返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
掲示板に書き込む文面を考えるのに、三日かかった。
三日かかったのは、俺が考えすぎたからではない。
考えすぎたのは事実だが、それ以上に、早川と俺の間で、文面の方針がまったく噛み合わなかったからだ。
月曜の夜、俺は最初の案をメールで送った。
「早川です。先日の書き込みについて、書いた方に伝えたいことがあります。もし以前、私の発言で不快な思いをさせていたのであれば、お詫びします。ただし、事実と異なる内容を書かれることについては、看過できません。」
返事は、一分で来た。
「誰これ あたしじゃなくない?」
黒い四角が三つついていた。
たぶん笑っていた。
「お前の名前で書くんだから、ちゃんとした文章のほうがいい」
「ちゃんとしてたら逆にあやしくない? あたし看過とか言わないし」
「じゃあ何て言う」
「スルーできない」
俺は携帯を握ったまま、しばらく天井を見ていた。
早川の言うことは正しかった。
この文章を早川の名前で書き込んだら、誰が読んでも早川が書いたものだとは思わないだろう。
北村が読んでも、思わない。
思わなければ、意味がない。
火曜の夜、早川から案が来た。
「援交とか書いたやつ出てこい マジでムカつく してないし あとなんか前に言ったならごめん」
俺は即座に返信した。
「順番が逆」
「順番?」
「ごめんが最後に来てる。先に聞こえたほうで決まるって話しただろ」
「あ、そっか」
そこから、十二通のメールのやり取りがあった。
早川が書いて、俺が直して、早川が「キモい」と言って直し返して、俺が「それだと伝わらない」と言って直す。
早川の言葉と俺の言葉の、ちょうど中間を探る作業だった。
途中で早川が「もうオタクくんが書いてよ」と言い、俺が「お前の言葉じゃなきゃ意味がない」と返し、早川が「めんどくさ」と言った。
めんどくさいのは俺も同意見だった。
結局、火曜の夜には決まらなかった。
水曜の朝、教室で、早川が練習をしていた。
何の練習かは、すぐにわかった。
ユッコが新しいペンケースを机に出したとき、早川はそれを手に取って、真剣な顔で言った。
「かわいすぎて、ウケる」
一語ずつ区切っていた。
区切りすぎて、なにかの宣誓のようになっていた。
ユッコは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「何それ、舞。ロボット?」
「順番の練習」
「順番?」
「かわいいが先。ウケるが後」
「意味わかんないんだけど」
ユッコは笑いながらも、ペンケースを嬉しそうに受け取った。
早川は満足げに頷いた。
それから、アヤの爪を見て「きれいすぎて、ウケる」と言い、隣の席の男子のシャーペンを見て「ごつすぎて、ウケる」と言い、黒板の日付を見て「……水曜すぎて、ウケる」と言った。
最後のはもう何の意味もなかった。
アヤが机に突っ伏して笑っていた。
何人かの男子もつられて笑っていた。
俺は新書を開いたまま、その一部始終を見ていた。
早川と目が合った。
早川は、親指を立てた。
俺は、目を逸らした。
逸らしたが、口の端が勝手に上がるのは止められなかった。
前の席の新井が、振り返って俺の顔を見て、何も言わずにまた前を向いた。
順番を意識しすぎて、ウケるの前に置く言葉が全部おかしくなっている。
それでも、少なくとも今の早川の「ウケる」を、馬鹿にしていると受け取った人間は、教室にはいなかったと思う。
水曜は、俺のバイトの日だった。
早川は「じゃあポラリス行く。直接話したほうが早いし」とメールしてきた。
直接話したほうが早いのは確かだが、バイト中に来られても困る。
困ると返信したが、返事は来なかった。
来なかったということは、来るということだった。
夜の七時半、ポラリスの自動ドアが開いて、早川が入ってきた。
制服のままだった。
カーディガンの袖を手の甲まで下ろして、片手に携帯を持っていた。
ストラップの束が、店内の静けさの中でしゃらしゃらと鳴った。
レジにいた香坂さんが、俺のほうを見て、にやりと笑った。
「森下くん、お客さん」
「客じゃないです」
「客でしょ。レンタル屋に来てるんだから」
早川はまっすぐレジに来て、香坂さんに向かってぺこりと頭を下げた。
「こんばんはー。オタク……森下くん、借りていいですか」
「どうぞどうぞ。今、暇だから」
香坂さんは、俺の意見を聞かずに許可を出した。
俺は返却カゴを抱えたまま、早川をアニメの棚の奥まで連れていった。
ここなら、レジからは見えない。
見えないが、声は聞こえる。
香坂さんは、たぶん聞いている。
「バイト中だって言っただろ」
「暇って言ってたじゃん、あのお姉さん」
「香坂さんは暇でも、俺は暇じゃない」
「カゴ持ってるだけじゃん」
「カゴを持ってるのが仕事なんだよ」
早川は、俺の抱えたカゴの中を覗き込んだ。
今日の中身は、ジブリが三本と、名作劇場が二本と、エヴァンゲリオンの劇場版が一本だった。
「これ全部戻すの?」
「戻す」
「手伝う?」
「客は手伝わない」
「客じゃないって言ってたじゃん」
言い返せなかった。
早川は、俺の言葉を使って俺を追い詰めるのがうまい。
わざとやっているのか、天然なのか、俺にはまだ判断がつかなかった。
棚に一本ずつ戻しながら、俺は言った。
「で、文面」
「あ、そうそう。考えてきた」
早川は携帯を開いた。
画面には、未送信のメールの下書きが表示されていた。
「読むね。『早川です。援交のやつ書いた人へ』」
「待て。声がでかい」
「でかくないって」
「援交のやつ、を店内で言うな」
早川は、少しだけ声を落とした。
ほんの少しだけだった。
「『早川です。援交のやつ書いた人へ。まず、もし前にあたしが何か言って、嫌な思いさせてたなら、ごめん』」
俺は、ジブリのケースを持ったまま、手を止めた。
「……続けて」
「『あたし、ウケるって言いすぎるから、褒めてても笑ってるみたいに聞こえるらしい。でも、してないこと書かれるのはやだ』」
ごめんが先に来ていた。
理由も入っていた。
そのうえで、言いたいことも入っていた。
「『言いたいことあるなら、直接言いにきて。怒んないとは言えないけど、ちゃんと聞く』」
怒らないとは言えない。
俺が書いたら、絶対に入れない一文だった。
入れたら、相手が来にくくなる。
だが、早川が書くと、それが嘘のない言葉に聞こえた。
怒らないと書いて、本当は怒るよりも、ずっと誠実だった。
「『木曜の放課後、渡り廊下にいる』。で、終わり。どう?」
早川は、携帯から顔を上げて俺を見た。
俺は、エヴァの劇場版のケースを棚に戻して、少し考えた。
「……『らしい』が、いい」
「らしい?」
「褒めてても笑ってるみたいに聞こえる、らしい。お前が自分で気づいたんじゃなくて、人から言われて知ったってことが伝わる。言われて、受け止めたってことが」
「ユッコに言われたからね」
「それでいい。そのままでいい」
「マジで? 直すとこない?」
「ない」
早川は、ぱっと顔を明るくした。
「やった。オタクくんに勝った」
「勝ち負けじゃない」
「勝ちだって。オタクくんの文章より、あたしの文章のほうがいいってことでしょ」
否定できなかった。
早川は嬉しそうに携帯を閉じた。
ストラップが鳴った。
文面の件が片付くと、早川は急に店内を見回し始めた。
「てかさ、せっかく来たし、何か借りよっかな」
「借りればいい」
「何がいいと思う?」
「知らない。好きなもの借りろ」
「アヤが言ってたやつ。下妻なんとか」
「『下妻物語』か」
「それ! 知ってんの?」
「去年の映画だ。DVDは去年の暮れに出た。邦画の新作の棚の、隣の準新作の棚にある」
「すご。全部覚えてんの?」
「棚の場所は覚えてる。働いてるから」
早川は「へえ」と言って、準新作の棚に歩いていった。
俺もカゴを置いて、後をついていった。
店員として、案内するのは仕事の範囲内だと自分に言い聞かせた。
『下妻物語』は、三本あるうちの二本が貸し出し中で、一本だけ残っていた。
ピンクのフリルのドレスを着た女と、特攻服を着た女が、田んぼの真ん中に並んで立っているパッケージだ。
「これこれ。ヤンキーとロリータのやつでしょ」
「そう」
「借りる」
早川はパッケージを抱えて、レジに向かった。
俺はアニメの棚に戻ろうとした。
その背中に、香坂さんの声が聞こえた。
「早川さん、会員証お願いします」
「あ、はい」
財布を開く音。
カードを出す音。
香坂さんがカードをリーダーに通す音。
そして、短い電子音。
「……あー。ごめんなさい、これ、止まってますね」
「止まってる?」
「延滞金が残ってるみたい。三千二百円」
俺は、思わずレジのほうを振り返った。
早川は、カードを受け取りながら、あー、と言っていた。
驚いている様子はなかった。
どちらかというと、思い出したという顔だった。
「あれかー。去年のやつ」
「去年の十月に、ドラマのDVDを四枚。返却が二週間遅れてて、そのうち一枚はケースが破損してたので、その分も含めて」
「ケース、弟が踏んだんですよね」
「そうなんですね」
香坂さんは、営業用の笑顔で頷いていた。
「お支払いいただければ、今日から使えますけど」
「三千二百円かあ」
早川は財布の中を覗き込んだ。
それから、レジ横の時計を見て、なぜか天井を見た。
「三千二百円あったら、カラオケ四回行けますよね」
「行けますね」
「じゃあいいです。払わないです」
香坂さんは、ほんの一瞬だけ笑顔を崩しかけた。
崩しかけたが、崩さなかった。
プロだった。
「……わかりました。じゃあ、こちらは」
「あ、待って」
早川は、パッケージを持ったまま、くるりとこちらを振り返った。
俺は嫌な予感がした。
嫌な予感は、だいたい当たる。
「オタクくーん」
店内に、声が響いた。
「オタクくんの会員証で借りて」
「なんで俺が」
「だってあたしの止まってるし」
「払えばいい」
「三千二百円だよ?」
「お前の延滞金だろ」
「そうだけど。カラオケ四回だよ?」
「カラオケの回数で換算するな」
早川は、パッケージを胸に抱えて、俺の前まで来た。
それから、少しだけ首をかしげた。
「だめ?」
ポラリスで初めて会ったとき、早川は「やんないの?」と聞いた。
渡り廊下で、犯人探しを頼んだときも。
この女は、頼み事をするときに、こちらを追い詰めない。
ただ、純粋に聞く。
いいのか、だめなのか。
だめと言えば、たぶん「ふうん」と言って、パッケージを棚に戻すのだろう。
戻せばいい。
戻させればいい。
延滞金を払わない人間に、自分の会員証を貸す義理はない。
俺は、エプロンのポケットから財布を出した。
「……一週間だ」
「何が?」
「レンタル期間。準新作は一週間。来週の水曜までに返せ」
「わかった」
「延滞したら、延滞金は俺の会員証につく」
「うん」
「俺の会員証が止まったら、俺がここで借りられなくなる。従業員が自分の店で借りられないのは、相当恥ずかしい」
「ウケる」
「ウケない」
「わかったって。ちゃんと返すから」
早川は、パッケージを俺に押しつけた。
俺はそれをレジに持っていって、自分の会員証を香坂さんに渡した。
香坂さんは、何も言わずにそれを受け取った。
何も言わなかったが、口の端が明らかに上がっていた。
「森下くん、従業員割引、使う?」
「……使います」
「はーい」
従業員割引で、レンタル料は二百十円が百六十円になった。
早川は百六十円をきっちり俺に払った。
十円玉が六枚混ざっていた。
「ありがと、オタクくん」
「返却は、俺に直接でいい。シフトの日に持ってこい。それか、返却ポストに」
「返却ポストってどこ?」
「店の外。入り口の横。銀色の箱」
「あー、あれか。郵便ポストかと思ってた」
郵便ポストに入れられなくてよかった、と思った。
去年の延滞も、もしかしたらそういう事情だったのかもしれない。
聞かなかった。
早川は、レンタル用のバッグに入った『下妻物語』を、鞄にしまった。
鞄の中は、教科書と、ポーチと、雑誌と、プリクラの台紙と、何かのお菓子の袋で、ほぼいっぱいだった。
DVDのケースは、その隙間に斜めに押し込まれた。
ケースが割れないか、少し心配になった。
去年の弟の件が頭をよぎった。
「じゃ、明日、渡り廊下ね。書き込むの、今夜でいい?」
「今夜でいい」
「オタクくんも見ててね」
「見てる」
「なんかあったら、すぐメールして」
「わかった」
早川は手を振って、自動ドアから出ていった。
ドアが閉まる直前、ストラップの音が最後にもう一度だけ聞こえた。
店内は、急に静かになった。
モニターでは、野沢店長の今夜の映画が流れていた。
今夜はイタリアの映画らしかった。
店長は丸椅子に座って、画面を見たまま言った。
「森下くん、延滞金三千二百円って、結構な額だよね」
「……聞こえてましたか」
「聞こえるよ。この店、狭いもの」
店長は、モニターから目を離さなかった。
「ああいうお客さんはね、だいたい二通りなんだよ。もう二度と来ない人と、なぜかまた来る人。払わないで、また来る人」
「どっちが多いですか」
「来ない人のほうが多い。でも、来る人のほうが、店にとっては大事」
「延滞金を払わないのに、ですか」
「払わないのに来るっていうのは、それでもこの店に用があるってことだからね」
店長は、ようやくこちらを見た。
「君の会員証で借りていったってことは、君が返さなきゃいけないってことだよ。わかってる?」
「わかってます」
「なら、いいけど」
店長は、またモニターに目を戻した。
香坂さんが、レジの中でくすくす笑っていた。
「森下くん、延滞されたら、私が電話してあげようか。森下くんの彼女さんですかって」
「彼女じゃないです」
「彼女じゃない子に会員証貸すんだ」
「……客です」
「さっきは客じゃないって言ってたけど」
香坂さんも、俺の言葉で俺を追い詰めるのがうまかった。
この店には、そういう人間しかいないのかもしれない。
その夜、十一時過ぎに、桜堤板の二Cスレに一件の書き込みがあった。
名前の欄には、「早川舞」とあった。
名無しではなかった。
名前を出して書き込む人間は、桜堤板ではほとんどいない。
本文は、ポラリスで読み上げられたものと、一字一句同じだった。
末尾には、「au」と表示されていた。
俺は自分の部屋のモニターの前で、その書き込みを三回読んだ。
それから、書き込みの下に、何か反応がつくのを待った。
一件目の反応は、四分後についた。
「本人降臨キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」
二件目は、その一分後。
「ガチで名前出してて草」
三件目。
「早川かっけえ」
四件目。
「てか褒めてても笑ってるみたいって自覚あったんだ」
五件目。
「いや言われて知ったって書いてあるだろ」
俺は、五件目を読んで、少しだけ笑った。
らしい、の部分を、ちゃんと読んだ奴がいる。
反応は、そこから少しずつ増えていった。
からかうもの、面白がるもの、応援するもの、どうでもいい雑談に戻っていくもの。
いつもの掲示板の流れだった。
だが、夜の十一時台に、PCからの書き込みは、一件もなかった。
十二時を回っても、なかった。
俺は、ケースのサイドパネルの外れたパソコンの前で、ファンの音を聞きながら、モニターを見続けた。
携帯が震えた。
早川からだった。
「どう? 何か来た?」
俺は、少し迷ってから返信した。
「まだ来てない。でも、読んではいると思う」
「なんでわかんの?」
「なんとなく」
「オタクくんがなんとなくって言うの珍しくない?」
確かに珍しかった。
俺は根拠のないことは言わない主義だ。
だが、今回は根拠がなかった。
月曜から木曜の夜の十一時台に書き込んでいた人間が、水曜の今夜、何も書き込んでいない。
それだけだった。
本人の書いた一行は、消えていなかった。
読んで、次の言葉を探しているのかもしれない。
俺はそう思った。
思いたかったのかもしれない。
「明日、渡り廊下で待とう」
送信して、パソコンの電源を落とした。
部屋が暗くなって、窓の外が見えた。
月は、雲に隠れていた。