返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
人間の書く文章には、指紋がある。
これは俺の発見ではない。
2ちゃんねるのどこかのスレッドで、誰かが書いていたことだ。
自作自演を見破る方法として、文体の癖を見るというのは昔からある手法らしい。
句読点の打ち方、語尾の選び方、改行の位置、笑いを表す記号の種類と数。
どれだけ名前を隠しても、書き方の癖までは隠しきれない。
隠そうとすると、今度は隠そうとした不自然さが癖になる。
俺は、例の十二件の書き込みを、もう一度最初から読み直した。
昼休みの図書室だった。
図書室は昼休みでも人が少なく、奥の閲覧席なら誰にも画面を覗かれない。
といっても、パソコンを持ち込んでいるわけではない。
昨夜、自宅で印刷した紙を持ってきているだけだ。
十二件の書き込みを一件ずつ、A4一枚に一件、拡大して印刷した。
紙が十二枚。
図書室の机に並べると、ちょっとした展示会のようになった。
まず、句読点。
十二件すべてに、句点がある。
文末に、律儀に「。」が打ってある。
これは桜堤板では珍しい。
ほとんどの書き込みは、句点を打たない。
打たずに改行するか、そのまま終わる。
携帯から書く人間は特にそうだ。
句点を打つという行為自体が、掲示板の空気の中では少し浮く。
次に、読点。
十二件のうち十件に、読点がある。
それも、文法的に正しい位置に打ってある。
主語の後、接続詞の後。
教科書通りだ。
笑いの記号。
一件もない。
「w」も「笑」も「(笑)」もない。
顔文字もない。
改行。
二文ごとに一回、改行が入る。
十二件中十一件がそのパターンだった。
語尾。
「〜すぎ。」「〜だと思う。」「〜って知らないのかな。」断定を避けて、少しだけ引いた言い方をする。
だが、引いているぶん、かえって言葉が冷たく聞こえる。
そして、語彙。
俺は七件目の紙を手に取った。
「後ろのロッカーの茶髪、化粧の色の重ね方が雑すぎ。グラデーションって知らないのかな。」
九件目。
「声のでかいあいつ、全体のバランス考えたことないんだと思う。自分だけ彩度高いの、気づいてない。」
十一件目。
「人のこと笑う前に、自分の配色見直したほうがいい。」
グラデーション。
彩度。
配色。
普通の高校生が、悪口を書くときに使う言葉ではない。
いや、使う奴もいるかもしれない。
だが、三件も続けて、色に関する言葉で人を貶すというのは、色について日常的に考えている人間のやり方だと思った。
俺は紙を並べ直して、図書室の天井を見上げた。
蛍光灯が一本、少しだけちらついていた。
閲覧席の斜め向かいに、女子が一人座っていた。
さっきまで気づかなかった。
俺より先に来ていたのか、後から来たのか、それすらわからない。
黒い髪を肩の下で切りそろえていて、制服の着方は規定通りで、膝の上にスケッチブックを広げていた。
机の上には図書室の本が一冊、開かれたまま置いてあったが、本のほうは見ていなかった。
鉛筆を持った手だけが、規則正しく動いていた。
何を描いているのかは見えなかった。
俺の位置からは、スケッチブックの裏側しか見えない。
見えたとしても、覗き込むような真似はしない。
俺だって、自分の紙を覗き込まれたくない。
女子は一度だけ顔を上げて、俺の机の上に並んだ十二枚の紙を見た。
紙は全部、裏返しにしてあった。
女子はすぐにスケッチブックに目を戻した。
俺もすぐに紙に目を戻した。
図書室というのは、そういう不干渉で成り立っている場所だ。
チャイムの五分前に、女子はスケッチブックを閉じて立ち上がった。
閉じるときに、ほとんど音がしなかった。
そっと閉じる癖のある人間なのだと思った。
ここまでは、昨日の夜に半分くらい気づいていたことだ。
今朝、早川が渡してきたノートの切れ端を見てから、それが確信に近いものに変わった。
北村さん、美術部、絵見てウケるって言った。
だが、確信に近いものは、確信ではない。
色の言葉を使う人間は、美術部だけではない。
服が好きな奴も使うし、化粧が好きな奴も使う。
それに、早川の切れ端には九人の名前があった。
北村はそのうちの一人にすぎない。
九件目の行の字が小さかったのは、早川がその件を書きながら何かを感じたからだ。
俺が感じたわけではない。
まだ足りない、と思った。
足りないまま名前を出せば、俺は昨夜の自分に戻ることになる。
その日の放課後、俺はバイトのシフトがない日だったので、家に帰ってパソコンの前に座った。
二Cスレだけを見ていたのが間違いだった、と気づいたのは、夕飯の後だった。
桜堤板には、クラスや部活、購買など、数十本のスレッドがある。
別の場所で、悪口ではないことを、同じ癖で書いているかもしれない。
俺は、桜堤板の全スレッドの過去ログを保存し始めた。
これは二Cスレの比ではなかった。
スレッドの数が多いうえに、それぞれが何百件、何千件と続いている。
全部合わせると、二万件を超えた。
夜の十時から始めて、保存が終わったのは十二時半だった。
そこから、例の条件で絞り込む。
平日の月曜から木曜、夜の十一時台、末尾がPC、句点あり、笑い記号なし、二文ごとに改行。
絞り込みの結果、残ったのは三十一件だった。
そのうち十二件は、もちろん二Cスレの例の書き込みだ。
残りの十九件は、別のスレッドに散らばっていた。
十九件のうち、十四件が同じスレッドにあった。
「文化部雑談スレ」
美術部、吹奏楽部、写真部、文芸部、茶道部。
運動部ではない部活の人間が、とりとめもない話をするためのスレッドだ。
俺は一度も覗いたことがなかった。
帰宅部の俺には関係のない場所だと思っていた。
十四件を、順番に読んだ。
「今日の部活、石膏像のデッサンだった。光の当たり方が難しい。」
「コンクールの締め切りまであと三週間。間に合う気がしない。」
「顧問、色のことはわかってないと思う。言っても無駄。」
「新しいマーカー買った。発色がいい。お小遣いが消えた。」
「デッサン、褒められた。明日も頑張る。」
句点。
正しい位置の読点。
二文ごとの改行。
笑い記号なし。
そして、明らかに美術部の人間の書き込みだった。
俺は、モニターの前でしばらく動けなかった。
指紋が一致した、と思った。
思ったが、その瞬間に感じたのは、達成感ではなかった。
二Cスレの書き込みと、文化部雑談スレの書き込みを並べて読むと、同じ人間が書いているとは思えないほど、温度が違った。
片方は冷たくて、片方は少しだけ楽しそうだった。
「デッサン、褒められた。明日も頑張る。」という一文を読んだとき、俺は書いた人間の顔を知らないのに、その人間が少しだけ嬉しそうに家に帰る姿を想像してしまった。
その同じ人間が、別の日の同じ時刻に、早川のことを「配色を見直したほうがいい」と書いている。
両方とも、同じ人間なのだ。
当たり前のことだった。
掲示板の向こうには、人間がいる。
一人の人間の中に、楽しそうな文章を書く部分と、冷たい文章を書く部分がある。
俺は今まで、掲示板の書き込みを、書き込みとしてしか読んでこなかった。
誰が書いたかわからないものとして、流れていく文字列として。
読むだけの人間でいるというのは、そういうことだった。
だが、今、俺はその向こうにいる人間を探している。
探して、見つけたら、どうなるのか。
早川は「文句言う」と言っていた。
「なんで書いたのか聞く」と。
その人間は、デッサンを褒められて、明日も頑張ると書いた人間だ。
俺はブラウザを閉じかけて、もう一度開いた。
十四件の中に、一件だけ、他と違う書き込みがあった。
日付は三月の半ば。
春休みの直前だった。
「描いてる途中の絵を、知らない人に見られた。笑われた。もう美術室のドアは閉めて描く。」
笑い記号はなかった。
句点があった。
二文ごとの改行もあった。
俺はその一件を、長い時間見ていた。
三月。
早川の切れ端には、「三月くらいかな」と書いてあった。
美術室の前。
ドアが開いていた。
目のでかい、ピンクの髪の女の子の絵。
ウケる、上手すぎじゃない。
早川は笑っていなかった。
少なくとも、早川の主観では。
上手いと思って、上手いと言った。
だが、ドアを閉めた側にとっては、それは笑われたことになっていた。
ウケる、という言葉が、そういうふうに届いた。
どちらが正しいとか、間違っているとかではない、と思った。
いや、思おうとした。
援交の書き込みは、どう考えても間違っている。
してないことを書いて、それが本当みたいになるのは、早川の言うとおりムカつくことだ。
だが、その書き込みの手前には、この一件があった。
翌日、俺は職員室の前の掲示板を見に行った。
ネットの掲示板ではない。
コルクボードに画鋲で紙が留めてある、物理的な掲示板だ。
そこに、各部活の活動予定表が貼ってある。
部活に入っていない俺は、一年間で一度もこれを見たことがなかった。
美術部の活動日は、月曜から木曜だった。
金曜は休み。
土日は、コンクール前だけ。
書き込みが月曜から木曜にしかない理由は、これだけでは説明がつかない。
部活の日に家で書き込む理由と、部活のない日に書き込まない理由は、別に何かあるのだろう。
だが、それは俺が探るべきことではない気がした。
人の家の、パソコンの使い方の事情まで暴く権利は、たぶん誰にもない。
予定表の下には、部員の名簿が小さく貼ってあった。
二年生は四人。
そのうちの一人が、北村千尋だった。
クラスは二年B組。
隣のクラスだ。
俺はその名前を見て、それから自分の足元を見た。
指紋は一致した。
九割方、間違いないと思う。
だが、残りの一割を埋める方法を、俺は持っていなかった。
北村が家のパソコンで夜の十一時台に書き込んでいる証拠を、俺は手に入れることができない。
手に入れようとすれば、それこそ人の家を暴くことになる。
九割で、名前を出していいのか。
一割の可能性で、無関係の誰かを犯人にしてしまうとしたら。
昨夜のことを思い出した。
文化部雑談スレを読み終えたのは、午前一時を過ぎた頃だった。
眠れる気がしなくて、俺は専用ブラウザでガンダムXのスレッドを開いた。
誰かが「ガロードみたいに一途になりたい人生だった」と書いていて、誰かが「なれよ」と返していた。
俺はそれを読んで、少しだけ息がしやすくなった。
名前も顔も知らない人間たちの、どうでもいいやり取りが、そのときの俺には必要だった。
部屋のドアが軽く叩かれたのは、そのすぐ後だった。
開けると、父親が立っていた。
パジャマの上にカーディガンを羽織って、麦茶の入ったコップを二つ持っていた。
「まだ起きてたのか」
「……うん」
「明日も学校だろ」
「うん」
父親は、片方のコップを俺の机の端に置いた。
モニターには、ガンダムXのスレッドが表示されたままだった。
父親はそれをちらりと見たが、何も言わなかった。
「寝ろよ」
それだけ言って、父親はもう片方のコップを持って廊下に戻っていった。
ドアが閉まる直前、背中越しに、ぼそりと声がした。
「エックスか。地味だったな、あれは」
ドアが閉まった。
俺は麦茶を一口飲んで、それからモニターの電源を切った。
地味だった、という言い方に、悪意はなかった。
うちの父親は、地味なものを地味と言う。
それだけだ。
早川がウケると言うのと、たぶん同じ種類の言葉だった。
同じ言葉でも、言われる側によって届き方は違う。
父親の言葉は、俺には悪くなかった。
俺が父親の声を知っているからだ。
背後で、職員室のドアが開いた。
「森下?」
振り返ると、沼田先生が立っていた。
寝癖は今日、右側が跳ねていた。
「部活の掲示板なんか見て、どうした。入部でも考えてるのか」
「……いえ。ちょっと」
「美術部か?」
先生は俺の視線の先を見て、言った。
俺は答えに詰まった。
「美術部はいいぞ。顧問の先生が穏やかだからな。色のことはあまりわかってないらしいが」
先生は笑って、手に持っていたプリントの束を抱え直した。
「入るなら、二年の北村に話を聞いてみるといい。あいつは真面目だから」
そう言って、沼田先生は廊下を歩いていった。
俺はしばらく、その背中を見ていた。
真面目。
早川が「平日だけちゃんとしてるって真面目じゃん」と言っていたのを思い出した。
真面目な人間が、毎週月曜から木曜の夜の十一時台に、教科書通りの句読点で、人の配色を貶している。
昼休み、渡り廊下に行くと、早川がいちごオレを飲みながら待っていた。
「おっそーい。何かわかった?」
俺は、ポケットの中の印刷した紙に触れた。
文化部雑談スレの、三月の一件。
描いてる途中の絵を、知らない人に見られた。
笑われた。
「……まだ、確定じゃない」
「でも何かわかったんでしょ。顔に書いてある」
「書いてない」
「書いてあるって。オタクくん、隠し事すんの下手じゃん。ガンダムのときもそうだったし」
俺は少し考えて、それから紙を出した。
全部ではなく、文化部雑談スレの十四件だけを。
早川が読んでいる間、俺は窓の外の中庭を見ていた。
今日はバレーボールではなく、誰かがキャッチボールをしていた。
早川は、全部読み終えて、最後の一件のところで指を止めた。
「……これ、あたしだ」
早川の声は、いつもより低かった。
「北村さんだよね。これ書いたの」
「九割はそうだと思う。でも、一割はわからない」
「九割でいいよ」
「よくない」
俺は自分でも驚くくらい、強い声で言った。
早川が顔を上げた。
「九割で名前出して、違ってたら、そいつはお前と同じ目に遭う。してないことで責められる。それをやったら、あの書き込みと同じだ」
早川は、俺の顔をじっと見た。
それから、紙に目を戻した。
描いてる途中の絵を、知らない人に見られた。
笑われた。
もう美術室のドアは閉めて描く。
「……じゃあ、どうすんの」
「本人に、名乗ってもらうしかない」
「どうやって?」
俺は答えを持っていなかった。
持っていなかったが、昨夜、送信ボタンの上で点滅していたカーソルのことを思い出していた。
嘘の釣り針は撒かないと決めた。
だが、嘘ではない釣り針なら。
早川は、紙を丁寧に二つに折って、それから言った。
「あたし、ウケるって、褒めたつもりだったんだよね」
「知ってる」
「知ってんの?」
「聞いたから。昨日」
早川は、少しだけ笑った。
いつもの大声ではなかった。
「そっか」
それから、早川は窓枠から腰を上げた。
「じゃあ、謝りに行く」
「待て」
「なんで? 北村さんが書いたかどうかと、あたしが謝んのって、関係なくない?」
正論だった。
早川が北村を傷つけたかもしれないことと、北村が書き込みをしたかどうかは、別の話だ。
書き込みの犯人でなかったとしても、早川の「ウケる」でスケッチブックを閉じた事実は変わらない。
「関係ない。関係ないけど、今行ったら、関係あるように聞こえる」
「どういうこと?」
「掲示板で騒いでる最中に、急にお前が謝りに来たら、北村はどう思う。なんで今なんだって思うだろ。なんで今、わざわざ三月のことをって。それで、ばれたんだって思う。ばれたと思ったら、謝られてるんじゃなくて、責められてるのと同じだ」
早川は眉を寄せた。
「めんどくさ」
「めんどくさいんだよ、人間は」
「オタクくんが言うと、なんか説得力あるね」
「どういう意味だ」
「めんどくさい人代表だから」
反論できなかった。
早川は窓枠に座り直して、いちごオレのストローを噛んだ。
「じゃあ、北村さんが自分から言ってくれるの待つってこと?」
「待つだけじゃ、たぶん来ない。だから、来やすくする」
「どうやって?」
「……少し考えさせてくれ」
早川は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ふっと笑った。
「わかった。待つ。オタクくんが考えるの」
チャイムが鳴った。
早川は紙をカーディガンのポケットに入れて、走っていった。
俺はいちごオレの空きパックが窓枠に残っているのを見つけて、それを拾って捨てた。
二度目だった。
今度は、誰かに見られていてもいいと思った。