返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
二Cスレの過去ログは、全部で二千四百十三件あった。
二年生に上がった四月の頭に一本目が立ち、千件で埋まって二本目が立ち、また千件で埋まって、今は三本目の四百件目あたりを流れている。
一か月足らずで二千件。
単純に割ると一日八十件。
クラスの人数は四十人だから、一人一日二件書いている計算になる。
もちろん実際にはそうではなくて、毎日何十件も書く奴と、俺みたいに一件も書かない奴がいるだけだ。
俺はその二千四百十三件を、全部テキストファイルに落とした。
専用ブラウザがあれば一瞬で済む作業なのだが、桜堤板は2ちゃんねるとは仕組みが違うので、専用ブラウザでは読めない。
仕方なくブラウザで一ページずつ表示させ、本文を選択してコピーし、エディタに貼りつけた。
途中で妹が部屋のドアを開けて「何してんの」と聞いてきたので、「勉強」と答えた。
妹は画面を覗き込み、「勉強じゃないじゃん」と言って出ていった。
正しい指摘だった。
次に、そのテキストを表計算ソフトに流し込んだ。
列を作る。
書き込みの番号、日付、時刻、末尾の端末表示、本文の文字数、句点の有無、「w」の数、顔文字の有無、改行の数。
手作業でやるには多すぎるので、エディタの置換機能を使って、ある程度は自動で振り分けた。
それでも振り分けきれないものは、目で見て直した。
気がつくと、午前二時を回っていた。
ケースの中でファンが四つ回っていた。
窓の外は暗かった。
月は見えなかった。
俺は椅子の上で伸びをして、画面に並んだ二千四百十三行の表を眺めた。
何をやっているんだろう、と思った。
早川に頼まれたからやっている。
それは間違いない。
だが、頼まれたからといって、ここまでやる必要があったのか。
過去ログを全部保存して、表にして、列を九つ作って。
早川が求めていたのは、たぶんもっとざっくりとした「誰っぽい」という程度の答えだ。
それを、俺は二千四百十三行の表にしている。
たぶん、楽しかったのだと思う。
人に頼まれて、自分の知っていることを使って、何かを調べる。
それがこんなに楽しいとは思っていなかった。
いや、調べることが楽しいのは前から知っていた。
新しいパーツの規格を調べるのも、ガンダムの設定の矛盾を調べるのも、俺は楽しい。
ただ、それが誰かの役に立つかもしれないという状況は、たぶん初めてだった。
そこまで考えて、俺は自分の考えが気持ち悪くなって、パソコンの電源を落とした。
翌日の放課後、俺は駅前のファミレスにいた。
「カナリア」という名前の店で、駅前のロータリーに面した二階建ての一階にある。
全国チェーンではないが、県内と都内にそこそこ店舗がある中堅どころで、看板には黄色い小鳥の絵が描いてある。
高校生がドリンクバーだけで何時間も粘ることで有名な店でもあり、放課後は桜堤高校の制服でいっぱいになる。
早川は、ここでアルバイトをしている。
昼休みに渡り廊下でそう聞かされた。
表ができたと言ったら、「じゃあ今日バイトだから、カナリア来て。休憩のとき見る」と言われた。
俺は行くとも行かないとも言わなかったが、来ていた。
入り口のドアを開けると、ドアの上の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ、カナリアへようこそ。何名様ですか」
出迎えたのは、早川だった。
白いブラウスに黄色いエプロン、黒いスカート。
髪は後ろでひとつにまとめていて、耳の横の茶色い毛が少しだけほつれていた。
アイメイクは学校と同じだったが、なぜか学校より目立たなかった。
服装のせいかもしれない。
胸元に「はやかわ」とひらがなで書かれた名札がついていた。
「……一人」
「一名様ですね。お煙草はお吸いになりますか」
「吸わない」
「禁煙席へご案内いたします。こちらへどうぞ」
早川は一切の表情を変えずに、俺を窓際の二人席に案内した。
メニューを置き、水の入ったグラスを置き、おしぼりを置いた。
全部の動作に無駄がなかった。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンでお呼びください」
そう言って、早川は一礼して去っていった。
俺はしばらく、早川の背中を見ていた。
別人だった。
いや、同じ人間なのはわかっている。
顔も声も同じだ。
だが、学校で「オタクくん」と呼んでくる女と、今メニューを置いていった店員は、まるで違う生き物のように見えた。
仕事中は普通に仕事をする。
当たり前のことなのに、俺はそれを予想していなかった。
早川はどこにいても早川のままだと、勝手に思っていた。
ボタンを押した。
来たのは早川ではなく、大学生くらいの女の店員だった。
背が高く、眼鏡をかけていて、名札には「みやうち」とあった。
「ご注文お伺いします」
「ドリンクバーで」
「ドリンクバーおひとつですね。グラスはあちらにございます」
宮内さんは、俺の制服を一瞥してから、ほんの少しだけ目を細めた。
桜堤の制服でドリンクバー単品。
長居する気だろう、という目だった。
実際、長居する気だった。
俺はドリンクバーでウーロン茶を注ぎ、席に戻った。
鞄からクリアファイルを出して、昨夜印刷した紙を並べた。
表計算ソフトの表を、必要な部分だけ抜き出して印刷したものだ。
A4で八枚になった。
窓の外を、桜堤の制服を着た連中が何人も通り過ぎていった。
何人かは店に入ってきた。
入ってきた連中のうち、二人は同じクラスだった。
俺はクリアファイルで紙を隠した。
二人は俺に気づかなかった。
気づかれないことには慣れている。
二杯目のウーロン茶を注いでいるときに、隣に誰かが立った。
「それウーロン茶? 地味」
早川だった。
エプロンをしたまま、ドリンクバーのグラスを手に持っていた。
「休憩?」
「まだ。あと十分。てかオタクくん、ドリンクバーでウーロン茶って何? もっと楽しいのあるじゃん」
「ウーロン茶は楽しい」
「楽しくないって。見てて」
早川は自分のグラスに、メロンソーダを半分注いだ。
それからカルピスのボタンを押して、残りを満たした。
グラスの中で、緑と白が混ざって、薄い黄緑色になった。
「これ。メロンカルピス。鬼うまいから」
「混ぜるのか」
「混ぜんの。ドリンクバーは混ぜてなんぼじゃん」
「店員がそれ言っていいのか」
「店員だから知ってんの」
そう言って、早川はグラスを持ったまま厨房のほうへ消えた。
休憩室に持っていくらしい。
俺は自分のウーロン茶を見た。
地味だった。
地味だが、俺はウーロン茶が好きだ。
席に戻ると、厨房のほうから男の声が聞こえた。
「舞ちゃん、またそれ? 腹壊すよ」
「壊さないって。ゲンさんも飲む?」
「いらねえ。俺は水しか飲まねえの。喉のために」
「バンドやってんのに水だけって逆にロックじゃなくない?」
「水がロックなんだよ」
よくわからない会話だった。
厨房の男は、たぶんゲンさんという名前で、バンドをやっているらしい。
早川は誰とでもああいう調子で話すのだろう。
俺は、学校の外での早川の生活の一部を、わけもなく盗み見ているような気分になった。
十分後、早川がエプロンを外して、俺の向かいに座った。
手にはメロンカルピスのグラスと、店のまかないらしい、皿に乗った小さなドリアがあった。
「休憩十五分だから。早く見せて」
「食べながらでいいのか」
「食べないと死ぬし」
早川はスプーンでドリアをすくいながら、俺が並べた紙を覗き込んだ。
「何これ。数字ばっか」
「書き込みの一覧。日付と時刻と端末と、あと書き方の特徴」
「全部?」
「全部。二千四百十三件」
「二千?」
早川は、スプーンを持った手を止めた。
「全部見たの?」
「見た。というか、表にした」
「いつ?」
「昨日の夜」
「何時まで?」
「……二時」
早川は、俺の顔をまじまじと見た。
それから、吹き出した。
メロンカルピスがこぼれそうになって、慌ててグラスを押さえた。
「ウケる。マジでオタクじゃん。キモ」
「お前が頼んだんだろ」
「頼んだけど、二千件全部とか思わないじゃん。普通もうちょっと手抜くでしょ」
「手を抜いたら意味がない」
「意味あるとかないとかじゃなくて。ウケる、マジで」
早川は笑いながら、それでも紙を一枚ずつめくっていった。
笑ってはいたが、紙を見る目は真剣だった。
ドリアを食べる手は止まっていた。
「で、何がわかったの?」
「まず、PCからの書き込みは全体の二割くらい。残りは携帯」
「へえ。携帯のほうが多いんだ」
「そりゃそうだろ。みんな授業中とか、休み時間に携帯から書いてる」
「授業中に書いてる人いんの?」
「いる。時刻見ればわかる。二時間目の途中とか、普通に書き込みがある」
「マジで? 誰?」
「そこまではわからない」
早川は「ふうん」と言って、紙をめくった。
「で、PCからの書き込みは、時間帯が偏ってる。夕方の六時から七時くらいと、夜の十時から十二時くらい。夕方は、たぶん部活が終わって家に帰ってすぐの奴。夜は、家族が寝た後とか、自分の部屋にパソコンがある奴」
「あの書き込みは十一時四十二分だから、夜のほうだ」
「そう。それで、夜の十一時台にPCから書いてる書き込みだけ抜き出したのが、これ」
俺は六枚目の紙を指さした。
書き込みは六十件ほどに絞られていた。
「この中に、あいつの他の書き込みが混ざってるかもしれない」
「六十件かあ。まだ多いね」
「多い。でも、ちょっと気になることがある」
「何?」
俺は、六枚目の紙の中の、いくつかの行に引いた蛍光ペンの線を指でなぞった。
「夜の十一時台のPCの書き込みのうち、十二件が、平日の月曜から木曜にしかない。金曜と土日には一件もない。しかも、だいたい十一時半から十二時の間に集中してる」
「それって何?」
「わからない。でも、たぶん同じ人間だと思う。同じ曜日に、同じ時間帯に、同じ端末から書いてる」
「金曜と土日は書かないってこと?」
「書かないか、書けないか」
早川はメロンカルピスを一口飲んで、考える顔をした。
「金曜と土日は、パソコン使えないとか?」
「その可能性はある。家族のパソコンで、週末は親が使ってるとか」
「平日の夜だけこっそり使ってるんだ。真面目じゃん」
「真面目なのか、それ」
「平日だけちゃんとしてるって真面目じゃん。あたし平日も週末も関係ないし」
その基準で言えば、俺も真面目ではない。
毎晩二時まで起きている。
「で、その十二件、何書いてんの?」
俺は七枚目の紙を出した。
十二件の書き込みの本文を、全部書き写したものだ。
早川は、それを読んだ。
俺は早川の顔を見ていた。
読んでいる途中で、早川の眉が少しだけ動いた。
「……これ、全部あたしのことじゃん」
そうだった。
十二件のうち、九件が早川についての書き込みだった。
直接名前を出しているものもあれば、「後ろのロッカーの茶髪」「声のでかいあいつ」という書き方をしているものもあった。
内容は、援交の件ほど露骨ではない。
「うるさい」「態度がでかい」「人のこと馬鹿にしてる」「調子乗ってる」どれも、教室のどこかで誰かが小声で言っていそうなことだった。
早川は、紙を机の上に置いた。
「……あたし、こんなに嫌われてたんだ」
その言い方には、落ち込んでいる響きがあまりなかった。
驚いている、という感じに近かった。
「嫌われてるっていうか、一人の人間がしつこく書いてるだけだ。少なくとも、俺はそう思う」
「一人で十二件?」
「十二件のうち九件。一か月で九件だから、それほど多くはない。けど、毎回お前のことしか書いてない。他の話題には一切触れてない」
「……なんで?」
「それがわかったら苦労しない」
早川は、しばらく黙ってメロンカルピスのストローを噛んでいた。
ストローの先が平たくなっていた。
「人のこと馬鹿にしてる、って書いてある」
「書いてあるな」
「あたし、人のこと馬鹿にしてないけど」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
昨日、教室で俺の顔を「オタクっぽい」と言って笑ったのは誰だったか。
だが、あれが馬鹿にしていたのかと聞かれると、それも違う気がした。
早川は、俺を馬鹿にしていなかった。
少なくとも、俺はそう感じなかった。
感じなかったが、同じことを言われて馬鹿にされたと感じる人間がいても、おかしくはない。
「……早川」
「何?」
「最近、誰かに何か言ったか。誰かの持ち物とか、誰かがやってることとかに」
「言った」
即答だった。
「毎日言ってる。かわいいじゃんとか、ウケるとか、ダサいとか。思ったら言うし」
「その中に、言われた側が嫌だったかもしれないこと、ないか」
早川は、少しだけ考えた。
「……わかんない。いっぱい言ってるから」
正直な答えだった。
この女は、自分が言ったことを全部覚えていられるほど、少ない言葉で生きていない。
「舞ちゃん、休憩あと二分ねー」
厨房のほうから、宮内さんの声がした。
早川は「はーい」と返事をして、ドリアの残りを猛烈な勢いで食べ始めた。
三口で皿が空になった。
それからメロンカルピスを飲み干して、立ち上がった。
「オタクくん、この紙もらっていい?」
「いいけど、どうするんだ」
「家で読む。言ったこと、思い出してみる」
早川は紙を八枚まとめて、二つに折った。
それをエプロンのポケットに押し込んだ。
紙の束は大きすぎて、ポケットからはみ出していた。
「てかさ」
去り際に、早川は振り返って言った。
「ドリンクバー、三杯までにしといたほうがいいよ。四杯目いくと、宮内さんに睨まれるから」
「もう睨まれてる」
「じゃあもう遅いね。ウケる」
早川は笑って、エプロンを結び直しながら厨房に戻っていった。
俺は空になったウーロン茶のグラスを見た。
二杯目だった。
三杯目に、メロンカルピスを作ってみた。
甘かった。
思っていたよりずっと甘くて、俺はそれを半分飲んで、残りを諦めた。
会計のとき、レジに立っていたのは宮内さんだった。
宮内さんは、俺の飲み残しのグラスをちらりと見た。
「メロンカルピス、舞ちゃんに教わったでしょう」
「……はい」
「あの子、誰にでも教えるのよ。ほとんどの人は半分残す」
宮内さんはそう言って、お釣りを渡してくれた。
店を出ると、駅前のロータリーはもう暗くなりかけていた。
振り返ると、窓の向こうで早川が、四人家族のテーブルに料理を運んでいた。
子供に何か話しかけられて、笑っていた。
教室で聞くような大声ではなく、店の中だけに届く程度の笑い方だった。
俺は自転車にまたがった。
口の中に、まだメロンカルピスの甘さが残っていた。
その夜、十一時四十分に携帯が震えた。
早川からだった。
件名はなく、本文は長かった。
俺の携帯の画面で四回スクロールしないと最後まで届かない長さだった。
「思い出してみた いっぱいありすぎてムリ でも書いとく」
その下に、箇条書きのような短い文が並んでいた。
「ユッコのペンケースがダサいって言った(ユッコは笑ってた)」
「となりのクラスの男子の髪型がホウキって言った(聞こえてたかも)」
「沼田の寝ぐせ毎日ちがうって言った(本人に)」
「アヤの彼氏の写メ見てサル?って言った(アヤは怒った)」
「数学のプリントの答えうつさせてって言った人に自分でやりなよって言った」
「購買のおばちゃんにパン増やしてって言った」
最後の一件は、悪口ですらなかった。
全部で二十三件あった。
全部、早川が実際に言ったことだった。
言った相手と、そのときの相手の反応まで、括弧で書いてあった。
括弧の中には「笑ってた」「怒った」「無視された」「わかんない」の四種類があった。
「わかんない」が一番多かった。
最後に、一行だけ空いて、こう書いてあった。
「わかんないのがいちばんこわいね」
俺はその一行を、しばらく見ていた。
それから、時計を見た。
十一時四十分。
あの書き込みが書かれたのと、ほとんど同じ時刻だった。
同じ時刻に、書かれた側の人間が、自分が言ったことを思い出して箇条書きにしている。
片方はパソコンの前で、片方は携帯のボタンを親指で押して。
慰めの言葉を打っては、消した。
探すと約束しただけの俺に、何が言えるだろう。
結局、こう打った。
「括弧の中が『わかんない』のやつ、明日全部教えろ。誰に言ったか」
送信して三十秒で返事が来た。
「了解 オタクくん探偵っぽい」
黒い四角がひとつ、文末についていた。
たぶん何かの顔だった。