トイレ・オブ・ザ・デッド ~織田信長と逝く本腸寺の変~ 作:ナオ3
(ぎ……ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっ……!!)
奥歯が粉々に砕け散るかと思った。
机の両端を掴む指の関節からは、メキメキと軟骨が擦れ合う異様な軋み音が鳴り響いている。
下腹部の奥底――『本腸寺』と化した俺の結腸の彼方で、凄まじい地殻変動が起きていた。
先ほどまで西楚の覇王・項羽の如き勢いで方天画戟を振り回していた明智光秀(便意)の姿が、もはや人型の輪郭すら保てなくなっていたのだ。
全身の筋肉がまるでステロイドを過剰投与された巨人のように異常肥大し、血管が太い蛇のように皮膚を突き破らんばかりに浮き彫りになり、頭頂部からは禍々しい漆黒の二本の角がメリメリと生え伸びている。
『我を……出せええええええええええええッッ!!』
怨念の怨霊武将は、今や完全なる『魔神』へと進化を遂げていた。
手にした金棒を振り下ろすたびに、直腸の内壁に致死性の衝撃波が叩きつけられる。
括約筋の薄い防壁が、内側からグニャリと外側へ押し広げられそうになるたび、俺の脊髄を電気椅子のような激痛が駆け抜けた。
(あ、あかん……っ! 死ぬ、本当に死ぬッ! 意識が吹き飛ぶ……っ!)
冷や汗で視界が黄色く明滅する。
もはや普通の思い出や綺麗な記憶を反芻している程度では、この魔神化した便意の暴虐を逸らすことなど不可能だ。
もっと強い刺激が必要だ。
肉体の激痛を相殺できるほどの、精神を根本から焼き尽くすほどの劇薬――そう、己の魂を抉り抜くような『過去の黒歴史』という名の猛毒を更に摂取するしかない!
(毒を以て毒を制す……! 腹の痛みを、己の腐敗した過去に対する心の痛みで中和するんだ……ッ!!)
俺は覚悟を決め、幼稚園時代のさらに先――あのピカピカのランドセルを背負った春の日へと、記憶のタイムカプセルを力任せにバールでこじ開けにかかった。
時は今から約八年前。
桜の花びらが爛漫と舞い散る、私立陽神学園初等部の入学式の日。
真新しい濃紺のブレザーに身を包み、黄金の校章を誇らしげに胸に輝かせた新入生たち。
その校門の前で、仕立ての良い真新しい制服を着た俺――七歳の九条猛は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。
背筋を伸ばし、利発そうな大きな瞳を輝かせ、誰が見ても「育ちの良い聡明な優等生」そのものの爽やかな佇まい。
その隣には、桜色のリボンを髪に結び、天使のような笑みを浮かべた八雲美琴が並んでいた。
「これからも、いっしょだね、たける!」
美琴は、小さな両手で自分のブレザーの裾をぎゅっと握りしめ、心底嬉しそうに、少し照れくさそうに上目遣いで俺を見上げてきた。
周囲に馴染めず孤立しかけていた自分を常に傍で守り、笑顔を教えてくれた「たける」と、小学校でも同じ教室で過ごせる。その純粋無垢な喜びが、彼女の可憐な瞳の奥で満開の桜のように咲き誇っていた。
俺は、優しく、慈愛に満ちた聖人のような笑顔を返し、美琴の小さな頭を軽く撫でてやった。
「そうだね、美琴。これからもよろしくね」
「こっちこそ、よろしく!」
パッと咲き誇る美琴の満面の笑み。
周囲の保護者たちからも「まあ、なんて仲の良い可愛らしい二人かしら」「絵になるわねぇ」と微笑ましい視線が注がれる。
幼稚園からの地道な懐柔工作。
泥団子作りを教え、ブランコを押してやり、美味しい野いちごの場所を教え、常に彼女の絶対的な味方であり続けた俺の努力が結実し、美琴の信頼はすでに絶対的な領域に達していた。
だが。
その爽やかな少年の頭蓋骨の内側は――漆黒を通り越して、光すら脱出できないブラックホールのような『真っ黒黒助』で満たされていたのだ。
(くっ……くっくっくっくっく!)
七歳の九条猛の、脳内の邪悪な哄笑。
(勝った……! 俺の完全勝利だッ!!)
(こんなお高い学校に、入学金から授業料まで何から何まで完全免除の『ロハ』で通えるとは……美琴様々だぜッ!!)
(美琴が『俺と一緒じゃないと嫌だ!』と駄々をこねて泣き叫んでくれたお陰だ!)
(でかしたぞ、よくやった、褒めてやるッ!!)
……。
ちょっと待て。
十五歳の俺は、自らの記憶の中のクソガキを見て、下腹部の痛みを一瞬忘れて戦慄した。
ロハ? 美琴様々? 褒めてやる?
七歳児が何でそんな寄生虫丸出しの単語で狂喜乱舞してやがるんだ!?
タイムマシンは何処だ?
過去に戻って、このクソガキを越えた『カスガキ』を消さないと!
存在そのものを歴史から抹殺しないと気が済まない!!
すると、脳内の炎上する本腸寺から、腕を組んだ信長が地の底から響くような声で呟いた。
『……人面獣心とは、まさにこやつの事を言うのだろうな』
戦国の覇王に「人の顔をした獣」とまで吐き捨てられた。
だが、その激しい自己嫌悪と罪悪感が、下腹部の激痛と奇跡的なバランスでぶつかり合う。
そう、腹の痛みが、己の心の痛みによって確かに中和されていくのだ!
効いている。劇薬だが、間違いなく効いている!
俺は涙を呑んで、さらに過去の黒歴史を深く遡ることにした。
「帰ったら、宗悟さんと美玲さんに、僕がありがとうと言ってたと伝えて欲しいな」
七歳の俺は、まるで親孝行の鑑のような殊勝な態度で、首を傾げて美琴に微笑みかけた。
「うん!」
無邪気に頷く美琴。
その背後で、俺の内なるドス黒い声が下卑た笑いを上げる。
(美琴の両親も、少しヤンチャだが素直な俺の演技にすっかり絆されてやんの!)
(金持ちなのにチョロいぜ……! これで俺の将来の逆玉ロードは完全に舗装されたも同然よ……!)
その独白を聞いた信長が、頭を抱えて呻いた。
『……こやつが、俺の時代に生まれてこなくて本当によかったわ……』
信長に心底安堵される俺って一体何者なんだ。
タイムマシンを探すなんて、甘かった。 俺は将来科学者になって、タイムマシンを――結衣といっしょに開発しよう、そうしよう。 そして過去へ跳び、あの優しき美琴の両親を単なる金づるとしか思っていない過去の俺を、素粒子レベルでデリートするんだ。絶対にそうしなければならない!
「はいはい、そろそろ行こ?」
その時、背後から感情のこもっていない、しかし有無を言わせぬ冷ややかな声が割り込んできた。
俺たちのいい空気を完全にぶち壊す存在。
振り返れば、高橋恵がこれ以上ないほど冷え切ったジト目で俺を見下ろしていた。
「け、けいちゃん……」
美琴がペコッと頭を下げる。
俺は引きつった笑顔を浮かべながら、視線で抗議した。
(恵……空気読めよ)
だが、今の十五歳の俺には分かる。
多分、あいつは空気を読んだからこそ、割り込んできたのだ。
この七歳のクソガキ猛が放っていた「ドロドロとした下心の異臭」を敏感に嗅ぎつけ、親友である美琴を守るために、意図的にその甘ったるい空間を物理的に粉砕しにきたのだ。当時の恵の嗅覚、本当に恐るべしである。
「ほら、宗悟様と美玲様が待ってるわよ。ぐずぐずしてると式に遅れるわ」
「うん……!」
俺たちは三人並んで、校門の脇のロータリーへと歩を進めた。
そこには、陽神学園の広大な敷地の中でもひときわ異様なオーラを放つ一角があった。
俺たちの家族と、見知らぬ一家がいる。
その見知らぬ一家の傍らには、俺たちと同じ新一年生とおぼしき、背筋を異常なほどピンと伸ばした小柄な女の子の姿があった。
俺たちの姿を認めるや否や、八雲財閥の総帥・八雲宗悟が、パッと顔を輝かせて大きく手を上げた。
「やあ、みんな! 三人とも可愛いじゃないか! ……おっと、猛くんには『格好いい』だったな」
人懐っこい、しかし底知れぬカリスマを秘めた笑みを浮かべる宗悟。
その隣で、絶世の貴婦人・美玲もうっとりとした表情で目を細め、胸の前で両手を合わせた。
「本当に、子どもたちが大きくなるのはあっという間ねぇ……。みんな、とっても素敵よ。よく似合っているわ」
世界を動かす最高権力者夫妻からの、心温まる賛辞。
普通の新小学一年生であれば、照れくさそうにもじもじするか、親の後ろに隠れるところだろう。
だが、この九条猛という怪物は、一切の隙を見せなかった。
そして、ここからがこのカスガキの真骨頂であった。
彼はふっと表情を引き締め、深々と、まるで英国紳士のような完璧な角度で頭を下げたのだ。
「ありがとうございます、宗悟さん、美玲さん! 美琴と恵と一緒に学校に通えるようにして、本当にありがとうございます!」
完璧な礼儀作法。
そして、恐るべきはこの台詞の『構成』である。
ここで美琴と一緒にいられるの、これこそが最大のポイントだった。
名門校の施設や教育レベルではなく、美琴(と恵)と一緒にいられるのが嬉しいという方が、宗悟さんと美玲さんの好感度を最も稼げると、このカスガキは冷徹に計算しやがっていたのだ!
あ〜〜〜〜〜〜ッッ!!
こいつの頭上に、体育館の巨大な照明がそのまま落ちてこないかな!?
宗悟さんはそんな俺のドス黒い打算に気づくはずもなく、申し訳なさそうに両手を振って制止した。
「いいんだよ、猛くん。こっちこそごめんね? 美琴がどうしても猛くんと一緒じゃなきゃ嫌だって言って聞かなくてね……大人の都合で君を巻き込んでしまったんじゃないかと、少し心配していたんだ」
「ええ、本当に。私たちの都合で勝手に決めちゃってごめんなさいね、猛ちゃん」
美玲さんも眉を下げて優しく微笑む。
ああ……なんていい人たちなんだ……!
こんな清らかで、思いやりに溢れた人格者夫妻を、俺は……俺という男は……!!
罪悪感の針が心臓を蜂の巣にしていく。
その八雲夫妻の隣には、俺の父・九条大和と母・雅が立っていた。
一般的なサラリーマン家庭である九条家にとって、この陽神学園の入学式は完全にアウェーの極みであった。
二人は宗悟さんの紹介で仕立てたという、超高級生地のオーダーメイドスーツに身を包んでいたのだが……いかんせん、根っからの庶民気質が災いし、服に着られている感がパない。
父の大和はネクタイが苦しいのか終始首元をモジモジと気にし、母の雅は周囲の上流階級のマダムたちの宝石の輝きに圧倒されて、借りてきた猫のように小さくなっていた。
「猛、入学おめでとう。……立派になったなぁ」
父さんがぎこちない笑顔で俺の肩に手を置く。
「猛、美琴ちゃんと恵ちゃんをしっかり守るのよ?」
母さんが優しく、しかし真剣な目で諭してくる。
俺は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「えっ……恵も?」
美琴はともかく、恵は守る必要あるのけ、母さん?
恵は男子顔負けの腕力があるし、今となってはプロの格闘家すら叩きのめせる実践的な古武術の使い手よ?
そんな俺の失礼極まりない反応に、すぐ隣から「ゴゴゴゴゴ……」と地獄の底から響くような地鳴りが聞こえてきた。
「……おうこら、猛」
恵が、ドスの利いた極道のような声で俺のブレザーの襟首をキュッと掴み上げてきた。
幼女とは思えない、骨が軋むような握力。
「いや、だって……僕より強いじゃないか……」
殴り合いになれば、絶対に負けるだろうな。
コンマ五秒で俺がアスファルトに沈められる未来しか見えなかった。
その時、その殺気立つ空気を宥めるように、穏やかな老人の笑い声が響いた。
執事の高橋啓造さん――恵の祖父であり、八雲家の筆頭執事を務める初老の紳士であった。
啓造さんは困ったように細い目を細め、孫娘の頭をポンと叩いた。
「ほら、この機にもう少し女の子らしくしなさい、恵。じゃないと、猛様に女の子として見られませんよ?」
「うっ……!」
恵の動きが、ピタリと止まった。
襟首を掴んでいた手がみるみるうちに力を失い、スルスルと解けていく。
恵はパッと顔を背け、耳の先端まで真っ赤に染め上げながら、尖らせた唇でボソボソと反論した。
「べ、別に……こいつに見られなくたって……!」
啓造さんは大袈裟に肩を竦め、深いため息を吐き出した。
「やれやれ。最近、髪を伸ばしてお洒落するようになったのに……まだまだ遠そうですねぇ……」
「ええ、僕が何度もレビューさせられてます……」
七歳の俺は、何食わぬ顔で調子に乗って相槌を打った。
「新しい服を買うたびに部屋に突撃されて、適当なこと言うと本気で怒るから大変なんですよ」
「お祖父様!! バカ猛ーーーーーーッッッッ!!!!」
ボッ! と音が立ちそうなほど顔面を真っ赤に沸騰させた恵が、涙目で絶叫した。
周囲の大人たちも温かい笑い声を漏らしている。
――と、この過去の記憶を振り返りながら。
十五歳の俺は、机の上で脂汗を垂らしつつ、純粋な疑問に首を傾げた。
(本当に、あいつ……髪を伸ばすだけじゃなく、今でも女の子っぽい服を着ては毎度毎度俺に聞いてくるんだよなぁ)
適当な事を言うと怒るから、真剣に感想を言わないといけないしよ。
命がけのファッションレビューである。
俺はふと、あることが気になった。
(……恵、気になる男がいるんだろうか?)
(何度も俺の感想を聞きたがるし、男の好みでも知りたいのか?)
誰だろう?
あいつ、今まで彼氏いたことなかったよな?
それどころか、男の影なんて欠片も無い。
学園の男子生徒たちはみんな、恵を遠巻きに拝んでいるだけだ。
(俺に言ってくれれば、手伝うくらいはしてやるのに。もし、俺が美琴とカレカノになれたら、あいつの彼氏探しをしてやるか!)
俺はこの1件――この地獄の便意籠城戦が終わったら、恵に気になる男が居ないか聞いてみる事にした。
幼馴染の義理として、あいつの春を応援してやるのが男の甲斐性というものだろう!
そう、心の中で晴れやかに頷いた――まさにその瞬間であった。
『やめろ猛!!』
脳内の本腸寺の天守が吹き飛ぶかと思うほどの、絶叫。
煙管を取り落とした織田信長が、血相を変えて俺の意識の胸ぐらを両手で掴み、ガクガクと前後に激しく揺さぶってきたのだ。
『死ぬぞッ! 殺されるぞ!! 悪いことは言わんからやめておけ!!』
(えっ、そこまで言う!? なんでだよ信長!?)
信長は額に青筋を浮かべ、心底戦慄した様子で天を仰いだ。
『こ、こやつ……どうしようもない女ったらしだな……!』
(おうこら、俺は美琴一筋だ!)
俺が脳内で信長と掴み合いを繰り広げていると、記憶の中の現実世界で、不穏な空気が漂い始めた。
「むう……」
美琴が、両頬をリスのようにプクッと膨らませていた。
「えっ、どうしたの美琴?」
七歳の俺がおずおずと尋ねると、美琴はジトッとした湿度の高い瞳で、俺と恵を交互に見つめて呟いた。
「……さいきん、けいちゃんとなかがいいね?」
その瞬間、恵が奇怪な声を上げた。
「はあ!? そそそ、そんなことないわよ!!」
なんでお前が答えるんだ、恵?
美琴が無言のまま、ジト目を恵へと据え置く。
あの高橋恵が、まるでヘビに睨まれたカエルのようになって、全身をカタカタと震わせていた。女子の世界の力関係、すでに恐るべしである。
すると、宗悟さんが豪快に笑って割って入った。
「はっはっは、仲がいいね三人とも! ……君たちの輪に、もう一人加えてほしいのだけどいいかな?」
宗悟さんは振り返り、先ほどから傍らに控えていた見慣れぬ一家へと手招きした。
「さあ、凛ちゃん」
すると、夫婦の後ろから、一人の女の子がスッと前に進み出てきた。
――まだ幼いのに、とても凛々しい女の子だった。
腰まで届く艶やかな黒髪を、紫の組紐で一つに束ねたポニーテール。
切れ長の涼やかな瞳は、吹雪の夜の月のように澄み渡り、通った鼻梁と引き結ばれた薄い唇は、年齢に見合わぬ苛烈な美しさを漂わせている。
凛なだけに……寒!?
誰だ今のダジャレ考えた奴! 俺か! 死にたい!!
少女は美琴の前へと静かに歩み寄ると、膝を折り、流れるような美しい所作で深々と一礼した。
「天草凛です、よろしくお願いします、美琴様」
鈴の音のように澄んでいるが、一切の甘えを削ぎ落とした、怜悧な声音。
「う、うん、よろしく……」
まだ人見知りな美琴にとって、怜悧な空気の凛は少し苦手だったようだ。
オロオロと後退りしながら、美琴は困ったように眉を下げている。
すると、脳内の信長が、何やら腕を組んでしみじみと呟いた。
『むむ、犬千代が見たら尻尾振って近寄りそうな幼子じゃな』
……犬千代?
(犬千代……前田利家の好みなんざ知りとうなかったわ……ッ!!)
加賀百万石の祖の性癖を、こんな下腹部爆発寸前の極限状態で知らされる俺の気持ちにもなってくれ!
宗悟さんが、穏やかな笑顔で紹介を続ける。
「この娘は、天草流刀剣術道場の娘なんだ」
凛の父親らしき、着流しに羽織を引っかけた眼光鋭い武人が、一歩前に出て恭しく挨拶をした。
「初めまして、美琴様。我が娘、凛をどうか傍仕えに……。未熟なれど自慢の娘です、決して不快な思いをさせないかと」
「は、はい……」
美琴の怯えた様子に、父親は苦笑を浮かべて話を打ち切った。
「……では、凛」
「はい」
「今は気張らずに、仲良く遊びなさい。先ずは、信頼関係を作ることからだ」
「承知しました」
凛の両親は離れていく。
宗悟さんも満足そうに頷き、大人たちを手招きした。
「じゃあ、僕たちも行こうか。大人は邪魔だしね。……猛くん、皆を頼むよ」
保護者たちも離れていく。
こうして、ロータリーには子どもだけになった。
大人がいなくなった瞬間、凛は恵に挨拶をした。
「初めまして、恵殿」
「初めまして、凛。……かなり、できるわね」
恵は重心をわずかに落として凛の間合いを測る。
凛もまた、自然体でありながら、いつでも抜刀できるかのような絶妙な半身の構えを取っていた。
「そちらこそ、同年代で勝てないかもしれないと思ったのは、貴女が初めてです」
「私もよ」
二人の視線が、空中でバチバチと火花を散らす。
君たち、本当に小学一年生の女子?
まるで、武人同士の邂逅みたいじゃん?
巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎かよ!
脳内の信長が、我が意を得たりと頷いた。
『ふむ、武士の妻として相応しい器量よな』
信長が戦国基準で満足している中、最後に俺を見つめる凛。
その切れ長の瞳には、恵に向けた敬意とは明らかに異なる、露骨な警戒の色があった。
「……そなたが、九条猛か?」
「そ、そうだけど……」
俺が一歩引くと、凛は無音の足運びでスッと間合いを詰め、俺の目を至近距離から覗き込んできた。
冷たい吐息が鼻先をかすめる。
「……邪念を感じる」
「ぎくぅ!?」
心臓が跳ね上がった。なぜバレる!?
しかし、凛の観察眼は止まらない。
「それでいて、強い意思と高い知性も。……危険だな」
凛はさらに警戒を強め、鋭い殺気すら孕んだ目で俺を睨み据えた。
「父上とお祖父様が言っていた。『牙を隠す者こそ危険だ』と」
信長が脳内でポンと手を打った。
『おお! なんとまあ、実戦的な思考をしておる。この現代においてなんとも珍しい武人よ!』
信長が大絶賛する中、美琴が慌てて俺のフォローに入った。
「だ、だめだよりんちゃん!! たけるはわたしの、その、えっと……!」
必死に庇おうとする美琴だが、関係性をうまく言語化できない。
横から恵が心底呆れたようにため息を吐いた。
「凛、諦めて」
フォローなのか分からない恵の言葉。
だが、それらを聞いた凛は、静かに瞑目した。
「……我らにも、こういった俗物と接する経験は必要か。言い換えれば、我らに無いものをこやつは持っているということだ」
俗物って言うな。
納得した凛は、何を思ったのかスタスタと俺の前まで歩み寄ると、トン、と俺の肩を叩いた。
「よし、これからは、私がお前を鍛えてやろう」
「え?」
呆気にとられる俺に対し、凛は有無を言わせぬ覇気をもって告げた。
「入学式が終わり次第、天草流の道場に行くぞ。美琴様に恥を掻かせない程度に立派な男子にしてやろう。今日から私が貴様の姉だ」
――それが、天草凛との出会いであった。
ちなみに、戸籍上では俺の方が二ヶ月早く産まれている。
完全に俺の方が年上なのだが、この日以来、凛の中では「猛=愚かな義弟」という図式が完全に固定されてしまったのだ。
それからは事あるごとに凛と鍛錬しては、そこそこの腕になったと自負できる。
泣き叫び、逃げ惑い、泥水を啜るような地獄の特訓の日々だったが、そのお陰で運動神経と動体視力は飛躍的に向上した。
まあ、今は事情があって剣を持つどころか激しい運動すら出来なくなったので、もうあいつと一緒に剣を交わしたり走ることはしなくなったけど。
最初はキツかったけど、結構楽しかったな、本当に。
――と、記憶の旅から意識が引き戻された、まさにその瞬間。
教室内の空気が、先ほどとは異なる方向から、ピンと張り詰めるのを感じた。
感じる視線が増えた。
凛だ。
陽神学園中等部三年三組において、最も規律正しく、最も近寄りがたい孤高の美少女。
今となって更に凛々しさを増したな、凛なだ……げふんげふん! もうダジャレはやめよう、精神が持たん!
俺は脂汗で濡れた首をミリ単位で動かし、自席の左斜め後方に座る凛の視線と交錯させた。
凛ともまた、アイコンタクトである程度意思疎通できる領域に達している。
(猛、どうした?)
凛の涼やかな切れ長の双眸が、鋭利な刃の如くこちらの異変を問いただしてくる。
(大したことじゃねえよ、内なるカルマと戦っていただけさ)
俺は引きつった笑みで平静を装った。
すると、凛の眉がピクリと動いた。
(お前、いつから仏教徒になったのだ?)
(いや、それは……)
(それに、腹を気にしてるようだが、もしや”傷”が痛むのか!?)
凛が慌てて立ち上がろうとする気配を見せた。
あの忌まわしい事件――彼女たちを守るために俺が負った古傷を、心配してくれているのだ。
俺は血相を変えて、必死に視線で制止した。
(ちがうちがう、腹の傷は関係ない!)
そう、痛いのは便が詰まった大腸と心の傷だ!
俺の必死すぎる形相に圧されたのか、凛は立ち上がりかけた腰を辛うじて戻した。
しかし、その瞳には痛ましさと情愛が溢れ返っていた。
(そうか……。無理するなよ、お前は十分すぎるほど頑張ったのだから)
(ありがとう、凛姉)
(いいさ、弟よ)
義姉弟の麗しい光景に見えるけど、弟はう○こを必死に我慢してるんだぜ?
ああ、心が痛い!
”あの事件”以降、凛は俺に厳しくするどころか、過保護気味になっちまったのだ。
俺が今苦しんでるのは、う○こしたいんだよと言ったらどんな顔をするのだろうか。
きっと、この怜悧な顔から可愛い表情を引き出せるに違いない。
そんな阿呆な思考が脳裏をよぎった、コンマ一秒後。
脳内の信長が、呻くように言った。
『……もはや、姉弟では済まないのぉ。まるで、一度持ったら終生離れん妖刀じゃてぇ……』
凛は刀じゃなくって人間だっつの!
俺は心の中で信長にツッコミを入れ、深く息を吐いた。
絶対にバレたくねぇ。
美琴にも、恵にも、そしてこの過保護な凛姉にも!
俺は更なる決意を持って、後ろの門を引き締めた。
油圧プレス機のように、鉄の閂を何重にも打ち込む。
魔神・光秀の猛攻をねじ伏せ、俺は再び、完全なる防衛態勢を構築した。
男の尊厳を賭けた孤城の防衛線は、今、極限の緊張感とともに次なる試練の刻を迎えようとしていた――!
怪我をする前の猛は凛ちゃんに10回やって1回勝てるかどうかの戦績でした、試合形式では。