返却期限は守りましょう   作:平成塵芥

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第7話 延滞金三千二百円

掲示板に書き込む文面を考えるのに、三日かかった。

三日かかったのは、俺が考えすぎたからではない。

考えすぎたのは事実だが、それ以上に、早川と俺の間で、文面の方針がまったく噛み合わなかったからだ。

月曜の夜、俺は最初の案をメールで送った。

「早川です。先日の書き込みについて、書いた方に伝えたいことがあります。もし以前、私の発言で不快な思いをさせていたのであれば、お詫びします。ただし、事実と異なる内容を書かれることについては、看過できません。」

返事は、一分で来た。

「誰これ あたしじゃなくない?」

黒い四角が三つついていた。

たぶん笑っていた。

「お前の名前で書くんだから、ちゃんとした文章のほうがいい」

「ちゃんとしてたら逆にあやしくない? あたし看過とか言わないし」

「じゃあ何て言う」

「スルーできない」

俺は携帯を握ったまま、しばらく天井を見ていた。

早川の言うことは正しかった。

この文章を早川の名前で書き込んだら、誰が読んでも早川が書いたものだとは思わないだろう。

北村が読んでも、思わない。

思わなければ、意味がない。

火曜の夜、早川から案が来た。

「援交とか書いたやつ出てこい マジでムカつく してないし あとなんか前に言ったならごめん」

俺は即座に返信した。

「順番が逆」

「順番?」

「ごめんが最後に来てる。先に聞こえたほうで決まるって話しただろ」

「あ、そっか」

そこから、十二通のメールのやり取りがあった。

早川が書いて、俺が直して、早川が「キモい」と言って直し返して、俺が「それだと伝わらない」と言って直す。

早川の言葉と俺の言葉の、ちょうど中間を探る作業だった。

途中で早川が「もうオタクくんが書いてよ」と言い、俺が「お前の言葉じゃなきゃ意味がない」と返し、早川が「めんどくさ」と言った。

めんどくさいのは俺も同意見だった。

結局、火曜の夜には決まらなかった。

水曜の朝、教室で、早川が練習をしていた。

何の練習かは、すぐにわかった。

ユッコが新しいペンケースを机に出したとき、早川はそれを手に取って、真剣な顔で言った。

「かわいすぎて、ウケる」

一語ずつ区切っていた。

区切りすぎて、なにかの宣誓のようになっていた。

ユッコは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「何それ、舞。ロボット?」

「順番の練習」

「順番?」

「かわいいが先。ウケるが後」

「意味わかんないんだけど」

ユッコは笑いながらも、ペンケースを嬉しそうに受け取った。

早川は満足げに頷いた。

それから、アヤの爪を見て「きれいすぎて、ウケる」と言い、隣の席の男子のシャーペンを見て「ごつすぎて、ウケる」と言い、黒板の日付を見て「……水曜すぎて、ウケる」と言った。

最後のはもう何の意味もなかった。

アヤが机に突っ伏して笑っていた。

何人かの男子もつられて笑っていた。

俺は新書を開いたまま、その一部始終を見ていた。

早川と目が合った。

早川は、親指を立てた。

俺は、目を逸らした。

逸らしたが、口の端が勝手に上がるのは止められなかった。

前の席の新井が、振り返って俺の顔を見て、何も言わずにまた前を向いた。

順番を意識しすぎて、ウケるの前に置く言葉が全部おかしくなっている。

それでも、少なくとも今の早川の「ウケる」を、馬鹿にしていると受け取った人間は、教室にはいなかったと思う。

水曜は、俺のバイトの日だった。

早川は「じゃあポラリス行く。直接話したほうが早いし」とメールしてきた。

直接話したほうが早いのは確かだが、バイト中に来られても困る。

困ると返信したが、返事は来なかった。

来なかったということは、来るということだった。

 

夜の七時半、ポラリスの自動ドアが開いて、早川が入ってきた。

制服のままだった。

カーディガンの袖を手の甲まで下ろして、片手に携帯を持っていた。

ストラップの束が、店内の静けさの中でしゃらしゃらと鳴った。

レジにいた香坂さんが、俺のほうを見て、にやりと笑った。

「森下くん、お客さん」

「客じゃないです」

「客でしょ。レンタル屋に来てるんだから」

早川はまっすぐレジに来て、香坂さんに向かってぺこりと頭を下げた。

「こんばんはー。オタク……森下くん、借りていいですか」

「どうぞどうぞ。今、暇だから」

香坂さんは、俺の意見を聞かずに許可を出した。

俺は返却カゴを抱えたまま、早川をアニメの棚の奥まで連れていった。

ここなら、レジからは見えない。

見えないが、声は聞こえる。

香坂さんは、たぶん聞いている。

「バイト中だって言っただろ」

「暇って言ってたじゃん、あのお姉さん」

「香坂さんは暇でも、俺は暇じゃない」

「カゴ持ってるだけじゃん」

「カゴを持ってるのが仕事なんだよ」

早川は、俺の抱えたカゴの中を覗き込んだ。

今日の中身は、ジブリが三本と、名作劇場が二本と、エヴァンゲリオンの劇場版が一本だった。

「これ全部戻すの?」

「戻す」

「手伝う?」

「客は手伝わない」

「客じゃないって言ってたじゃん」

言い返せなかった。

早川は、俺の言葉を使って俺を追い詰めるのがうまい。

わざとやっているのか、天然なのか、俺にはまだ判断がつかなかった。

棚に一本ずつ戻しながら、俺は言った。

「で、文面」

「あ、そうそう。考えてきた」

早川は携帯を開いた。

画面には、未送信のメールの下書きが表示されていた。

「読むね。『早川です。援交のやつ書いた人へ』」

「待て。声がでかい」

「でかくないって」

「援交のやつ、を店内で言うな」

早川は、少しだけ声を落とした。

ほんの少しだけだった。

「『早川です。援交のやつ書いた人へ。まず、もし前にあたしが何か言って、嫌な思いさせてたなら、ごめん』」

俺は、ジブリのケースを持ったまま、手を止めた。

「……続けて」

「『あたし、ウケるって言いすぎるから、褒めてても笑ってるみたいに聞こえるらしい。でも、してないこと書かれるのはやだ』」

ごめんが先に来ていた。

理由も入っていた。

そのうえで、言いたいことも入っていた。

「『言いたいことあるなら、直接言いにきて。怒んないとは言えないけど、ちゃんと聞く』」

怒らないとは言えない。

俺が書いたら、絶対に入れない一文だった。

入れたら、相手が来にくくなる。

だが、早川が書くと、それが嘘のない言葉に聞こえた。

怒らないと書いて、本当は怒るよりも、ずっと誠実だった。

「『木曜の放課後、渡り廊下にいる』。で、終わり。どう?」

早川は、携帯から顔を上げて俺を見た。

俺は、エヴァの劇場版のケースを棚に戻して、少し考えた。

「……『らしい』が、いい」

「らしい?」

「褒めてても笑ってるみたいに聞こえる、らしい。お前が自分で気づいたんじゃなくて、人から言われて知ったってことが伝わる。言われて、受け止めたってことが」

「ユッコに言われたからね」

「それでいい。そのままでいい」

「マジで? 直すとこない?」

「ない」

早川は、ぱっと顔を明るくした。

「やった。オタクくんに勝った」

「勝ち負けじゃない」

「勝ちだって。オタクくんの文章より、あたしの文章のほうがいいってことでしょ」

否定できなかった。

早川は嬉しそうに携帯を閉じた。

ストラップが鳴った。

 

文面の件が片付くと、早川は急に店内を見回し始めた。

「てかさ、せっかく来たし、何か借りよっかな」

「借りればいい」

「何がいいと思う?」

「知らない。好きなもの借りろ」

「アヤが言ってたやつ。下妻なんとか」

「『下妻物語』か」

「それ! 知ってんの?」

「去年の映画だ。DVDは去年の暮れに出た。邦画の新作の棚の、隣の準新作の棚にある」

「すご。全部覚えてんの?」

「棚の場所は覚えてる。働いてるから」

早川は「へえ」と言って、準新作の棚に歩いていった。

俺もカゴを置いて、後をついていった。

店員として、案内するのは仕事の範囲内だと自分に言い聞かせた。

『下妻物語』は、三本あるうちの二本が貸し出し中で、一本だけ残っていた。

ピンクのフリルのドレスを着た女と、特攻服を着た女が、田んぼの真ん中に並んで立っているパッケージだ。

「これこれ。ヤンキーとロリータのやつでしょ」

「そう」

「借りる」

早川はパッケージを抱えて、レジに向かった。

俺はアニメの棚に戻ろうとした。

その背中に、香坂さんの声が聞こえた。

「早川さん、会員証お願いします」

「あ、はい」

財布を開く音。

カードを出す音。

香坂さんがカードをリーダーに通す音。

そして、短い電子音。

「……あー。ごめんなさい、これ、止まってますね」

「止まってる?」

「延滞金が残ってるみたい。三千二百円」

俺は、思わずレジのほうを振り返った。

早川は、カードを受け取りながら、あー、と言っていた。

驚いている様子はなかった。

どちらかというと、思い出したという顔だった。

「あれかー。去年のやつ」

「去年の十月に、ドラマのDVDを四枚。返却が二週間遅れてて、そのうち一枚はケースが破損してたので、その分も含めて」

「ケース、弟が踏んだんですよね」

「そうなんですね」

香坂さんは、営業用の笑顔で頷いていた。

「お支払いいただければ、今日から使えますけど」

「三千二百円かあ」

早川は財布の中を覗き込んだ。

それから、レジ横の時計を見て、なぜか天井を見た。

「三千二百円あったら、カラオケ四回行けますよね」

「行けますね」

「じゃあいいです。払わないです」

香坂さんは、ほんの一瞬だけ笑顔を崩しかけた。

崩しかけたが、崩さなかった。

プロだった。

「……わかりました。じゃあ、こちらは」

「あ、待って」

早川は、パッケージを持ったまま、くるりとこちらを振り返った。

俺は嫌な予感がした。

嫌な予感は、だいたい当たる。

「オタクくーん」

店内に、声が響いた。

「オタクくんの会員証で借りて」

「なんで俺が」

「だってあたしの止まってるし」

「払えばいい」

「三千二百円だよ?」

「お前の延滞金だろ」

「そうだけど。カラオケ四回だよ?」

「カラオケの回数で換算するな」

早川は、パッケージを胸に抱えて、俺の前まで来た。

それから、少しだけ首をかしげた。

「だめ?」

ポラリスで初めて会ったとき、早川は「やんないの?」と聞いた。

渡り廊下で、犯人探しを頼んだときも。

この女は、頼み事をするときに、こちらを追い詰めない。

ただ、純粋に聞く。

いいのか、だめなのか。

だめと言えば、たぶん「ふうん」と言って、パッケージを棚に戻すのだろう。

戻せばいい。

戻させればいい。

延滞金を払わない人間に、自分の会員証を貸す義理はない。

俺は、エプロンのポケットから財布を出した。

「……一週間だ」

「何が?」

「レンタル期間。準新作は一週間。来週の水曜までに返せ」

「わかった」

「延滞したら、延滞金は俺の会員証につく」

「うん」

「俺の会員証が止まったら、俺がここで借りられなくなる。従業員が自分の店で借りられないのは、相当恥ずかしい」

「ウケる」

「ウケない」

「わかったって。ちゃんと返すから」

早川は、パッケージを俺に押しつけた。

俺はそれをレジに持っていって、自分の会員証を香坂さんに渡した。

香坂さんは、何も言わずにそれを受け取った。

何も言わなかったが、口の端が明らかに上がっていた。

「森下くん、従業員割引、使う?」

「……使います」

「はーい」

従業員割引で、レンタル料は二百十円が百六十円になった。

早川は百六十円をきっちり俺に払った。

十円玉が六枚混ざっていた。

「ありがと、オタクくん」

「返却は、俺に直接でいい。シフトの日に持ってこい。それか、返却ポストに」

「返却ポストってどこ?」

「店の外。入り口の横。銀色の箱」

「あー、あれか。郵便ポストかと思ってた」

郵便ポストに入れられなくてよかった、と思った。

去年の延滞も、もしかしたらそういう事情だったのかもしれない。

聞かなかった。

早川は、レンタル用のバッグに入った『下妻物語』を、鞄にしまった。

鞄の中は、教科書と、ポーチと、雑誌と、プリクラの台紙と、何かのお菓子の袋で、ほぼいっぱいだった。

DVDのケースは、その隙間に斜めに押し込まれた。

ケースが割れないか、少し心配になった。

去年の弟の件が頭をよぎった。

「じゃ、明日、渡り廊下ね。書き込むの、今夜でいい?」

「今夜でいい」

「オタクくんも見ててね」

「見てる」

「なんかあったら、すぐメールして」

「わかった」

早川は手を振って、自動ドアから出ていった。

ドアが閉まる直前、ストラップの音が最後にもう一度だけ聞こえた。

店内は、急に静かになった。

モニターでは、野沢店長の今夜の映画が流れていた。

今夜はイタリアの映画らしかった。

店長は丸椅子に座って、画面を見たまま言った。

「森下くん、延滞金三千二百円って、結構な額だよね」

「……聞こえてましたか」

「聞こえるよ。この店、狭いもの」

店長は、モニターから目を離さなかった。

「ああいうお客さんはね、だいたい二通りなんだよ。もう二度と来ない人と、なぜかまた来る人。払わないで、また来る人」

「どっちが多いですか」

「来ない人のほうが多い。でも、来る人のほうが、店にとっては大事」

「延滞金を払わないのに、ですか」

「払わないのに来るっていうのは、それでもこの店に用があるってことだからね」

店長は、ようやくこちらを見た。

「君の会員証で借りていったってことは、君が返さなきゃいけないってことだよ。わかってる?」

「わかってます」

「なら、いいけど」

店長は、またモニターに目を戻した。

香坂さんが、レジの中でくすくす笑っていた。

「森下くん、延滞されたら、私が電話してあげようか。森下くんの彼女さんですかって」

「彼女じゃないです」

「彼女じゃない子に会員証貸すんだ」

「……客です」

「さっきは客じゃないって言ってたけど」

香坂さんも、俺の言葉で俺を追い詰めるのがうまかった。

この店には、そういう人間しかいないのかもしれない。

 

その夜、十一時過ぎに、桜堤板の二Cスレに一件の書き込みがあった。

名前の欄には、「早川舞」とあった。

名無しではなかった。

名前を出して書き込む人間は、桜堤板ではほとんどいない。

本文は、ポラリスで読み上げられたものと、一字一句同じだった。

末尾には、「au」と表示されていた。

俺は自分の部屋のモニターの前で、その書き込みを三回読んだ。

それから、書き込みの下に、何か反応がつくのを待った。

一件目の反応は、四分後についた。

「本人降臨キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」

二件目は、その一分後。

「ガチで名前出してて草」

三件目。

「早川かっけえ」

四件目。

「てか褒めてても笑ってるみたいって自覚あったんだ」

五件目。

「いや言われて知ったって書いてあるだろ」

俺は、五件目を読んで、少しだけ笑った。

らしい、の部分を、ちゃんと読んだ奴がいる。

反応は、そこから少しずつ増えていった。

からかうもの、面白がるもの、応援するもの、どうでもいい雑談に戻っていくもの。

いつもの掲示板の流れだった。

だが、夜の十一時台に、PCからの書き込みは、一件もなかった。

十二時を回っても、なかった。

俺は、ケースのサイドパネルの外れたパソコンの前で、ファンの音を聞きながら、モニターを見続けた。

携帯が震えた。

早川からだった。

「どう? 何か来た?」

俺は、少し迷ってから返信した。

「まだ来てない。でも、読んではいると思う」

「なんでわかんの?」

「なんとなく」

「オタクくんがなんとなくって言うの珍しくない?」

確かに珍しかった。

俺は根拠のないことは言わない主義だ。

だが、今回は根拠がなかった。

月曜から木曜の夜の十一時台に書き込んでいた人間が、水曜の今夜、何も書き込んでいない。

それだけだった。

本人の書いた一行は、消えていなかった。

読んで、次の言葉を探しているのかもしれない。

俺はそう思った。

思いたかったのかもしれない。

「明日、渡り廊下で待とう」

送信して、パソコンの電源を落とした。

部屋が暗くなって、窓の外が見えた。

月は、雲に隠れていた。

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