エロトラップダンジョンマスターは教育に悪すぎる 作:蛍光ペン
この世界は美しいもので満ちている。
木陰を降ろす木々は枝を振って私を歓迎し、日差しの煌めく渓流は私を満来の拍手で出迎え、森の生き物たちの生命の息吹は私を温かく包んでいる。
壮大で偉大な自然がありのままの私を受け入れてくれる。
家に帰れば『精霊』と共に家族が「おかえり」と言ってくれる。
当たり前に父も母も姉も、みんなが暖かく出迎えてくれる。私はこの温度がとても心地よいものだと思えたし、何物にも代えがたい大切なものだった。その輪の中にいるからこそ、私は草花の蕾が花開くような笑顔を浮かべられるのだ。
それが私の愛してやまない故郷の景色。
世界は見渡す限り、すべてが愛に包まれていた。
───怒号と、警笛の音。
『精霊』の落ち着きがないなと思っていた日の夜だった
私の愛した緑は火炎に飲まれ、私の愛した青のせせらぎも生命の息吹も里に広がる阿鼻叫喚を前に鳴りを潜めている。
自然は、人の悪意によって呆気なく塗り潰された。
目の前には、私の愛した父が血を流して倒れ伏す。
最後まで抵抗した母も、私を胸に抱えたまま意識を手放した。
姉の姿は見えない。その悲鳴だけが嫌に耳に残り続けている。
私の輝かしい日常は、一転して地獄のような日々へ移り変わった。
首に嵌められた枷の硬質な感触から逃れることは出来ず、泣いても喚いても暴力で黙ることを強いられる。
共に連れられた母は決して私から離れまいと力いっぱい抱擁する。一緒にしないと暴れるから、という理由で側にいることが許されていた。どれだけ痛めつけても憔悴しても抵抗を止めない母は、どれだけ強い人なんだろう。
父はその後どうなったのか、姉はどこに連れて行かれてしまったのか、嫌な想像ばかりが頭の中をぐちゃぐちゃにかき回す。
私は痛くて恐いことの全部が嫌になって、いつしか体に力が入らなくなった。
あの日野原を駆けた足も、草冠を作った腕も、青空を吸い込んだ胸も、まるですべてがこの世界を拒んでいるかのようだった。美しいものばかりに触れ続けていた感覚がこの世の汚い部分を知り、もういらないと叫んでいる。
そんな私を見て流した母の涙の温かさは、母には悪いけど心地よかった。まるで私に刻まれた痛みや苦しみを取り払ってくれるようだった。
「───おい、六十四番。いい加減諦めたらどうだ?」
男の声が朧げに聞こえる。かしら、と呼ばれていた男だ。
声音だけで分かるのは下卑た笑みを浮かべているであろうことだけ。この状況を楽しんでいるような弾んだ声だった。
ここ数か月で散々耳にした。嫌になって耳を塞ぎたくなるが、私の手はすでに私の意志で動いてはくれなかった。
「もう、やめて。この子は限界よ」
「限界だろうがなんだろうが関係ねえんだよ。こんなでも買ってやるっつー物好きな客がいたことに感謝しろよ。親子セットでのお買い上げだぞ」
軋むような歯軋りが母から聞こえる。私を抱く腕に力が籠る。
誰もが自分から商品になることを望んでいない。この人たちの都合で私たちは捕まり、躾けとは名ばかりの暴力を受け続け、金儲けの道具として売られていく。
私たちが何か悪いことをしましたかと、天に問い掛けても言葉は返ってこなかった。
「諦めろよ。お前が死に物狂いで逃げてきたこのダンジョンは『鎮魂の迷宮』だ。誰一人帰ってこない、何一つ情報がない。過去の英雄譚のあれもこれも全て、このダンジョンに入ったというオチで終わる。そういう場所だ、ここは」
「…これが、あの」
「その大扉、開けてみろよ」
母はかしらから決して目を離さないまま、取っ手に手を掛ける。
重厚な金属の音と共に大扉が開かれる。母によって引かれた扉の先、光が入らなくなった私の瞳がその光景を鮮明に映し出した。
「なによ、これ」
「まるで魔物の腹の中だ。ダンジョンが一匹の魔物であるという説は、『鎮魂の迷宮』のこれが発端らしいぞ」
大扉全体を埋め尽くすような『触手』。うぞうぞと蠢くそれは、まるでこちらを手招いているかのように見えた。
「目の前でこうも拒絶されちまうと恐ろしいよな。中に入れば何が待っているかも分からない。その触手にいきなり消化されることも考えられる。それでもこのダンジョンに挑んだ勇気ある英雄達は全員、帰ってくることはねえんだ」
拒絶?…私には、そうは思えなかった。
これは親愛。慈悲。それらが織り交ぜられたような慈愛。何となくなんて曖昧な根拠ではなく、そうであると確信できる。
これは危険なものではない。
「何もここで死ぬこたぁねえだろ。酷い目に合うかもしれねえが、お前らは二人仲良く暮らせんだからよ。俺らも金が稼げて信用も失わねえ。なぁ、諦めろよ?」
そんな未来に光は無い。
長らく見える事の無かった私を導く光は、この肉厚な触手の向こう側に広がっているような気がしてならない。
『精霊』が私に微笑んでいる。
この先に、明るい未来が待っているのだと。
「───ちょッ!?待ちなさいリリ!!!」
全身に力が漲って来る。かつての面影など微塵もない弱り切った体の、最後の力だったのかもしれない。
母をこの場に残していくという選択肢はなかった。だからその手を力いっぱい引いた。
体勢を崩した母と二人で肉の海に埋もれる。全身が触手に撫でまわされ、引きずり込まれ、暗闇に包まれる。
それがなんとも温かくて心地いい。優しさに溢れんばかりの抱擁に身を委ねた。
▽
絶対に離してやるものかと、気合いだけで掴まっていた小さな手。
肉の怪物に飲み込まれ、謎の粘液を塗りたくられたとしてもこの手だけは決して離さなかった。
自分が今どうなっているのかも分からない。もしかしたら既に消化が始まっているのかもしれないという恐怖。それらに晒されて尚、我が子だけは守らねばと握り締めていた。
「ぷはぁっ!」
呼吸。息ができたと思ったら、全身が放り出される。
無造作に地面に転がされたが、すぐそばに同じように倒れているリリを私は反射的に抱き寄せ思いっきり抱き締めた。
リリは呆然としている様子だったが、以前までとは違い虚ろな瞳ではないことに気が付き涙が滲んだ。
「まま。い、痛いよ」
「…良かった。お話も出来るのね」
「うん。『精霊』さんが力を分けてくれてるみたい」
リリが時たま口にしている『精霊』という存在。
他所の人が聞いたら子供の妄想だと一蹴しそうなそれは、昔からリリにとっての良き隣人となってくれているようだった。
実体も魔力もないから存在を捉えることはできないが、私は娘の言うことを信じている。
「まま。服が…」
「溶かされちゃったみたいね。…って、リリ。首枷が無くなってるじゃないの。どうやって外したの?」
「ままのも無いよ」
言われて首元に触れると、忌々しい奴隷首輪が無くなっていた。
あれが着けられている限り私たちは遠くに逃げようが居場所がバレてしまうし、身体機能にもいくつか制限が掛けられる。森の狩人として戦う力のあった私が言いなりになっていたのは、首輪のせいで抵抗できなかったからだった。
「もしかしたら『装備破壊』のスキルだったのかもね。あんな布切れみたいな服と重たい首輪なんて、無くなった方がいいわ」
「そうだね」
こんな穏やかな会話をしたのはいつぶりだろうか…と考える思考を無理やり留めて、状況の確認に徹する。
リリの顔に粘液で張り付いた髪を払い、溜め息を吐いた。
「助かった、ってわけじゃないのよね…里にまで聞こえてくる伝説のダンジョンに入ってしまったんだもの」
「ちんこんのめいきゅう、だよね?ままはよくお姉ちゃんを叱る時、そこに連れてっちゃうよって言ってた」
「言った言った」
私は今、ちゃんと笑えているだろうか。
子供に告げた脅し文句であるだけの場所。縁のない、足の運ぶ場所ではないからこそ説教で使っていたのに。
仮に今すぐ地獄へ行けるとして、本当に行きますかという話だ。
「先に進むしかないわね」
振り返れば触手の壁があるが、仮にここを戻ったとしてもまた奴隷商人に捕まるだけ。首輪が無くなったとはいえ、丸腰どころか下着の一つも身に着けていない現状、戻ったところで助かる未来はない。
自然に視線は道の先へと向けられるが、一本道が暗闇へと続いていて見通すことはできない。
「まま。そこに落とし穴があるんだって」
「え?」
リリが指差す先にはただの地面しかないようだ。
半信半疑で側に落ちていた適当な小石を投げ入れてみるが、特に何かが反応する様子はなかった。
「えっと、そこは『じんかんせんさー』で動くから、その落とし穴の手前を人が通らないとダメなんだって。せきがいせんとか微弱なちょうおんぱとかはよく分からないけど、生き物だけに反応する罠みたいだよ」
「凄い。精霊さんって物知りなのね」
そーっと指を近付けると、床に触れている訳でもないのに地面がバカっと開かれた。中を覗いてみると底には水っぽい生物───スライムだ。
重さで稼働する罠ではないということは、あそこで消化され栄養になった冒険者も少なくない事だろう。私が持っていないから『罠感知』などのスキルが働くのかも分からない。
「リリ、精霊さんに危険がない道を選んで進めないか聞いてみてくれない?」
「…大丈夫だって!」
愛する娘のおかげで、少しだけ光明が見え始めた。
「そこ『がすとらっぷ』があるって」
「あ、この道通ると壁が閉じて身体が埋まるらしいよ」
「その壁に近付くと手足を拘束されるって」
「そこの宝箱はミミックだから開けると丸呑みにされるみたいだよ」
この階層は罠があるばかりでモンスターが一匹も出てこない。しかも他のダンジョンでは聞いたこともない罠が設置されているようだった。
精霊さん様々である。いなかったら既にいくつの罠に引っ掛かっていたか、その場合の結末についても考えたくない。
「ここは休憩エリアみたいね。ダンジョンには一階層に一つはこういう安全な場所があって、モンスターの襲撃もないし罠も設置されていないから、休みたいならこの不自然に円形な空間を探すといいのよ」
「あ、でも壁には擬態した触手がいるから寄り掛かったりするとエリア外に引っ張られて捕まっちゃうって」
「こわ…」
休憩エリアの壁は休憩エリアの中じゃないという発想だと気が付き、思わず身震いする。
冒険者たちの間で共通認識になっている安全地帯をも利用した罠なんて初見で躱せる筈がない。
『鎮魂の迷宮』がどうして難攻不落なのか、その一端を垣間見てしまった。事前情報なしにこれらの罠を全て掻い潜っていかなければならないというのも酷い話である。
「ありがとねリリ」
「えへへ。お礼なら私じゃなくて精霊さんに言ってよ」
大活躍な愛娘を目一杯撫でる。そんな仕草をくすぐったそうにしているリリを見て、また零れてきそうになった涙を拭った。
一応、休憩エリアの壁に触れない中央で親子は互いに抱擁し合った。
▽
「精霊さんってなんだよッ!!!」
インキュバスE、魂の叫びである。
「え、うそうそ。これヤバいよこれまずいって!精霊さんなんでも知ってるじゃんもうほぼ神様じゃん!」
「…一説に聞いたことがあります。エルフは昔、大地の声をその長い耳で捉えてこの世に伝える役割があったのだと。精霊さんとは即ちこの星の意思そのもの…つまりこの世で起こった出来事は全て観測可能なのでは?」
「チートだろ!」
この分では第一階層は難なく突破されてしまいそうな勢いだ。と言うか、間違いなく突破されるだろう。
先導してるリリちゃんは何気に最短ルートを進んでいる。罠も避けて通りながら寸分の狂いなく正確な道を。こんなん入り組んだ迷路にした意味ないじゃん。ダンジョンマスター泣かせである。
「くっくっくっ…しかし第二階層はモンスターが跋扈する混沌、果たして無事に通り抜けられるかな?」
「E様。それはこの前漫画で読んでもらったところで言うフラグなんじゃ?」
「まさか、そんなこと無いでしょ」
あるんだなこれが。
「…」
「…」
なんか、第二階層もスイスイ進んでるんですけど。
第二階層は知性モンスターを自由に徘徊させている。ゴブリンやオーク、コボルトなど言ってしまえば竿役になりがちなモンスターが安かったので、そいつらを中心に独自の生態系を築いている。
しかしこれが屈強…逞しい見た目になっているのだ。
「大抵の冒険者が第一階層で撃沈するもんですから、長生きしている個体ほど『個』としての強さが洗練されていて、もはや別の魔物みたいになってるんですよね」
「うん。これは僕が悪いね」
長い年月をかけてダンジョンという閉鎖的な空間で縄張り争いを繰り返した結果、過酷な環境に適応するように独自の進化を遂げてしまったのだ。
第一階層に彼らを配置して第二階層をトラップ階層にしておけばそんなことも無かったんだろうけどね。今更総入れ替えなんて出来ないのが現実である。
「雌がいれば繁殖するんでしょうけど、滅多に来ないから数も増えないんですよね。『攻撃不可領域』があるのに争ってしまうのは闘争本能があるからなんでしょうか?」
「戦ってあげてよぉ!数百年待ちわびたんだよ彼らは!」
母親の方が多分レンジャー系のビルドみたいで、『隠密』スキルを行使しているのか二人は戦闘を回避しながらどんどん先へと進んでいく。
こうも避けに徹せられると彼らも打つ手がない。正面衝突すれば負けることはない筈なんだけど。
「お気に入りだから活躍して欲しいのに…」
「好きですよねぇ、特殊個体とか。男の人って皆そうなんですか?」
「そりゃもう大好きよ!」
ダンジョンの魔物に寿命はない。
だから昔からの顔馴染みもいるし兄貴肌で面倒見がいい性分なのも知っている。なんせ酒を酌み交わす仲なのだ。
僕がダンジョンマスターであると知りながらも僕を恨むわけでもなく、主として敬ってくれる一面もある。これで好きにならない方がどうかしてる。
…多分、闘争が頭を支配して既に繁殖って脳が無いと思うけど。エロトラップダンジョンなのに。
「どうしますかE様?この先はボス部屋ですよ」
「…ふと思ったんだけどさ、この人らって侵入者扱いで良いの?追い詰められて入ってきた感じだから、何か違う気がしてきた…ちょっと聞いてくるよ」
少なくとも今までにないパターンの侵入者ではある。侵入者でもないのに苗床にしてしまったら、後腐れが悪いなんてものじゃない。
ウインドウにボス部屋の扉に手をかける親子が映っているのを見届けると、僕はその場で飛び上がり天井へ潜り込んだ。
「───え?」
突然の主の行動を見送った眷属が、冷や汗を流しているとも知らずに。
▽
『隠密』を使い第二階層を進んでいて気付いたことは、この階層の魔物には逆立ちしても勝てないだろうということだった。
「精霊さんがこのダンジョンは『攻撃ができない』ことになってるから、奇襲とかはしない方がいいって」
「…言われなくてもするつもりはなかったけど、それを聞けて良かったわ」
それならば何故、この階層の魔物には争った形跡があるのか。
ダンジョンの法則から考えると冒険者のみに掛ける制約というものは存在せず、生物であれば例外なく指定された範囲内に同じ条件が適用される筈だ。
考えられるとすれば───何かしらの手段で攻撃を可能にしている線。
「このまま戦闘はせず、静かに通り過ぎましょう」
「うん」
それを確かめる術もないし、今はそもそも装備すらない。
気にしても仕方がないことを考えている場合ではないと思考を切り替えて、魔物に見付からないようリリと手を繋いだ状態で先へと進む。『隠密』スキルは自分に加えて接触している人物にも効力を発揮してくれるからだ。
道中、これといった問題もなく進んでいく。
すれ違うゴブリンはこちらが何もしなければ反応してくることはないし、数の多い集落のような場所は近付かず遠回りして進めばいい。この階層にはトラップが設置されていないのか『精霊』が反応することもない。
「———ッ!」
眼前に、異色の雰囲気を纏った一匹のゴブリンが立ち塞がった。
身の丈が天井に届きそうなそのゴブリンは、力強い眼光でジッとこちらを見下ろしてくる。その剛腕は立派な意匠の大剣を引きずって歩き、どこを見ても淀みのない筋肉質な肉体を前に思わず後退る。
これは、間違いなく見破られている。
呼吸が浅くなる。リリを抱く腕に力が入る。我が子を庇うように背中を向け、今すぐにでも駆け出してしまいたい衝動に駆られる。
「…」
しん───と、しばらく静寂の時間が続く。
私では嵐が過ぎ去ることを祈ることしか出来ない。故郷で家族を守ることすら出来なかった自分自身の力不足のせいで、自分だけではなく娘にまで危害が加えられたことは悔やんでも悔やみきれない。
あんな思いはもうしたくない。
けれど、抗う術もない。
「まま?もう行ったよ?」
「…ぇ?」
何故、と湧いた疑問に答えが返ってくることはない。
明らかに私の『隠密』越しに目が合っていた。獰猛な肉食獣のように飢えた瞳、その光のなかには確かに理性的な輝きがあった。
いや、あり得ない。ダンジョンの魔物がそんなことをする筈がない。
「でも───見逃された?」
やはり『鎮魂の迷宮』は普通ではない。
このまま先へ進んでしまってもいいのか、とこれまでの行動に今更疑問が浮かび上がる。今からでも引き返して、奴隷商人に捕まった方がマシなのではないかという可能性すら脳裏を過ぎる。
もしかしたら既に引き上げているかもしれない。それなら何の心配もせずこのダンジョンから脱出できる。
…あの触手の大扉が通してくれるだろうか。否、恐らくあれは一歩通行。後戻りはできないという確信がある。
なんせここは、『鎮魂の迷宮』だから。
「まま。大丈夫だよ」
顔を包み込むように頬に触れる小さくて温かい手。
ハッとして意識が現実に戻って来る。錯乱でもしていたのか、気付かない内に地面にへたり込んで座っていた。
リリの温かさに触れて涙が零れる。不安にさせまいと気力を振り絞ってはいるものの、実際は私も極限状態だった。
「ごめんね…リリ、ごめんなさい…」
縋るような謝罪の言葉が口から出る。
間違いなく、この先に待ち受ける未来に希望はない。死に向かって進んでいることを知らない娘に掛ける言葉なんて、私は持ち合わせていなかった。
「大丈夫だよ。だから…ね?進もう?」
結局、リリの言う通りここで立ち止まっていてもどうにもならないし、先へ進むしかないことは変わらない。
意を決して手を取り二人で歩く。
「この先にボス部屋があるって『精霊』さんが」
「…ボス部屋」
これまでのように迷宮化している階層ではなく、大部屋の中で強力な魔物に勝つことで先へ進めるダンジョンの階層の一つだ。
装備の一つもなく、大した実力もない私一人の力ではそこが限界だろう。
…いや、ここまで進んで来れたことを喜ぶべきだと前向きに考える。
「何がいるかな?」
明るい声音の娘。攫われて、暴力に飲まれてすっかり無気力になっていた頃からは想像もできないほど元気な娘。故郷にいた頃のように、蕾が花開くような笑顔を浮かべている愛する娘。
金属製の大扉に手を掛け、柔らかな頬に唇を一つ落とす。
「リリ、愛してる。これから何があっても、それだけは変わらないわ」
「私もだよ。私もままが大好き!」
ギィーっと耳障りな音と共に大扉が開かれる。
大部屋の中央には粘液質な塊が一つ。見慣れた色とはまるで違う桃色で、どこかで見たような紋様が体表に浮かんでいる。
こんな特徴の魔物は、スライムしかいない。
「あの魔物、可愛いね」
「どうかしら」
リリの軽口に笑って返す。
ボス部屋へ足を踏み入れると大扉が独りでに閉まっていく。それはまるで、逃げ道など無いのだと私たちに告げているかのようだった。
「ここでも攻撃はできない?」
「えっと…できないって」
「…そう」
只でさえどうしようもなかった現状に拍車が掛かった。
と言うか、攻撃ができないボス部屋をどう攻略すればいいのか。当然の疑問が頭に浮かんできたが、スライムがこちらに気付いたのか少し跳ねたのが見えた。
何かしてくることは間違いない。それが何かは分からない。けど、リリを巻き込むわけにはいかない。
「とりあえず、リリはここで待ってて。私があのスライムを捕まえてみるから」
「───やめときなよ。どうせ、あれは倒せないよ」
慌てて、突然耳に入った声の発生源を探して辺りを見回すが、誰もいない。
狩人のときの癖で迎撃姿勢を取ろうと背中の弓や腰の短剣へ手を伸ばしたが、装備が無かった為に何も掴めず空振ってしまった。空を握った拳を握りしめる。
「こっちだよこっち。下下」
言われた通りに視線を下へ降ろしていくと、そこには生首があった。
「きゃあああああああああ!!!」
「わ!」
甲高い悲鳴を上げた私は側にいたリリを抱き寄せる。
リリはぱちくりと目を丸くしている。
生首は「よっこいしょ」と言いながら身体を出し、脚を沈めたまま地面に座ってこちらに笑い掛けてきた。
「ようこそお客様。少し、お話ししませんか?」
黒い翼、羊のように渦巻いた角、ゆらゆら揺れる尻尾。
現実のものとは思えない美貌に思考停止させられ、無意識の内に脳が好意で埋め尽くされるような感覚。
間違いない。この人は、この魔物の正体は———
「…インキュバスが私たちに、何の話があるんですか?」
「まあまあ、そう怖がらないで。ここじゃあなんだから、場所を変えない?とっておきのおもてなしをしてあげるからさ」
差し伸べられた手。性別が男であることが嘘のように華奢で、滑らかな肌は手触りが良さそうな…まさか、『魅了』された?…いや、これが『魅了』かもしれないと疑えてしまったことで、彼はそれを使用していない証明になる。
心の底から綺麗だと思ってしまっていたことに軽く自己嫌悪していると、横から飛び出した小さな影があった。
「───初めまして!わたし、リリです!」
「え」
「は」
恐れ知らずな我が子を前に更なる思考停止を強いられる。
そんな私と同じように目を丸くしているインキュバスを置いてけぼりにして、リリは畳み掛けるように言い放った。
「ぜひ、是非!仲良くしましょう!」