「三千眼、ねえ……」
俺は前を歩く男の背中を追いかけながら、先ほど聞いた報酬を思い返していた。
三千眼。
昨日の仕事では、手数料を引かれて二百四十眼しかもらえなかった。
それが今回は三千眼だ。
十倍以上。
……いや、十倍ってことは二千四百眼だから、もうちょっと多いのか?
まあ、細かいことはいい。
とにかく大金だ。
それだけあれば、しばらく飯には困らない。
安いパンなら相当買えるだろうし、上手く使えば安宿にも泊まれるかもしれない。
……いや、宿はやめとくか。
飯代を残しておかねえと、結局また腹を空かせることになる。
そんなことを考えていると、前を歩いていた男が振り返った。
「おい、ガキ。ちゃんと聞いてるか?」
「……あ? 何が?」
「これからやる仕事の説明だよ」
「悪い、聞いてなかった」
「ったく……」
男は呆れたようにため息をついた。
「いいか。今から倉庫に行って荷物を受け取る。それを指定された場所まで運ぶだけだ」
「昨日と同じじゃねえか」
「ああ。だからお前に頼んだんだよ」
「ふーん……」
ただの使い走り。
それだけで三千眼。
どう考えても怪しい。
けど、報酬が高い理由を聞いたところで、まともに答えてくれるとも思えなかった。
それに、昨日の仕事でこの男が金を払ったのは確かだ。
手数料は引かれたけど。
「なあ、今回は手数料とかねえよな?」
「……何?」
「だから、三千眼って言っておいて、後から色々引いたりしねえよな?」
男は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「はははっ! お前、昨日のことを根に持ってんのか!」
「当たり前だろ! 六十眼も引かれたんだぞ!」
「分かった分かった。今回は成功すりゃ三千眼、全額払ってやる」
「本当だな?」
「ああ」
「約束だからな」
念を押すと、男は面倒くさそうに手を振った。
……まあ、いいか。
今は金が必要だ。
どうせ他に仕事の当てもねえ。
俺は男の後について歩き続けた。
連れてこられたのは、人気のない倉庫街だった。
道の両側には古びた建物が並び、窓のほとんどが鉄板で塞がれている。
時折、荷物を積んだ運搬車が通り過ぎるくらいで、人通りはほとんどなかった。
「……なあ」
「何だ?」
「こんなところに何の用があるんだ?」
「荷物を受け取るって言っただろ」
「いや、それは分かってるけどよ」
俺は周囲を見回した。
何となく、嫌な感じがする。
別に誰かが襲ってきそうだとか、そういうわけじゃない。
ただ、妙に静かだった。
普段なら荷運びをしている連中や、道端で煙草を吸っている奴らがいるはずなのに。
「……ここ、大丈夫なのか?」
「何がだ?」
「いや、何か……」
上手く言葉にできなかった。
兄貴だったら、こういう時に何が危険なのか分かるんだろうか。
俺には分からない。
「怖くなったか?」
男が笑った。
「べ、別に怖くねえよ」
「なら黙ってついてこい」
「……ちぇっ」
男は一軒の倉庫の前で立ち止まった。
扉を三回叩く。
少し間を置いて、中から鍵の外れる音がした。
現れたのは、顔に傷のある大柄な男だった。
「……何だ、そのガキは」
「運び屋だよ」
「こいつが?」
「ああ。昨日試したが、道を覚えるのは早いし、余計なこともしねえ」
傷の男は俺をじろじろと眺めた。
気分が悪い。
「……おい、ガキ」
「何だよ」
「余計なことは聞くな。荷物を運んだら、それで終わりだ」
「分かってるって」
「中身も見るんじゃねえぞ」
「見ねえよ」
二人は顔を見合わせた。
それから傷の男が倉庫の奥へ引っ込み、小さな黒い鞄を持って戻ってきた。
「ほら」
差し出された鞄を受け取る。
思ったより軽い。
片手でも持てそうだった。
表面は黒い革で覆われており、角には金属の補強がついている。
古びているが、安物には見えない。
「……これを運ぶだけか?」
「ああ」
「どこまで?」
男は紙を一枚取り出した。
「ここから南へ二本。次の交差点を東に曲がって、三つ目の路地を抜けろ。その先に古い時計店がある」
「時計店?」
「今はもう営業してねえ。そこの裏口で待っている男に渡せ」
「……南に二本、東に曲がって三つ目の路地。古い時計店の裏口だな?」
「そうだ」
「分かった」
紙を返すと、男は眉を上げた。
「地図はいらねえのか?」
「今ので覚えたからな」
「……ほう」
男は少しだけ感心したようだった。
「ただし、途中で誰かに話しかけられても相手にするな。荷物を渡す相手も間違えるなよ」
「分かってるって」
「あと、もし誰かに追われても、倉庫には戻ってくるな」
「……は?」
思わず聞き返した。
「何でだよ?」
「仕事先に迷惑をかけるなってことだ」
「……ふーん」
妙な話だ。
普通、荷物を狙われたら依頼主のところに逃げ込むもんじゃねえのか?
……いや、俺が知らないだけかもしれない。
「分かったよ」
俺は鞄を抱え直した。
「じゃあ、行ってくる」
「ああ。頼んだぞ」
二人の男に見送られ、俺は倉庫を後にした。
仕事は順調だった。
最初の交差点を南へ進み、二本目の道を曲がる。
途中、道端に座り込んでいる酔っ払いや、店先で言い争っている連中を見かけたが、特に問題はなかった。
「……南に二本、東に曲がって……」
頭の中で道順を確認する。
一度聞いたことを覚えるのは得意だ。
昔から、使い走りで道を間違えることはほとんどなかった。
俺だって、何もできないわけじゃねえ。
「ふふん……」
少しだけ気分が良くなった。
このまま届ければ三千眼。
それだけあれば、しばらく飯には困らない。
今日は温かいものでも食うか。
肉の入ったスープなんかいいな。
……いや、贅沢すぎるか?
そんなことを考えながら歩いていると、ふと違和感を覚えた。
「……ん?」
後ろから足音が聞こえる。
一人。
いや、二人か?
さっきから同じくらいの距離を保っているような気がする。
俺は何気ないふりをして、店の窓に映る後ろの様子を確認した。
男が二人。
どちらも汚れた上着を着ており、一人は腰に刀のようなものを下げていた。
……怪しいな。
俺は歩く速度を少し落とした。
すると、後ろの足音も遅くなった。
今度は少し速く歩く。
足音も速くなった。
「……ちっ」
どうやら、つけられているらしい。
物取りか?
いや、俺みたいなガキを狙ったところで、大した金なんて持ってねえぞ。
……ああ、もしかして。
俺は抱えている鞄に目を向けた。
これが目的か。
そりゃそうか。
三千眼も出すくらいだから、結構高い物が入っているのかもしれない。
面倒くせえな。
俺は近くの路地を曲がった。
ここを抜ければ、目的地への近道になる。
人通りは少ないが、道は知っている。
追いかけてくる連中を撒けるかもしれない。
……まあ、二人くらいなら何とかなるだろ。
そう思った。
その判断が間違いだったと気づいたのは、路地の出口に別の男が立っているのを見た時だった。
「……げっ」
男の手には、抜き身の剣が握られていた。
後ろを振り返る。
先ほどの二人が路地の入口を塞いでいる。
三人。
完全に挟まれた。
「……何だよ、おっさんたち」
俺はなるべく平静を装って声をかけた。
「ガキに何か用か?」
前に立っている男が笑った。
「その鞄を寄越せ」
「……これか?」
「ああ」
やっぱりか。
何が入っているのかは知らないが、相当大事な物らしい。
……さて、どうする。
俺は三人の顔を順番に見た。
全員、武器を持っている。
こっちは素手。
まともにやり合ったら勝ち目はない。
そもそも、戦い方なんてろくに知らねえ。
兄貴から、喧嘩になったら逃げろとは教わったけど。
「……分かったよ」
俺は鞄を持ち上げた。
「欲しいならやる。だから通してくれ」
命と三千眼。
どちらが大事かなんて、考えるまでもない。
金は欲しい。
けど、死んだら使えねえ。
俺が鞄を差し出すと、男は一瞬意外そうな顔をした。
「……随分と物分かりがいいな」
「俺だって死にたくねえからな」
「そうか」
男は笑った。
「なら、大人しく死ね」
「…………は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「荷物を渡せば助かると思ったか?」
男が剣を持ち直す。
「悪いな。お前を生かしておくわけにはいかねえんだ」
背筋が冷たくなった。
……まずい。
こいつら、鞄を奪うだけじゃねえ。
俺も殺すつもりだ。
「ちょっ、待――」
男が踏み込んできた。
「っ!」
咄嗟に身体を引く。
だが、避けきれなかった。
鋭い刃が左腕を掠める。
「いっ……!」
袖が裂け、腕に熱い痛みが走った。
一瞬遅れて血が滲み出す。
「いってえ!」
俺は反射的に後ずさった。
男は容赦なく剣を構え直す。
……冗談じゃねえ!
こんなところで死んでたまるか!
俺は鞄を男の顔に向かって投げつけた。
「うおっ!?」
男が反射的に顔を庇う。
その隙に、脇をすり抜けた。
「待て、クソガキ!」
後ろから怒声が響く。
構ってられるか!
俺は全速力で走った。
「はっ……はっ……!」
息が苦しい。
腹が痛い。
足が重い。
それでも走る。
後ろから男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。
「そっちだ!」
「逃がすな!」
「……くそっ!」
何でこんなことになったんだよ!
ただ荷物を運ぶだけだったじゃねえか!
三千眼もらって、飯を食って、それで終わりだったはずなのに!
俺は細い路地へ飛び込んだ。
身体の小ささだけは、こういう時に役に立つ。
大人が通るには狭い隙間を抜け、崩れかけた柵をくぐる。
何とか距離を稼ぐ。
……けど。
「はぁ……はぁ……!」
もう限界だった。
昨日からろくに食っていない。
身体に力が入らない。
視界がぐらつく。
「……っ!」
足がもつれた。
次の瞬間、俺は地面に倒れ込んでいた。
「ぐっ……!」
膝を強く打つ。
慌てて起き上がろうとしたが、足に力が入らない。
まずい。
まずいまずいまずい!
「……見つけたぞ」
背後から声がした。
ゆっくり振り返る。
さっきの男たちだ。
先頭の男の肩には、見覚えのある黒い鞄が掛かっていた。
……ああ。
ちゃんと拾いやがったのか。
「手間かけさせやがって」
男が剣を構える。
その刃には、俺の血が少しついていた。
「……なあ」
声が震える。
「鞄はもう持ってんだろ? なら、俺に用はねえじゃねえか」
「そういうわけにはいかねえんだよ」
「何でだよ……」
「余計なことを知っちまったからな」
「何も知らねえよ! 中身だって見てねえ!」
本当だ。
俺は何も知らない。
鞄に何が入っていたのかも、こいつらが誰なのかも。
ただ、三千眼が欲しかっただけだ。
「知ってるかどうかなんざ関係ねえんだよ」
男は剣を持ち上げた。
「運が悪かったな、ガキ」
……ああ。
死ぬ。
本当に、ここで死ぬ。
俺は地面に尻をついたまま、動けなかった。
怖い。
死にたくねえ。
まだ十二だぞ。
まともな飯だって食ってねえ。
兄貴みたいにフィクサーにもなってねえし、姉ちゃんみたいに仕事ができるわけでもねえ。
何もできねえまま、こんなところで……。
「……嫌だ」
思わず声が漏れた。
「俺、まだ死にたくねえ……!」
男が剣を振り上げた。
俺は目を閉じた。
――その時だった。
「そこまでにしなさい」
聞き慣れない声が響いた。
女の声だった。
男の動きが止まる。
「……あ?」
俺も恐る恐る目を開けた。
路地の入口に、一人の女が立っていた。
いや、女というより、少女と言った方がいいのかもしれない。
俺よりは年上だろうが、大人には見えなかった。
背は俺より随分高い。
それに、服がやけに綺麗だった。
赤を基調とした上着に、黒い手袋。
襟元や袖には細かな装飾が施されており、俺の継ぎ接ぎだらけの服とは比べ物にならない。
こんな汚ねえ路地には、場違いなくらい整った格好だった。
……金持ちの娘か?
何でこんなところにいるんだ?
「何だ、てめえは」
男が苛立ったように声を上げた。
少女は動じなかった。
「その鞄を渡していただけますか」
「……鞄?」
「ええ。あなたが肩に掛けているものです」
男の顔がわずかに強張った。
少女は続けた。
「こちらも随分と探しました。元の持ち主から回収を依頼されておりますので」
「……知るかよ」
男が剣を向ける。
「失せな。ガキがもう一匹増えたところで――」
「言葉を慎みなさい」
少女の声が少し低くなった。
「……あ?」
「相手が誰であろうと、そのような物言いは感心しません」
……何だ、こいつ。
こんな状況で礼儀の話をしてやがる。
頭がおかしいんじゃねえか?
「てめえ……!」
男が少女へ向かって踏み込んだ。
その瞬間。
少女が動いた。
最初、俺には何が起こったのか分からなかった。
少女は背にしていた長い銃を手に取った。
銃身の先には、細長い刃が取り付けられている。
銃剣。
兄貴が働いている事務所でも、似たようなものを見たことがある。
けど、実際に使っているところは見たことがなかった。
俺はてっきり、少女が銃を撃つんだと思った。
違った。
少女は一歩踏み込む。
男が振り下ろした剣を、銃身を斜めに構えて受け流した。
金属同士がぶつかり、甲高い音が響く。
「なっ――」
男が体勢を崩す。
少女はその隙を逃さなかった。
銃床を男の顔へ叩き込む。
「がっ!?」
男が仰け反った。
続けて銃剣が走る。
鋭い突き。
男の肩口が裂け、血が飛び散った。
「ぐああっ!」
男が剣を落とす。
少女はすぐに距離を取り、次の相手へ向き直った。
「この野郎!」
二人目の男が背後から飛びかかる。
手には短い刀。
少女は振り返ると同時に銃剣を横に構えた。
刀と銃身がぶつかる。
男は力任せに押し込もうとしたが、少女はまともに力比べをしなかった。
身体を半歩ずらし、相手の刃を滑らせる。
男の身体が前へ流れた。
次の瞬間、少女の足が男の膝を蹴った。
「ぐっ!?」
姿勢が崩れたところへ、銃床が顎を打ち上げる。
男はそのまま地面に倒れ込んだ。
……すげえ。
俺は思わず息を呑んだ。
何だ、今の。
剣を受け止めたと思ったら、次の瞬間には相手が倒れていた。
しかも、少女は一度も銃を撃っていない。
銃って、あんな使い方ができるのか?
「くそっ!」
残った男が叫んだ。
「調子に乗るなよ!」
男は鞄を地面に置き、両手で剣を構えた。
今度の相手は、先ほどの二人より動きが速かった。
少女が銃剣を突き出す。
男は刃を弾き、すぐに踏み込んだ。
「っ……!」
少女が後退する。
男の剣が横薙ぎに振るわれた。
少女は銃身で受け止めたが、勢いを殺しきれなかった。
ガキンッ!
鈍い金属音。
少女の身体がわずかに傾く。
「……くっ」
苦しそうな声が漏れた。
男はそれを見逃さなかった。
「どうした! さっきまでの威勢はよ!」
さらに剣を振るう。
少女は受け流しながら距離を取った。
けど、男は逃がさない。
一歩。
さらに一歩。
少女は押されていた。
……まずいんじゃねえか?
俺は思わず身を乗り出した。
さっきまであんなに強かったのに。
やっぱり、あいつでも勝てない相手がいるのか?
「おらぁ!」
男が剣を振り下ろす。
少女は身体を捻って避けた。
刃が赤い上着の裾を切り裂く。
「……っ!」
少女の眉がわずかに動いた。
俺の心臓が跳ねる。
……やべえ。
あいつまで殺されるんじゃねえか?
そう思った。
けど。
少女の目は、少しも怯えていなかった。
男が再び剣を振り上げる。
少女は銃剣を構え直した。
今度は、先ほどまでのように攻撃を受け止めようとしなかった。
男が大きく踏み込む。
少女は一歩だけ後ろへ下がった。
剣が空を切る。
男の身体が前へ流れた。
その瞬間。
少女が踏み込んだ。
「――はっ!」
短い掛け声。
銃剣の切っ先が男の顔を狙う。
男は慌てて剣を上げた。
だが、少女は銃剣を途中で引き戻した。
フェイント。
空いた胴へ、銃床が叩き込まれる。
「ぐふっ……!」
男が腹を押さえて前屈みになる。
少女は銃を回し、刃を男の首元へ突きつけた。
「動かないでください」
静かな声だった。
それなのに、男はぴたりと動きを止めた。
少女は荒くなった呼吸を一度整え、言葉を続けた。
「これ以上抵抗するのであれば、相応の対応をいたします」
「……くそっ」
「返事は?」
「……分かった」
「聞こえません」
「分かった! もう抵抗しねえ!」
「よろしい」
少女は銃剣を少し引いた。
「その鞄はこちらで預かります」
「……好きにしろ」
男は忌々しげに吐き捨てた。
少女は地面に置かれた鞄を拾い上げ、金具と封印を確かめた。
「……よかった。まだ開けられていませんね」
それから鞄を肩に掛け直し、男たちへ視線を戻す。
「仲間を連れて立ち去りなさい」
男は少女を睨みつけた。
けど、それ以上何も言わなかった。
倒れている仲間を起こし、肩を貸しながら路地の奥へ消えていく。
俺はその様子を、地面に座ったまま見つめていた。
……強え。
ただ、それしか思えなかった。
兄貴も結構強いと思っていた。
フィクサー見習いとはいえ、俺よりずっと力があるし、喧嘩にも慣れている。
けど、目の前の少女は何かが違った。
力では負けていた。
それなのに、相手の攻撃を避けて、隙を作って、最後には勝っていた。
しかも、銃を一発も撃たずに。
……何なんだ、こいつ。
少女は銃剣についた血を拭うと、こちらを振り返った。
「……さて」
目が合った。
「あなた」
「……あ?」
「立てますか?」
「……多分」
「多分では困ります。立てるのか、立てないのか、どちらですか?」
……何だよ。
助けてもらったのはありがてえけど、妙に偉そうだな。
「立てるって」
俺は地面に手をつき、何とか立ち上がった。
その拍子に左腕が痛んだ。
「いっ……!」
「……怪我をしているのですか?」
少女の視線が俺の左腕へ向いた。
袖は裂け、血が滲んでいる。
「……ちょっと斬られただけだよ」
「見せなさい」
「は?」
「腕です。見せなさい」
「いや、大丈夫だって」
「見せなさい」
……怖え。
声を荒らげているわけじゃないのに、妙に逆らいづらい。
仕方なく、俺は左腕を差し出した。
少女は傷口を覗き込むと、眉をひそめた。
「……浅いですね」
「だろ? だから大丈夫だって」
「ですが、処置は必要です」
「放っときゃ治るだろ」
「傷口が化膿したらどうするつもりですか?」
「……化膿?」
「傷口から菌が入り、悪化することです」
「ふーん……」
「ふーん、ではありません」
少女は呆れたようにため息をついた。
「あなた、本当に何も知らないのですね」
「……悪かったな」
何だこいつ。
さっきから小言ばっかりじゃねえか。
けど、強い。
それは確かだった。
「それで、あなたはどうしてあの男たちに追われていたのですか?」
少女は俺の腕を確認しながら尋ねた。
「……仕事だよ」
「仕事?」
「ああ。荷物を運んでくれって頼まれたんだ」
「誰からですか?」
「フィクサー事務所の奴」
「事務所の名前は?」
俺は覚えていた名前を答えた。
すると、少女の表情が少しだけ変わった。
「……なるほど」
「何だよ?」
「いえ。何でもありません」
そう言って、少女は何かを考え込んだ。
……何だ?
知ってる事務所なのか?
「……なあ」
「何ですか?」
「もしかして、あの鞄ってあんたのなのか?」
「正確には違いますが、私が回収するよう命じられた物です」
「……命じられた?」
「ええ」
「ふーん……」
やっぱり金持ちの家の奴なのかもしれない。
こんな綺麗な服を着ているんだ。
きっと、それなりに金のある家なんだろう。
「……じゃあ、あんたも仕事中なのか?」
「そうですね」
「……へえ」
同じ仕事か。
いや、全然違うか。
俺はただの使い走りだし、こいつはあんな連中を倒せる。
「……あのさ」
「何ですか?」
「その鞄、もう持ってるなら……俺の仕事ってどうなるんだ?」
「どうなる、とは?」
「いや、届けるはずだったんだよ。それをあんたに持ってかれたら、報酬が……」
少女はしばらく俺を見つめた。
「……報酬を気にしているのですか?」
「そりゃそうだろ」
「あなた、先ほど殺されかけたのですよ?」
「分かってるって!」
思わず声が大きくなった。
左腕がずきりと痛む。
「……分かってるよ」
俺は声を落とした。
さっきまで、あの男に剣を向けられていた。
本当に死ぬと思った。
今だって、まだ足が少し震えている。
けど。
「……報酬がねえと、飯が食えねえんだよ」
少女が黙り込んだ。
「いくらだったのですか?」
「三千眼」
「……三千眼?」
「ああ」
少女は少しだけ目を見開いた。
「それだけの金額で、命を危険にさらしたのですか?」
「それだけって……!」
思わず顔を上げる。
「三千眼だぞ!? 三千眼!」
「聞こえています」
「俺にとっちゃ大金なんだよ!」
「…………」
少女は俺をじっと見つめた。
……何だよ。
そんなに変なこと言ったか?
「……あなた、歳はいくつですか?」
「十二」
「十二歳?」
「ああ」
「……そうですか」
少女の視線が俺の身体を上下する。
細い腕。
骨ばった足。
継ぎ接ぎだらけの服。
……何だよ。
そんなに見るなって。
「……食事は?」
「は?」
「今日は食事を取りましたか?」
「……いや」
「昨日は?」
「……パン食った」
「それだけですか?」
「それだけって……」
俺は顔をしかめた。
「食えるだけましだろ」
少女は黙り込んだ。
何か考えているようだった。
俺は少し居心地が悪くなり、視線を逸らした。
すると、少女が静かに口を開いた。
「……ついてきなさい」
「……は?」
「その傷を手当てします」
「いや、別にいいって」
「よくありません」
「でも、金ねえぞ」
「…………」
少女がこちらを見た。
「……お金?」
「だから、治療代とか払えねえって」
少女は少しだけ目を見開いた。
それから、深いため息をついた。
「……取りません」
「え?」
「お金は取りません。だから、ついてきなさい」
「……マジで?」
「ええ」
「……何で?」
少女は少し考えてから答えた。
「……あなたをそのまま放置するのは、後味が悪いからです」
……変な奴。
何で見ず知らずのガキに、そこまでするんだ?
俺は少し考えた。
知らない奴についていくのは危ない。
兄貴にも何度もそう言われた。
けど。
目の前の少女は、さっき俺を助けてくれた。
少なくとも、すぐに殺そうとしてくる相手ではなさそうだ。
……多分。
「……分かったよ」
俺が答えると、少女は頷いた。
「では、行きましょう」
少女が歩き始める。
俺は慌ててその後を追った。
連れてこられたのは、路地裏の小さな食堂だった。
俺でも知っている店だ。
ただ、普段は高くて入れない。
店の前を通るたびに、肉を焼く匂いが漂ってきて、腹を空かせたまま通り過ぎていた。
「……ここ?」
「ええ」
「……高くねえ?」
「気にする必要はありません」
少女は当たり前のように扉を開けた。
中へ入ると、店主らしき男が顔を上げた。
「いらっしゃ……」
男の言葉が止まる。
少女の姿を見た瞬間、背筋を伸ばした。
「……いらっしゃいませ」
……何だ?
急に態度が変わったぞ。
「二人です。奥の席を使わせていただけますか?」
「は、はい。もちろんです」
少女は慣れた様子で店内を進んだ。
俺も後を追う。
すると、店主が俺をじろじろと見てきた。
……何だよ。
汚ねえガキが入ってきたのがそんなに珍しいのか?
まあ、珍しいか。
俺だって、自分みたいな奴がこんな店に入っていいとは思わねえ。
席に着くと、少女は店主に何かを頼んだ。
「清潔な水と包帯を。それから、温かい食事を二人分お願いします」
「かしこまりました」
……え?
俺は思わず少女を見た。
「……飯も?」
「ええ」
「俺の分も?」
「二人分と言いましたが」
「……マジか」
少女は眉をひそめた。
「先ほどから、そればかりですね」
「いや、だって……」
何だこいつ。
怪我を治すだけじゃなく、飯まで食わせてくれるのか?
……もしかして、後から金を請求するつもりじゃねえだろうな。
俺が疑っていると、少女は再びため息をついた。
「食事代も私が払います」
「……本当に?」
「ええ」
「……後から返せとか言わねえ?」
「言いません」
「……変なことさせたりしねえ?」
「……あなたは私を何だと思っているのですか?」
「いや、だって、知らねえ奴がタダで飯食わせてくれるなんて普通ねえだろ」
少女は何か言いかけて、口を閉じた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……そうですね」
「……?」
「少なくとも、あなたの暮らしている場所では、そうなのでしょうね」
何だよ、それ。
まるで自分は違う場所で暮らしているみたいな言い方だな。
……まあ、服を見りゃ分かるけど。
しばらくして、水と包帯が運ばれてきた。
少女は黒い手袋を外し、俺の左腕を取った。
「少し痛みますよ」
「……分かった」
傷口に水が触れた。
「いっ……!」
思わず腕を引こうとする。
だが、少女にしっかり掴まれていた。
「動かないでください」
「い、痛えんだよ!」
「分かっています。ですから、我慢してください」
「簡単に言うなって!」
「もう少しです」
少女は手際よく傷を洗い、包帯を巻いていった。
……慣れてるな。
こういうことを何度もやってるんだろうか。
「……あんた、こういうの得意なのか?」
「最低限の処置くらいはできます」
「へえ……」
「あなたも覚えておいた方がいいですよ」
「何で?」
「今後も危険な仕事を続けるのであれば、必要になるでしょうから」
……なるほど。
確かに、それはそうかもしれない。
「……教えてくれんの?」
俺が聞くと、少女は少し驚いたようだった。
「……覚えるつもりがあるのですか?」
「そりゃ、できた方がいいだろ」
「……そうですね」
少女は頷いた。
「では、まず傷を洗う時は――」
そこから、簡単な手当ての仕方を教えてくれた。
傷口を洗うこと。
汚れた布をそのまま巻かないこと。
血が止まらない時は無理に動かさないこと。
思っていたより覚えることが多かった。
けど、一度説明されれば大体は理解できた。
「……なるほどな」
「分かりましたか?」
「おう」
「では、今説明したことを言ってみてください」
「え?」
「本当に覚えているか確認します」
……何だよ。
勉強でもしてるみてえじゃねえか。
そう思いながらも、俺は教わった内容を順番に話した。
すると、少女は少しだけ目を丸くした。
「……一度で覚えたのですか?」
「……ああ」
「そうですか」
「……何だよ?」
「いえ。物覚えは良いのですね」
「……まあな」
少しだけ、胸を張った。
何でも中途半端な俺だが、これだけは結構得意なんだ。
「では、次は自分でできるようになりなさい」
「おう」
そう答えると、少女は小さく頷いた。
何となく、褒められたような気がした。
それから少しして、食事が運ばれてきた。
「…………」
俺は目の前に置かれた皿を見つめた。
肉。
野菜。
温かいスープ。
それに、柔らかそうなパン。
……何だこれ。
こんなに食っていいのか?
「……食べないのですか?」
少女が不思議そうに尋ねた。
「……いや」
俺は恐る恐るパンを手に取った。
柔らかい。
昨日食ったパンとは全然違う。
一口かじる。
「…………!」
うめえ。
何だこれ。
めちゃくちゃうめえ!
俺は夢中でパンを食べ始めた。
続けてスープを飲む。
温かい。
腹の中に熱が広がっていく。
「……うめえ!」
思わず声が出た。
「ちょっと、あなた」
少女が何か言っている。
けど、今はそれどころじゃない。
肉だ。
肉がある。
俺は急いで肉を口に運んだ。
「……っ!」
うめえ!
柔らかいし、味もちゃんとついてる!
こんな飯、いつ以来だ?
いや、そもそも食ったことあったか?
「……あなた!」
「ん?」
顔を上げる。
少女が呆れた顔でこちらを見ていた。
「もう少し落ち着いて食べなさい」
「……何で?」
「行儀が悪いでしょう」
「行儀?」
「ええ。それに、そんなに急いで食べたら喉を詰まらせます」
「……別に大丈夫だって」
そう言って、もう一口肉を食べようとした。
その時だった。
カチャン。
少女が食器を置いた。
ただ、それだけだった。
なのに。
「っ……!」
俺の肩が大きく跳ねた。
反射的に身体を縮め、頭を庇おうとする。
「……?」
少女が目を瞬かせた。
「どうしました?」
「……何でもねえよ」
慌てて手を下ろす。
心臓がうるさい。
さっきの男が剣を振り上げた時のことが、頭に浮かんでいた。
……くそ。
もう終わっただろうが。
あいつらは逃げた。
俺は助かった。
分かってる。
分かってるのに、身体が勝手に動きやがる。
「……あなた」
少女が口を開いた。
「無理に食べる必要はありませんよ」
「……は?」
「少し休んでからでも――」
「いや、食う」
俺は慌てて答えた。
「せっかくの飯だし」
「……そうですか」
少女はそれ以上何も言わなかった。
ただ、先ほどよりも静かに食器を扱うようになった。
……何だよ。
別に気を遣わなくてもいいのに。
そう思ったが、口には出さなかった。
しばらくすると、腹も落ち着いてきた。
俺は少女の食べ方を眺めた。
背筋を伸ばし、食器を丁寧に扱っている。
動作が妙に綺麗だった。
……金持ちって、みんなこんな食べ方すんのか?
俺は自分の手元を見る。
パンの欠片が散らばり、スープも少しこぼしていた。
……まあ、いいか。
食えりゃ同じだろ。
そう思っていると、少女がこちらを見た。
「……あなた」
「ん?」
「食器は正しく使いなさい」
「……は?」
「そのように握り込むものではありません」
少女は自分の食器を持ち、正しい使い方を見せてきた。
「こうです」
「……めんどくせえな」
「何か言いましたか?」
「……何でもねえよ」
仕方なく、少女の真似をする。
すると、少女は満足そうに頷いた。
「そうです。それでいいのです」
……何なんだ、こいつ。
さっきから小言ばっかりだ。
強いのは分かったけど、いちいち細けえな。
まあ、飯を食わせてもらってる立場だから文句は言えねえけど。
「……なあ」
「何ですか?」
「さっきの、どうやったんだ?」
「……何の話ですか?」
「戦ってた時のやつ」
俺は手を動かしながら説明した。
「こう、相手の剣を弾いて、すぐに殴ってただろ?」
「……銃剣術のことですか?」
「そう! それ!」
少女は少しだけ意外そうな顔をした。
「興味があるのですか?」
「そりゃあるだろ!」
思わず身を乗り出す。
「あんな戦い方、初めて見たぞ! 銃って撃つだけじゃねえんだな!」
「……ええ。銃剣は近接戦闘にも使用できますから」
「しかも、あんた一発も撃ってねえだろ?」
「そうですね」
「すげえな!」
少女の手が止まった。
「……すごい?」
「ああ!」
俺は興奮したまま続けた。
「あいつら三人もいたんだぞ! それを一人で倒しちまうんだから、めちゃくちゃ強えじゃねえか!」
「…………」
少女は黙った。
……ん?
何か変なこと言ったか?
「……どうした?」
「……いえ」
少女は視線を逸らした。
「この程度、特別なことではありません」
「は?」
「私の家では、この程度の技量は珍しくありませんから」
「……マジかよ」
俺は思わず声を上げた。
「じゃあ、あんたの家の奴らって全員あんなに強えのか!?」
「……少なくとも、私より優秀な者は大勢います」
「……すげえな」
何だ、その家。
化け物の集まりじゃねえか。
俺は改めて少女を見た。
あんなに強いのに、家では大したことないらしい。
世の中、上には上がいるもんだな。
「……じゃあ、あんたももっと強くなるのか?」
「……え?」
「だって、まだ若いだろ? これからもっと強くなるんじゃねえの?」
少女はしばらく俺を見つめていた。
それから、静かに答えた。
「……そのつもりです」
「そっか」
俺は頷いた。
「じゃあ、もっとすげえんだな」
「…………」
少女は何も言わなかった。
けど、さっきまでとは少し表情が違う気がした。
……何だ?
怒らせたわけじゃねえよな?
「……一つ、訂正させてください」
「ん?」
「先ほどの戦闘は、決して褒められたものではありません」
「……そうなのか?」
「ええ。最後の相手には押し込まれましたし、上着も傷つけられました」
少女は少しだけ切れた裾に目を向けた。
「まだまだ未熟です」
「……ふーん」
俺は少女の言葉を考えた。
確かに、最後の男は結構強そうだった。
少女も少し苦戦していた。
けど。
「……でも、勝ったじゃねえか」
「……え?」
「そりゃ、もっと強い奴もいるんだろうけどさ」
俺は肉を一口食べた。
「俺からしたら、あんたは十分すげえよ」
「…………」
少女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
その声は、さっきよりも小さかった。
食事を終える頃には、腹がいっぱいになっていた。
こんなに食ったのは、いつ以来だろう。
……いや、初めてかもしれない。
「……ふぅ」
椅子にもたれかかる。
幸せだ。
腹がいっぱいって、こんなにいいもんだったんだな。
「……満足しましたか?」
少女が尋ねた。
「おう!」
「それはよかったです」
「……なあ」
「何ですか?」
「余ったパン、持って帰っていいか?」
少女は目を瞬かせた。
「……持って帰る?」
「ああ。明日食う」
「……明日の食事ですか」
「そうだけど」
少女は少し考えた後、店主を呼んだ。
「申し訳ありません。残ったパンを包んでいただけますか?」
「かしこまりました」
店主がパンを包んでくれる。
……マジか。
頼んでみるもんだな。
俺は包みを受け取り、大事に袋へしまった。
「……ありがとな」
少女がこちらを向いた。
「……何ですか?」
「飯と、腕のやつ」
俺は包帯を巻かれた左腕を持ち上げた。
「助かった。ありがとよ」
少女はしばらく俺を見ていた。
それから、静かに口を開いた。
「……お礼を言うのであれば、もう少し丁寧な言葉を使いなさい」
「……は?」
「年上の相手に対して、その口調は失礼です」
「……またそれかよ」
思わず顔をしかめた。
さっきから何回礼儀の話をするんだ、こいつ。
「……あんた、礼儀にうるせえな」
「当然のことを言っているだけです」
「ふーん……」
俺は少し考えた。
丁寧な言葉、ねえ。
姉ちゃんが事務所の客と話す時に使っていた言葉を思い出す。
確か……。
「……本日は、ありがとうございました」
そう言って、頭を下げた。
少女が目を見開く。
「……!」
「……これでいいか?」
少女は少し遅れて頷いた。
「……ええ。よくできました」
「……何だよ、ガキ扱いして」
「実際、子供でしょう?」
「……あんただって、そんなに歳変わんねえだろ」
「私は十五歳です」
「……三つしか違わねえじゃん」
「三つも違います」
「……へいへい」
少女の眉がぴくりと動いた。
「返事は『はい』です」
「……はい」
「よろしい」
……怖え。
いや、さっきの男たちよりはずっとましだけど。
店を出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
裏路地には、仕事を終えた連中や、酒に酔った男たちが行き交っている。
少女は店の前で立ち止まった。
「……では、私はこれで」
「……ああ」
「傷口は清潔にしておきなさい。包帯も汚れたら交換すること」
「分かってるって」
「それから、あのような仕事を安易に引き受けてはいけませんよ」
「……へいへい」
「……返事は?」
「……はい」
少女は満足そうに頷いた。
そして、背を向けて歩き始める。
赤い上着が、夕日に照らされた。
……綺麗な服だな。
俺の服とは大違いだ。
それに、強い。
あんなに強い奴、今まで見たことがなかった。
銃剣を振るう姿が、頭から離れない。
相手の剣を受け流し、隙を突いて倒す。
力任せじゃない。
ちゃんと考えて動いている。
……あんなことができたら、仕事の幅も広がるんだろうな。
「……なあ!」
気づけば、俺は少女を呼び止めていた。
少女が振り返る。
「……何ですか?」
「さっきの銃剣術って、どこで習えるんだ?」
少女は少し驚いたようだった。
「……銃剣術、ですか?」
「ああ」
「なぜです?」
「そりゃ……」
俺は少し考えた。
別に、あいつらに仕返ししたいわけじゃない。
強くなって有名になりたいわけでもない。
ただ。
あんなふうに戦えたら、危ねえ仕事でも生き残れるんじゃねえかと思った。
それに……。
「……かっこよかったから」
口に出してから、少し恥ずかしくなった。
少女は黙ったまま俺を見つめていた。
「……かっこいい?」
「ああ。あんた、めちゃくちゃ強かったし」
「…………」
「俺も、あんなふうに戦えたらいいなって」
少女は何も答えなかった。
……何だよ。
そんなに変なこと言ったか?
しばらくして、少女は小さく息を吐いた。
「……まずは、まともに食事を取りなさい」
「……は?」
「その身体では、武器を振るう以前の問題です」
「……ぐっ」
それは確かにそうかもしれない。
俺の腕は細い。
重い荷物を持つだけでも疲れる。
あんな長い銃を振り回せるとは思えなかった。
「……じゃあ、飯食えばできるようになるのか?」
「それだけではありません。基礎的な体力と訓練も必要です」
「……ふーん」
なるほど。
飯を食って、身体を鍛えて、訓練する。
……金がかかりそうだな。
「……やっぱ難しそうだな」
俺が呟くと、少女は少し考え込んだ。
それから、静かに口を開いた。
「……あなた」
「ん?」
「普段はどこで暮らしているのですか?」
「……この辺だけど」
「家は?」
「ねえよ」
「……ない?」
「ああ。追い出されたからな」
少女の表情が変わった。
「……ご両親は?」
「いるけど、もう帰ってくるなって言われた」
「…………」
少女は黙り込んだ。
何だ?
そんなに珍しいことか?
この辺じゃ、家を追い出されたガキなんていくらでもいるだろ。
「……そうですか」
少女は静かに呟いた。
それから俺の左腕に巻かれた包帯を見つめる。
「……他に頼れる人はいないのですか?」
「兄貴と姉ちゃんはいるけど」
「では、その方たちに――」
「二人とも働いてんだよ」
俺は少女の言葉を遮った。
「兄貴はまだ見習いだし、姉ちゃんだって自分の生活があるんだ。俺まで世話になるわけにはいかねえだろ」
少女は何も言わなかった。
……何だよ。
俺、変なこと言ったか?
「……そうですか」
少女は少しだけ目を伏せた。
それから、何かを考えるように俺の顔を見つめた。
「……あなた、名前は?」
「……名前?」
「ああ、いえ……」
少女は何か言いかけて、首を振った。
「やはり、今日はもう遅いですね」
「……?」
「暗くなる前に、寝る場所へ戻りなさい」
「……分かってるよ」
「それから、怪我をした腕を無理に使わないこと」
「……はいはい」
「返事は?」
「……はい」
少女は小さく頷いた。
「では」
そう言って、再び歩き始める。
俺はその背中を見送った。
赤い上着。
整った姿勢。
背負われた銃剣。
裏路地の汚れた風景の中で、そいつだけ妙に目立っていた。
「……変な奴」
思わず呟く。
初めて会った相手に飯を食わせて、怪我まで治してくれる。
そのくせ、礼儀にはやたらうるさい。
何者なんだろうな、あいつ。
金持ちの娘か?
それとも、どこかの組織の人間か?
……まあ、いいか。
俺には関係ねえ。
そう思って歩き始めた。
けど、少し進んだところで足を止める。
「……あ」
そういえば。
あいつの名前、聞いてねえな。
「……まあ、いいか」
どうせ、もう会うこともねえだろ。
俺は袋に入ったパンを確認した。
まだちゃんとある。
明日の飯は確保できた。
腕は痛むけど、命は助かった。
三千眼はもらえなかったが、飯も食えたし、傷も手当てしてもらった。
……まあ、結果だけ見れば悪くねえか。
いや。
よく考えたら、死にかけたんだった。
「……やっぱ最悪だな、今日」
小さく笑う。
次からは、怪しい仕事を引き受ける前にもう少し考えよう。
そう決めた。
……まあ、金がなくなったらどうなるか分からねえけど。
俺はいつもの寝床へ向かって歩き始めた。
その途中、ふと頭に浮かんだのは、赤い服の少女が銃剣を振るう姿だった。
剣を受け流し、相手を倒す。
無駄のない動き。
あんなに強ければ、誰かに殺される心配も少なくなるんだろうか。
「……銃剣術、か」
小さく呟く。
俺にもできるんだろうか。
……いや、今は無理か。
まともに飯も食えねえんだから。
でも、いつか。
いつか、あんなふうに戦えたらいいな。
俺は試しに、右手で見えない銃の柄を握った。
さっきの少女がやっていたように、一歩踏み込み、前へ突き出してみる。
「……おっ」
何となく、それっぽい。
もう一度やってみた。
今度は少し大きく踏み込む。
「……っ!」
足がもつれ、危うく転びそうになった。
「……難しいな、これ」
少女はあんなに簡単そうにやっていたのに。
……やっぱり、すげえな。
俺は誰も見ていないことを確かめると、もう一度だけ構えを真似した。
上手くできたかは分からない。
けど、さっきより少しだけましになった気がした。
「……へへっ」
妙に楽しくなってきた。
今度、何か棒でも拾って練習してみるか。
そう考えながら、俺は暗くなり始めた裏路地を歩いていった。
第2話 終