屋敷の門が見えてきた頃には、すっかり日が暮れていた。
私は門の前で足を止め、手に持った銃を見下ろした。
黒く磨かれた銃身。
その側面には、いくつもの細かな傷が刻まれている。
敵の剣を受け流しきれず、まともに受け止めてしまった時についたものだ。
幸い、銃剣の刃に損傷はない。
銃としての機能にも問題はなかった。
しかし、だからといって許されるものではない。
続いて、私は自分の上着へ視線を落とした。
赤を基調とした、ボニャテッリ家の名に相応しい仕立ての上着。
その裾には、斜めに切れ目が入っていた。
最後に戦った男の剣を避けきれなかった時についた傷だ。
「…………」
たった三人。
それも、裏路地にいた無法者たちを相手に、この有様。
兄様や姉様たちなら、こんな失態は犯さなかっただろう。
私は上着の裂け目を指でなぞった。
……どうしましょう。
今から仕立屋へ向かえば、応急的な修繕くらいはできるかもしれない。
銃の傷も、磨けば多少は目立たなくなるだろう。
しかし。
「……いいえ」
私は小さく首を振った。
失態を隠したと知られれば、装備を傷つけたこと以上の処罰を受ける。
何より、上位者に対して事実を隠すことは許されない。
私は銃を背負い直した。
そして、門の前に立つ。
「お帰りなさいませ、ヴィオラ様」
警備をしていた男たちが一斉に姿勢を正した。
「ただいま戻りました」
私が答えると、男たちは深く頭を下げた。
重い門が開く。
その向こうには、整えられた庭園と大きな屋敷が広がっていた。
ボニャテッリ家。
都市の裏社会において、七大名門の一つに数えられる一族。
数多くの優秀な戦闘員を輩出し、親指の中にも大きな影響力を持つ家系。
私は、その五人兄弟の末娘だった。
長女のヴァレンチーナ姉様。
長男のアレッシオ兄様。
次女のルクレツィア姉様。
次男のダリオ兄様。
そして、三女の私。
ヴィオラ・ボニャテッリ。
五人の中で、最も才能に恵まれなかった娘。
私は深く息を吸った。
……覚悟を決めましょう。
そして、屋敷へ足を踏み入れた。
「ヴィオラ」
玄関を抜けたところで、聞き慣れた声が響いた。
私は反射的に足を止める。
廊下の奥に立っていたのは、ルクレツィア姉様だった。
淡い金色の髪を綺麗にまとめ、皺一つない衣服を身につけている。
次姉は、幼い頃から私の礼儀作法を指導してきた人物でもある。
「ただいま戻りました。ルクレツィア姉様」
私はすぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。
「顔を上げなさい」
「かしこまりました」
私は顔を上げた。
姉様の視線が私の顔を通り過ぎ、上着へ落ちる。
「……その服は?」
「…………」
予想していた質問だった。
それでも、喉がわずかに強張った。
「質問しています。答えなさい」
「任務中、敵の攻撃を避けきれず、損傷させました」
「そう」
姉様は私へ近づき、上着の裾をつまみ上げた。
「随分と見苦しいですね」
「申し訳ございません」
「謝罪を求めた覚えはありません」
「……失礼いたしました」
「銃を見せなさい」
「かしこまりました」
私は背負っていた銃を下ろし、両手で差し出した。
姉様はそれを受け取り、銃身を確認する。
傷のある部分で、その指が止まった。
「……こちらにも傷がありますね」
「はい」
「敵は何名でしたか?」
「三名です」
「三名?」
姉様が顔を上げた。
「たった三名を相手に、装備を傷つけられたのですか?」
「……はい」
「相手は?」
「剣と刀を所持した、裏路地の無法者です」
「所属は?」
「確認できておりません」
「技量は?」
「一名はある程度の戦闘経験を有していましたが、残りの二名はそれほど高い技量ではありませんでした」
姉様は黙って私を見つめた。
そして、銃を返してきた。
「……ついてきなさい」
「かしこまりました」
私は頭を下げ、姉様の後に続いた。
連れてこられたのは礼法室だった。
壁には一族の歴代当主の肖像画が並び、中央には長い机が置かれている。
床は鏡のように磨かれていた。
幼い頃から、私はここで多くのことを教えられてきた。
目上の者に対する言葉遣い。
命令を受ける際の姿勢。
報告の順序。
許可された者だけが発言し、許可された者だけが行動する。
そして、上下関係を乱した者には相応の処罰が与えられること。
「跪きなさい」
「かしこまりました」
私は床に膝をついた。
背筋を伸ばし、両手を揃える。
視線は正面より少し下。
姉様から教えられた姿勢だ。
「本日の任務を報告しなさい」
「はい」
私は息を整えた。
「本日は、一族の管理下にある物品の流出経路を調査し――」
「違います」
姉様の声が響いた。
「……っ」
「報告の順序が違います」
「申し訳ございません」
「まず任務の目的と結果。その後に経緯です。何度教えましたか?」
「……数え切れないほど、ご指導いただきました」
「そうですね」
姉様は机へ歩み寄った。
「それなのに、まだ間違えるのですか?」
「……はい」
「最初から」
「かしこまりました」
私は報告をやり直した。
任務の目的は、流出した物品の回収。
結果は成功。
ただし、回収に際して武装した三名と交戦し、装備と衣服を損傷。
そして、運搬経路に関係する情報を入手した。
姉様は黙って聞いていた。
「……以上です」
報告を終えた。
しかし、姉様は頷かなかった。
「……ヴィオラ」
「はい」
「運搬役についての報告がありませんね」
「……っ」
私は思わず顔を上げた。
次の瞬間。
パシンッ!
「……あっ!」
手の甲に鋭い痛みが走った。
姉様の教鞭だった。
「誰が顔を上げる許可を与えましたか?」
「……申し訳ございません!」
「右手を出しなさい」
「かしこまりました」
私は右手を差し出した。
再び、教鞭が振り下ろされる。
パシンッ!
「……っ!」
痛みで指先が震えた。
「姿勢を崩さない」
「……はい」
「質問に答えなさい。運搬役について、なぜ報告を省いたのですか?」
「……重要性が低いと判断いたしました」
「誰が?」
「……私が、です」
「誰の許可で判断しましたか?」
「…………」
答えられなかった。
姉様は教鞭を机に置いた。
「ヴィオラ。あなたは自分の立場を理解していないようですね」
「……申し訳ございません」
「情報の価値を判断するのは、報告を受ける上位者です」
「……はい」
「あなたには、報告すべき情報を勝手に省略する権限などありません」
「承知いたしました」
「その少年は何者ですか?」
「……十二歳の少年です。荷運びの仕事を請け負った者と思われます」
「所属は?」
「不明です」
「情報の入手方法は?」
「食事を対価として提供し、依頼人と倉庫の情報を聞き出しました」
「……食事?」
姉様の声が少し低くなった。
「あなたは一族の資金で、裏路地の子供に食事を与えたのですか?」
「……はい」
「理由を」
「少年は依頼人の顔や特徴、倉庫までの道順を正確に記憶しておりました。情報の価値があると判断し、対価を提示しました」
「金額は?」
私は食堂で支払った金額を答えた。
姉様はしばらく黙っていた。
「……二人分の食事代ですね」
「はい。私も同席して食事を取り、その間に事情を聞き出しました」
「それで、得られた情報は?」
私は少年から聞き出した内容を、順番に説明した。
事務所の場所。
依頼人の容姿。
倉庫までの道順。
運搬を指示した男の特徴。
姉様は最後まで聞くと、小さく頷いた。
「……対価としては安いですね」
「ありがとうございます」
「褒めたわけではありません。取引の価値を認めただけです」
「……失礼いたしました」
「次からは、支出と得られた情報を報告書に明記しなさい」
「かしこまりました」
「それから、覚えておきなさい」
姉様の声が冷たくなる。
「あなたが善意で他人に施しを与えることは、任務ではありません」
「承知しております」
「必要のない慈悲など、一族にとって何の利益にもなりません」
「……はい」
姉様は頷いた。
「最初から報告し直しなさい」
「かしこまりました」
私は再び姿勢を正した。
何度目かの報告を終える頃には、膝が痛み始めていた。
順序を間違えれば、最初から。
事実と推測を混同すれば、最初から。
言葉遣いが乱れれば、また最初から。
姉様は一度も声を荒らげなかった。
しかし、私が正しく報告できるまで、終わらせてはくださらなかった。
「……よろしい」
ようやく姉様が頷いた。
「ありがとうございます」
「最後に一つ」
「……はい」
「あなたは、無礼を働いた者たちを処罰したそうですね」
「はい」
「内容は?」
「一名の下顎を砕き、もう一名の腕を折りました。残る一名は謝罪を行ったため、処罰を免除しました」
「判断の根拠は?」
私は当時の状況を説明した。
一人目は、敗北した後も無礼な言葉を繰り返した。
二人目は、武器の引き渡しに際して命令に反する行動を取った。
三人目は謝罪し、適切な服従の姿勢を示した。
「……そうですか」
姉様は頷いた。
「処罰の判断自体は問題ありません」
「ありがとうございます」
「ですが、他人に礼節を教える前に、自分が教えられたことを守れるようになりなさい」
「……はい」
「あなたはまだ、上位者の命令を正確に実行できていません」
「申し訳ございません」
「謝罪よりも改善を期待しています」
「かしこまりました」
姉様は教鞭を置いた。
「顔を上げてよろしい」
「ありがとうございます」
私はゆっくりと顔を上げた。
その時だった。
扉が叩かれた。
「ルクレツィア様。ヴァレンチーナ様がお戻りです」
使用人の声だった。
私は反射的に背筋を伸ばした。
……ヴァレンチーナ姉様が。
「通しなさい」
「かしこまりました」
扉が開いた。
「おい。何やってんだ、お前ら」
聞き慣れた声が響いた。
最初に部屋へ入ってきたのは、細く立ち上る白い煙だった。
続いて、一人の女性が姿を現す。
ヴァレンチーナ姉様。
私たち五人兄弟の長女。
一族でも屈指の剣士であり、親指の中でも高い評価を受けている人物。
そして、ボニャテッリ家に伝わるパレルモ剣術を修めた者の一人。
姉様は片手に煙草を持ち、気だるそうに部屋へ入ってきた。
口元へ運び、ゆっくりと煙を吸い込む。
そして、私たちの前で白い煙を吐き出した。
礼法室は、本来なら身なりや振る舞いの乱れすら許されない場所だ。
しかし、姉様の喫煙を咎める者はいなかった。
ルクレツィア姉様でさえ、何も言わない。
……当然だ。
ヴァレンチーナ姉様は、この場で最も上位の立場にいるのだから。
「ヴァレンチーナ姉様」
私はすぐに頭を下げた。
姉様は煙草を指に挟み、私を一瞥した。
「……何だ。ヴィオラか」
「はい」
「また何かやらかしたのか?」
「……はい」
「チッ。相変わらずだな」
姉様はルクレツィア姉様へ向き直った。
「で? 何をやった?」
「任務中に装備と衣服を損傷させたそうです。報告にも不備があったため、礼節の再教育を行っておりました」
「装備?」
姉様の視線が私へ向いた。
煙草を口に咥え、顎をしゃくる。
「銃」
「かしこまりました」
私は銃を差し出した。
姉様は片手で受け取り、銃身を確認した。
指先が傷の上をなぞる。
続いて、私の上着の裾へ目を向けた。
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
姉様は煙草を口元へ運び、一度深く吸い込んだ。
それから、ゆっくりと煙を吐き出す。
「……何人だ?」
低い声だった。
「……三名です」
「所属は?」
「不明です。裏路地の無法者と思われます」
「フィクサーか?」
「確認できておりません」
「……そうか」
姉様は銃を見下ろした。
「雑魚三匹を相手に、これか」
「……申し訳ございません」
「お前さぁ」
姉様は顔を上げた。
「自分がどこの家の人間か、忘れたのか?」
「……いいえ」
「なら言ってみろ」
「ボニャテッリ家です」
「聞こえねえ」
「ボニャテッリ家です!」
姉様は頷いた。
「そうだよな」
そして、銃を机へ置いた。
ガンッ!
大きな音が響く。
「だったら何で、その辺の雑魚三匹にこんな無様な傷つけられてんだよ!」
「……っ!」
「お前一人の恥じゃ済まねえんだぞ!」
「申し訳ございません!」
「謝るな! 理由を言え!」
私は慌てて姿勢を正した。
「相手の力量を見誤り、剣を正面から受け止めてしまいました!」
「それで?」
「間合いの取り方を誤り、反撃の機会を失いました!」
「他には?」
「…………」
私は必死に考えた。
しかし、それ以上の理由が浮かばなかった。
「……申し訳ございません。分かりません」
姉様は舌打ちした。
「……チッ」
そして、ルクレツィア姉様へ向き直る。
「こいつ、礼儀もできねえんだって?」
「はい。報告の順序と、上位者に対する姿勢を再確認させておりました」
「ハッ」
姉様は鼻で笑った。
「戦闘もできねえ。礼儀もできねえ。いったい何ならできんだよ」
「…………」
私は答えられなかった。
姉様は煙草の灰を落とした。
「……もういい」
そして、ルクレツィア姉様へ向き直った。
「こいつ借りるぞ」
「姉上が直接ご指導なさるのですか?」
「ああ」
姉様は煙草を咥え直した。
「礼儀も戦い方も、アタシが教え直してやる」
ルクレツィア姉様は一瞬だけ考えた。
そして、深く頭を下げた。
「……かしこまりました」
「おい、ヴィオラ」
「はい!」
「立て。訓練場に来い」
「かしこまりました!」
姉様は先に歩き始めた。
私は慌ててその後を追う。
「……ったく」
姉様の声が聞こえた。
「帰ってきたばっかだってのに、面倒くせえ仕事増やしやがって」
「……申し訳ございません」
「チッ。さっさと歩け」
「はい!」
私は歩く速度を上げた。
……私がお願いしたわけではない。
ほんの一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎった。
しかし、すぐに打ち消した。
姉様が直々にご指導くださるのだ。
私がその時間に見合うだけの成果を出せば、問題はない。
……そう。
私が、きちんと覚えればよいのです。
訓練場には、すでに明かりが灯されていた。
広い室内には様々な武器が整然と並べられている。
壁には歴代の剣士たちの肖像画。
その奥には、普段は閉ざされている重い扉があった。
パレルモ剣術の継承者たちが使用する、専用の訓練室。
十八歳以上。
そして、一族から才能を認められた者。
その条件を満たした人間だけが、あの扉の向こうで教えを受けられる。
私はまだ、その資格を持っていなかった。
……いつか。
あの場所へ入ることができるのでしょうか。
「おい、ヴィオラ」
「……はい!」
姉様の声に、私は慌てて振り返った。
姉様は訓練場の隅にある椅子へ腰を下ろしていた。
足を組み、煙草を吸っている。
「何ぼさっとしてんだ?」
「……申し訳ございません」
「アタシが呼んだら、すぐに返事をしろ」
「かしこまりました!」
姉様は煙草を吸いながら、しばらく私を眺めていた。
「……ったく」
白い煙が吐き出される。
「お前のために、わざわざアタシが時間使ってやってんだぞ」
「……ありがとうございます」
「感謝してんなら、さっさと覚えろよ」
「……はい!」
姉様は煙草を灰皿へ置いた。
それから、壁に掛けられていた訓練用の剣を手に取る。
刃は潰されているが、十分な重さがある。
「構えろ」
「かしこまりました」
私は銃剣を構えた。
姉様は私を見下ろした。
「今日の戦闘を再現しろ」
「……はい」
「相手が剣を振り下ろした時、お前はどうした?」
「銃身で受け止めました」
「だったらやってみろ」
姉様が剣を構えた。
私は銃身を斜めに構える。
次の瞬間。
ガキンッ!
凄まじい衝撃が腕に走った。
「……っ!」
剣を受け止めた。
しかし、力が違いすぎる。
銃身が押し下げられる。
「どうした!」
姉様が怒鳴った。
「受け止めたんだろ!? だったら最後まで耐えてみろよ!」
「くっ……!」
私は必死に力を込めた。
だが。
姉様の膝が腹へ突き刺さった。
「がっ……!」
息が詰まる。
身体が折れ曲がる。
そこへ剣の柄が背中へ落ちた。
「ぐっ!」
私は床に倒れ込んだ。
肺から空気が押し出される。
「……っ、げほっ……!」
苦しい。
息ができない。
「立て」
姉様の声が響く。
私は慌てて身体を起こそうとした。
「……はっ……はい……!」
「遅え!」
脇腹を蹴られた。
「がっ!」
身体が床を転がる。
「命令されたらすぐ動け! アタシに何度も言わせんじゃねえ!」
「……申し訳、ございません……!」
私は床に手をつき、何とか立ち上がった。
姉様は剣を肩に担いでいた。
「で? 今ので分かったか?」
「……はい」
「何が分かった?」
「……相手の力を考えずに受け止めれば、押し負けてしまいます」
「そんなことも分かってなかったのか?」
「……申し訳ございません」
姉様は舌打ちした。
「次だ」
二度目。
私は銃身で受け止めるのではなく、攻撃を受け流そうとした。
姉様が踏み込む。
私は半歩横へ動き、剣を逸らそうとする。
しかし。
「甘えんだよ!」
姉様の剣が途中で軌道を変えた。
「……っ!」
予想していなかった。
反射的に銃を引こうとしたが、間に合わない。
剣の腹が肩を打った。
「ぐっ!」
続けて、姉様の足が私の膝を払う。
身体が傾く。
銃を支えに立ち直ろうとした瞬間、拳が頬へ叩き込まれた。
「……あっ!」
視界が揺れた。
床に倒れ込む。
「何だ、その動きは!」
姉様が怒鳴った。
「最初の一撃を避けただけで安心してんじゃねえ!」
「……はい……!」
「敵が一度しか攻撃してこねえとでも思ってんのか!?」
「……申し訳、ございません……!」
私は慌てて立ち上がった。
姉様は剣を構え直した。
「もう一度」
「かしこまりました!」
私は銃剣を握り直した。
……今度こそ。
一撃だけを見るのではなく、その後の動きも考えなければ。
姉様の肩。
剣の向き。
足の位置。
私はそれらを注意深く見つめた。
姉様が踏み込む。
私は銃剣で牽制した。
姉様は剣で弾く。
今度は、次の攻撃を予測して身体をずらした。
……避けられた!
そう思った。
しかし。
「何を喜んでんだ?」
姉様の声が聞こえた。
次の瞬間、剣の柄が私の腹へ叩き込まれた。
「かはっ……!」
身体が折れる。
「敵を見ろ!」
姉様が私の髪を掴んだ。
「……っ!」
無理やり顔を上げさせられる。
「お前は一つ覚えたら一つ忘れんのか!?」
「……も、申し訳……!」
「相手の動きを見ろっつってんだろうが!」
姉様は私を突き飛ばした。
私はよろめき、床に膝をついた。
慌てて立ち上がろうとした時、姉様は剣を下ろした。
「……もういい」
「……っ」
姉様は椅子へ戻り、灰皿に置いていた煙草を手に取った。
まだ半分ほど残っている。
それを口に咥え、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
私は立ち上がり、姿勢を正した。
姉様はしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「……なあ、ヴィオラ」
「はい」
「アタシが何でここにいるか、分かるか?」
「……私をご指導くださるためです」
「そうだ」
姉様は頷いた。
「本当なら、今頃は自分の仕事を片づけてるはずだったんだよ」
「……はい」
「それをわざわざ、お前のために時間を空けてやった」
「……ありがとうございます」
「で?」
姉様は煙草の灰を落とした。
「何か覚えたか?」
「……攻撃を正面から受け止めるのではなく、相手の動きを見て――」
「違う」
低い声が遮った。
「できるようになったかって聞いてんだよ」
「…………」
私は口を閉じた。
できていない。
今も一撃すら当てられなかった。
「……いいえ」
「そうだよな」
姉様は煙草を吸った。
「だったら、アタシの時間を無駄にしたってことだろ?」
「……申し訳ございません」
「まったく……」
姉様は長く煙を吐いた。
「何でアタシが、お前の礼儀まで教え直さなきゃなんねえんだよ」
「…………」
私は目を伏せた。
……私がお願いしたわけではありません。
その考えが、再び頭をよぎった。
姉様が自ら教え直すとおっしゃった。
だから、私は命令に従った。
それなのに、時間を使わせたと責められている。
……ですが。
「……申し訳ございません」
私は頭を下げた。
姉様が時間を使うと決めた以上、その時間に相応しい成果を出すのは私の責任だ。
結果を出せていないのだから、叱責されるのも当然。
そう考えなければならない。
「チッ」
姉様が舌打ちした。
「……謝罪も聞き飽きたな」
「…………」
「顔を上げろ」
「かしこまりました」
私は顔を上げた。
姉様は煙草を指に挟んでいる。
「なあ。これ一本、いくらするか知ってるか?」
「……申し訳ございません。存じ上げません」
「だろうな」
姉様は煙草の先端を眺めた。
赤い火が、わずかに明滅している。
「金を払って買ったもんだ。吸えば少しは気が紛れる」
「……はい」
「少なくとも、払った金の分は役に立つわけだ」
「……はい」
姉様は私へ視線を戻した。
「……お前は?」
「…………」
「お前に、何の価値がある?」
私は言葉に詰まった。
……価値。
私の、価値。
「……一族の任務を遂行し、貢献することです」
「それで?」
「……はい?」
「貢献できてんのかって聞いてんだよ」
「…………」
答えられなかった。
姉様は薄く笑った。
「家の金で育てられて、武器を与えられて、教育まで受けて」
煙草が口元へ運ばれる。
「それで、三匹の雑魚を相手に銃も服も傷つけて帰ってくる」
「……申し訳ございません」
「礼儀もまともにできねえ。戦い方も半端」
姉様は煙を吐いた。
「おまけに、アタシの時間まで食い潰す」
「…………」
姉様は、私の目の前に煙草を掲げた。
「分かるか?」
「……はい」
「何が?」
「……私には、まだ一族へ十分に貢献できる能力がありません」
姉様は鼻で笑った。
「まだ?」
「……っ」
「随分、偉そうな言い方するじゃねえか」
「……申し訳ございません」
姉様は煙草を眺めた。
それから、何でもないことのように言った。
「今アタシが吸ってる、この一本の煙草の方がお前より価値があるんだよ」
「…………」
私は動けなかった。
姉様は続けた。
「こいつなら、少なくとも金を払った分の役には立つ」
白い煙が揺れる。
「お前と違ってな」
私は目を伏せた。
「……はい」
「返事は?」
「……おっしゃる通りです」
「そうだ」
姉様は頷いた。
そして、不意に私の顎を掴んだ。
「だったら、いつまでもアタシに世話焼かせんじゃねえよ」
「……っ!」
「下の人間が、上の時間を奪っていいと思ってんのか?」
「……いいえ!」
「だったら結果出せ!」
姉様の拳が頬を打った。
「……っ!」
視界が横へ流れた。
私は床に倒れ込んだ。
頬が熱い。
口の中に、わずかに血の味が広がる。
姉様はそんな私を見下ろしながら、煙草を咥え直した。
「……ったく」
深く吸い込む。
「煙草がまずくなる」
私は床に手をついた。
姉様はしばらく黙っていた。
「……立て」
「はい!」
私はすぐに立ち上がった。
頬が痛む。
足も震えている。
それでも、背筋を伸ばした。
姉様は頷いた。
「最初からそうしろ」
「かしこまりました」
「……続けるぞ」
「はい!」
私は銃剣を構えた。
今度こそ。
一度で、教えられたことを覚えなければ。
姉様の時間を無駄にしないように。
最後の訓練では、姉様は何も説明しなかった。
ただ、命令だけを与えた。
「構えろ」
「はい!」
「来い」
「かしこまりました!」
私は踏み込んだ。
銃剣を突き出す。
姉様は身体を半歩ずらし、私の銃を弾いた。
「遅え」
肩に剣の腹が叩きつけられる。
「ぐっ!」
私はよろめいた。
そのまま倒れそうになったが、何とか踏みとどまる。
今度は、すぐに構え直した。
姉様が少し眉を動かした。
「……ほう」
私は息を整えた。
次の攻撃を見なければ。
姉様の足が動く。
私は後退せず、銃剣を横へ振った。
相手の武器を外側へ逸らし、反撃する。
……そのつもりだった。
しかし、姉様は銃身を掴むと、身体を捻った。
「……っ!」
武器が引かれる。
反射的に握り直す。
その瞬間、姉様の膝が腹へ突き刺さった。
「かはっ……!」
私は床へ崩れ落ちた。
胃の中のものが込み上げる。
視界が滲んだ。
それでも、銃から手を離さなかった。
「……チッ」
姉様が舌打ちした。
「武器だけは離さなくなったか」
私は答えようとした。
しかし、声が出なかった。
腹を押さえたくなる。
けれど、銃を持つ手を離すことも、勝手に姿勢を崩すことも許されていない。
「立て」
姉様の声が響いた。
私は床に手をついた。
腕が震える。
片膝を立てる。
しかし、力が入らず、再び床へ手をついてしまった。
「……おい」
低い声。
「アタシは立てっつったよな?」
「……はい……!」
「何で立ってねえんだ?」
「……申し訳、ございません……!」
姉様の靴が肩を蹴った。
「ぐっ!」
私は横へ倒れ込んだ。
「命令されたらすぐ動け! 何度も言わせんじゃねえ!」
「……はい!」
私は歯を食いしばった。
痛い。
身体中が痛む。
けれど、立たなければ。
姉様の命令なのだから。
私は再び床に手をついた。
膝を立てる。
腰を上げる。
銃を支えにして、どうにか身体を持ち上げた。
「……はぁ……っ」
何とか立てた。
私は震える腕で銃剣を構えた。
「……立ち、ました……!」
姉様は私を見下ろしていた。
「……チッ」
舌打ち。
「最初からそうしろ」
「……はい!」
「アタシに余計な手間かけさせんな」
「申し訳ございません!」
姉様はしばらく私を見ていた。
そして、剣を下ろした。
「……もういい」
「……はい」
「今日はここまでだ」
「かしこまりました」
私は姿勢を正した。
しかし、銃剣は下ろさなかった。
姉様の眉が動く。
「……何してんだ?」
「構えを解く許可を、まだいただいておりませんので」
一瞬、沈黙が落ちた。
姉様は私を見た。
それから、鼻で笑った。
「……ハッ」
私は動かなかった。
「礼儀だけは覚えたみてえだな」
「……はい」
「構えを解け」
「かしこまりました」
私はようやく銃剣を下ろした。
腕が重い。
肩も痛む。
しかし、姉様の前で座り込むわけにはいかなかった。
姉様は壁へ向かい、訓練用の剣を戻した。
それから懐へ手を入れ、新しい煙草を一本取り出す。
火をつける音が、静まり返った訓練場に響いた。
姉様はゆっくり煙を吸い込み、吐き出した。
「……ヴィオラ」
「はい」
「お前、パレルモを覚えたいと思ったことはあるか?」
「……っ」
私は顔を上げた。
パレルモ剣術。
ボニャテッリ家に伝わる剣術。
一族の優秀な者だけが教えを受けることを許される、特別な技。
その門を叩けるのは、十八歳以上。
そして、才能を認められた者だけだった。
私はまだ十五歳。
年齢すら満たしていない。
しかし、それ以上に大きな問題があった。
……才能。
「……はい」
私は答えた。
「いつか、教えを受けたいと考えております」
姉様は煙草を咥えたまま、振り返った。
「……お前が?」
「……はい」
次の瞬間、姉様は声を上げて笑った。
「ハハッ! 馬鹿言ってんじゃねえよ!」
「…………」
「お前、自分の腕前分かってんのか?」
「……はい」
「だったら、何でそんなこと考えられんだよ」
姉様は私へ近づいた。
「パレルモはな、そこらの雑魚に教える剣術じゃねえんだよ」
「……承知しております」
「十八になりゃ教えてもらえるとでも思ってんのか?」
「……いいえ」
「だったら分かるだろ」
姉様は煙草を持った手で私を指し示した。
「お前みてえな出来損ないに、教える価値があると思うか?」
「…………」
私は答えられなかった。
「おい。返事は?」
「……現状では、ありません」
「そうだ」
姉様は薄く笑った。
「少しは自分の立場を理解できたみてえだな」
「……はい」
私は目を伏せた。
壁の奥にある重い扉。
パレルモ剣術を教わる資格を持つ者だけが入れる訓練室。
そこへ入ることを許された兄様や姉様たち。
……私も、いつか。
そう考えていた。
けれど。
「そもそも、お前が何で末娘なのか分かってんだろ?」
姉様が言った。
私は動きを止めた。
「……はい」
「言ってみろ」
「……私の資質を見て、一族がこれ以上子供を増やす必要はないと判断したためです」
「そうだ」
姉様は頷いた。
その話は、幼い頃から何度も聞かされていた。
私が生まれた時、すぐにそのような判断が下されたわけではない。
当初は、私にも兄姉たちと同じだけの期待が向けられていた。
しかし、成長するにつれて、その期待は失望へ変わっていった。
兄姉たちが幼い頃から示していた才能。
剣術。
戦術。
銃の扱い。
礼節。
私は、そのどれにおいても突出した成果を出せなかった。
教えられたことは覚えられる。
しかし、それを身につけるまでには、兄姉たちより多くの時間がかかった。
努力しても、結果が追いつかない。
何度も訓練を受け、何度も叱責され、それでも兄姉との差は埋まらなかった。
そして、一族は結論を出した。
すでに四人の優秀な子供がいる。
これ以上、後継者を増やす必要はない。
特に、末の娘程度の資質しか望めないのであれば、なおさらだ。
そうして、私は五人兄弟の末娘になった。
「お前を最後にして正解だったって、何度言われた?」
姉様が尋ねた。
「……覚えておりません」
「だろうな」
姉様は鼻で笑った。
「アタシたち四人で十分なんだよ。この家は」
「……はい」
「お前は余計な面倒を増やさなきゃ、それでいい」
「……かしこまりました」
姉様は私を見下ろしていた。
「勘違いすんなよ、ヴィオラ」
「はい」
「お前が弱いのは、お前一人の問題じゃねえんだ」
「……はい」
「お前が外で無様な姿を晒せば、ボニャテッリまで舐められる」
「……承知しております」
「だったら、せめて家の名を汚すんじゃねえよ」
「……かしこまりました!」
姉様は煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。
「……チッ」
そして、吐き捨てるように言った。
「今日もお前のせいで、随分時間を無駄にした」
「……申し訳ございません」
「アタシが直々に教えてやってんだぞ。少しはまともになれよ」
「……はい」
「次も同じザマで帰ってきたら、今日程度じゃ済まさねえからな」
「……承知いたしました」
「銃と服は明日までに直しておけ」
「かしこまりました」
姉様は最後に煙草を一口吸った。
そして、灰皿へ押しつけた。
じゅっ、と小さな音がする。
「……ヴィオラ」
「はい」
「これ、片づけろ」
姉様は灰皿を指差した。
「かしこまりました」
私はすぐに灰皿へ向かった。
中には、吸い殻が二本。
まだ灰が少し温かい。
持ち上げようとした時、手が震えた。
「……っ」
危うく、灰皿を傾けそうになる。
「おい」
姉様の低い声。
「……はい!」
「まさか、灰皿一つまともに運べねえのか?」
「……申し訳ございません」
「灰を床にこぼしたら、お前が全部掃除しろよ」
「かしこまりました!」
私は両手で灰皿を持ち上げた。
手の甲が痛む。
肩も、腕も。
それでも、なるべく揺らさないようにした。
……この煙草は。
先ほど姉様がおっしゃっていた。
私より価値のあるものだと。
ならば、粗末に扱ってはいけませんね。
私は慎重に灰皿を運んだ。
姉様は、その様子を眺めながら鼻で笑った。
「……ったく。そんなもんにまで必死になりやがって」
「…………」
私は何も答えなかった。
姉様から命じられた仕事なのだから、丁寧に行うのは当然だ。
使用済みの煙草も、指示された通り処分する。
火が完全に消えていることを確認し、灰皿を綺麗に拭いた。
そして、元の場所へ戻す。
「……片づけが完了いたしました」
私が報告すると、姉様は一瞥した。
「……ふん」
それだけだった。
私は頭を下げた。
「ご確認、ありがとうございます」
姉様はすでに私から興味を失ったようだった。
「……下がれ」
「かしこまりました」
私は深く頭を下げた。
そして、訓練場を後にした。
廊下へ出た瞬間、足から力が抜けそうになった。
「……っ」
私は壁へ手をついた。
腹が痛い。
肩も、頬も、背中も。
歩くたびに、身体のあちこちが痛んだ。
それでも、姿勢を崩すわけにはいかなかった。
……使用人たちが見ています。
私は背筋を伸ばした。
そして、できる限り普段と変わらない歩幅で自室へ向かった。
途中、すれ違った使用人が頭を下げる。
「ヴィオラ様」
「……ご苦労様です」
私は軽く頷き、そのまま歩いた。
階段を上がる。
一段。
二段。
三段。
「……っ」
腹に痛みが走った。
思わず手すりを掴む。
少しだけ呼吸を整え、それから続きを上がった。
……情けない。
本当に。
姉様は、最後まで息一つ乱していなかった。
それなのに、私は。
「……もっと、努力しなければ」
小さく呟いた。
自室へ戻ると、使用人が私の姿を見て顔を強張らせた。
「ヴィオラ様。お身体が……!」
「問題ありません」
私は答えた。
「湯と清潔な布を。それから、装備の整備申請書を用意してください」
「ですが、お怪我が……」
私は使用人を見た。
「……聞こえませんでしたか?」
「……っ!」
使用人が慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
「命令を繰り返す必要がありますか?」
「いいえ! すぐにご用意いたします!」
「よろしい」
使用人は急いで退室した。
私はその背中を見送った。
……まったく。
命令されたことを、すぐに実行すればよいものを。
私は上着を脱いだ。
鏡に映った身体には、いくつもの痣ができていた。
肩。
腹。
脇腹。
背中。
頬も少し腫れている。
私は指で触れてみた。
「……痛っ」
思わず声が漏れた。
……仕方ありませんね。
私が未熟だったのだから。
私は銃を専用の台へ置いた。
続いて、傷ついた上着を丁寧に畳む。
明日には修繕へ出さなければならない。
そして、報告書も清書しなければ。
私は机へ向かった。
椅子へ腰を下ろす。
「……っ!」
腹に痛みが走った。
一度立ち上がり、呼吸を整えてから、今度はゆっくり座り直した。
机の上に書類を広げる。
ペンを取ろうとした。
しかし。
「……あれ?」
右手が震えていた。
礼法室で打たれた手の甲。
訓練で何度も銃を握り直した指。
そこへ力を込めようとすると、痛みが走った。
私は左手で右手首を押さえた。
……落ち着きなさい。
文字を書くくらい、できるはずです。
私はペンを握った。
そして、報告書の一行目を書き始めた。
しかし。
「…………」
いつもより、文字が歪んでいた。
私はしばらくそれを見つめた。
……これでは、提出できませんね。
書類を横へ置き、新しい用紙を取り出す。
もう一度。
今度は、ゆっくりと。
文字が乱れないよう、一画ずつ丁寧に書いた。
『本日の任務は――』
そこまで書いたところで、また手が震えた。
インクがわずかに滲む。
「……っ」
私は唇を噛んだ。
……こんなことさえ。
満足にできないなんて。
私はペンを置いた。
右手を開き、ゆっくりと指を曲げる。
痛い。
けれど、動かせないわけではない。
……大丈夫。
まだ、書けます。
私は再びペンを握った。
そして、報告書を書き進めた。
しばらくして、使用人が湯と清潔な布を持って戻ってきた。
私は書類から顔を上げた。
「そこへ置いてください」
「かしこまりました」
使用人は机の横へ湯を置いた。
それから、私の手元を見た。
「……ヴィオラ様」
「何でしょう?」
「お手が震えていらっしゃいますが……医師をお呼びいたしましょうか?」
「必要ありません」
私は即座に答えた。
「ですが……」
「命令は聞こえましたね?」
「……はい」
使用人は頭を下げた。
「失礼いたしました」
私は頷いた。
「下がってよろしい」
「かしこまりました」
扉が閉まる。
私は再び書類へ向かった。
しかし、その時だった。
『……かっこよかったから』
不意に、あの言葉が頭に響いた。
「…………」
ペンが止まった。
……レン。
昼間、裏路地で出会った少年。
痩せた身体。
汚れた服。
傷ついた左腕。
礼儀のなっていない言葉遣い。
私が男たちを処罰した時、木切れを構えて抵抗してきた子。
勝てないことなど、本人にも分かっていたはずなのに。
……本当に、変わった子でしたね。
食堂でもそうだった。
食事が運ばれてきた途端、夢中で食べ始めた。
何度注意しても、すぐに食べ方が乱れてしまう。
けれど、私の手元を見て、一生懸命に真似をしていた。
『……こう、ですか?』
「……ふふ」
小さく笑みがこぼれた。
……まったく。
礼儀というものを、少しは覚えてくれたのでしょうか。
私は右手の甲を見つめた。
ルクレツィア姉様は、私が礼節を守れなかったから罰を与えた。
ヴァレンチーナ姉様は、私が未熟だったから身体に教え込んだ。
どちらも、必要なことだった。
……あの子も。
もし、同じような失敗を繰り返すのであれば、きちんと教え直さなければなりませんね。
そう考えた。
しかし、すぐに首を振る。
……いいえ。
もう会うこともないでしょう。
あの子は、ただの裏路地の少年。
私は情報を得るために食事を与えた。
取引は終わっている。
それ以上の関係など、ないのだから。
私はペンを持ち直した。
しかし。
『……かっこよかったから』
また、あの言葉が浮かんだ。
「…………」
私は机の横に置いた銃へ目を向けた。
黒い銃身。
そこに刻まれた、いくつもの傷。
姉様たちは、その傷を見て私を叱責した。
ヴァレンチーナ姉様は、煙草一本より価値がないとおっしゃった。
それは、私の未熟さを考えれば仕方のない評価なのだろう。
……けれど。
あの子は、同じ銃を見ていた。
私が戦うところも。
剣を受け流しきれなかったところも。
上着を斬られたところも。
すべて見ていた。
それなのに。
『……かっこよかったから』
『俺も、あんなふうに戦えたらいいなって』
「…………」
私は銃を見つめた。
……不思議ですね。
兄様や姉様たちなら、もっと上手く戦えたはずです。
私よりも速く。
私よりも正確に。
私よりも美しく。
敵を圧倒できたでしょう。
それなのに、あの子は。
私の戦い方に憧れた。
……この私に。
私はゆっくりと銃身に触れた。
昼間の戦闘でついた傷。
先ほどまで、見るたびに恥ずかしく思っていたもの。
その傷を指でなぞる。
「…………」
……かっこいい、ですか。
そんなふうに言われたことが、今まであったでしょうか。
私は小さく息を吐いた。
……きっと。
あの子は、戦闘技術について何も知らないのでしょう。
だから、私程度の技量でも立派に見えた。
ただ、それだけ。
……そう。
それだけのことです。
私は銃から手を離した。
そして、報告書へ視線を戻す。
……忘れましょう。
あの子と再会する理由はありません。
私には、もっと大切なことがあるのですから。
私はペンを持ち直した。
震える右手を、左手でそっと支える。
一文字ずつ。
丁寧に。
報告書を書き進める。
ようやく最後の一行を書き終えた頃には、夜もかなり更けていた。
私は署名欄へペンを運んだ。
――ヴィオラ・ボニャテッリ。
一族の中で、最も才能のない末娘。
名前を書き終える。
しかし、ペンを置いた後も、私はしばらく書類を見つめていた。
「……レン」
小さく名前を呟いた。
今日出会った、裏路地の少年。
生きるためなら危険な仕事も引き受ける。
勝てない相手にも抵抗する。
礼儀作法はなっていない。
けれど、教えたことはすぐに覚える。
そして。
私の戦う姿を見て、かっこいいと言った。
「…………」
私は小さく首を振った。
……本当に。
変わった子ですね。
その名前を覚えていたところで、何かが変わるわけではない。
もう一度会うかどうかも分からない。
それなのに。
『……かっこよかったから』
「……ふふ」
誰に聞かせるでもなく、笑みがこぼれた。
私は慌てて口元を引き締めた。
……何を笑っているのでしょう。
報告書を揃え、机の端へ置く。
そして、明日の訓練予定を確認する。
やるべきことは、まだ残っている。
私は再びペンを握った。
けれど。
その夜、最後に思い出したのは、姉様の叱責でも、身体に残った痛みでもなかった。
『……かっこよかったから』
裏路地の少年が、何気なく口にした一言。
私はもう一度、小さく息を吐いた。
……次に会うことがあれば。
もう少し、まともな言葉遣いになっているといいのですが。
そう思いながら、私は机の明かりを落とした。