八人目の食卓   作:もちもちほっぺ

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第3話 シオンの気配り

 

 シオンの一日は、誰よりも早く始まる。

 

 まだ空が藍色の底に沈んでいる頃、彼女は寝台の中でぱちりと目を開ける。目覚まし代わりの鳥の声も、窓の隙間を抜ける朝の光も、この時刻にはまだ何もない。それでも体が勝手に起きてしまうのは、そうしなければ一日が回らないことを、体のほうがよく知っているからだった。

 

 シオンは、そっと身を起こした。

 

 隣の寝台では、エピカが布団を蹴り飛ばして大の字になっている。何かの台詞でも言っているのか、唇がむにゃむにゃと動いていた。シオンは足音を忍ばせて近づき、蹴り出された布団を拾い上げて、肩のあたりまで掛け直してやる。

 

「……風邪ひくよ」

 

 小声で呟いたが、返事はない。

 

 廊下に出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。夏の入り口とはいえ、夜明け前の家の中は、まだ石の床から冷えが這い上がってくる。窓の外に目をやると、庭の草花が、夜露を抱えて重たげに頭を垂れていた。

 

 台所に入って、まず火を起こす。昨夜のうちに灰をならしておいたかまどに、細い薪を組み、火打ち石を打つ。小さな火花が散って、乾いた草に移り、橙色の舌が薪の隙間をなめるように広がっていった。

 

 それを確かめてから、桶を二つ提げて井戸へ向かう。

 

 朝の水汲みは、誰かに頼まれたわけではない。いつの間にか、そういうことになっていた。最初の頃は、順番を決めたこともあった気がする。けれど、エピカは寝坊をし、クロエは「あちしは服が汚れるから」と言い、ヴィヴィは水の冷たさを嫌がり、イードは井戸の縁でうとうとしてしまい、ウイは桶が持ち上がらない。アヤは何も言わずに手伝ってくれるけれど、彼女には彼女で、庭と畑の世話がある。

 

 結局、いちばん手が空いているのは自分だと、シオンは思うことにしていた。

 

 井戸の釣瓶を引き上げると、冷たい水がずっしりと腕に響く。桶いっぱいに満たして、ふうと息をつく。白い息が、薄闇のなかにふわりと溶けた。

 

 つい、考えてしまう。

 

 昨夜のことを。

 

 あの子が、ミウが現れたとき、家の中の空気が一瞬で張りつめたこと。ヴィヴィが前へ出て、クロエが憎まれ口を叩き、エピカが飛びつこうとして、ウイがテーブルの下に隠れてしまったこと。その全部の間に、自分がいた。

 

 誰かが言い過ぎれば、たしなめる。誰かが引っ込めば、さりげなく声をかける。アヤの意向を汲みつつ、ヴィヴィの不安にも寄り添う。そうやって、あちらとこちらの糸がぷつりと切れてしまわないように、間でぴんと張りつめているのが、自分の役目だった。

 

 その役目を、嫌だと思ったことはない。

 

 七人の家が、ばらばらにならないこと。誰かが居づらくならないこと。それを守れるなら、自分が少しくらい忙しくても、構わない。そう思っている。

 

 ただ、時々、ほんの時々だけ、桶を持つ腕がやけに重く感じられる朝があるのだ。

 

「……よし」

 

 シオンは小さく声に出して、桶を持ち上げた。

 

 今朝の議題は、あの子のことになるだろう。

 

  *

 

 朝食の席に、ミウは、いちばん最後に現れた。

 

 実際には遅れたわけではなく、ほかの全員が、いつも通り寝ぼけ眼のまま集まっていただけだった。けれど、扉の前で一度立ち止まり、控えめに頭を下げてから入ってくる様子が、ここがまだ自分の居場所ではないことを、全身で示しているようだった。

 

「おはよう。……あの、ここ、座っていいのかな」

 

 昨夜の丸椅子を指さして、ミウが尋ねる。

 

「いいに決まってるじゃない」

 

 クロエが、ぬいぐるみを膝に載せたまま、ふんと鼻を鳴らした。

 

「昨日そこで食べてたでしょ。今さら遠慮されても、鬱陶しいの」

 

「あ、うん。ありがとう」

 

 ミウはほっとしたように笑って、丸椅子に腰を下ろした。クロエは、何か言い足りないような顔をしていたが、結局、パンに手を伸ばして黙り込んだ。

 

 その横顔を見て、シオンは、つい口元が緩みそうになるのをこらえた。クロエなりの精一杯の歓迎だった、と思う。

 

「おはよう、ミウ。よく眠れた?」

 

 鍋からスープをよそいながら、シオンは声をかけた。

 

「うん。ぐっすり。窓の花の匂いが、すごくよかった」

 

「そう。それなら、よかった」

 

 本当は、あの部屋の埃のことや、寝台の硬さのことが気になっていたのだが、本人が満足しているなら、それでいい。シオンは、湯気の立つ器をミウの前に置いた。

 

 七つの器と、ひとつの丸椅子の前の器。八人分の朝食。昨日までは、七人だった数が、たったひとつ増えただけなのに、鍋の中身の減り方が違って感じられた。

 

「いただきます」

 

 アヤが手を合わせ、全員が声を重ねる。ミウも、昨夜よりもずっと自然に、手を合わせた。

 

 食事が半分ほど進んだところで、案の定、ヴィヴィが口を開いた。

 

「アヤ姉さん。ミウさんの扱いについて、決めておくべきことがありますわ」

 

「ええ、そうね。そのつもりだったの」

 

 アヤが、穏やかに頷く。

 

「まず、お部屋。それから、日中の過ごし方。そして、誰がミウさんの様子を見るのか。曖昧なままにしておくと、あとで必ず問題になりますもの」

 

「様子を見る、って。見張る、ってことでしょ?」

 

 クロエが、パンをかじりながら口を挟んだ。

 

「あちしは、別にいいけど」

 

「見張るなんて、物騒な言い方はやめなさいな」

 

「だって、そういうことじゃない」

 

「私は、見張るより、一緒に過ごすほうがいいと思う!」

 

 エピカが、身を乗り出す。

 

「だってね、考えてもみて。知らない土地で目覚めた旅人が、これから私たちと過ごす日々の中で、少しずつ自分の物語を見つけていくのよ。それを遠くから眺めているなんて、もったいないわ! 一緒に歩いてこそ、よ」

 

「エピカ姉さんの『一緒に歩く』というのは、昨日の夜、わたくしの目の前でミウさんに飛びつこうとした、あれのことですの?」

 

「あれは、感動の表現よ!」

 

「……ふぁ……」

 

 テーブルの端で、イードが小さくあくびをした。

 

「……みんな……うるさい……」

 

「あなたは起きていなさい」

 

「……起きてる……と、思う……ふぁ……」

 

 ウイは、ミウの隣で、小さな両手でパンを抱えながら、困ったように全員の顔を見回していた。誰かが声を張り上げるたびに、肩が小さく縮こまる。

 

 シオンは、その様子を横目で見ながら、そっと自分のスプーンを置いた。

 

 来た、と思う。ここからが、自分の出番だった。

 

「ねえ、みんな。いったん落ち着こう」

 

 できるだけ穏やかな声で言った。

 

「ミウの前で、ミウの話をするのは、ちょっと失礼だと思う。本人もいるんだから」

 

 ミウが、何か言いかけて、口を閉じた。シオンは、ちらりとそちらを見て、軽く頷いた。

 

「ミウ。嫌だったら、ごめんね。でも、大事なことだから、少しだけ付き合って」

 

「うん、全然。私のことだもの、一緒に決めてもらえるほうが、ありがたいよ」

 

 ミウは、ごく自然にそう言った。

 

 その言葉に、シオンは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

「ありがとう。それじゃあ、順番に整理しよう。まず、部屋のこと。昨夜の部屋は、そのまま使ってもらっていいよね、アヤ姉さん」

 

「ええ。構わないわ」

 

「次に、日中の過ごし方。ミウは、何かしたいことはある?」

 

「うーん……」

 

 ミウは、少し考えた。

 

「できれば、何か手伝いたいな。居候させてもらうのに、座ってるだけっていうのは、落ち着かなくて」

 

「手伝い、ですの」

 

 ヴィヴィの眉が、ぴくりと動いた。

 

「見ず知らずの方に、家のことを任せるのは、感心しませんわ。食べ物や刃物に触れる機会も、増えるでしょう」

 

「それは、そうだけど」

 

「ヴィヴィの心配は、もっともだと思う」

 

 シオンは、静かに言った。

 

「でも、ミウがずっと何もできずに座っているのも、きっと辛いよ。ミウ自身が、居場所がないって感じてしまうかもしれない」

 

 ミウが、わずかに目を見張った。

 

 シオンは、気づかないふりをして続けた。

 

「だから、こうしたらどうかな。ミウは、当面、私と一緒に行動する。家事も、買い出しも、井戸の水汲みも、私と一緒にやってもらう。そうすれば、ヴィヴィも安心できるでしょう。私が、ずっとそばにいるわけだから」

 

「……シオン姉さんが、ですの?」

 

「うん。私が見ていれば、何かあったときも、すぐにみんなに伝えられる。それに、私がいつも通りに動いていれば、ミウにも、この家のやり方が少しずつわかると思う」

 

 ヴィヴィは、しばらく黙っていた。じっとシオンを見つめ、それからミウを見て、また、シオンに視線を戻した。

 

「シオン姉さんに、負担がかかりますわよ」

 

「大丈夫。慣れてるから」

 

 その返事が、あまりにも自然に口から出たことに、シオン自身が、ほんの少し驚いた。

 

 ヴィヴィは、何か言いたげに唇を動かしかけたが、結局、小さく息を吐いた。

 

「……わかりましたわ。シオン姉さんがそうおっしゃるのなら」

 

「ありがとう、ヴィヴィ」

 

「ええー、私が一緒に歩く話は、どうなるの?」

 

「エピカ姉さんは、ミウさんが慣れてからでしてよ」

 

「うう……順番待ちなのね……」

 

 エピカが、がっくりと肩を落とす。そのやりとりに、ウイがくすっと小さく笑った。

 

 シオンは、ほっと息をついた。

 

 一件落着、のはずだった。誰も不満そうな顔はしていない。ヴィヴィも、渋々ではあるけれど、納得してくれた。アヤは、満足そうに微笑んでいる。

 

 けれど。

 

 視線を感じて、顔を向けると、ミウが、じっとこちらを見つめていた。

 

 丸い目の奥に、何かを確かめるような色が浮かんでいる。責めるでも、感謝するでもない。ただ、静かに、シオンの顔の何かを、見ていた。

 

「……何?」

 

「ううん。なんでもない」

 

 ミウは、にこっと笑って、首を振った。

 

「よろしくね、シオン」

 

「うん。こちらこそ」

 

 シオンは、笑って応えた。

 

 けれど、その笑顔の裏で、胸のどこかが、ちくりと疼いた気がした。

 

  *

 

 その日の午前は、洗濯から始まった。

 

 庭の裏手を流れる小さな小川のほとりに、洗い場がある。平らな石を並べた簡素なもので、七人分の衣類を洗うには、ちょうどいい広さだった。朝日が川面に反射して、きらきらと光の欠片を散らしている。

 

「これが、全部?」

 

 大きな籠いっぱいに積まれた洗濯物を見て、ミウが目を丸くした。

 

「うん。七人分だから。……ミウの分は、まだないけど」

 

「それは、そうだよね」

 

 ミウは、袖をまくって、川のほとりに膝をついた。水は、思ったよりも冷たい。けれど、ミウは顔をしかめることもなく、洗濯物を一枚ずつ取り上げて、石の上で擦り始めた。

 

「……上手だね」

 

 隣で同じ作業をしながら、シオンは感心して言った。

 

「そう? 自分でもよくわからないけど、手が覚えてるみたい」

 

「記憶がなくても、体は覚えてるんだね」

 

「そうみたい。不思議だけど」

 

 ミウは、泡立った布を水にくぐらせながら、小さく笑った。

 

 しばらく、二人は黙って手を動かした。川のせせらぎと、布を擦る音と、遠くの鳥の声。昨夜の張りつめた空気が嘘のように、穏やかな時間が流れていく。

 

「ねえ、シオン」

 

 ミウが、洗濯物から目を上げずに言った。

 

「みんな、シオンのこと、頼りにしてるんだね」

 

「え?」

 

「さっきの朝ごはんのとき。みんなの意見がばらばらになりそうなのを、シオンがまとめてた。すごいなって思って」

 

「別に、すごくないよ」

 

 シオンは、手を止めずに答えた。

 

「慣れてるだけ。いつものことだから」

 

「いつもやってるんだ」

 

「うん。……誰かがやらなきゃ、まとまらないでしょう」

 

 そう言ってから、シオンは、自分の言葉の響きに、少し戸惑った。

 

 まるで、愚痴のようだった。そんなつもりはなかったのに。

 

 慌てて、付け加える。

 

「あ、でも、嫌じゃないんだよ。みんなのことは、大事だし。私がやりたくてやってることだから」

 

「うん。わかってる」

 

 ミウは、穏やかに頷いた。

 

 それ以上は、何も言わなかった。深く踏み込んで尋ねることも、慰めの言葉を並べることもなく、ただ、洗った布を絞って、籠に入れる。その仕草が、ひどく自然で、シオンは、ほっとするような、少しだけ落ち着かないような気持ちになった。

 

 洗濯物を干し終えたあと、ミウは、ふと、シオンの手元を見た。

 

「シオン、手、赤くなってる」

 

「え?」

 

 見ると、確かに、指先から手首のあたりまで、冷たい水に長くさらしたせいで、赤く腫れぼったくなっていた。

 

「ああ、いつものことだよ。すぐ戻るから」

 

「でも、痛そう」

 

 ミウは、少し考えてから、籠の端に掛けてあった乾いた布を取り上げ、シオンの手を、そっと包み込んだ。

 

「あったかくなるまで、こうしてて」

 

「……」

 

 シオンは、思わず固まった。

 

 ミウの手は、小さくて、少し冷たかった。けれど、布越しに伝わる体温が、ゆっくりと、赤くなった指先に沁みていく。

 

「ミウは、冷たくないの?」

 

「私は、平気。あんまり、寒さとか痛いのとか、気にならないほうなの」

 

 何気ない口調だった。

 

 けれど、シオンの中で、昨夜の食卓でのミウの姿が、ふっとよぎった。パンを分けようとする仕草。毒見だと疑われても、怒りもせずに頷いた顔。自分のことを、ずいぶんと軽く扱う子だ、という印象が、小さな棘のように胸に引っかかった。

 

「……そういうの、あんまり、よくないと思うよ」

 

 気がつけば、口をついて出ていた。

 

「え?」

 

「自分が平気でも、冷たいものは冷たいし、痛いものは痛いでしょう。気にならないふりをするのは、よくない」

 

 自分でも、少し強い口調になったと思った。

 

 ミウは、きょとんとして、シオンの顔を見つめた。それから、ふっと目を細めて笑った。

 

「シオンは、優しいね」

 

「そういう話をしてるんじゃなくて」

 

「うん。でも、ありがとう」

 

 ミウは、そう言って、シオンの手から、そっと布を離した。

 

 その笑顔が、どこか、はぐらかすようなものに見えたのは、気のせいだろうか。シオンは、問い返そうとして、言葉を飲み込んだ。

 

  *

 

 午後は、思いのほか、慌ただしかった。

 

 台所で昼食の準備をしていると、居間のほうから、クロエとエピカの声が聞こえてきた。

 

「だから、これはあちしの作業台なの! 勝手に広げないで!」

 

「でも、ここがいちばん光が入るのよ! 劇の台本を書くには、最高の場所だわ!」

 

「台本なんて、どこでも書けるでしょ!」

 

「書けないわ、物語は光を選ぶのよ!」

 

 どうやら、窓際のテーブルの場所取りで、揉めているらしい。シオンは、包丁を置いて、手を拭いた。

 

「ごめん、ミウ。ちょっと、見てくる」

 

「あ、私も行く」

 

 ミウは、洗ったばかりの野菜をざるに上げて、シオンの後ろについてきた。

 

 居間では、クロエが、窓際のテーブルに広げた布や糸を、両腕で守るように抱え込んでいた。その前に、エピカが紙束と羽根ペンを抱えて立ち塞がっている。膝にいたはずのぬいぐるみは、床に転がっていた。

 

「ちょっと、二人とも」

 

 シオンは、二人の間に割って入った。

 

「ケンカはやめよう。どっちも、使いたい気持ちはわかるけど」

 

「シオン姉さんからも言ってよ! エピカ姉さんが勝手に、あちしの場所を取ろうとするの!」

 

「取ろうなんてしてないわ! 共有しましょうって言っただけよ!」

 

「共有できる広さじゃないでしょ、これ!」

 

 シオンは、ふう、と息を吐いた。

 

 確かに、窓際のテーブルは、そこまで大きくない。布を広げるクロエと、紙を広げるエピカが、同時に使うには、確かに狭い。

 

「じゃあ、こうしようか。午前中はクロエ、午後はエピカ。交代で使うのはどう?」

 

「ええー、午後は、光が傾いて、物語の色が変わっちゃうわ」

 

「それなら、クロエの作業が終わったら、すぐに交代する、でもいいよ。終わるまで、エピカは別の場所で構想を練る。そのあいだ、台本のアイデアを私に聞かせてよ。聞いてあげるから」

 

「……シオンが、聞いてくれるの?」

 

 エピカの目が、ぱっと輝いた。

 

「うん。せっかく書くなら、誰かに読んでもらいたいでしょう」

 

「ありがとう、シオン! さすがね!」

 

 エピカは、すっかり機嫌を直して、紙束を抱え直した。クロエは、まだ少し不満そうだったが、床に転がったぬいぐるみを拾い上げて、ぎゅっと抱きしめ、ふい、と顔を背けた。

 

「……別に、シオン姉さんがそう言うなら、いいけど」

 

 事なきを得た。

 

 シオンは、ほっと息をついて、振り返った。

 

 ミウが、少し離れたところで、じっとこちらを見ていた。

 

「……上手だね」

 

 先ほどの洗濯場と、同じ言葉だった。

 

「慣れてるだけ」

 

 シオンも、同じ言葉を返した。

 

「でも、さっきのシオン、エピカの話を聞いてあげるって言ったでしょう。あれ、本当に、聞くつもりなんだよね」

 

「え? ああ、うん。そのつもりだけど」

 

「いつ聞くの?」

 

「夜にでも。みんなが寝たあとで、少し時間があるから」

 

 ミウは、何かを言いかけて、口を閉じた。

 

 それから、ゆっくりと、視線を台所のほうへ向けた。

 

「……そっか」

 

 それだけを呟いて、にこりと笑う。

 

 シオンは、その笑顔の意味が、よくわからなかった。

 

  *

 

 夕食を終えた頃には、外はすっかり闇に包まれていた。

 

 賑やかだった食卓も、時間とともに少しずつ散っていく。エピカは、早くも台本のことで頭がいっぱいなのか、紙束を抱えてそわそわしている。クロエは、ぬいぐるみを抱えて、あくびをかみ殺しながら自室に戻っていった。イードは、とうの昔に、椅子に座ったまま寝息を立てている。ウイは、アヤに手を引かれて、ふらふらと寝室へ向かった。ヴィヴィは、最後までミウに警戒の視線を投げながら、食器を台所に運んで、それから黙って去っていった。

 

 そして、いつものように、シオンだけが、台所に残った。

 

 誰も、食器の片付けを手伝おうとはしない。それは、冷たいからではなく、そうすることが当たり前になっているからだった。シオンは、水を張った桶に皿を沈め、一枚ずつ丁寧に洗い始めた。

 

 かまどの火は、もうほとんど落ちて、残り火が赤く瞬いている。ランプの灯りが、湿った皿の縁に、小さな光を宿していた。

 

 水音だけが、静かな台所に響く。

 

 ふと、手を止めた。

 

 洗い終わった皿が、棚の上に、ひとつ、またひとつと積み上がっていく。その様子を見ていると、不意に、胸の奥に、ひどく疲れたような感覚が広がった。

 

 体が、ではない。もっと、深いところが。

 

 朝から晩まで、誰かの機嫌を気にして、誰かの言い分を聞いて、誰かの不満を和らげて。それが、嫌なわけではない。だけど、この皿の数ほどのことを、毎日、ひとりで洗い続けているような気がして、ときどき、手が止まってしまうのだ。

 

 エピカの台本の話を、聞いてあげなければならない。ヴィヴィの様子も、気にかけておかなければ。明日の朝食の準備と、買い出しの段取りも。ミウのことも、ちゃんと見ていなければ。

 

 やることの数を、頭の中で数え上げているうちに、ふっと、ため息が漏れた。

 

 そのときだった。

 

 隣に、誰かが並んだ気配がした。

 

 シオンは、はっとして顔を上げた。

 

 ミウが、いつの間にか、そこに立っていた。足音も立てず、何も言わず、当たり前のような顔で、洗い終わった皿の山のそばに。そして、棚に掛けてあった乾いた布巾を一枚取り上げ、水の滴る皿を、一枚、手に取った。

 

「……ミウ?」

 

「うん」

 

「お客さんなんだから、座ってて、って、言ったでしょう」

 

「うん。聞いたよ」

 

 ミウは、布巾で皿の水気を、丁寧に拭き取りながら、まっすぐ前を向いたまま答えた。

 

「でも、座ってるのは、もう、飽きちゃった」

 

 その言い方が、あまりにも飾り気がなくて、シオンは、返す言葉を失った。

 

 ミウは、拭き終えた皿を棚に重ね、次の一枚へ手を伸ばす。手際は、昼間の洗濯のときと同じで、ひどく自然だった。

 

「それに、シオンは、昼間、私に言ったよね。自分が平気でも、痛いものは痛いでしょう、って」

 

「……言った、けど」

 

「だから、シオンも、ひとりで全部やるのは、ちょっと違うんじゃないかなって思って。私が勝手に、そう思っただけだけど」

 

 ミウは、そこで、ちらりとシオンを見た。

 

 責めるでも、気遣いを押し付けるでもない目だった。ただ、隣に並んでいたいから並んでいる、というだけの、静かな眼差し。

 

 シオンは、ふいと視線を皿に戻した。

 

「……別に、困ってないよ」

 

「うん」

 

「慣れてるし。いつものことだし」

 

「うん」

 

「だから、その……」

 

 言葉が、続かなかった。

 

 代わりに、洗い終わった皿を、一枚、ミウのほうへ差し出していた。

 

 ミウは、何も言わず、それを受け取って、布巾で拭き始めた。

 

 水音と、布を擦る音。かまどの残り火が、ぱち、と小さく爆ぜる。

 

 ふたり分の影が、壁にぼんやりと並んで揺れていた。

 

 誰かと並んで皿を洗うのは、いつ以来だっただろう、とシオンは思った。思い出そうとしても、すぐには出てこなかった。もしかしたら、一度もなかったのかもしれない。

 

 胸の奥に、さっきまでのずしりとした重さが、ほんの少しだけ、和らいでいるのを感じる。

 

 それが、なぜなのかは、まだ、うまく言葉にならなかった。

 

 けれど、シオンは、黙って、次の皿を水から引き上げた。

 

 台所の窓の外では、夏の夜風が、静かに庭の草を揺らしていた。

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