返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
妹の小春は中学二年で、俺の秘密を知っている数少ない人間のひとりだ。
正確に言えば、家族は全員知っている。
母親は俺の部屋を掃除するときに棚の中身を見ているし、父親は俺が小学生のときに一緒にガンダムのプラモデルを作った張本人だ。
ただ、母親は何も言わないし、父親はもっと何も言わない。
うちの父親は家でほとんど口をきかない。
テレビで野球を見ながら、たまに「おお」と言うくらいだ。
小春だけが、それを口にする。
そして、口にしない代わりに対価を要求する。
「お兄ちゃん、今月の分」
夕飯の後、俺の部屋のドアを開けて、小春は手のひらを差し出した。
中学の体操着のハーフパンツに、どこで買ったのかわからない、猫の顔が大きく描かれたTシャツを着ていた。
髪は肩の上で切りそろえていて、最近は前髪を気にしている。
「先週払っただろ」
「先週は先月の分。今日から今月」
「月の区切りはまだだ」
「五月が来るまでに払わない人は、五月分が倍になります」
「どこの闇金だよ」
「ヤミキンって何?」
「知らなくていい」
小春の要求する口止め料は、毎月五百円か、それに相当するアイスだ。
アイスの場合は、コンビニで売っている一番高いカップのやつと指定がある。
五百円とアイスなら値段はあまり変わらないが、小春はアイスのほうを好む。
「お金は残っちゃうから」という理屈らしい。
残ってはいけない理由はわからない。
この取り決めが始まったのは、去年の秋だった。
俺がバイト代で初めてパソコンのパーツを買い揃えた頃、小春が俺の部屋に入ってきて、組み立て途中のケースと、床に並んだ箱と、その横に積んであった雑誌の山を見た。
雑誌の山の一番上には、ガンダムの特集が組まれたアニメ雑誌が乗っていた。
小春はそれを手に取ってぱらぱらとめくり、俺の顔を見て、「お兄ちゃん、学校でこういうの言ってないでしょ」と言った。
俺は返事をしなかった。
それが返事になった。
「言わないでいてあげよっか」
小春は、にっこり笑った。
妹が初めて俺に対して取引を持ちかけた瞬間だった。
あれから半年、俺は毎月律儀に払い続けている。
冷静に考えれば、小春は俺の高校に通っていないし、俺の同級生とも接点がない。
俺の秘密を言いふらす先がない。
払う必要はないのだ。
だが、小春は中学の友達の兄や姉を通じて、いつどこに話が流れるかわからない。
地元の中学と高校というのは、思っている以上に狭い。
払っておくに越したことはない。
それに、小春が口止め料を受け取るときの顔は、わりと嬉しそうだった。
俺は財布から五百円玉を出して、小春の手のひらに乗せた。
「まいど」
小春は五百円玉を握りしめ、それから俺の机の上のパソコンの画面を見た。
画面には、表計算ソフトの表が表示されていた。
「まだ勉強?」
「勉強だ」
「勉強じゃないじゃん。昨日も同じの見てた」
「今日も勉強だ」
「何の?」
「……統計」
小春は疑わしげな顔をして、それから机の上の携帯に目をやった。
しまった、と思った。
携帯は開いたまま置いてあって、画面には受信メールが表示されていた。
早川からのメールだった。
夕方に来た、「明日わかんないやつリストにして持ってく」という一行のメールだ。
差出人の欄には「早川」と表示されていた。
小春の目が、すっと細くなった。
「早川って誰?」
「クラスメイト」
「女?」
「……関係ないだろ」
「女だ」
小春は、獲物を見つけた猫のような顔をした。
Tシャツの猫と同じ顔だった。
「お兄ちゃんが女とメールしてる」
「事務連絡だ」
「事務連絡に絵文字いっぱいついてるんだけど」
「向こうが勝手につけてるんだ」
「つけてくれてるんだ」
「つけてくれてるとかじゃない。あいつは誰にでもつける」
「あいつ」
小春は、その一語を繰り返した。
繰り返すことで、何かを確信したような顔をした。
「お兄ちゃん、あいつとか言うんだ。女の子のこと」
「普通だろ」
「普通じゃないよ。お兄ちゃん、女の子の名前とか言わないじゃん。そもそも女の子と喋らないじゃん」
そのとおりだった。
反論の余地がなかった。
小春は五百円玉を握った手を、もう一度俺の前に差し出した。
「これ、別料金ね」
「何がだ」
「女とメールしてるの、お母さんに言わない料」
「言われて困ることは何もない」
「じゃあ言っていい? 『お兄ちゃんがクラスの早川さんって女の子とメールしてて、絵文字いっぱいもらってる』って」
「やめろ」
「三百円」
俺は財布から百円玉を三枚出した。
小春は満足げにそれを受け取り、「まいどー」と言って部屋を出ていった。
ドアが閉まる直前、「アイスでもいいよ」という声が聞こえた。
俺は椅子に深く座り直して、溜息をついた。
今月の口止め料は、八百円になった。
自分の部屋にパソコンを置いている高校生は、たぶんクラスに数人しかいない。
俺のパソコンは、バイト代を半年かけて注ぎ込んだものだ。
CPUはAthlon 64の3000+で、ソケット939のマザーボードに載せている。
本当は3200+が欲しかったが、値段の差が見合わないと判断した。
メモリは512メガを二枚。
グラフィックボードはGeForceの6600GTで、これは発売から少し経って値段がこなれてきたところを狙って買った。
ハードディスクは百二十ギガと八十ギガの二台。
電源は安物で、これはいずれ買い替えるつもりでいる。
ケースは前面にファンが二つ、背面に一つ、側面に一つ。
サイドパネルは熱がこもるのが嫌で外したままにしている。
こういうことを、俺は誰にも話したことがない。
話す相手がいないというのもあるが、話したところで伝わらないとわかっているからだ。
ソケット939と聞いて目を輝かせる高校生は、桜堤高校にはたぶんいない。
いたとしても、俺と同じように黙っているだろう。
俺たちは互いの存在に気づかないまま、同じ校舎の中ですれ違っている。
その代わり、俺には2ちゃんねるがある。
自作PC板の、自分と同じマザーボードを使っている人間が集まるスレッド。
そこでは、俺がソケット939の話をしても誰も笑わない。
むしろ、もっと詳しい話が返ってくる。
BIOSのどの設定をいじると安定するか、どのメモリなら相性が出ないか。
名前も顔も知らない人間たちが、深夜に延々とそういうことを書き込んでいる。
俺はそこでも書き込まない。
ただ読む。
読むだけで、俺は自分が一人ではないことを確認できる。
ガンダムの話をしたければ、アニメ板やロボットアニメ板がある。
ガンダムXのスレッドは、放送から十年近く経った今でも細々と続いている。
誰かが今年の一月に出たDVDボックスの値段を嘆き、誰かがレンタルにも降りてくるのを待ち望む書き込みをし、誰かが「Xは打ち切りだったからこそ美しい」と書き、誰かが「打ち切りを美化するな」と返す。
俺はそれを読んで、どちらにも頷く。
ねらー、という言葉がある。
2ちゃんねるに入り浸っている人間を指す言葉だ。
俺は自分のことを、たぶんそう呼ぶのだろうと思っている。
呼ばれたことはない。
誰にも知られていないからだ。
俺はブラウザを切り替えて、桜堤板の二Cスレを開いた。
書き込みは、今日もいつも通り流れていた。
購買の話。
今日の数学の小テストの話。
体育の授業でバスケのゴールに頭をぶつけた奴の話。
誰かが誰かに告白したらしいという噂。
早川の件は、もうほとんど話題に上らなかった。
一日経てば流れる。
それが掲示板だ。
最新の書き込みは、十分前のものだった。
末尾にはdocomoとあった。
「てかさ、このスレ見てる奴って実際何人くらいいんの?」
それに対して、三件の返事がついていた。
「ノシ」
「ノシ」
「見てるけど書かない派」
俺は、三件目の書き込みを見て、少しだけ笑った。
俺もその派閥に属している。
それから、ふと思いついた。
書き込み欄に、カーソルを合わせた。
桜堤板の書き込み欄は、名前とメールアドレスと本文の三つの欄でできている。
名前を空欄にすれば「名無しの桜堤生」と表示される。
俺は名前を空欄にしたまま、本文の欄に文字を打った。
「早川の件、書いた奴わかったかもしれない」
打ってから、画面を見た。
これを書き込めば、何が起こるか。
書いた本人がこのスレを見ていれば、反応するかもしれない。
焦って言い訳を書き込むかもしれないし、逆に挑発してくるかもしれない。
あるいは、何も書かずに黙るかもしれない。
どれであっても、反応の仕方と時刻で、何かがわかる可能性がある。
釣り、と2ちゃんねるでは言う。
わざと餌を撒いて、反応を見る手法だ。
だが、書き込めば、俺も掲示板の一部になる。
一年以上、読むだけでいると決めてきた。
それには理由があった。
書き込めば、書き込んだ人間として責任が生まれる。
誰が書いたかはわからなくても、書いた事実は消えない。
そして何より、この書き込みは嘘だ。
俺は書いた奴をまだわかっていない。
わかっていないのに「わかったかもしれない」と書くのは、あの援交の書き込みと、本質的には何が違うのか。
それに、もし反応した人間が犯人ではなかったら。
焦って何かを書き込んだのが、まったく無関係の誰かだったら。
その誰かが疑われることになる。
疑われた誰かは、たぶん今の早川と同じように、身に覚えのないことで嫌な思いをする。
カーソルが、送信ボタンの上で点滅していた。
俺は本文の欄の文字を、一文字ずつ消した。
全部消えたところで、ブラウザを閉じた。
ファンの音だけが、部屋に残った。
卑怯なことをしようとしていた、と思った。
そう思えるだけまだましなのかもしれない。
だが、ほんの一瞬でも、それが有効な手だと思った自分がいたことは確かだった。
俺は早川に「探偵っぽい」と言われて、少しいい気になっていたのかもしれない。
いい気になって、自分が一番嫌っているやり方に手を伸ばしかけた。
携帯が震えた。
早川からだった。
「オタクくん何してんの」
何の用件もない、ただの問いかけだった。
俺は少し迷ってから、返信を打った。
「釣りをしようとして、やめた」
「つり? 夜に? どこで?」
「掲示板で」
「よくわかんないけど、やめたならいいんじゃない」
本当によくわかっていない返事だった。
俺は、少しだけ肩の力が抜けた。
「明日、リスト持ってくから。わかんないやつ」
「わかった」
「おやすみオタクくん」
最後の一行の後に、黒い四角が三つ並んでいた。
俺はそれに「おやすみ」と返すべきかどうか、十秒くらい考えた。
考えた末に、何も返さなかった。
返さなくても、早川はたぶん気にしない。
気にしないとわかっていて返さないのは、俺の側の問題だった。
ドアの向こうで、小春が笑う声がした。
テレビの音に混ざってよく聞こえなかったが、たぶんバラエティ番組を見て笑っているのだと思うことにした。
俺の部屋のドアに耳を当てていたとは、思いたくなかった。
翌朝、台所に下りていくと、母親が弁当を詰めていた。
父親はもう出かけた後だった。
テーブルの上に、食べかけのトーストと、読みかけの新聞が残っていた。
「拓也、あんた最近遅くまで起きてるでしょ」
「起きてない」
「起きてるわよ。パソコンの音、二時くらいまでしてたもの」
「……起きてた」
「勉強?」
「統計」
母親は弁当の蓋を閉めながら、ふうんと言った。
「統計って、何の統計?」
「いろいろ」
「いろいろね」
母親はそれ以上聞かなかった。
母親のこういうところは、新井に似ている。
いや、新井が母親に似ているのか。
とにかく、詮索しない人間に囲まれて育ったおかげで、俺は詮索されることに慣れていない。
だから早川のような人間に詮索されると、どう対応していいかわからなくなる。
小春が階段を下りてきた。
パジャマのまま、寝癖のついた前髪を手で押さえていた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おう」
「早川さんによろしくね」
母親の手が止まった。
俺は何も言わずにトーストを口に押し込み、鞄を掴んで玄関に向かった。
「拓也、早川さんって誰?」
母親の声が、背中に追いついてきた。
「クラスメイト!」
それだけ叫んで、玄関のドアを閉めた。
閉めたドアの向こうで、小春が「三百円返す?」と言うのが聞こえた。
返してもらったところで、もう遅い。
自転車を漕ぎながら、俺は今月の口止め料の収支を計算した。
八百円払って、守られたのは五百円分だけだった。
残りの三百円分は、一晩で反故にされた。
闇金のほうがまだ誠実かもしれない。
学校の自転車置き場に着くと、携帯が震えた。
「渡り廊下いる」とだけあった。
行ってみると、早川がもう窓枠に寄りかかって待っていた。
昼休みでもないのに。
「おはよオタクくん。リスト持ってきた」
早川はノートの切れ端を差し出した。
丸い字で、九人の名前と、それぞれに言ったことが書いてあった。
九人目の名前の横には、こう書いてあった。
「北村さん(美術部) 絵見てウケるって言った」
その一行だけ、他の行より字が小さかった。
「これ、何だ」
俺は九人目の行を指さした。
早川はノートの切れ端を覗き込んで、ああ、と言った。
「それね。三月くらいかな。美術室の前通ったら、ドア開いてて、北村さんが絵描いてたの。で、ちょっと見たら、めっちゃ上手くて」
「どんな絵」
「女の子の絵。目がでっかくて、髪がピンクで、なんか、アニメっぽいやつ。オタクくんの棚にありそうな感じの」
俺の棚ではない。
店の棚だ。
訂正しようとして、やめた。
「で、ウケるって言ったのか」
「言った。『え、ウケる、上手すぎじゃない?』って」
「北村は何て」
「何も言わなかった。下向いて、スケッチブック閉じちゃった。だから、わかんない」
早川は、そこで少し黙った。
いつもの早川なら、ここで「ウケる」か「まあいっか」で話を切り上げる。
だが、そうしなかった。
「なんかさ、他のは書きながら思い出したんだけど、これだけ、書いてる途中で急に思い出したの。北村さんがスケッチブック閉じたときの音。ばたんって」
「音」
「うん。あれ、なんか嫌だったなって」
ウケる、という言葉を、俺は頭の中で転がした。
早川にとって「ウケる」は、面白い、いい、すごい、の全部を兼ねた言葉だ。
昨日のファミレスでも、俺が二千件の表を作ったと言ったら「ウケる」と言った。
あれは呆れていたが、馬鹿にはしていなかった。
少なくとも俺はそう受け取った。
だが、それは俺が早川の声と顔をその場で見ていたからだ。
アニメっぽい絵を描いていた美術部の女子が、廊下を通りかかったギャルに「ウケる」と言われる。
その場面を、俺は自分に置き換えてみた。
ガンダムXのビデオを手にしているところを、知らない誰かに見られて、「ウケる」と言われる。
背中に、嫌な汗が浮いた。
「……北村って、家にパソコンあるのか」
「知らない。喋ったことないし」
「書き込みの曜日、覚えてるか。月曜から木曜」
「うん」
「美術部って、活動日いつだ」
早川は少し考えて、首を横に振った。
「知らない。でもアヤが美術の選択だから、聞けばわかるかも」
「聞くな。まだ」
「なんで?」
「まだ何もわかってない。わかってないのに名前を出したら、援交の書き込みと同じになる」
言ってから、昨夜の自分を思い出した。
送信ボタンの上で点滅していたカーソル。
早川は俺の顔を見て、少しだけ首をかしげた。
「オタクくん、なんか今日、真面目だね」
「いつも真面目だ」
「いつもは真面目っていうか、キモい」
「キモいと真面目は両立する」
「するんだ。ウケる」
早川は笑って、ノートの切れ端を俺の手に押しつけた。
「じゃあ、これ預ける。オタクくんが、ちゃんとわかってから教えて」
予鈴が鳴った。
早川は手を振って教室のほうへ走っていった。
俺は切れ端を二つに折って、新書の間に挟んだ。
カバーの下まで新書の、その間に。