憧れは近くて遠い   作:色彩悪夢

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『三千眼の代償』

「三千眼、ねえ……」

 

俺は前を歩く男の背中を追いかけながら、先ほど聞いた報酬を思い返していた。

 

三千眼。

 

昨日の仕事では、手数料を引かれて二百四十眼しかもらえなかった。

 

それが今回は三千眼だ。

 

十倍以上。

 

……いや、十倍ってことは二千四百眼だから、もうちょっと多いのか?

 

まあ、細かいことはいい。

 

とにかく大金だ。

 

それだけあれば、しばらく飯には困らない。

 

安いパンなら相当買えるだろうし、上手く使えば安宿にも泊まれるかもしれない。

 

……いや、宿はやめとくか。

 

飯代を残しておかねえと、結局また腹を空かせることになる。

 

そんなことを考えていると、前を歩いていた男が振り返った。

 

「おい、ガキ。ちゃんと聞いてるか?」

 

「……あ? 何が?」

 

「これからやる仕事の説明だよ」

 

「悪い、聞いてなかった」

 

「ったく……」

 

男は呆れたようにため息をついた。

 

「いいか。今から倉庫に行って荷物を受け取る。それを指定された場所まで運ぶだけだ」

 

「昨日と同じじゃねえか」

 

「ああ。だからお前に頼んだんだよ」

 

「ふーん……」

 

ただの使い走り。

 

それだけで三千眼。

 

どう考えても怪しい。

 

けど、報酬が高い理由を聞いたところで、まともに答えてくれるとも思えなかった。

 

それに、昨日の仕事でこの男が金を払ったのは確かだ。

 

手数料は引かれたけど。

 

「なあ、今回は手数料とかねえよな?」

 

「……何?」

 

「だから、三千眼って言っておいて、後から色々引いたりしねえよな?」

 

男は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。

 

「はははっ! お前、昨日のことを根に持ってんのか!」

 

「当たり前だろ! 六十眼も引かれたんだぞ!」

 

「分かった分かった。今回は成功すりゃ三千眼、全額払ってやる」

 

「本当だな?」

 

「ああ」

 

「約束だからな」

 

念を押すと、男は面倒くさそうに手を振った。

 

……まあ、いいか。

 

今は金が必要だ。

 

どうせ他に仕事の当てもねえ。

 

俺は男の後について歩き続けた。

 

連れてこられたのは、人気のない倉庫街だった。

 

道の両側には古びた建物が並び、窓のほとんどが鉄板で塞がれている。

 

時折、荷物を積んだ運搬車が通り過ぎるくらいで、人通りはほとんどなかった。

 

「……なあ」

 

「何だ?」

 

「こんなところに何の用があるんだ?」

 

「荷物を受け取るって言っただろ」

 

「いや、それは分かってるけどよ」

 

俺は周囲を見回した。

 

何となく、嫌な感じがする。

 

別に誰かが襲ってきそうだとか、そういうわけじゃない。

 

ただ、妙に静かだった。

 

普段なら荷運びをしている連中や、道端で煙草を吸っている奴らがいるはずなのに。

 

「……ここ、大丈夫なのか?」

 

「何がだ?」

 

「いや、何か……」

 

上手く言葉にできなかった。

 

兄貴だったら、こういう時に何が危険なのか分かるんだろうか。

 

俺には分からない。

 

「怖くなったか?」

 

男が笑った。

 

「べ、別に怖くねえよ」

 

「なら黙ってついてこい」

 

「……ちぇっ」

 

男は一軒の倉庫の前で立ち止まった。

 

扉を三回叩く。

 

少し間を置いて、中から鍵の外れる音がした。

 

現れたのは、顔に傷のある大柄な男だった。

 

「……何だ、そのガキは」

 

「運び屋だよ」

 

「こいつが?」

 

「ああ。昨日試したが、道を覚えるのは早いし、余計なこともしねえ」

 

傷の男は俺をじろじろと眺めた。

 

気分が悪い。

 

「……おい、ガキ」

 

「何だよ」

 

「余計なことは聞くな。荷物を運んだら、それで終わりだ」

 

「分かってるって」

 

「中身も見るんじゃねえぞ」

 

「見ねえよ」

 

二人は顔を見合わせた。

 

それから傷の男が倉庫の奥へ引っ込み、小さな黒い鞄を持って戻ってきた。

 

「ほら」

 

差し出された鞄を受け取る。

 

思ったより軽い。

 

片手でも持てそうだった。

 

表面は黒い革で覆われており、角には金属の補強がついている。

 

古びているが、安物には見えない。

 

「……これを運ぶだけか?」

 

「ああ」

 

「どこまで?」

 

男は紙を一枚取り出した。

 

「ここから南へ二本。次の交差点を東に曲がって、三つ目の路地を抜けろ。その先に古い時計店がある」

 

「時計店?」

 

「今はもう営業してねえ。そこの裏口で待っている男に渡せ」

 

「……南に二本、東に曲がって三つ目の路地。古い時計店の裏口だな?」

 

「そうだ」

 

「分かった」

 

紙を返すと、男は眉を上げた。

 

「地図はいらねえのか?」

 

「今ので覚えたからな」

 

「……ほう」

 

男は少しだけ感心したようだった。

 

「ただし、途中で誰かに話しかけられても相手にするな。荷物を渡す相手も間違えるなよ」

 

「分かってるって」

 

「あと、もし誰かに追われても、倉庫には戻ってくるな」

 

「……は?」

 

思わず聞き返した。

 

「何でだよ?」

 

「仕事先に迷惑をかけるなってことだ」

 

「……ふーん」

 

妙な話だ。

 

普通、荷物を狙われたら依頼主のところに逃げ込むもんじゃねえのか?

 

……いや、俺が知らないだけかもしれない。

 

「分かったよ」

 

俺は鞄を抱え直した。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

「ああ。頼んだぞ」

 

二人の男に見送られ、俺は倉庫を後にした。

 

仕事は順調だった。

 

最初の交差点を南へ進み、二本目の道を曲がる。

 

途中、道端に座り込んでいる酔っ払いや、店先で言い争っている連中を見かけたが、特に問題はなかった。

 

「……南に二本、東に曲がって……」

 

頭の中で道順を確認する。

 

一度聞いたことを覚えるのは得意だ。

 

昔から、使い走りで道を間違えることはほとんどなかった。

 

俺だって、何もできないわけじゃねえ。

 

「ふふん……」

 

少しだけ気分が良くなった。

 

このまま届ければ三千眼。

 

それだけあれば、しばらく飯には困らない。

 

今日は温かいものでも食うか。

 

肉の入ったスープなんかいいな。

 

……いや、贅沢すぎるか?

 

そんなことを考えながら歩いていると、ふと違和感を覚えた。

 

「……ん?」

 

後ろから足音が聞こえる。

 

一人。

 

いや、二人か?

 

さっきから同じくらいの距離を保っているような気がする。

 

俺は何気ないふりをして、店の窓に映る後ろの様子を確認した。

 

男が二人。

 

どちらも汚れた上着を着ており、一人は腰に刀のようなものを下げていた。

 

……怪しいな。

 

俺は歩く速度を少し落とした。

 

すると、後ろの足音も遅くなった。

 

今度は少し速く歩く。

 

足音も速くなった。

 

「……ちっ」

 

どうやら、つけられているらしい。

 

物取りか?

 

いや、俺みたいなガキを狙ったところで、大した金なんて持ってねえぞ。

 

……ああ、もしかして。

 

俺は抱えている鞄に目を向けた。

 

これが目的か。

 

そりゃそうか。

 

三千眼も出すくらいだから、結構高い物が入っているのかもしれない。

 

面倒くせえな。

 

俺は近くの路地を曲がった。

 

ここを抜ければ、目的地への近道になる。

 

人通りは少ないが、道は知っている。

 

追いかけてくる連中を撒けるかもしれない。

 

……まあ、二人くらいなら何とかなるだろ。

 

そう思った。

 

その判断が間違いだったと気づいたのは、路地の出口に別の男が立っているのを見た時だった。

 

「……げっ」

 

男の手には、抜き身の剣が握られていた。

 

後ろを振り返る。

 

先ほどの二人が路地の入口を塞いでいる。

 

三人。

 

完全に挟まれた。

 

「……何だよ、おっさんたち」

 

俺はなるべく平静を装って声をかけた。

 

「ガキに何か用か?」

 

前に立っている男が笑った。

 

「その鞄を寄越せ」

 

「……これか?」

 

「ああ」

 

やっぱりか。

 

何が入っているのかは知らないが、相当大事な物らしい。

 

……さて、どうする。

 

俺は三人の顔を順番に見た。

 

全員、武器を持っている。

 

こっちは素手。

 

まともにやり合ったら勝ち目はない。

 

そもそも、戦い方なんてろくに知らねえ。

 

兄貴から、喧嘩になったら逃げろとは教わったけど。

 

「……分かったよ」

 

俺は鞄を持ち上げた。

 

「欲しいならやる。だから通してくれ」

 

命と三千眼。

 

どちらが大事かなんて、考えるまでもない。

 

金は欲しい。

 

けど、死んだら使えねえ。

 

俺が鞄を差し出すと、男は一瞬意外そうな顔をした。

 

「……随分と物分かりがいいな」

 

「俺だって死にたくねえからな」

 

「そうか」

 

男は笑った。

 

「なら、大人しく死ね」

 

「…………は?」

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

「荷物を渡せば助かると思ったか?」

 

男が剣を持ち直す。

 

「悪いな。お前を生かしておくわけにはいかねえんだ」

 

背筋が冷たくなった。

 

……まずい。

 

こいつら、鞄を奪うだけじゃねえ。

 

俺も殺すつもりだ。

 

「ちょっ、待――」

 

男が踏み込んできた。

 

「っ!」

 

咄嗟に身体を引く。

 

だが、避けきれなかった。

 

鋭い刃が左腕を掠める。

 

「いっ……!」

 

袖が裂け、腕に熱い痛みが走った。

 

一瞬遅れて血が滲み出す。

 

「いってえ!」

 

俺は反射的に後ずさった。

 

男は容赦なく剣を構え直す。

 

……冗談じゃねえ!

 

こんなところで死んでたまるか!

 

俺は鞄を男の顔に向かって投げつけた。

 

「うおっ!?」

 

男が反射的に顔を庇う。

 

その隙に、脇をすり抜けた。

 

「待て、クソガキ!」

 

後ろから怒声が響く。

 

構ってられるか!

 

俺は全速力で走った。

 

「はっ……はっ……!」

 

息が苦しい。

 

腹が痛い。

 

足が重い。

 

それでも走る。

 

後ろから男たちの怒鳴り声が聞こえてくる。

 

「そっちだ!」

 

「逃がすな!」

 

「……くそっ!」

 

何でこんなことになったんだよ!

 

ただ荷物を運ぶだけだったじゃねえか!

 

三千眼もらって、飯を食って、それで終わりだったはずなのに!

 

俺は細い路地へ飛び込んだ。

 

身体の小ささだけは、こういう時に役に立つ。

 

大人が通るには狭い隙間を抜け、崩れかけた柵をくぐる。

 

何とか距離を稼ぐ。

 

……けど。

 

「はぁ……はぁ……!」

 

もう限界だった。

 

昨日からろくに食っていない。

 

身体に力が入らない。

 

視界がぐらつく。

 

「……っ!」

 

足がもつれた。

 

次の瞬間、俺は地面に倒れ込んでいた。

 

「ぐっ……!」

 

膝を強く打つ。

 

慌てて起き上がろうとしたが、足に力が入らない。

 

まずい。

 

まずいまずいまずい!

 

「……見つけたぞ」

 

背後から声がした。

 

ゆっくり振り返る。

 

さっきの男たちだ。

 

先頭の男の肩には、見覚えのある黒い鞄が掛かっていた。

 

……ああ。

 

ちゃんと拾いやがったのか。

 

「手間かけさせやがって」

 

男が剣を構える。

 

その刃には、俺の血が少しついていた。

 

「……なあ」

 

声が震える。

 

「鞄はもう持ってんだろ? なら、俺に用はねえじゃねえか」

 

「そういうわけにはいかねえんだよ」

 

「何でだよ……」

 

「余計なことを知っちまったからな」

 

「何も知らねえよ! 中身だって見てねえ!」

 

本当だ。

 

俺は何も知らない。

 

鞄に何が入っていたのかも、こいつらが誰なのかも。

 

ただ、三千眼が欲しかっただけだ。

 

「知ってるかどうかなんざ関係ねえんだよ」

 

男は剣を持ち上げた。

 

「運が悪かったな、ガキ」

 

……ああ。

 

死ぬ。

 

本当に、ここで死ぬ。

 

俺は地面に尻をついたまま、動けなかった。

 

怖い。

 

死にたくねえ。

 

まだ十二だぞ。

 

まともな飯だって食ってねえ。

 

兄貴みたいにフィクサーにもなってねえし、姉ちゃんみたいに仕事ができるわけでもねえ。

 

何もできねえまま、こんなところで……。

 

「……嫌だ」

 

思わず声が漏れた。

 

「俺、まだ死にたくねえ……!」

 

男が剣を振り上げた。

 

俺は目を閉じた。

 

――その時だった。

 

「そこまでにしなさい」

 

聞き慣れない声が響いた。

 

女の声だった。

 

男の動きが止まる。

 

「……あ?」

 

俺も恐る恐る目を開けた。

 

路地の入口に、一人の女が立っていた。

 

いや、女というより、少女と言った方がいいのかもしれない。

 

俺よりは年上だろうが、大人には見えなかった。

 

背は俺より随分高い。

 

それに、服がやけに綺麗だった。

 

赤を基調とした上着に、黒い手袋。

 

襟元や袖には細かな装飾が施されており、俺の継ぎ接ぎだらけの服とは比べ物にならない。

 

こんな汚ねえ路地には、場違いなくらい整った格好だった。

 

……金持ちの娘か?

 

何でこんなところにいるんだ?

 

「何だ、てめえは」

 

男が苛立ったように声を上げた。

 

少女は動じなかった。

 

「その鞄を渡していただけますか」

 

「……鞄?」

 

「ええ。あなたが肩に掛けているものです」

 

男の顔がわずかに強張った。

 

少女は続けた。

 

「こちらも随分と探しました。元の持ち主から回収を依頼されておりますので」

 

「……知るかよ」

 

男が剣を向ける。

 

「失せな。ガキがもう一匹増えたところで――」

 

「言葉を慎みなさい」

 

少女の声が少し低くなった。

 

「……あ?」

 

「相手が誰であろうと、そのような物言いは感心しません」

 

……何だ、こいつ。

 

こんな状況で礼儀の話をしてやがる。

 

頭がおかしいんじゃねえか?

 

「てめえ……!」

 

男が少女へ向かって踏み込んだ。

 

その瞬間。

 

少女が動いた。

 

最初、俺には何が起こったのか分からなかった。

 

少女は背にしていた長い銃を手に取った。

 

銃身の先には、細長い刃が取り付けられている。

 

銃剣。

 

兄貴が働いている事務所でも、似たようなものを見たことがある。

 

けど、実際に使っているところは見たことがなかった。

 

俺はてっきり、少女が銃を撃つんだと思った。

 

違った。

 

少女は一歩踏み込む。

 

男が振り下ろした剣を、銃身を斜めに構えて受け流した。

 

金属同士がぶつかり、甲高い音が響く。

 

「なっ――」

 

男が体勢を崩す。

 

少女はその隙を逃さなかった。

 

銃床を男の顔へ叩き込む。

 

「がっ!?」

 

男が仰け反った。

 

続けて銃剣が走る。

 

鋭い突き。

 

男の肩口が裂け、血が飛び散った。

 

「ぐああっ!」

 

男が剣を落とす。

 

少女はすぐに距離を取り、次の相手へ向き直った。

 

「この野郎!」

 

二人目の男が背後から飛びかかる。

 

手には短い刀。

 

少女は振り返ると同時に銃剣を横に構えた。

 

刀と銃身がぶつかる。

 

男は力任せに押し込もうとしたが、少女はまともに力比べをしなかった。

 

身体を半歩ずらし、相手の刃を滑らせる。

 

男の身体が前へ流れた。

 

次の瞬間、少女の足が男の膝を蹴った。

 

「ぐっ!?」

 

姿勢が崩れたところへ、銃床が顎を打ち上げる。

 

男はそのまま地面に倒れ込んだ。

 

……すげえ。

 

俺は思わず息を呑んだ。

 

何だ、今の。

 

剣を受け止めたと思ったら、次の瞬間には相手が倒れていた。

 

しかも、少女は一度も銃を撃っていない。

 

銃って、あんな使い方ができるのか?

 

「くそっ!」

 

残った男が叫んだ。

 

「調子に乗るなよ!」

 

男は鞄を地面に置き、両手で剣を構えた。

 

今度の相手は、先ほどの二人より動きが速かった。

 

少女が銃剣を突き出す。

 

男は刃を弾き、すぐに踏み込んだ。

 

「っ……!」

 

少女が後退する。

 

男の剣が横薙ぎに振るわれた。

 

少女は銃身で受け止めたが、勢いを殺しきれなかった。

 

ガキンッ!

 

鈍い金属音。

 

少女の身体がわずかに傾く。

 

「……くっ」

 

苦しそうな声が漏れた。

 

男はそれを見逃さなかった。

 

「どうした! さっきまでの威勢はよ!」

 

さらに剣を振るう。

 

少女は受け流しながら距離を取った。

 

けど、男は逃がさない。

 

一歩。

 

さらに一歩。

 

少女は押されていた。

 

……まずいんじゃねえか?

 

俺は思わず身を乗り出した。

 

さっきまであんなに強かったのに。

 

やっぱり、あいつでも勝てない相手がいるのか?

 

「おらぁ!」

 

男が剣を振り下ろす。

 

少女は身体を捻って避けた。

 

刃が赤い上着の裾を切り裂く。

 

「……っ!」

 

少女の眉がわずかに動いた。

 

俺の心臓が跳ねる。

 

……やべえ。

 

あいつまで殺されるんじゃねえか?

 

そう思った。

 

けど。

 

少女の目は、少しも怯えていなかった。

 

男が再び剣を振り上げる。

 

少女は銃剣を構え直した。

 

今度は、先ほどまでのように攻撃を受け止めようとしなかった。

 

男が大きく踏み込む。

 

少女は一歩だけ後ろへ下がった。

 

剣が空を切る。

 

男の身体が前へ流れた。

 

その瞬間。

 

少女が踏み込んだ。

 

「――はっ!」

 

短い掛け声。

 

銃剣の切っ先が男の顔を狙う。

 

男は慌てて剣を上げた。

 

だが、少女は銃剣を途中で引き戻した。

 

フェイント。

 

空いた胴へ、銃床が叩き込まれる。

 

「ぐふっ……!」

 

男が腹を押さえて前屈みになる。

 

少女は銃を回し、刃を男の首元へ突きつけた。

 

「動かないでください」

 

静かな声だった。

 

それなのに、男はぴたりと動きを止めた。

 

少女は荒くなった呼吸を一度整え、言葉を続けた。

 

「これ以上抵抗するのであれば、相応の対応をいたします」

 

「……くそっ」

 

「返事は?」

 

「……分かった」

 

「聞こえません」

 

「分かった! もう抵抗しねえ!」

 

「よろしい」

 

少女は銃剣を少し引いた。

 

「その鞄はこちらで預かります」

 

「……好きにしろ」

 

男は忌々しげに吐き捨てた。

 

少女は地面に置かれた鞄を拾い上げ、金具と封印を確かめた。

 

「……よかった。まだ開けられていませんね」

 

それから鞄を肩に掛け直し、男たちへ視線を戻す。

 

「仲間を連れて立ち去りなさい」

 

男は少女を睨みつけた。

 

けど、それ以上何も言わなかった。

 

倒れている仲間を起こし、肩を貸しながら路地の奥へ消えていく。

 

俺はその様子を、地面に座ったまま見つめていた。

 

……強え。

 

ただ、それしか思えなかった。

 

兄貴も結構強いと思っていた。

 

フィクサー見習いとはいえ、俺よりずっと力があるし、喧嘩にも慣れている。

 

けど、目の前の少女は何かが違った。

 

力では負けていた。

 

それなのに、相手の攻撃を避けて、隙を作って、最後には勝っていた。

 

しかも、銃を一発も撃たずに。

 

……何なんだ、こいつ。

 

少女は銃剣についた血を拭うと、こちらを振り返った。

 

「……さて」

 

目が合った。

 

「あなた」

 

「……あ?」

 

「立てますか?」

 

「……多分」

 

「多分では困ります。立てるのか、立てないのか、どちらですか?」

 

……何だよ。

 

助けてもらったのはありがてえけど、妙に偉そうだな。

 

「立てるって」

 

俺は地面に手をつき、何とか立ち上がった。

 

その拍子に左腕が痛んだ。

 

「いっ……!」

 

「……怪我をしているのですか?」

 

少女の視線が俺の左腕へ向いた。

 

袖は裂け、血が滲んでいる。

 

「……ちょっと斬られただけだよ」

 

「見せなさい」

 

「は?」

 

「腕です。見せなさい」

 

「いや、大丈夫だって」

 

「見せなさい」

 

……怖え。

 

声を荒らげているわけじゃないのに、妙に逆らいづらい。

 

仕方なく、俺は左腕を差し出した。

 

少女は傷口を覗き込むと、眉をひそめた。

 

「……浅いですね」

 

「だろ? だから大丈夫だって」

 

「ですが、処置は必要です」

 

「放っときゃ治るだろ」

 

「傷口が化膿したらどうするつもりですか?」

 

「……化膿?」

 

「傷口から菌が入り、悪化することです」

 

「ふーん……」

 

「ふーん、ではありません」

 

少女は呆れたようにため息をついた。

 

「あなた、本当に何も知らないのですね」

 

「……悪かったな」

 

何だこいつ。

 

さっきから小言ばっかりじゃねえか。

 

けど、強い。

 

それは確かだった。

 

「それで、あなたはどうしてあの男たちに追われていたのですか?」

 

少女は俺の腕を確認しながら尋ねた。

 

「……仕事だよ」

 

「仕事?」

 

「ああ。荷物を運んでくれって頼まれたんだ」

 

「誰からですか?」

 

「フィクサー事務所の奴」

 

「事務所の名前は?」

 

俺は覚えていた名前を答えた。

 

すると、少女の表情が少しだけ変わった。

 

「……なるほど」

 

「何だよ?」

 

「いえ。何でもありません」

 

そう言って、少女は何かを考え込んだ。

 

……何だ?

 

知ってる事務所なのか?

 

「……なあ」

 

「何ですか?」

 

「もしかして、あの鞄ってあんたのなのか?」

 

「正確には違いますが、私が回収するよう命じられた物です」

 

「……命じられた?」

 

「ええ」

 

「ふーん……」

 

やっぱり金持ちの家の奴なのかもしれない。

 

こんな綺麗な服を着ているんだ。

 

きっと、それなりに金のある家なんだろう。

 

「……じゃあ、あんたも仕事中なのか?」

 

「そうですね」

 

「……へえ」

 

同じ仕事か。

 

いや、全然違うか。

 

俺はただの使い走りだし、こいつはあんな連中を倒せる。

 

「……あのさ」

 

「何ですか?」

 

「その鞄、もう持ってるなら……俺の仕事ってどうなるんだ?」

 

「どうなる、とは?」

 

「いや、届けるはずだったんだよ。それをあんたに持ってかれたら、報酬が……」

 

少女はしばらく俺を見つめた。

 

「……報酬を気にしているのですか?」

 

「そりゃそうだろ」

 

「あなた、先ほど殺されかけたのですよ?」

 

「分かってるって!」

 

思わず声が大きくなった。

 

左腕がずきりと痛む。

 

「……分かってるよ」

 

俺は声を落とした。

 

さっきまで、あの男に剣を向けられていた。

 

本当に死ぬと思った。

 

今だって、まだ足が少し震えている。

 

けど。

 

「……報酬がねえと、飯が食えねえんだよ」

 

少女が黙り込んだ。

 

「いくらだったのですか?」

 

「三千眼」

 

「……三千眼?」

 

「ああ」

 

少女は少しだけ目を見開いた。

 

「それだけの金額で、命を危険にさらしたのですか?」

 

「それだけって……!」

 

思わず顔を上げる。

 

「三千眼だぞ!? 三千眼!」

 

「聞こえています」

 

「俺にとっちゃ大金なんだよ!」

 

「…………」

 

少女は俺をじっと見つめた。

 

……何だよ。

 

そんなに変なこと言ったか?

 

「……あなた、歳はいくつですか?」

 

「十二」

 

「十二歳?」

 

「ああ」

 

「……そうですか」

 

少女の視線が俺の身体を上下する。

 

細い腕。

 

骨ばった足。

 

継ぎ接ぎだらけの服。

 

……何だよ。

 

そんなに見るなって。

 

「……食事は?」

 

「は?」

 

「今日は食事を取りましたか?」

 

「……いや」

 

「昨日は?」

 

「……パン食った」

 

「それだけですか?」

 

「それだけって……」

 

俺は顔をしかめた。

 

「食えるだけましだろ」

 

少女は黙り込んだ。

 

何か考えているようだった。

 

俺は少し居心地が悪くなり、視線を逸らした。

 

すると、少女が静かに口を開いた。

 

「……ついてきなさい」

 

「……は?」

 

「その傷を手当てします」

 

「いや、別にいいって」

 

「よくありません」

 

「でも、金ねえぞ」

 

「…………」

 

少女がこちらを見た。

 

「……お金?」

 

「だから、治療代とか払えねえって」

 

少女は少しだけ目を見開いた。

 

それから、深いため息をついた。

 

「……取りません」

 

「え?」

 

「お金は取りません。だから、ついてきなさい」

 

「……マジで?」

 

「ええ」

 

「……何で?」

 

少女は少し考えてから答えた。

 

「……あなたをそのまま放置するのは、後味が悪いからです」

 

……変な奴。

 

何で見ず知らずのガキに、そこまでするんだ?

 

俺は少し考えた。

 

知らない奴についていくのは危ない。

 

兄貴にも何度もそう言われた。

 

けど。

 

目の前の少女は、さっき俺を助けてくれた。

 

少なくとも、すぐに殺そうとしてくる相手ではなさそうだ。

 

……多分。

 

「……分かったよ」

 

俺が答えると、少女は頷いた。

 

「では、行きましょう」

 

少女が歩き始める。

 

俺は慌ててその後を追った。

 

連れてこられたのは、路地裏の小さな食堂だった。

 

俺でも知っている店だ。

 

ただ、普段は高くて入れない。

 

店の前を通るたびに、肉を焼く匂いが漂ってきて、腹を空かせたまま通り過ぎていた。

 

「……ここ?」

 

「ええ」

 

「……高くねえ?」

 

「気にする必要はありません」

 

少女は当たり前のように扉を開けた。

 

中へ入ると、店主らしき男が顔を上げた。

 

「いらっしゃ……」

 

男の言葉が止まる。

 

少女の姿を見た瞬間、背筋を伸ばした。

 

「……いらっしゃいませ」

 

……何だ?

 

急に態度が変わったぞ。

 

「二人です。奥の席を使わせていただけますか?」

 

「は、はい。もちろんです」

 

少女は慣れた様子で店内を進んだ。

 

俺も後を追う。

 

すると、店主が俺をじろじろと見てきた。

 

……何だよ。

 

汚ねえガキが入ってきたのがそんなに珍しいのか?

 

まあ、珍しいか。

 

俺だって、自分みたいな奴がこんな店に入っていいとは思わねえ。

 

席に着くと、少女は店主に何かを頼んだ。

 

「清潔な水と包帯を。それから、温かい食事を二人分お願いします」

 

「かしこまりました」

 

……え?

 

俺は思わず少女を見た。

 

「……飯も?」

 

「ええ」

 

「俺の分も?」

 

「二人分と言いましたが」

 

「……マジか」

 

少女は眉をひそめた。

 

「先ほどから、そればかりですね」

 

「いや、だって……」

 

何だこいつ。

 

怪我を治すだけじゃなく、飯まで食わせてくれるのか?

 

……もしかして、後から金を請求するつもりじゃねえだろうな。

 

俺が疑っていると、少女は再びため息をついた。

 

「食事代も私が払います」

 

「……本当に?」

 

「ええ」

 

「……後から返せとか言わねえ?」

 

「言いません」

 

「……変なことさせたりしねえ?」

 

「……あなたは私を何だと思っているのですか?」

 

「いや、だって、知らねえ奴がタダで飯食わせてくれるなんて普通ねえだろ」

 

少女は何か言いかけて、口を閉じた。

 

そして、少しだけ表情を和らげた。

 

「……そうですね」

 

「……?」

 

「少なくとも、あなたの暮らしている場所では、そうなのでしょうね」

 

何だよ、それ。

 

まるで自分は違う場所で暮らしているみたいな言い方だな。

 

……まあ、服を見りゃ分かるけど。

 

しばらくして、水と包帯が運ばれてきた。

 

少女は黒い手袋を外し、俺の左腕を取った。

 

「少し痛みますよ」

 

「……分かった」

 

傷口に水が触れた。

 

「いっ……!」

 

思わず腕を引こうとする。

 

だが、少女にしっかり掴まれていた。

 

「動かないでください」

 

「い、痛えんだよ!」

 

「分かっています。ですから、我慢してください」

 

「簡単に言うなって!」

 

「もう少しです」

 

少女は手際よく傷を洗い、包帯を巻いていった。

 

……慣れてるな。

 

こういうことを何度もやってるんだろうか。

 

「……あんた、こういうの得意なのか?」

 

「最低限の処置くらいはできます」

 

「へえ……」

 

「あなたも覚えておいた方がいいですよ」

 

「何で?」

 

「今後も危険な仕事を続けるのであれば、必要になるでしょうから」

 

……なるほど。

 

確かに、それはそうかもしれない。

 

「……教えてくれんの?」

 

俺が聞くと、少女は少し驚いたようだった。

 

「……覚えるつもりがあるのですか?」

 

「そりゃ、できた方がいいだろ」

 

「……そうですね」

 

少女は頷いた。

 

「では、まず傷を洗う時は――」

 

そこから、簡単な手当ての仕方を教えてくれた。

 

傷口を洗うこと。

 

汚れた布をそのまま巻かないこと。

 

血が止まらない時は無理に動かさないこと。

 

思っていたより覚えることが多かった。

 

けど、一度説明されれば大体は理解できた。

 

「……なるほどな」

 

「分かりましたか?」

 

「おう」

 

「では、今説明したことを言ってみてください」

 

「え?」

 

「本当に覚えているか確認します」

 

……何だよ。

 

勉強でもしてるみてえじゃねえか。

 

そう思いながらも、俺は教わった内容を順番に話した。

 

すると、少女は少しだけ目を丸くした。

 

「……一度で覚えたのですか?」

 

「……ああ」

 

「そうですか」

 

「……何だよ?」

 

「いえ。物覚えは良いのですね」

 

「……まあな」

 

少しだけ、胸を張った。

 

何でも中途半端な俺だが、これだけは結構得意なんだ。

 

「では、次は自分でできるようになりなさい」

 

「おう」

 

そう答えると、少女は小さく頷いた。

 

何となく、褒められたような気がした。

 

それから少しして、食事が運ばれてきた。

 

「…………」

 

俺は目の前に置かれた皿を見つめた。

 

肉。

 

野菜。

 

温かいスープ。

 

それに、柔らかそうなパン。

 

……何だこれ。

 

こんなに食っていいのか?

 

「……食べないのですか?」

 

少女が不思議そうに尋ねた。

 

「……いや」

 

俺は恐る恐るパンを手に取った。

 

柔らかい。

 

昨日食ったパンとは全然違う。

 

一口かじる。

 

「…………!」

 

うめえ。

 

何だこれ。

 

めちゃくちゃうめえ!

 

俺は夢中でパンを食べ始めた。

 

続けてスープを飲む。

 

温かい。

 

腹の中に熱が広がっていく。

 

「……うめえ!」

 

思わず声が出た。

 

「ちょっと、あなた」

 

少女が何か言っている。

 

けど、今はそれどころじゃない。

 

肉だ。

 

肉がある。

 

俺は急いで肉を口に運んだ。

 

「……っ!」

 

うめえ!

 

柔らかいし、味もちゃんとついてる!

 

こんな飯、いつ以来だ?

 

いや、そもそも食ったことあったか?

 

「……あなた!」

 

「ん?」

 

顔を上げる。

 

少女が呆れた顔でこちらを見ていた。

 

「もう少し落ち着いて食べなさい」

 

「……何で?」

 

「行儀が悪いでしょう」

 

「行儀?」

 

「ええ。それに、そんなに急いで食べたら喉を詰まらせます」

 

「……別に大丈夫だって」

 

そう言って、もう一口肉を食べようとした。

 

その時だった。

 

カチャン。

 

少女が食器を置いた。

 

ただ、それだけだった。

 

なのに。

 

「っ……!」

 

俺の肩が大きく跳ねた。

 

反射的に身体を縮め、頭を庇おうとする。

 

「……?」

 

少女が目を瞬かせた。

 

「どうしました?」

 

「……何でもねえよ」

 

慌てて手を下ろす。

 

心臓がうるさい。

 

さっきの男が剣を振り上げた時のことが、頭に浮かんでいた。

 

……くそ。

 

もう終わっただろうが。

 

あいつらは逃げた。

 

俺は助かった。

 

分かってる。

 

分かってるのに、身体が勝手に動きやがる。

 

「……あなた」

 

少女が口を開いた。

 

「無理に食べる必要はありませんよ」

 

「……は?」

 

「少し休んでからでも――」

 

「いや、食う」

 

俺は慌てて答えた。

 

「せっかくの飯だし」

 

「……そうですか」

 

少女はそれ以上何も言わなかった。

 

ただ、先ほどよりも静かに食器を扱うようになった。

 

……何だよ。

 

別に気を遣わなくてもいいのに。

 

そう思ったが、口には出さなかった。

 

しばらくすると、腹も落ち着いてきた。

 

俺は少女の食べ方を眺めた。

 

背筋を伸ばし、食器を丁寧に扱っている。

 

動作が妙に綺麗だった。

 

……金持ちって、みんなこんな食べ方すんのか?

 

俺は自分の手元を見る。

 

パンの欠片が散らばり、スープも少しこぼしていた。

 

……まあ、いいか。

 

食えりゃ同じだろ。

 

そう思っていると、少女がこちらを見た。

 

「……あなた」

 

「ん?」

 

「食器は正しく使いなさい」

 

「……は?」

 

「そのように握り込むものではありません」

 

少女は自分の食器を持ち、正しい使い方を見せてきた。

 

「こうです」

 

「……めんどくせえな」

 

「何か言いましたか?」

 

「……何でもねえよ」

 

仕方なく、少女の真似をする。

 

すると、少女は満足そうに頷いた。

 

「そうです。それでいいのです」

 

……何なんだ、こいつ。

 

さっきから小言ばっかりだ。

 

強いのは分かったけど、いちいち細けえな。

 

まあ、飯を食わせてもらってる立場だから文句は言えねえけど。

 

「……なあ」

 

「何ですか?」

 

「さっきの、どうやったんだ?」

 

「……何の話ですか?」

 

「戦ってた時のやつ」

 

俺は手を動かしながら説明した。

 

「こう、相手の剣を弾いて、すぐに殴ってただろ?」

 

「……銃剣術のことですか?」

 

「そう! それ!」

 

少女は少しだけ意外そうな顔をした。

 

「興味があるのですか?」

 

「そりゃあるだろ!」

 

思わず身を乗り出す。

 

「あんな戦い方、初めて見たぞ! 銃って撃つだけじゃねえんだな!」

 

「……ええ。銃剣は近接戦闘にも使用できますから」

 

「しかも、あんた一発も撃ってねえだろ?」

 

「そうですね」

 

「すげえな!」

 

少女の手が止まった。

 

「……すごい?」

 

「ああ!」

 

俺は興奮したまま続けた。

 

「あいつら三人もいたんだぞ! それを一人で倒しちまうんだから、めちゃくちゃ強えじゃねえか!」

 

「…………」

 

少女は黙った。

 

……ん?

 

何か変なこと言ったか?

 

「……どうした?」

 

「……いえ」

 

少女は視線を逸らした。

 

「この程度、特別なことではありません」

 

「は?」

 

「私の家では、この程度の技量は珍しくありませんから」

 

「……マジかよ」

 

俺は思わず声を上げた。

 

「じゃあ、あんたの家の奴らって全員あんなに強えのか!?」

 

「……少なくとも、私より優秀な者は大勢います」

 

「……すげえな」

 

何だ、その家。

 

化け物の集まりじゃねえか。

 

俺は改めて少女を見た。

 

あんなに強いのに、家では大したことないらしい。

 

世の中、上には上がいるもんだな。

 

「……じゃあ、あんたももっと強くなるのか?」

 

「……え?」

 

「だって、まだ若いだろ? これからもっと強くなるんじゃねえの?」

 

少女はしばらく俺を見つめていた。

 

それから、静かに答えた。

 

「……そのつもりです」

 

「そっか」

 

俺は頷いた。

 

「じゃあ、もっとすげえんだな」

 

「…………」

 

少女は何も言わなかった。

 

けど、さっきまでとは少し表情が違う気がした。

 

……何だ?

 

怒らせたわけじゃねえよな?

 

「……一つ、訂正させてください」

 

「ん?」

 

「先ほどの戦闘は、決して褒められたものではありません」

 

「……そうなのか?」

 

「ええ。最後の相手には押し込まれましたし、上着も傷つけられました」

 

少女は少しだけ切れた裾に目を向けた。

 

「まだまだ未熟です」

 

「……ふーん」

 

俺は少女の言葉を考えた。

 

確かに、最後の男は結構強そうだった。

 

少女も少し苦戦していた。

 

けど。

 

「……でも、勝ったじゃねえか」

 

「……え?」

 

「そりゃ、もっと強い奴もいるんだろうけどさ」

 

俺は肉を一口食べた。

 

「俺からしたら、あんたは十分すげえよ」

 

「…………」

 

少女は何も言わなかった。

 

ただ、少しだけ目を伏せた。

 

「……そうですか」

 

その声は、さっきよりも小さかった。

 

食事を終える頃には、腹がいっぱいになっていた。

 

こんなに食ったのは、いつ以来だろう。

 

……いや、初めてかもしれない。

 

「……ふぅ」

 

椅子にもたれかかる。

 

幸せだ。

 

腹がいっぱいって、こんなにいいもんだったんだな。

 

「……満足しましたか?」

 

少女が尋ねた。

 

「おう!」

 

「それはよかったです」

 

「……なあ」

 

「何ですか?」

 

「余ったパン、持って帰っていいか?」

 

少女は目を瞬かせた。

 

「……持って帰る?」

 

「ああ。明日食う」

 

「……明日の食事ですか」

 

「そうだけど」

 

少女は少し考えた後、店主を呼んだ。

 

「申し訳ありません。残ったパンを包んでいただけますか?」

 

「かしこまりました」

 

店主がパンを包んでくれる。

 

……マジか。

 

頼んでみるもんだな。

 

俺は包みを受け取り、大事に袋へしまった。

 

「……ありがとな」

 

少女がこちらを向いた。

 

「……何ですか?」

 

「飯と、腕のやつ」

 

俺は包帯を巻かれた左腕を持ち上げた。

 

「助かった。ありがとよ」

 

少女はしばらく俺を見ていた。

 

それから、静かに口を開いた。

 

「……お礼を言うのであれば、もう少し丁寧な言葉を使いなさい」

 

「……は?」

 

「年上の相手に対して、その口調は失礼です」

 

「……またそれかよ」

 

思わず顔をしかめた。

 

さっきから何回礼儀の話をするんだ、こいつ。

 

「……あんた、礼儀にうるせえな」

 

「当然のことを言っているだけです」

 

「ふーん……」

 

俺は少し考えた。

 

丁寧な言葉、ねえ。

 

姉ちゃんが事務所の客と話す時に使っていた言葉を思い出す。

 

確か……。

 

「……本日は、ありがとうございました」

 

そう言って、頭を下げた。

 

少女が目を見開く。

 

「……!」

 

「……これでいいか?」

 

少女は少し遅れて頷いた。

 

「……ええ。よくできました」

 

「……何だよ、ガキ扱いして」

 

「実際、子供でしょう?」

 

「……あんただって、そんなに歳変わんねえだろ」

 

「私は十五歳です」

 

「……三つしか違わねえじゃん」

 

「三つも違います」

 

「……へいへい」

 

少女の眉がぴくりと動いた。

 

「返事は『はい』です」

 

「……はい」

 

「よろしい」

 

……怖え。

 

いや、さっきの男たちよりはずっとましだけど。

 

店を出ると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。

 

裏路地には、仕事を終えた連中や、酒に酔った男たちが行き交っている。

 

少女は店の前で立ち止まった。

 

「……では、私はこれで」

 

「……ああ」

 

「傷口は清潔にしておきなさい。包帯も汚れたら交換すること」

 

「分かってるって」

 

「それから、あのような仕事を安易に引き受けてはいけませんよ」

 

「……へいへい」

 

「……返事は?」

 

「……はい」

 

少女は満足そうに頷いた。

 

そして、背を向けて歩き始める。

 

赤い上着が、夕日に照らされた。

 

……綺麗な服だな。

 

俺の服とは大違いだ。

 

それに、強い。

 

あんなに強い奴、今まで見たことがなかった。

 

銃剣を振るう姿が、頭から離れない。

 

相手の剣を受け流し、隙を突いて倒す。

 

力任せじゃない。

 

ちゃんと考えて動いている。

 

……あんなことができたら、仕事の幅も広がるんだろうな。

 

「……なあ!」

 

気づけば、俺は少女を呼び止めていた。

 

少女が振り返る。

 

「……何ですか?」

 

「さっきの銃剣術って、どこで習えるんだ?」

 

少女は少し驚いたようだった。

 

「……銃剣術、ですか?」

 

「ああ」

 

「なぜです?」

 

「そりゃ……」

 

俺は少し考えた。

 

別に、あいつらに仕返ししたいわけじゃない。

 

強くなって有名になりたいわけでもない。

 

ただ。

 

あんなふうに戦えたら、危ねえ仕事でも生き残れるんじゃねえかと思った。

 

それに……。

 

「……かっこよかったから」

 

口に出してから、少し恥ずかしくなった。

 

少女は黙ったまま俺を見つめていた。

 

「……かっこいい?」

 

「ああ。あんた、めちゃくちゃ強かったし」

 

「…………」

 

「俺も、あんなふうに戦えたらいいなって」

 

少女は何も答えなかった。

 

……何だよ。

 

そんなに変なこと言ったか?

 

しばらくして、少女は小さく息を吐いた。

 

「……まずは、まともに食事を取りなさい」

 

「……は?」

 

「その身体では、武器を振るう以前の問題です」

 

「……ぐっ」

 

それは確かにそうかもしれない。

 

俺の腕は細い。

 

重い荷物を持つだけでも疲れる。

 

あんな長い銃を振り回せるとは思えなかった。

 

「……じゃあ、飯食えばできるようになるのか?」

 

「それだけではありません。基礎的な体力と訓練も必要です」

 

「……ふーん」

 

なるほど。

 

飯を食って、身体を鍛えて、訓練する。

 

……金がかかりそうだな。

 

「……やっぱ難しそうだな」

 

俺が呟くと、少女は少し考え込んだ。

 

それから、静かに口を開いた。

 

「……あなた」

 

「ん?」

 

「普段はどこで暮らしているのですか?」

 

「……この辺だけど」

 

「家は?」

 

「ねえよ」

 

「……ない?」

 

「ああ。追い出されたからな」

 

少女の表情が変わった。

 

「……ご両親は?」

 

「いるけど、もう帰ってくるなって言われた」

 

「…………」

 

少女は黙り込んだ。

 

何だ?

 

そんなに珍しいことか?

 

この辺じゃ、家を追い出されたガキなんていくらでもいるだろ。

 

「……そうですか」

 

少女は静かに呟いた。

 

それから俺の左腕に巻かれた包帯を見つめる。

 

「……他に頼れる人はいないのですか?」

 

「兄貴と姉ちゃんはいるけど」

 

「では、その方たちに――」

 

「二人とも働いてんだよ」

 

俺は少女の言葉を遮った。

 

「兄貴はまだ見習いだし、姉ちゃんだって自分の生活があるんだ。俺まで世話になるわけにはいかねえだろ」

 

少女は何も言わなかった。

 

……何だよ。

 

俺、変なこと言ったか?

 

「……そうですか」

 

少女は少しだけ目を伏せた。

 

それから、何かを考えるように俺の顔を見つめた。

 

「……あなた、名前は?」

 

「……名前?」

 

「ああ、いえ……」

 

少女は何か言いかけて、首を振った。

 

「やはり、今日はもう遅いですね」

 

「……?」

 

「暗くなる前に、寝る場所へ戻りなさい」

 

「……分かってるよ」

 

「それから、怪我をした腕を無理に使わないこと」

 

「……はいはい」

 

「返事は?」

 

「……はい」

 

少女は小さく頷いた。

 

「では」

 

そう言って、再び歩き始める。

 

俺はその背中を見送った。

 

赤い上着。

 

整った姿勢。

 

背負われた銃剣。

 

裏路地の汚れた風景の中で、そいつだけ妙に目立っていた。

 

「……変な奴」

 

思わず呟く。

 

初めて会った相手に飯を食わせて、怪我まで治してくれる。

 

そのくせ、礼儀にはやたらうるさい。

 

何者なんだろうな、あいつ。

 

金持ちの娘か?

 

それとも、どこかの組織の人間か?

 

……まあ、いいか。

 

俺には関係ねえ。

 

そう思って歩き始めた。

 

けど、少し進んだところで足を止める。

 

「……あ」

 

そういえば。

 

あいつの名前、聞いてねえな。

 

「……まあ、いいか」

 

どうせ、もう会うこともねえだろ。

 

俺は袋に入ったパンを確認した。

 

まだちゃんとある。

 

明日の飯は確保できた。

 

腕は痛むけど、命は助かった。

 

三千眼はもらえなかったが、飯も食えたし、傷も手当てしてもらった。

 

……まあ、結果だけ見れば悪くねえか。

 

いや。

 

よく考えたら、死にかけたんだった。

 

「……やっぱ最悪だな、今日」

 

小さく笑う。

 

次からは、怪しい仕事を引き受ける前にもう少し考えよう。

 

そう決めた。

 

……まあ、金がなくなったらどうなるか分からねえけど。

 

俺はいつもの寝床へ向かって歩き始めた。

 

その途中、ふと頭に浮かんだのは、赤い服の少女が銃剣を振るう姿だった。

 

剣を受け流し、相手を倒す。

 

無駄のない動き。

 

あんなに強ければ、誰かに殺される心配も少なくなるんだろうか。

 

「……銃剣術、か」

 

小さく呟く。

 

俺にもできるんだろうか。

 

……いや、今は無理か。

 

まともに飯も食えねえんだから。

 

でも、いつか。

 

いつか、あんなふうに戦えたらいいな。

 

俺は試しに、右手で見えない銃の柄を握った。

 

さっきの少女がやっていたように、一歩踏み込み、前へ突き出してみる。

 

「……おっ」

 

何となく、それっぽい。

 

もう一度やってみた。

 

今度は少し大きく踏み込む。

 

「……っ!」

 

足がもつれ、危うく転びそうになった。

 

「……難しいな、これ」

 

少女はあんなに簡単そうにやっていたのに。

 

……やっぱり、すげえな。

 

俺は誰も見ていないことを確かめると、もう一度だけ構えを真似した。

 

上手くできたかは分からない。

 

けど、さっきより少しだけましになった気がした。

 

「……へへっ」

 

妙に楽しくなってきた。

 

今度、何か棒でも拾って練習してみるか。

 

そう考えながら、俺は暗くなり始めた裏路地を歩いていった。

 

第2話 終

 

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