麻帆良在住、葛木メディアでございますっ! 作:冬霞@ハーメルン
「―――郎様」
冬もまだ真っ盛りであろう凍える風が吹き付ける野外において尚、男が最初に覚えたのは、どこか暖かいという漠然とした感触だった。
確かに風は間違いなく寒い。冬が長いと言われる街に暮らしていた身がらも、その地域に勝るとも劣らぬ、身を刺すような寒さだ。
横たわっているのも清掃が行き届いているとはいえ、野ざらしの石畳。当然ながら非常に冷たい。
それでいて暖かいという矛盾した感触を抱いたのは、すぐ脇に誰かが寄り添っていたからだろうか。
それとも寄り添っていた彼女が、彼にとって特別な存在であったからだろうか。
実直真面目、寡黙を絵に書いたようなその男に問うても答は返って来ないであろうが、とにかく死の間際にいたはずの彼は自らに呼び掛ける声を聞き付け、虚無を宿した瞳を開いた。
「宗一郎様っ!」
「む、ぅ‥‥」
男は、先程から半ば異界と化しつつある広場においてひどく場違いだった。
来ているのは深い緑色の、最近ではあまり見ない地味なスーツ。
鮮血によって彩られたそれはおそらく、汚れが目立たないからだというだけの理由で購入されたのであろう。
少し離れたところには彼のポケットから零れ落ちたのだろう簡素な眼鏡が転がっているが、それに度は入っていない。
決して平凡ではないが、同時に大勢の中に埋没してしまうぐらいには特徴のない男であった。
俯せであった体は治療のために仰向けにされている。
目を開いた彼の視界に最初に飛び込んで来たのは、一面を涙やら何やらでクシャクシャにしながらも、初めて出会った時と変わらず美しい女の顔であった。
そうか、暖かいと感じたのは、この女がいたからだったのか。
がらんどうの自分が空虚な日々の中で偶然にも見出だした、『自分に意味を与えてくれるかもしれない』存在が、一度は死を実感したこの身に寄り添っている。
それにすら全く波を立てない自分の心にすら感情を覚えることはない。なぜなら自分にそもそも、そういった機能が備わっているのかすら分からないのだ。
情報として読み取った暖かみなのか、心の内から生じた暖かみなのか。それなり以上の年月を生きてきてなお、判断できる程の経験を有していない。
その男は、自分でもそう感じてしまう程に人間味を持ち合わせていなかった。
否、確かに男は人間であった。俗に『人形のようだ』と形容されるような人物ではない。
彼が教師として指導をしていた生徒達からは、真面目で公平で頼れる担任だと慕われてすらいる。
生来の、と称するにはあまりに生い立ちが特殊すぎるのだが、間違いなく彼は社会人として立派に日々を過ごしていた。
そう、彼は生きていた。
、生きたい、と思ったわけでもないだろう。死にたくない、と思ったわけでもないだろう。
何かに衝き動かされていたわけでもない。生を捨てる機会は一度、それまでの生活を鑑みれば十分過ぎる理由と共に与えられた。
しかしそこで死を選ばなかったのは、感情も思考も自己の認識すら許されない生活の中で、何時の頃からか生じた一つの疑問の答を得たかったからだろうか。
本当は、自分がソレを求めているのかどうかすら分からない。
だが満足していなかった。その疑問さえあれば満たされるのではないかと僅かに期待した。
故に彼は、自らの内にその疑問を燻らせながら、只々無為に日々を“過ごして”いたのだった。
彼女に出会い、答への手掛かりを見出だすまでは―――
「良かった! 宗一郎様―――ッ!」
石畳に肘をついて上半身を起こした途端、目の前の女性が胸へと飛び込んで来る。
今もなお、習慣と言うには染み込み過ぎている作業として鍛練を続けている彼にとっては、女性一人分の衝撃など大したものではない。
対外的には婚約者と名乗っていた女は自分の胸元に縋り付き、まるで子供のように―――と言っても子供が泣く姿など見たことはないが―――涙でスーツを濡らす。
本来ならば優しく肩でも掴んで抱きしめてやるのが筋というものであろうが、生憎と男にはそういった甲斐性が備わっていなかった。
おろおろと手を動かすわけでもなく、だらりと手を下げた常と変わらぬ自然体で彫像のように胸に縋り付く女を見下ろす。
傍から見れば何という無感動で仕方がない男だと憤るかもしれないが、そういった面を承知して、というよりは溺愛している女にはそれだけで十分であった。
今は只、彼が生きていてくれたことを彼に感謝したい。
また失うことの絶望を味わうかと思った彼女は少し気持ちが落ち着いても暫くの間、愛する人に抱きついて静かに涙を流し、喜びと感謝を表した。
「‥‥キャスター、状況を」
「あ、はいっ!」
暫し只の恋する乙女として幸せを甘受していた彼女‥‥キャスターのサーヴァントだったが、愛する人にして主の言葉に気を取り直すと背筋を伸ばした。
先程までは彼の生死を案ずるあまり他の思考が完全に頭から抜けてしまっていたが、冷静に思考を巡らせて状況を推察する。
だが同時に、目の前の彼を待たせるわけにもいかなかった。
待てと言われれば終末の角笛が鳴り響く時までそのまま待っていそうな人だが、そこはそこ、これはこれ。
状況が全く分からず、時間が無限とは限らない以上、それなりに迅速に動く必要がある。
「宗一郎様は、どこまで覚えていらっしゃいますか?」
「私達が置かれた状況のことならば、全くない。最後の記憶は、金色をした男が現れ、我々に攻撃をしかけてきたことだけだ」
「そうですか‥‥。実は私もです」
あの時、金色の男‥‥間違いなくサーヴァントに類する者であろうが、アレの攻撃を受けて確かに自分は消滅したと、彼女は確信している。
それは一緒にいる男、葛木宗一郎も同様で、彼も静かに死を実感したのだ。
自らの傷はキャスターが塞いだのだと考えたとしても、不思議とキャスターには傷一つ残っていなかった。
おかしなことである。なにせ宗一郎のスーツには鮮血と傷が残っているのだ。
傷は塞げても、服までは直せていない。反面、キャスターのローブは一切が万全の状態のまま。
本来あのローブは魔力によって編み上げた武装。彼女の魔術礼装の一種。
もちろん礼装である以上傷つくこともあるが、一度魔力に戻して再度編み上げれば元通りになる。
とはいっても彼女自身そのようなことをした覚えはないし、どうにも感触がおかしかった。
言及しづらい例えではあるが、この身は一度消滅し、再構成されたのではないだろうか?
決して断定は出来ないのだが、形容し難い不確かな感触にしても、そのような気がしてならない。
これに関しては勘というか、『そのような感触がした』というものに過ぎないが、考察する価値は十分にある。
再構成か再召喚か。少なくとも自身の持つ意識が記録ではなく記憶である以上は固有時間の連続性が保たれているはず。
今後を考えれば結論は可能な限り早く出す必要があるが、今は一先ず保留としておこう。
「とりあえず、此処は私の神殿ではないようです。大源の様子から冬木でもありません」
大源は世界に共通して存在する要素であるが、酸素に濃い薄いがあるように、湿度に高い低いがあるように、場所によって“色”のようなものが異なる。
それは魔術師としての感覚が優れていればいる程顕著に感じとることができ、キャスター程の大魔術師にもなれば狭い範囲での流れすら読める。
精霊の一種である英霊が暴れ回る一大儀式、聖杯戦争の影響で、舞台となった冬木という地方都市の大源は乱れに乱れまくっていた。
当然だろう。あちらこちらで大気中の大源を喰らう魔槍やら、城すら吹き飛ばす聖剣やら、神話に出て来る幻想種やらが好き放題していたのだ。
そうでなくとも龍脈などを利用して街全体に監視網やら何やらを張り巡らせていた彼女は、冬木の街を目の届かぬ場所はないという程に把握している。
だからこそ言えるのだ。此処は冬木どころか、そこから遠く離れた何処ぞの霊地であると。
再度、辺りを見回してみよう。
背後に見える、神代の時代でもお目にかかったことがないような大樹を中心に、石造りの広場が広がっている。
今いる場所は広場の中程で、一番下からは建物何階分かの高さがあった。
建物は統一された景観で広場をぐるりと囲むように建てられていて、聖杯から与えられた現代の知識から鑑みるに、西洋のものであるようだ。
だが、一番注目すべきところはそれらではない。
大気の中の大源の濃度。色も違うが、何よりソレが元いた場所と比較して尋常ではない程に濃かったのだ。
彼女の常識では、神秘とは時代を経れば経るだけ希釈されてしまうものである。
力量によって行使する魔術の威力には多少の差こそあれ、その大元の神秘という概念は、それの恩恵に授からんとする万民に等しく分け与えられる。
例えるならば配給される絵の具のようなものだ。
それをどう組合せて新たな色を作るかは個人の能力次第だが、受け取る者が増えれば一人辺りの量は減り、薄めて使わなければならなくなる。
物事の道理として、時代を経れば技術は広まり、それを使う者も必然的に増える。
神秘の秘匿を第一に掲げて最低限に抑えたとしても、結果として彼女の生きていた時代から千年単位で広まった現代においては、魔術は比べものにならない程に衰退していた。
大源も薄まり、呼吸をすることが困難になってしまった数々の幻想種が姿を消す。
過去の人間である自分が行使する魔術と、現代の魔術師が行使する魔術。比べることすら馬鹿馬鹿しい。
だが、今この場には彼女が生きていた神代の時代に匹敵する濃度の大源が存在していた。
具体的に言えば、存在することに必要な分の魔力だけをマスターから供給されれば、後は大気中の大源から魔力を調達して神秘の行使が出来る程に。
現代に於いてこれ程の環境を保持しているのであれば、数多の魔術師達が血眼になって此処という場所を得ようとやって来るであろう。
だからこそ今は深夜であるためか人気がないが、一見すれば賑やかな都市部にしか見えないこの光景に彼女はひどく困惑していた。
「そうか‥‥」
素人にも分かりやすいようにかみ砕いた簡略な説明を受けた葛木は、全く感情の篭っていないように聞こえがちな声を漏らす。
キャスターの言う通り、正直に言って状況は全く経験したことがないものと考えていいだろう。
もとより経験したことがないからといって自分から何か行動を起こすつもりはないのだが。
元々彼は、能動的な行動というものに関して殆どと言っていい程に縁がない。
強いて言うならば、生涯一度の役目を果たして自害をせず、始末に来た上役を返り討ちにして殺したことぐらいだろうか。
聖杯戦争についても、キャスターが望んだからこそ力を貸した。
自分から聖杯戦争を勝ち抜くために何か行動を起こしたことは一度もない。
故に今回おかれた特殊な状況についての対処も、完全にキャスターに任せると決めていた。
それは彼女も契約をした当初から承知していたことではあるし、何より一見まったく噛み合っていなさそうなこれこそが、二人のカタチであるからだ。
「‥‥キャスター、お前の後ろにいるのは誰だ?」
と、そこで葛木はようやく、この場にいるのが自分とキャスターの二人だけではないことに気付き、質問した。
先程までキャスターの陰に隠れて見えなかったが、少女が一人へたりこんでいる。
やや後頭部に近いところで二つに縛った特徴的な髪型の名は知らないが、全体的にどこか純朴で素直な雰囲気が漂っており、目立つような容姿ではない。
服装は学校の制服らしきもので、手には何に使うのか、やや大きめの竹箒を握っていた。
普段から上品な物腰を心掛けているのか、地面に座っていてもスカートの中は―――どちらにしても某レールガンよろしく短パンを履いてはいる―――見えない。
全体的に、深夜に出かけるような少女ではなさそうだ。
「‥‥私は宗一郎様を依り代としていたはずなのですが、何故か現界が出来なくなりつつありました。
彼女は偶然そこに通り掛かったので、宗一郎様の治療のために、催眠をかけて暫定的にマスターとしたのです」
「そうか」
催眠をかけて、ということは、強制的に使役したということである。
彼女程の魔術師になれば、例え魔眼を持っていなくとも一工程《シングルアクション》以上の速さで暗示をかけることができる。
一刻も早く依り代たる新たなマスターを必要としていたキャスターは、何の用事か広場にさ迷い込んで来た少女を操り、自らのマスターとしたのだった。
そして人道に即せば間違いなく悪と称されるであろう所業を耳にしても、葛木は眉一つ動かすことはない。
彼は自分以外の人間に、否、自分自身にもさしたる興味を覚えないのだ。
積極的に悪事を肯定するわけではないが、自分に関係ない人間がどうなろうと知ったことではなかった。
そして自分の目の前でそれらが行われていたとしても、キャスターが決めた以上は必要なことであると自分でも判断する。
冷徹なわけでも冷静なわけでもなく、どこまでも淡々と生きているからこその対応だった。
「此処が何処であるかは、彼女から聞き出せば良いのではないか?」
「そ、そうですね。では暗示を解きます」
だがそれでいてキャスターから助けを求められれば、作業として行っている日常生活に支障が出ない範囲で助力することに異論はない。
だから今彼女から意見を求められていると解釈した彼は、自分の判断力の中で行動の方針を提示した。
キャスターの背後には件の少女がへたり込んだ状態で虚ろに視線を宙にさ迷わせている。
意識はないのだろう。本来なら従者という立場にある希代の魔女の指先に従う操り人形だ。
専門分野である魔術以外のあらゆる点におい全幅の信頼を置いている男の指示に従って、彼女はその細い指先を、少女の目の前を横切るように一振りした。
「‥‥あ、あれ? 私‥‥」
「お目覚めかしら、お嬢さん?」
「あれ、貴女は‥‥?」
どうやら彼女は広場に来た次の瞬間には意識への介入を受けたらしい。
目の前で膝立ちになってこちらを見ている女性と、既に立ち上がっているスーツ姿の男性の二人から視線を受け、突然の状況に半ばパニックになっている。
だが、それもまぁ常識的に考えて仕方がないことではあった。
何せ目の前の二人は二人共が、非常に不審な姿をしていたのだから。
繰り返しになってしまいはするが、もう一度だけ二人の容姿や服装に注目してみよう。
彼女の前にいる女性は、現代に於いてはコスプレと勘違いされてもおかしくない仰々しいローブを羽織り、フードで顔の上半分を隠している。
僅かに覗く口元だけからでもトンデモない美人であろうことは疑う余地はないが、やはり全体的な印象として間違いなく不審な人物だ。
彼女とて社会の裏側についての知識を多く持つ身ではあるが、それにしたってここまで突き抜けた服装をしている知り合いはいない。
いや、悪いわけではないのだ。紫色のローブは恐ろしいというよりは上品で、眼前の落ち着いた年上の女性にはとても似合っている。
だからこそ普通ではない服装を完璧に着こなしているこの女性が常日頃からローブを纏っていることを察し、余計に奇異に写るのだった。
そして女性の背後に立っている男性も、別なベクトルで奇妙な人である。
こちらの容姿は大して特徴がない。美形なわけでもなければ、まかり間違っても不細工でもない。
敢えて形容するとすれば、武骨。それでいて幽鬼のようなという表現も当て嵌まるのだから甚だ矛盾しているが、とにかく造作がゴツゴツしているのだ。
着ているスーツは暗く沈んだ緑色。仕立てに全く遊びがなく、実用一点主義なのだろう。
そしてそのスーツには幾つもの穴が空き、今し方まで流れていたと思しき鮮血で彩られているではないか。
不審度で言えば女性の方よりもブチ抜きで高い。街中を歩いていたら当然ながら警察官に任意同行を求められる程に。
まったくもって、何故ここにいるのか理解できない二人組である。
「はじめまして、可愛らしいお嬢さん。私はキャスター、こちらは‥‥」
「葛木宗一郎だ」
半ば放心しながらも二人を眺めていると、女性が立ち上がりながら手を伸ばして来たので、申し訳ないがその手に掴まって自分も立ち上がった。
それなりの時間座り込んでしまっていたらしく、石畳と接していた膝や尻が冷たい。埃は掃ったが、張り付くような不快感が残っている。
「良かったらもう一度、貴女の名前を聞かせてもらってもいいかしら?」
「あ、はい! 麻帆良学園女子中等部一年、佐倉愛衣と申します!」
大人であるからか、自分よりは少しばかり背丈が高い。立ち上がる際に下から僅かに覗き見た顔は、やはり想像に違わぬ美しさだ。
姉と仰ぐ上級生にして自分のパートナーも相当な美人であると公言して憚らないが、この女性の美しさは格が違う。
まさに女神のようなという形容が相応しいと、佐倉愛衣は実際に口に出したら次の瞬間には灰にされてしまうだろうことを考えた。
‥‥はて、もう一度?
自分がこの女性に会うのは、自分の記憶が確かならばこれが初めてのはずである。
外国の人のようだからアメリカに留学していた時に会っている可能性も無いわけではないが、このような美人、同性であっても一度見れば忘れはしない。
「まず最初に聞いておきたいのだけど、もしかして貴女は魔術師?」
「え‥‥あ、はい、そうです」
「そう‥‥やっぱりね。それにしては耐性が随分と低かったみたいだけど‥‥」
「‥‥あのぉ?」
やけに古めかしい言い回しではあったが事実であるため、愛衣はその問い掛けに素直に頷いた。
昨今では組織体制がしっかりと確立されていることもあって、大概は自分達のような術者は『魔法使い』と日本語に訳されている。
もちろん外来語であるために訳し方も多少の違いはあるが、今はそちらが一般的だ。一方ローブの女性が使った『魔術師』という言い回しは昔かたぎの人間が好んで使うものだ。
更に言えば、本来は口ごもるべきであろうところで即答してしまったのは、目の前の女性、キャスターが自分と同じ種類の人間だと確信していたからである。
麻帆良という街は警察官の他にも教師などがある程度の権限をもって警備を行っているために、都市の規模に対して非常に事件が少ない。
学生同士の小競り合いぐらいなら日常茶飯事だが、それにしても教師が実力行使で鎮圧に来るために大事になったことはなかった。
その一方で、夜の麻帆良は極めて物騒な場所でもある。
一流の霊地は、そこに住まう者に様々な恩恵を与える場所だ。
例えば麻帆良などでは魔法(魔術)を使うための才能が発現しやすいし、格闘技などの鍛錬を積んでいれば気の習得も早くなる。
他にも麻帆良で起こる様々な事故などで滅多に死傷者が出ないのも、世界樹の加護だと言われているのだ。
しかし世の中は良いこと尽くめではない。同様に、否、それ以上に害意や危険を呼び寄せる。
毎夜のように襲い来る外部の術者や妖魔の類。彼女はそれらを撃退するために駆り出された魔法生徒の一員であった。
また物騒だと言いはしたが、一般人にとってはその限りではない。
何故なら敵の襲撃が予想される場所には一般人を遮断する人払いの結界が張られているからだ。
当然ながら世界樹前のこの広場に人気がないのも、人払いの結界の恩恵である。
故に愛衣もローブの女性がコチラ側に属する人間であると判断したのだった。
「実はね、申し訳ないんだけど貴女に暗示をかけさせてもらったのよ」
「暗示?! 何時の間に‥‥?!」
「宗一郎様をお助けするには、私の依り代となる現世の人間が必要だった。‥‥ごめんなさいね、一刻の猶予もならなかったのよ」
西洋魔法にも精神に干渉する魔法はいくつもある。
例えば先程話題に上った人払いの結界もそうだし、他にも薬の類に多く見られるが、意識や思考を誘導させる魔法は存在する。
しかしそれらに共通して言えるのは、基本的に魔法使いには効果が及びにくいという点だ。
これに関してはキャスターの操る魔術についても―――原則的にはの話だ。彼女の魔術は並の術者を遥かに上回る―――同様である。
そして自惚れではなく、愛衣は自分がそれなりのレベルにある魔法使いであると自負していた。
順当な思考と比較の結果である。仮にもアメリカの魔法学校において、優秀な成績で留学を完了したのだ。
地味な雰囲気から目立ちはしないが、少なくともエリートと呼ばれるには足る実力者である。
だからこそ自分が暗示にかかったことすら分からないという状況に、まず恐怖よりも先に驚愕を覚えた。
この女性がどれほどの実力者であるのか、自分程度の物差しでは測ることさえできない。
自分の周りにいる魔法使いと比較しても、なお足りない。姉と慕う上級生も大概かなりのエリートだが、それにしたって及びもしないのだ。
おそらくは学園最強の魔法使いである近衛近右衛門を引き合いに出して、ようやく同じ舞台の端っこに立てたというぐらいであろうか。
本国で最高位と言われている術者を出しても、同様であろう。
「ムシの良い話だけど、本当にありがとう。貴女のおかげで宗一郎様が助かったわ‥‥」
「え、あ、そ、そうですか? お役に立てて良かったです」
本当に感謝してもし足りないと言いたげに自分の手を握った女性に、思わず照れて下手に出てしまう。
このような美人にこのような態度に出られては、男は言わずもがな、女であろうと激しく狼狽を覚えてしまうのも仕方がない。
とにかく若輩なりに『立派な魔法使い《マギステル・マギ》』を目指す身としては、誰かの役に立てたのであればこれ以上に嬉しいことはなかった。
その気持ちだけは間違いではない。だから彼女も実害を感じなかったから、さして問題行為を咎める気にもならなかったのだ。
「‥‥あれ、依り代って、言いました? それって一体‥‥?」
「ああ、それはね―――」
「愛衣!!」
一先ず互いに状況を確認しようとした時、つい先ほどまで自分たち以外の誰の気配もしなかった広場に新たな声が響き渡った。
階段の下から駆け上がってくる、見事な金髪をした美少女。
少々スカートの丈が短い―――一般的な基準よりは余程長いのだが―――ために不自然な印象はあるが、教会のシスターのような制服を着て、頭には看護婦のような帽子を被っている。
その少女は何を勘違いしたのか必死の形相で自らの従者たる少女に叫ぶと、バトンのような杖を振るって魔術を行使した。
「影よ《ウンブラエ》!」
「マスター、下がって!」
「ふぇえ?!」
影から何体もの人形が飛びだし、こちらへと宙を滑って駆けてくる。
ある意味では仕方がないことであった、彼女が状況を勘違いしたのも。
何せその日に学園の警備に当たる者の中に、妹分の側にいる二人の顔はなかったのだ。
というよりも学園の中でも初めて見る顔である上に、明らかに服装が異様で不審、有り体に言うなら悪役っぽかった。
直情的で正義感の強い彼女のこと、二人を侵入者と判断し、妹分が今まさに捕らわれようとしていると勘違いするのも当然だ。
傍目に見ていて滑稽なのはここからである。
突然の上級生にしてパートナーの出現に驚いた愛衣が彼女に声をかけようとする前に影の人形はこちらへと飛びかかってきて、今度はキャスターが愛衣を自分の後ろへと隠す。
魔法使い同士の突然の接敵で、悠長に状況を説明している時間などあるわけがない。
愛衣が状況すら理解できていないままで、彼女を暫定的にでもマスターと仰ぐ事を決めたキャスターは少女を守るために行動する。
一言二言、すぐ後ろにいた愛衣ですら聞き取れない言葉で何か呟いた瞬間、風の刃が生じて影の人形を尽く斬り裂いた。
「私の人形を一瞬で―――?!」
「あらあら、随分と野蛮な魔術師なのね。その程度の人形で私に牙を剥くなんて‥‥愚かと知りなさい」
事前に自らの影の中に待機させていたわけであるが、それでも人形を出す素早さに関しては目を見張るものがあった。
しかしそれでも神代の魔女からしてみれば未熟も未熟。ただの一言で人形を消し飛ばしてなお、余裕は十分である。
金髪の少女はそれだけで相手の実力が、自らの遥か高みに存在していることを理解した。
「その子を放しなさい!」
「私のマスターに手を出して、ただで済むと思っているのかしら‥‥?」
実力の差が歴然であっても、妹分を見捨てるなんて選択肢は持たない。
一方のキャスターも身の程を知らずに牙を剥き、マスターに手を出した女を許す気はない。
両者の誤解は全く解けることがなく、互いに相手を倒さんと魔術の行使を試みたときだった。
「ま、待ってください二人とも! 何か、何か勘違いしてますー!」
「え、愛衣?」
「‥‥あら?」
自分を守るように立ちふさがったキャスターを押しのけ、愛衣が二人の間に壁のように立つ。
その時に金髪の上級生の方に背を向けたのは正解であった。もしキャスターを庇えば、次の瞬間にはもう片方が消し飛んでいたことであろう。
仮に金髪の少女が彼女の知るどのような魔法を行使したとしても、キャスターには傷一つ負わせることができないだろうからだ。
「‥‥一先ず、今一度状況を整理する必要があるのではないか?」
ここに来るまで一切の言葉を発することがなかった男の言葉が大きく広場に響いたのであった。