返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
第1話 月は出ているか
高校二年に上がった春、俺が自分に課していた目標はひとつだけだった。
誰にも、何も、知られないこと。
成績を上げるとか、彼女を作るとか、部活で何かを成し遂げるとか、そういう前向きな目標は一年の時点で全部棚に戻してある。
俺に必要なのは、教室の中で特に話題にならない男子でいることだった。
名前を呼ばれれば返事をするが、呼ばれなくても誰も困らない。
卒業アルバムを十年後に開いた誰かが「こんな奴いたっけ」と首をかしげる。
それが俺の理想の着地点だった。
理由は簡単で、俺には知られたら終わる趣味があった。
机の中には何も入れていない。
鞄の中にも入れていない。
携帯の待ち受けは買ったときのまま、初期設定の青い背景だ。
メールのフォルダにも怪しいものは残さない。
休み時間に読む本は、図書室で借りた歴史小説か、カバーをかけた新書と決めている。
カバーの下まで新書だ。
カバーをかけた新書の下にラノベを仕込むような真似は、素人のやることである。
カバーは剥がされるためにある。
一年の四月に、俺はそれを教室で覚えた。
同じクラスに、宇佐美という背が高くて声の大きい男がいた。
休み時間に、そいつが俺の机の横を通りかかって、読んでいた本をひょいと取り上げ、書店の紙のカバーをめくった。
中身はライトノベルだった。
表紙には、アニメ絵の女の子が描いてあった。
「うわ、森下、こういうの読むんだ」宇佐美は笑って本を返し、教室の何人かが振り返り、それで終わった。
宇佐美は次の日には忘れていた。
たぶん。
俺は忘れなかった。
そういうわけで、四月の終わりの朝、二年C組の教室で俺は窓際の後ろから二番目の席に座り、新書を開いて、まったく頭に入ってこない地政学の章を眺めていた。
「森下、おはよ」
前の席の新井が振り返った。
中学からの付き合いで、俺がまともに口をきく数少ない人間だ。
軟式テニス部で、日に焼けていて、だいたい眠そうにしている。
「おう」
「昨日の宿題やった? 数学のプリント」
「やった」
「見せて」
「自分でやれよ」
「やったよ。答え合わせしたいだけ」
そう言って新井が差し出したプリントは、名前の欄しか埋まっていなかった。
俺は黙って自分のプリントを渡した。
新井は「助かる」と言って前を向き、猛烈な勢いで書き写し始めた。
これでいい。
俺と新井の間にある会話の九割はこういうものでできている。
教室の後ろのほうが騒がしかった。
いつものことだ。
二年C組の後ろのロッカー前は、だいたい三人の女子が占領している。
茶色い髪、短いスカート、袖の余ったベージュのカーディガン。
この学校の、いわゆるギャルと呼ばれる人たちだ。
中心にいるのは早川舞という女子で、声が大きく、よく笑い、笑い声が教室の端から端まで届く。
俺は早川と話したことがない。
去年は別のクラスだったし、今年同じクラスになってからも、事務的な用事すらなかった。
プリントを後ろに回すときに手が触れたことすらない。
席が離れているからだ。
なのに名前と顔と声を知っているのは、早川が教室にいるだけで目立つからだった。
「ちょ、待って。何これ」
その早川の声が、いつもと違う高さで響いた。
振り返ったのは俺だけではなかった。
教室にいた半分くらいの人間が、ロッカーの方を見た。
早川は折りたたみの携帯を開いて、画面を睨んでいた。
携帯には大量のストラップがぶら下がっている。
キャラクターのマスコット、ビーズの紐、プリクラを挟んだ透明な板、鈴、何かのおまけらしいプラスチックの食べ物。
数えようとして途中でやめた。
どちらが本体なのか判断がつかない。
「アヤ、これ見て。ユッコも」
両隣の女子が早川の携帯を覗き込んだ。
片方は髪を巻いていて、片方は髪をまとめている。
たしか三上と佐藤だ。
早川は二人を「アヤ」「ユッコ」と呼んでいた。
「え、桜堤板じゃん」
「二Cスレ? うわ、何これ。キモ」
桜堤板。
その単語が聞こえた瞬間、俺は新書に視線を戻した。
戻したが、耳は後ろに向いたままだった。
桜堤板というのは、この学校の生徒が使っている非公式の掲示板だ。
学校が作ったものではない。
何年か前の卒業生が無料のレンタル掲示板を借りて立てたもので、管理人は今も名前だけ残っている。
管理人の名前欄は「管理人@放置中」実際に放置されている。
スレッドは誰でも立てられ、誰でも書き込める。
携帯からも見られる。
購買のパンの入荷情報、教師の口癖、部活の噂、試験範囲、誰と誰が付き合っているか、誰が誰に振られたか。
学校の中で口に出されるものと、出されないものが、全部並んでいる。
俺はもちろん毎日見ている。
ただし書き込んだことはない。
読むだけだ。
書き込みの末尾に端末の種類が表示される仕様なので、PCから書けば「PC」と出るし、携帯から書けば会社の名前が出る。
それだけで何かが特定されるわけではないが、俺は読むだけの人間でいると決めている。
「早川舞、駅前で四十くらいのオッサンと歩いてた。援交確定」
早川は、声に出して読んだ。
教室が一瞬だけ静かになった。
「確定って何? 何が確定? 確定してないんだけど」
「舞、それ、たぶんお父さんじゃない?」とユッコが言った。
「うちのお父さん四十五だし。てかお父さんと駅前とか歩いてないし。トラックだし」
「トラック?」
「お父さんトラック乗ってんの。ほぼ家にいないの。だから駅前とか歩かないの」
早川は携帯を閉じ、また開いて、もう一度画面を見た。
「は? マジでありえないんだけど」
そして、教室全体に向かって言った。
「これ書いたの誰?」
誰も答えなかった。
当然だ。
答えるわけがない。
名無しで書き込んだ人間が、本人に聞かれて手を挙げるなら、匿名掲示板というものはそもそも成立しない。
教室の空気が少しだけ固まり、それから何事もなかったように元の騒がしさに戻っていった。
数人がくすくす笑っていた。
何に笑っているのかはわからなかった。
「ねえ、誰? 怒んないから言って。あ、嘘、怒る。怒るけど言って」
「舞、無理だって」とアヤが言った。
「誰も言わないって、そんなん」
「なんで?」
「なんでって、匿名だし」
「匿名だと何書いてもいいわけ?」
アヤは答えに困って、巻いた髪の先をいじった。
俺は新書の同じ行を三回読んだ。
早川の質問は、ある意味で正しい。
匿名だと何を書いてもいいわけではない。
ただ、匿名だと何を書いても、書いた人間はわからない。
この二つは別の話で、ネットの掲示板というのは、後者がある限り前者がどうであっても回り続ける装置だ。
そういうことを俺は知っている。
知っているからといって、言うつもりはない。
言えば「なんで詳しいの」と聞かれる。
聞かれたら終わりだ。
チャイムが鳴って、沼田先生が入ってきた。
四十代の現代文の教師で、担任で、いつも寝癖がある。
早川は携帯を閉じて自分の席に戻ったが、着席してもしばらく腕を組んで前を睨んでいた。
その日、早川は一日中機嫌が悪かった。
休み時間ごとに携帯を開き、閉じ、また開いた。
昼休みには購買の前で「ムカつく」と三回言っていた。
俺は購買の焼きそばパンを買いながらそれを聞いた。
夕方、帰り道で俺も携帯から桜堤板を開いた。
二Cスレには新しい書き込みがいくつか増えていた。
「早川ネタで盛り上がってて草」
「てか本人見てんじゃね?」
「見てたら何?」
「怖っ」
最後の書き込みの末尾には「au」とあった。
俺の携帯もauだ。
auなんてこの学校の三分の一くらいが使っている。
だから何もわからない。
わからないことを確認して、俺は携帯を閉じた。
俺はレンタルビデオ店でアルバイトをしている。
駅から少し離れた本町通りにある「ポラリス」という店で、全国チェーンではない。
店長の野沢さんが親から継いだ店で、県内に三店舗しかない。
上沼本町店はその一号店だ。
店内の半分がDVD、半分がVHSで、レジの奥の暖簾をくぐった先には十八歳未満が入れない棚がある。
そこの補充は大学生のスタッフがやることになっている。
俺がこの店を選んだ理由はふたつある。
ひとつは時給が高校生にしては悪くないこと。
もうひとつは、アニメの棚がある店だということだった。
アニメの棚がある店で働くというのは、俺にとって危険な行為でもある。
同じ学校の誰かが客として来れば、俺がアニメの棚の前にいるところを見られる。
だが、店員がアニメの棚の前にいることには理由がつく。
仕事だからだ。
客として棚の前にいるより、店員としている方が言い訳が立つ。
それに俺は、この棚が乱れているのが我慢できなかった。
「森下くん、アニメの棚、今日の返却分戻しといてもらえる?」
レジの中から香坂さんが言った。
大学四年で、古着のシャツをよく着ていて、俺の三倍くらい映画を見ている。
「はい」
「あと店長が奥で何か見てるけど気にしないで」
「何見てるんですか」
「わかんない。字幕の色が黄色いやつ」
野沢店長は、夜の客が少ない時間になると、店内のモニターで自分が好きな映画を流す。
今日流れているのは、知らない国の白黒映画だった。
誰も見ていない。
店長だけがレジの奥の丸椅子に座って見ている。
俺は返却されたテープとディスクの入ったカゴを抱えて、アニメの棚に向かった。
アニメの棚は店の一番奥、窓際にある。
窓といっても、駐車場に面した細長いガラスがあるだけで、夜になると外の街灯と、たまに月が見える。
棚は三列。
子供向けの劇場版、名作劇場、それから俺が一番手をかけている、ロボットアニメの棚。
ロボットアニメの棚を整えるのは、俺にとって仕事というより儀式に近い。
宇宙世紀のガンダムを年代順に並べる。
ファーストから始めて、Ζ、ΖΖ、逆襲のシャア、〇八〇、〇八三、F91、Vガンダム。
そこから先、アナザーと呼ばれる系列はまとめて隣の段に置く。
Gガンダム、ガンダムW、ガンダムX、∀ガンダム。
前任のスタッフはこれを五十音順に並べていた。
五十音順に並べるとZガンダムとダブルゼータの間に∀が挟まり、宇宙世紀の流れが寸断される。
俺がバイトに入って最初にやったのは、店長にこの棚の並べ替えを申し出ることだった。
店長は「好きにしていいよ」と言った。
俺は好きにした。
宇宙世紀こそがガンダムの本流である。
それは俺の中で揺らがない。
富野監督の作った年表の上に、人類が宇宙に出た時代の歴史として積み上がっている物語群。
あれを本流と呼ばずに何を本流と呼ぶのか。
そのうえで、俺が一番好きなガンダムは『機動新世紀ガンダムX』だ。
これについて人に説明すると、たいてい矛盾を指摘される。
指摘されたことはないが、指摘されると思っている。
本流が一番好きとは限らない。
川の本流と、一番好きな支流は別にあっていい。
むしろ本流を知っているからこそ、支流の良さがわかるのだと俺は思う。
ガンダムXは、戦争が終わった後の世界の話だ。
大きな戦争で地球がめちゃくちゃになって、十五年経って、もう英雄の時代は終わっていて、主人公は戦争を知らない少年で、ヒロインはニュータイプとして利用されてきた少女で、その少年がひたすら少女を守るために戦う。
それだけの話だと言ってしまえばそれだけだが、それだけの話をあれほど真っすぐやったガンダムは他にない。
視聴率が振るわず、本来の話数より短く打ち切られたことも含めて、俺は好きだ。
そこまで考えて、俺は棚の前で手を止めた。
返却カゴの中に、ガンダムXの五巻があった。
VHSだ。
この店のガンダムXはDVDではなくビデオしかない。
レンタル用のケースは角がすり減っていて、背表紙のシールが少し剥がれかけている。
借りた人間がいる。
俺以外で、この店でガンダムXを借りる人間がいる。
それだけで少し嬉しかった。
五巻を棚に戻し、一巻から十巻までの並びを指でなぞって確認した。
全巻そろっている。
窓の外を見た。
駐車場の向こう、電線の上に、少し欠けた月が出ていた。
俺はガンダムXの一話のことを考えていた。
正確には、ガンダムXに出てくる台詞のことを考えていた。
あの作品には、月を見上げて言われる台詞がある。
月は、あの作品において特別な意味を持っている。
月が出ているかどうかは、作中の人間たちにとって、ある種の合図だった。
そういうことを考えていたので、口が勝手に動いた。
「……月は出ているか」
小さな声だった。
誰にも聞こえない声のつもりだった。
「え、何? 告白? 今ぁ?」
背後から声がした。
俺は振り返った。
振り返るまでの一秒くらいの間に、心臓が三回くらい余計に鳴った。
アニメの棚の通路の入り口に、早川舞が立っていた。
制服のままだった。
カーディガンの袖が手の甲まで落ちている。
片手に携帯を持っていて、ストラップの束が揺れていた。
後ろの方、店の入り口近くの新作コーナーで、巻き髪の三上がDVDのパッケージを手に取っているのが見えた。
早川は俺の顔を見て、それから俺の手元を見て、もう一度俺の顔を見た。
「な?!」
声が裏返った。
「ちげーって! ほんとにガンダムなの!」
「ガンダム?」
「ガンダムの台詞なの! 月が、ガンダムXっていうのがあって、その中で、主人公が、いや主人公じゃなくて、あれは主人公たちの艦の、とにかく台詞なの! 今度貸すから見ろよ! ちげーんだって!」
「キョーミなーい」
早川は即答した。
そして、笑った。
教室で聞くのと同じ、端から端まで届く笑い声だった。
店内には俺と香坂さんと店長と三上と、DVDの棚の向こうに知らない客が一人いた。
全員がこちらを見た気がした。
気がしただけかもしれない。
店長は白黒映画を見ていた。
「ウケる。必死すぎ」
「必死じゃない」
「必死じゃん。顔赤いし」
「赤くない」
「赤いって。てかさ」
早川は首をかしげて、俺の顔を覗き込むようにした。
「同じクラスの人じゃない? 窓際の。森……森なんとか」
「……森下」
「そう、森下。森下じゃん。ここでバイトしてんの?」
「してる」
「へえ」
早川は俺の顔から視線を外し、俺の背後の棚を見た。
ロボットアニメの棚を、上の段から下の段まで、ゆっくりと見た。
それから、俺が手にしたままのカゴを見た。
カゴの中には、まだ戻していないマクロスのビデオが二本と、ローゼンメイデンのDVDが一本入っていた。
まずい、と思った。
思ったときにはもう遅かった。
「これ、全部アニメ?」
「仕事だから」
「仕事でなんで台詞言うの」
俺は答えられなかった。
早川は、また笑った。
今度はさっきより短かった。
「オタクじゃん」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分が一年以上かけて積み上げてきたものが、音もなく崩れていくのを感じた。
歴史小説。
カバーをかけた新書。
初期設定の待ち受け画面。
何も入っていない机の中。
全部、意味がなくなった。
早川舞に知られたということは、明日には二年C組の全員に知られるということだ。
早川の声は教室の端から端まで届く。
「オタクじゃない」
とりあえず否定した。
「オタクじゃん。今の早口、完全にオタクだったし」
「早口じゃない」
「月がどうとかめっちゃ喋ってたじゃん」
「あれは説明だ」
「だからオタクじゃん。ウケる」
何がそんなにウケるのか、俺にはわからなかった。
早川は本当に楽しそうだった。
人を馬鹿にしている顔ではなかった。
少なくとも、俺がこれまで想像してきた「オタクを馬鹿にする女子の顔」とは違った。
だが、違うからといって安心できる要素は何もない。
人を馬鹿にしていない顔で、人の秘密を教室中に言いふらす人間はいくらでもいる。
「舞ー、借りるやつ決まったー」
入り口の方から三上が呼んだ。
手には『世界の中心で、愛をさけぶ』のDVDがあった。
去年あれだけ流行って、まだ借りる人間がいるのかと思ったが、口には出さなかった。
「アヤ、ちょっと待って。今オタク見つけた」
「は? オタク?」
「待て待て待て待て」
俺はカゴを床に置いて、両手を顔の前で振った。
自分でもみっともない動きだと思った。
「頼む。言わないでくれ」
「何を?」
「俺が、その、こういう」
「オタクってこと?」
「声がでかい」
早川は、少しだけ声を落とした。
少しだけだった。
「なんで? 別にいいじゃん、オタクでも」
「よくない」
「なんで?」
「なんでって」
説明しようとして、言葉が出てこなかった。
オタクだと知られたら何が起こるのか。
笑われる。
気持ち悪がられる。
キモいと言われる。
休み時間にアニメの台詞を真似されて、それが一年続く。
いや、卒業まで続く。
中学のときに、それをやられていた奴を俺は知っている。
俺はやられていた側ではなかったが、やっていた側でもなかった。
ただ見ていた。
見ていたから、あれが自分に向いたらどうなるかを知っている。
そういうことを、早川舞に向かって説明する方法がわからなかった。
早川はたぶん、あれをやる側の人間だと思っていたからだ。
「……いろいろあるんだよ」
「ふうん」
早川は、俺が床に置いたカゴのローゼンメイデンのDVDを見下ろした。
パッケージの表には、ドレスを着た人形の絵が描いてある。
「これもアニメ?」
「アニメ」
「人形?」
「人形……というか、人形が動く話」
「へえ。かわいいじゃん」
意外な反応だった。
俺はとっさに何か言おうとしたが、早川はもうDVDから興味を失っていた。
それから、何かを思いついたような顔をした。
「てかさ、オタクってネット詳しいっしょ?」
心臓がまた余計に鳴った。
「……なんで」
「なんとなく。オタクってパソコンとかやってそうじゃん」
「偏見だ」
「やってないの?」
俺は自宅の部屋にある、去年の冬から少しずつパーツを買い足して組み上げたパソコンのことを考えた。
ケースのサイドパネルは開けっ放しで、中に追加したファンが四つ回っている。
母親には「何がそんなにうるさいの」と言われている。
「……やってなくはない」
「じゃあ詳しいじゃん」
「詳しいとは言ってない」
「桜堤板ってわかる?」
俺は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
早川は、にやりと笑った。
「わかるんだ」
「わかるっていうか、見たことがあるっていうか」
「今日のあれも見た?」
「……見た」
「ムカつかない? あれ」
ムカつくかと聞かれれば、俺には関係ないとしか言えない。
俺は早川と話したこともなかったし、早川が駅前で誰と歩いていようが知らない。
ただ、あの書き込みが卑怯だということはわかる。
わかるが、匿名掲示板で卑怯でない書き込みのほうが少ない。
卑怯なのは書き込みの性質というより、場所の性質だ。
そういうことを言いかけて、やめた。
言えば説明が長くなる。
説明が長くなると、また早口だと言われる。
「まあ、気分はよくないだろうな」
「でしょ? だから、書いたやつ見つけたいの」
「無理だろ」
「なんで?」
「匿名だから」
「匿名でも、オタクくんならわかるんじゃないの?」
オタクくん。
俺はその呼び方を、生まれて初めて聞いた。
少なくとも、自分に向けられたものとしては初めてだった。
早川は、ごく自然にそう言った。
からかう調子は含まれていたが、悪意のある響きはなかった。
ただ、これからこの女は俺をそう呼ぶのだろうという確信だけがあった。
「その呼び方はやめろ」
「なんで? オタクくんじゃん」
「森下だ」
「森下より、オタクくんのほうが覚えやすいし」
「覚えやすさの問題じゃない」
「舞ー、レジ混んでるー」と三上が言った。
レジには誰も並んでいなかった。
香坂さんが、こちらを面白そうに見ていた。
早川は携帯を開いて時間を見て、閉じた。
ストラップの束がしゃらしゃらと鳴った。
「じゃ、明日。昼休み」
「何が」
「作戦会議」
「誰と誰の」
「あたしとオタクくんの」
「俺はやるなんて一言も」
「やんないなら、明日教室で『森下ってガンダムの台詞言うんだよ』って言う」
俺は口を開けたまま固まった。
早川は、その俺の顔を見て、また笑った。
今度は腹を抱えて笑った。
「嘘だって。言わないって、そんなん。オタクくん、顔ヤバい」
「……言わないのか」
「言わないよ。だって別に面白くないし。オタクがガンダム好きなの普通じゃん。普通のこと言っても面白くなくない?」
俺には、早川の理屈がよくわからなかった。
普通のことだから言わない。
それは安心していい理屈なのか。
面白くなったら言うということなのか。
「でも手伝ってほしいのはマジ。明日、昼休み、渡り廊下ね」
そう言って、早川は手を振って入り口のほうへ戻っていった。
三上と二人でレジに並び、香坂さんに会員証を出す三上の横で、早川は自分の財布を出そうともしなかった。
俺はアニメの棚の前に取り残された。
カゴの中のマクロスとローゼンメイデンを、ゆっくり棚に戻した。
手が少し震えていた。
ガンダムXの背表紙を、意味もなくもう一度なぞった。
「森下くん」
レジから戻ってきた香坂さんが、通路の入り口で言った。
「さっきの子、同じ学校?」
「……クラスメイトです」
「仲いいの?」
「今日初めて喋りました」
「へえ」
香坂さんは何か言いたそうな顔をしたが、結局「月、出てるね」とだけ言って戻っていった。
俺は窓の外を見た。
電線の上の月は、さっきと同じ場所にあった。
少し欠けていて、明るかった。
月は出ている。
出ているが、俺にとって何の合図にもならなかった。
少なくともそのときは、そう思っていた。
閉店の三十分前に上がって、自転車で家に帰った。
夕飯を食べ、風呂に入り、部屋に戻ってパソコンの電源を入れた。
ファンが四つ、いつも通りの音を立てて回り始めた。
デスクトップにはブラウザと、掲示板の専用ブラウザと、メーラーと、エディタのアイコンしか置いていない。
俺はブラウザを開き、桜堤板の二Cスレを表示した。
書き込みは昼からさらに増えていた。
早川の噂を面白がるもの、本人が見ているのではと怖がるもの、まったく関係ない購買の話、誰かが誰かを好きらしいという噂。
いつもの雑多な流れの中に、今朝の書き込みが埋もれていく。
明日には誰も気にしなくなるだろう。
掲示板の話題は、一日で消費されて流れていく。
それが普通だ。
だが、早川は気にしている。
明日の昼休み、渡り廊下で。
俺は今朝の書き込みをもう一度表示させた。
「早川舞、駅前で四十くらいのオッサンと歩いてた。援交確定」
末尾には「PC」とあった。
携帯ではない。
家か、どこかのパソコンから書き込まれている。
書き込まれた時刻は、昨日の夜の十一時四十二分。
わかるのはそれだけだった。
それだけのことが、俺にはわかってしまった。
わかってしまうことを、どう扱えばいいのかはわからなかった。
俺はブラウザを閉じ、専用ブラウザで2ちゃんねるのいつもの板を開いた。
誰も俺を知らない場所に戻ってきて、ようやく少し息ができた。
机の上の携帯は、初期設定の青い待ち受けのまま光っていた。
早川の携帯に比べると、ずいぶん軽そうに見えた。