八人目の食卓   作:もちもちほっぺ

7 / 8
第7話 イードの夢

 

 その日の朝、イードは食卓に現れなかった。

 

 これは、珍しいことではなかった。イードが朝食の席にいない日は、この十日あまりのあいだにも、すでに三度ほどあった。けれど、鍋の湯気の向こうでシオンがちらりと入口のほうを見やり、アヤが、少しだけ眉を下げたのを、ミウは見逃さなかった。

 

「イードは、また、庭かしら」

 

「たぶん、いつもの木の下だと思う」

 

 シオンが、器にスープをよそいながら答える。

 

「ハンモックで、寝てるんじゃないかな。昨夜も、早く部屋に戻ってたし」

 

「そう……」

 

 アヤは、小さく息をついてから、ミウのほうへ向き直った。

 

「ミウさん。今日は、イードのところへ、行ってあげてくれるかしら」

 

「イードのところ?」

 

「ええ。あの子、ひとりで夢の話をしていることが多いのよ。聞いてあげられる人が、あまりいなくて」

 

 アヤの声は、穏やかだった。けれど、その奥に、ほんの少し、迷うような響きが混じっていた。

 

「みんな、あの子の話を、ちゃんと聞いてあげたいとは思っているのよ。でも、イードが話し始めると、途中で寝てしまうでしょう。それで、いつの間にか、話が途切れてしまって」

 

「……うん」

 

「あなたなら、最後まで、聞いてくれる気がするの」

 

 ミウは、少しだけ考えた。

 

 それから、にっこり笑って、頷いた。

 

「わかった。行ってくる」

 

「ありがとう。お願いね」

 

 アヤが、ほっとしたように微笑んだ。

 

 向かいの席で、ヴィヴィが、スープを啜りながら、ちらりとこちらを見た。何か言いたげな目だったけれど、結局、何も言わずに、視線を落とした。

 

  *

 

 裏庭の奥に、古い楡の木が一本、立っていた。

 

 幹は、ミウが両腕を回しても届かないほど太く、枝は、四方へゆったりと広がって、地面にまだらな影を落としている。その枝と枝のあいだに、麻の太い縄で編まれたハンモックが、ゆらゆらと揺れていた。

 

 朝の光が、葉の隙間から零れ落ちて、ハンモックの上に、小さな光の斑点を散らしている。

 

 その中に、イードがいた。

 

 両腕を胸の前で組んで、膝を少し曲げて、まるで、胎内の子どものような格好で。長いまつげが、頬の上に、薄い影を落としている。唇が、ほんの少し開いていて、規則正しい寝息が、すう、すう、と静かに漏れていた。

 

 ミウは、足音を忍ばせて、近づいた。

 

 起こすべきか、迷った。あまりにも、気持ちよさそうに眠っているので、声をかけるのが、ためらわれる。

 

 しばらく、木の根元に腰を下ろして、様子を見ていることにした。

 

 風が、枝を揺らす。葉擦れの音が、さわさわと、雨のように降ってくる。ハンモックの縄が、ぎい、と小さく軋んだ。どこか遠くで、鳩が鳴いている。

 

 静かだった。

 

 家の中の賑わいが、嘘のように遠い。ここだけ、時間の流れが、緩やかになっているような気がした。

 

「……ん……」

 

 ふいに、ハンモックの上で、小さな声がした。

 

 ミウが顔を上げると、イードが、薄く目を開けていた。まだ、半分、夢の中にいるような、焦点の合わない瞳が、ゆっくりと枝葉のほうへ向けられ、それから、ミウの顔に、たどり着いた。

 

「……あれ……ミウ……?」

 

「おはよう、イード」

 

「……おはよう……」

 

 イードは、ふぁ、と大きなあくびを漏らして、手の甲で目をこすった。

 

「……いま……何時……?」

 

「朝ごはんの、少しあとくらい」

 

「……そう……じゃあ……もう……朝なんだね……」

 

「うん。朝だよ」

 

「……さっきまで……夜だった……気がする……」

 

「夢の中で?」

 

「……うん……」

 

 イードは、ハンモックの縁から、ぶらんと片腕を垂らして、ミウのほうを見下ろした。

 

「……ミウ……どうして……ここに……?」

 

「アヤ姉さんに言われたの。イードの話し相手になってあげてって」

 

「……アヤ姉さん……が……?」

 

「うん。イードの夢の話、聞かせてほしいなって思って」

 

 イードは、ぼんやりとミウを見つめていた。

 

 それから、ゆっくりと、口元に、柔らかな笑みを浮かべた。

 

「……そっか……」

 

「迷惑だった?」

 

「……ううん……嬉しい……」

 

 小さな声だった。けれど、そこには、確かな温度があった。

 

「……みんなに……話すと……途中で……寝ちゃうから……」

 

「うん。アヤ姉さんも、そう言ってた」

 

「……でも……ミウなら……寝ても……怒らない……?」

 

「怒らないよ。寝てたら、起きるまで待ってる」

 

「……ほんと……?」

 

「ほんと」

 

 ミウが、即座に答えると、イードは、少し驚いたように目を瞬かせた。それから、ふふ、と小さく息を漏らして、ハンモックの上で身をよじった。

 

「……じゃあ……ここ……来て……」

 

「え?」

 

「……一緒に……横になろう……」

 

 ハンモックの片側を、ぽんぽんと叩く。

 

 ミウは、きょとんとした。それから、少しだけ迷って、そろそろとハンモックに近づいた。縄の網目に手をかけ、ゆっくりと体を預ける。

 

 ぐらり、と大きく揺れた。

 

「わっ」

 

「……大丈夫……すぐ……慣れる……」

 

 ミウは、イードの隣に、仰向けに寝転んだ。

 

 ハンモックの網目が、背中にやわらかく食い込む。見上げると、楡の葉の緑が、青い空を細かく刻んで、きらきらと光っていた。風が通るたびに、ハンモック全体が、ゆりかごのように、ゆったりと左右に揺れる。

 

「……ね……気持ちいいでしょ……」

 

「うん。すごく」

 

「……この木……私の……お気に入り……なの……」

 

 イードが、とろんとした声で言った。

 

「……ここにいると……夢が……近くなる気が……するの……」

 

  *

 

「……私ね……いつも……夢を見てるの……」

 

 しばらくして、イードが、ぽつりぽつりと、話し始めた。

 

 ハンモックは、ゆっくりと揺れている。ふたりの視線は、頭上の木の葉に向けられたまま、隣り合って、同じ空を見上げていた。

 

「……寝てる時だけじゃなくて……起きてる時も……少し……夢の続きが……見えることが……あるの……」

 

「起きてる時も?」

 

「……うん……ぼんやり……してる時とか……ね……」

 

 イードの声は、風に溶けるように、柔らかかった。

 

「……夢の中の景色が……ふっと……目の前に……重なって……見えるの……」

 

「どんな景色?」

 

「……いろいろ……」

 

 イードは、少し間を置いた。

 

「……空に……海が……あるの……」

 

「空に、海?」

 

「……そう……青い海が……空の上に……広がってて……大きな……くじらが……泳いでるの……光でできた……くじら……」

 

「光のくじら」

 

「……うん……歌ってる……の……低い……低い声で……ずーっと……遠くまで……響くの……」

 

 ミウは、思わず、目を閉じた。

 

 イードの言葉が、頭の中で、色と形を持ち始める。青い海。空の上の、波。光でできた巨大な体が、ゆっくりと、尾を揺らしながら、通り過ぎていく。低い歌声が、胸の奥まで響いてくる。

 

「……聞こえる、気がする」

 

「……ほんと……?」

 

「うん。深い、深い声。お腹の底まで、震えるみたいな」

 

「……そう……そうなの……!」

 

 イードの声が、わずかに弾んだ。眠たげなままなのに、そこに、確かな嬉しさが滲んでいる。

 

「……ミウ……聞こえるんだ……」

 

「イードが、そう話してくれたから」

 

「……すごい……」

 

 イードは、ふわりと笑った。

 

「……他にもね……あるの……」

 

 イードの話は、次から次へと、あふれてきた。

 

 雨の降る図書館。天井から、絶えず細かい雫が落ちていて、本の頁が、いつもしっとりと濡れている。それなのに、文字は、一滴もにじまない。誰かが、本棚のあいだで、傘をさして、静かに、頁をめくっている。

 

 足元を、小さな青い蛍が、列を作って飛んでいく、石畳の夜道。蛍の灯りを辿っていくと、いつも、行き止まりの、小さな階段に着く。階段を登ると、また、別の夜道が始まる。

 

 鏡の中にだけ、咲いている花の庭。花に手を伸ばすと、鏡の向こうの自分が、こちらに手を差し出してくる。触れ合った指先は、とても、冷たい。

 

 話すたびに、イードの声は、少しずつ、ゆっくりになっていった。

 

 ミウは、ひとつひとつの景色を、頭の中に、丁寧に描きながら、聞いていた。時々、小さく相槌を打つ。「それから?」と、先を促す。

 

 やがて、イードの声が、途切れた。

 

 ミウが、隣を見ると、イードは、また、眠りに落ちていた。

 

 睫毛が、静かに閉じられている。唇が、ほんのわずか、笑みの形に緩んでいた。

 

 ミウは、くすりと笑って、そっと、ハンモックの揺れを、足で止めた。

 

 それから、ゆっくりと、体を起こした。

 

  *

 

 イードが、再び目を開けたのは、日がかなり高くなってからだった。

 

「……あれ……?」

 

「おはよう。……ううん、もう、お昼かな」

 

 ミウは、ハンモックの傍らの根元に腰掛けて、膝の上に紙束を広げていた。鉛筆を握った手を止めて、顔を上げる。

 

「……私……寝ちゃった……?」

 

「うん。くじらの話の、途中で」

 

「……ごめん……」

 

「謝らなくていいよ。待ってるって、言ったでしょう」

 

 イードは、ハンモックの縁から、ずるりと体を滑らせて、地面に降りた。ふらふらと、おぼつかない足取りで、ミウの隣に座り込む。

 

「……何……書いてるの……?」

 

「イードの夢の話。忘れないように、書き留めてたの」

 

「……え……」

 

 イードは、目を見開いた。眠たげな瞼の奥に、はっきりと、驚きの色が浮かんでいる。

 

 ミウが差し出した紙には、小さな文字で、こう書かれていた。

 

  イードの夢。

 

  空の上に海がある。光でできたくじらが、歌いながら泳いでいる。

  雨の降る図書館。本は濡れているのに、文字はにじまない。

  青い蛍の夜道。行き止まりの小さな階段を登ると、また別の夜道が始まる。

  鏡の中だけに咲く花の庭。指先は、冷たい。

 

「……全部……書いて、くれたの……?」

 

「うん。覚えてることだけ、だけど」

 

「……」

 

 イードは、紙を、両手で、そっと受け取った。じっと、文字を見つめる。

 

 その横顔が、少しずつ、変わっていった。

 

 眠たげな表情の奥から、何か、別のものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。大切なものを、初めて他人に見つけてもらったような、戸惑いと、嬉しさと、それから、ほんの少しの、怖れ。

 

「……どうして……?」

 

「どうして、って?」

 

「……どうして……こんなこと……してくれるの……?」

 

「うーん」

 

 ミウは、少し考えて、正直に答えた。

 

「イードの夢、すごくきれいだったから。なくなっちゃうのが、もったいないなって思って」

 

「……なくなる……?」

 

「うん。夢って、起きたら、忘れちゃうでしょう。でも、書いておけば、残るから」

 

 イードは、しばらく、黙っていた。

 

 それから、紙を胸に抱えるようにして、小さな声で、言った。

 

「……私ね……夢が……消えちゃうのが……怖いの……」

 

 ミウは、ゆっくりと、イードのほうを向いた。

 

 イードは、自分の膝を見つめたまま、ぽつぽつと、言葉を紡いだ。

 

「……起きた時……夢の中で……見たものが……ぜんぶ……煙みたいに……消えていくの……さっきまで……確かに……あったのに……」

 

「うん」

 

「……それが……すごく……寂しくて……でも……そのうち……夢と……現実の……区別も……あいまいに……なってきて……」

 

 イードの指が、紙の端を、ぎゅっと握りしめる。

 

「……今……私が……いるここも……本当に……現実なのかな……って……思う時が……あるの……」

 

「……」

 

「……ミウと……話してる……この時間も……もしかしたら……夢の中の……出来事で……目を覚ましたら……ぜんぶ……なくなっちゃう……のかも……って……」

 

 その声は、とても小さかった。

 

 笑い話のように聞こえるくらい、淡々としていたけれど、そこには、深い、深い不安が、静かに沈んでいた。

 

 ミウは、すぐには、何も言えなかった。

 

 夢と現実の境目が、あいまいになる。

 

 その感覚は、なぜか、ミウにも、少しだけ、わかる気がした。

 

「……イード」

 

「……うん……」

 

「私ね、丘で目が覚めたとき、自分のこと、何も覚えてなかったの」

 

 ミウは、ゆっくりと、言葉を選んだ。

 

「名前だけ、知ってた。それ以外は、全部、空っぽだった。昔の私が、どんな人だったのか、どこにいたのか、誰といたのか。何も、思い出せない」

 

「……うん……」

 

「だから、時々、思うの。昔の私って、本当にいたのかなって。ぜんぶ、夢だったんじゃないかなって」

 

 イードが、顔を上げて、ミウを見た。

 

 ミウは、少し笑った。

 

「でも、そう思っても、困らないんだよね。だって、今、イードと話してる私は、ちゃんといるから。ここで、風を感じて、揺れる木を見て、おなかがすいて、ご飯を食べてる私は、確かにいるから」

 

「……」

 

「だから、夢でも、現実でも、今、ここにいるイードと、私が話してる。それは、本当のことだと思うの」

 

 イードは、じっと、ミウを見つめていた。

 

 大きな瞳に、枝葉の影が揺れている。

 

「……ミウは……強いね……」

 

「強くないよ。ただ、考えても、わからないから、考えないようにしてるだけ」

 

「……」

 

「それに、イードは、ひとりじゃないでしょう」

 

 ミウは、紙を指さした。

 

「夢の話は、私が覚えておく。書いて、残しておく。もし、夢がなくなっちゃいそうになったら、私が、イードに、教えてあげる。こんな景色があったよ、って」

 

 イードの目が、大きく、見開かれた。

 

「……ほんと……?」

 

「うん。約束する」

 

「……私が……忘れても……?」

 

「忘れても。何度でも、話すよ」

 

 イードは、唇を噛んだ。

 

 それから、ふっと、肩の力を抜いて、ミウの肩に、こてん、と、頭を預けた。

 

「……ありがとう……」

 

 とても、小さな声だった。

 

 ミウは、そっと、その頭に手を置いた。柔らかい髪が、指の間をすり抜ける。ほんのり、日向の匂いがした。

 

  *

 

 昼食は、アヤが、籠に詰めて持ってきてくれた。

 

 ハンモックの下の草の上に、布を広げて、三人で囲んだ。丸いパンに、ゆで卵、薄く切ったチーズ、それから、庭で採れたばかりの小さなトマト。

 

 イードは、パンを手に取りながら、すでに、船を漕ぎ始めていた。

 

「イード、起きて。ご飯だよ」

 

「……ん……起きてる……よ……」

 

「もう半分、寝てるわよ」

 

 アヤが、くすくすと笑う。

 

「口に入れるまで、頑張って。ほら、あーん」

 

「……ん……」

 

 アヤが差し出した小さなチーズを、イードは、半分閉じた目のまま、ぱくりと食べた。

 

「……おいしい……」

 

「でしょう」

 

「……もう……ひとつ……」

 

「あらあら」

 

 アヤは、苦笑しながら、もうひとつ、差し出した。

 

 ミウは、その様子を見ながら、自分のパンを、ふたつに割った。それを、イードの膝の上に、ぽん、と置く。

 

「はい。はんぶん」

 

「……ミウ……?」

 

「イード、寝てる間も、ちゃんと食べなきゃだめだよ」

 

「……ふふ……」

 

 イードは、パンの片割れを、両手で抱えて、小さく笑った。

 

 アヤが、そんなふたりを、優しい目で眺めていた。それから、ふと、ミウに向かって、小声で言った。

 

「ミウさん。ありがとう」

 

「え?」

 

「イードが、あんなふうに、楽しそうに笑うの、久しぶりに見た気がするわ」

 

 アヤの声は、穏やかだった。けれど、その奥に、わずかに、翳りのようなものが覗いていた。

 

「最近、あの子、起きている時間が、少しずつ、短くなっているでしょう。眠いのは、昔からだけれど……」

 

 アヤは、言葉を、途中で飲み込んだ。

 

 それから、小さく首を振って、いつもの笑顔に戻った。

 

「ううん、なんでもないの。気にしないで」

 

「……うん」

 

 ミウは、何かを言いかけて、結局、頷くだけにした。

 

 胸の奥に、小さな石が、ひとつ、沈んだような気がした。

 

  *

 

 午後は、ふたりで、庭の裏手の小さな池まで、散歩に出た。

 

 池と言っても、浅い水たまりのようなものだった。岸辺には、背の高い葦が、ひっそりと茂っている。水面は、鏡のように静かで、空と雲の姿を、そのまま映し込んでいた。

 

 イードは、ミウの腕に、ゆるく、もたれかかりながら歩いていた。

 

「……歩いてると……眠くなる……」

 

「そうだよね。でも、いい天気だから、もう少し、頑張ろう」

 

「……うん……」

 

 池のほとりの、平らな岩に、ふたりで腰を下ろした。足を、水の縁に投げ出す。ひんやりとした水が、爪先を撫でていく。

 

 ミウは、ふと、近くの泥の地面に、細い枝で、線を引いた。

 

「何、描いてるの……?」

 

「さっきの夢の話。光のくじら」

 

 ミウは、泥の上に、大きな楕円と、尾びれの形を、ぎこちなく描いた。それは、あまり上手とは言えなかったけれど、確かに、何かの生き物の形をしていた。

 

「……ふふ……へたくそ……」

 

「ひどいな。イードがやってみてよ」

 

「……いいよ……」

 

 イードは、枝を受け取って、泥の上に、すっと、一本の線を引いた。

 

 その線は、驚くほど、滑らかだった。くじらの背が、波のようにうねり、尾びれが、優雅に空へと跳ね上がる。目の位置に、小さな点。その周りに、光の輪が、幾重にも重ねられる。

 

「……わあ……」

 

「……こう……かな……」

 

「すごい。本当に、光ってるみたい」

 

 イードは、照れたように笑った。

 

「……夢で……いつも……見てるから……」

 

「そっか。見てるものを、描いてるんだね」

 

「……うん……」

 

 ミウは、イードの隣で、泥の上の絵を、じっと眺めた。

 

 ふたりで、描き足していく。くじらの周りに、波を。波の上に、小さな星を。くじらの背に、ちょこんと乗った、小さな人影を。

 

「これ、誰?」

 

「……ミウ……」

 

「私?」

 

「……うん……ミウも……くじらに……乗せて……あげたい……」

 

 イードは、ふわりと笑った。

 

「……夢の中でも……一緒に……いてくれたら……いいなって……」

 

 ミウは、少しだけ、胸の奥が、きゅっとなった。

 

「……いいね。乗ってみたいな」

 

「……ほんと……?」

 

「うん。空の海を、くじらと一緒に泳いでみたい」

 

 ふたりは、顔を見合わせて、くすくすと笑った。

 

 風が、葦のあいだを、さらさらと通り抜けた。

 

  *

 

 その日の夕方、イードは、また、眠りに落ちた。

 

 池のほとりから、ゆっくり、ゆっくりと、ふたりで帰る途中のことだった。楡の木の下で、少し休もうと、ハンモックに腰を掛けた途端、イードの首が、かくん、と傾いた。

 

「イード?」

 

「……ん……ちょっとだけ……」

 

「うん。ちょっとだけ、休もうか」

 

「……ごめん……ミウ……」

 

「謝らないで。おやすみ」

 

 イードは、ハンモックに体を預けて、そのまま、すうっと、眠りに引き込まれていった。

 

 ミウは、その隣に、座り込んだ。

 

 夕陽が、西の空を、橙と紫に染め始めていた。楡の葉が、金色に縁取られて、風に揺れている。ハンモックの縄が、きい、きい、と、小さな音を立てていた。

 

 ミウは、膝の上に、紙束を広げた。

 

 今日の出来事を、ゆっくりと、書き込んでいく。

 

  きょう。

 

  イードと一日、一緒にいた。イードは、いつも夢を見ていて、起きている時も、夢の続きが見えるのだそうだ。

 

  空の上の海。光のくじら。雨の降る図書館。

 

  イードは、夢が消えてしまうのが、怖いと言っていた。夢と現実の区別が、あいまいになる時があるとも。

 

  夢の話は、私が覚えておくと、約束した。

 

 鉛筆が、そこで、止まった。

 

 ミウは、ハンモックの上のイードを、ふと見た。

 

 イードの寝顔は、穏やかだった。けれど、その表情の奥に、微かな影のようなものが、揺れている。眉間に、ほんの少し、皺が寄っていた。まるで、遠くから呼ばれているような、そんな顔だった。

 

 そのとき、イードの唇が、かすかに、動いた。

 

「……おかあ、さま……」

 

 ミウは、息を止めた。

 

「……まだ……いや……」

 

 小さな、小さな、寝言だった。

 

 風の音に紛れて、ほとんど聞こえないくらいの、かすれた声。それでも、ミウの耳には、確かに届いた。

 

「……もう……少し……だけ……」

 

 イードの指が、ハンモックの縄を、ぎゅっと握りしめた。

 

 ミウは、何も言えずに、その手を見つめていた。

 

 誰かが、イードに、何かを、呼びかけているのだろうか。夢の中で。「もう、眠りなさい」とでも言うように。

 

 そんな考えが、ふと、頭をよぎって、ミウは、慌てて首を振った。

 

 考えすぎだ。ただの、寝言だ。

 

 けれど、ミウは、鉛筆を、再び走らせた。

 

  イードは、寝言で「おかあさま」と言っていた。「まだ、いや」とも。

 

 書いてから、少し迷って、その一行の上に、薄く、短い線を引いた。ヴィヴィとの約束を思い出したからだった。母のことを、ここに、深く書くのは、よくない気がした。

 

 けれど、完全には、消さなかった。

 

 読めるくらいに、残した。

 

  *

 

 空が、すっかり藍色に近づいた頃、イードが、ゆっくりと目を開けた。

 

「……ん……」

 

「おはよう、イード」

 

「……ミウ……」

 

 イードは、ぼんやりと、ミウの顔を見上げた。

 

 その目が、ふっと、大きく見開かれた。

 

「……ミウ……いた……」

 

「うん。ずっと、ここにいたよ」

 

「……よかった……」

 

 イードは、安堵したように、ふう、と息を吐いた。それから、ハンモックの上で、ゆっくりと、体を起こした。

 

「……夢……見てたの……」

 

「どんな夢?」

 

「……ミウが……いたの……」

 

 イードの声は、ひどく、静かだった。

 

「……暗い……道を……ひとりで……歩いてて……」

 

「私が?」

 

「……うん……ずっと……ずっと……長い……道……誰も……いなくて……ミウが……ひとりで……歩いてた……」

 

 ミウは、ぱちぱちと、目を瞬かせた。

 

「ひとりで、歩いてたの?」

 

「……うん……何度……呼んでも……聞こえなくて……」

 

 イードの手が、ミウの袖を、きゅっと掴んだ。

 

「……どこまで……歩いても……ミウは……ひとりで……」

 

 その声は、震えていなかった。けれど、袖を掴む指先は、小さく、小さく、震えていた。

 

 ミウは、少しの間、イードの顔を、見つめていた。

 

 それから、にっこり、笑った。

 

「大丈夫だよ、イード。それ、きっと、ただの夢」

 

「……」

 

「私、散歩が好きだから。ひとりで、長い道を歩いてる夢を見ても、おかしくないよ」

 

「……でも……」

 

「それに、今、私は、ここにいるでしょう。イードと、一緒に」

 

 ミウは、イードの手を、そっと包み込んだ。

 

「ほら。ちゃんと、手を握れる。夢じゃないよ」

 

 イードは、握られた手を、じっと見つめた。

 

 それから、ゆっくりと、頷いた。

 

「……うん……」

 

「ね?」

 

「……ミウの手……あったかい……」

 

「でしょう」

 

 イードは、ふっと、小さく笑った。

 

 けれど、笑ったあとも、袖を握る指は、離れなかった。

 

「……ねえ……ミウ……」

 

「うん?」

 

「……もし……私が……夢の中で……ミウに……会えたら……」

 

「うん」

 

「……声を……かけても……いい……?」

 

「もちろん」

 

「……ミウは……私に……気づいて……くれる……?」

 

 ミウは、少し考えてから、答えた。

 

「気づくよ。絶対」

 

「……どうして……わかるの……?」

 

「だって、イードの夢の話を、全部、書いて、覚えてるもの。空の上の海も、光のくじらも、雨の図書館も。夢の中で、それを見つけたら、ああ、ここはイードの夢だなって、わかる」

 

「……そっか……」

 

「そうだよ」

 

 イードは、ミウの肩に、こてん、と頭を預けた。

 

「……夢で……会えたら……いいな……」

 

「うん。会えたらいいね」

 

「……約束……」

 

「約束」

 

 夕焼けが、ふたりの横顔を、薄紅色に染めていた。

 

  *

 

 家に戻ったときには、すっかり夜になっていた。

 

 玄関の灯りの下で、シオンが、腕を組んで待っていた。

 

「おかえり。遅かったね」

 

「ごめん、シオン。ちょっと、夢中になっちゃって」

 

「ううん、いいよ。イードの顔を見れば、わかる」

 

 シオンは、ミウの肩にもたれて眠りかけているイードの顔を、そっと覗き込んだ。

 

「……楽しかったみたいだね」

 

「うん」

 

「ありがとう、ミウ」

 

 シオンは、小さな声で言った。

 

 それから、少しだけ、表情を曇らせた。

 

「最近、イード、起きてる時間が、本当に短いから。今日みたいに、ちゃんと笑ってるのを見ると、ほっとする」

 

「……うん」

 

「でも……」

 

 シオンは、言いかけて、口をつぐんだ。

 

 ミウも、何も聞かなかった。

 

 ただ、ふたりで、眠ったままのイードを、そっと支えながら、家の中へ入っていった。

 

 その夜、ミウは、机に向かって、紙束を、丁寧に広げた。

 

 イードから受け取った、夢の絵が、泥の上から、紙の上に、写し取られている。光のくじら。波の上の星。背中に乗った、小さな人影。

 

 ミウは、その絵の隣に、一行だけ、書き添えた。

 

  イードと、夢で会う約束をした。

 

 それから、鉛筆を置いて、窓の外を見た。

 

 夜空には、数えきれないほどの星が、瞬いていた。

 

 その星の下の、遠い遠い、どこかに。

 

 光のくじらが、歌っているような気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。