トイレ・オブ・ザ・デッド ~織田信長と逝く本腸寺の変~ 作:ナオ3
これはギャグです、細かいツッコミは無しにして気軽に読んでください。
「はあ……はあ……はあ……っ、く……っ!」
教室の自席。
南向きの大きな窓から差し込む長閑な午後の陽光とはあまりにも不釣り合いな、尋常ならざる濃密な熱気と蒸気が、俺――九条猛(十五歳)の全身から音を立てて立ち上っていた。
机の天板の両端を、万力どころではない油圧プレス機のような力で鷲掴みにしている。爪は血の気が完全に引いて蝋人形のように真っ白に変色し、繊維がミシミシと軋んだ悲鳴を上げていた。丸まった背骨は極限まで引き絞られた鋼の弓のように張り詰め、奥歯は互いを激しくすり潰し合ってギリギリと耳障りな摩擦音を立てている。
額から噴き出した大粒の汗は、もはや粒という単位を越えて奔流となり、眉間を割り、鼻梁を滑り落ち、開かれたノートの罫線を無慈悲に無視してボタボタと醜い染みを広げていた。
客観的な第三者の視点から見れば、完全に非合法薬物の深刻な禁断症状にのたうち回る末期中毒者か、あるいは前世の邪悪な封印が突如として暴走し、自我と肉体の境界が崩壊しかけている思春期の異常者にしか見えないだろう。
だが、断じて違う。
俺は至って普通の――いや、少しばかり過去の環境がバイオレンスに込み入っているとはいえ、どこにでもいる中学三年生の男子生徒だ。
俺が通っているのは、私立陽神学園中等部。
敷地内に足を踏み入れた瞬間、豪奢な白亜の校舎と手入れの行き届いた英国風庭園が広がる、日本屈指の名門セレブ校だ。在籍する生徒たちの顔ぶれは、日本を動かす政財界の重鎮の血族、数百年続く名門旧家の御曹司、世界的なメガIT企業の創業者一族、あるいはアラブの王族とコネクションを持つ石油資本の令嬢といった、選ばれし超富裕層の子女ばかり。校内の購買部にはキャビア風味の高級軽食が並び、敷地内の駐車場には保護者の送迎用外車がずらりと並ぶ、絵に描いたような天上界の縮図である。
そんな絢爛豪華な学園において、俺は特待生枠という名目で紛れ込んだ単なる一般庶民――俗に言う「バンピー(一般ピープル)」に過ぎない。
家柄が良いわけでもなければ、スイス銀行に秘密口座を持っているわけでもない。昔からの奇妙な縁で超大金持ちの幼馴染がいるだけの、取るに足らない小市民だ。
その小市民である九条猛が今、まさに人生最大の、そして文字通りの「絶体絶命」の窮地に陥っていた。
息を乱し、喉の奥をヒューヒューと鳴らしてハアハアと喘いではいるが、決して性欲を持て余して思春期の妄想に耽っているわけでもない。
神に誓って言うが、もしこれが「有り余るリビドーの発散口を求めて悶え苦しんでいるだけ」という健全極まりない理由であるならば、俺は喜んで全財産を投げ出し、校庭のど真ん中で全校生徒に見守られながら土下座し、天に向かって感謝の祈りを捧げるだろう。性欲の暴走など、ただの若さの特権であり、微笑ましい成長痛の一種に過ぎない。現実のそれは、遥かに人間的で、遥かに救いのある悩みだ。
俺が今、己の全存在を賭けて直面しているのは、そんな生温い生理現象などではない。
もっと原始的で、暴虐で、理不尽極まりない、生命の根源的爆縮現象。
魂の全霊をもって断言できる。 あの時、暴力団の放った銃弾に肉を裂かれ、骨を削られ、日本の警察権力と政界がひっくり返った大事件など――今この瞬間に俺に起こっている未曾有の災厄に比べれば、春先の陽だまりで受けるそよ風か、あるいはただの生温いぬるま湯に過ぎない。
「……え~、であるからしてぇ……信長は、西上作戦を企図した武田信玄の急死により、最大の危機を脱したわけですがぁ……」
前方の教壇から、信じられないほど間延びした、平穏の極みのような声が教室の空気を振動させて届く。
だが、その日本語を、俺の大脳皮質はもはや一文字たりとも意味のある言語として処理することができない。鼓膜を通過した音波は、ただの「ぬるま湯のような耳障りなノイズ」となって右の耳から左の耳へと素通りしていく。
(頼む……! 頼むから静かにしてくれ、竹下先生……っ!!)
(その、のんびりとした、世界平和の象徴みたいな間抜けな口調で、俺の極限の精神集中を乱さないでくれえええええええっ!!!)
歴史担当のベテラン教師、竹下智一。
陽神学園に奉職して今年で三十年に及ぶ、還暦を疾うに越えた老教師である。
白髪交じりの銀髪を丁寧になでつけ、金縁の丸眼鏡の奥に常に慈父のような柔和な微笑みを湛えたその姿は、絵に描いたような人格者だ。決して生徒に対して声を荒らげることはなく、どれほど的外れな質問にも嫌な顔一つせず付き合い、授業内容の構成も論理的かつ分かりやすい。名門校特有の鼻持ちならないプライドを持ったエリート生徒たちからも「竹じい」の愛称で広く慕われており、毎年の校内人気教師アンケートを行えば、常にトップ争いに食い込むほどの聖人君子である。
だが。
天は二物を与えずと言うべきか、あるいは神が人類に仕掛けた悪質な悪戯と言うべきか。
この非の打ち所がない名物老教師には、たった一つだけ、あまりにも致命的かつ破滅的な欠点が存在した。
その、声質である。
竹下智一の声は、人間の聴覚器官を麻痺させるために調整された特殊兵器のそれだった。
低音と中音が奇跡的な黄金比率でブレンドされた、異様なまでに滑らかで耳触りの良い美声バリトン。そこに彼特有の、波風を一切立てない平坦でゆったりとしたリズムが加わることで、発声される空気の振動は「極上の催眠周波数」へと昇華する。
巷の同人音声サイトで高額取引されている『絶対に眠れる睡眠誘導ボイス』など、竹下先生の肉声に比べれば幼稚園児のガラガラも同然。先生の口から紡がれる一言一言は、脳の覚醒中枢に直接作用し、意思の力を問答無用でシャットダウンさせる致死性の睡眠ガスそのものであった。
これがまだ、頭の冴え渡った午前中の第一限や第二限なら耐えようもある。朝の冷たい外気と強い意志があれば、防衛線を維持することは不可能ではない。
しかし、現在は魔の第五限。
生徒たちの胃袋が温かい学食の高級ランチで満たされ、消化活動のために体内の血液が消化器系へと総動員され、副交感神経が優位になって全身の細胞が急速に弛緩していく、午後一時十五分である。
昼食を終えてから約一時間。
満腹中枢への強烈な刺激と、教室内に充満する微温湯のような春の陽気。そこへ投下される、竹下智一の全方位無差別催眠音波――通称『竹下ウェーブ』。
もはやこれは教育ではない。音響兵器による無差別テロだ。
ジュネーブ条約で固く禁止すべき非人道兵器として、国連安全保障理事会で即刻議題に上げるべきレベルの暴力である。
教室を見渡せば、普段は気位の高さを誇る名家の秀才や令嬢たちも、その大半が必死の形相で睡魔との地獄の死闘を繰り広げながら、カタカタと震える手でノートを取っていた。
カタカタと小刻みにペン先を震わせ、白目を剥きかけながらノートにミミズがのたくったような謎の古代呪文を刻みつける者。首がガクンと折れるたびにビクッと跳ね起き、何食わぬ顔で眼鏡の位置を直して虚空を睨みつける者。
そして、この学園のエリートの中でも特に生存本能と気合いの入った猛者連中は、独自の過激な防衛手段を講じていた。
最前列の中央に座る秀才男子は、純度百パーセントのハッカ油をこれでもかと染み込ませたティッシュペーパーを両の鼻孔深くに詰め込み、鼻粘膜を襲う劇症的な激痛でボロボロと大粒の涙を流しながら前方を凝視している。あれはもう勉強している人間の顔ではない。秘密地下施設で毒ガステストに耐える実験用モルモットの形相だ。
俺の斜め前方に座る名門華族出身の女子生徒二人組は、互いの制服のスカートの隙間から太ももや脇腹へと手を差し入れ、皮膚が千切れるのではないかという勢いで肉をつねり合っている。二人とも口元には優雅なお嬢様スマイルを崩さずに張り付かせているが、その眉間には鬼のような青筋がくっきりと浮かび上がり、指先の握力には一切の慈悲がない。肉体の痛覚によって脳を強引に覚醒させる、名門令嬢たちの血みどろの相互拷問であった。
さらに窓際の席に陣取る眼鏡のIT企業御曹司に至っては、腕に装着した特注型のウェアラブル端末から、心拍数や体温低下によって生体反応が鈍重になったと判定されるや否や、数十ボルトのパルス電流が皮膚へダイレクトに流れるよう自作のプログラムを走らせているらしい。五分に一度のペースで「ビクッ!」「ンギィッ!」と椅子の上で跳躍し、感電死寸前の痙攣を見せながら白目を剥いて覚醒を維持している。もはや勉強ではなく、死の淵からの生還儀式である。
その他にも、致死量に近い濃縮カフェイン飴を奥歯でガリガリと凄まじい音を立てて噛み砕く者、外科手術の現場で使われるような高濃度アンモニア気付け薬のカプセルを袖口で割って嗅ぎ、悶絶しながら涙を拭う者、あるいはブレザーの隙間から器具を忍ばせ、文具用の強力な洗濯バサミで己の乳首を挟み込むという変態的自傷行為によって覚醒を保とうとする変態的猛者までいた。百花繚乱、阿鼻叫喚のサバイバルである。
普段の俺であれば、愛用の超刺激型トゲトゲ握力ボールを手の平の中で血が滲むほど握りしめることで、竹下ウェーブの猛威をやり過ごしていたはずだった。
だが、今回は違う。
今回は、そんな「睡魔との戦い」などという低次元の戦線にリソースを割くことなど、コンマ一秒たりとも許されないのだ。
俺の全神経、全細胞、全身の血液、そして魂の最後の欠片に至るまで、今や肉体の最下層――ある一点の物理的境界線へと、極限まで集中させられていた。
もしも。
もしも、ほんの僅かでも。
竹下ウェーブの催眠効果に気を許し、精神の箍(たが)がコンマ一秒でも緩んでしまったら――。
死ぬ。
命を落とすんじゃない。肉体的な死なら、まだどれほど救われるだろうか。
ここで失われるのは、そんな生易しいものではない。
人間が社会という文明世界の中で生きていくために不可欠な、自尊心、尊厳、社会的信用、異性からの視線、そして人間としての権利の全てを永遠に喪失する――『社会的完全生命停止』。
それ以上に大事なものを、一瞬にして根こそぎ失ってしまうのだ。
少なくとも、十五歳の多感な男子中学生である俺にとっては、紛れもない死そのものだった。
俺は……俺の肉体は今……。
――ぐうううううっ……。
下腹部の最深部で、鈍く、重苦しい地鳴りのような音が響いた。
それはまるで、数千年の沈黙を破った休火山が、地球の中心から超高熱のマグマを火口へと押し上げ始めたかのような不気味な胎動だった。
――ごろろろろろろっ。
続いて、何かが異常な速度で捻じれ、泡立ち、超高圧の気体と粘度の高い流動体が混ざり合いながら、猛烈な勢いで螺旋を描いて下降してくる感触。
――ぼおおおおおんっ。
直腸の終端部を激しく叩く、破壊的な衝撃波。
幸いにも、その音は外の世界へは漏れ出さず、俺の体内組織だけを無残に震わせるに留まった。だが、内壁にかかる圧力はすでに物理的臨界点(クリティカル・ポイント)を遥かに突破している。
そう。
とてつもなく、猛烈に、破滅的なまでに。
俺は今、う○こがしたいのだ。
誤魔化しようのない純然たる事実。
汚濁に満ちた熱き塊が、俺の肉体の最終防衛線――『門(アナル)』の直前まで押し寄せ、暴れ狂っている。
筋肉の薄い皮一枚を隔てた向こう側で、奴らは「ここを開けろ!」「外の世界へ解き放て!」と、ドス黒い狂気のシャウトを上げながら突撃を繰り返していた。
人間の身体構造において、直腸と肛門の間には『内肛門括約筋』と『外肛門括約筋』という二重の防壁が存在する。
内側の筋肉は自律神経の支配下にあり、人間の意思ではコントロールできない。便が直腸に達すれば、無慈悲にも勝手に開いてしまう自動ドアだ。そして悲劇的なことに、俺の内肛門括約筋はすでに「完全開城」を宣言し、白旗を掲げて敵を迎え入れてしまっていた。
残された防衛線は、外肛門括約筋。
唯一、人間の大脳皮質――すなわち己の「意思の力」によって制御可能な、最後の防壁。
だが、その外側の門もすでに限界だった。
筋肉というものは、持続的に力を入れ続ければ必ず乳酸が溜まり、やがて痙攣を起こして機能を停止する。俺の外括約筋は、すでにフルマラソンを三往復走り抜いた後の太もものようにプルプルと微細に震え、疲労物質の海に溺れかけていた。
「……そしてぇ、天正十年六月二日未明ぇ……織田信長の滞在する本能寺はぁ……」
竹下先生の穏やかすぎる美声が、教室前方のスクリーンに映し出された燃え盛る寺院のイラストを指し示す。
(今の俺は本能寺どころじゃねえええええええっ!!!)
(俺の腹の中が『本腸寺』で今まさに大炎上カーニバル中なんじゃあああああああああっ!!!!)
叫び声は喉の奥で押し殺し、血を吐くような悲鳴となって脳内を反響する。
すると、その極限状態の精神世界の中で、突如として幻覚が結像し始めた。
立ち込める紫煙と炎熱の結腸の彼方から、青白い具足に身を包み、采配を激しく振りかざした戦国武将が姿を現す。
『敵は本腸寺にありぃぃぃぃぃぃぃッッ!!』
響き渡る号令。俺の脳内に顕現した怨念の武将――明智光秀である。
光秀の率いる数万の便意軍勢が、火縄銃と槍を構え、俺の最終防衛門へ向けて怒涛の突撃を敢行してくる。
(ぐああああああっ!? やめろ、やめろ光秀ぇぇぇぇっ!!)
(門を攻めるな! そこを破られたら、この九条猛という国家(にっぽん)が完全に崩壊して戦乱の暗黒時代に逆戻りするんだぞッ!?)
必死に括約筋という名の城門を固め、爪を立てて耐える俺に対し、明智光秀は鬼気迫る形相で罵声を浴びせかけてきた。
『黙れ黙れ黙れぃッ!! 貴様がこれまで我らを散々虐げ、愚弄し続けてきたことへの天罰であると知れッッ!!』
(虐げただと!? 心外だ! 俺が一体何をしたっていうんだ!? 何が悪かったって言うんだよおおおおっ!!)
『何が悪かった、だと……!? 貴様、自分の胸に手を当ててよく思い出してみるがよいッ!!』
光秀は手にした采配をビシッと俺の記憶領域へと突きつけた。
その瞬間、走馬灯のように、今朝からの俺の愚行録が鮮明なハイビジョン映像となって脳裏に再生される。
『貴様……今朝、御母上の手による激辛カレーを、大盛りで三杯平らげたなッ!?』
――うっ。
脳天を金槌で殴られたような衝撃が走る。
そうだ。今朝の出来事だ。
俺の母、九条雅。
専業主婦であり、息子の贔屓目を抜きにしても普段は優しく家族思いの良き母親なのだが、彼女にはたった一つだけ恐るべき悪癖が存在する。定期的に「オリジナル創作料理」という名の未知の領域へ踏み出ることだ。
今朝の食卓に並んだのは、雅が独自の調合でスパイスの加減を完全に踏み外し、地獄の業火のような色彩を放っていた謎の激辛カレーだった。立ち上る湯気だけで鼻腔の粘膜が焼けただれそうになり、同席していた父・九条大和は、果敢にも最初の一口を含んだ瞬間に
「あ、これアカンやつだ……」
と呟いて白目を剥き、そのままダイニングの床へ昏倒して即死(ノックアウト)したのだ。 母自身も青ざめ
「猛、これ配合間違えちゃったみたい……お願いだから無理して食べないで、パンでも焼き直すから!」
必死に制止した。 しかし、若さ特有の全能感に酔いしれていた十五歳の俺は、あろうことかそこで無駄な男のプライドと調子に乗った傲慢さを発動させてしまったのだ。
「ハッ、何を言ってんだ母さん! 男が出された飯を残せるかっての! この程度の辛さ、成長期の俺の胃袋にとっては極上のスパイスに過ぎねえよ!」
そう豪語して、母の制止を完全に無視し、大盛りの激辛カレーをガツガツと三杯、狂ったように胃袋へ流し込んだのだ。
食道を通過する瞬間、胃壁に到達した瞬間に感じたあの「チクチクとした灼熱の違和感」を、俺は若さという名の無知で完全に黙殺した。母の忠告を素直に聞いていれば、こんなことにはならなかったのに……。
『さらに、昼ッ!』
光秀の糾問は容赦なく続く。采配がビシビシと音を立てる。
『貴様は昼食の後、燃えるような胃の熱さに耐えかねて、冷蔵庫でキンッキンに冷え切った麦茶をがぶ飲みしたであろうがッッ!!』
――うぐっ、ぐあああああっ……!
否定できない。一言の弁解もできない。
学食で昼飯を食べた後、朝の激辛カレーの残り火が胃の中でくすぶり、異様な渇きを覚えた俺は、持参していた自前の保冷水筒に入っていた氷入りの麦茶――製氷室の氷を限界まで詰め込み、マイナス数度近くまで冷却された魔の極冷液体を、喉を鳴らして一気飲みしたのだ。
その量、実に一リットル強。
激辛スパイスによって荒れ狂い、充血し、炎症を起こしかけていた無防備な胃腸へ、突然の氷河期のごとき極冷水が叩き込まれたのだ。
熱帯雨林に突如として巨大氷河隕石が衝突したようなものだ。胃腸の内壁がショックを起こし、大腸菌たちがパニックを起こして大暴走を始めるのは、生物学的に見ても必然、物理の法則からしても自明の理であった。
『そして極めつけは、この第五限が始まる直前の昼休み終盤ッッ!!』
明智光秀の瞳に、勝利を確信した冷酷な光が宿る。
『すでに下腹部が微かな警戒警報(アラート)を発していたにもかかわらず、愚かな貴様は何をしていた!? クラスメイトの悪友どもと、スマホの対戦ゲームに現を抜かしてトイレへ行かなかったではないかッッ!!』
(だ、だって……っ! あれはあと一勝でランクマッチのマスター昇格戦だったんだよっ! ここで切断して逃げ出したらペナルティで降格しちゃうところだったんだ! 男として、背中を見せて勝負を投げるわけにはいかなかったんだよおおおおっ!!)
『言い訳無用ッ!! あの時、ゲームの画面を閉じて男子トイレへ駆け込んでいれば、貴様は今頃、優雅に午後の陽光を浴びながら歴史の授業を子守唄代わりに舟を漕いでいられたのだッ!』
光秀は腕を組み、冷酷無比な裁判官のように俺を見下ろした。
『さて、九条猛よ。朝の激辛カレー大盛り三杯、昼の極冷麦茶一気飲み、そして授業直前のスマホゲーム没頭によるトイレ放置――貴様は、この中のどれが一番悪かったと思う?』
(ち、ちくしょう……っ! どれが……どれが悪かったんだ……!?)
激痛に耐え、脂汗を垂らしながら、俺は脳内で必死に自己弁護の糸口を探す。
だが、光秀は嘲笑とともに、雷鳴のような一喝を叩きつけてきた。
『ぜんぶじゃあああああああああああああああっッッッ!!!!』
(ですよねえええええええええええええええええええっっっ!!!!)
俺は心の中で、両手で頭を抱えて絶叫した。
ぐうの音も出ない。一切の反論の余地がない。
これは医学部や保健体育の教科書に「急性腹痛および自業自得性便意切迫症の典型例」として永久保存版のカラー写真付きで掲載されるべき、非の打ち所がない自爆劇のフルコンボであった。
誰を恨むこともできない。敵は外にいるのではない。今朝からの俺自身の浅慮と傲慢が、この地獄を作り上げたのだ。
もはや光秀の猛攻を防ぐ手立てはなく、城門の蝶番がギシギシと音を立てて弾け飛ぼうとしていたその時。
炎上する本腸寺の奥から、ゆらりと立ち上る人影があった。
黒漆塗りの南蛮甲冑に身を包み、長大な太刀を腰に差した痩身の男。トレードマークの鋭い髭をたくわえ、煙管から紫煙をくゆらせている。
第七天魔王――織田信長その人であった。
信長は、どこか吹っ切れたような、全てを諦め尽くしたような達観の表情を浮かべ、静かに息を吐き出した。
『もはや、是非もなし』
(諦めるな、信長ァァァァァァァッッ!!)
俺は脳内で、燃え盛る信長の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで怒鳴り返した。
(お前はいいよ! お前は天下布武の夢半ばで悲劇的な最期を迎えて、後世の日本で一番カッコいい大名として教科書にも映画にもゲームにも引っ張りだこだからな!? でも俺は違う! ここで門が決壊したら、俺に約束されているのは悲劇の英雄の座なんかじゃねえ! ただの惨めで汚らわしい人生への永久追放刑なんだぞッ!?)
必死に訴えかける俺に対し、信長はフッと自嘲気味にニヒルな微笑みを浮かべた。
そして、まるで聞き分けのない子供をあやす慈父のように、鷹揚に頷いて見せる。
『案ずるな、猛よ』
(あん……ずるな……?)
『人間五十年……いや、貴様らの生きる現代では八十年だったな。それだけの長きにわたる生涯を生きていれば、恥の一つや二つは誰にでもあるものだ。たかが教室で少々尻から味噌漏らした程度、大人になって酒の席にでもなれば、笑い話の一つとして大いに盛り上がるネタになろうぞ』
信長は深く頷き、心底どうでもよさそうに遠くを見つめた。
だが、そんな無責任極まりない意見を、俺が受け入れられるはずがない!
(なるわけねえだろバーーーーーーーーッカ!!!!!!)
俺の脳内絶叫が木霊する。
そうだ、なるわけがない!
大人の男が酒の席で「いやぁ昔、中学生の時に授業中に漏らしちゃってさ〜」などと笑って話せるのは、そいつがその後の人生で圧倒的な社会的成功を収めるか、あるいは厚顔無恥な鉄のメンタルを手に入れた極一握りの勝者だけだ!
現在進行形で思春期を生きる普通の男子中学生にとって、教室での脱糞は即座に社会的な死を意味する!
明日からのあだ名は確実に『ウンコマン』か『脱糞丸』か『本腸寺』だ!
すれ違う女子生徒たちからは「あいつ、漏らした奴よ」「近寄らないで、臭いが移る」と蔑みの目を向けられ、男子生徒たちからは哀れみと好奇の混ざった腫れ物扱いを受け、卒業アルバムを開くたびにその汚辱の記憶がフラッシュバックする!
(その一つが致命傷を越えた致命傷なんじゃああああああああああッッ!!!!)
俺の必死の抗弁など、天下の覇王たる信長の耳には届かないらしい。
信長は手にした扇子をバッと広げ、燃え盛る炎の中、腰を落として優雅に舞い始めた。
『人間八十年~♪ 下天の内をくらぶれば~♪ 夢幻の如くなり~♪』
朗々と響き渡る美声。
現代の平均寿命に合わせて絶妙に歌詞をアレンジされた、世にも美しい敦盛の舞。
(やめろおおおおおおおおおおおおっ!!)
(現代ナイズされた敦盛をキレッキレで舞ってんじゃねええええええええっっ!!)
(ウンコマンの烙印を押されて惨めに生き延びるくれぇなら、俺は潔く腹を切って死んでやるわああああああああっっっ!!!!)
脳内では信長が舞い、光秀が突撃し、大腸内壁ではマグマが逆流し、俺の括約筋はすでに乳酸値が致死量に達して微細な振動を繰り返していた。
机を掴む指先からは感覚が消え失せ、冷や汗が目に入って視界が白く霞む。
一秒が、一億年の長さに感じられた。
神よ、仏よ、あるいは歴代の戦国武将よ。誰でもいい、俺をこの業火から救い出してくれ――。
俺の腸内で本腸寺大炎上カーニバルが最高潮を迎え、意識が臨界点へと達しかけていた、まさにその時だった。
「ねえ、大丈夫……?」
鈴を転がすような、あまりにも澄み切った、優しく凛とした声がすぐ隣から降ってきた。
竹下先生の催眠ウェーブとも、光秀の罵声とも、信長の敦盛とも違う。
荒れ狂う嵐の海に差し込む一筋の光明のようなその声に、俺は白目を剥きかけた視界をわずかに動かした。
隣の席から、心配そうにこちらを覗き込んでいる少女がいた。
八雲美琴。
俺の、物心ついた頃からの幼馴染だ。
肩まで綺麗に切り揃えられた艶やかな黒髪は、午後の陽光を浴びて絹糸のように滑らかな輝きを放っている。陶器のように透き通った白い肌に、理知的で大きな黒檀の瞳。陽神学園の伝統あるブレザーを寸分の乱れもなく着こなし、背筋をピンと伸ばしたその立ち姿は、同年代の女子とは一線を画す圧倒的な気品と美しさを漂わせていた。
彼女は、日本経済の屋台骨を支え、数多のメガバンクや重工業、通信インフラを傘下に収める名門中の名門――『八雲グループ』の正統なる総帥一族の令嬢である。
生まれながらにして巨万の富と高いステータスを約束され、頭脳明晰、成績は学年常にトップクラス。それでいて決して他者を見下すような傲慢さは微塵もなく、誰に対しても礼儀正しく、慈愛に満ちた態度で接する。
とても俺と同じ十五歳とは思えないほどしっかり者で、学園内では男子生徒のみならず女子生徒からも絶大な憧憬と崇拝を集める、まさに生ける伝説のような少女だった。
そんな雲の上の大財閥令嬢が、なぜかバンピーである俺と、昔から対等に接してくれている。
奇妙な縁だか何だか知らないが、俺のような粗野で乱暴な小市民を、彼女は幼少の頃からずっと見捨てずに気にかけてくれていた。
俺と美琴。
客観的に見れば、まさに『月とスッポン』という言葉がこれほど似合う関係性もないだろう。
もちろん、彼女が月だ。夜空高くにあって、穢れた世界を静かに、優しく照らし出す清らかなお月様。
そして、俺がスッポン……。
いや。前言撤回だ。
今の俺をスッポンに例えるなど、世界中のスッポンに対して万死に値する冒涜である。
スッポンは素晴らしい生き物だ。栄養満点で、滋養強壮に優れ、高級料亭で極上のスープとなり、口にした人々を幸せで健康にしてくれる。生命力に溢れ、自然の生態系を豊かに育む誇り高き水生生物だ。
それに引き換え、今の九条猛という男は一体何だ?
肉で出来た、ただの糞袋。
しかも、今まさに内圧によって破裂しかけている、最悪の欠陥糞袋だ。
周囲に悪臭と汚濁を撒き散らし、クラスメイトを阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とし、関わる全ての人間を不幸にしかできない、動く公害、歩く疫病神。
スッポンと比べるなど、あまりにもスッポンに申し訳なさすぎる。
そんな破れかけの糞袋と化した俺を、美琴の美しい黒檀の瞳が、純粋な憂慮の色を宿して見つめていた。
額に脂汗を浮かべ、全身をプルプルと痙攣させ、万力のように机を握りしめている俺の異常事態を、彼女は見逃さなかったのだ。
「顔色がすごく青いよ、猛……。息も荒いし……」
美琴は小声で、周囲に気取られないよう配慮しながら、身を乗り出して囁いてくれた。
その吐息からは、ほのかに甘い紅茶のような高貴な香りが漂ってくる。
一方、俺の体内からは激辛スパイスと極冷麦茶が醸成した地獄のアンモニアガスが立ち上ろうとしている。なんという天と地の格差か。
「保健室、行く……?」
――ッ!?
その瞬間、俺の耳に届いた美琴の囁きは、天上の大聖堂から響き渡る救済のファンファーレのように聞こえた。
保健室。
なんという甘美で、魅惑的で、神々しい響きだろうか。
美琴の頭上に黄金の天使の輪が浮かび上がり、背中には純白の大きな羽根がバサリと広がる幻覚が見えた。
(ほ、保健室……っ!!)
(そうだ……! なぜその至極単純な解決策に思い至らなかったんだ……ッ!?)
思考が急速に回転を始める。
今、ここで「体調が悪いので保健室に行きます」と挙手して教室を出る。
竹下先生は温厚な人格者だ。生徒が青ざめて体調不良を訴えれば、嫌な顔一つせず「おお、それは大変じゃ。早く行きなさい」と送り出してくれるに決まっている。
そして教室の扉を抜け、廊下に出さえすれば――俺は保健室へ行くふりをして、そのままトイレへと滑り込むことができるのだ!
誰の目を気にすることもなく、思う存分、腸内の本腸寺を心ゆくまで鎮火させ、全てを解き放つことができる!
(助かる……! 俺は助かるんだ……!!)
(どうしようもないアホだった、九条猛は! 男のプライドだの何だのに囚われて、こんな簡単な脱出ルートを見落としていたなんて!)
俺は美琴という名の女神に向かって、力強く、涙を流しながら頷こうとした。
ありがとう美琴、助かった、俺は保健室へ行ってくる――
その言葉を喉まで出しかけた、まさにそのコンマ一秒後。
天上の女神は、さらなる純粋な思いやりと慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、トドメの一撃を放ったのだ。
「私も、ついて行ってあげる」
ふわりと、美琴が立ち上がる気配を見せた。
「一人じゃ歩くのも辛そうだし……肩を貸してあげるね」
――ピキィィィィィィィッッ!!!!
俺の脳内で、何かが決定的な音を立てて凍りついた。
大脳の全回路がショートし、火花を散らして沈黙する。
(し……死刑宣告だあああああああああああああああああっっっ!!!!)
背筋を駆け抜ける、氷点下数百度の絶対零度の戦慄。
ついて行ってあげる?
肩を、貸してあげる……!?
美琴の提案は、間違いなく百パーセントの善意だ。
幼馴染の苦境を見過ごせず、歩行も困難に見える男子生徒を介抱しようとする、非の打ち所がない聖母の慈悲である。
もし俺が単なる風邪や貧血で倒れかけているのであれば、これほど男子冥利に尽きるシチュエーションもないだろう。学園中の男子が血の涙を流して羨むような、夢のような展開だ。
だが!
今の俺の病状は、風邪でも貧血でもない!
猛烈な、破滅的な、核爆発寸前の便意なのだ!
シミュレーションせよ、九条猛!
美琴に肩を貸してもらいながら保健室へ向かうという行為が、一体何を意味するのかを!
「肩を貸す」ということは、美琴と俺の身体が隙間なく密着することを意味する。彼女の肩に腕を回し、腰を引き寄せ合って歩くのだ。 そんな至近距離で、もしも――もしも、ほんの僅かでも、俺の括約筋から「すかしっ屁」レベルの微小なガスが漏れ出したらどうなる? 朝の激辛スパイスと極冷麦茶が化学反応を起こした、硫黄と硝煙の混ざり合った地獄の腐敗臭が、美琴の可憐な鼻腔をダイレクトに直撃するのだ。 それだけではない。もしも歩行の途中で決壊が起きれば、俺のズボンを突き破った汚濁が、密着している美琴の純白のソックスやスカートにまで飛び散る可能性すらある。
もはや名誉毀損やセクハラなどというレベルではない。八雲財閥に対する宣戦布告であり、国家反逆罪に等しい国際問題である!
そして、美琴が付き添ってしまえば、「途中でトイレに駆け込む」という偽装工作が完全に不可能になる。
「あ、美琴、ちょっと俺トイレに……」などと言えば、聡明な彼女のことだ、一瞬で俺の真の病状を察知してしまうだろう。
あの八雲美琴に、「猛は……教室でウンコを漏らしそうになっていたのね……」と悟られる?
死ぬ。恥辱で心臓が破裂して確実に死ぬ。
美琴は穢れに満ちたこの世界を救うために舞い降りた女神かもしれない。
だが、その慈愛に満ちた提案は、俺という存在を社会的に、精神的に、そして生物学的に完全に消滅させる、ギロチンの刃そのものであった。
救いはない。
保健室への逃走ルートは、女神の慈悲によって完全に封鎖されたのだ。
(ああ……っ、美琴……っ! お前のその優しさが、今は何よりも鋭い刃となって俺の心臓を抉るよ……っ!)
俺は、天から垂らされた蜘蛛の糸を見上げた。
その糸を登れば、地獄から脱出できるはずだった。
だが、その糸の先には美琴がいて、俺が登れば糸ごと彼女を地獄の底へ道連れにしてしまう。
そんな真似が、男として、九条猛にできるはずがなかった。
俺は全身の筋肉を軋ませ、喉の奥から絞り出すようにして、己の死刑執行書にサインを刻んだ。
「い、いや……っ」
歯の根が合わず、ガタガタと震える唇を無理やりに動かす。
引きつった笑顔を顔面に貼り付け、血走った目で美琴を見つめ返した。
「だ、大丈夫だよ……美琴……っ」
美琴の黒檀の瞳が、驚きに微かに見開かれる。
「猛……? でも、そんなに汗をかいて……」
「ほんとに、平気だから……っ。ただの……ちょっとした、腹筋の痙攣みたいなもんだ……っ。すぐ、収まるから……」
嘘つけ。収まるわけがない。
今まさに腹の中では明智光秀が火縄銃の一斉射撃を開始し、信長が激しく敦盛を踊り狂っているのだ。
「……ありがとう、心配してくれて」
血を吐くような思いで、俺は感謝の言葉を紡いだ。
その瞬間、俺は自らの手で、天から降りてきた唯一の救いの糸を、プツリと断ち切った。
美琴はなおも心配そうに眉をひそめていたが、俺の鬼気迫る拒絶のオーラに圧されたのか、それ以上無理に立ち上がることはせず、ただ痛ましそうに俺の横顔を見つめ直した。
教室の前方からは、相変わらず竹下先生の致死性催眠バリトンが、何事もなかったかのように穏やかに響き渡っている。
「……そしてぇ、本能寺で倒れた信長の仇を討つべくぅ……羽柴秀吉は、中国大返しを敢行するわけですがぁ……」
(秀吉の中国大返しだと……!?)
(今の俺に必要なのは、保健室大返しでもトイレ大返しでもねえ……!)
(この自席という名の孤城で、授業終了のチャイムが鳴り響くまでの残り十五分間を、己の括約筋一つで生き残るという――史上最大の籠城戦なんじゃあああああああああっっっ!!!!)
退路は完全に断たれた。
味方は誰一人としていない。
腹の中の『本腸寺』は、いまや天を焦がすほどの猛火に包まれ、最終防衛門の外郭が軋み、崩壊のカウントダウンを刻み始めていた。
九条猛、十五歳。
男の尊厳と全人生を賭けた、人類史上最も孤独で壮絶な防衛戦争が、今まさに幕を開けたのである――。
ツッコミどころ満載でしょうが、これはそういうものと思って下さい。