トイレ・オブ・ザ・デッド ~織田信長と逝く本腸寺の変~   作:ナオ3

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ヒロインとの微笑ましい出会いです!


03話 麗しきヒロインとのファーストコンタクト

 

 

格好良く決意を固めた。

天下一の大うつけとして、己の魂を第六天魔王・織田信長と共鳴させ、「授業終了のチャイムが鳴り響いたら男子トイレへ音速で直行し、すべてを排出した暁には八雲美琴に告白する」という、人類史上最も不純で、最も熱い宣誓を高らかに打ち立てた。

 

だが。

それはそれとして。

 

 

(痛ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっっっ!!!!)

 

 

腹が、痛い。

痛いという言葉の定義を広辞苑から力任せに引き裂いて、五千倍の硫酸とハバネロ果汁に浸してから腹膜の裏側に直接塗りたくったかのような、暴力的で破滅的な激痛が下腹部を縦横無尽に蹂躙している。

決意や覚悟といった精神的エネルギーなど、物理的な流体圧と化学発酵ガスの前には何の意味もなさなかった。どれほど崇高な理念を掲げようが、朝の激辛カレー大盛り三杯と昼の極冷麦茶一リットルが体内で化合して生成された『汚濁の軍勢』は、微塵の容赦もなく俺の外肛門括約筋を撲殺しにかかっている。

 

もはや脳内の明智光秀は、本能寺を取り囲む一戦国武将の器に留まっていなかった。

烏江の露と消えた西楚の覇王――項羽だ。

一騎当千、山を抜き世を蓋う怪力を誇る覇王・項羽の如き怪異と化した便意の化身が、極太の方天画戟を両手でブンブンと振り回しながら、俺の内臓という内臓を薙ぎ倒し、

 

 

『門を開けいッ! !』

 

 

と天地を揺るがす雄叫びを上げている。

 

直腸の内壁が、ギチギチと軋む。

括約筋の筋繊維が、限界を超えた張力によって今にもブチブチと音を立てて千切れそうだ。

机を握る両手の指先はすでに白蝋を通り越して土気色に変色し、全身から噴き出す脂汗はもはや制服のズボンまでをもじっとりと濡らし始めていた。

 

 

(だ、駄目だ……っ! 意識をこの下腹部に集中させていたら、本当に精神が折れて決壊する……っ!)

 

 

呼吸すら浅い。息を深く吸い込めば横隔膜が下がり、それがダイレクトに腹圧を押し上げて大惨事を引き起こす。小刻みに、打ち上げられた金魚のように口をパクパクさせながら酸素を取り入れるのがやっとだ。

 

その時、脳内の炎上する本腸寺から、腕を組んだ信長が呆れたような、しかしどこか助け舟を出すような声で語りかけてきた。

 

 

『猛よ、何をそのように一点ばかり見つめておるのだ。意識を括約筋に縛り付ければ、痛覚が増幅されるのは道理であろうが』

 

(な、ならどうすりゃいいんだよ信長……っ! 放っておいたら勝手に門が破られちまうんだぞ!?)

 

『気を紛らわせよ。なにか己の過去を振り返って気を紛らわせるのだ。……案ずるな、お前のことだ。奇怪な過去など、探せばいくらでもあろう?』

 

 

信長は煙管をふかし、紫煙を吐き出しながらニヤリと笑った。

 

 

(奇怪な過去ってなんだよ! 俺はただの善良で無害な一般市民じゃい!!)

 

 

思わず脳内で猛ツッコミを入れたが、背に腹は代えられない。

意識をこの激痛から逸らさなければ、本当に三十秒以内に俺の社会的存在が消滅する。

過去。記憶。思考の転移。

どうせ振り返るなら、地獄のような痛みを忘れさせてくれるような、美しく、清らかで、輝かしい黄金の思い出がいい。

俺の十五年間の人生の中で、最も眩しく、最も尊い記憶――。

 

 

(そうだ……美琴との、最初の出会いだ)

 

 

混沌と炎熱の渦巻く脳内スクリーンに、十年前の光景がゆっくりと投影され始めた。

 

 

 

 

 

 

 

時は今から十年前。

俺と八雲美琴が、まだ五歳の園児だった頃の話だ。

 

美琴の家――日本経済の頂点に君臨する八雲グループの総帥・八雲宗悟とその妻・美玲は、ある確固たる教育方針を持っていた。

 

『人の上に立つ者こそ、幼少期は一般庶民の輪に混ざり、飾らぬ人間の機微と肌で知るべきである』

 

そんな貴族的な高潔さゆえに、美琴はあえてソコソコな私立幼稚園へと通わされていたのだ。

 

だが、大人の理想と、子供の現実というものはいつだって残酷な乖離を見せる。

子供の世界というものは、ある意味において大人たちの社会よりも遥かに無邪気で、遥かに冷酷だ。

ブランドや家柄などという言葉を知らない五歳児たちであっても、本能的に『異質』を嗅ぎ分ける。

 

仕立ての良い上質な私服。

言葉遣いの端々に滲み出る、育ちの良すぎる圧倒的な気品。

送迎のたびに幼稚園の門前に横付けされる、黒塗りの巨大な高級リムジン。

そして何より、五歳にしてすでに完成されつつあった、人形のように整った美貌。

 

園児たちは、美琴をどう扱っていいのか分からなかったのだ。

触れれば壊れてしまいそうな高貴な存在に対し、子供たちは無意識に距離を置き、やがてそれは集団特有の「無関心」と「排除」へと形を変えていった。

誰も美琴を砂場に誘わない。

誰も美琴とおままごとの輪を作らない。

幼稚園の園庭の片隅、藤棚の木陰にポツンと一人取り残され、小さな手でスカートの裾をぎゅっと握りしめ、今にも泣き出しそうに大きな瞳を潤ませている可憐な美少女――それが、当時の八雲美琴であった。

 

 

「ぐすっ……ひぐっ……」

 

 

大粒の涙が、陶器のような白い頬を零れ落ちそうになっていたその瞬間。

重々しい運命の霧を切り裂くように、一人の男児が、何食わぬ顔で砂埃を巻き上げながら歩み寄ってきた。

周囲の園児たちが腫れ物に触るように遠巻きに見ていた中、その少年は一切の躊躇もなく、太陽のような無邪気な笑顔を浮かべて、泣きじゃくる美琴の目の前へとしゃがみ込んだのだ。

 

それが――俺、五歳の九条猛であった。

 

 

「だいじょうぶ?」

 

 

少年の声は、澄み切った青空のように爽やかだった。

美琴は驚いたように、涙に濡れた長い睫毛を震わせて顔を上げる。

 

 

「みんなが……わたしを、のけものに……ひぐっ、あそんで、くれないの……」

 

 

小さな胸を上下させ、しゃくりあげる幼い美琴。

普通であれば、どう慰めていいか分からずにオロオロするか、あるいは先生を呼びに走るのが五歳児の反応だろう。

だが、この時の九条猛は違った。

彼はポケットから泥一つついていない清潔なハンカチを取り出すと、優しく美琴の目元の涙を拭い、そして自らの右手を、真っ直ぐに彼女の前に差し出したのだ。

 

 

「ぼくは、くじょうたける! よかったら、ぼくとあそぼう?」

 

 

ニカッと、歯を見せて爽やかに笑う少年。

汚れなき純粋な親愛の情。困っている女の子を見過ごせない、生まれながらの騎士道精神。

おお……!

なんて爽やかで、なんて頼もしく、なんてイケメンな男児だろうか!

我ながら惚れ惚れする。絵本に描かれた白馬の王子様がそのまま現世に顕現したかのような、完璧すぎるファーストコンタクトではないか!

 

美琴はポッと頬を薔薇色に染め、恐る恐る、自分の小さな手を少年の手の平に重ねた。

 

 

「……わたしは、やくもみこと。……ほんとうに、いいの?」

 

「うん! ぼくも、みことちゃんとあそびたいんだ!」

 

 

パーッと、美琴の顔いっぱいに歓喜の花が咲き乱れた。

嬉しそうに、安心したように微笑むロリ美琴。

ああ……なんて尊く、なんて美しい光景だろうか。天使だ。天界から舞い降りた幼き天使がそこにいた。

現在の高校生……じゃなくて中三の美琴ももちろん絶世の美少女だが、この幼少期の無垢な美しさもまた至高の極み。むふん、と鼻息が荒くなるのを禁じ得ない。

まあ、いつの時代の美琴も最高なんだが!

そして何より、カッコいいぞ五歳の俺!

泣いている女の子の前に躊躇なく進み出て、恥ずかしがることなく手を取り合えるなんて、一体どこの神童だ!

便意を恥ずかしがって教室でう○こが言えずに自爆しかけている現在の十五歳の俺とは、人間の器が違いすぎる!

 

――と。

俺が自らの輝かしい過去に涙し、自画自賛の拍手を送ろうとした、まさにそのコンマ一秒後であった。

 

五歳の九条猛の、頭蓋骨の奥底から。

濁流のような『心の声』が、ハイレゾ音質の悪魔の囁きとなって俺の鼓膜をブチ破ってきたのだ。

 

 

(――こいつは、将来凄い美人になる……!)

 

 

……え?

 

 

(今の時点でこの顔面の完成度、十年後にはどんな傾国の美女に化けるか分かったもんじゃねえぞ!)

 

 

……は?

何言ってんだ、このクソガキ?

十五歳の俺が、己の脳内映像に向かって戦慄のツッコミを入れる。

だが、五歳の九条猛の内なる独白は、留まるところを知らずにさらに加速していった。

 

 

(それに、両親の身なりを見たけど……かなりのお金持ちだ!! 幼稚園に馴染もうとして地味目な服装を選んでるつもりだろうが、立ち振る舞いや纏ってる空気は上流家庭そのもの! ……間違いねえ、とんでもない上玉だッ! キープしなければ!!!)

 

 

ちょっと待て。

立ち振る舞い? 上流家庭? キープ?

幼稚園児が何でそんな単語を知ってやがるんだ!? どこで覚えたその知識!?

な、なんてきめえ園児なんだ、あの時の俺はッ!!

しん○すけだって、もうちょいピュアな心で綺麗なお姉さんを追いかけてるぞ! 五歳児の脳味噌にどれだけドロドロの俗物根性が詰まってたらそんな思考回路になるんだよ!!

 

あまりの醜悪さに俺が頭を抱えていると、脳内の本腸寺で炎を眺めていた信長が、信じられないものを見るような目で感嘆の声を漏らした。

 

 

『ほう……。この年齢から、ここまで打算に満ち溢れた奴は珍しいのう。天晴れを通り越して、もはや背筋が凍るわ』

 

 

信長は顎の髭を撫で、心底感心したように嘆息する。

 

 

『こやつに比べれば、この俺の幼少期ですら、純真無垢と言えるのではないか?』

 

 

戦国の覇者にして第六天魔王よりドス黒いと称される俺はなんなの!? 俺の前世は一体どんな悪徳高利貸しだったんだ!?

 

映像の中では、五歳の俺が天使のような聖母スマイルを浮かべ、優しく美琴の手を引いていた。

 

 

「ありがとう、たけるくん!」

 

「どういたしまして、みことちゃん!」

 

 

光り輝く園庭。手を取り合う二人の幼子。

外見だけを見れば、児童福祉のポスターにそのまま採用できるレベルの感涙の友情シーンである。

だが、俺は知っている。というか、思い出してしまった。

この時の俺が、どうしようもないほどクソオブクソであったことを。

 

 

(少し優しくしてやりゃ、チョロいもんだぜ……!)

(くっくっく、俺の女に相応しいぞ八雲美琴!)

(安心しろ、お前は俺の正妻として、世界中から集める美女たちで結成するハーレムを管理する女主人の地位を与えてやる!)

(ふふふ、あーっはっはっはっは!!!!)

 

『……うっわ』

 

 

信長が、本気で眉をひそめて二歩後退した。

煙管を取り落としそうになりながら、汚物を見るような冷え切った視線を五歳の俺へと投げかける。

 

 

『猿より酷え……』

 

 

あの、女好きで知られ、後世に無数の側室を抱えて悪名をとどろかせた豊臣秀吉(木下藤吉郎)より酷いと断言された。

あの畜生猿より酷いんか。酷いな。

頼む。

誰でもいい、この世に神仏の正義が存在するなら。

今すぐこの腐りきったクソガキを殴り飛ばしてくれ――!!

 

 

――パシーーーーーーーンッッッ!!!!

 

 

乾いた、凄まじく小気味の良い破裂音が、静かな幼稚園の園庭に鳴り響いた。

 

 

「ぶべらッ!?」

 

 

五歳の九条猛の首が、真横へと直角に跳ね飛んだ。

遠心力で身体が一回転し、派手に砂場へと頭から突っ込む。

頬には、小さな、しかし驚異的な握力とスナップを利かせた紅葉のような平手打ちの痕が、鮮烈にくっきりと刻み込まれていた。

 

砂まみれになりながら、信じられないといった表情で顔を上げる五歳の俺。

その視線の先に立っていたのは、両手を腰に当て、仁王立ちで俺を睨みつけている一人の幼児であった。

 

 

「みことにちかよるなーーーーーっッッ!!」

 

 

鼓膜を突き破らんばかりの、烈火の如き怒号。

 

 

「け、けいちゃん……!?」

 

 

涙目を丸くして狼狽する美琴。

そう。そこに現れたのは、高橋恵。

美琴と違って、腐れ縁と呼ぶべき長き付き合いになる少女との、これが記念すべき『初対面』の瞬間であった。

 

初対面の、言葉も交わしていない同年代の男児に対して、いきなりノータイムでフルスイングのビンタを叩き込む五歳児。

この頃からすでに、現在の生徒会長としての圧倒的な武力と苛烈なリーダーシップの素養をビンビンに感じさせる。

 

脳内の信長が、懐かしそうに目を細めてポンと手を打った。

 

 

『おおっ! 帰蝶に似ておる! あの勝気な眼光、凛とした立ち姿……若き日の帰蝶(濃姫)の気風(きっぷ)そのものではないか! そして美琴とやらも吉乃に空気が似ておるしのぉ。うむ、実に良い組み合わせじゃ!』

 

 

信長が戦国ロマンスの観点から呑気に感心しているのを余所に、砂場に転がされた五歳のクソガキは、理不尽な暴力に涙目になって猛烈に抗議を始めた。

 

 

「な、なんで……!? ぼくが何したってのさ!?」

 

 

被害者面を完璧に装う五歳の俺。

しかし、幼き日の高橋恵は、そんな小細工など歯牙にもかけなかった。

ビシィッ! と、短くも力強い人差し指を、砂まみれの俺の鼻先へと突きつける。

 

 

「あんた……なんか、ねちゃっとしてるッ!!」

 

「ね……っ!?」

 

「みことに、なにかするつもりなんでしょ!! ぜったいそうよ、あたしにはわかるんだから!!」

 

 

ねちゃっと。

まだ幼稚園児の男児に対する評価が、「ねちゃっとしてる」。

あまりにも的確すぎて、十五歳の俺は胃液を吐きそうになった。見抜かれている。こいつの動物的直感と人間観察眼、五歳の時点で霊能者レベルに達していやがる。

 

しかし、当時の五歳の俺も、己の邪悪なプライドにかけて引き下がらなかった。

 

 

「な、ななな、なんだとうーっ!? ぼくのどこがねちゃっとしてるんだよぅ!」

 

「め!」

 

 

恵は間髪を入れずに即答した。

 

 

「ぼくのめは、とてもさらっとしてるだろ!? 澄んでて綺麗だろ!?」

 

 

必死に両目をカッと見開く五歳猛。

それに対し、恵は心底嫌そうな、ゴミ箱の底を見るような顔をして吐き捨てた。

 

 

「ううん。まるで、みちばたにおちてる『がむ』みたい」

 

 

道端に落ちてるガム。

この頃の恵は、一体何処でそんな言葉を覚えたんだ?

そして、なんて的確な比喩なんだ!

薄汚れて、粘着質で、道行く人々に踏みつけられて黒ずんでいる、吐き捨てられたガムのような目。

当時の俺の、打算と下心に塗れたドロドロの内面を、これ以上ない精度で言語化していやがる!

 

 

「け、けいちゃん……たけるくんは、わたしをたすけてくれたの……」

 

 

美琴がオロオロと恵の服の裾を引いて執り成そうとする。

しかし、恵は「ふん!」と鼻を鳴らし、美琴の手をグイッと引いた。

 

 

「いこ、みこと。こんなガム男といっしょにいたら、ばっちいのがうつる」

 

「で、でも……わたし、たけるくんと……あそびたい……」

 

 

美琴が名残惜しそうに俺を振り返る。

その純粋無垢な瞳に絆されたのか、あるいは美琴を一人にしておくわけにはいかないと判断したのか、恵は深いため息を一つ吐き出した。

そして、鋭い眼光をギラリと光らせながら、俺へと向き直る。

 

 

「……たける」

 

「え、よびすて!?」

 

「わたしも、いっしょにあそぶから」

 

「ええ……っ!?」

 

 

嫌そうな顔を露骨にする五歳猛。

すると恵は、眉間をキュッと寄せて、幼稚園児が絶対に浮かべてはいけないようなドスの利いた極道の顔で睨みつけてきた。

 

 

「なに? ……もんく、あるの?」

 

 

ヒィッ! と俺の喉が鳴った。

幼稚園児がしてもいい顔じゃない。怖い。五歳にしてすでに完成された女帝の覇気。

 

 

「わ、わかったよぅ……」

 

 

こうして観念し、三人で一緒に遊ぶことになったのだ。

俺は美琴に気に入られようと、泥団子の作り方からブランコの効率的な漕ぎ方、虫捕りの裏技に至るまで、持てる知識を総動員して色んな遊びを教え込んだ。

美琴も恵も、最初は警戒や戸惑いを見せていたものの、新鮮だったのか次第にその泥臭い遊びに夢中になり、三人で笑い合う時間が増えていった。

俺自身も、最初の薄汚い思惑を忘れかけるほど、普通に楽しんでいたのだ。

 

だが。

一緒に遊ぶようになってからしばらくの月日が経過した、ある日の昼下がり。

五歳の九条猛の腐りきった脳細胞が、再び邪悪な蠢きを見せた。

 

 

「よし! つぎは、おままごとだ!」

 

 

園庭の木陰にビールケースを並べ、俺は高らかに宣言した。

 

 

「おままごと……?」

 

 

美琴が目を丸くして首を傾げる。名門のお嬢様ゆえに、あまりそうした庶民のごっこ遊びに触れてこなかったらしい。

 

 

「そう! さいしょは、そうだね……ぼくとみことちゃんが『ふうふ』ね!」

 

 

満面の笑み。

だが、そこには恐るべき邪心が秘められていた。

 

 

(おままごとで、俺に対する意識を徐々に植え込んでやる……!)

(まだガキだから、今のうちにある程度刷り込めるはずだ……!)

 

 

あ〜、マジ殺してぇ!

十五歳の俺は、己の五歳の姿を見て本気で頭を抱えた。

すると、信長が冷たい声でトドメを刺してきた。

 

 

『うむ、貴様は猿より畜生よ。この信長が断言してやろう』

 

 

とうとう天下猿の旧主にまで畜生認定された俺。

その時、横から極めて不機嫌そうな、ドスの利いた声が割り込んできた。

 

 

「……わたしは?」

 

 

恵が、腕を組んで憮然とした顔で見つめていた。

 

 

「あっ」

 

 

五歳猛は、一瞬言葉に詰まった。

だが、すぐに適当な思考へと逃げ込む。

 

 

(適当でいっか)

 

「……それじゃあ、けいは、みことちゃんの『おとうと』やくね!」

 

 

その瞬間、五歳の俺の脳内では、さらなるゲスな打算が回転していた。

 

 

(美琴の幼馴染、こいつは俺の逆玉計画の最大の障害になる……!)

(くそ、男前の性格かつ運動神経抜群で、顔立ちも整ってて……絶対に将来イケメンじゃねえか!! 今のうちに弟ポジションに押し込めて骨抜きにしてやる!)

 

 

そう。

この時、俺は完全に勘違いしていたのだ。

恵は俯いて、じっと下を向いた。

肩がプルプルと震えている。

次の瞬間、恵は電光石火の勢いで顔を上げると、両手で俺の両頬を万力のように力任せに鷲掴みにした!

 

 

「わたしは……おんなのこだッッ!!」

 

「ふぎゃああああっ!?」

 

「ばかたけるーーーーーーーーっッッ!!!!」

 

「け、けいちゃん、おちついてええええっ!!」

 

 

怒り狂いながら、俺の両頬を餅のように左右へ限界まで引っ張り上げる恵と、半泣きで慌てて止めに入る美琴。

 

 

「いひゃいいひゃいいひゃいいひゃいッッ!!」

 

 

そう、女の子だったんだ。

いや、言葉遣いは女の子っぽかったけど、男より男らしい苛烈な行動力とショートカットのせいで、つい……!

 

脳内の本腸寺で、信長が満足そうに頷いた。

 

 

『ふむ、微笑ましいな』

 

(どこが微笑ましいんだよ信長ァァァァァァッ!!)

 

 

俺は過去の黒歴史に悶絶した。

痛え。なんて痛くてキモいガキなんだ五歳の俺!

畜生、あの時の恵が完全に正しかった……!

現生徒会長である高橋恵の、卓越したリーダーとしての観察眼と危機察知能力は、この頃からすでに完璧に発揮されていたのだ。

 

 

(なんで……なんであの優しい父さんと母さんから生まれた子供が、あんな悪魔なんだよ……ッ!!)

 

 

俺は心の中で、天に向かって血の涙を流しながら絶叫した。

 

一般的なサラリーマンで、温厚で、休日は庭いじりと家族サービスを欠かさない父・九条大和。

そして、オリジナル料理を作るのが趣味で、時々スパイスの配合をミスるけれど、息子の健康を誰よりも気遣ってくれる専業主婦の母・九条雅。

二人は、過去にちょっとバイオレンスな事件に巻き込まれて色々とやらかした俺のことも、決して見捨てることなく真正面から受け入れてくれた。優しくて、時に厳しく、時に温かい、世界に誇る自慢の両親だ。

 

そんな聖人のような二人の間に生まれたのが……元クソガキで、現う◯こ野郎の九条猛。

ああ、マジで二人に申し訳ない……!

育て方を間違えたわけじゃない、親父とお袋は何一つ悪くない!

俺の魂の根底に巣食うこの俗物根性と業の深さが、勝手に暴走しただけなのだ!

 

 

(五歳の時から重度の厨二病で、現在中学三年生の俺が過去の黒歴史に苦しむってなんなの!?)

 

 

身悶えしながら謝罪する俺に対し、脳内の信長が珍しく優しげな声で語りかけてきた。

 

 

『猛よ、厨二病とやらは恥ずべきことでは無いぞ?』

 

(え……信長……?)

 

『なにせ、この俺も若い頃は南蛮かぶれの厨二病を長年患っておったからな。マントを羽織り、舶来の帽子を被り、珍奇な南蛮菓子を貪り食っては「我こそは第六天魔王なり」などと名乗っておったのだ。貴様のそのこじらせぶりなど、可愛いものよ』

 

 

天下の覇王からの、温かい同類認定。

そうだよね、信長。貴方はマント羽織ってカッコよかったよね。

でも!

 

 

(今は現代なんだよ信長ァァァァァァッ!!)

(現代日本において、厨二病と黒歴史はただひたすらに恥ずかしくて死にたくなる劇薬なんだよおおおおっ!!)

 

 

叫びながら、俺は脳内で美琴に向かって土下座した。

 

 

(ごめん、美琴……っ!)

 

 

あの時の美琴は、俺の事をとても優しい男の子だと信じ切っていただろう。

泣いていた自分に、躊躇なく手を差し伸べてくれた白馬の王子様だと、純粋に感謝してくれていたはずだ。

でも、違うんだ。

 

 

(お前に近寄ったのは、とんでもないゲスな思惑だったんだ……っ!)

(でも、信じてくれ! もうハーレムなんかに興味無いから! お前だけだから!!)

 

 

そうだ。今の俺には、あんな下らない妄想ハーレムなど微塵の未練もない。

俺の心を満たしているのは、八雲美琴、ただ一人だけだ。

絶対に浮気なんてしない。絶対に、天地がひっくり返ってもだ!

 

 

(絶対に有り得ないけれど……もしも八雲グループが倒産して、美琴が貧乏になっても、俺はお前が好きだから!!)

 

 

まあ、八雲が潰れるような事態が起きたら、その前に日本経済が完全に崩壊して国家が滅亡しているだろうけれど。

これは俺の意気込みとして、極限の比喩としての宣誓だ。

金の亡者として近づいた五歳のクソガキは死んだ。

今ここにいるのは、お前という人間そのものに魂を奪われた、一途な十五歳の男なのだ!

 

 

(う○こ出したら、絶対に告白するんだ!!)

(あんな過去の下心なんて一切ない、真っ直ぐな、混じり気なしの告白を……ッ!!)

 

 

激痛の走る腹部を押さえつけ、俺は再び決意を新たにした。

すると、信長がポツリと、心底情けなさそうな声で呟いた。

 

 

『格好よく決意しているが……その崇高なる覚悟のキッカケが「う○こ」だと思うと、武士(もののふ)として涙が禁じ得んな』

 

(うるせえええええええええええええええええっっっ!!!!)

 

 

俺は脳内で、信長に噛み付かんばかりに怒鳴り返した。

 

 

(徳川の狸親父だってな、三方ヶ原の戦いで武田信玄にボコボコにされて、馬の背中でう○こ漏らしながら浜松城に逃げ帰ったけど、最終的に天下取ったやろがい!!)

(漏らした後の絵をわざわざ描かせて生涯の教訓にした徳川家康に比べりゃ、耐え抜いてから天下を取りに行く俺の方が遥かに前向きだわ!!)

(俺は、美琴の彼氏という名の天下を取るんじゃあああああああっっ!!)

 

 

 

息を荒らげ、全身から脂汗を噴き出しながら、一人で脳内大戦争を繰り広げていたその時。

ふと、周囲の空気に微かな違和感を覚えた。

 

自席の左右から、俺の顔面へと突き刺さる、対照的な二つの視線。

 

一つは、左隣――八雲美琴からの視線だ。

両手を胸の前で祈るように組み、眉を八の字にして、壊れ物を気遣う聖母のように痛ましげな瞳で俺を見つめている。

 

 

「猛、本当に大丈夫……? 無理しないで……」

 

 

そんな慈愛と憂慮のオーラが、言葉を発さずともひしひしと伝わってくる。清らかな、夜空に浮かぶ優しいお月様のような光。

 

そして、もう一つ。 右斜め前方の席から、半眼のジト目で俺を睨みつけている視線があった。

 

高橋恵。 陽神学園中等部の現・生徒会長にして、学内屈指の武闘派美少女。 五歳の頃のボーイッシュな面影はどこへやら、現在の恵はどこからどう見ても完璧な女子である。 艶やかな漆黒のロングヘアー、制服のブレザーの上からでもはっきりと分かる、同年代の女子を一歩も二歩もリードする抜群のプロポーション。切れ長の涼やかな瞳と通った鼻梁は、勝気な美しさを放っている。 美琴が世界を包み込む静かな月であるならば、恵はあらゆる欺瞞を焼き尽くす灼熱の太陽であった。

 

俺は、恵と視線を重ねる。

十年間の腐れ縁。

数え切れないほどの喧嘩をし、互いの手の内も悪癖も知り尽くした仲だ。

もはや、言葉など交わす必要すらない。

視線が合致した瞬間、俺と恵の間には、光ファイバーを遥かに超える超高帯域の『精神通信(テレパシー)』が開通していた。

 

 

(おいこら、猛)

 

 

恵の細められた双眸が、ドスの利いた無言の圧力を飛ばしてくる。

 

 

(……なんか、すっごいアホなことを考えてるでしょ、あんた?)

 

 

ビクッ、と俺の背筋が跳ねる。

だが、十五歳の男の意地がある。俺は滝のように流れ落ちる脂汗を拭いもせず、口角を歪めてニヒルな笑みを返した。

 

 

(違うな、恵。俺は今、己の魂の内なる煩悩を捨て去り、解脱と悟りの境地へと至る最中なんだよ)

 

 

恵の眉間が、ピキッと深く寄った。

 

 

(……まずいわね。これは相当変な思考回路に突入してるわ。完全に目がイッてるじゃない)

 

 

呆れたように息を吐き出す恵の瞳。しかし、その奥に微かな鋭い光が宿る。

 

 

(一応聞くけど。……傷でも痛むの?)

 

 

恵の脳裏をよぎったのは、かつてのあの凄惨な事件のことだろう。 彼女なりに、俺の異常な発汗と苦悶の表情を、あの時の傷の後遺症ではないかと危惧してくれているのだ。 優しいところがある。だが、今の俺にその優しさはあまりにも的外れで、あまりにも恥ずかしすぎる!

 

俺はフッ、と遠い目をしてみせた。

 

 

(ふっ……痛むのは、心の傷さ。かつて愚かであった己の過去の罪業を振り返り、その痛みに耐え抜くことで、男としての霊的階位を昇華させている最中なんだよ)

 

 

恵の瞳が、一瞬で「絶対零度のゴミを見る目」へと切り替わった。

 

 

(あんたは現在進行形で紛れもない大馬鹿者でしょうがッッ!!)

 

 

鋭利なツッコミの波動が脳天に突き刺さる。

 

 

(不味いわね……完全に脳の酸素が足りてないわ。意識が混濁して譫言(うわごと)を並べ立ててるんじゃないでしょうね? 今すぐ竹下先生に言って、救急車を呼んで病院に連れていくべきかしら?)

 

(おい馬鹿やめろッッ!!)

 

 

俺は血相を変えて、目で全力の静止信号を乱れ打った。

 

 

(俺は大丈夫だ、至って健康! 元気元気!! ピンピンしてるっつの!!)

 

 

腸が元気すぎて、大腸菌たちが大暴れして苦しいだけさ!

だが、そんな俺の必死の強がりなど、百戦錬磨の幼馴染に通じるはずもなかった。

 

 

(あんたの「大丈夫」ほど、この世で当てにならない言葉はないわよッ!!)

 

 

恵はジト目をさらに険しく尖らせ、しかし、その奥に隠しきれない真摯な情を滲ませて訴えかけてきた。

 

 

(……なんかあるなら、ちゃんと言いなさいよ。美琴に言えないような情けないことなら、私でいいから。……お願いだから、変な我慢だけはしないでよ)

 

 

うっ。

胸の奥が、チクリと痛む。

恵の奴め……普段は暴力的で口が悪いくせに、こういう土壇場になると、昔から変わらない不器用な優しさを滲ませてきやがる。

 

だがな、恵。

……俺が今、己の全存在を賭けて我慢しているのは、他ならぬ『便意(明智光秀)』なんだよ。

もしもこの場で「実は激辛カレーのせいで猛烈にクソが漏れそうなんだ」と真実を明かしたらどうなる?

お前は間違いなく、全国のツッコミ選手権で優勝できるレベルの、天下を取れるキレッキレの怒涛のツッコミと罵声を教室中に響き渡らせるに決まっている。

言えるわけがないのだ。男として、お前に対しても!

 

 

(心配すんな、恵)

 

 

俺はそう視線で告げ、恵の射抜くような眼光からそっと目を逸らした。

恵はなおも納得のいかない様子で、唇を尖らせて俺を睨みつけていたが、授業中ということもあってそれ以上追及することはできず、ギリギリと奥歯を噛み締めながら前方を向き直った。

 

ふう……。

なんとか最大の危機をやり過ごした。

だが、安堵した瞬間、下腹部で再びゴロゴロと不穏な地鳴りが鳴り響いた。

いかん。油断すれば、項羽の矛が城門を貫く。

 

 

(気を紛らわせろ……! まだ五分しか経ってないんだ! 意識を過去へ、さらに深い過去の記憶の底へダイブさせるんだ……ッ!)

 

 

俺は再び目を閉じ、脂汗を垂らしながら、次なる記憶の引き出しを乱暴にこじ開けにかかった――。




恵ちゃんは美琴ちゃんと同レベルです(なにが?)
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