八人目の食卓   作:もちもちほっぺ

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第2話 警戒の食卓

 扉が開いた瞬間、音が止まった。

 

 さっきまで確かに聞こえていた笑い声も、食器の触れ合う音も、まるで誰かが一度に水を差したように、ぴたりと消えた。残ったのは、暖炉の薪がはぜる小さな音と、鍋の中でスープが静かに煮える音だけ。

 

 ミウは、アヤの背中越しに、そっと家の中を覗き込んだ。

 

 広い一間だった。

 

 入ってすぐの場所に、大きな長いテーブルが据えられている。使い込まれた木の天板には、無数の細かな傷が刻まれ、その上にいくつもの皿とカップが並べられていた。奥には台所があり、壁際の暖炉では、橙色の炎が揺れている。天井から吊るされた束ねた乾燥ハーブが、ゆっくりと影を揺らし、暖炉の熱で温められた空気には、スープの湯気と薪の匂い、焼いた小麦の香りが、溶け合うように満ちていた。

 

 そして、そのどこにも、ぴたりと動きを止めた人影があった。

 

 六人。

 

 鍋を木べらでかき混ぜていた手を止めて、こちらを振り返っている子。テーブルに身を乗り出したまま、ぽかんと口を開けている子。窓際の壁にもたれて、腕を組んだまま、鋭い視線を向けている子。ぬいぐるみを膝に抱えたまま、椅子の背に深くもたれ、片足をぶらぶらさせていた子。テーブルの端で頬杖をついたまま、とろんとした目をこちらに向けている子。そして、テーブルの下から、ちらりと顔だけを覗かせている、いちばん小さな子。

 

 六つの視線が、一斉にミウへ注がれた。

 

 ミウは、思わず背筋を伸ばした。

 

 誰も、何も言わない。

 

 時間が、ひどくゆっくり流れているように感じられた。肩に掛けたアヤの布の端を、ぎゅっと握りしめる。

 

「ただいま」

 

 最初に口を開いたのは、アヤだった。いつもと変わらない、穏やかな声だった。

 

「帰り道で、おなかをすかせた子に会ったのよ。今夜は、うちで休んでもらおうと思って、連れてきたの」

 

「……連れてきたの、って」

 

 窓際の子が、低い声で言った。

 

 鋭い目をした子だった。壁から体を離し、一歩、前へ出る。その動きは、さりげなく、テーブルの下の小さな子と、ミウの間に立つような位置取りだった。

 

「アヤ。そちらの方は、どなたですの」

 

「ミウさんというのよ」

 

「お名前を聞いているのではなくてよ」

 

 短く切り捨てるような声だった。目は、アヤではなく、ミウに向けられたまま、微動だにしない。

 

「どこのどなたで、どうしてここへいらしたのか、ということですわ」

 

 ミウは、その視線をまっすぐ受け止めた。

 

 睨まれている、と思った。けれど、不思議と怖くはなかった。その目の奥にあるのは、敵意というより、何かを必死に守ろうとする子の、張りつめた光に見えたからだ。

 

「ごめんなさい。急に押しかけて」

 

 ミウは、小さく頭を下げた。

 

「ミウです。私も、自分がどこの誰なのか、よくわからなくて。丘の上で目が覚めたら、何も思い出せなかったの。お腹がすいて倒れそうになってたところを、アヤに助けてもらいました」

 

 一拍の沈黙が落ちた。

 

 それから、椅子の背にもたれていた子が、ふんっと鼻を鳴らした。

 

「ふーん。記憶がない、ね」

 

 からかうような、少しとげのある声だった。片足をぶらぶらさせたまま、じろじろとミウを上から下まで眺めている。

 

「ずいぶん、都合のいい話じゃない。嘘をつくなら、もうちょっとマシなのを考えなさいよ」

 

「クロエ」

 

 鍋の前に立っていた子が、たしなめるように名前を呼んだ。

 

「いきなり、そんな言い方しなくても」

 

「だって、変じゃない。拾われてきた子が、記憶がない、なんて。ねえ、セバスチャンもそう思うでしょ?」

 

 クロエが膝のぬいぐるみに向かって首をひねる。ぬいぐるみは、当然ながら、何も答えなかった。

 

「疑わしいと思うのは、仕方ないけど」

 

 鍋の前の子が、困ったように眉を下げた。

 

「でも、まずは話を聞こうよ。まだ何も聞いてないでしょう」

 

「でも!」

 

 テーブルから身を乗り出していた子が、元気よく声を上げた。

 

「嘘をついてる感じは、しないわ! 私、そういうの、わかるの!」

 

 ぱっと立ち上がって、ミウのほうへ駆け寄ろうとする。それを、窓際の子が素早く片手を伸ばして制した。

 

「エピカ、落ち着きなさいな」

 

「ええー、でもね、ヴィヴィ。見て、これはきっと物語の始まりよ。丘で目覚めた名もなき旅人が、夜の扉をたたく……なんて、ぴったりじゃない!」

 

「落ち着きなさい、と言っていてよ」

 

 ヴィヴィ、と呼ばれた子は、エピカの肩を押さえたまま、視線だけをミウから逸らさなかった。

 

 エピカは、不満そうに唇を尖らせながらも、素直に足を止める。それでも、好奇心いっぱいの目は、ずっとミウに釘付けだった。

 

 ミウは、そのやりとりを、不思議な気持ちで眺めていた。

 

 それぞれ、まったく違う反応をしている。けれど、誰ひとりとして、ミウを乱暴に追い出そうとはしていなかった。警戒し、疑い、戸惑いながらも、互いに声を掛け合い、諫め合っている。そこには、長い時間をともに過ごした者同士にしかない、独特の呼吸があった。

 

 ミウは、ふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

 羨ましい、と思った。

 

 理由はわからない。けれど、このやりとりを、ずっと見ていたいと思った。

 

「まあまあ。みんな、少し落ち着いてちょうだい」

 

 アヤが、手を軽く叩いた。

 

 ぱん、と小さな音が鳴ると、不思議と部屋の空気が、少しだけ緩んだ。

 

「先に、紹介させてね。ミウさん、この子たちが私の妹たちよ」

 

 アヤは、ひとりずつ手で示しながら、順番に名前を呼んだ。

 

「こちらが、シオン」

 

 鍋の前に立っていた子が、小さく会釈した。ふんわりした雰囲気の中に、どこか気を張った生真面目さが滲んでいる。手には、まだ木べらを握ったままだった。

 

「その隣が、エピカ」

 

「よろしくね! ようこそ、この物語の舞台へ!」

 

 元気いっぱいに手を振る。ヴィヴィに肩を押さえられたまま、体だけが勢いよく揺れていた。

 

「窓際にいるのが、ヴィヴィ」

 

「……」

 

 ヴィヴィは、返事をしなかった。会釈もしない。ただ、無言でミウを見つめているだけだった。

 

「それから、クロエ」

 

「あちしがクロエよ。この子はセバスチャンなの」

 

 足をぶらぶらさせたまま、ひらりと片手を上げる。口調こそ軽いが、目はしっかり観察する光を宿していた。膝の上のぬいぐるみを、ミウに向けて軽く持ち上げてみせる。

 

「テーブルの端にいるのが、イードよ」

 

 頬杖をついていた子は、ゆっくりと瞬きをした。眠たげな、どこか焦点の定まらないような目だった。

 

「……ふぁ……こんばんは……」

 

 小さな、ぼんやりした声だった。

 

「そして、いちばん小さいのが、ウイ」

 

 テーブルの下から顔だけを出していた小さな子が、ぴくりと肩を震わせた。自分の袖の端をぎゅっと握りしめて、大きな目が、ミウとアヤの顔の間を、おずおずと行き来している。

 

 ミウは、それぞれの顔を、順番に見渡した。

 

 ひとりひとりが、まるで違っている。声の調子も、表情も、立ち方も。けれど、アヤの紹介を聞いているときの、全員の目の端に、同じ柔らかさが浮かんでいることに、ミウは気づいていた。

 

 皆、アヤのことが、大好きなのだ。

 

「……ミウ、です」

 

 ミウは、改めて、深々と頭を下げた。

 

「突然、ごめんなさい。迷惑だったら、すぐに出ていくから。でも、もしよかったら、少しだけ、休ませてもらえたら嬉しいです」

 

 誰も、すぐには答えなかった。

 

 しばらくして、ぽつりと声が聞こえた。

 

「……ほっぺ……」

 

 テーブルの下から、消え入りそうな声だった。

 

 ミウが顔を向けると、ウイが、ほんの少しだけ、テーブルの影から身を乗り出している。ミウの顔を、じいっと見つめていた。目が合うと、慌てて視線をそらし、袖に顔を半分うずめる。

 

「……もちもち……」

 

 空気が、一瞬止まった。

 

 それから、ぷっ、と誰かが吹き出した。クロエだった。慌てて口を押さえたが、肩がかすかに震えている。エピカが「あはは!」と声をあげて笑い、シオンまでもが、困ったように目を伏せて、口元を緩めた。

 

 ミウは、思わず自分の頬に手をやった。

 

「……もちもち、してる?」

 

「……うん」

 

 ウイは、袖の陰から、小さくうなずいた。

 

「ウイの、も……もちもち……」

 

 そう言って、そうっと自分の頬を、片手でむにっとつまんでみせる。

 

 ヴィヴィだけが、笑わなかった。けれど、張りつめた肩の線が、ほんの少しだけ、ほどけたように見えた。

 

「……とりあえず」

 

 シオンが、小さく咳払いをした。

 

「立ったままじゃ、話もできないよ。まずは座って。ちょうど、夕食の用意ができたところだし」

 

「ええ、そうしましょう」

 

 アヤが、嬉しそうにうなずく。

 

 シオンは、ちらりとヴィヴィに視線を向けた。ヴィヴィは、何か言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わずに視線を逸らした。それを見て、シオンはほっと小さく息をつく。

 

 その一瞬の気遣いのやりとりを、ミウは見逃さなかった。

 

  *

 

 長いテーブルには、七つの椅子が並んでいた。

 

 ひとつひとつ形が少しずつ違うのは、長い年月のあいだに、それぞれが自分の使いやすいように手を加えたからなのだろう。背もたれに布が掛けられていたり、座面にクッションが縛りつけられていたり、足元に踏み台が置かれていたり。

 

 けれど、どの椅子も、すでに誰かの席だった。

 

「あ」

 

 ミウは、思わず足を止めた。

 

「椅子、ないよね。私、立ってるから大丈夫」

 

「それはだめよ」

 

 アヤが、すぐに首を振った。

 

「少し待っていてね」

 

 そう言って、アヤは部屋の隅へ向かい、壁際に置かれていた小さな木の丸椅子を、ひょいと持ち上げた。ところどころ塗りが剥げた、古びた丸椅子だった。それを、自分の席の隣に置き、座面の埃を、手の甲でそっと払う。

 

「どうぞ。ここへ座ってちょうだい」

 

「……いいの?」

 

「もちろんよ」

 

 ミウは、おずおずと近づいて、その丸椅子に腰を下ろした。座面は少し硬くて、足が床に届くか届かないかの高さだった。けれど、不思議と、居心地は悪くなかった。

 

 正面には、ヴィヴィが座っている。ミウと目が合うと、ヴィヴィは、あからさまに視線を逸らした。

 

 右隣は、アヤ。左隣には、テーブルの下から這い出してきたウイが、さりげなく、いつの間にか座っていた。

 

「……あの……ここ、すわっても、いい……?」

 

 ミウの顔を見上げて、蚊の鳴くような声で聞く。

 

「うん。いいよ」

 

 ミウが答えると、ウイは、ほっとしたようにこくんとうなずいた。そうして、ちらちらと、ミウの顔と手元を、何度も盗み見る。

 

 シオンが、鍋から木の器にスープをよそい、順番に配っていく。湯気とともに、野菜と豆を煮込んだ優しい匂いが立ちのぼった。透き通った琥珀色のスープの底に、ほろほろと崩れた根菜が沈んでいる。テーブルの中央には、焼きたてのパンが山のように盛られた籠が置かれていた。

 

 ミウの前にも、同じ器が置かれた。

 

「はい。熱いから、気をつけてね」

 

 シオンが、小さな声で言った。

 

「あ、ありがとう」

 

 ミウは、思わず感謝を口にした。シオンは、少し驚いたように目を瞬かせて、それから、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

 全員の前に器が並ぶと、アヤが、静かに両手を合わせた。

 

 それに倣うように、姉妹たちが、順に手を合わせる。ミウも、少し遅れて、見よう見まねで手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 七人の声が、重なる。

 

 ミウは、戸惑いながら、小さくそれに続いた。

 

「……いただきます」

 

 スプーンを手に取り、一口、スープを啜る。

 

 優しい味が、舌の上に広がった。野菜の甘みと、豆のほくほくした食感、ほんのり利いた香草の香り。お腹の底に、じんわりと温かさが落ちていく。

 

「……おいしい」

 

 無意識に、言葉がこぼれた。

 

 その瞬間、シオンの肩が、小さく震えた。

 

 それは、ほんのわずかな反応だった。けれど、ミウの目には、確かに映った。作った人にしかわからない、小さな喜びが、静かに滲んでいた。

 

 食事は、しばらくの間、奇妙な沈黙のなかで進んだ。

 

 スプーンが器に触れる音。パンを千切る音。誰かが小さく咳をする音。普段なら、きっと賑やかなやりとりが飛び交うのだろう食卓が、今夜は、ミウという異物を意識して、ぎこちなく静まり返っている。

 

 視線が、あちらこちらから、ちらちらと向けられる。

 

 けれど、それを不快には感じなかった。

 

 見られている。確かめられている。そう思うと、ミウは自然と背筋が伸びた。ここで、この子たちの食卓に座らせてもらっているのだ、という実感が、ゆっくりと胸に染みてくる。

 

 ミウは、パンの籠に手を伸ばした。

 

 ひとつ手に取って、ふと、隣を見る。

 

 ウイが、自分のパンを両手で抱えるように持ちながら、ミウの手元をじっと見つめていた。まだ、手をつけていないらしい。ミウの手の中のパンと、自分のパンを、交互に見比べている。

 

 ミウは、ほとんど反射的に、パンを二つに割った。

 

 それを、片方、ウイのほうへ差し出す。

 

「はい。はんぶん」

 

「……え……?」

 

 ウイが、目をまるくした。

 

「ウイの、あるよ……」

 

「うん。でも、はんぶんこ」

 

 ミウは、にこっと笑って言った。

 

「ひとりで食べるより、分けたほうが、おいしい気がするから」

 

 それは、口にしてから、自分でも少し驚いた言葉だった。けれど、嘘ではなかった。

 

 ウイは、差し出されたパンをしばらく見つめていたが、やがて、おずおずと両手を伸ばして、それを受け取った。そうして、自分の手の中のパンと見比べて、ぱっと顔を輝かせた。

 

「ふたつ、ある……」

 

「そうだね」

 

「ウイのと、ミウの……」

 

 ウイは、嬉しそうに、受け取ったパンをぎゅっと抱きしめた。

 

 その様子を、アヤが優しい目で見つめている。

 

「……何、それ」

 

 向かいから、低い声が飛んできた。

 

 ミウが顔を上げると、ヴィヴィが、じっとミウを見つめていた。さっきよりも、さらに鋭い目で。

 

「今のは、何のおつもりかしら」

 

「何のって」

 

「ウイに食べ物を渡しましたわね。それは、どういう意味ですの」

 

 ミウは、きょとんとした。

 

「どういう意味って……ただ、分けようと思っただけだけど」

 

「そうは見えなくてよ」

 

 ヴィヴィの声は、静かだったが、棘が潜んでいた。

 

「毒見のおつもり? ご自分が先に口をつけて、安全だと示したいのかしら。それとも、ウイに取り入ろうと」

 

「ヴィヴィ」

 

 シオンが、小さく咎めるように呼んだ。

 

 けれど、ヴィヴィは視線を動かさない。

 

 ミウは、その言葉の意味を、ゆっくりと咀嚼した。毒見。取り入る。確かに、知らない人間が突然現れて、いちばん幼い子に食べ物を差し出したら、そう受け取られても不思議ではない。

 

 ミウは、手の中に残ったパンの半分を見つめて、それから、もう一度、顔を上げた。

 

「そう見えるよね」

 

 怒るでも、慌てるでもなく、素直に頷いた。

 

「ごめんなさい。私、そういうつもりじゃなかったんだけど……そう思われるのは、当たり前だと思う。知らない人が、急にこんなことしたら」

 

「……」

 

「でも、本当に、ただの癖みたいなものなの。理由は、自分でもわからなくて」

 

 ミウは、残ったパンの端を、ひと口かじってみせた。

 

「私が先に食べたって、証拠にはならないけど。毒なんか、入ってないよ。たぶん」

 

「たぶん、って」

 

 クロエが、堪えきれないように吹き出した。

 

「なにそれ、たぶんって。自信なさすぎでしょ」

 

「だって、焼いたの私じゃないし」

 

 ミウが真顔で答えると、エピカが、ぶはっと勢いよく笑い声をあげた。

 

「あはは! そうよね! ミウが焼いたんじゃないものね!」

 

「エピカ、静かにしなさいな」

 

「だって、おもしろいんだもの!」

 

 食卓の空気が、わずかに揺れた。

 

 誰かが、くすりと笑う。誰かが、咳払いでごまかす。シオンも、器に目を落としたまま、肩を小さく震わせていた。

 

 ヴィヴィだけが、笑わなかった。

 

 けれど、ほんの一瞬だけ、険しかった目の端が、わずかに揺らいだように見えた。

 

「……変な方ですこと」

 

 ヴィヴィは、そう小さく吐き捨てて、自分のスープに視線を落とした。

 

 そのとき、テーブルの端から、ゆるやかな声が聞こえた。

 

「……ふぁ……」

 

 イードだった。頬杖をついたまま、半分閉じかけた目で、ミウをぼんやりと眺めている。

 

「……悪い人じゃ……ない気がする……」

 

「あなたは、いつもそう言うでしょう」

 

 ヴィヴィが、呆れたように言った。

 

「……だって……いい匂いが、するから……ふぁ……」

 

「匂いだけで人を判断するものではなくてよ」

 

「……そう……かなあ……」

 

 イードは、ふわふわとした声で答えて、また目を閉じかけた。

 

「ごめんね」

 

 ミウは、もう一度、ヴィヴィに謝った。

 

 ヴィヴィは、返事をしなかった。けれど、スープを啜る手が、さっきよりも少し、ゆっくりになっているような気がした。

 

  *

 

 食事が終わる頃には、窓の外は、すっかり夜の色に沈んでいた。

 

 暖炉の火が、ゆらゆらと壁に影を映している。空になった器を、シオンがてきぱきと片付けていく。エピカは、満腹になったのか、椅子の背にぐったりともたれて、ふにゃふにゃと何かつぶやいていた。クロエは、ぬいぐるみを抱えたまま、天井を眺めている。イードは、いつの間にか、頬杖をついたまま、うとうとと船を漕いでいた。ウイは、ミウの隣で、満足そうに、最後のパンのかけらをもぐもぐと噛んでいる。

 

 ミウは、何か手伝おうと立ち上がりかけた。

 

「あ、私、お皿」

 

「いいよ、大丈夫」

 

 シオンが、すぐに首を振った。

 

「お客さんなんだから、座ってて」

 

「でも」

 

「今夜は、ゆっくり休むのがいちばんの仕事だよ」

 

 その言い方が、とても優しくて、ミウはそれ以上、反論できなかった。大人しく座り直す。

 

 けれど、片付けるシオンの手つきを、じっと目で追っていた。

 

 彼女は、ひとりで、すべてをこなしている。他の姉妹に頼む様子もなく、ごく当たり前のように、皿を重ね、カップを運び、テーブルを拭いている。誰も彼女を手伝おうとしないのは、薄情だからではなく、きっと、いつもそうだからなのだろう。

 

 そう思ったとき、ミウの胸に、小さな引っかかりが生まれた。

 

 けれど、まだ、それが何なのか、うまく言葉にならなかった。

 

「さて」

 

 アヤが、静かに口を開いた。

 

「ミウさんの今夜のことだけれど」

 

 その一言で、部屋の空気が、再び張りつめた。

 

 エピカが、ぱちりと目を開ける。クロエが、天井から視線を戻す。イードも、うっすらと目を開けた。シオンは、布巾を握ったまま、動きを止めた。

 

「空いている部屋が、ひとつあるのよ。長く使っていないから、少し埃っぽいかもしれないけれど、今夜はそこで休んでもらおうと思うの」

 

「お待ちなさい」

 

 ヴィヴィが、すぐに口を挟んだ。

 

「今夜だけ、というお話ではないのでしょう」

 

「ええ、そうね」

 

 アヤは、穏やかに頷いた。

 

「明日以降のことは、明日、ミウさんと一緒に考えるわ。でも、行く当てのない子を、すぐに追い出すつもりはないのよ」

 

「それは、つまり、ずっとここにいさせるということかしら」

 

「ずっと、とは言っていないわ。落ち着くまでの間ね」

 

「その『落ち着くまで』が、いつなのかを聞いているのですわ」

 

 ヴィヴィの声が、少し高くなった。

 

「アヤ。あなたは、すぐ人を信じてしまう。それが、あなたのいいところだということは、わかっていましてよ。でも、この方が何者かもわからないのですわ。もし、悪意のある方だったら」

 

「悪意のある子が、パンを半分に分けたりするかしら」

 

「それは……」

 

 ヴィヴィが、言葉に詰まった。

 

 アヤは、ゆっくりと、ヴィヴィのほうへ向き直った。

 

「ヴィヴィが心配してくれているのは、わかっているわ。みんなのことをいつも一番に考えてくれているのも、知っているのよ。ありがとう」

 

 その声は、決して責めるものではなかった。ただ、真っ直ぐで、温かかった。

 

「でも、おなかをすかせて倒れかけていた子を、見て見ぬふりはできなかったの。わがままを言って、ごめんなさいね」

 

「……」

 

 ヴィヴィは、唇を噛んで、視線を落とした。

 

「みんなに、無理強いはしないわ」

 

 アヤは、静かに続けた。

 

「気が進まない子がいるのは、当然だもの。だから、期限は決めずに、様子を見る、というのはどうかしら。その間に何か問題があったら、すぐにみんなで話し合いましょう」

 

「様子を見る、か」

 

 シオンが、おそるおそる、口を開いた。

 

「それなら、確かに、すぐに結論を出さなくて済むね。ヴィヴィも、それなら……」

 

「わたくしは、認めたわけではありませんわ」

 

 ヴィヴィが、短く言い切った。

 

「でも、アヤが決めたことを、無理に覆すつもりもありません」

 

 それは、精一杯の譲歩に聞こえた。

 

「何かあったら、そのときは、わたくしが追い出しますわ。よろしくて?」

 

 ヴィヴィの鋭い目が、ミウに向けられた。

 

 ミウは、まっすぐにその目を見つめ返した。

 

「うん」

 

 迷いなく、頷いた。

 

「それでいいよ。何かあったら、言って。ちゃんと出ていくから」

 

「……」

 

 ヴィヴィは、一瞬、拍子抜けしたような顔をした。

 

 もっと反発されると思っていたのかもしれない。条件を値切られるとか、何かごまかされるとか。けれど、ミウはあっさりと、その要求を受け入れた。

 

 ヴィヴィは、ふいと顔を背けた。

 

「……でしたら、よろしいですわ」

 

 そのやりとりを見ていたクロエが、肩をすくめた。

 

「なんか、拍子抜けよね。もっとこう、ひと悶着あるかと思ってたのに」

 

「ひと悶着、ほしかったの?」

 

「別に、ほしくはないけど」

 

 クロエは、ぷいと口を尖らせた。

 

「でも、記憶がないとか、ほっぺがもちもちとか、わけわかんない子だなって思っただけなの!」

 

「ほっぺは、関係ないでしょ」

 

 シオンが、小声でたしなめる。

 

「……関係、ある……」

 

 ウイが、ミウの隣で、袖を握りしめたまま、まじめな顔で言った。

 

「ほっぺ……だいじ……」

 

 今度こそ、全員が、ほとんど同時に笑い出した。ヴィヴィでさえ、横を向いたまま、口元をぎゅっと引き結んで、肩を震わせている。

 

 ミウは、その笑い声に包まれながら、自分も、いつの間にか笑っていることに気がついた。

 

  *

 

 案内された部屋は、家の奥の、小さな一室だった。

 

 アヤが手にした灯りが、部屋の中をぼんやりと照らし出す。窓際に置かれた簡素な寝台。壁際の小さな机と椅子。長く使われていなかったせいか、空気は少しひんやりとして、埃と、乾いた木の匂いがした。

 

 けれど、窓辺には、小さな花瓶が置かれていた。中には、野の花が一輪だけ、挿さっている。まだ、しおれていない。

 

「今朝、摘んだものなのよ」

 

 アヤが、少し照れたように言った。

 

「使っていない部屋だけれど、花だけは、時々入れ替えているの。たまたま、まだ咲いていたのね」

 

「……うん。いい匂い」

 

 ミウは、その花に顔を寄せた。ほのかに、甘い香りがする。丘で目覚めたとき、風に混じっていた、あの名前のわからない花の香りに、よく似ていた。

 

「寝具は、さっき整えておいたわ。足りないものがあったら、遠慮なく言ってね」

 

「ありがとう。……あの、アヤ」

 

「なあに?」

 

「紙と、書くもの、ってあるかな。少しだけ、貸してもらえたら嬉しい」

 

 アヤは、不思議そうに首をかしげた。

 

「あるわよ。何か書くのかしら」

 

「うん。……忘れたくないから」

 

 ミウは、少し照れくさそうに頬を掻いた。

 

「私、何も覚えてないでしょう。だから、今日あったこと、せめてこれからのことは、ちゃんと残しておきたくて」

 

 アヤは、しばらくミウの顔を見つめていた。それから、柔らかく微笑んだ。

 

「少し待っていてね」

 

 アヤは、いったん部屋を出ていき、まもなく、小さな紙の束と、使い込まれた鉛筆を一本、持って戻ってきた。

 

「はい、どうぞ。足りなくなったら、また言ってちょうだい」

 

「ありがとう」

 

 ミウは、それを両手で受け取った。紙は、少し黄ばんでいたが、手触りは柔らかかった。鉛筆の軸には、誰かの歯形のような小さな凹みがある。

 

「それじゃあ、おやすみなさい、ミウさん」

 

「おやすみ、アヤ」

 

 扉が静かに閉まり、足音が遠ざかっていく。

 

 部屋に、ひとりきりになった。

 

 ミウは、寝台に腰を下ろして、しばらく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夜空には、無数の星が瞬いている。丘のほうは、闇に沈んで、ほとんど見えない。

 

 ほんの数時間前まで、あそこで、ひとりで寝ていたのだ。

 

 それが、今は、屋根と壁のある部屋で、灯りのそばにいる。その事実が、まだうまく飲み込めなかった。

 

 壁の向こうから、かすかに話し声が聞こえてくる。

 

 誰かが、声をひそめて言い合っている。ヴィヴィの声だ。それを、シオンが、なだめるように遮っている。クロエが何か茶化して、エピカがそれに笑い、「しーっ」と誰かが咎める。ウイの小さな声と、アヤの穏やかな声。

 

 ミウは、その音を、じっと聞いていた。

 

 言い争いのように聞こえて、けれど、少しも冷たくない。互いを思いやる、あたたかな響きが、壁越しにも滲んでくる。

 

 やがて、声は少しずつ遠のいていった。

 

 ミウは、机に向かって、紙を一枚、広げた。鉛筆を握り、しばらく、白い紙の上で手を止める。

 

 それから、ゆっくりと、一行目を書いた。

 

  きょう。

 

  目がさめたら、丘にいた。名前は、ミウ。それしかわからない。

 

  おなかがすいていた。アヤにパンをもらった。おいしかった。

 

  アヤの家には、妹が六人いる。シオン、エピカ、ヴィヴィ、クロエ、イード、ウイ。

 

  ヴィヴィは、私を疑っている。当たり前だと思う。

 

  クロエは、ぬいぐるみを抱えていた。セバスチャンという名前らしい。

 

  ウイのほっぺは、もちもちしていた。

 

  スープは、あたたかかった。

 

 鉛筆を走らせながら、ミウは、ふっと小さく笑った。

 

 書き連ねるうちに、頭の中の霧が、ほんの少しだけ、晴れていくような気がした。何もないはずの空白に、ひとつ、またひとつと、確かな輪郭を持つものが増えていく。

 

 書き終えて、ミウは、最後に一行、付け加えた。

 

  椅子がひとつ、足りなかった。アヤが、丸椅子を持ってきてくれた。

 

 その一行を、じっと見つめる。

 

 それから、紙を丁寧に畳んで、机の隅に置いた。

 

 明日になれば、きっと、また何かが始まる。

 

 ミウは、寝台に横たわり、窓辺の花の香りを吸い込みながら、ゆっくりと目を閉じた。壁の向こうでは、まだ、かすかに誰かの話し声が続いている。

 

 その音が、ひどく遠く、ひどく温かい子守唄のように聞こえた。

 

 遠い昔にも、こんなふうに、誰かの声を聞きながら眠った夜があったような気がした。けれど、それが本当に記憶なのか、ただの願いなのか、ミウには、もうわからなかった。

 

 ただ、胸の奥に、小さな灯りがともっているのを感じながら、ミウは、静かに眠りへと落ちていった。

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