返却期限は守りましょう 作:平成塵芥
木曜日は、朝から雨だった。
五月の雨は、四月の雨より少しだけ重い。
空気の中に、もう夏の匂いが混じり始めている。
自転車で行くのを諦めて、母親に駅前のバス停まで送ってもらった。
母親は車の中で「今日は早川さんとは会うの」と聞いてきた。
俺は「会わない」と答えた。
会う予定だった。
放課後、渡り廊下に行くと、早川はもう来ていた。
いつもの窓枠ではなく、渡り廊下の真ん中あたりに、壁に背中を預けて立っていた。
窓の外は灰色で、雨が中庭の植え込みを叩いていた。
早川は珍しく携帯をいじっていなかった。
両手をカーディガンのポケットに入れて、渡り廊下の入り口のほうを見ていた。
「来た?」
「まだ」
俺は早川から少し離れた壁に、同じように背中を預けた。
渡り廊下は、放課後でもほとんど人が通らない。
特別教室棟に用がある人間しか通らないからだ。
特別教室棟には、音楽室と、理科の実験室と、家庭科室と、美術室がある。
吹奏楽部の楽器の音が、雨音に混じって遠くから聞こえていた。
五分経った。
誰も来なかった。
十分経った。
理科の先生が一人、プリントの束を抱えて通り過ぎていった。
俺たちを一瞥して、何も言わずに去った。
二十分経った。
吹奏楽部の音が、曲の途中で止まって、また最初から始まった。
「来ないね」
早川が言った。
「まだ二十分だ」
「二十分って長くない?」
「長くない」
「オタクくん、待つの得意そう」
「得意だ。ガンダムXのレンタルのDVDを、もう何年も待ってる」
「何それ」
「レンタルはビデオしかないんだよ。他のガンダムはみんなレンタルもDVDになってるのに、Xだけ。DVDは今年の一月にやっと出たけど、全話入りの高いボックスだけで、レンタル屋には降りてこない」
「高いって、いくら?」
「バイト代の何か月分か、考えたくない値段」
「ウケる。なんで、そんな高いのしか出ないの?」
「人気がないから」
早川は、少しだけ笑った。
「オタクくんの好きなやつ、人気ないんだ」
「人気がないことと、いい作品かどうかは関係ない」
「知ってる。言っただけ」
三十分経った。
誰かが渡り廊下の入り口に姿を見せて、俺は思わず背筋を伸ばした。
黒い髪を肩の下で切りそろえた女子だった。
脇に、大きめのスケッチブックを抱えていた。
図書室で見た女子だ、と思った。
女子は、渡り廊下に一歩踏み込んで、俺たちに気づいて足を止めた。
早川を見て、それから俺を見た。
ほんの一秒くらいの間だった。
それから、来た方向に向き直って、早足で戻っていった。
早川が、俺の顔を見た。
「今の」
「……わからない」
「美術室って、こっちだよね」
「こっちだ」
「なんで戻ったんだろ」
俺は答えなかった。
答えられなかった。
美術室に行くなら、渡り廊下を通るのが一番近い。
だが、遠回りして階段を下り、一階の通路から特別教室棟に入る道もある。
雨の日には、少し濡れる道だ。
「追いかける?」と早川が言った。
「やめとけ」
「なんで?」
「来てほしいなら、待つしかない。追いかけたら、来たことにならない」
早川は、しばらく入り口のほうを見ていた。
それから、壁に背中を戻した。
「……オタクくんって、たまにすごいこと言うよね」
「すごくない。当たり前のことだ」
「当たり前のことって、言われないとわかんないじゃん」
それは、確かにそうだった。
一時間経っても、誰も来なかった。
吹奏楽部の音が止んで、校舎の中の気配がまばらになり始めた。
雨は相変わらず降っていた。
「今日は、来ないな」
「来ないね」
早川は、壁から背中を離して、大きく伸びをした。
カーディガンの袖が肘まで落ちた。
「お腹すいた」
「帰れよ」
「オタクくん、バス?」
「バス」
「あたしもバス。駅まで一緒じゃん」
そういうことになった。
バスの中では、ほとんど話さなかった。
雨の日のバスは、桜堤の生徒でいっぱいで、俺と早川は吊り革二つ分離れて立っていた。
早川は窓の外を見ながら、携帯で何かを打っていた。
たぶん、例のネタ帳だった。
駅前で降りると、雨は少しだけ強くなっていた。
「カナリア寄ってこ」
「お前、今日シフトは」
「ない。だから客」
早川は、俺の返事を聞かずに、ロータリーを小走りに渡り始めた。
傘を差していなかった。
カナリアまでは三十メートルくらいだった。
俺は折りたたみ傘を広げて、早川の後を追った。
追いついたときには、もう店の入り口の庇の下だった。
「傘ないのか」
「朝、晴れてたじゃん」
「朝から降ってた」
「家出たときは晴れてたの。うちの家、晴れてたの」
「同じ市内だろ」
「うちのほうは晴れてたんだって」
早川は、濡れた前髪を手で払いながら、ドアを押した。
鈴が鳴った。
出迎えたのは、宮内さんだった。
宮内さんは早川を見て、それから俺を見て、ほんの少しだけ眉を上げた。
「舞ちゃん、今日休みでしょ」
「客でーす。二名でーす」
「……禁煙席へどうぞ」
宮内さんは、俺たちを窓際の二人席に案内した。
案内しながら、早川の濡れた髪を見て、厨房のほうへ消えた。
戻ってきたとき、手には乾いたタオルがあった。
「使いなさい。店のだから、返してね」
「宮内さん優しー」
「優しくない。床が濡れるの」
宮内さんはそう言って、戻っていった。
早川はタオルで髪を拭きながら、ドリンクバーを二つ頼んだ。
早川はメロンカルピスを、俺はウーロン茶を持って、席に戻った。
窓の外では、雨がロータリーを叩いていた。
タクシーが二台並んで、客を待っていた。
バスが一台、水しぶきを上げて出ていった。
早川はタオルを首にかけたまま、メロンカルピスを半分くらい一気に飲んだ。
「はー。生き返った」
「死んでたのか」
「一時間立ってたら死ぬって」
それから、早川は携帯を開いて、何かを打ち始めた。
親指の速さは、教室で見るのと同じだった。
「それ」
「ん?」
「この前、ネタ帳って言ってたやつ」
「ああ、これ?」
早川は、画面をこちらに向けた。
メモ帳の画面だった。
携帯に最初から入っている、何の飾りもないメモ帳だ。
そこに、短い文が、日付もなく、ただ並んでいた。
「体育の笛、毎回音ちがう」
「購買のおばちゃん、メロンパンだけ渡し方がやさしい」
「数学の小テスト、問3だけ答えが全部3」
「バス、雨の日だけ運転手が無口」
「オタクくん、隠してるのに隠してるって言う」
最後の一行で、俺は目を止めた。
「……これ、何に使うんだ」
「ラジオ」
「ラジオ?」
「うん。投稿してんの」
早川は、何でもないことのように言った。
「深夜ラジオ。月曜の夜中の三時からやってるやつ。芸人の」
「芸人の、深夜ラジオ」
「そう。『ネクタイ質屋の深夜査定』っていうの。知ってる?」
「知らない」
「だよね。誰も知らない」
早川は、なぜか嬉しそうに言った。
「ネクタイ質屋っていうコンビでさ。三船っていう人と、大庭っていう人。三船がボケで、声がめっちゃ小さいの。何言ってんのか聞き取れないときある。で、大庭がツッコミなんだけど、ツッコミがめっちゃ長いの。三船が一言ボケると、大庭が一分くらい喋るの」
「それは、面白いのか」
「面白いよ。めっちゃ面白い。でもテレビ出てないの。全然出てない。売れてないから」
「売れてないのに、ラジオやってるのか」
「上沼の局だもん。県内しか入んないやつ。二人とも上沼の出身なんだって。地元の局の、深夜の三時からだもん。誰も聴いてないって、本人たちも言ってる。聴いてるのは、リスナーと、局の人と、トラックの運転手だけだって」
トラックの運転手、という言葉で、俺は早川の父親のことを思い出した。
早川の父親はトラックに乗っていて、ほとんど家にいない。
「で、投稿って」
「コーナーがあんの。『どうでもいい目撃』っていうのと、『それ、いくらで買い取ります?』っていうの。目撃のほうは、日常で見た変なことを送るやつ。買い取りのほうは、なんか物とか、経験とかを送ると、二人が勝手に値段つけるの。『昨日バスで寝過ごして終点まで行った経験』に、三船が『八十円』とか言って、大庭が『安すぎるだろ、終点まで行ったんだぞ、バス代より安いってどういうことだ』って一分喋るの」
早川は、大庭の口調を真似しながら言った。
似ているのかどうかは、聴いたことがないのでわからなかった。
だが、早川が楽しそうなのはわかった。
「今まで読まれた中で、一番よかったやつ、聞きたい?」
「……聞きたいって言わなくても言うだろ」
「言う」
早川は、メロンカルピスを一口飲んで、姿勢を正した。
「『お母さんが働いてるスーパーの試食のおばちゃんが、最近、試食じゃないものまで勧めてきます。昨日は洗剤を勧められました。「これ、すごく落ちるのよ」と言いながら、爪楊枝を持っていました』」
早川は、そこで一拍置いた。
「で、三船が、ぼそっと『食えない』って言うの。それだけ。で、大庭が『そりゃ食えねえよ! 洗剤だもん! 爪楊枝の意味がねえんだよ! いや、意味はあるのか? おばちゃんの中では試食の延長なんだよな、勧めるという行為の象徴としての爪楊枝なんだよ、手放せないんだよ、長年やってきたから! 職人なんだよ!』って、そこから一分半くらい、おばちゃんの人生の話になってくの」
早川は、途中から完全に大庭の声色になっていた。
テーブルを叩くところまで再現していた。
隣の席の主婦が、ちらりとこちらを見た。
「で、最後に三船が『洗剤、いくらだった』って聞いて、大庭が『そこじゃねえよ』って言って終わり」
早川は、満足げに背もたれに寄りかかった。
「……それ、本当にあったことなのか」
「あったよ。お母さんから聞いた。そのおばちゃん、田中さんっていうの。いい人なんだよ」
「田中さんは、自分がラジオで読まれたこと知ってるのか」
「知らないと思う。深夜三時だし」
俺は、少しだけ笑ってしまった。
洗剤と爪楊枝の話にではなく、早川がそれを本当に楽しそうに話すことに。
早川は、俺が笑ったのを見て、もっと嬉しそうな顔をした。
「ね、面白いでしょ」
「……少しは」
「少しって何。めっちゃ面白いじゃん」
早川は不満そうに口を尖らせてから、気を取り直したように携帯を持ち直した。
「で、これは、目撃のほうのネタ」
早川は、携帯の画面をとんとんと指で叩いた。
「こうやってメモっといて、月曜の夜に、まとめてメールで送るの。番組のアドレスに」
「採用されるのか」
「たまに。月に一回とか、二回とか。読まれるとね、名前呼ばれるの。ラジオネームだけど」
「ラジオネーム」
「うん」
早川は、少しだけ得意げな顔をした。
「『ストラップ本体』」
俺は、早川の携帯を見た。
画面の向こう側に、ストラップの束がぶら下がっていた。
キャラクターのマスコット、ビーズの紐、プリクラを挟んだ板、鈴、プラスチックの食べ物。
どちらが本体なのか、判断がつかない。
俺は、初めて早川の携帯を見たときに、そう思った。
「……いい名前だな」
「でしょ? アヤがつけてくれたの。舞の携帯、ストラップのほうが本体じゃんって言われて」
早川は、ストラップの束を手のひらで持ち上げて、じゃらりと鳴らした。
「オタクくんは? ラジオとか聴く?」
俺は、少し迷った。
聴いている。
毎週、決まった番組をいくつか聴いている。
ただし、それはアニメのラジオだ。
声優がパーソナリティをやっている番組で、深夜に流れている。
2ちゃんねるには、そういう番組の実況スレッドもある。
俺はそれを、誰にも言ったことがない。
「……聴く」
「何聴いてんの?」
「アニメのやつ」
「アニメのラジオとかあんの?」
「ある」
「ウケる。何喋ってんの、それ」
「声優が喋ってる」
「声優って、アニメの声の人?」
「そう」
「へえ。それって面白い?」
面白いかと聞かれると、答えに困った。
面白いときもあるし、つまらないときもある。
ただ、俺はそれを毎週聴いている。
聴いていると、自分の好きなものの向こう側に、実際に生きている人間がいることがわかる。
それが、俺には大事だった。
そういうことを説明しようとして、やめた。
また早口になる気がした。
「……面白いときもある」
「ふうん。投稿とかすんの?」
「しない」
「なんで?」
「書き込まないのと同じだ。読むだけ、聴くだけ」
早川は、メロンカルピスのストローを噛みながら、俺の顔を見た。
「オタクくんって、見るだけの人なんだ」
「そうだ」
「でもさ、この前、あたしのために掲示板の文章考えてくれたじゃん。あれは見るだけじゃなくない?」
言い返せなかった。
早川は、俺の返事を待っていた。
自分で触れられたくなかったところに、言葉が当たっていた。
見るだけの人間でいると決めていた。
書き込まないと決めていた。
だが、俺はこの一週間で、二万件の書き込みを読み、二千行の表を作り、文面を十二通のメールで直し、それを早川の名前で書き込ませた。
書き込んだのは早川だが、半分は俺が書いたようなものだ。
見るだけの人間は、もうやめていたのかもしれない。
「……あれは、お前の文章だ」
「あたしの文章だけど、オタクくんがいなかったら書いてないよ」
早川は、何でもないことのように言って、携帯をまた打ち始めた。
「何書いてる」
「ネタ。『オタクくん、見るだけの人なのに見るだけじゃない』」
「送るなよ、それ」
「送るかも」
「送るな」
「わかんない。面白かったら送る」
早川は、笑って携帯を閉じた。
雨は、夜になっても止まなかった。
七時過ぎに店を出て、ロータリーで別れた。
早川の家は駅の南側で、俺の家は北側だった。
早川は宮内さんに借りたタオルを返し忘れたことに気づいて、一度店に戻った。
戻ってきたとき、手には店のビニール傘があった。
「宮内さんが貸してくれた。忘れ物の傘」
「よかったな」
「明日返すの。忘れないようにしなきゃ」
「忘れるだろ」
「忘れないって」
「延滞金三千二百円」
「あれは傘じゃないし」
早川は、ビニール傘を広げて、手を振った。
俺は振り返さなかった。
早川は、気にした様子もなく、雨の中を歩いていった。
ビニール傘の下で、ストラップの束が揺れていた。
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、部屋に戻った。
パソコンの電源を入れ、桜堤板の二Cスレを開いた。
早川の書き込みには、今日一日で三十件ほどの反応がついていた。
大半は面白がるものと、どうでもいい雑談だった。
早川が今日の放課後、渡り廊下で待っていたことを知っている奴もいた。
「早川マジで待ってたぞ」「誰も来なかったっぽい」「そりゃ来ないだろ」誰が見ていたのかはわからなかった。
渡り廊下は誰も通らないと思っていたが、見ている人間はどこにでもいる。
十一時を回った。
俺は、ファンの音を聞きながら、画面を見ていた。
十一時三十分。
何もなかった。
十一時四十分。
画面を更新すると、新しい書き込みが一件増えていた。
名前の欄は、空欄だった。
名無しの桜堤生。
本文は、二行だった。
「直接は、無理です。
でも、読みました。」
句点があった。
読点もあった。
笑い記号はなかった。
二文で改行されていた。
末尾には、「PC」と表示されていた。
俺は、その二行をしばらく見ていた。
直接は、無理です。
でも、読みました。
敬語だった。
早川の文章に、敬語で返していた。
今までの十二件の書き込みには、一度も敬語は使われていなかった。
冷たい言葉でも、楽しそうな言葉でも、全部、常体だった。
敬語は、相手に向けて書くときに使う言葉だ。
この人間は、初めて、掲示板の向こうにいる早川に向けて書いた。
携帯が震えた。
早川からだった。
「見た?」
「見た」
「これ、そうだよね」
「たぶん」
「直接は無理だって」
「無理って書いてある」
「じゃあ、どうしよう」
俺は、少し考えた。
考えて、あの日、渡り廊下の入り口で引き返していった、スケッチブックを抱えた背中のことを思い出した。
来たのに、戻っていった。
直接は無理なのに、来ようとした。
「直接じゃなくても、話す方法はある」
「どんな?」
「明日話す」
「えー、今教えてよ」
「明日」
「ケチ」
黒い四角が、ひとつだけついていた。
何の絵文字なのか、俺にはやっぱりわからなかった。
わからなかったが、たぶん怒っている顔ではないと思った。
窓の外では、まだ雨が降っていた。