ行こうと部屋を出たところで、居間から両親の声が聞こえてきた。

 

「正也の模試、今回は9位だったんだって?」

「そうらしいな。前は42位だったか」

「よくやるわねえ」

「あいつ、昔から勉強は得意だからな」

 

 そこで、会話がいったん途切れた。

 井出は廊下を歩きかけた。

 だが、次の言葉が耳に入って、足が止まった。

 

「大学は、東大に行きたいって言ってたわよね」

「ああ。理系の方に進みたいらしい」

「何を勉強するかまでは、まだ決めてないのかしら」

「これからだろう。本人が行きたいところへ行ければ、それでいいさ」

 

 いつもの調子だった。

 両親は成績がよいからといって、進路を押しつけてこなかった。野球にも勉強にも、本人の意思を尊重してくれる。

 井出には、その距離感がありがたかった。

 

「ただ、大学となるとお金はかかるわよね」

「まあな。国立だからって、何もかも安く済むわけじゃない」

「東京の大学に進むなら、交通費も考えないといけないわね」

「場合によっては、下宿することになるかもしれないしな」

「下宿したら、今度は家賃に生活費も必要ね」

 

 父が、小さく息をつく気配がした。

 

「今すぐ困ってるわけじゃないんだ。だけど、まとめて必要になったときに慌てたくはないな」

「光(ひかる)だって、いずれ進学するものね」

「ああ。兄の正也だけに使って、弟の光の分がなくなりました、じゃあ駄目だしな」

 

 井出は廊下で立ち止まった。両親が自分と弟の将来まで考えていたことを、初めて意識した。

 

「奨学金を使う方法もあるだろうけど」

「返さなくていいものなら、もちろん調べてみてもいいと思うよ。ただ、借りる方はな……」

「卒業したあと、本人が返していくのよね」

「ああ。借りずに済むなら、それに越したことはないだろう」

 

 短い沈黙の間も、井出は足を動かせなかった。

 

「あの子、大学で勉強したいことがあるんでしょう」

「うん」

「それなら、できるだけ応援してあげたいわ」

「そうだな。本人が頑張っているんだから、家の事情で諦めさせたくはない」

 

 母が紙を動かす音がした。家計簿でも広げているのだろうか。

 

「そうね。今から少しずつ備えておきましょう」

「ああ。無理のない範囲でやりくりしておこう。まだ時間はある」

「正也にも、光にも、それぞれやりたいことができるかもしれないものね」

「そういうときに困らせたくはないな」

 

 声は穏やかだった。今すぐ生活に困っているのではない。先のことを考えて、二人は話し合っている。

 井出は、そっと踵を返した。

 飲み物を取りに来たことは、もうどうでもよくなっていた。

 部屋に戻ると、模試の答案が開いたままだった。

 9位という数字の横には、さきほどつけた訂正の印がある。

 両親は自分に大学を諦めろとは言っていない。むしろ、自分が選べるように準備してくれている。

 だからこそ、自分も費用や通学のことを考えたかった。

 机の引き出しから、公立と私立の高校案内を取り出す。

 勉強する環境だけでなく、学費や通学費も選ぶ基準だった。

 家から自転車で20分ほどのところに、県内最難関の公立高校がある。

 科学特進高校。

 井出は、その学校の案内を開いた。

 1学年は40人ずつの10クラス。普通科は1~4組が理系、5~8組が文系。理数科は9組が生物地学特進、10組が化学物理特進コースだ。

 学校全体の難易度は県内2番目だが、理数科に限れば県内最難関の私立高校と並ぶ。

 井出が志望するのは、理数科の化学物理特進コースだった。

 大学での専門はまだ決めていない。それでも、化学や物理を深く学べる環境は自分に合っていた。

 野球も続けられる。

 ならば、興味だけで私立へ進む必要はない。

 井出は私立の案内を一枚、持ち上げた。

 どの学校にも魅力はある。だが、合格できるかどうかと、実際に通いたいかは別の話だった。

 

「……公立でいい、じゃないな」

 

 井出は小さく言った。

 

「公立がいい、か」

 

 両親に言われたからでも、弟の進路を自分で背負おうとしたからでもない。

 自分で比較して選んだ結果だ。

 井出は紙に「科学特進高校 理数科・化学物理特進コース」と記した。

 その下に、東京大学という文字を置く。

 まずは目の前の勉強を続けることだ。

 答案を開き直し、間違えた1問へ戻る。

 全国9位でも、間違いは間違いだった。

 

 

     *

 

 

 9月の放課後。早田は帰宅すると、進路希望調査の用紙を机に広げた。

 井出の志望校は、公立では県内最難関だ。自分が簡単に入れる学校ではない。

 だが、その学校には村松昭二がいた。

 

「……」

 

 早田は春の卒業式を思い出した。

 村松は高校でも野球を続けると言っていた。

 事故前は右腕の球を受け、左投げを始めてからも、根気よく付き合ってくれた先輩だ。

 左腕は一から覚え直すしかない。そう教えてくれたのも村松だった。

 今度は左腕で、あのミットへ投げてみたい。

 しかも、高校は自宅から歩いて10分ほどのところにある。

 身近にあった学校が、初めて自分の進学先として見えてきた。

 入学できても、投手になれる保証はない。

 それでも、村松と同じチームで野球をする可能性がある。

 早田は、その可能性を考えずにはいられなかった。

 

「問題は、合格できるかどうかだ」

 

 早田は最近の試験結果を机に並べた。

 英語と社会は比較的得意だ。単語や年代を覚える作業は苦にならないが、集中しすぎて父の呼びかけに気づかないこともある。

 過集中は、勉強でも扱い方が難しかった。

 数学と理科は基本問題なら解けるが、応用では考え込むことがある。

 国語には、さらに課題が残る。

 語句や漢字を覚えるのは得意だが、文章の意図を設問に沿って説明する問題では、点数が伸びなかった。

 内容を理解することと、試験で求められる答えをまとめることは別だった。

 

「……国語か」

 

 答案の余白に、間違えた設問を記した。

 井出との学力差は大きい。それでも、今からできる勉強はある。

 最初から無理だと決めるほど、遠くはない。

 やることは、ある。

 早田は立ち上がり、部屋の隅のボールを左手で握った。

 投球も受験も、まだ思いどおりにはいかない。

 けれど、そのどちらも続ければ道が開けるかもしれない。

 翌日の昼休み、早田は井出と嵐を呼び止めた。

 

「井出」

「何?」

「科学特進高校、俺も第一候補にする」

 

 井出は一度だけ目を丸くした。

 

「へえ。急に決めたね」

「まだ、決めたわけじゃない。第一候補」

「なるほど。理由は?」

 

 早田は少し考えた。

 

「近い。歩いて10分の距離だ」

「それはいいね」

「勉強も、頑張れば届くと思う」

「うん」

「それと、村松さんがいる」

 

 井出の表情が変わった。

 そういうことか、と言いたげに口元を緩める。

 

「高校でも、村松さんに投げるつもり?」

「……投げたい」

 

 返事は短かったが、早田は目をそらさなかった。

 いつか村松のミットに左腕で投げる姿を、思い浮かべていた。

 

「じゃあ、科学特進高校の野球部のことも調べておかないとね」

「うん」

「もちろん、入れたとしても投手になれるとは限らないよ」

「分かってる」

「そう言うと思った」

 

 井出は笑った。

 嵐はその横で、腕を組んでいた。

 

「村松さんがいるのか……」

「知ってただろ」

 

 早田が言う。

 

「知ってらい。そうじゃなくてよ、また一緒に野球ができるって話だろ」

「そう」

「それに、おめえを一人にしとくと、何しでかすか分かんねえしな」

「……俺?」

「ほかに誰がいるんだよ。右が使えなくなったら左で投げ始めるわ、監督に左で守るって言い張るわ。目ぇ離せるかってんだ」

 

 早田は言い返せず、井出が口を挟んだ。

 

「嵐が言うと、心配してるのか面白がってるのか分からないね」

「両方だよ!」

 

 嵐はそう言って笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。

 

「……科学特進高校、俺も候補に入れとくか」

 

 井出が顔を上げた。

 

「第一志望を変えるの?」

「いや、今の本命は変えねえ。自分の成績に合った私立を専願で受けるつもりだしよ」

「そっか」

「ただ、科学特進高校も一度ちゃんと調べてみる。簡単に受かるとこじゃねえのは知ってるぜ」

「それならいいと思う」

 

 早田は嵐を見た。

 

「俺のことは、別に心配しなくていい」

「そういうこと言うから心配なんだろうが」

「……そうか」

「納得すんなよ!」

 

 井出が吹き出した。昼休みの教室に、三人の笑い声が混じった。

 そのあと、井出は自分の進路調査の用紙を指で軽くたたいた。

 

「俺は科学特進高校が第一志望。早田は第一候補。嵐は、候補の一つ」

「そうなる」

 

 早田が頷く。

 

「何だよ。俺だけ腰が引けてるみてえじゃねえか」

「そんなこと言ってないよ。考え方が違うだけさ」

 

 井出は穏やかに答えた。

 自分で調べて選んだ学校を、二人に押しつけるつもりはない。

 早田は進路希望調査を取り出し、まだ空白の第一志望欄を見つめた。

 候補にはしたが、今すぐ決める必要はない。

 調べるのも、勉強するのも自分だ。左投げと同じで、誰かが代わりにやってくれるわけではない。

 

「早田」

 

 嵐が呼んだ。

 

「何?」

「科学特進高校へ行けたらよ、また村松さんと野球できるな」

「うん」

「そのときゃ、今度こそ試合に出ようぜ」

 

 早田はすぐには返事をしなかった。

 中学最後の夏。自分だけがフェンスの外から見ていた。

 嵐の泥だらけのユニフォームと、井出の走る姿が浮かぶ。

 それを思い出してから、早田は静かに頷いた。

 

「……ああ」

 

 それでも、行きたいと思える場所ができた。

 早田は用紙を折らずに鞄へしまった。

 窓の向こうでは、9月の光が校庭に落ちていた。

 中学野球は終わった。

 だが、次の野球を始めるために、今できることがある。

 井出は科学特進高校へ進むために。

 嵐は、自分の選べる道を増やすために。

 そして早田は、もう一度、あのミットへ投げるために。

 三人は、それぞれの進路を考え始めていた。

 

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