八人目の食卓 作:もちもちほっぺ
その日の朝、イードは食卓に現れなかった。
これは、珍しいことではなかった。イードが朝食の席にいない日は、この十日あまりのあいだにも、すでに三度ほどあった。けれど、鍋の湯気の向こうでシオンがちらりと入口のほうを見やり、アヤが、少しだけ眉を下げたのを、ミウは見逃さなかった。
「イードは、また、庭かしら」
「たぶん、いつもの木の下だと思う」
シオンが、器にスープをよそいながら答える。
「ハンモックで、寝てるんじゃないかな。昨夜も、早く部屋に戻ってたし」
「そう……」
アヤは、小さく息をついてから、ミウのほうへ向き直った。
「ミウさん。今日は、イードのところへ、行ってあげてくれるかしら」
「イードのところ?」
「ええ。あの子、ひとりで夢の話をしていることが多いのよ。聞いてあげられる人が、あまりいなくて」
アヤの声は、穏やかだった。けれど、その奥に、ほんの少し、迷うような響きが混じっていた。
「みんな、あの子の話を、ちゃんと聞いてあげたいとは思っているのよ。でも、イードが話し始めると、途中で寝てしまうでしょう。それで、いつの間にか、話が途切れてしまって」
「……うん」
「あなたなら、最後まで、聞いてくれる気がするの」
ミウは、少しだけ考えた。
それから、にっこり笑って、頷いた。
「わかった。行ってくる」
「ありがとう。お願いね」
アヤが、ほっとしたように微笑んだ。
向かいの席で、ヴィヴィが、スープを啜りながら、ちらりとこちらを見た。何か言いたげな目だったけれど、結局、何も言わずに、視線を落とした。
*
裏庭の奥に、古い楡の木が一本、立っていた。
幹は、ミウが両腕を回しても届かないほど太く、枝は、四方へゆったりと広がって、地面にまだらな影を落としている。その枝と枝のあいだに、麻の太い縄で編まれたハンモックが、ゆらゆらと揺れていた。
朝の光が、葉の隙間から零れ落ちて、ハンモックの上に、小さな光の斑点を散らしている。
その中に、イードがいた。
両腕を胸の前で組んで、膝を少し曲げて、まるで、胎内の子どものような格好で。長いまつげが、頬の上に、薄い影を落としている。唇が、ほんの少し開いていて、規則正しい寝息が、すう、すう、と静かに漏れていた。
ミウは、足音を忍ばせて、近づいた。
起こすべきか、迷った。あまりにも、気持ちよさそうに眠っているので、声をかけるのが、ためらわれる。
しばらく、木の根元に腰を下ろして、様子を見ていることにした。
風が、枝を揺らす。葉擦れの音が、さわさわと、雨のように降ってくる。ハンモックの縄が、ぎい、と小さく軋んだ。どこか遠くで、鳩が鳴いている。
静かだった。
家の中の賑わいが、嘘のように遠い。ここだけ、時間の流れが、緩やかになっているような気がした。
「……ん……」
ふいに、ハンモックの上で、小さな声がした。
ミウが顔を上げると、イードが、薄く目を開けていた。まだ、半分、夢の中にいるような、焦点の合わない瞳が、ゆっくりと枝葉のほうへ向けられ、それから、ミウの顔に、たどり着いた。
「……あれ……ミウ……?」
「おはよう、イード」
「……おはよう……」
イードは、ふぁ、と大きなあくびを漏らして、手の甲で目をこすった。
「……いま……何時……?」
「朝ごはんの、少しあとくらい」
「……そう……じゃあ……もう……朝なんだね……」
「うん。朝だよ」
「……さっきまで……夜だった……気がする……」
「夢の中で?」
「……うん……」
イードは、ハンモックの縁から、ぶらんと片腕を垂らして、ミウのほうを見下ろした。
「……ミウ……どうして……ここに……?」
「アヤ姉さんに言われたの。イードの話し相手になってあげてって」
「……アヤ姉さん……が……?」
「うん。イードの夢の話、聞かせてほしいなって思って」
イードは、ぼんやりとミウを見つめていた。
それから、ゆっくりと、口元に、柔らかな笑みを浮かべた。
「……そっか……」
「迷惑だった?」
「……ううん……嬉しい……」
小さな声だった。けれど、そこには、確かな温度があった。
「……みんなに……話すと……途中で……寝ちゃうから……」
「うん。アヤ姉さんも、そう言ってた」
「……でも……ミウなら……寝ても……怒らない……?」
「怒らないよ。寝てたら、起きるまで待ってる」
「……ほんと……?」
「ほんと」
ミウが、即座に答えると、イードは、少し驚いたように目を瞬かせた。それから、ふふ、と小さく息を漏らして、ハンモックの上で身をよじった。
「……じゃあ……ここ……来て……」
「え?」
「……一緒に……横になろう……」
ハンモックの片側を、ぽんぽんと叩く。
ミウは、きょとんとした。それから、少しだけ迷って、そろそろとハンモックに近づいた。縄の網目に手をかけ、ゆっくりと体を預ける。
ぐらり、と大きく揺れた。
「わっ」
「……大丈夫……すぐ……慣れる……」
ミウは、イードの隣に、仰向けに寝転んだ。
ハンモックの網目が、背中にやわらかく食い込む。見上げると、楡の葉の緑が、青い空を細かく刻んで、きらきらと光っていた。風が通るたびに、ハンモック全体が、ゆりかごのように、ゆったりと左右に揺れる。
「……ね……気持ちいいでしょ……」
「うん。すごく」
「……この木……私の……お気に入り……なの……」
イードが、とろんとした声で言った。
「……ここにいると……夢が……近くなる気が……するの……」
*
「……私ね……いつも……夢を見てるの……」
しばらくして、イードが、ぽつりぽつりと、話し始めた。
ハンモックは、ゆっくりと揺れている。ふたりの視線は、頭上の木の葉に向けられたまま、隣り合って、同じ空を見上げていた。
「……寝てる時だけじゃなくて……起きてる時も……少し……夢の続きが……見えることが……あるの……」
「起きてる時も?」
「……うん……ぼんやり……してる時とか……ね……」
イードの声は、風に溶けるように、柔らかかった。
「……夢の中の景色が……ふっと……目の前に……重なって……見えるの……」
「どんな景色?」
「……いろいろ……」
イードは、少し間を置いた。
「……空に……海が……あるの……」
「空に、海?」
「……そう……青い海が……空の上に……広がってて……大きな……くじらが……泳いでるの……光でできた……くじら……」
「光のくじら」
「……うん……歌ってる……の……低い……低い声で……ずーっと……遠くまで……響くの……」
ミウは、思わず、目を閉じた。
イードの言葉が、頭の中で、色と形を持ち始める。青い海。空の上の、波。光でできた巨大な体が、ゆっくりと、尾を揺らしながら、通り過ぎていく。低い歌声が、胸の奥まで響いてくる。
「……聞こえる、気がする」
「……ほんと……?」
「うん。深い、深い声。お腹の底まで、震えるみたいな」
「……そう……そうなの……!」
イードの声が、わずかに弾んだ。眠たげなままなのに、そこに、確かな嬉しさが滲んでいる。
「……ミウ……聞こえるんだ……」
「イードが、そう話してくれたから」
「……すごい……」
イードは、ふわりと笑った。
「……他にもね……あるの……」
イードの話は、次から次へと、あふれてきた。
雨の降る図書館。天井から、絶えず細かい雫が落ちていて、本の頁が、いつもしっとりと濡れている。それなのに、文字は、一滴もにじまない。誰かが、本棚のあいだで、傘をさして、静かに、頁をめくっている。
足元を、小さな青い蛍が、列を作って飛んでいく、石畳の夜道。蛍の灯りを辿っていくと、いつも、行き止まりの、小さな階段に着く。階段を登ると、また、別の夜道が始まる。
鏡の中にだけ、咲いている花の庭。花に手を伸ばすと、鏡の向こうの自分が、こちらに手を差し出してくる。触れ合った指先は、とても、冷たい。
話すたびに、イードの声は、少しずつ、ゆっくりになっていった。
ミウは、ひとつひとつの景色を、頭の中に、丁寧に描きながら、聞いていた。時々、小さく相槌を打つ。「それから?」と、先を促す。
やがて、イードの声が、途切れた。
ミウが、隣を見ると、イードは、また、眠りに落ちていた。
睫毛が、静かに閉じられている。唇が、ほんのわずか、笑みの形に緩んでいた。
ミウは、くすりと笑って、そっと、ハンモックの揺れを、足で止めた。
それから、ゆっくりと、体を起こした。
*
イードが、再び目を開けたのは、日がかなり高くなってからだった。
「……あれ……?」
「おはよう。……ううん、もう、お昼かな」
ミウは、ハンモックの傍らの根元に腰掛けて、膝の上に紙束を広げていた。鉛筆を握った手を止めて、顔を上げる。
「……私……寝ちゃった……?」
「うん。くじらの話の、途中で」
「……ごめん……」
「謝らなくていいよ。待ってるって、言ったでしょう」
イードは、ハンモックの縁から、ずるりと体を滑らせて、地面に降りた。ふらふらと、おぼつかない足取りで、ミウの隣に座り込む。
「……何……書いてるの……?」
「イードの夢の話。忘れないように、書き留めてたの」
「……え……」
イードは、目を見開いた。眠たげな瞼の奥に、はっきりと、驚きの色が浮かんでいる。
ミウが差し出した紙には、小さな文字で、こう書かれていた。
イードの夢。
空の上に海がある。光でできたくじらが、歌いながら泳いでいる。
雨の降る図書館。本は濡れているのに、文字はにじまない。
青い蛍の夜道。行き止まりの小さな階段を登ると、また別の夜道が始まる。
鏡の中だけに咲く花の庭。指先は、冷たい。
「……全部……書いて、くれたの……?」
「うん。覚えてることだけ、だけど」
「……」
イードは、紙を、両手で、そっと受け取った。じっと、文字を見つめる。
その横顔が、少しずつ、変わっていった。
眠たげな表情の奥から、何か、別のものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。大切なものを、初めて他人に見つけてもらったような、戸惑いと、嬉しさと、それから、ほんの少しの、怖れ。
「……どうして……?」
「どうして、って?」
「……どうして……こんなこと……してくれるの……?」
「うーん」
ミウは、少し考えて、正直に答えた。
「イードの夢、すごくきれいだったから。なくなっちゃうのが、もったいないなって思って」
「……なくなる……?」
「うん。夢って、起きたら、忘れちゃうでしょう。でも、書いておけば、残るから」
イードは、しばらく、黙っていた。
それから、紙を胸に抱えるようにして、小さな声で、言った。
「……私ね……夢が……消えちゃうのが……怖いの……」
ミウは、ゆっくりと、イードのほうを向いた。
イードは、自分の膝を見つめたまま、ぽつぽつと、言葉を紡いだ。
「……起きた時……夢の中で……見たものが……ぜんぶ……煙みたいに……消えていくの……さっきまで……確かに……あったのに……」
「うん」
「……それが……すごく……寂しくて……でも……そのうち……夢と……現実の……区別も……あいまいに……なってきて……」
イードの指が、紙の端を、ぎゅっと握りしめる。
「……今……私が……いるここも……本当に……現実なのかな……って……思う時が……あるの……」
「……」
「……ミウと……話してる……この時間も……もしかしたら……夢の中の……出来事で……目を覚ましたら……ぜんぶ……なくなっちゃう……のかも……って……」
その声は、とても小さかった。
笑い話のように聞こえるくらい、淡々としていたけれど、そこには、深い、深い不安が、静かに沈んでいた。
ミウは、すぐには、何も言えなかった。
夢と現実の境目が、あいまいになる。
その感覚は、なぜか、ミウにも、少しだけ、わかる気がした。
「……イード」
「……うん……」
「私ね、丘で目が覚めたとき、自分のこと、何も覚えてなかったの」
ミウは、ゆっくりと、言葉を選んだ。
「名前だけ、知ってた。それ以外は、全部、空っぽだった。昔の私が、どんな人だったのか、どこにいたのか、誰といたのか。何も、思い出せない」
「……うん……」
「だから、時々、思うの。昔の私って、本当にいたのかなって。ぜんぶ、夢だったんじゃないかなって」
イードが、顔を上げて、ミウを見た。
ミウは、少し笑った。
「でも、そう思っても、困らないんだよね。だって、今、イードと話してる私は、ちゃんといるから。ここで、風を感じて、揺れる木を見て、おなかがすいて、ご飯を食べてる私は、確かにいるから」
「……」
「だから、夢でも、現実でも、今、ここにいるイードと、私が話してる。それは、本当のことだと思うの」
イードは、じっと、ミウを見つめていた。
大きな瞳に、枝葉の影が揺れている。
「……ミウは……強いね……」
「強くないよ。ただ、考えても、わからないから、考えないようにしてるだけ」
「……」
「それに、イードは、ひとりじゃないでしょう」
ミウは、紙を指さした。
「夢の話は、私が覚えておく。書いて、残しておく。もし、夢がなくなっちゃいそうになったら、私が、イードに、教えてあげる。こんな景色があったよ、って」
イードの目が、大きく、見開かれた。
「……ほんと……?」
「うん。約束する」
「……私が……忘れても……?」
「忘れても。何度でも、話すよ」
イードは、唇を噛んだ。
それから、ふっと、肩の力を抜いて、ミウの肩に、こてん、と、頭を預けた。
「……ありがとう……」
とても、小さな声だった。
ミウは、そっと、その頭に手を置いた。柔らかい髪が、指の間をすり抜ける。ほんのり、日向の匂いがした。
*
昼食は、アヤが、籠に詰めて持ってきてくれた。
ハンモックの下の草の上に、布を広げて、三人で囲んだ。丸いパンに、ゆで卵、薄く切ったチーズ、それから、庭で採れたばかりの小さなトマト。
イードは、パンを手に取りながら、すでに、船を漕ぎ始めていた。
「イード、起きて。ご飯だよ」
「……ん……起きてる……よ……」
「もう半分、寝てるわよ」
アヤが、くすくすと笑う。
「口に入れるまで、頑張って。ほら、あーん」
「……ん……」
アヤが差し出した小さなチーズを、イードは、半分閉じた目のまま、ぱくりと食べた。
「……おいしい……」
「でしょう」
「……もう……ひとつ……」
「あらあら」
アヤは、苦笑しながら、もうひとつ、差し出した。
ミウは、その様子を見ながら、自分のパンを、ふたつに割った。それを、イードの膝の上に、ぽん、と置く。
「はい。はんぶん」
「……ミウ……?」
「イード、寝てる間も、ちゃんと食べなきゃだめだよ」
「……ふふ……」
イードは、パンの片割れを、両手で抱えて、小さく笑った。
アヤが、そんなふたりを、優しい目で眺めていた。それから、ふと、ミウに向かって、小声で言った。
「ミウさん。ありがとう」
「え?」
「イードが、あんなふうに、楽しそうに笑うの、久しぶりに見た気がするわ」
アヤの声は、穏やかだった。けれど、その奥に、わずかに、翳りのようなものが覗いていた。
「最近、あの子、起きている時間が、少しずつ、短くなっているでしょう。眠いのは、昔からだけれど……」
アヤは、言葉を、途中で飲み込んだ。
それから、小さく首を振って、いつもの笑顔に戻った。
「ううん、なんでもないの。気にしないで」
「……うん」
ミウは、何かを言いかけて、結局、頷くだけにした。
胸の奥に、小さな石が、ひとつ、沈んだような気がした。
*
午後は、ふたりで、庭の裏手の小さな池まで、散歩に出た。
池と言っても、浅い水たまりのようなものだった。岸辺には、背の高い葦が、ひっそりと茂っている。水面は、鏡のように静かで、空と雲の姿を、そのまま映し込んでいた。
イードは、ミウの腕に、ゆるく、もたれかかりながら歩いていた。
「……歩いてると……眠くなる……」
「そうだよね。でも、いい天気だから、もう少し、頑張ろう」
「……うん……」
池のほとりの、平らな岩に、ふたりで腰を下ろした。足を、水の縁に投げ出す。ひんやりとした水が、爪先を撫でていく。
ミウは、ふと、近くの泥の地面に、細い枝で、線を引いた。
「何、描いてるの……?」
「さっきの夢の話。光のくじら」
ミウは、泥の上に、大きな楕円と、尾びれの形を、ぎこちなく描いた。それは、あまり上手とは言えなかったけれど、確かに、何かの生き物の形をしていた。
「……ふふ……へたくそ……」
「ひどいな。イードがやってみてよ」
「……いいよ……」
イードは、枝を受け取って、泥の上に、すっと、一本の線を引いた。
その線は、驚くほど、滑らかだった。くじらの背が、波のようにうねり、尾びれが、優雅に空へと跳ね上がる。目の位置に、小さな点。その周りに、光の輪が、幾重にも重ねられる。
「……わあ……」
「……こう……かな……」
「すごい。本当に、光ってるみたい」
イードは、照れたように笑った。
「……夢で……いつも……見てるから……」
「そっか。見てるものを、描いてるんだね」
「……うん……」
ミウは、イードの隣で、泥の上の絵を、じっと眺めた。
ふたりで、描き足していく。くじらの周りに、波を。波の上に、小さな星を。くじらの背に、ちょこんと乗った、小さな人影を。
「これ、誰?」
「……ミウ……」
「私?」
「……うん……ミウも……くじらに……乗せて……あげたい……」
イードは、ふわりと笑った。
「……夢の中でも……一緒に……いてくれたら……いいなって……」
ミウは、少しだけ、胸の奥が、きゅっとなった。
「……いいね。乗ってみたいな」
「……ほんと……?」
「うん。空の海を、くじらと一緒に泳いでみたい」
ふたりは、顔を見合わせて、くすくすと笑った。
風が、葦のあいだを、さらさらと通り抜けた。
*
その日の夕方、イードは、また、眠りに落ちた。
池のほとりから、ゆっくり、ゆっくりと、ふたりで帰る途中のことだった。楡の木の下で、少し休もうと、ハンモックに腰を掛けた途端、イードの首が、かくん、と傾いた。
「イード?」
「……ん……ちょっとだけ……」
「うん。ちょっとだけ、休もうか」
「……ごめん……ミウ……」
「謝らないで。おやすみ」
イードは、ハンモックに体を預けて、そのまま、すうっと、眠りに引き込まれていった。
ミウは、その隣に、座り込んだ。
夕陽が、西の空を、橙と紫に染め始めていた。楡の葉が、金色に縁取られて、風に揺れている。ハンモックの縄が、きい、きい、と、小さな音を立てていた。
ミウは、膝の上に、紙束を広げた。
今日の出来事を、ゆっくりと、書き込んでいく。
きょう。
イードと一日、一緒にいた。イードは、いつも夢を見ていて、起きている時も、夢の続きが見えるのだそうだ。
空の上の海。光のくじら。雨の降る図書館。
イードは、夢が消えてしまうのが、怖いと言っていた。夢と現実の区別が、あいまいになる時があるとも。
夢の話は、私が覚えておくと、約束した。
鉛筆が、そこで、止まった。
ミウは、ハンモックの上のイードを、ふと見た。
イードの寝顔は、穏やかだった。けれど、その表情の奥に、微かな影のようなものが、揺れている。眉間に、ほんの少し、皺が寄っていた。まるで、遠くから呼ばれているような、そんな顔だった。
そのとき、イードの唇が、かすかに、動いた。
「……おかあ、さま……」
ミウは、息を止めた。
「……まだ……いや……」
小さな、小さな、寝言だった。
風の音に紛れて、ほとんど聞こえないくらいの、かすれた声。それでも、ミウの耳には、確かに届いた。
「……もう……少し……だけ……」
イードの指が、ハンモックの縄を、ぎゅっと握りしめた。
ミウは、何も言えずに、その手を見つめていた。
誰かが、イードに、何かを、呼びかけているのだろうか。夢の中で。「もう、眠りなさい」とでも言うように。
そんな考えが、ふと、頭をよぎって、ミウは、慌てて首を振った。
考えすぎだ。ただの、寝言だ。
けれど、ミウは、鉛筆を、再び走らせた。
イードは、寝言で「おかあさま」と言っていた。「まだ、いや」とも。
書いてから、少し迷って、その一行の上に、薄く、短い線を引いた。ヴィヴィとの約束を思い出したからだった。母のことを、ここに、深く書くのは、よくない気がした。
けれど、完全には、消さなかった。
読めるくらいに、残した。
*
空が、すっかり藍色に近づいた頃、イードが、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……」
「おはよう、イード」
「……ミウ……」
イードは、ぼんやりと、ミウの顔を見上げた。
その目が、ふっと、大きく見開かれた。
「……ミウ……いた……」
「うん。ずっと、ここにいたよ」
「……よかった……」
イードは、安堵したように、ふう、と息を吐いた。それから、ハンモックの上で、ゆっくりと、体を起こした。
「……夢……見てたの……」
「どんな夢?」
「……ミウが……いたの……」
イードの声は、ひどく、静かだった。
「……暗い……道を……ひとりで……歩いてて……」
「私が?」
「……うん……ずっと……ずっと……長い……道……誰も……いなくて……ミウが……ひとりで……歩いてた……」
ミウは、ぱちぱちと、目を瞬かせた。
「ひとりで、歩いてたの?」
「……うん……何度……呼んでも……聞こえなくて……」
イードの手が、ミウの袖を、きゅっと掴んだ。
「……どこまで……歩いても……ミウは……ひとりで……」
その声は、震えていなかった。けれど、袖を掴む指先は、小さく、小さく、震えていた。
ミウは、少しの間、イードの顔を、見つめていた。
それから、にっこり、笑った。
「大丈夫だよ、イード。それ、きっと、ただの夢」
「……」
「私、散歩が好きだから。ひとりで、長い道を歩いてる夢を見ても、おかしくないよ」
「……でも……」
「それに、今、私は、ここにいるでしょう。イードと、一緒に」
ミウは、イードの手を、そっと包み込んだ。
「ほら。ちゃんと、手を握れる。夢じゃないよ」
イードは、握られた手を、じっと見つめた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……うん……」
「ね?」
「……ミウの手……あったかい……」
「でしょう」
イードは、ふっと、小さく笑った。
けれど、笑ったあとも、袖を握る指は、離れなかった。
「……ねえ……ミウ……」
「うん?」
「……もし……私が……夢の中で……ミウに……会えたら……」
「うん」
「……声を……かけても……いい……?」
「もちろん」
「……ミウは……私に……気づいて……くれる……?」
ミウは、少し考えてから、答えた。
「気づくよ。絶対」
「……どうして……わかるの……?」
「だって、イードの夢の話を、全部、書いて、覚えてるもの。空の上の海も、光のくじらも、雨の図書館も。夢の中で、それを見つけたら、ああ、ここはイードの夢だなって、わかる」
「……そっか……」
「そうだよ」
イードは、ミウの肩に、こてん、と頭を預けた。
「……夢で……会えたら……いいな……」
「うん。会えたらいいね」
「……約束……」
「約束」
夕焼けが、ふたりの横顔を、薄紅色に染めていた。
*
家に戻ったときには、すっかり夜になっていた。
玄関の灯りの下で、シオンが、腕を組んで待っていた。
「おかえり。遅かったね」
「ごめん、シオン。ちょっと、夢中になっちゃって」
「ううん、いいよ。イードの顔を見れば、わかる」
シオンは、ミウの肩にもたれて眠りかけているイードの顔を、そっと覗き込んだ。
「……楽しかったみたいだね」
「うん」
「ありがとう、ミウ」
シオンは、小さな声で言った。
それから、少しだけ、表情を曇らせた。
「最近、イード、起きてる時間が、本当に短いから。今日みたいに、ちゃんと笑ってるのを見ると、ほっとする」
「……うん」
「でも……」
シオンは、言いかけて、口をつぐんだ。
ミウも、何も聞かなかった。
ただ、ふたりで、眠ったままのイードを、そっと支えながら、家の中へ入っていった。
その夜、ミウは、机に向かって、紙束を、丁寧に広げた。
イードから受け取った、夢の絵が、泥の上から、紙の上に、写し取られている。光のくじら。波の上の星。背中に乗った、小さな人影。
ミウは、その絵の隣に、一行だけ、書き添えた。
イードと、夢で会う約束をした。
それから、鉛筆を置いて、窓の外を見た。
夜空には、数えきれないほどの星が、瞬いていた。
その星の下の、遠い遠い、どこかに。
光のくじらが、歌っているような気がした。