返却期限は守りましょう   作:平成塵芥

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第2話 協力しろし

翌朝、俺は普段より十分早く家を出た。

理由は自分でもよくわからなかった。

早く着いたところで何があるわけでもない。

教室には誰もいないか、いても朝練帰りの運動部が二、三人いるだけだ。

強いて言えば、早川が教室に入ってきた瞬間に何を言うのか、その場に居合わせたくなかったのだと思う。

先に席に座って新書を開いていれば、少なくとも「入ってきたところを指さされる」事態は避けられる。

そういう計算だった。

計算は、二時間目の休み時間に崩れた。

「ねえ、オタクく……森下!」

教室の後ろから、早川の声が飛んできた。

オタクく、まで言った。

確実に言った。

言いかけて、途中で無理やり森下に軌道修正した。

結果として「オタククモリシタ」という、どこの国の言葉でもない呼びかけになった。

教室の空気が、一瞬だけこちらを向いた。

俺は振り返らなかった。

振り返ったら負けだと思った。

何に負けるのかはわからないが、負けるのだけはわかった。

「森下ってば。聞こえてるっしょ」

「……何」

結局振り返った。

早川はロッカーの前で、携帯を片手に手を振っていた。

両隣にアヤとユッコがいた。

二人とも、何か珍しい生き物を見る目で俺を見ていた。

「昼休み、忘れてないよね」

「覚えてる」

「ならいいや」

早川はそれだけ言って、アヤとの話に戻った。

用件はそれだけだった。

それだけのために、教室の全員の前で俺の名前を呼んだ。

名前の前に余計なものをつけかけて。

アヤが早川の腕をつついた。

「舞、今オタクって言いかけなかった?」

「言ってない」

「言った。オタクくって言った」

「言ってないって。森下のあだ名。オタクっぽい顔してるから」

「顔?」

アヤとユッコが同時に俺の顔を見た。

それから顔を見合わせて、二人して吹き出した。

「ちょ、舞、ひどくない?」

「ひどくないって。見てよ、あの眼鏡」

「眼鏡は関係なくない?」

「関係あるって。ほら、オタクっぽいじゃん」

何人かが笑った。

笑い声の中に悪意があったかどうかは、俺には判別できなかった。

ただ、笑われているのが「俺の顔」なのか「俺の趣味」なのかで言えば、少なくとも今のところは顔だった。

顔で笑われるのと趣味で笑われるのと、どちらがましなのか。

俺は真剣に考えて、答えが出なかった。

眼鏡を外せば済む話なのか。

いや、外したら黒板が見えない。

前の席の新井が、椅子ごと振り返った。

「お前、早川と何かあったの?」

「何もない」

「昼休みがどうとか」

「何もない」

「ふうん」

新井はそれ以上聞かなかった。

新井のこういうところに、俺は中学のときから助けられている。

人の事情に首を突っ込まない。

突っ込まないのは興味がないからではなく、突っ込んでも面倒が増えるだけだと知っているからだ。

新井は面倒が嫌いだ。

俺も嫌いだ。

だから俺たちは続いている。

 

昼休み、渡り廊下に行くと、早川はもう来ていた。

渡り廊下は本校舎と特別教室棟をつなぐ二階の通路で、昼休みにはほとんど人が通らない。

窓から中庭が見下ろせる。

早川は窓枠に腰を預けて、パックのいちごオレを飲んでいた。

片手には、購買のメロンパンの袋があった。

「おそーい」

「チャイム鳴って三分しか経ってない」

「三分って遅くない?」

「遅くない」

俺も購買で買った焼きそばパンの袋を開けた。

開けてから、ここで食べていいのかと思った。

早川はもうメロンパンを半分食べていた。

いいらしい。

「てか、さっきのは悪かった。オタクくって言いかけたの」

早川は唐突にそう言った。

悪かった、と言いながら、別に反省している顔ではなかった。

事実として認めている、という感じだった。

「言いかけたっていうか、言ってた」

「言ってない。オタクく、までだから」

「く、までは言ってる」

「く、で止めたからセーフ」

「セーフの基準がわからない」

「だってオタクくって何? ってなるじゃん。誰もわかんないって」

アヤはわかっていた。

そう言おうとしてやめた。

言ったところで何も変わらない。

「顔がオタクっぽいってことで、通っちゃったな」

「でしょ? あたし天才じゃない?」

「俺の顔がオタクっぽいってことになったんだが」

「なってたじゃん、最初から」

早川は悪びれずに言って、いちごオレのストローを噛んだ。

俺は焼きそばパンを一口かじった。

ソースの味しかしなかった。

「で、本題」

早川はメロンパンの残りを口に押し込み、携帯を開いた。

ストラップの束が窓枠に当たって、かちゃかちゃと鳴った。

「昨日、オタクくん見た? あの書き込み」

「見た」

「何かわかった?」

俺は少し迷った。

わかったことを言えば、ネットに詳しいことも認めることになる。

この先も、相談を持ち込まれるかもしれない。

誰にも何も知られない高校生活は、ますます遠くなる。

「……わかったことは、ふたつある」

「マジで? 何?」

「ひとつ。あの書き込みは、携帯からじゃなくて、パソコンから書かれてる」

「なんでわかんの?」

「書き込みの最後に出るだろ。PCとか、auとか、docomoとか」

早川は自分の携帯で桜堤板を開き、二Cスレを表示させた。

親指でボタンを何度も押して、画面をスクロールさせる。

俺は横から覗き込もうとして、やめた。

やめたが、早川のほうから画面をこちらに向けてきた。

「これ? この、名前の横の」

「名前の横じゃなくて、本文の一番下」

「あ、ほんとだ。PCって書いてある。これ何?」

「書き込んだ端末の種類。この掲示板はそういう設定になってる」

「へえ。知らなかった」

「毎日見てるんじゃないのか」

「見てるけど、そんなとこ見ないし」

そうだろうなと思った。

普通の人間は、書き込みの末尾の表示なんか見ない。

見るのは、俺みたいな人間だけだ。

「ふたつめは?」

「書き込まれた時間。おとといの夜の十一時四十二分」

「夜中じゃん。キモ」

「キモいかどうかは知らないけど、夜の十一時台に、家か、どこかのパソコンから書いてる」

「家のパソコンってこと?」

「たぶん。ネットカフェって線もなくはないけど、高校生が夜の十二時前にネットカフェにいて、わざわざ学校の掲示板に書き込むっていうのは、ちょっと考えにくい」

「ふうん。じゃあ家にパソコンある人だ」

「そう」

「それって何人くらいいんの?」

俺は答えに詰まった。

家にパソコンがある高校生。

二〇〇五年の今、それはもう珍しいものではない。

家族で一台、居間に置いてあるという家は多い。

自分の部屋に自分専用のパソコンがある奴は少ないが、家族のパソコンをこっそり夜中に使う奴はいくらでもいる。

クラスの半分以上は、家にパソコンがあるだろう。

「……たくさん」

「たくさんじゃわかんないじゃん」

「だから、これだけじゃ絞れないって話をしてる」

早川は露骨につまらなそうな顔をした。

「えー。オタクくんならわかるかと思ったのに」

「わかるわけないだろ。俺は探偵じゃない」

「探偵じゃないけど、オタクじゃん」

「オタクは探偵の上位職じゃない」

言ってから、余計なことを言ったと思った。

案の定、早川は笑った。

「上位職って何? ゲーム?」

「……何でもない」

「ウケる。オタクくん、たまに変な言葉使うよね」

たまにどころではない。

俺の頭の中は変な言葉でできている。

それを外に出さないように、普段は口を閉じているだけだ。

早川と話していると、その蓋がやたらと開く。

開くのは、早川が何を言っても笑うからかもしれない。

笑われると、俺は訂正したくなる。

訂正すると、また変な言葉が出る。

悪循環だ。

「でもさ」と早川が言った。

「絞れないけど、ゼロじゃないってことでしょ?」

「……まあ、そうだな」

「じゃあ絞ろうよ。他に何かないの? ヒント的な」

俺は焼きそばパンの最後の一口を飲み込んで、少し考えた。

「書き込みって、一回だけじゃないかもしれない」

「どういうこと?」

「ああいうことを書く奴は、たいてい他の書き込みもしてる。悪口だけ書いて消える奴もいるけど、普段から掲示板に入り浸ってて、その流れで書く奴のほうが多い。だから、同じ時間帯に、同じPCから書いてる書き込みを集めれば、書き方の癖がわかるかもしれない」

「書き方の癖?」

「句読点の打ち方とか、笑いの『w』を何個つけるかとか。顔文字を使うかどうか。改行の仕方。そういうのは、人によって違う」

早川は、ぽかんとした顔で俺を見ていた。

しまった、と思った。

また早口になっていた。

喋りながら、自分の声が加速していくのを感じていたのに、止められなかった。

早川は、ゆっくりと口を開いた。

「オタクくん、それ、めっちゃ探偵じゃん」

「……探偵じゃない」

「探偵だって。ちょっとかっこいいかもしんない」

「かもしんないってなんだよ」

「かっこいいかどうか、まだわかんないから」

早川は真顔で言った。

冗談なのか本気なのか、わからなかった。

たぶん本気だった。

この女は思ったことを思った分量だけ口に出す。

かっこいいかもしれないと思ったから、かっこいいかもしれないと言った。

それ以上でもそれ以下でもない。

「じゃあそれやって。書き込み集めるやつ」

「俺が?」

「オタクくんしかできないじゃん。あたしパソコン持ってないし。携帯でスクロールすんの、指痛くなるし」

「なんで俺がやらなきゃいけないんだよ」

早川は、少しだけ首をかしげた。

「やんないの?」

その聞き方には、脅しの気配がまったくなかった。

「やらないならばらす」という含みもなかった。

昨日、冗談でそう言った後で、自分で「嘘だって」と撤回したのを、この女は本当に撤回したつもりでいる。

ただ純粋に、やるのかやらないのかを聞いていた。

やらないと言えば、たぶん「ふうん」と言って、別の方法を探すのだろう。

だから余計に、断りにくかった。

「……ひとつ聞いていいか」

「何?」

「犯人見つけて、どうするんだ」

「文句言う」

「文句」

「うん。嘘書かないでって言う。あと、なんで書いたのか聞く」

「それだけか」

「それだけって何? 他に何すんの?」

先生に言うとか、親に言うとか、クラスで晒すとか。

いくらでも思いついたが、口には出さなかった。

早川の顔を見る限り、そういう選択肢は最初から頭にないようだった。

文句を言って、理由を聞く。

それが早川にとっての、犯人を見つけた後にやることの全部だった。

「……なんで、そこまで気にするんだ。掲示板なんて、どうせ明日には誰も覚えてない」

早川は、いちごオレのパックを潰しながら言った。

「だって嘘じゃん」

「嘘だけど」

「本当のこと書かれんならいいよ。あたしが授業中寝てたとか、テスト赤点だったとか。本当だし。でも援交とか、してないし。してないこと書かれて、それが本当みたいになんの、ムカつかない?」

「……ムカつくな」

「でしょ? それに、翔が見たらやだし」

「翔?」

「弟。小六。まだ携帯持ってないけど、そのうち持つじゃん。お姉ちゃんの名前検索したら援交とか出てきたら、マジ最悪じゃない?」

早川は、そこで初めて少しだけ真面目な顔をした。

すぐに元に戻ったが、俺はそれを見た。

俺には妹がいる。

中学二年で、生意気で、俺の部屋に勝手に入ってきてはパソコンの中身を見たがる。

妹がネットで俺の名前を検索して、何か書かれていたら。

そう考えたら、早川の言いたいことが少しだけわかった。

「……わかった。やるよ」

「マジで? やった」

「ただし、ひとつ条件がある」

「何?」

「教室で、俺をオタクくんって呼ぶな。言いかけるのも禁止」

「えー」

「えーじゃない」

「だってオタクくんじゃん」

「森下だ」

「じゃあ教室では森下。ここではオタクくん」

「ここでもやめろ」

「やだ」

即答だった。

交渉の余地はなかった。

教室で呼ばれないだけましだと思うことにした。

「てかさ、連絡先教えてよ。何かわかったらすぐ知りたいし」

早川は携帯を突き出してきた。

ストラップの束が、俺の顔の前で揺れた。

「赤外線でいい?」

「……ああ」

俺も携帯を出した。

飾りのない銀色の折りたたみ。

早川の携帯の横に並べると、ストラップの重みで向こうの本体が少し傾いていた。

互いの携帯の先端を向け合い、赤外線の送受信のボタンを押す。

俺の携帯の画面に「受信中」の文字が出て、早川のアドレスが登録された。

アドレスは、やたらと長かった。

英字と数字とアンダーバーとハイフンが混ざっていて、途中に何かの記念日らしい四桁の数字が挟まっていた。

「長いな」

「迷惑メール来るからさ、長くしてんの。オタクくんのは?」

「短い」

「見して。……うわ、名前と数字だけじゃん。迷惑メール来ない?」

「来る。消してる」

「えー、変えなよ。めんどくない?」

「変えるほうがめんどい」

早川は笑って、携帯を閉じた。

ストラップがしゃらしゃらと鳴った。

「じゃ、よろしくねオタクくん。探偵の仕事」

「探偵じゃない」

「はいはい」

そう言って、早川は窓枠から腰を上げ、渡り廊下を本校舎のほうへ歩いていった。

途中で一度振り返って、手を振った。

俺は振り返さなかった。

振り返す習慣がなかった。

早川は気にした様子もなく、角を曲がって消えた。

俺は渡り廊下に一人で残され、焼きそばパンの空き袋を握りつぶした。

中庭では、どこかのクラスの男子がバレーボールで遊んでいた。

ボールが上がって、落ちて、また上がった。

 

五時間目の数学の途中で、ポケットの携帯が震えた。

授業中に携帯を見るような真似はしない。

しないと決めているが、震えた瞬間に誰からのメールなのかは想像がついた。

想像がついたので、余計に見たくなった。

俺は先生が黒板に向かった瞬間を見計らって、机の下で携帯を開いた。

差出人の欄に、さっき登録したばかりの長いアドレスが表示されていた。

名前の登録を忘れていた。

本文は、こうだった。

「オタクくんへ 探偵がんばってね あとメロンパンの袋渡り廊下に忘れたかも 捨てといて」

文中には、俺の携帯では表示できない絵文字がいくつも挟まっていて、その部分は黒い四角になっていた。

四角が六つあった。

何を表していたのかは、最後までわからなかった。

俺は返信を打った。

「自分で捨てろ」

送信してから、名前を登録した。

少し迷って、「早川」と打った。

それ以外に打つものが思いつかなかった。

窓の外を見た。

五月が近い昼の空に、月は出ていなかった。

当たり前だ。

昼だからだ。

帰りに渡り廊下を通ったら、メロンパンの袋が窓枠の上に残っていた。

俺はそれを拾って、近くのゴミ箱に捨てた。

誰も見ていなかった。

見ていなくてよかったと思った。

早川のゴミを拾って捨てる男というのは、どう考えても説明が面倒だ。

自転車置き場で鍵を外していると、背後から声をかけられた。

「森下」

振り返ると、三上が立っていた。

巻いた髪を指に絡めながら、俺を上から下まで眺めた。

早川は一緒ではなかった。

「舞と何話してたの? 昼休み」

「……別に」

「別にってことないでしょ。舞、昼休みいなかったし」

三上の声には、からかう調子がなかった。

早川の声とは違う種類の真剣さがあった。

俺は少し考えて、嘘にならない範囲で答えることにした。

「掲示板の件。書いた奴を探すのを手伝えって言われた」

「森下が? なんで?」

「パソコンに、少し詳しいから」

三上は眉を寄せた。

それから、少しだけ声を落とした。

「舞さ、ああ見えて結構気にしてんの。家のこととか。だから変なことしたら許さないから」

「変なことって何だよ」

「知らない。オタクっぽい顔の人がやりそうなこと」

それだけ言って、三上は踵を返した。

俺の顔は、一日で二人の女子から「オタクっぽい」という評価を受けたことになる。

眼鏡の買い替えを、わりと真剣に検討した。

三上は自分の自転車のところまで行って、もう一度だけ振り返った。

「あと、舞のメロンパンの袋、拾ってくれたでしょ。見てた」

見られていた。

説明が面倒な男として、俺は自転車を押して校門を出た。

その夜、俺は二Cスレの過去ログを、最初の書き込みから全部保存した。

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