過去編・第一章 裏路地の暮らし
「お前、いつまで俺たちの金で飯を食うつもりだ?」
親父がそう言ったのは、夕飯の時だった。
俺は目の前に置かれた薄いスープを見つめながら、首を傾げた。
「……は?」
「聞こえなかったのか? いつまで俺たちに食わせてもらうつもりだって聞いてんだよ」
親父は苛立った様子で机を叩いた。
嫌な予感がした。
昔からそうだ。親父がこういう顔をしている時は、大抵ろくなことにならない。
「……俺だって働いてるだろ」
今日だって、朝から商人の荷運びを手伝っていた。
大した金にはならなかったが、それでも何もしていないわけじゃない。
稼いだ金は全部親父に渡したし、夕飯だってスープ一杯だけだ。
それなのに。
「ガキの使いみてえな小銭しか持ってこねえくせに、口答えすんじゃねえ!」
拳が飛んできた。
「っ……!」
避ける間もなく頬を殴られ、椅子から転げ落ちる。
口の中に血の味が広がった。
「お前の兄貴は十五でフィクサー見習いだ! 姉貴だって十六で会計の仕事をしてる! それに比べてお前は何だ!」
「……俺だって、そのうち」
「そのうち、そのうちって、そればっかりじゃねえか!」
腹を蹴られた。
「ぐっ……!」
咄嗟に身体を丸め、頭を両腕で覆う。
こういう時は逆らわない方がいい。
下手に口を開けば、余計に殴られる。
昔からそうだった。
金がなければ殴られる。
飯を食いすぎれば殴られる。
仕事で失敗すれば当然殴られる。
何もしていなくても、親父の機嫌が悪ければ殴られる。
最初の頃は、どうして殴られるのか分からなかった。
今でも分からねえことは多い。
ただ、親父が怒り出す前の雰囲気だけは覚えた。
もっとも、分かったところで逃げられるとは限らねえんだけど。
台所の方に目を向ける。
母親がいた。
俺と一瞬だけ目が合ったが、すぐに顔を背けた。
……まあ、そうだろうな。
助けてくれるとは思ってなかった。
「もういい。出ていけ」
「……え?」
思わず顔を上げた。
「聞こえただろ。もうお前の食い扶持なんざねえんだよ」
「いや、待てよ! 俺、まだ十二だぞ!?」
「だから何だ! お前の兄貴も姉貴も自分で稼いでんだろうが!」
親父は俺の襟首を掴み、玄関まで引きずっていった。
「ちょっ、待てって! せめて荷物くらい――」
「うるせえ!」
そのまま外へ放り出された。
背中を地面に打ちつける。
「いってえ……!」
起き上がるより先に、家の扉が閉まった。
続いて、鍵のかかる音がした。
「……おい」
返事はない。
「おい! 開けろよ!」
扉を何度も叩いた。
「分かったよ! 出ていくから! せめて俺の荷物くらい返せって!」
しばらくすると、二階の窓が開いた。
小さな袋が投げ捨てられる。
中には着替えが一組と、底のすり減った靴が入っていた。
それだけだった。
「……金は?」
俺が今日稼いできた金。
それくらい返してくれたっていいだろう。
「おい! 俺の金はどうしたんだよ!」
窓が閉まった。
「……くそったれ」
もう一度、扉を見る。
開く気配はなかった。
俺は袋を拾い上げ、肩に担いだ。
腹は痛むし、頬も腫れている。
何より腹が減っていた。
夕飯のスープも、結局ほとんど飲めなかった。
「……飯くらい食わせろよ」
小さく悪態をつきながら、俺は歩き始めた。
こうして、俺には帰る家がなくなった。
俺には兄貴と姉ちゃんがいる。
兄貴は十五歳。
今は小さなフィクサー事務所で見習いとして働いている。
昔から勘の鋭い所があった。
特に、危ねえ奴や関わっちゃいけねえ仕事を見分けるのが上手かった。
以前、兄貴と一緒に歩いていた時のことだ。
「おい、そっちには行くな」
突然、兄貴が俺の襟首を掴んだ。
「ぐえっ! 何すんだよ!」
「その路地には入るな」
「なんでだよ。こっちの方が近いだろ」
「嫌な感じがする」
「……それだけか?」
「ああ」
「何だよそれ。理由になってねえじゃん」
「理由なんざそれで十分だ。死にたくなきゃ言うこと聞け」
結局、俺は兄貴に引っ張られて遠回りする羽目になった。
その日の夕方、例の路地で死体が三つ見つかった。
何があったのかは知らねえ。
けど、兄貴の言うことを聞いて正解だったのは確かだ。
俺にも危ねえ雰囲気くらいは何となく分かる。
相手の目つきや声の調子、周囲の空気がおかしいことには気づける。
でも、兄貴みたいにはいかねえ。
危ないことは分かっても、どのくらい危ないのかまでは分からないんだ。
殴られて金を取られる程度なのか、それとも目が合っただけで殺されるような相手なのか。
そこを見誤る。
兄貴には何度も怒られた。
「お前な、危ねえと思ったんなら近づくなよ」
「いや、でも何とかなると思って……」
「何とかならなかったら死んでんだぞ」
「……分かってるよ」
「分かってねえから言ってんだろうが」
そんなことを言われるたびに、俺は不満だった。
だって、危ねえからって何でも逃げてたら、仕事にならねえじゃねえか。
……まあ、それが危ない考えなんだと、兄貴にはよく言われていたけど。
姉ちゃんは十六歳。
兄貴と同じフィクサー事務所で、会計の仕事をしている。
姉ちゃんは数字に強かった。
金の計算も、帳簿の整理も、驚くほど速い。
俺が何分もかけて計算するようなものを、姉ちゃんは少し考えただけで答えてしまう。
「ねえ、これ全部でいくらになると思う?」
そう言って、よく俺に計算をさせてきた。
「ええと……百二十眼?」
「八十四眼よ」
「……惜しいな」
「どこが惜しいのよ!」
そう言って、頭を小突かれるのがお決まりだった。
別に、俺だって頭が悪いわけじゃねえと思う。
一度通った道や人の顔、誰が何を言っていたかなんかは結構覚えている。
使い走りで届け先を間違えたことも、ほとんどない。
ただ、数字だけはどうにも苦手だった。
兄貴みたいに危険を正確に見抜けるわけでもない。
姉ちゃんみたいに計算ができるわけでもない。
二人の能力を中途半端に分けてもらったようなもんだ。
……まあ、別にそれが嫌だったわけじゃねえ。
荷物運びもできるし、使い走りもできる。
掃除だって頼まれればやる。
何でも少しずつできるんだから、それでいいだろ。
そんなふうに考えていた。
家を追い出された最初の一日は、何とかなった。
以前から顔を知っている商人の荷運びを手伝い、小銭をもらった。
その金で安いパンを買った。
二日目も何とかなった。
フィクサー事務所へ書類を届ける仕事をもらった。
三日目は駄目だった。
朝から晩まで仕事を探したが、何一つ見つからなかった。
結局、その日は何も食えなかった。
そして四日目。
「……腹減った」
俺は路地裏の壁にもたれながら、通りを行き交う連中を眺めていた。
昨日の昼から何も食っていない。
いや、一昨日の夜からだったか?
……もう覚えてねえ。
最初のうちは、腹の虫がぐうぐうとうるさかった。
けど、今はそれすら鳴らない。
胃の辺りがじくじくと痛んで、時々吐き気がするだけだ。
俺の身体は、同い年のガキと比べても小さかった。
腕は細く、肋骨も浮き出ている。
着ている服は何度も繕ったせいで継ぎ接ぎだらけで、元がどんな服だったのかも分からない。
別に、生まれつき身体が弱いわけじゃねえ。
単純に、食う物が足りねえんだ。
「……仕事探すか」
いつまでも座っていたところで、腹が膨れるわけじゃない。
俺は壁に手をつき、立ち上がった。
一瞬、目の前が暗くなる。
「うおっ……」
慌てて壁にしがみつく。
……まずいな。
今日こそ何か食わねえと。
そう思いながら、俺は通りへ歩き出した。
「おっちゃん、何か仕事ねえか?」
「ねえよ。あっち行け」
「荷物運びでも掃除でもいいからさ。何かねえの?」
「しつけえぞ。営業の邪魔だ」
「……ちぇっ」
追い払われた。
別の店にも行ったが、結果は同じだった。
ガキに任せる仕事なんて、そうそうない。
特に俺みたいに細くて小さい奴には、重い荷物すら運べないと思われる。
実際、あんまり重い物は持てねえんだけど。
かといって、頭を使う仕事ができるわけでもない。
帳簿の整理なんかを頼まれたら、きっと姉ちゃんみたいにはできないだろう。
「……何かねえかな」
歩きながら、店先に貼り出された仕事の募集を眺める。
用心棒募集。
荷物の護衛。
借金の取り立て。
失踪者の捜索。
どれも俺には無理そうだった。
中には随分と報酬の高い仕事もあったが、そういうものに限って内容が怪しかった。
兄貴なら、一目見ただけで危険だと分かるのかもしれない。
俺にも怪しいとは分かる。
けど、どのくらい危ないのかまでは分からなかった。
「……やめとくか」
腹は減っていたが、死んだら元も子もない。
俺は募集から目を離した。
それから何件か店を回り、昼を過ぎた頃。
ようやく仕事が見つかった。
小さなフィクサー事務所の使い走りだ。
「おい、ガキ」
受付にいた男が俺を呼び止めた。
「仕事を探してるんだろ?」
「おう。何かあるのか?」
「この封筒を届けろ」
男は一通の封筒を机に置いた。
「場所は?」
「ここから三本先の通りにある雑貨屋だ。店主に直接渡せ」
「三本先……ああ、あそこか。看板の文字が半分消えてる店だろ?」
「……知ってるのか?」
「前に荷物運んだことあるからな」
男は少しだけ感心したように頷いた。
「なら話が早い。報酬は三百眼だ」
「……安くねえか?」
「嫌なら他の奴に頼む」
「いや、やる! やるから!」
慌てて封筒を受け取る。
「中身は見るな。落とすな。誰かに話しかけられても渡すな」
「分かってるって」
「それと、裏の近道は使うなよ」
その言葉に、少し引っかかった。
裏の近道。
確かにあそこは人通りが少ない。
危ねえ連中がたむろしていることもある。
でも、別にいつも危険なわけじゃない。
前に通った時は何もなかったし、近道なら時間も半分くらいで済む。
「……何かいるのか?」
俺が聞くと、男は面倒くさそうに手を振った。
「余計なことは考えず、表通りを使え。それだけだ」
「……へいへい」
事務所を出た俺は、しばらく道の分かれ目で考えた。
近道を使えば早く戻れる。
そうすりゃ、もう一件くらい仕事をもらえるかもしれない。
けど……。
『危ねえと思ったんなら近づくなよ』
兄貴の声が頭に浮かんだ。
「……しゃあねえな」
結局、俺は表通りを選んだ。
遠回りにはなったが、封筒は無事に届けられた。
仕事を終えて事務所に戻ると、受付の男が妙な顔をした。
「……お前、ちゃんと戻ってきたのか」
「は? そりゃ戻るだろ。金もらってねえし」
「……ああ、そうだな」
男は小さく笑った。
「ほら、報酬だ」
机に硬貨が置かれた。
俺はそれを受け取り、一枚ずつ数える。
「……あれ?」
「どうした?」
「三百眼って言ってなかったか?」
「ああ。手数料を引いた」
「手数料?」
「紹介料と事務所の取り分だ。お前への支払いは二百四十眼になる」
「……そんな話、聞いてねえぞ」
「契約書には書いてある」
男は机の上の紙を指で叩いた。
「読んでみろ」
俺は紙を覗き込んだ。
小さな文字で、細かいことがびっしり書かれている。
一通り目を通したが、どれが手数料の話なのかよく分からなかった。
「……これか?」
俺が指差すと、男は笑った。
「そうだ。ちゃんと書いてあるだろ?」
確かに、報酬から何かを差し引くと書いてある。
けど、いくら引かれるのかまでは分からなかった。
「……ちぇっ。最初に言えよな」
「次からは契約書をよく読めよ、ガキ」
男はそれだけ言って、俺を追い払った。
事務所を出た俺は、手の中の硬貨を見つめた。
「……二百四十眼か」
三百眼もらえると思っていたのに。
……まあ、何ももらえねえよりはましか。
俺は近くの屋台へ向かった。
「おっちゃん、一番安いパンくれ」
「これか?」
「ああ、それ」
渡されたのは、硬くて味の薄いパンだった。
焼きたてでもなければ、特別美味いわけでもない。
それでも、口に入れた瞬間、思わず笑みがこぼれた。
「……うめえ」
昨日は何も食っていない。
今朝だって水を飲んだだけだった。
そんな腹には、硬いパンでも十分なご馳走だった。
一口ずつ、ゆっくり噛む。
明日も食えるとは限らない。
だから、少しくらい残しておこうと思った。
半分食べたところで手を止める。
残りを眺めた。
「…………」
腹が鳴った。
「……もうちょっとだけ」
一口。
また一口。
気がつけば、全部食っていた。
「……あーあ」
手の中には何も残っていない。
明日の分に取っておくつもりだったのに。
……まあ、仕方ねえか。
明日は明日で、また仕事を探せばいい。
そう思うことにした。
日が暮れる頃、俺は寝る場所へ向かっていた。
この辺りは、夜になると危ねえ連中が出てくる。
フィクサーを雇う金なんて、もちろんない。
襲われたら自分で何とかするしかなかった。
とはいえ、まともに戦ったところで勝てる相手なんてほとんどいない。
だから、見つからない場所で寝る。
それが一番だった。
「……ここだな」
俺が向かったのは、使われなくなった古い建物だった。
壁にはひびが入り、窓ガラスもほとんど割れている。
以前は何かの倉庫だったらしいが、今は誰も使っていない。
少なくとも、俺が知っている限りでは。
建物の中を見ると隅に小さな部屋があった。
扉は一応閉まるが、鍵は壊れている。
それでも、路上で寝るよりはましだった。
何しろ、都市の裏路地には掃除屋がいる。
午前三時十三分から四時三十四分。
裏路地の夜。
その時間に外をうろつくのは、自殺するようなもんだ。
兄貴からも、何度も言われていた。
『いいか。掃除屋だけは絶対に相手にするな』
『何でだよ?』
『お前みてえなガキじゃ、見つかった時点で終わりだ』
『兄貴なら勝てるのか?』
『馬鹿言え。俺だって逃げるわ』
兄貴がそう言うくらいだ。
相当危ねえ連中なんだろう。
俺だって、そんな奴らと戦おうなんて思わねえ。
ただ、この部屋が本当に安全なのかと聞かれれば、正直分からなかった。
鍵は壊れているし、壁だって頑丈そうには見えない。
……まあ、今まで何もなかったから大丈夫だろ。
俺はそう考えて、部屋に入った。
「……さみい」
袋を枕代わりにして、床に横になる。
地面は硬く、冷たかった。
身体を丸めても、指先が冷える。
家にいた頃は、少なくとも屋根と壁があった。
布団も、ぼろかったが一応はあった。
今になって思えば、あれだけでも随分ましだったのかもしれない。
……いや。
だからって、あの家に戻りたいとは思わねえけど。
遠くから銃声が聞こえた。
一発。
少し間を置いて、さらに二発。
その後、誰かの悲鳴が響いた。
「……近くねえよな」
俺は耳を澄ませた。
多分、二本か三本向こうの通りだ。
いや、もっと近いかもしれない。
兄貴なら音だけで、どのくらい離れているのか分かるんだろうか。
俺には分からなかった。
しばらくして、足音が聞こえてきた。
複数人だ。
俺は慌てて身体を起こし、部屋の奥へ移動した。
男たちの声が近づいてくる。
「くそっ、逃がしたぞ」
「まだ近くにいるはずだ。探せ」
「見つけたらどうする?」
「決まってんだろ」
下卑た笑い声が響く。
まずい。
何があったのかは知らねえが、少なくとも関わっていい連中じゃない。
俺は膝を抱え、できるだけ身体を小さくした。
足音が近づく。
一人。
二人。
……三人か?
もっといるかもしれない。
「おい、そっちは?」
「何もいねえよ」
「ちゃんと探せ。まだ遠くには行ってねえはずだ」
声がすぐ近くで聞こえた。
心臓が跳ねる。
頼む。
こっちには来るな。
俺は口を手で押さえ、息を殺した。
足音が止まる。
一瞬、誰かが部屋の方を見たような気がした。
身体が強張る。
けど、次の瞬間。
「おい! あっちに何かいたぞ!」
遠くから声が上がった。
「行くぞ!」
男たちは慌ただしく走り去っていった。
「…………」
すぐには動けなかった。
足音が完全に聞こえなくなってから、ようやく息を吐く。
「……はぁぁ」
全身から力が抜けた。
危なかった。
もし見つかっていたら、どうなっていたか分からない。
俺はもう一度、壁にもたれた。
「……兄貴なら、もっといい場所見つけるんだろうな」
そんなことを考える。
兄貴は今頃、事務所で仕事をしているんだろうか。
姉ちゃんは帳簿をつけているのかもしれない。
二人に頼れば、少しくらい飯を食わせてもらえるかもしれない。
何なら、事務所の隅で寝かせてもらえるかもしれない。
実際、兄貴も姉ちゃんも、俺には結構優しかった。
兄貴は仕事の帰りに余った飯を分けてくれることがあったし、姉ちゃんは文字や計算を教えてくれた。
だから、家を追い出されたと知ったら、きっと助けてくれると思う。
……けど。
兄貴だって、まだ見習いだ。
姉ちゃんだって、金を自由に使えるわけじゃない。
二人とも、ようやく自分たちの生活を手に入れたばかりなんだ。
そこに俺が転がり込んだら、どうなる?
また、誰かの食い扶持を潰すだけじゃねえか。
「……んなわけねえだろ」
小さく呟く。
俺だって働ける。
荷物運びも、掃除も、使い走りもできる。
覚えるのは得意だし、仕事だって一度教えてもらえれば大体はできる。
……たまに失敗するけど。
それでも、何もできないわけじゃない。
「明日は……もうちょっと稼げる仕事、探すか」
誰に言うでもなく呟いた。
腹はまだ減っていた。
身体は冷え切っているし、頬には親父に殴られた時の痛みが残っている。
明日、仕事が見つかる保証もない。
運が悪ければ、今日みたいに危ねえ連中に見つかるかもしれない。
それでも、生きていくしかなかった。
俺は十二歳。
フィクサーでもなければ、まともに武器を扱ったことだってない。
力も弱い。
身体も小さい。
兄貴みたいに勘が鋭いわけでも、姉ちゃんみたいに計算が得意なわけでもない。
何でも少しずつできるだけの、半端なガキだ。
けど。
「……死んでたまるかよ」
俺は袋を胸元に抱き寄せた。
明日はもっと稼いでやる。
パンだけじゃなく、温かい飯を食ってやる。
それから、まともに寝られる場所も見つける。
いつまでもこんなところで寝てたまるか。
そう考えながら、俺は目を閉じた。
翌朝。
「……んあ?」
誰かが俺の肩を揺すっていた。
目を開けると、見覚えのある男が立っていた。
昨日、使い走りを頼んできたフィクサー事務所の受付の男だった。
「おい、ガキ。こんなところで寝てたのか?」
「……あん?」
「お前、家はどうした?」
「……ねえよ」
「は?」
「追い出されたんだよ。悪いか」
男はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
それから、何かを思いついたように口を開いた。
「おい、お前。仕事が欲しいか?」
「……仕事?」
その言葉を聞いた瞬間、眠気が吹き飛んだ。
「あるのか!?」
「ああ。昨日の仕事より少し危険だが、報酬はいい」
「いくらだ?」
男は指を三本立てた。
「三千眼だ」
「……は?」
思わず聞き返した。
三千眼。
昨日の報酬の十倍以上だ。
それだけあれば、しばらくまともな飯が食える。
もしかしたら、どこかの安宿に泊まれるかもしれない。
「……何すりゃいいんだ?」
「簡単な運び仕事だ。指定された荷物を受け取って、別の場所へ届ける。それだけでいい」
「……それだけで三千眼?」
「ああ」
怪しい。
どう考えても怪しい。
ただの使い走りに、そんな大金を出すわけがない。
兄貴だったら、間違いなく断るだろう。
俺だって、それくらいは分かる。
けど……。
「……危ねえ仕事なんだろ?」
「ああ。多少はな」
「多少って、どのくらいだよ」
「運が悪けりゃ、少し面倒な連中に絡まれるかもしれねえな」
男はそう言って笑った。
「だが、昨日の仕事を問題なくこなしたお前なら大丈夫だろう」
「……そうか?」
「お前、道を覚えるのは得意なんだろ?」
「……まあな」
「なら問題ねえよ。余計なことをせず、言われた場所へ運ぶだけだ」
俺は腕を組んで考えた。
危険な仕事。
それは分かる。
けど、どのくらい危険なのかは分からない。
昨日の近道みたいに、ただ避けておけばいい程度なのか。
それとも、本当に命が危ないのか。
男の話だけじゃ判断できなかった。
……まあ、何とかなるか。
今までだって、危ねえ仕事は何度かやってきた。
それに三千眼だ。
三千眼もあれば、何日分の飯になる?
ええと……。
……まあ、たくさん食えるだろ。
「分かった。やる」
俺が答えると、男は満足そうに笑った。
「そうか。ならついてこい」
「おう」
俺は荷物を肩に担ぎ、男の後を追った。
この時の俺は、少し危険な使い走りを引き受けただけのつもりだった。
今までだって、危ないと思うことは何度もあった。
それでも何とかなってきた。
今回も、きっとそうなる。
そう思っていた。
――この仕事が、俺の人生を大きく変えることになるとも知らずに。