トイレ・オブ・ザ・デッド ~織田信長と逝く本腸寺の変~ 作:ナオ3
バカだと思うだろう。
読者も、天の高みから哀れみの視線を投げかける神仏も、陽神学園の正門前を長閑に行き交う見知らぬ通行人たちも、地球上に息づく八十億の全人類が一斉に俺へと人差し指を突きつけて「こいつは救いようのない歴史的大馬鹿者だ」と腹を抱えて大爆笑するに違いない。
だが、安心してほしい。
誰あろうこの俺自身が、世界中の誰よりも深く、痛烈に、そして細胞の一つひとつが擦り切れるほどの情熱をもって、己の脳味噌の腐敗ぶりに絶望している。
美琴の申し出を断った。
あろうことか、この地獄絵図の真っただ中において。
腹の中でマグマが逆流し、内肛門括約筋が白旗を揚げ、外肛門括約筋という名の最後の城門に超高圧の汚濁軍勢が突撃を繰り返しているこの土壇場において、だ。
天上の神が慈悲をもって垂らしてくれた唯一無二の脱出ルート――『体調不良による保健室への退避』という完璧な大義名分を、俺は己のちっぽけで見苦しい見栄と自意識のためだけに、自らの手でバットをフルスイングして粉々に叩き落としたのだ。
なんという浅慮。
なんという傲慢。
なんという肥溜め級の愚行。
今すぐ誰かにこの後頭部をコンクリートブロックでフルスイングしてほしい。
いや、駄目だ。物理的な衝撃が頭蓋骨を通過して脊髄を伝い、下腹部の油圧バルブを刺激した瞬間、俺の肛門城門は音を立てて決壊し、半径五メートル圏内に壊滅的バイオハザードが撒き散らされる。触れるな。頼むから誰も俺の肉体に触れないでくれ。今の俺は、衝撃感知式の信管を剥き出しにした歩く生体爆弾なのだ。
机の天板を掴む両手の指先は、すでに完全に血流を失って青白く硬直していた。
全身から吹き出す脂汗は、もはや制服のシャツを通り越してブレザーの裏地にまでじっとりと染み出し、異様な熱気を孕んだ蒸気となって立ち上っている。
脳幹がギリギリと軋む。
酸素が足りない。思考が熱病の如く濁流となって渦を巻く。
もしも。
もしも、この極限の絶望に喘ぐ陽神学園三年三組の教室に、天地を揺るがすような超常の奇跡が巻き起こったとしたらどうだろう。
不意に、教室の全方位を支配していた空気の粘度が、劇的な変貌を遂げた。
音という音が、この世界から瞬時に消滅した。
黒板の前で間延びした歴史講義を垂れ流していた竹下先生の『歴史催眠ウェーブ』が、まるでカセットテープのテープが突然引きちぎられたかのように途絶える。ノートの上を走っていたクラスメイトたちのペンの摩擦音も、窓の外の木々を揺らしていた初夏の微風の囁きも、生徒たちの肺腑を満たす規則正しい呼吸音すらも、絶対零度の静寂の中へと飲み込まれていく。
――時が、止まった。
教室の南側の窓から差し込んでいた暖かな陽光が、飴細工のように急速に結晶化し、黄金色の停止した粒子となって宙に漂う。
そして、生徒たちの頭上――私立陽神学園の豪奢な建築技術の粋を集めた石膏ボードの天井が、物理法則の軛を脱し、音もなく左右へと裂開を始めた。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオッ……!!
大気そのものが畏怖に震え、低周波の地鳴りが教室の床板を揺るがす。
裂け目の向こう側に広がっていたのは、昼の青空などでは断じてなかった。
それは、時空の狭間に口を開けた天球の深淵。
幾千億の恒星が螺旋を描いて渦を巻く銀河の奔流、紫紺と深紅の星間ガスが脈打つ宇宙の胎動、そして無限の彼方へと連なる幾何学的な光の階梯であった。
――アンゲルス・ドミニ・ナンツィアヴィト・マリアエ。
レクイエム・アエテルナム・ドナ・エイス・ドミネ。
教室の四方八方から、いや、空間そのものの分子から、グレゴリオ聖歌を幾万倍にも増幅したかのような、重厚にして神聖極まりない大天使たちの合唱が鳴り響く。
パイプオルガンの最低音ペダルを踏み抜いたかのような重低音の波動が、生徒たちの胸骨をビリビリと共鳴させる。
裂けし天空の中心から、教室の中央通路へと垂直に突き刺さる、一本の巨大なる金色の光柱。
無数の黄金の羽毛と、虹色に煌めく光の粒子が、紙吹雪の如く教室中に乱舞する。
光柱の奥底、事象の地平線を超えてゆっくりと降臨してくるのは、星雲をそのまま織り上げたような純白にして玲瓏たるローブをまとい、両の眼窩に雷霆の輝きを宿した、天地創造の絶対神であった。
その姿は巨大でありながら、教室の天井の内に完全に収まり、同時に宇宙の全質量をその一身に内包していた。
神がその右腕をわずかに掲げただけで、教室のライトは過剰な聖光に耐えきれずに全て粉々に弾け散り、机も、椅子も、床の寄木細工も、神殿の純白の大理石の如く神聖な光沢を放ち始める。
クラスメイトたちは、指一本動かすことすら許されない。
呼吸を止め、瞬きを禁じられ、ただ絶対的な存在の神威の前に魂を縛り付けられ、恐怖と法悦の混ざり合った戦慄に打たれて立ち尽くしている。
絶対神は、世界の始まりから終わりまでの全ての歴史を記録したかのような深遠なる双眸で教室をゆっくりと見渡し、やがてその視線を、列の中央で脂汗を滝のように流して丸まっている一人の男子生徒――九条猛へと、完全に固定した。
空間が軋む。
神の御口が開き、全宇宙の物理定数を根本から震わせる神託が、天蓋を破って轟き渡る。
『我が声を聞け、塵芥なる人の子らよ。我はアルファにしてオメガ、最初にして最後、万物を統べる全知全能の理なり。今この時、ガイアの天秤は傾き、貴様らに唯一にして絶対の試練を下す』
ズゥゥゥゥン……と、重力のベクトルすら歪むような言霊の圧力が教室を満たす。
『問う。――今この瞬間、この地上において、最も浅はかで、最も救いがたい「世界一愚かな人間」の名を答えよ。猶予は十秒。もしも汝らが答えを誤るか、あるいは制限時間の内に真実を告げられねば、我はこの地上に裁きの劫火を放ち、人類の歴史を永遠の闇へと葬り去るであろう……!』
世界滅亡のカウントダウン。
人類八十億の生命と、数千年にわたる文明の存亡が、いま唐突に、陽神学園三年三組の教室という矮小な一角に委ねられたのだ。
十、九、八……。
不可視の巨大な時計の針が、空間を削るように響く。
あまりの恐怖に白目を剥き、声なき絶叫を上げながら震え上がるクラスメイトたち。秀才も、名門の令嬢も、神の審判の前にはただの無力な藁人形に過ぎない。
だが。
その全宇宙が凍りつく極限の絶望の中。
ただ一人、机の天板を油圧プレスの如き力で握りしめ、青ざめた唇から血を滲ませながら、ゆっくりと顔を上げる少年がいた。
冷や汗で前髪を顔面にへばりつかせ、血走った眼球をギラギラと燃え上がらせた俺は、迷うことなく、コンマ一秒の躊躇すら挟むことなく、自らの魂の全質量を込めて喉笛を裂かんばかりに絶叫した。
『それは…………ッッ!』
教室中の時空が、俺の咆哮に引き寄せられる。
『この…九条猛だあああああああああああああああああああッッッッッ!!!!』
――沈黙。
全宇宙が息を呑む、完全無欠の静寂が訪れた。
大天使たちの合唱がピタリと止まり、光の粒子が空中で静止する。
絶対神は、その峻厳極まりない眉根をわずかに緩めた。
巨峰が崩れ落ちるかのような重々しさと、果てしない慈悲を湛えた仕草で、深く、深く、三度頷く。
『……正解だ』
神の低く太い美声が、天空の深淵へと木霊する。
『見栄という名の下らぬ虚飾のために、心優しき幼馴染の無垢なる真心を無惨に踏みにじり、あまつさえ己の腸内暴走によって無実のクラスメイト全員をバイオハザードの地獄絵図へと叩き落としかけている男、九条猛よ。……貴様は、まごうこと無き、宇宙創世以来最悪の「う○こ野郎」である』
ピカーッと、神の掲げた掌から眩い救済の光が放たれ、滅びの予兆であった黒雲が天へと吸い込まれていく。
裂けた天井は静かに修復され、割れた蛍光灯は元通りに輝きを取り戻す。
世界は救われた。
滅亡の淵から間一髪で生還した人類は、歓喜の涙を流し、一人の少年の勇気ある自己犠牲と正確すぎる自己評価を永久に語り継ぐだろう。
そう、世界を滅亡の危機から救い出した真の救世主――それこそが、この俺、九条猛なのだ!
世界を救った救世主に対し、この俗世が与えるべき報酬は、もはや金銭や名誉などという矮小なものでは収まらない。
教室の扉が左右へ勢いよく跳ね上がり、そこに現れたのは、日本経済の頂点に君臨する巨大財閥の最高権力者たちであった。
美琴の父、八雲宗悟。 普段は穏やかな顔で数兆円規模の国際ディールをまとめ上げ、政界の黒幕たちすら平伏させるあの怪物が、仕立ての良いスーツの膝を床につき、両手で俺の泥まみれ(の気分)の手を固く握りしめていた。その双眸からは、大粒の熱い涙がボロボロと零れ落ちている。
『猛くん……いや、猛殿! 世界を救い、そして何より己が愚かなう○こ野郎であることを躊躇なく認めた真の漢(おとこ)よ! 君のような高潔な魂を持つ男になら、我が八雲家の至宝、美琴を喜んで託せる! どうか、あの子を娶ってやってはくれないだろうか! 全財産もポストも全て君に譲る!』
その背後では、美琴の実母であり、日本社交界の頂点として名高い絶世の貴婦人、八雲美玲が、レースのハンカチを目元に当てて優雅に、感極まった様子で微笑んでいる。
『猛ちゃん、凄いわ……。あの極限の腸内圧力に耐え、己の尊厳を投げ打ってまで世界を守り抜いたその不屈の闘志……お見事でした。美琴を、どうか幸せにしてあげてね。お義母さんと呼んでくれて構わないのよ?』
さらに、扉の向こうからは、幼少の頃から奇妙な腐れ縁で結ばれてきた、美琴を取り巻く美少女たち――個性豊かすぎる幼馴染カルテットが、祝福の嵐となって教室へとなだれ込んできた。
「美琴様を頼んだぞ、猛。……もし美琴様を泣かせるような真似をしてみろ。我が奥義『十文字括約筋両断』をもって、貴様のその軟弱な門ごと三枚におろしてくれる」
腰に佩いた名刀の鯉口をカチリと鳴らし、凛々しい黒髪のポニーテールを揺らしながら忠義の笑みを浮かべるのは、美琴専属の護衛にして古流剣術の達人娘。
「ふふ、美琴ちゃんを幸せにしてあげてね、猛ちゃん。もし少しでも浮気心を出したら……あなたが小学校三年生の時に書いた『ぼくのかんがえたさいきょうの必殺技ノート』の全ページを拡大コピーして、全校集会の壇上で感情たっぷりに朗読劇にしてあげるから」
穏やかな天使のような微笑みを浮かべながら、手にしたハードカバーの文庫本をパタリと閉じ、底知れぬドSの暗黒オーラを放つのは、読書家でおっとり系を装った腹黒文学少女。
「……猛、結婚式のメモリアル演出は私に任せて。あなたの直腸内圧のリアルタイム変動ログと、外肛門括約筋の微小電位データを完全同期させた3Dホログラム映像を開発した。披露宴のメインスクリーンで、感動的なオーケストラとともに四方八方へ上映してあげる」
だぼだぼの白衣の袖口から怪しげな電極コードを覗かせ、無表情な美貌の奥に狂気の知性をギラリと明滅させるのは、マッドサイエンティスト予備軍のダウナー系天才少女。
「ふん! 美琴を悲しませたら絶対に許さないんだからね、猛! あんたが昔から調子に乗っては痛い目を見るお漏らし予備軍のダメ男だってこと、あたしが一番よーく知ってるんだから! ちゃんと美琴を支えなさいよ、このバカ!」
腕を組んでツンとそっぽを向きながらも、耳まで真っ赤にして巨大な祝福の花束を俺の胸元へと力任せに押し付けてくるのは、美琴と同レベルの付き合いの長さを誇る世話焼きおかん系幼馴染。
そして――。
教会のステンドグラスを思わせる教室の窓辺から、七色の神聖な光が降り注ぐ中、ゆっくりと歩み寄ってくる一人の少女がいた。
息を呑むほどに美しい純白のウェディングドレス。
裾の長いトレーンを優雅に引き、胸元には純白の百合の花。
透き通るような白のヴェールを押し上げ、はにかむように姿を現したのは、この世のあらゆる美を集約したかのような八雲美琴であった。
その陶器の如き頬は桜色に染まり、黒檀の瞳には溢れんばかりの愛おしさと、幸福に満ちた涙がキラキラと朝露のように輝いている。
美琴は両手を胸の前で重ね、鈴の音を響かせるような清らかな声で、甘く囁きかけてくるのだ。
『猛……。これからは、夫婦としてよろしくね……っ』
その可憐な笑顔。その歓喜の涙。
俺はこの美しい光景を、一生涯、来世に至るまで決して忘れることはないだろう――。
……。
………。
………………っふ。
(なるわけねえだろうが、アホタレがああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!)
ガクンッ、と頭が激しく揺れ、俺は自らの脳天を巨大な削岩機でブチ抜かれたような勢いで現実へと引きずり戻された。
危ない。危なすぎる。
酸欠か? それとも下腹部からの異常な神経伝達物質が視床下部を侵食して幻覚を見せているのか!?
何が絶対神だ!
何が世界の救世主だ!
何が『美琴を頼んだぞ』だ!
いくら便意の限界突破で精神が摩耗しているからといって、脳内で一体どんな都合の良すぎる超大作ハーレム妄想映画を上映してやがるんだ俺は!?
現実を見ろ、九条猛!
現実の貴様は、私立陽神学園中等部三年三組の教室の片隅で、脂汗でドロドロになった顔を歪め、青ざめた唇をワナワナと震わせながら、己の外肛門括約筋を油圧ジャッキのようにギュウギュウに締め上げているだけの、ただの無様な十五歳の中学生だ!
神など来ない!
天使のラッパも鳴らない!
大財閥の総帥も来なければ、花嫁姿の美琴も存在しない!
耳元に届いているのは、前方の教壇から間断なく繰り出される竹下先生の『歴史催眠ウェーブ』と、己の腹の底から響くゴロゴロゴロという地獄のファンファーレだけだ!
我に返った瞬間、全身の毛穴から冷や汗がドッと噴き出した。
妄想に逃げ込んでいた数秒の間にも、腸内のマグマは着実に前進を続けていたらしい。
直腸の終端部にかかる圧力は、先ほどよりも確実に一段階跳ね上がっている。
筋肉が熱い。肛門周辺の神経が、まるで高電圧のワイヤーで締め付けられているかのように悲鳴を上げている。
呼吸を整えようとするが、肺が半分も膨らまない。腹筋に少しでも余計なテンションをかけた瞬間、それが引き金となって城門が弾け飛ぶことを、本能が理解しているからだ。
だが。
その焼けるような激痛と羞恥の奥底で、俺の胸をチクリと刺す、もう一つの感情があった。
俺は……八雲美琴が好きだ。
誰にも言ったことはない。
親友の悪友どもにも、家族にも、そして何より美琴本人にも、天地神明に誓って一度たりとも口にしたことはない。
だが、物心ついた幼少の頃、俺はずっと、彼女のことだけを目で追ってきたのだ。
彼女がずっとが好きだった。
誰に対しても真摯で、優しく、困っている人間を決して見捨てないその高潔な魂が好きだった。
大財閥の令嬢であり、学園中の憧れの的でありながら、バンピーに過ぎない俺と、昔と何一つ変わらぬ笑顔で隣を歩いてくれる、その温もりが好きだった。
彼女の隣に立つにふさわしい男になりたいと、密かに勉強も運動も人並み以上に努力してきた。
いつか胸を張って彼女の隣を歩きたいという、その一心があったからこそだ。
そんな、世界で一番大切で、世界で一番自分を良く見せたいと願っている女の子に対して。
「わりぃ、美琴。俺、実は今、もの凄いう○こを我慢してるんだ」
「保健室じゃなくて、頼むから男子トイレの個室まで俺を抱えて走ってくれ」
――言えるわけがないだろうがッッ!!!!
そんな台詞を口から吐き出せる奴がいるとしたら、そいつは生後三ヶ月で羞恥心を宇宙の彼方に置き忘れてきた大うつけ者か、あるいは死の恐怖すら超越した神話の狂戦士(バーサーカー)だけだ!
残念ながら、俺は狂戦士じゃない。
どこにでもいる、自意識過剰で、好きな女の子の前では少しでも格好をつけていたいと願ってしまう、ごく平凡な十五歳の思春期男子なのだ。
そんなみっともない真実を彼女の目前に晒すくらいなら、俺は腸が破裂して物理的に爆死した方がまだ一億倍マシだと、本気で思ってしまうのだ。
そして――最悪なことに。
美琴のあの温かい提案を、見栄を張って断ってしまった今。
俺にはもはや、「やっぱり体調が悪いから教室を出る」という選択肢すら、物理的・論理的に完全に消滅していた。
もしも今、俺が突然手を挙げて「先生、やっぱり具合が悪いので保健室に行きます」などと言い出してみろ。
美琴は絶対に、百パーセント、一秒の迷いもなく席を立ち、
『猛、やっぱり無理してたのね! 私も一緒に行くわ!』
と駆け寄ってくるに決まっている。
彼女のあの誠実で、他人の痛みを放っておけない真っ直ぐな性格からして、それは太陽が東から昇ることよりも確実に起きる確定未来だ。
そうなればどうなる?
立ち上がった瞬間の歩行振動による括約筋の決壊。
肩を貸し合うゼロ距離密着による、激辛カレー発酵ガスのダイレクト直撃。
そして途中でトイレへ逃げ込むことすら許されず、美琴の目の前で大惨事を引き起こすという、人類史上最悪の処刑宣告が執行される。
逃げ道は、自らの見栄によって完全にコンクリートで塞がれたのだ。
残された道はただ一つ。
この木製の椅子に根を生やし、ピクリとも動かず、授業終了を告げる終鈴のチャイムが鳴り響くその瞬間まで、己の肉体と精神の全てを賭けて耐え抜くこと。
一秒が、長すぎる。
壁掛け時計の秒針が、まるで粘度の高い蜂蜜の中を泳いでいるかのように、異様な遅さでチク、タク、と刻まれている。
体感時間にして、すでに鎌倉幕府の成立から現代に至るまでの歴史を二周半は耐え抜いたはずだ。だが、実際の時計を見れば、先ほどからまだ二分しか経過していない。文字盤の針が、俺の苦悶を嘲笑うかのように鈍重に蠢いている。
その時。
煮えたぎるマグマのような思考の渦の中で、ある一つの強烈な『決意』が、閃光のように脳裏を貫いた。
(……よし)
(決めたぞ……ッ)
顎の先端から机の上へと脂汗をボタボタと滴らせながら、俺は心の中で、血が滲むほど固く拳を握りしめた。
(この地獄を生き延びて、無事にトイレの個室で全ての災厄を出し切ることができたら……)
(俺は、美琴に告白する)
もしも今、俺の大脳の思考をリアルタイムで受信できるテレパスがこの教室にいたとしたら、間違いなく椅子から転げ落ちて泡を吹き、「なんで今その結論になるんだよ!?」と全人類を代表して大ツッコミを入れてくるだろう。
極限状態における便意の我慢と、幼馴染への恋愛告白。
一見すれば、北極点と南極点ほどにかけ離れた、完全に支離滅裂な狂人の思考の飛躍にしか見えない。
だが、今の九条猛にとっては、これこそが極めて論理的で、必然的で、これ以外の結論が存在し得ない完璧な三段論法だったのだ。
考えてもみろ。
もしもだ。
もしも俺が、もっと前から男らしく美琴に想いを伝えていて、すでに恋人同士になっていたとしたらどうだった?
あるいは、見事に玉砕して、ただの気まずい腐れ縁になっていたとしたらどうだった?
もし恋人同士であったなら。
「ごめん美琴、ちょっとマジで腹がヤバいからトイレ行ってくる!」と、情けなくも笑い話として打ち明けることができたはずだ。彼女も呆れながら笑って送り出してくれただろう。
もし玉砕して完全に振られていたなら。
「好きな女の前で少しでも格好をつけていたい」という無駄な自意識や見栄に縛られることなく、なりふり構わず挙手して男子トイレへ全力疾走できていたはずだ。
中途半端に「片想いの幼馴染」という甘美なポジションに居座り、嫌われたくない、幻滅されたくない、格好悪いところを見せたくないというちっぽけなプライドにしがみつき続けていたからこそ、俺は今、この世の終わりのような地獄の業火に焼かれているのだ!
そして、何よりも――。
もしもここで耐えきれず、教室で漏らしてしまったら。
俺は未来永劫、美琴に告白することなどできなくなる。
クラス中から『ウンコマン』と嘲笑され、教室中に悪臭を撒き散らした男の分際で、あの清らかな美琴に向かって「好きです、付き合ってください」などと言えるほど、俺の面の皮は厚くない。そんなことをすれば、美琴のこれまでの人生に対する冒涜だ。
告白する権利すら、永遠に剥奪されるのだ。
せめて。
せめて、男として告白して、フラれて玉砕する権利だけは守り抜きたい。
このまま無様な汚濁にまみれて、想いを伝えることすら許されずに、ただの動く公害として人生を終わらせるなんて、絶対に嫌だ!
俺という人間は愚かだ。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
もしも今日、奇跡的に耐え抜いてトイレでスッキリしてしまったら、俺はまた「美琴ちゃん今日も可愛いな〜」などとヘラヘラ笑いながら、告白もせずに現状維持を決め込み、そして数ヶ月後にまた同じような過ちを繰り返すに決まっている。
今朝の激辛カレーのように!
昼休みの極冷麦茶がぶ飲みのように!
ゲームに夢中になってトイレを後回しにしたように!
俺のこの腐りきった根性を叩き直すには、自ら退路を断ち、背水の陣を敷くしかないのだ!
授業が終わるまで、耐える。 チャイムが鳴ったら、音速を超えてトイレへ滑り込む。 そして腸内の本腸寺を完全に鎮火させ、穢れをすべて排出した、生まれ変わった九条猛として――。
八雲美琴に、俺の十年分の想いの全てをぶつけるんだ!
その時。
俺の脳内の炎上する本腸寺で、紫煙を燻らせていた戦国の覇王が、動きを見せた。
敦盛を舞い終え、長大な太刀に手をかけていた織田信長が、パチンと音を立てて扇子を閉じたのだ。
南蛮甲冑の胸元を寛げ、トレードマークの鋭い髭を震わせながら、天下の第六天魔王は呆れたように、しかしどこか心底愉快そうに口角を吊り上げた。
『……くっ、ふっ……』
(信長……?)
信長は顎に手を当て、肩を大きく揺らして低く笑い始めた。
その笑い声は次第に大きくなり、やがて燃え盛る本腸寺の天守を震わせる豪快な哄笑へと変わる。
『ハハハハハッ! ハーッハッハッハッハッ!!』
(何がおかしいんだよ、信長! 俺は至極大真面目だぞッ!)
信長は笑い涙を指先で拭い、鋭い眼光をギラリと輝かせて、俺の魂の奥底を射抜くように見据えてきた。
『いや、見事よ猛! わしも若い頃は、尾張の国中で「大うつけ」「大たわけ」と罵られ、奇矯な振る舞いで周囲の度肝を抜いてきたものだが……』
信長は腰の太刀の鍔を親指でカチリと鳴らし、傲岸不遜な笑みを顔いっぱいに広げた。
『まさか、数百年後の泰平の世において、この織田弾正忠信長を超える「天下一の大うつけ」が現れるとは夢にも思わなんだわ!』
(大うつけで悪かったな! だが俺は本気だ! 冗談でこんなこと考えてられるかよ!)
『わかっておる、わかっておるとも! 己の尻の穴一つを守り抜くために、己の命どころか生涯の恋の命運まで賭け金に積み上げおって! 常人の発想ではないわ! だが……くくっ、面白い! 実に面白いぞ、九条猛!!』
信長はバッと腕を広げ、全身から立ち上る紅蓮の覇気を爆発させた。
『良かろう! その途方もなき大うつけぶり、見届けてやろうではないか! 天下布武の夢半ばで倒れたこの信長の魂、貴様のその下らぬ意地に貸し与えてやる! 括約筋を固めよ、九条猛! この第六天魔王が、貴様とともに最後の刻まで戦い抜いてやろうぞッッ!!』
(ありがとよ、信長……ッッ!!)
脳内で、信長との熱き魂の盟約が結ばれた。
味方はできた。
歴史上最も苛烈で、最も諦めの悪かった覇王が、今や俺の直腸防衛線の陣頭指揮を執っている。
ふと横を見れば、美琴が相変わらず心配そうに、眉を八の字にして俺の青ざめた横顔を見つめていた。
その純粋な瞳。
俺の体調を心から気遣ってくれる、温かく、汚れなき眼差し。
俺はその視線を、あえて正面からは受け止めず、ただ前方の黒板だけを、血走った眼で睨み据えた。
(待ってろよ、美琴)
(俺は必ず生き残る。この地獄の五限目を耐え抜いて、穢れをすべて出し切ったその後に……お前の前で、男になってみせるからな)
ギシッ、と奥歯が軋む。
下腹部の激痛は一向に衰えず、むしろ第二波、第三波の激震となって防壁を叩き続けている。
だが、今の俺の瞳には、先ほどまでの絶望と迷いは微塵もなかった。
残り時間は、約十二分。
天下一の大うつけ・九条猛の、己の尊厳と初恋の全てを賭けた最終決死戦が、ここから始まる――!
九条猛
特技・時々変な幻覚が見える
主人公を男子中学生にしたのは、バカっぽさに違和感を出さないようにするためです(偏見)
あと、脱糞した程度じゃ美琴ちゃんが嫌いになることはありません。