八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
最初に戻ってきたのは、音ではなく匂いだった。
濡れた土と、陽に温められた草の匂い。その奥に、甘いような青いような、名前のわからない花の香りが薄く混じっている。鼻の奥がそれを拾い上げたとき、ミウはようやく、自分が息をしていることに気がついた。
まぶたの裏が明るい。赤みがかった光が、薄い皮膚をとおして瞳の奥まで染みてくる。どこかで鳥が鳴いている。一羽ではなく、何羽もが互いに呼び交わしている。風が草の先を撫でる音が、波のように近づいては遠ざかっていった。
ゆっくりと目を開ける。
空があった。
高い。ひどく高くて、ひどく青い。薄い雲が一枚、ほどけかけた綿のように流れていく。見上げているうちに、自分が仰向けに倒れているのだとわかった。背中の下で、草がちくちくと肌を刺している。
「……ここ、どこ」
声に出してみると、喉が乾いてひりついていた。掠れた声は風にさらわれて、答えるものは何もない。
身を起こす。頭が少しぼんやりして、視界の端が揺れた。両手を草の上について、ゆっくり息を整える。手のひらに触れる草は冷たく湿っていて、朝露がまだ残っているのだとわかった。
見渡すかぎり、緑の丘が続いていた。なだらかな起伏が幾重にも重なり、遠くには黒っぽい木々の帯が見える。さらにその向こうに、淡く霞んだ山の稜線。人の姿はない。家も、道も、煙の一筋も見えなかった。
ミウは、自分の手を見つめた。
小さな手だった。指は短く、関節のあたりがふっくらとして、触れると指先が少し沈む。そのまま頬に手をやると、同じように柔らかく、丸い感触が返ってきた。もちもちとした、よく伸びそうな頬。それが自分のものだということは、不思議とすんなり受け入れられた。
けれど、それ以外のことが、何ひとつ出てこない。
自分の名前は、ミウ。これはわかる。喉の奥から、当たり前のように浮かんでくる。
けれど、自分が何者なのか、どんな種族に連なる者なのかとなると、問いかけた先から霧に溶けて、輪郭すら掴めなかった。
では、どこから来たのか。
誰と暮らしていたのか。何が好きで、何が嫌いで、昨日まで何をしていたのか。
尋ねるたびに、頭の中は白い霧に包まれたようになり、手を伸ばしても指の間を何かが滑り抜けていく。思い出せないというより、そこに最初から何も置かれていなかったような、不思議な空白だった。
「……うん」
ミウは小さくうなずいた。
「わからないものは、わからないね」
口にしてみると、思ったより心は静かだった。怖くないわけではない。胸の奥には冷たい水の底のような不安が確かにあった。けれど同時に、胸の別の場所では、小さな火のようなものが揺れていた。
知らない空。知らない丘。知らない風の匂い。
そのどれもが、まだ誰にも踏まれていない頁のように、目の前に広がっている。
くう、と間の抜けた音が鳴ったのは、そのときだった。
ミウは自分のお腹に視線を落とした。もう一度、今度はさっきより長く、情けない音が鳴る。
「……ああ」
思わず笑ってしまった。
「そっか。私、おなかがすいてるんだ」
不安よりも先に、体が正直に主張を始めている。考えてみれば、喉の渇きも、指先に力が入らない感じも、頭のぼんやりも、すべてがそこに繋がっているようだった。いつから何も食べていないのかはわからない。ただ、胃の底が空っぽで、ひどく軽いことだけは確かだった。
立ち上がろうとして、膝がかくんと折れかける。慌てて踏ん張り、ようやく両足で草を踏みしめた。
空腹を抱えて、じっとしていても仕方がない。
「まずは、歩こう」
誰にともなくそう言って、ミウは丘を下り始めた。
*
歩く、ということは、思いのほか楽しかった。
草を踏むたびに、露が靴の縁を濡らす。斜面を下るにつれて、風の匂いが少しずつ変わっていく。丘の頂では乾いた草の匂いだったものが、窪地に降りると湿った土の匂いに変わり、さらに進むと、遠くから水の気配が混じってきた。
足が勝手に、気配のするほうへ向かっていく。目的地があるわけではないのに、あちらへ行ってみたい、という気持ちが自然に湧いてくる。そのことが、ミウには少しおかしかった。
思い出せないことだらけなのに、道なき道を歩くことだけは、前からずっとそうしてきたような気がする。
小さな木立を抜けると、浅い小川に出た。透き通った水が小石の上を滑り、きらきらと光の粒をこぼしている。ミウは岸にしゃがみ込み、両手で水をすくった。冷たい。口に含むと、ほのかに甘い味がした。
喉を潤し、顔を洗い、ほっと息をつく。水面に映った自分の顔は、丸い頬と大きな目をした、幼いとも大人びているともつかない顔だった。見覚えはない。けれど、不思議と嫌いではなかった。
「よろしく、私」
水面に向かってそう言うと、映った顔が同じように唇を動かした。
小川のほとりには、赤い実をつけた低い木が生えていた。熟れた果実が枝の先でたわわに揺れ、甘い匂いを漂わせている。ミウは思わず足を止めた。唾が口の中にあふれる。
手を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……毒とか、あったりして」
見た目は美味しそうだ。けれど、知らない土地の知らない木の実を、確かめもせず口に入れるのは、さすがに無謀に思えた。記憶はなくても、そのくらいの用心深さは残っているらしい。
代わりに、実を一粒だけ眺める。つやつやと赤く、指で触れると張りがあった。誘惑に耐えながら立ち去ろうとして、そのとき、足元の石に爪先を引っかけた。
「わっ」
体がつんのめる。咄嗟に両手をついたが、小石の混じった地面に手のひらを擦りつけてしまった。
鋭い痛みが走る。
「いたっ……」
ミウは顔をしかめて、手のひらを持ち上げた。
擦りむいた皮膚から、赤い血が細く滲み出している。砂利が肌に食い込んでいて、じんじんと熱を帯びた痛みが腕を駆け上がった。
その痛みは、確かにそこにあった。
息を詰めて見つめているうちに、血の滲んだ傷口が、ふっと、跡形もなく消えた。
まるで最初から何もなかったかのように、手のひらは滑らかな元の肌に戻っている。血の跡も、食い込んでいた砂利も、赤くなった皮膚の腫れさえも、見当たらない。
ミウはしばらく、自分の手を見つめていた。
痛みだけが、まだ残っている。
傷はないのに、ひりひりとした感覚が、手のひらの奥にこびりついていた。たった今、確かに傷ついたのだと、体の記憶が告げている。
「……ああ」
小さな声が漏れた。
驚きは、思ったより少なかった。むしろ、胸のどこかが納得していた。知っていた、と言うほうが近いかもしれない。理由も経緯も思い出せないけれど、この体がこういうものであることだけは、骨の奥に刻まれているような感覚があった。
痛みは消えない。傷だけが消える。
それが自分の「ふつう」なのだと、ミウは誰に教わるでもなく理解していた。
手のひらをぎゅっと握り、開き、また握る。残った痛みが、少しずつ薄れていくのを待ちながら、ミウは小川の水音に耳を澄ませた。
「痛いのは、嫌だな」
ぽつりとつぶやく。
それは、取り立てて深い意味のない、ごく素直な感想だった。けれど、口に出した瞬間、胸の奥のほうでかすかに何かが軋んだ。誰かに、これを見られたら。そんな考えがふっとよぎり、ミウはそれを、小川の水音の向こうへ押しやった。
今は、お腹がすいている。考えるのは、あとでいい。
ミウは立ち上がり、手のひらをスカートの端で軽く払って、再び歩き出した。
*
太陽が傾き始め、丘の影が長く伸びる頃には、ミウの足取りはすっかり重くなっていた。
お腹はもう、鳴る力もなくなったように静かだった。かわりに頭の奥がぼうっと熱を帯び、視界の端が時折白くかすむ。足を一歩出すたびに、自分の体が二、三歩ぶん遅れてついてくるようだった。
木立を抜け、草地を越え、小さな丘をいくつも超えた。景色は少しずつ変わり、遠くの山並みは少しずつ近づいた。けれど、人の気配はいまだにどこにもない。
「……歩きすぎた、かな」
独り言を言う声も、ずいぶん細くなっている。
足を止めて、風に顔を向けた。夕方の風は、昼間よりも少し冷たく、草の匂いに混じって、土の乾いた匂いと、遠くの木々の匂いを運んでくる。
そのなかに、別の匂いがあった。
ミウは、はっと顔を上げた。
焼いた小麦のような、香ばしい匂い。バターのような、甘くて深い匂い。それが風の筋に乗って、かすかに、本当にかすかに、鼻先をくすぐっていった。
お腹が、ぎゅるりと鳴った。さっきまで黙っていたのが嘘のように、大きな音で。
「……っ」
顔が熱くなる。誰もいないのに、思わず手でお腹を押さえた。
「あっち……?」
風上のほうへ顔を向けると、なだらかな丘の向こうに、細い道のようなものが見えた。踏み固められた土の筋が、草の間を縫うように続いている。誰かが日常的に歩いている道だ。
ミウは、その道に向かって歩き出した。
さっきまで重かった足が、不思議と少しだけ軽くなる。匂いに引っ張られるように、道へ出る。道の先、丘の頂上に、ぽつんと、小さな人影が立っていた。
夕陽を背にして、輪郭だけが金色に縁取られている。
籠を腕に提げたその人影は、ミウがこちらへ向かってくることに気づいたのか、ゆっくりとこちらへ体を向けた。
ミウは足を止めた。
近づくにつれて、その姿が少しずつはっきりしてくる。ふわりと広がる髪が、夕風に揺れている。こちらを見つめる目は、驚いたように少し丸く、けれど警戒というより、気遣いの色をしていた。
その人は、籠を持っていないほうの手を軽く上げた。
「あら……こんにちは。ううん、もうこんばんはかしら」
柔らかい声だった。
ミウは、返事をしようと口を開いた。けれど、喉が乾ききって、うまく声が出ない。そのとき、体がふらりと傾いた。
「あっ」
視界が揺れる。膝が笑う。ミウは必死に踏ん張ろうとしたが、足に力が入らなかった。倒れる、と思った瞬間、細い腕が素早く肩を支えた。
「大丈夫? ちょっと、しっかりして」
近くで聞こえる声は、さっきよりもっと優しかった。ふわりと、焼きたてのパンの匂いが鼻をくすぐる。
ミウは、ぼやけた視界のなかで、その人の顔を見上げた。
「……おなか、すいて、て」
絞り出すように言うと、相手は一瞬きょとんとして、それから、ふっと表情を和らげた。
「まあ、そうだったのね。それは大変だわ」
その言い方には、笑うでも茶化すでもなく、ただ目の前の困りごとを、当たり前のように受け止める響きがあった。
*
草の上に腰を下ろし、ミウは相手が籠から取り出したものを、じっと見つめていた。
まだほんのりと温かい、丸いパン。表面にはこんがりと焼き色がついていて、割ると中から湯気が立ち上る。甘いバターの匂いが、鼻の奥まで入り込んでくる。
「焼きたてなの。よかったら、どうぞ」
その人は、ミウの隣に膝を折って座り、パンの片方を差し出した。夕陽に照らされて、髪の端が金色に透けている。
ミウは、両手でそれを受け取った。思ったより重く、ずっしりしていた。指に触れる温もりが、ゆっくりと手のひらから腕へ広がっていく。
「……いいの?」
「もちろんよ。そんなに疲れた顔をしていたら、放っておけないわ」
ミウは、手の中のパンを見つめた。
お腹はすいている。ひどくすいている。けれど、どうしてだろう。かぶりつく前に、手が止まってしまった。
やがてミウは、パンを二つに割った。
大きいほうを手元に残し、小さいほうの片割れを、相手に向かって差し出す。
「……はんぶん、どうぞ」
相手は、目を瞬かせた。
「え?」
「だって、これ、あなたのでしょう。私がぜんぶもらったら、あなたの分がなくなっちゃう」
ミウ自身も、少し驚いていた。口が勝手に動いていた。理由を考えるより先に、分けなくちゃ、という気持ちが、体の中心から湧き上がってきたのだ。
相手はしばらくの間、ミウの手に載った小さなパンの片割れを見つめていた。それから、ふっと小さく息を吐き出すように笑った。
「私はお昼にいただいたから、大丈夫よ。それはあなたのぶんだわ」
「でも」
「ずいぶんおなかがすいているんでしょう。遠慮しないで」
ミウは、手の中のパンを見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……ごめん。変だよね。私、よくわからないんだけど」
言葉を探しながら、ゆっくり続ける。
「誰かといるとき、食べ物は分けるものだって、そう思ってるみたい。どうしてかは、わからないけど」
相手は少し首をかしげて、ミウの顔を覗き込んだ。責めるでも、呆れるでもなく、ただ静かに、その言葉を受け取る目だった。
「ふふ。素敵な癖ね」
「くせ?」
「ええ。分けようとする気持ちは、とても大切なものよ。でも、今のあなたには、まずおなかを満たすことのほうが大事だわ」
そう言って、相手はミウの手から小さな片割れを受け取り、それを、そっとミウの大きなほうの上に重ねた。
「だから、これは全部食べてちょうだい。お返しがしたいなら、元気になってからでいいのよ」
ミウは、重なった二つのパンを見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。知らない人なのに。名前も、顔も、さっき会ったばかりなのに。
かぶりつくと、外側の皮が香ばしく崩れ、中からふわりと柔らかな生地が現れた。小麦の甘みと、ほのかな塩気と、溶けたバターの深い味。口の中いっぱいに広がったそれは、どんなご馳走よりも、ずっと美味しかった。
一口、また一口。
夢中で食べているうちに、目の奥がつんと熱くなった。理由はわからない。ただ、この味が、ひどく懐かしいような、胸に染みるような気がした。
「……おいしい」
口いっぱいに頬張ったまま、くぐもった声で言う。
「それは、よかったわ」
隣の人は、にこにこと、本当に嬉しそうに笑っていた。
ミウは食べ終えて、指についたパンくずを舐め取り、ようやく、ほうっと息をついた。体の中に、温かいものが満ちていく。ぼうっとしていた頭が、少しずつ冴えてきた。
「ありがとう。本当に、助かった」
顔を上げて、まっすぐに相手を見る。
「私、ミウっていいます」
「ミウさん」
その人は、名前を確かめるように繰り返してから、小さく微笑んだ。
「私はアヤよ」
アヤ、とミウは心の中で呼んでみた。やわらかな響きだった。
「ミウさんは、どこから来たの? このあたりでは、あまり見かけない顔だと思って」
ミウは、少しだけ視線を落とした。
「……わからないの」
正直に答える。
「気がついたら、あの丘で寝てて。自分の名前がミウだってことは、わかるんだけど。それ以外は、何も。自分がどんななのかも、わからないの」
アヤは、驚いたように目を見開いた。けれど、疑う色も、困惑のあまり距離を取るような気配もなかった。ただ、静かに、ミウの言葉が最後まで終わるのを待っていた。
「そう……それは、困ったでしょうね」
それだけを、ごく穏やかに言った。
夕陽が、丘の稜線に沈みかけていた。空の高いところには、うっすらと星が顔を出し始めている。風が冷たくなり、ミウは小さく身震いした。アヤは、それに気づいて、肩にかけていた薄い布をそっと外した。
「これを羽織って」
「え、でも」
「風邪をひいてしまうわ」
ミウの肩に、ふわりと布が掛けられた。アヤの体温が、まだ残っている。柔らかくて、少し甘い匂いがした。
ミウは、その布の端をぎゅっと握った。
「アヤは、どうして、こんなによくしてくれるの」
思わず口をついて出た問いに、アヤは少しだけ考えるように視線を空へ向けた。
「どうしてかしらね」
そう言って、小さく首をかしげる。
「おなかをすかせて困っている子がいたら、助けたいと思うのは、当たり前のことだと思っていたの。理由を聞かれると、ちょっと答えに困ってしまうわ」
その答えが、あまりにも自然で、飾り気がなくて、ミウは言葉を失った。
それから、ぽつりと続けた。
「……いい人なんだね、アヤは」
「そう言ってもらえると、嬉しいわ」
アヤは、ほんの少し照れたように笑った。
*
それから、ふたりはしばらく、並んで草の上に座っていた。
空の色が、橙から紫へ、紫から深い群青へと移り変わっていく。星の数が、ひとつ、またひとつと増えていく。夜の気配が、静かに丘を覆い始めていた。
ミウは、ふと、立ち上がりかけたアヤを見上げた。
「アヤは、この近くに住んでるの?」
「ええ。この道を少し進んだ先に、家があるのよ」
アヤは籠を持ち直しながら、言った。
「ミウさん。よかったら、うちに来ない?」
ミウは、目を丸くした。
「え」
「今夜は冷えそうだもの。ここで夜を明かしたら、きっと体に障るわ。それに、知らない場所でひとりきりは、心細いでしょう」
ミウは、返す言葉を探した。
ありがたい、と思う。けれど同時に、さすがに申し訳なさが先に立った。名前しか知らない自分が、そこまで甘えてしまっていいのだろうか。
「でも、迷惑じゃない? 私、会ったばかりの、知らない人なのに」
「迷惑なんかじゃないわ」
アヤはきっぱりと言った。それから、少しだけ言いにくそうに、視線を逸らした。
「ただ……家には、私の妹たちがいるの。突然のお客さんに、びっくりするかもしれないわ。悪い子たちではないのだけれど」
「妹たち?」
「ええ。六人いるのよ」
「六人」
ミウは、思わず繰り返した。
「ずいぶん、賑やかそうだね」
「ええ、とても」
アヤは、どこか誇らしげで、少しだけ困ったような顔で笑った。その表情から、妹たちのことが、本当に大切なのだということが伝わってきた。
「みんな、それぞれに気難しいところもあるけれど……根は優しい子たちなの。ミウさんのことがわかれば、きっと、わかってくれるわ」
ミウは、少し考えた。
知らない人の家に行く。しかも、六人もの妹たちがいる家。警戒されるかもしれない。追い返されるかもしれない。
けれど。
ミウは、アヤの手元の籠を見つめた。パンの香りがまだ残っている。この匂いのする家が、冷たい場所であるはずがない、と思った。
「……うん。行ってみたい」
顔を上げて、はっきりと答えた。
「もし追い出されたら、そのときは、また丘に戻って寝るから」
「それは困るわね。そのときは、私が説得するわ」
アヤは、くすりと笑った。
ふたりは、道を歩き始めた。
*
夜の帳が降りた丘を、アヤの持つ小さな灯りだけが照らしていた。揺れる光が足元の草を黄色く染め、ふたつの影が、長く、短く、寄り添うように伸び縮みする。
歩幅の違いに気づいたのか、アヤは、ミウが追いつける速さにさりげなく合わせてくれていた。ミウは、それがわかって、少しだけ胸が熱くなった。
「ミウさんは、よく歩くの?」
不意に、アヤが尋ねた。
「え?」
「道を歩く姿が、とても楽しそうだったから。丘の上から、見えていたのよ」
ミウは、少し恥ずかしくなって、頬を掻いた。
「あ、見られてたんだ。……うん。たぶん、好きなんだと思う。歩くの。行き先がなくても、どこかへ向かってるだけで、わくわくするから」
「素敵ね」
「変かな」
「いいえ」
アヤは、静かに首を振った。
「私の妹にも、散歩が好きな子がいるの。きっと、話が合うわ」
「そうなの?」
「ええ。もっとも、その子は、素直にそうは言わないかもしれないけれど」
その言い方がおかしくて、ミウは思わず声をあげて笑った。笑ってから、自分がこの場所に来て、初めて笑ったのだと気がついた。
夜風が、頬を撫でていく。昼間の不安は、いつの間にか薄れていた。胸の奥には、まだ霧のような空白がある。自分が誰なのか、どこから来たのか、何ひとつわからないままなのに、不思議と心は軽かった。
道は、緩やかに下り、小さな木立を抜け、再び開けた場所へと続いていた。
やがて、前方に、ぽつんと明かりが見えた。
ひとつではなかった。大きさの違ういくつもの窓から、橙色の光がこぼれている。夜の闇のなかで、その光だけが、世界の中心のように温かく灯っていた。
近づくにつれて、建物の輪郭が浮かび上がる。落ち着いた色合いの壁、斜めに傾いた屋根、煙突から立ちのぼる細い煙。庭には、手入れされた草花が、夜露に濡れて静かに揺れている。
そして、風に乗って、かすかに声が聞こえてきた。
誰かが笑っている声。誰かが何かを言い返す声。食器が触れ合う、小さな音。
ミウは、思わず足を止めた。
胸の奥が、きゅうっと、締めつけられるように鳴った。
知らない家のはずなのに。知らない声のはずなのに。
なぜだか、とても、遠くから、長い時間をかけて辿り着いたような気がして、ミウはそっと自分の胸に手を当てた。
「ミウさん?」
アヤが、振り返る。
ミウは、ゆっくりと首を振った。
「ううん。ちょっと、びっくりしただけ。あったかそうな家だなって」
「ええ。賑やかで、少し騒がしいけれど、いい家よ」
アヤは、玄関の前に立ち、灯りを足元に置いた。
ミウは、その隣に並んだ。
目の前の扉は、使い込まれた木の色をしていた。取っ手には、誰かの手が何度も触れてすり減ったような、小さな艶がある。扉の向こうからは、さっきよりも近く、いくつもの声や気配が聞こえる。
窓の端で、カーテンがほんのわずかに揺れた。誰かが、外の様子をうかがっているようだった。
「……」
ミウは、ごくりと唾を飲み込んだ。
アヤは、そんなミウの横顔を見て、小さく笑う。
「緊張しているの?」
「ちょっとだけ」
「大丈夫よ」
アヤは、ミウの肩にそっと手を置いた。
「最初はみんな、驚くでしょうけれど。きっと大丈夫。私がついているわ」
その言葉が、ミウの胸に、静かに沁み込んでいった。
ミウは、小さく息を吸い込んだ。夜の空気のなかに、パンの匂いと、スープの匂いと、暖かな炎の匂いが混じり合っている。
目を閉じ、それから、開く。
「うん」
ミウは、はっきりと頷いた。
アヤが、扉の取っ手に手をかける。
蝶番が、小さく軋む音を立てた。
そして、扉の向こうの光が、ゆっくりと、ミウの足元に流れ込んできた。