トイレ・オブ・ザ・デッド ~織田信長と逝く本腸寺の変~   作:ナオ3

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第4のヒロイン


05話 天敵との遭遇(なお)

 

 

(ぎ……ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっ……!!)

 

 

机の木製天板にメリメリと爪が食い込み、白い粉が吹く。

先ほど凛との無言の通信を終え、油圧プレスの如く鉄の閂を打ち込んで防衛ラインを再構築したはずだった。だが、俺の下腹部――『本腸寺』の結腸深部で蠢く怨念の軍勢は、そんな人間の小細工を嘲笑うかのように、さらなる次元上昇(インフレ)を遂げていた。

 

先ほどまで黒い角を生やした筋骨隆々の魔神であったはずの明智光秀(便意)の姿が、もはや人型の原型すら留めていなかった。

全身の皮膚が禍々しい青藍色――深海の猛毒魚を思わせる冷酷な蒼へと染まり上がり、太い血管が脈打つたびにパチパチと青白い放電現象が起きている。

そして、その顔面。

兜の隙間から覗く両の眼球は、爛々と輝く狂気の金色へと変色し、その中心にある瞳孔は縦一文字に針のように細く裂けていた。完全に爬虫類、あるいは神話に語られる邪竜のそれである。

 

 

さらに。

 

 

『グオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』

 

 

怨念の怨霊武将が咆哮を上げた瞬間、その裂けた口端から、ドォッ! と紅蓮の火柱が噴き出された。

直腸の内壁を撫で上げる、超高熱の火炎放射(ブレス)。

激辛カレーの残留カプサイシンと、極冷麦茶による急速冷却が奇跡的な化学反応を起こし、体内でリアル火炎属性のバイオガスを精製して放火活動を始めたのだ。

 

熱い! 痛い! 焦げる! 俺の腸内粘膜がミディアムレアに焼き上がっちまう!!

 

そのあまりの超常的変貌ぶりに、脳内で腕を組んで戦況を眺めていた第六天魔王・織田信長ですら、煙管を取り落としそうになりながら目を丸くしていた。

 

 

『……ほほう。青き肌に金色の蛇眼、あまつさえ口から業火を吐き散らすか。もはや謀反人の一武将どころか、古の青竜か八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の領域よな』

 

 

信長は顎の髭を撫で、心底面白そうに口角を吊り上げる。

 

 

『ここまでくると、貴様のその軟弱な腸内で奴が何処まで行き着くのか、この信長、最後まで見届けたくなってきたぞ!』

 

(勘弁してくれよ信長ァァァァァァァッッ!!)

 

 

俺は脳内で、血を吐くような勢いで叫び返した。

 

 

(これ以上化物になられたら、俺はどうすりゃいいんだよ!? 腸内で裏ボス戦を開幕させる気か!?)

 

 

駄目だ、耐えられない。

この蒼き魔神の火炎ブレスは、物理的な我慢や精神論だけで防げる領域を疾うに突破している。

痛い。思考が焼き切れる。

まただ。意識が下腹部の一点に引っ張られ、今まさに括約筋の防壁が熱で溶け落ちそうになっている。

 

 

(ちくしょう……劇薬だ! 更なる劇薬を脳内にブチ込むしかねぇ……ッ!!)

 

 

幼稚園の打算、初等部入学の寄生虫マインド――それらですらまだ甘かったのだ。

俺の十五年間の人生には、己の精神を内側からズタズタに引き裂き、羞恥と罪悪感で腹の痛みを強制相殺できる猛毒の記憶が、まだまだ底をつかずに眠っている。

俺は痛む頭蓋骨を軋ませながら、記憶の地層をさらに深く掘り進めた。

時は――私立陽神学園初等部、三年生の春。

あの、底知れぬ微笑みを湛えた「天敵」と遭遇した、運命の日へと。

 

 

 

 

 

 

 

時は今から約六年半前。

初等部三年生に進級したばかりの、爽やかな五月の午後。

 

陽神学園の広大な敷地の一角、薔薇が咲き誇る英国風ガゼボ(東屋)のテラス席に、俺たちはいた。

すでに八雲美琴の隣には、護衛役の天草凛と、幼馴染の高橋恵が自然な形で侍り、周囲の上流階級の生徒たちを近づけさせない鉄壁の布陣を築いていた。

 

そこへ、春の陽だまりをそのまま擬人化したような、一人の少女がゆっくりと歩み寄ってきたのだ。

 

 

「初めまして~、お嬢様~。私は~、三枝薫と申します~」

 

 

ふわりと揺れる、栗色の柔らかなウェーブヘア。

陽光を透かす琥珀色の丸い瞳には、一切の棘を感じさせない穏やかな光が宿り、首を小さく傾げて微笑むその姿は、春風に揺れる名もなき野の花のような可憐さを放っていた。

語尾をゆったりと引き伸ばす独特ののんびりとした口調。

陽神学園の伝統ある濃紺の制服を上品に着こなし、胸元で組まれた両手は白く小さく、どこからどう見ても「おっとりとして争い事を好まぬ良家のお嬢様」そのものであった。

 

三枝薫。

彼女の素性は、この陽神学園の中でも極めて特殊で、極めて強固なものであった。

父親は、日本最大のメガバンクや八雲グループ全体の法務を一手に引き受ける辣腕の最高顧問弁護士。母親は、帝都大学で法学部の教授を務める当代随一の碩学。

法曹界と学術界の頂点に君臨する両親の血を完璧に受け継いだ、生まれついてのエリート――才媛中の才媛であった。

 

そんな大物の令嬢からの丁寧な挨拶に対し、美琴はスッと背筋を伸ばし、名門の跡取りとしての完璧なカーテシーを返した。

 

 

「初めまして、三枝さん」

 

 

鈴の音のように澄んだ、凛とした声。

その立ち居振る舞いは、幼稚園の頃に砂場の隅で泣きじゃくっていた弱々しい幼女の面影など微塵も感じさせない、八雲の令嬢としての威厳に満ちていた。

 

脳内の本腸寺で、信長が目を細めて薫を見つめる。

 

 

『……これはまた』

 

 

俺は激痛の合間に、懐かしさを噛み締めた。

この頃から、美琴の心の中にも「八雲の令嬢」としての自覚と責任感が芽生え始めていたのだ。

自分の発言一つ、行動一つが八雲の名に影響を与える。そう教え込まれ、周囲の期待に応えようと、彼女は幼いながらに懸命に背伸びをしていた。

 

ちょっと、背伸びする美琴も可愛いぜ。

……まあ、この頃の美琴は頑張りすぎて周囲に気を遣いすぎ、パンク寸前になっていた所があったから、俺が裏でくだらない馬鹿をやらかしては無理やり笑わせて息抜きさせていたのだが。

 

すると、信長が紫煙を吐き出しながら、ジト目で俺を見下ろしてきた。

 

 

『……そういうところだぞ、猛』

 

(どういうところだよ、信長!? 俺はただ幼馴染の健康を気遣っただけだろ!)

 

 

俺の脳内ツッコミを他所に、記憶の中の少女たちの社交は続いていた。

 

 

「ふふふ~、薫でいいですよ~。堅苦しいのは苦手ですから~」

 

 

薫が愛らしく目を細める。

 

「そう、だったら私も美琴って呼んで、薫ちゃん」

 

 

美琴もホッとしたように柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

「かしこまりました~、美琴さま~」

 

 

薫はふんわりと微笑み、深々と頭を下げる。

そこへ、恵と凛がそれぞれの流儀で挨拶を交わした。

 

 

「よろしくね、薫。私も恵って呼んで」

 

 

恵は気風の良い笑顔で片手を軽く挙げた。

 

 

「私も、凛と呼んでくれ。共に美琴様をお支えしよう」

 

 

凛は腰に差した竹刀袋を背負い直し、武人らしく凛然と頭を下げる。

 

 

「はい~、恵ちゃん、凛ちゃん~」

 

 

薫は二人に対しても、一切の裏表を感じさせない聖母のような笑顔で応じた。

 

だが。

その麗しき名門子女たちの親睦の輪を、テラスの柱の影からじっと眺めていた少年がいた。

小学三年生の九条猛である。

 

俺はその光景を、息を殺して凝視していた。

……ああ、この時の俺は。

目の前の少女、三枝薫を見た瞬間に――全身の毛穴が逆流するかと思うほどの冷水を浴びせられ、完全に氷結していたのだ。

まるで。

草むらの影で、獲物を丸呑みにしようと舌をチロチロと出し入れしている猛毒のヘビに出会ってしまった、哀れな小動物のように。

 

そう。

目の前でおっとりと優雅に微笑んでいるこの少女は――俺の『天敵』だ。

出会ったそのコンマ一秒の直感で悟った。

そしてその直感は、現在に至るまで何一つ間違っていなかったのだ。

 

脳内の信長が、深く嘆息して突っ込んできた。

 

 

『その鋭すぎる危機察知能力を、何故便意に活かせなかったのやら……』

 

(うっさい! 俺も今、心の底からそう思っとるわボケェ!!)

 

 

テラスの爽やかな風が吹き抜ける中、ふんわりとした視線が、柱の影に隠れようとしていた俺の方向へとスッと向けられた。

 

 

「そっちの男の子は~?」

 

 

薫が首を傾げ、小鳥がさえずるような愛らしい声で尋ねる。

すると、隣の恵が待ってましたとばかりに、これ以上ないほど小馬鹿にした顔で親指を俺に向けた。

 

 

「この間抜け面は、九条猛という哀れな生き物よ」

 

(おいこら恵ぇぇぇぇぇぇッッ!!)

 

 

九条猛は哀れな生き物の代名詞か!

どんな紹介の仕方だ! 名誉毀損で訴えるぞ親の弁護士に!

……まあ、現在教室でう○こに悶絶して脂汗を垂らしている俺の姿は、哀れというか滑稽の極みだがな。

 

脳内の信長が、深く重々しく頷いた。

 

 

『然り』

 

(信長も頷くんじゃねええええええええッッ!!)

 

 

俺が脳内で二重の罵声に悶絶していると、薫はにこやかに、天使のような満面の笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。

 

 

 

「そう~、猛ちゃん、ね~」

 

「ひっ……!」

 

 

 

九歳の九条猛の喉から、みっともない悲鳴が漏れた。

この時の薫は――笑っていた。口角は完璧に上がり、頬には愛らしい笑みが浮かんでいた。

だが、その琥珀色の瞳の奥底は、完全なる絶対零度。

冷酷で、怜悧で、他者の感情や弱みをミリ単位でスキャンして解体するかのような、紛れもない『猛毒のヘビの目』をしていたのだ。

その瞳孔の奥に宿る氷の刃を、俺は今でも鮮明に思い出すことができる。

 

 

「んふふ~ん、素敵な男の子ですね~」

 

 

薫はわざとらしく両手を胸の前で合わせた。

すると、美琴がどこか誇らしげに、ポッと頬を染めて照れ笑いを浮かべたのだ。

 

 

「う、うん……! 猛はね、いつも私を助けてくれるの……」

 

「そうですか~。美琴様の、王子様でしょうか~?」

 

「えっ……あ、その、えっと……っ!」

 

 

ボッ! と顔を林檎のように真っ赤に沸騰させ、両手で顔を覆ってジタバタする美琴。

普段は名門の令嬢として凛と振る舞っている彼女が、俺のことを「王子様」と冷やかされて激しく動揺している。

くそっ……!

本来なら、この悶絶するほど可愛いロリ美琴の赤面リアクションだけで、白飯を大盛りで三杯はおかわりできる至高の眼福シーンだ!

だが、この時の俺には、そんな萌えを噛み締める余裕など微塵も存在しなかった。

 

小学三年生のカスガキ猛の内面は、前代未聞の恐怖でガタガタと震え上がっていたのだ。

 

 

(な、なんだ……なんだこの女はッ!?)

(恵の暴力的な圧とも、凛の研ぎ澄まされた殺気とも違う……もっと底の知れない、どこか陰湿でドロドロとした暗黒の空気がする!)

(なんて嫌なヤツなんだッ!! 生理的に受け付けねえ!!)

 

 

……。

十五歳の俺は、机にしがみつきながら自らの過去の思考に冷徹なツッコミを入れた。

鏡を見ろ、過去の俺よ。

お前の感じているその猛烈な嫌悪感は、間違いなく『同族嫌悪』だ。

外面を取り繕い、計算高く立ち回り、他者の心理を誘導しようとする――その根底にある詐欺師的メンタリティが、薫と完全に同系統だったからこそ、本能が警報を鳴らしていたのだ。

いや、三枝薫は名門一族の将来と八雲への忠誠を幼少から背負わされている分、自分の我欲と逆玉ハーレム打算百パーセントで動いていた俺なんかとは比較にすらならんほど高潔だがな!

 

すると、脳内の信長が、腕を組んで深く唸り声を上げた。

 

 

『……猿と狸をミキサーで混ぜ合わせたような空気を、そこの幼子から感じるのう』

 

(猿と狸……!?)

 

『うむ。秀吉(猿)の持つ腹黒さと、家康(狸)の持つ陰湿で執念深い忍耐力……その二つが、あの可憐な少女の皮膜の下で渦を巻いておるわ。猛よ、あれは手強いぞ。油断すれば骨までしゃぶられるぞ』

 

 

戦国の覇王に「秀吉と家康のハイブリッド」とまで警戒される小学三年生女子。

 

 

(やめろ信長! こいつ、こう見えて割と乙女で繊細な所もあるんだぞ!)

 

 

記憶の中では、美琴の照れる姿を見た恵が、やれやれと肩を竦めていた。

 

 

「こいつが王子様って柄じゃないわよ。……まあ、最近は少しはマシになってきたけどね」

 

 

昔のように泥団子を押し付けてくるだけのバカではなくなった、と恵なりの微かな評価。

 

 

「うむ。まだまだ未熟な男子だ。美琴様にふさわしい男となるよう、この姉が責任を持って鍛え上げねばならん」

 

 

凛が腕を組み、保護者面で力強く頷く。

 

その二人の様子を、薫は琥珀色の瞳を細めて静かに観察していた。

そして――。

 

 

「あらあら~?」

 

 

薫は誰にも聞こえないような微小な声で、ポツリと呟いたのだ。

 

 

「……予想以上ね」

 

 

その呟きは、普段の間延びしたふんわりボイスとは完全に異なる、冷徹極まりない知性の刃を孕んでいた。

何故か、テラスの柱の影にいた俺の耳にだけは、その声がはっきりと、氷水を注ぎ込まれるように鮮明に届いたのだ。

 

薫はスッと視線を戻すと、花が咲くような満面の笑みで俺へと向き直った。

 

 

「んふふ~、猛ちゃ~ん」

 

「な、なに……?」

 

「ちょっと、私と二人っきりでお話しましょうか~?」

 

「え、や――」

 

 

嫌だ、と喉まで出かかった瞬間。

薫は琥珀色の瞳の奥から全ての感情を消し去り、絶対零度の無機質な眼光で、俺の眉間をナイフのように貫いたのだ。

 

 

(ヒイイイイイイイイイイイイイッッ!?!?)

 

 

心臓が縮み上がり、脳内で盛大にお漏らし(精神的な意味で)を撒き散らすカスガキ九条猛。

ザマァ見ろwww

過去の自分が恐怖で失禁しかけている光景を見て、現在の俺は快哉を叫んだ。

 

脳内の信長が、呆れ果てて吐き捨てた。

 

 

『……過去の己の無様な悲鳴を見て、ここまで心底喜べる奴など、古今東西お前だけだろうよ』

 

 

いいんだよ信長!

いいぞロリ薫、もっとそのクソガキ猛を徹底的に分からせてやれ! 締め上げろ!

 

 

「行こ~、猛ちゃん」

 

 

薫は有無を言わせぬ力で俺の手首を掴み、テラスの奥へと歩き出した。

細い指先だが、逃げ場を完全に封じる的確なツボを押さえられている。

 

 

「た、助――」

 

 

美琴が異変を察知して、慌てて立ち上がろうとした。

 

 

「た、猛……!?」

 

 

だが、その美琴の肩を、恵がポンと叩いて押し留めた。

 

 

「いいじゃないの美琴。薫も猛と仲良くなりたいのよ。……ねえ、猛?」

 

 

恵の口元が、意地悪そうにニヤリと吊り上がっていた。

このアマ……! 絶対に薫の放っているヤバい空気に気づいた上で、俺が締め上げられるのを面白がって見逃しやがったな!

 

さらに凛に至っては、腕を組んで感極まったように頷いていた。

 

 

「うむ。我が弟も、なかなかに罪な男子よ。転校初日の令嬢にまで見初められるとはな」

 

 

おい凛!

最初の出会いの時のように、薫の本性も見抜いてみろよ!

なんで肝心な時に限って節穴になってんだよお前はーッ!!

 

こうして、俺は誰からの救援も得られぬまま、薔薇の生垣に囲まれた完全な死角――人通りのないガゼボの裏手へと連行されたのだ。

 

 

「な、なあ……なんの用だよ……」

 

 

九歳の俺が後退りし、背中を生垣にぶつける。

すると、薫は周囲に誰もいないことを冷徹な視線で確認した後、スッと表情を消した。

ふんわりとした甘ったるいオーラが、煙のように霧散する。

薫は無音の足運びで俺の至近距離まで詰め寄ると、耳元に冷たい唇を寄せ、氷柱のように研ぎ澄まされたドスの利いた声音で囁いたのだ。

 

 

「――美琴様を利用するのは勝手だけど、泣かせたら絶対に承知しないわよ。……九条猛」

 

 

背筋を突き抜ける悪寒。

九歳の少女の放つ空気ではない。完全に、法廷で敵対証人を完膚なきまでに追い詰める冷酷な検察官のそれだ。

 

しかし。

その絶対零度の脅迫を受けた瞬間――九歳の九条猛の頭から、先ほどまでの恐怖がスッと消え失せた。

代わりに湧き上がってきたのは、妙な『居心地の良さ』と、拍子抜けしたような安堵感であった。

 

 

「テメエ……それが本性か!」

 

 

俺が生垣に寄りかかったまま睨み返すと、薫はフッと嘲笑を浮かべ、細い顎をツンと上げた。

 

 

「猫をかぶっているのは、お互い様でしょう? ……まあ、貴方は皮が破けて中身の卑しさがダダ漏れになっているけれどね」

 

 

クスクスと、意地の悪い笑みを漏らす薫。

 

 

「どう? 驚いて声も出ないかしら?」

 

 

相手を精神的に屈服させ、支配下に置いたと確信した者の優越感。

だが、俺から返ってきた言葉は、薫のあらゆる計算と予測を粉々に打ち砕くものであった。

 

 

「いや……しっくり来る」

 

「……え?」

 

 

薫の瞳が、驚きに微かに見開かれた。

 

俺は肩を竦め、心底ホッとしたように息を吐き出したのだ。

 

 

「ハッキリ言って、今のお前の方が百倍いい」

 

「……は?」

 

 

薫は完全に虚を突かれたように、鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔で固まった。

名門の才媛が見せるはずのない、あまりにも無防備な空白の表情。

なんであんな顔をしたのか、十五歳になった今の俺でもよく分からない。

だが、当時の俺は、ただただ素直な本音を口にしただけだったのだ。

 

 

「正直言って、さっきまでの『ふふふ~』とか言ってるお前、気色悪くて反吐が出そうだったんだよ。でも、今のトゲトゲして腹黒いお前の方が、ずっと分かりやすくて人間味がある。俺は、今の三枝薫の方がずっと好きだな」

 

 

これは本心だ。

そして、現在に至るまでも何一つ変わっていない。

あいつは、他人の前では完璧におしとやかで、のんびりとした深窓の令嬢を演じている。

だが、俺の前でだけは、遠慮会釈のない毒舌を吐き散らし、腹黒い陰謀や冷徹な打算を剥き出しにしてくる。

どちらも三枝薫という人間に違いはないのだが――俺にとっては、俺にだけ見せてくれるそのドス黒い素顔の方が、遥かに信頼できて、遥かに愛嬌があると思えるのだ。

 

沈黙が流れた。

薫は頬をわずかに赤らめ、動揺を押し隠すようにフイッと顔を背けた。

そして、小さく息を吸い込むと、震える唇で呟いたのだ。

 

 

「……なるほどね」

 

「何がだよ?」

 

「なんでもないわ。ただ……どうして美琴様や恵ちゃんが、貴方みたいな男を傍に置いているのか……貴方が『特別』な理由が、少しだけ分かった気がしただけよ」

 

「はあ?」

 

 

訳が分からず首を傾げる俺。

その瞬間――脳内の本腸寺から、信長の戦慄に満ちた絶叫が木霊した。

 

 

『こ、こやつ……ッ!女の急所を真正面から無自覚に抉り抜いておるぞ……ッッ!!』

 

(急所ってなんやねん急所って!? 俺はただ本音の感想を言っただけだろ!)

 

 

薫は咳払いを一つして平静を取り戻すと、再び瞳に知的な輝きを宿し、不敵な笑みを浮かべて俺を見下ろしてきた。

 

 

「本当に、自覚が無いのね。……まあ、本当に特別な人間というのは、自分が特別だという自覚すら持たないものなのでしょうけれど」

 

「だから何言ってんだよ?」

 

「何でもないわ、猛」

 

 

薫はスッと右手を差し出し、俺の胸元を人差し指でトンと突いた。

 

 

「これからは、私が貴方を教育してあげる」

 

「は……?」

 

「美琴様の隣に立っても恥ずかしくないだけの知性と教養を、この私が徹底的に叩き込んであげるわ。感謝なさい」

 

 

――それが、三枝薫との出会いであり、天草凛という武芸の師匠(義姉)の他に、三枝薫という頭脳の家庭教師が俺の人生に就任した瞬間であった。

 

それからの日々は、まさに知的な拷問の連続だった。

学園の成績上位を常にキープできているのは間違いなく薫のスパルタ指導のおかげであり、そこには骨の髄まで感謝している。

だがよぉ!

どうして俺に、マキャベリの『君主論』を原書で読ませたり、国際金融資本の資金移動フローや、会社法における敵対的買収の防衛策なんて高度な政治経済学を叩き込むんだよ!?

俺は普通の一般庶民(バンピー)だぞ!? 将来そんな知識を使う場面なんてあるわけねえだろ!

 

……まあ、結構面白いからいいんだけどな。

時々二人で図書館の隅で読書会を開いては、歴史や哲学の解釈についてああでもないこうでもないと熱い議論を交わす時間は、俺にとってもかけがえのない、最高に楽しい時間だったりする。

 

それに――。

 

俺は、本格的に勉強に力を入れなきゃいけねえんだ。

 

――俺の身体は、激しい運動や武道の鍛錬に耐えられない構造になってしまった。 凛と一緒に木刀を振るうことも、恵と道場で組み手をすることも、もう二度とできない。

 

肉体を使う道は、完全に閉ざされたのだ。 だからこそ、俺は頭を鍛えなきゃいけない。 身体が動かなくなった分、知恵と知識で、あいつらの隣に立ち続けられる男にならなきゃいけないんだ。

 

――と。

そんな少しばかりセンチメンタルな過去の決意に浸っていた、まさにその瞬間。

 

ピクッ、と俺の背筋に冷たい電流が走った。

教室内の空気が、先ほどとはまた異なるベクトルから、ねっとりとした粘度を帯びて絡みついてくる。

 

感じる視線が、さらに増えた。

三枝薫だ。

 

 

俺の席から見て、左斜め前方――窓際寄りの特等席。 冷徹に見据えている美少女。

 

三枝薫。

今となっては、教師陣すら舌戦で論破する『中等部の影の宰相』。

その知性溢れる瞳が、俺の異常な発汗と、微小に震える肉体の輪郭を瞬時にスキャンしていた。

 

視線が合致した瞬間、精神回線(テレパシー)が、自動的に開通する。

 

 

(猛ちゃ~ん~、どうしたの~?)

 

 

脳内に直接響く、語尾を伸ばしたふんわりボイス。

だが、その奥にあるプレッシャーはギロチンの刃の如し。

 

 

(なんでもねえよ、薫)

 

 

俺は机を油圧プレスの力で掴みながら、平静を装って返信した。

 

 

(そう~? ……でも、お腹の古傷が痛む……って感じじゃなさそうね)

 

 

ビクッ! と俺の心臓が跳ねる。

見抜かれている。やはりこいつの観察眼は化け物だ。

 

 

(一体、何をやらかしているのかしら~?)

 

(で、でえじょうぶだ! 本当になんでもねえから!!)

 

 

必死に通信を遮断しようとする俺に対し、薫の瞳がスッと細められ、絶対零度の冷笑が脳内に直接叩き込まれた。

 

 

(貴方の口から出る『大丈夫』ほど、この世で信用できない言葉は存在しないわよ~)

 

(うっ……!)

 

 

お前も恵と同じ事を……!

 

 

(そうね……『大量殺人犯が、法廷で「決して殺意はありませんでした」と無罪を主張する言葉』よりも、貴方の大丈夫の方が遥かに信憑性が低いわ)

 

(それはいくらなんでも酷すぎるだろおおおおおおおッッ!?!?)

 

 

俺の大丈夫は、凶悪犯罪者の供述よりも軽いのかよ!

どんな判決の下し方だ! 弁護士志望の語彙力で人を刺すな!!

 

だが、俺が脳内で猛烈なツッコミを返した、その直後だった。

薫の瞳から、嘲笑の色がふっと消え去った。

代わりにそこに宿ったのは――胸が締め付けられるほどに痛切で、悲痛な光であった。

 

 

(……本当に、無茶だけはしないでね)

 

 

脳裏に直接届く、薫の震える声。

 

 

(もう……あんな思いは、したくないのよ……)

 

 

俺の手を握りしめ、声を殺して泣き続けていた薫の姿が、鮮烈にフラッシュバックする。 普段はどれほど毒舌を吐こうが、冷酷な策謀家を気取ろうが――あいつの根底にあるのは、俺という友を二度と失いたくないという、痛いほどの祈りなのだ。

 

 

(薫……)

 

 

俺の胸の奥が、熱いもので満たされていく。

 

 

(心配かけて、ごめんな……)

 

 

教室の片隅、視線だけで交わされる、麗しき絆の無言劇。

映画のワンシーンのように美しく、しんみりとした感動的な空気が二人の間を包み込んでいく。

 

――だが!

読者よ! そして天上の神仏よ!

思い出してほしい!

 

今の九条猛は、重傷を負って耐えている悲劇のヒーローなどでは断じてない!

激辛カレーと極冷麦茶のコンボによって、自業自得で猛烈に『う○こ』を漏らしかけているだけの、ただの大うつけ者なのだ!

 

もしも!

もしもこの感動的な空気の真っただ中において、「実は今、猛烈にクソが漏れそうなんだ」という真実が薫に露見してみろ!

彼女は間違いなく、世界中の法学と哲学の語彙を総動員して、俺の魂の存在価値をゼロ以下まで論破し、精神を跡形もなくフルボッコの粉微塵に解体するに決まっている!

 

絶対にバレてはいけない!

美琴のためにも、恵のためにも、凛のためにも、そしてこの薫の尊い涙と俺のガラスのメンタルを守るためにも!!

 

すると、脳内の本腸寺で、信長が感嘆の息を深く漏らした。

 

 

『……おお。こういう腹黒で陰湿な女こそ、一度男に惚れ込み、堕ちると何処までも底なしに沈み込むものよのう』

 

 

信長は顎の髭を撫で、心底恐ろしそうに呟く。

 

 

『まさに……女秀吉、女家康よ! 猛、貴様、天下を統べる器の女たちをことごとく手玉に取りおって……!』

 

(手玉に取ってねえよ! 手玉に取られてるのは俺の括約筋じゃい!!)

 

 

薫はなおも心配そうに、しかし授業中ゆえにそれ以上追及することはできず、名残惜しそうに視線を洋書へと戻した。

危機は去った。

だが、油断した俺の体内では、青き魔神・光秀が再び口から火炎を噴き上げようとしていた。

 

大腸が、激しく波打つ。

内容物を出口へと押し流そうとする、生物の逃れられぬ宿命――『蠕動(ぜんどう)運動』。

筋肉が自律的に収縮を繰り返し、青い竜の如き質量を持った汚濁が、怒涛の勢いで直腸の終端部へと雪崩れ込んでくる。

 

 

(やらせるか……ッッ!!)

 

 

俺は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、全身の神経回路を大脳から結腸へと直結させた。

 

 

(止まれ……! 止まれ止まれ止まれッ!!)

(俺の腸よ、今は動くな! 蠕動運動を完全に停止させろッ!!)

 

 

意思の力で自律神経をねじ伏せる。

生物学の常識を、大うつけの意地と初恋の執念で強引に書き換える。

冷たい鉄の意志が、煮えたぎる腸管を絶対零度で凍結させていく。

波打っていた大腸の筋肉が、ギギギ……と音を立てて硬直を始めた。

収縮を力任せに停止させ、内圧の奔流を、強引に腹腔の奥底へと押し戻す。

 

止まった。

大腸の蠕動運動が、完全なる静止の檻へと閉じ込められた。

 

 

「ふ……っ、く……っ!」

 

 

喉の奥から熱い吐息が漏れる。

額から落ちた汗が、ノートの『天正十年』の文字を濡らした。

だが、城門は破られていない。

青き魔神の猛攻をねじ伏せ、俺は再び、不可侵の防衛ラインを死守してみせたのだ。

 

男の尊厳を賭けた最終籠城戦は、いよいよクライマックスの激震へと突入しようとしていた――!




薫ちゃんにとってクリティカルオブクリティカルでした。
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