八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
扉が開いた瞬間、音が止まった。
さっきまで確かに聞こえていた笑い声も、食器の触れ合う音も、まるで誰かが一度に水を差したように、ぴたりと消えた。残ったのは、暖炉の薪がはぜる小さな音と、鍋の中でスープが静かに煮える音だけ。
ミウは、アヤの背中越しに、そっと家の中を覗き込んだ。
広い一間だった。
入ってすぐの場所に、大きな長いテーブルが据えられている。使い込まれた木の天板には、無数の細かな傷が刻まれ、その上にいくつもの皿とカップが並べられていた。奥には台所があり、壁際の暖炉では、橙色の炎が揺れている。天井から吊るされた束ねた乾燥ハーブが、ゆっくりと影を揺らし、暖炉の熱で温められた空気には、スープの湯気と薪の匂い、焼いた小麦の香りが、溶け合うように満ちていた。
そして、そのどこにも、ぴたりと動きを止めた人影があった。
六人。
鍋を木べらでかき混ぜていた手を止めて、こちらを振り返っている子。テーブルに身を乗り出したまま、ぽかんと口を開けている子。窓際の壁にもたれて、腕を組んだまま、鋭い視線を向けている子。ぬいぐるみを膝に抱えたまま、椅子の背に深くもたれ、片足をぶらぶらさせていた子。テーブルの端で頬杖をついたまま、とろんとした目をこちらに向けている子。そして、テーブルの下から、ちらりと顔だけを覗かせている、いちばん小さな子。
六つの視線が、一斉にミウへ注がれた。
ミウは、思わず背筋を伸ばした。
誰も、何も言わない。
時間が、ひどくゆっくり流れているように感じられた。肩に掛けたアヤの布の端を、ぎゅっと握りしめる。
「ただいま」
最初に口を開いたのは、アヤだった。いつもと変わらない、穏やかな声だった。
「帰り道で、おなかをすかせた子に会ったのよ。今夜は、うちで休んでもらおうと思って、連れてきたの」
「……連れてきたの、って」
窓際の子が、低い声で言った。
鋭い目をした子だった。壁から体を離し、一歩、前へ出る。その動きは、さりげなく、テーブルの下の小さな子と、ミウの間に立つような位置取りだった。
「アヤ。そちらの方は、どなたですの」
「ミウさんというのよ」
「お名前を聞いているのではなくてよ」
短く切り捨てるような声だった。目は、アヤではなく、ミウに向けられたまま、微動だにしない。
「どこのどなたで、どうしてここへいらしたのか、ということですわ」
ミウは、その視線をまっすぐ受け止めた。
睨まれている、と思った。けれど、不思議と怖くはなかった。その目の奥にあるのは、敵意というより、何かを必死に守ろうとする子の、張りつめた光に見えたからだ。
「ごめんなさい。急に押しかけて」
ミウは、小さく頭を下げた。
「ミウです。私も、自分がどこの誰なのか、よくわからなくて。丘の上で目が覚めたら、何も思い出せなかったの。お腹がすいて倒れそうになってたところを、アヤに助けてもらいました」
一拍の沈黙が落ちた。
それから、椅子の背にもたれていた子が、ふんっと鼻を鳴らした。
「ふーん。記憶がない、ね」
からかうような、少しとげのある声だった。片足をぶらぶらさせたまま、じろじろとミウを上から下まで眺めている。
「ずいぶん、都合のいい話じゃない。嘘をつくなら、もうちょっとマシなのを考えなさいよ」
「クロエ」
鍋の前に立っていた子が、たしなめるように名前を呼んだ。
「いきなり、そんな言い方しなくても」
「だって、変じゃない。拾われてきた子が、記憶がない、なんて。ねえ、セバスチャンもそう思うでしょ?」
クロエが膝のぬいぐるみに向かって首をひねる。ぬいぐるみは、当然ながら、何も答えなかった。
「疑わしいと思うのは、仕方ないけど」
鍋の前の子が、困ったように眉を下げた。
「でも、まずは話を聞こうよ。まだ何も聞いてないでしょう」
「でも!」
テーブルから身を乗り出していた子が、元気よく声を上げた。
「嘘をついてる感じは、しないわ! 私、そういうの、わかるの!」
ぱっと立ち上がって、ミウのほうへ駆け寄ろうとする。それを、窓際の子が素早く片手を伸ばして制した。
「エピカ、落ち着きなさいな」
「ええー、でもね、ヴィヴィ。見て、これはきっと物語の始まりよ。丘で目覚めた名もなき旅人が、夜の扉をたたく……なんて、ぴったりじゃない!」
「落ち着きなさい、と言っていてよ」
ヴィヴィ、と呼ばれた子は、エピカの肩を押さえたまま、視線だけをミウから逸らさなかった。
エピカは、不満そうに唇を尖らせながらも、素直に足を止める。それでも、好奇心いっぱいの目は、ずっとミウに釘付けだった。
ミウは、そのやりとりを、不思議な気持ちで眺めていた。
それぞれ、まったく違う反応をしている。けれど、誰ひとりとして、ミウを乱暴に追い出そうとはしていなかった。警戒し、疑い、戸惑いながらも、互いに声を掛け合い、諫め合っている。そこには、長い時間をともに過ごした者同士にしかない、独特の呼吸があった。
ミウは、ふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。
羨ましい、と思った。
理由はわからない。けれど、このやりとりを、ずっと見ていたいと思った。
「まあまあ。みんな、少し落ち着いてちょうだい」
アヤが、手を軽く叩いた。
ぱん、と小さな音が鳴ると、不思議と部屋の空気が、少しだけ緩んだ。
「先に、紹介させてね。ミウさん、この子たちが私の妹たちよ」
アヤは、ひとりずつ手で示しながら、順番に名前を呼んだ。
「こちらが、シオン」
鍋の前に立っていた子が、小さく会釈した。ふんわりした雰囲気の中に、どこか気を張った生真面目さが滲んでいる。手には、まだ木べらを握ったままだった。
「その隣が、エピカ」
「よろしくね! ようこそ、この物語の舞台へ!」
元気いっぱいに手を振る。ヴィヴィに肩を押さえられたまま、体だけが勢いよく揺れていた。
「窓際にいるのが、ヴィヴィ」
「……」
ヴィヴィは、返事をしなかった。会釈もしない。ただ、無言でミウを見つめているだけだった。
「それから、クロエ」
「あちしがクロエよ。この子はセバスチャンなの」
足をぶらぶらさせたまま、ひらりと片手を上げる。口調こそ軽いが、目はしっかり観察する光を宿していた。膝の上のぬいぐるみを、ミウに向けて軽く持ち上げてみせる。
「テーブルの端にいるのが、イードよ」
頬杖をついていた子は、ゆっくりと瞬きをした。眠たげな、どこか焦点の定まらないような目だった。
「……ふぁ……こんばんは……」
小さな、ぼんやりした声だった。
「そして、いちばん小さいのが、ウイ」
テーブルの下から顔だけを出していた小さな子が、ぴくりと肩を震わせた。自分の袖の端をぎゅっと握りしめて、大きな目が、ミウとアヤの顔の間を、おずおずと行き来している。
ミウは、それぞれの顔を、順番に見渡した。
ひとりひとりが、まるで違っている。声の調子も、表情も、立ち方も。けれど、アヤの紹介を聞いているときの、全員の目の端に、同じ柔らかさが浮かんでいることに、ミウは気づいていた。
皆、アヤのことが、大好きなのだ。
「……ミウ、です」
ミウは、改めて、深々と頭を下げた。
「突然、ごめんなさい。迷惑だったら、すぐに出ていくから。でも、もしよかったら、少しだけ、休ませてもらえたら嬉しいです」
誰も、すぐには答えなかった。
しばらくして、ぽつりと声が聞こえた。
「……ほっぺ……」
テーブルの下から、消え入りそうな声だった。
ミウが顔を向けると、ウイが、ほんの少しだけ、テーブルの影から身を乗り出している。ミウの顔を、じいっと見つめていた。目が合うと、慌てて視線をそらし、袖に顔を半分うずめる。
「……もちもち……」
空気が、一瞬止まった。
それから、ぷっ、と誰かが吹き出した。クロエだった。慌てて口を押さえたが、肩がかすかに震えている。エピカが「あはは!」と声をあげて笑い、シオンまでもが、困ったように目を伏せて、口元を緩めた。
ミウは、思わず自分の頬に手をやった。
「……もちもち、してる?」
「……うん」
ウイは、袖の陰から、小さくうなずいた。
「ウイの、も……もちもち……」
そう言って、そうっと自分の頬を、片手でむにっとつまんでみせる。
ヴィヴィだけが、笑わなかった。けれど、張りつめた肩の線が、ほんの少しだけ、ほどけたように見えた。
「……とりあえず」
シオンが、小さく咳払いをした。
「立ったままじゃ、話もできないよ。まずは座って。ちょうど、夕食の用意ができたところだし」
「ええ、そうしましょう」
アヤが、嬉しそうにうなずく。
シオンは、ちらりとヴィヴィに視線を向けた。ヴィヴィは、何か言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わずに視線を逸らした。それを見て、シオンはほっと小さく息をつく。
その一瞬の気遣いのやりとりを、ミウは見逃さなかった。
*
長いテーブルには、七つの椅子が並んでいた。
ひとつひとつ形が少しずつ違うのは、長い年月のあいだに、それぞれが自分の使いやすいように手を加えたからなのだろう。背もたれに布が掛けられていたり、座面にクッションが縛りつけられていたり、足元に踏み台が置かれていたり。
けれど、どの椅子も、すでに誰かの席だった。
「あ」
ミウは、思わず足を止めた。
「椅子、ないよね。私、立ってるから大丈夫」
「それはだめよ」
アヤが、すぐに首を振った。
「少し待っていてね」
そう言って、アヤは部屋の隅へ向かい、壁際に置かれていた小さな木の丸椅子を、ひょいと持ち上げた。ところどころ塗りが剥げた、古びた丸椅子だった。それを、自分の席の隣に置き、座面の埃を、手の甲でそっと払う。
「どうぞ。ここへ座ってちょうだい」
「……いいの?」
「もちろんよ」
ミウは、おずおずと近づいて、その丸椅子に腰を下ろした。座面は少し硬くて、足が床に届くか届かないかの高さだった。けれど、不思議と、居心地は悪くなかった。
正面には、ヴィヴィが座っている。ミウと目が合うと、ヴィヴィは、あからさまに視線を逸らした。
右隣は、アヤ。左隣には、テーブルの下から這い出してきたウイが、さりげなく、いつの間にか座っていた。
「……あの……ここ、すわっても、いい……?」
ミウの顔を見上げて、蚊の鳴くような声で聞く。
「うん。いいよ」
ミウが答えると、ウイは、ほっとしたようにこくんとうなずいた。そうして、ちらちらと、ミウの顔と手元を、何度も盗み見る。
シオンが、鍋から木の器にスープをよそい、順番に配っていく。湯気とともに、野菜と豆を煮込んだ優しい匂いが立ちのぼった。透き通った琥珀色のスープの底に、ほろほろと崩れた根菜が沈んでいる。テーブルの中央には、焼きたてのパンが山のように盛られた籠が置かれていた。
ミウの前にも、同じ器が置かれた。
「はい。熱いから、気をつけてね」
シオンが、小さな声で言った。
「あ、ありがとう」
ミウは、思わず感謝を口にした。シオンは、少し驚いたように目を瞬かせて、それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
全員の前に器が並ぶと、アヤが、静かに両手を合わせた。
それに倣うように、姉妹たちが、順に手を合わせる。ミウも、少し遅れて、見よう見まねで手を合わせた。
「いただきます」
七人の声が、重なる。
ミウは、戸惑いながら、小さくそれに続いた。
「……いただきます」
スプーンを手に取り、一口、スープを啜る。
優しい味が、舌の上に広がった。野菜の甘みと、豆のほくほくした食感、ほんのり利いた香草の香り。お腹の底に、じんわりと温かさが落ちていく。
「……おいしい」
無意識に、言葉がこぼれた。
その瞬間、シオンの肩が、小さく震えた。
それは、ほんのわずかな反応だった。けれど、ミウの目には、確かに映った。作った人にしかわからない、小さな喜びが、静かに滲んでいた。
食事は、しばらくの間、奇妙な沈黙のなかで進んだ。
スプーンが器に触れる音。パンを千切る音。誰かが小さく咳をする音。普段なら、きっと賑やかなやりとりが飛び交うのだろう食卓が、今夜は、ミウという異物を意識して、ぎこちなく静まり返っている。
視線が、あちらこちらから、ちらちらと向けられる。
けれど、それを不快には感じなかった。
見られている。確かめられている。そう思うと、ミウは自然と背筋が伸びた。ここで、この子たちの食卓に座らせてもらっているのだ、という実感が、ゆっくりと胸に染みてくる。
ミウは、パンの籠に手を伸ばした。
ひとつ手に取って、ふと、隣を見る。
ウイが、自分のパンを両手で抱えるように持ちながら、ミウの手元をじっと見つめていた。まだ、手をつけていないらしい。ミウの手の中のパンと、自分のパンを、交互に見比べている。
ミウは、ほとんど反射的に、パンを二つに割った。
それを、片方、ウイのほうへ差し出す。
「はい。はんぶん」
「……え……?」
ウイが、目をまるくした。
「ウイの、あるよ……」
「うん。でも、はんぶんこ」
ミウは、にこっと笑って言った。
「ひとりで食べるより、分けたほうが、おいしい気がするから」
それは、口にしてから、自分でも少し驚いた言葉だった。けれど、嘘ではなかった。
ウイは、差し出されたパンをしばらく見つめていたが、やがて、おずおずと両手を伸ばして、それを受け取った。そうして、自分の手の中のパンと見比べて、ぱっと顔を輝かせた。
「ふたつ、ある……」
「そうだね」
「ウイのと、ミウの……」
ウイは、嬉しそうに、受け取ったパンをぎゅっと抱きしめた。
その様子を、アヤが優しい目で見つめている。
「……何、それ」
向かいから、低い声が飛んできた。
ミウが顔を上げると、ヴィヴィが、じっとミウを見つめていた。さっきよりも、さらに鋭い目で。
「今のは、何のおつもりかしら」
「何のって」
「ウイに食べ物を渡しましたわね。それは、どういう意味ですの」
ミウは、きょとんとした。
「どういう意味って……ただ、分けようと思っただけだけど」
「そうは見えなくてよ」
ヴィヴィの声は、静かだったが、棘が潜んでいた。
「毒見のおつもり? ご自分が先に口をつけて、安全だと示したいのかしら。それとも、ウイに取り入ろうと」
「ヴィヴィ」
シオンが、小さく咎めるように呼んだ。
けれど、ヴィヴィは視線を動かさない。
ミウは、その言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼した。毒見。取り入る。確かに、知らない人間が突然現れて、いちばん幼い子に食べ物を差し出したら、そう受け取られても不思議ではない。
ミウは、手の中に残ったパンの半分を見つめて、それから、もう一度、顔を上げた。
「そう見えるよね」
怒るでも、慌てるでもなく、素直に頷いた。
「ごめんなさい。私、そういうつもりじゃなかったんだけど……そう思われるのは、当たり前だと思う。知らない人が、急にこんなことしたら」
「……」
「でも、本当に、ただの癖みたいなものなの。理由は、自分でもわからなくて」
ミウは、残ったパンの端を、ひと口かじってみせた。
「私が先に食べたって、証拠にはならないけど。毒なんか、入ってないよ。たぶん」
「たぶん、って」
クロエが、堪えきれないように吹き出した。
「なにそれ、たぶんって。自信なさすぎでしょ」
「だって、焼いたの私じゃないし」
ミウが真顔で答えると、エピカが、ぶはっと勢いよく笑い声をあげた。
「あはは! そうよね! ミウが焼いたんじゃないものね!」
「エピカ、静かにしなさいな」
「だって、おもしろいんだもの!」
食卓の空気が、わずかに揺れた。
誰かが、くすりと笑う。誰かが、咳払いでごまかす。シオンも、器に目を落としたまま、肩を小さく震わせていた。
ヴィヴィだけが、笑わなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ、険しかった目の端が、わずかに揺らいだように見えた。
「……変な方ですこと」
ヴィヴィは、そう小さく吐き捨てて、自分のスープに視線を落とした。
そのとき、テーブルの端から、ゆるやかな声が聞こえた。
「……ふぁ……」
イードだった。頬杖をついたまま、半分閉じかけた目で、ミウをぼんやりと眺めている。
「……悪い人じゃ……ない気がする……」
「あなたは、いつもそう言うでしょう」
ヴィヴィが、呆れたように言った。
「……だって……いい匂いが、するから……ふぁ……」
「匂いだけで人を判断するものではなくてよ」
「……そう……かなあ……」
イードは、ふわふわとした声で答えて、また目を閉じかけた。
「ごめんね」
ミウは、もう一度、ヴィヴィに謝った。
ヴィヴィは、返事をしなかった。けれど、スープを啜る手が、さっきよりも少し、ゆっくりになっているような気がした。
*
食事が終わる頃には、窓の外は、すっかり夜の色に沈んでいた。
暖炉の火が、ゆらゆらと壁に影を映している。空になった器を、シオンがてきぱきと片付けていく。エピカは、満腹になったのか、椅子の背にぐったりともたれて、ふにゃふにゃと何かつぶやいていた。クロエは、ぬいぐるみを抱えたまま、天井を眺めている。イードは、いつの間にか、頬杖をついたまま、うとうとと船を漕いでいた。ウイは、ミウの隣で、満足そうに、最後のパンのかけらをもぐもぐと噛んでいる。
ミウは、何か手伝おうと立ち上がりかけた。
「あ、私、お皿」
「いいよ、大丈夫」
シオンが、すぐに首を振った。
「お客さんなんだから、座ってて」
「でも」
「今夜は、ゆっくり休むのがいちばんの仕事だよ」
その言い方が、とても優しくて、ミウはそれ以上、反論できなかった。大人しく座り直す。
けれど、片付けるシオンの手つきを、じっと目で追っていた。
彼女は、ひとりで、すべてをこなしている。他の姉妹に頼む様子もなく、ごく当たり前のように、皿を重ね、カップを運び、テーブルを拭いている。誰も彼女を手伝おうとしないのは、薄情だからではなく、きっと、いつもそうだからなのだろう。
そう思ったとき、ミウの胸に、小さな引っかかりが生まれた。
けれど、まだ、それが何なのか、うまく言葉にならなかった。
「さて」
アヤが、静かに口を開いた。
「ミウさんの今夜のことだけれど」
その一言で、部屋の空気が、再び張りつめた。
エピカが、ぱちりと目を開ける。クロエが、天井から視線を戻す。イードも、うっすらと目を開けた。シオンは、布巾を握ったまま、動きを止めた。
「空いている部屋が、ひとつあるのよ。長く使っていないから、少し埃っぽいかもしれないけれど、今夜はそこで休んでもらおうと思うの」
「お待ちなさい」
ヴィヴィが、すぐに口を挟んだ。
「今夜だけ、というお話ではないのでしょう」
「ええ、そうね」
アヤは、穏やかに頷いた。
「明日以降のことは、明日、ミウさんと一緒に考えるわ。でも、行く当てのない子を、すぐに追い出すつもりはないのよ」
「それは、つまり、ずっとここにいさせるということかしら」
「ずっと、とは言っていないわ。落ち着くまでの間ね」
「その『落ち着くまで』が、いつなのかを聞いているのですわ」
ヴィヴィの声が、少し高くなった。
「アヤ。あなたは、すぐ人を信じてしまう。それが、あなたのいいところだということは、わかっていましてよ。でも、この方が何者かもわからないのですわ。もし、悪意のある方だったら」
「悪意のある子が、パンを半分に分けたりするかしら」
「それは……」
ヴィヴィが、言葉に詰まった。
アヤは、ゆっくりと、ヴィヴィのほうへ向き直った。
「ヴィヴィが心配してくれているのは、わかっているわ。みんなのことをいつも一番に考えてくれているのも、知っているのよ。ありがとう」
その声は、決して責めるものではなかった。ただ、真っ直ぐで、温かかった。
「でも、おなかをすかせて倒れかけていた子を、見て見ぬふりはできなかったの。わがままを言って、ごめんなさいね」
「……」
ヴィヴィは、唇を噛んで、視線を落とした。
「みんなに、無理強いはしないわ」
アヤは、静かに続けた。
「気が進まない子がいるのは、当然だもの。だから、期限は決めずに、様子を見る、というのはどうかしら。その間に何か問題があったら、すぐにみんなで話し合いましょう」
「様子を見る、か」
シオンが、おそるおそる、口を開いた。
「それなら、確かに、すぐに結論を出さなくて済むね。ヴィヴィも、それなら……」
「わたくしは、認めたわけではありませんわ」
ヴィヴィが、短く言い切った。
「でも、アヤが決めたことを、無理に覆すつもりもありません」
それは、精一杯の譲歩に聞こえた。
「何かあったら、そのときは、わたくしが追い出しますわ。よろしくて?」
ヴィヴィの鋭い目が、ミウに向けられた。
ミウは、まっすぐにその目を見つめ返した。
「うん」
迷いなく、頷いた。
「それでいいよ。何かあったら、言って。ちゃんと出ていくから」
「……」
ヴィヴィは、一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
もっと反発されると思っていたのかもしれない。条件を値切られるとか、何かごまかされるとか。けれど、ミウはあっさりと、その要求を受け入れた。
ヴィヴィは、ふいと顔を背けた。
「……でしたら、よろしいですわ」
そのやりとりを見ていたクロエが、肩をすくめた。
「なんか、拍子抜けよね。もっとこう、ひと悶着あるかと思ってたのに」
「ひと悶着、ほしかったの?」
「別に、ほしくはないけど」
クロエは、ぷいと口を尖らせた。
「でも、記憶がないとか、ほっぺがもちもちとか、わけわかんない子だなって思っただけなの!」
「ほっぺは、関係ないでしょ」
シオンが、小声でたしなめる。
「……関係、ある……」
ウイが、ミウの隣で、袖を握りしめたまま、まじめな顔で言った。
「ほっぺ……だいじ……」
今度こそ、全員が、ほとんど同時に笑い出した。ヴィヴィでさえ、横を向いたまま、口元をぎゅっと引き結んで、肩を震わせている。
ミウは、その笑い声に包まれながら、自分も、いつの間にか笑っていることに気がついた。
*
案内された部屋は、家の奥の、小さな一室だった。
アヤが手にした灯りが、部屋の中をぼんやりと照らし出す。窓際に置かれた簡素な寝台。壁際の小さな机と椅子。長く使われていなかったせいか、空気は少しひんやりとして、埃と、乾いた木の匂いがした。
けれど、窓辺には、小さな花瓶が置かれていた。中には、野の花が一輪だけ、挿さっている。まだ、しおれていない。
「今朝、摘んだものなのよ」
アヤが、少し照れたように言った。
「使っていない部屋だけれど、花だけは、時々入れ替えているの。たまたま、まだ咲いていたのね」
「……うん。いい匂い」
ミウは、その花に顔を寄せた。ほのかに、甘い香りがする。丘で目覚めたとき、風に混じっていた、あの名前のわからない花の香りに、よく似ていた。
「寝具は、さっき整えておいたわ。足りないものがあったら、遠慮なく言ってね」
「ありがとう。……あの、アヤ」
「なあに?」
「紙と、書くもの、ってあるかな。少しだけ、貸してもらえたら嬉しい」
アヤは、不思議そうに首をかしげた。
「あるわよ。何か書くのかしら」
「うん。……忘れたくないから」
ミウは、少し照れくさそうに頬を掻いた。
「私、何も覚えてないでしょう。だから、今日あったこと、せめてこれからのことは、ちゃんと残しておきたくて」
アヤは、しばらくミウの顔を見つめていた。それから、柔らかく微笑んだ。
「少し待っていてね」
アヤは、いったん部屋を出ていき、まもなく、小さな紙の束と、使い込まれた鉛筆を一本、持って戻ってきた。
「はい、どうぞ。足りなくなったら、また言ってちょうだい」
「ありがとう」
ミウは、それを両手で受け取った。紙は、少し黄ばんでいたが、手触りは柔らかかった。鉛筆の軸には、誰かの歯形のような小さな凹みがある。
「それじゃあ、おやすみなさい、ミウさん」
「おやすみ、アヤ」
扉が静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。
部屋に、ひとりきりになった。
ミウは、寝台に腰を下ろして、しばらく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夜空には、無数の星が瞬いている。丘のほうは、闇に沈んで、ほとんど見えない。
ほんの数時間前まで、あそこで、ひとりで寝ていたのだ。
それが、今は、屋根と壁のある部屋で、灯りのそばにいる。その事実が、まだうまく飲み込めなかった。
壁の向こうから、かすかに話し声が聞こえてくる。
誰かが、声をひそめて言い合っている。ヴィヴィの声だ。それを、シオンが、なだめるように遮っている。クロエが何か茶化して、エピカがそれに笑い、「しーっ」と誰かが咎める。ウイの小さな声と、アヤの穏やかな声。
ミウは、その音を、じっと聞いていた。
言い争いのように聞こえて、けれど、少しも冷たくない。互いを思いやる、あたたかな響きが、壁越しにも滲んでくる。
やがて、声は少しずつ遠のいていった。
ミウは、机に向かって、紙を一枚、広げた。鉛筆を握り、しばらく、白い紙の上で手を止める。
それから、ゆっくりと、一行目を書いた。
きょう。
目がさめたら、丘にいた。名前は、ミウ。それしかわからない。
おなかがすいていた。アヤにパンをもらった。おいしかった。
アヤの家には、妹が六人いる。シオン、エピカ、ヴィヴィ、クロエ、イード、ウイ。
ヴィヴィは、私を疑っている。当たり前だと思う。
クロエは、ぬいぐるみを抱えていた。セバスチャンという名前らしい。
ウイのほっぺは、もちもちしていた。
スープは、あたたかかった。
鉛筆を走らせながら、ミウは、ふっと小さく笑った。
書き連ねるうちに、頭の中の霧が、ほんの少しだけ、晴れていくような気がした。何もないはずの空白に、ひとつ、またひとつと、確かな輪郭を持つものが増えていく。
書き終えて、ミウは、最後に一行、付け加えた。
椅子がひとつ、足りなかった。アヤが、丸椅子を持ってきてくれた。
その一行を、じっと見つめる。
それから、紙を丁寧に畳んで、机の隅に置いた。
明日になれば、きっと、また何かが始まる。
ミウは、寝台に横たわり、窓辺の花の香りを吸い込みながら、ゆっくりと目を閉じた。壁の向こうでは、まだ、かすかに誰かの話し声が続いている。
その音が、ひどく遠く、ひどく温かい子守唄のように聞こえた。
遠い昔にも、こんなふうに、誰かの声を聞きながら眠った夜があったような気がした。けれど、それが本当に記憶なのか、ただの願いなのか、ミウには、もうわからなかった。
ただ、胸の奥に、小さな灯りがともっているのを感じながら、ミウは、静かに眠りへと落ちていった。