憧れは近くて遠い   作:色彩悪夢

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『ボニャテッリ家の末娘』

屋敷の門が見えてきた頃には、すっかり日が暮れていた。

 

私は門の前で足を止め、手に持った銃を見下ろした。

 

黒く磨かれた銃身。

 

その側面には、いくつもの細かな傷が刻まれている。

 

敵の剣を受け流しきれず、まともに受け止めてしまった時についたものだ。

 

幸い、銃剣の刃に損傷はない。

 

銃としての機能にも問題はなかった。

 

しかし、だからといって許されるものではない。

 

続いて、私は自分の上着へ視線を落とした。

 

赤を基調とした、ボニャテッリ家の名に相応しい仕立ての上着。

 

その裾には、斜めに切れ目が入っていた。

 

最後に戦った男の剣を避けきれなかった時についた傷だ。

 

「…………」

 

たった三人。

 

それも、裏路地にいた無法者たちを相手に、この有様。

 

兄様や姉様たちなら、こんな失態は犯さなかっただろう。

 

私は上着の裂け目を指でなぞった。

 

……どうしましょう。

 

今から仕立屋へ向かえば、応急的な修繕くらいはできるかもしれない。

 

銃の傷も、磨けば多少は目立たなくなるだろう。

 

しかし。

 

「……いいえ」

 

私は小さく首を振った。

 

失態を隠したと知られれば、装備を傷つけたこと以上の処罰を受ける。

 

何より、上位者に対して事実を隠すことは許されない。

 

私は銃を背負い直した。

 

そして、門の前に立つ。

 

「お帰りなさいませ、ヴィオラ様」

 

警備をしていた男たちが一斉に姿勢を正した。

 

「ただいま戻りました」

 

私が答えると、男たちは深く頭を下げた。

 

重い門が開く。

 

その向こうには、整えられた庭園と大きな屋敷が広がっていた。

 

ボニャテッリ家。

 

都市の裏社会において、七大名門の一つに数えられる一族。

 

数多くの優秀な戦闘員を輩出し、親指の中にも大きな影響力を持つ家系。

 

私は、その五人兄弟の末娘だった。

 

長女のヴァレンチーナ姉様。

 

長男のアレッシオ兄様。

 

次女のルクレツィア姉様。

 

次男のダリオ兄様。

 

そして、三女の私。

 

ヴィオラ・ボニャテッリ。

 

五人の中で、最も才能に恵まれなかった娘。

 

私は深く息を吸った。

 

……覚悟を決めましょう。

 

そして、屋敷へ足を踏み入れた。

 

「ヴィオラ」

 

玄関を抜けたところで、聞き慣れた声が響いた。

 

私は反射的に足を止める。

 

廊下の奥に立っていたのは、ルクレツィア姉様だった。

 

淡い金色の髪を綺麗にまとめ、皺一つない衣服を身につけている。

 

次姉は、幼い頃から私の礼儀作法を指導してきた人物でもある。

 

「ただいま戻りました。ルクレツィア姉様」

 

私はすぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。

 

「顔を上げなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は顔を上げた。

 

姉様の視線が私の顔を通り過ぎ、上着へ落ちる。

 

「……その服は?」

 

「…………」

 

予想していた質問だった。

 

それでも、喉がわずかに強張った。

 

「質問しています。答えなさい」

 

「任務中、敵の攻撃を避けきれず、損傷させました」

 

「そう」

 

姉様は私へ近づき、上着の裾をつまみ上げた。

 

「随分と見苦しいですね」

 

「申し訳ございません」

 

「謝罪を求めた覚えはありません」

 

「……失礼いたしました」

 

「銃を見せなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は背負っていた銃を下ろし、両手で差し出した。

 

姉様はそれを受け取り、銃身を確認する。

 

傷のある部分で、その指が止まった。

 

「……こちらにも傷がありますね」

 

「はい」

 

「敵は何名でしたか?」

 

「三名です」

 

「三名?」

 

姉様が顔を上げた。

 

「たった三名を相手に、装備を傷つけられたのですか?」

 

「……はい」

 

「相手は?」

 

「剣と刀を所持した、裏路地の無法者です」

 

「所属は?」

 

「確認できておりません」

 

「技量は?」

 

「一名はある程度の戦闘経験を有していましたが、残りの二名はそれほど高い技量ではありませんでした」

 

姉様は黙って私を見つめた。

 

そして、銃を返してきた。

 

「……ついてきなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は頭を下げ、姉様の後に続いた。

 

連れてこられたのは礼法室だった。

 

壁には一族の歴代当主の肖像画が並び、中央には長い机が置かれている。

 

床は鏡のように磨かれていた。

 

幼い頃から、私はここで多くのことを教えられてきた。

 

目上の者に対する言葉遣い。

 

命令を受ける際の姿勢。

 

報告の順序。

 

許可された者だけが発言し、許可された者だけが行動する。

 

そして、上下関係を乱した者には相応の処罰が与えられること。

 

「跪きなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は床に膝をついた。

 

背筋を伸ばし、両手を揃える。

 

視線は正面より少し下。

 

姉様から教えられた姿勢だ。

 

「本日の任務を報告しなさい」

 

「はい」

 

私は息を整えた。

 

「本日は、一族の管理下にある物品の流出経路を調査し――」

 

「違います」

 

姉様の声が響いた。

 

「……っ」

 

「報告の順序が違います」

 

「申し訳ございません」

 

「まず任務の目的と結果。その後に経緯です。何度教えましたか?」

 

「……数え切れないほど、ご指導いただきました」

 

「そうですね」

 

姉様は机へ歩み寄った。

 

「それなのに、まだ間違えるのですか?」

 

「……はい」

 

「最初から」

 

「かしこまりました」

 

私は報告をやり直した。

 

任務の目的は、流出した物品の回収。

 

結果は成功。

 

ただし、回収に際して武装した三名と交戦し、装備と衣服を損傷。

 

そして、運搬経路に関係する情報を入手した。

 

姉様は黙って聞いていた。

 

「……以上です」

 

報告を終えた。

 

しかし、姉様は頷かなかった。

 

「……ヴィオラ」

 

「はい」

 

「運搬役についての報告がありませんね」

 

「……っ」

 

私は思わず顔を上げた。

 

次の瞬間。

 

パシンッ!

 

「……あっ!」

 

手の甲に鋭い痛みが走った。

 

姉様の教鞭だった。

 

「誰が顔を上げる許可を与えましたか?」

 

「……申し訳ございません!」

 

「右手を出しなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は右手を差し出した。

 

再び、教鞭が振り下ろされる。

 

パシンッ!

 

「……っ!」

 

痛みで指先が震えた。

 

「姿勢を崩さない」

 

「……はい」

 

「質問に答えなさい。運搬役について、なぜ報告を省いたのですか?」

 

「……重要性が低いと判断いたしました」

 

「誰が?」

 

「……私が、です」

 

「誰の許可で判断しましたか?」

 

「…………」

 

答えられなかった。

 

姉様は教鞭を机に置いた。

 

「ヴィオラ。あなたは自分の立場を理解していないようですね」

 

「……申し訳ございません」

 

「情報の価値を判断するのは、報告を受ける上位者です」

 

「……はい」

 

「あなたには、報告すべき情報を勝手に省略する権限などありません」

 

「承知いたしました」

 

「その少年は何者ですか?」

 

「……十二歳の少年です。荷運びの仕事を請け負った者と思われます」

 

「所属は?」

 

「不明です」

 

「情報の入手方法は?」

 

「食事を対価として提供し、依頼人と倉庫の情報を聞き出しました」

 

「……食事?」

 

姉様の声が少し低くなった。

 

「あなたは一族の資金で、裏路地の子供に食事を与えたのですか?」

 

「……はい」

 

「理由を」

 

「少年は依頼人の顔や特徴、倉庫までの道順を正確に記憶しておりました。情報の価値があると判断し、対価を提示しました」

 

「金額は?」

 

私は食堂で支払った金額を答えた。

 

姉様はしばらく黙っていた。

 

「……二人分の食事代ですね」

 

「はい。私も同席して食事を取り、その間に事情を聞き出しました」

 

「それで、得られた情報は?」

 

私は少年から聞き出した内容を、順番に説明した。

 

事務所の場所。

 

依頼人の容姿。

 

倉庫までの道順。

 

運搬を指示した男の特徴。

 

姉様は最後まで聞くと、小さく頷いた。

 

「……対価としては安いですね」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めたわけではありません。取引の価値を認めただけです」

 

「……失礼いたしました」

 

「次からは、支出と得られた情報を報告書に明記しなさい」

 

「かしこまりました」

 

「それから、覚えておきなさい」

 

姉様の声が冷たくなる。

 

「あなたが善意で他人に施しを与えることは、任務ではありません」

 

「承知しております」

 

「必要のない慈悲など、一族にとって何の利益にもなりません」

 

「……はい」

 

姉様は頷いた。

 

「最初から報告し直しなさい」

 

「かしこまりました」

 

私は再び姿勢を正した。

 

何度目かの報告を終える頃には、膝が痛み始めていた。

 

順序を間違えれば、最初から。

 

事実と推測を混同すれば、最初から。

 

言葉遣いが乱れれば、また最初から。

 

姉様は一度も声を荒らげなかった。

 

しかし、私が正しく報告できるまで、終わらせてはくださらなかった。

 

「……よろしい」

 

ようやく姉様が頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「最後に一つ」

 

「……はい」

 

「あなたは、無礼を働いた者たちを処罰したそうですね」

 

「はい」

 

「内容は?」

 

「一名の下顎を砕き、もう一名の腕を折りました。残る一名は謝罪を行ったため、処罰を免除しました」

 

「判断の根拠は?」

 

私は当時の状況を説明した。

 

一人目は、敗北した後も無礼な言葉を繰り返した。

 

二人目は、武器の引き渡しに際して命令に反する行動を取った。

 

三人目は謝罪し、適切な服従の姿勢を示した。

 

「……そうですか」

 

姉様は頷いた。

 

「処罰の判断自体は問題ありません」

 

「ありがとうございます」

 

「ですが、他人に礼節を教える前に、自分が教えられたことを守れるようになりなさい」

 

「……はい」

 

「あなたはまだ、上位者の命令を正確に実行できていません」

 

「申し訳ございません」

 

「謝罪よりも改善を期待しています」

 

「かしこまりました」

 

姉様は教鞭を置いた。

 

「顔を上げてよろしい」

 

「ありがとうございます」

 

私はゆっくりと顔を上げた。

 

その時だった。

 

扉が叩かれた。

 

「ルクレツィア様。ヴァレンチーナ様がお戻りです」

 

使用人の声だった。

 

私は反射的に背筋を伸ばした。

 

……ヴァレンチーナ姉様が。

 

「通しなさい」

 

「かしこまりました」

 

扉が開いた。

 

「おい。何やってんだ、お前ら」

 

聞き慣れた声が響いた。

 

最初に部屋へ入ってきたのは、細く立ち上る白い煙だった。

 

続いて、一人の女性が姿を現す。

 

ヴァレンチーナ姉様。

 

私たち五人兄弟の長女。

 

一族でも屈指の剣士であり、親指の中でも高い評価を受けている人物。

 

そして、ボニャテッリ家に伝わるパレルモ剣術を修めた者の一人。

 

姉様は片手に煙草を持ち、気だるそうに部屋へ入ってきた。

 

口元へ運び、ゆっくりと煙を吸い込む。

 

そして、私たちの前で白い煙を吐き出した。

 

礼法室は、本来なら身なりや振る舞いの乱れすら許されない場所だ。

 

しかし、姉様の喫煙を咎める者はいなかった。

 

ルクレツィア姉様でさえ、何も言わない。

 

……当然だ。

 

ヴァレンチーナ姉様は、この場で最も上位の立場にいるのだから。

 

「ヴァレンチーナ姉様」

 

私はすぐに頭を下げた。

 

姉様は煙草を指に挟み、私を一瞥した。

 

「……何だ。ヴィオラか」

 

「はい」

 

「また何かやらかしたのか?」

 

「……はい」

 

「チッ。相変わらずだな」

 

姉様はルクレツィア姉様へ向き直った。

 

「で? 何をやった?」

 

「任務中に装備と衣服を損傷させたそうです。報告にも不備があったため、礼節の再教育を行っておりました」

 

「装備?」

 

姉様の視線が私へ向いた。

 

煙草を口に咥え、顎をしゃくる。

 

「銃」

 

「かしこまりました」

 

私は銃を差し出した。

 

姉様は片手で受け取り、銃身を確認した。

 

指先が傷の上をなぞる。

 

続いて、私の上着の裾へ目を向けた。

 

「…………」

 

しばらく沈黙が続いた。

 

姉様は煙草を口元へ運び、一度深く吸い込んだ。

 

それから、ゆっくりと煙を吐き出す。

 

「……何人だ?」

 

低い声だった。

 

「……三名です」

 

「所属は?」

 

「不明です。裏路地の無法者と思われます」

 

「フィクサーか?」

 

「確認できておりません」

 

「……そうか」

 

姉様は銃を見下ろした。

 

「雑魚三匹を相手に、これか」

 

「……申し訳ございません」

 

「お前さぁ」

 

姉様は顔を上げた。

 

「自分がどこの家の人間か、忘れたのか?」

 

「……いいえ」

 

「なら言ってみろ」

 

「ボニャテッリ家です」

 

「聞こえねえ」

 

「ボニャテッリ家です!」

 

姉様は頷いた。

 

「そうだよな」

 

そして、銃を机へ置いた。

 

ガンッ!

 

大きな音が響く。

 

「だったら何で、その辺の雑魚三匹にこんな無様な傷つけられてんだよ!」

 

「……っ!」

 

「お前一人の恥じゃ済まねえんだぞ!」

 

「申し訳ございません!」

 

「謝るな! 理由を言え!」

 

私は慌てて姿勢を正した。

 

「相手の力量を見誤り、剣を正面から受け止めてしまいました!」

 

「それで?」

 

「間合いの取り方を誤り、反撃の機会を失いました!」

 

「他には?」

 

「…………」

 

私は必死に考えた。

 

しかし、それ以上の理由が浮かばなかった。

 

「……申し訳ございません。分かりません」

 

姉様は舌打ちした。

 

「……チッ」

 

そして、ルクレツィア姉様へ向き直る。

 

「こいつ、礼儀もできねえんだって?」

 

「はい。報告の順序と、上位者に対する姿勢を再確認させておりました」

 

「ハッ」

 

姉様は鼻で笑った。

 

「戦闘もできねえ。礼儀もできねえ。いったい何ならできんだよ」

 

「…………」

 

私は答えられなかった。

 

姉様は煙草の灰を落とした。

 

「……もういい」

 

そして、ルクレツィア姉様へ向き直った。

 

「こいつ借りるぞ」

 

「姉上が直接ご指導なさるのですか?」

 

「ああ」

 

姉様は煙草を咥え直した。

 

「礼儀も戦い方も、アタシが教え直してやる」

 

ルクレツィア姉様は一瞬だけ考えた。

 

そして、深く頭を下げた。

 

「……かしこまりました」

 

「おい、ヴィオラ」

 

「はい!」

 

「立て。訓練場に来い」

 

「かしこまりました!」

 

姉様は先に歩き始めた。

 

私は慌ててその後を追う。

 

「……ったく」

 

姉様の声が聞こえた。

 

「帰ってきたばっかだってのに、面倒くせえ仕事増やしやがって」

 

「……申し訳ございません」

 

「チッ。さっさと歩け」

 

「はい!」

 

私は歩く速度を上げた。

 

……私がお願いしたわけではない。

 

ほんの一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎった。

 

しかし、すぐに打ち消した。

 

姉様が直々にご指導くださるのだ。

 

私がその時間に見合うだけの成果を出せば、問題はない。

 

……そう。

 

私が、きちんと覚えればよいのです。

 

訓練場には、すでに明かりが灯されていた。

 

広い室内には様々な武器が整然と並べられている。

 

壁には歴代の剣士たちの肖像画。

 

その奥には、普段は閉ざされている重い扉があった。

 

パレルモ剣術の継承者たちが使用する、専用の訓練室。

 

十八歳以上。

 

そして、一族から才能を認められた者。

 

その条件を満たした人間だけが、あの扉の向こうで教えを受けられる。

 

私はまだ、その資格を持っていなかった。

 

……いつか。

 

あの場所へ入ることができるのでしょうか。

 

「おい、ヴィオラ」

 

「……はい!」

 

姉様の声に、私は慌てて振り返った。

 

姉様は訓練場の隅にある椅子へ腰を下ろしていた。

 

足を組み、煙草を吸っている。

 

「何ぼさっとしてんだ?」

 

「……申し訳ございません」

 

「アタシが呼んだら、すぐに返事をしろ」

 

「かしこまりました!」

 

姉様は煙草を吸いながら、しばらく私を眺めていた。

 

「……ったく」

 

白い煙が吐き出される。

 

「お前のために、わざわざアタシが時間使ってやってんだぞ」

 

「……ありがとうございます」

 

「感謝してんなら、さっさと覚えろよ」

 

「……はい!」

 

姉様は煙草を灰皿へ置いた。

 

それから、壁に掛けられていた訓練用の剣を手に取る。

 

刃は潰されているが、十分な重さがある。

 

「構えろ」

 

「かしこまりました」

 

私は銃剣を構えた。

 

姉様は私を見下ろした。

 

「今日の戦闘を再現しろ」

 

「……はい」

 

「相手が剣を振り下ろした時、お前はどうした?」

 

「銃身で受け止めました」

 

「だったらやってみろ」

 

姉様が剣を構えた。

 

私は銃身を斜めに構える。

 

次の瞬間。

 

ガキンッ!

 

凄まじい衝撃が腕に走った。

 

「……っ!」

 

剣を受け止めた。

 

しかし、力が違いすぎる。

 

銃身が押し下げられる。

 

「どうした!」

 

姉様が怒鳴った。

 

「受け止めたんだろ!? だったら最後まで耐えてみろよ!」

 

「くっ……!」

 

私は必死に力を込めた。

 

だが。

 

姉様の膝が腹へ突き刺さった。

 

「がっ……!」

 

息が詰まる。

 

身体が折れ曲がる。

 

そこへ剣の柄が背中へ落ちた。

 

「ぐっ!」

 

私は床に倒れ込んだ。

 

肺から空気が押し出される。

 

「……っ、げほっ……!」

 

苦しい。

 

息ができない。

 

「立て」

 

姉様の声が響く。

 

私は慌てて身体を起こそうとした。

 

「……はっ……はい……!」

 

「遅え!」

 

脇腹を蹴られた。

 

「がっ!」

 

身体が床を転がる。

 

「命令されたらすぐ動け! アタシに何度も言わせんじゃねえ!」

 

「……申し訳、ございません……!」

 

私は床に手をつき、何とか立ち上がった。

 

姉様は剣を肩に担いでいた。

 

「で? 今ので分かったか?」

 

「……はい」

 

「何が分かった?」

 

「……相手の力を考えずに受け止めれば、押し負けてしまいます」

 

「そんなことも分かってなかったのか?」

 

「……申し訳ございません」

 

姉様は舌打ちした。

 

「次だ」

 

二度目。

 

私は銃身で受け止めるのではなく、攻撃を受け流そうとした。

 

姉様が踏み込む。

 

私は半歩横へ動き、剣を逸らそうとする。

 

しかし。

 

「甘えんだよ!」

 

姉様の剣が途中で軌道を変えた。

 

「……っ!」

 

予想していなかった。

 

反射的に銃を引こうとしたが、間に合わない。

 

剣の腹が肩を打った。

 

「ぐっ!」

 

続けて、姉様の足が私の膝を払う。

 

身体が傾く。

 

銃を支えに立ち直ろうとした瞬間、拳が頬へ叩き込まれた。

 

「……あっ!」

 

視界が揺れた。

 

床に倒れ込む。

 

「何だ、その動きは!」

 

姉様が怒鳴った。

 

「最初の一撃を避けただけで安心してんじゃねえ!」

 

「……はい……!」

 

「敵が一度しか攻撃してこねえとでも思ってんのか!?」

 

「……申し訳、ございません……!」

 

私は慌てて立ち上がった。

 

姉様は剣を構え直した。

 

「もう一度」

 

「かしこまりました!」

 

私は銃剣を握り直した。

 

……今度こそ。

 

一撃だけを見るのではなく、その後の動きも考えなければ。

 

姉様の肩。

 

剣の向き。

 

足の位置。

 

私はそれらを注意深く見つめた。

 

姉様が踏み込む。

 

私は銃剣で牽制した。

 

姉様は剣で弾く。

 

今度は、次の攻撃を予測して身体をずらした。

 

……避けられた!

 

そう思った。

 

しかし。

 

「何を喜んでんだ?」

 

姉様の声が聞こえた。

 

次の瞬間、剣の柄が私の腹へ叩き込まれた。

 

「かはっ……!」

 

身体が折れる。

 

「敵を見ろ!」

 

姉様が私の髪を掴んだ。

 

「……っ!」

 

無理やり顔を上げさせられる。

 

「お前は一つ覚えたら一つ忘れんのか!?」

 

「……も、申し訳……!」

 

「相手の動きを見ろっつってんだろうが!」

 

姉様は私を突き飛ばした。

 

私はよろめき、床に膝をついた。

 

慌てて立ち上がろうとした時、姉様は剣を下ろした。

 

「……もういい」

 

「……っ」

 

姉様は椅子へ戻り、灰皿に置いていた煙草を手に取った。

 

まだ半分ほど残っている。

 

それを口に咥え、ゆっくりと煙を吸い込んだ。

 

私は立ち上がり、姿勢を正した。

 

姉様はしばらく黙っていた。

 

そして、静かに口を開いた。

 

「……なあ、ヴィオラ」

 

「はい」

 

「アタシが何でここにいるか、分かるか?」

 

「……私をご指導くださるためです」

 

「そうだ」

 

姉様は頷いた。

 

「本当なら、今頃は自分の仕事を片づけてるはずだったんだよ」

 

「……はい」

 

「それをわざわざ、お前のために時間を空けてやった」

 

「……ありがとうございます」

 

「で?」

 

姉様は煙草の灰を落とした。

 

「何か覚えたか?」

 

「……攻撃を正面から受け止めるのではなく、相手の動きを見て――」

 

「違う」

 

低い声が遮った。

 

「できるようになったかって聞いてんだよ」

 

「…………」

 

私は口を閉じた。

 

できていない。

 

今も一撃すら当てられなかった。

 

「……いいえ」

 

「そうだよな」

 

姉様は煙草を吸った。

 

「だったら、アタシの時間を無駄にしたってことだろ?」

 

「……申し訳ございません」

 

「まったく……」

 

姉様は長く煙を吐いた。

 

「何でアタシが、お前の礼儀まで教え直さなきゃなんねえんだよ」

 

「…………」

 

私は目を伏せた。

 

……私がお願いしたわけではありません。

 

その考えが、再び頭をよぎった。

 

姉様が自ら教え直すとおっしゃった。

 

だから、私は命令に従った。

 

それなのに、時間を使わせたと責められている。

 

……ですが。

 

「……申し訳ございません」

 

私は頭を下げた。

 

姉様が時間を使うと決めた以上、その時間に相応しい成果を出すのは私の責任だ。

 

結果を出せていないのだから、叱責されるのも当然。

 

そう考えなければならない。

 

「チッ」

 

姉様が舌打ちした。

 

「……謝罪も聞き飽きたな」

 

「…………」

 

「顔を上げろ」

 

「かしこまりました」

 

私は顔を上げた。

 

姉様は煙草を指に挟んでいる。

 

「なあ。これ一本、いくらするか知ってるか?」

 

「……申し訳ございません。存じ上げません」

 

「だろうな」

 

姉様は煙草の先端を眺めた。

 

赤い火が、わずかに明滅している。

 

「金を払って買ったもんだ。吸えば少しは気が紛れる」

 

「……はい」

 

「少なくとも、払った金の分は役に立つわけだ」

 

「……はい」

 

姉様は私へ視線を戻した。

 

「……お前は?」

 

「…………」

 

「お前に、何の価値がある?」

 

私は言葉に詰まった。

 

……価値。

 

私の、価値。

 

「……一族の任務を遂行し、貢献することです」

 

「それで?」

 

「……はい?」

 

「貢献できてんのかって聞いてんだよ」

 

「…………」

 

答えられなかった。

 

姉様は薄く笑った。

 

「家の金で育てられて、武器を与えられて、教育まで受けて」

 

煙草が口元へ運ばれる。

 

「それで、三匹の雑魚を相手に銃も服も傷つけて帰ってくる」

 

「……申し訳ございません」

 

「礼儀もまともにできねえ。戦い方も半端」

 

姉様は煙を吐いた。

 

「おまけに、アタシの時間まで食い潰す」

 

「…………」

 

姉様は、私の目の前に煙草を掲げた。

 

「分かるか?」

 

「……はい」

 

「何が?」

 

「……私には、まだ一族へ十分に貢献できる能力がありません」

 

姉様は鼻で笑った。

 

「まだ?」

 

「……っ」

 

「随分、偉そうな言い方するじゃねえか」

 

「……申し訳ございません」

 

姉様は煙草を眺めた。

 

それから、何でもないことのように言った。

 

「今アタシが吸ってる、この一本の煙草の方がお前より価値があるんだよ」

 

「…………」

 

私は動けなかった。

 

姉様は続けた。

 

「こいつなら、少なくとも金を払った分の役には立つ」

 

白い煙が揺れる。

 

「お前と違ってな」

 

私は目を伏せた。

 

「……はい」

 

「返事は?」

 

「……おっしゃる通りです」

 

「そうだ」

 

姉様は頷いた。

 

そして、不意に私の顎を掴んだ。

 

「だったら、いつまでもアタシに世話焼かせんじゃねえよ」

 

「……っ!」

 

「下の人間が、上の時間を奪っていいと思ってんのか?」

 

「……いいえ!」

 

「だったら結果出せ!」

 

姉様の拳が頬を打った。

 

「……っ!」

 

視界が横へ流れた。

 

私は床に倒れ込んだ。

 

頬が熱い。

 

口の中に、わずかに血の味が広がる。

 

姉様はそんな私を見下ろしながら、煙草を咥え直した。

 

「……ったく」

 

深く吸い込む。

 

「煙草がまずくなる」

 

私は床に手をついた。

 

姉様はしばらく黙っていた。

 

「……立て」

 

「はい!」

 

私はすぐに立ち上がった。

 

頬が痛む。

 

足も震えている。

 

それでも、背筋を伸ばした。

 

姉様は頷いた。

 

「最初からそうしろ」

 

「かしこまりました」

 

「……続けるぞ」

 

「はい!」

 

私は銃剣を構えた。

 

今度こそ。

 

一度で、教えられたことを覚えなければ。

 

姉様の時間を無駄にしないように。

 

最後の訓練では、姉様は何も説明しなかった。

 

ただ、命令だけを与えた。

 

「構えろ」

 

「はい!」

 

「来い」

 

「かしこまりました!」

 

私は踏み込んだ。

 

銃剣を突き出す。

 

姉様は身体を半歩ずらし、私の銃を弾いた。

 

「遅え」

 

肩に剣の腹が叩きつけられる。

 

「ぐっ!」

 

私はよろめいた。

 

そのまま倒れそうになったが、何とか踏みとどまる。

 

今度は、すぐに構え直した。

 

姉様が少し眉を動かした。

 

「……ほう」

 

私は息を整えた。

 

次の攻撃を見なければ。

 

姉様の足が動く。

 

私は後退せず、銃剣を横へ振った。

 

相手の武器を外側へ逸らし、反撃する。

 

……そのつもりだった。

 

しかし、姉様は銃身を掴むと、身体を捻った。

 

「……っ!」

 

武器が引かれる。

 

反射的に握り直す。

 

その瞬間、姉様の膝が腹へ突き刺さった。

 

「かはっ……!」

 

私は床へ崩れ落ちた。

 

胃の中のものが込み上げる。

 

視界が滲んだ。

 

それでも、銃から手を離さなかった。

 

「……チッ」

 

姉様が舌打ちした。

 

「武器だけは離さなくなったか」

 

私は答えようとした。

 

しかし、声が出なかった。

 

腹を押さえたくなる。

 

けれど、銃を持つ手を離すことも、勝手に姿勢を崩すことも許されていない。

 

「立て」

 

姉様の声が響いた。

 

私は床に手をついた。

 

腕が震える。

 

片膝を立てる。

 

しかし、力が入らず、再び床へ手をついてしまった。

 

「……おい」

 

低い声。

 

「アタシは立てっつったよな?」

 

「……はい……!」

 

「何で立ってねえんだ?」

 

「……申し訳、ございません……!」

 

姉様の靴が肩を蹴った。

 

「ぐっ!」

 

私は横へ倒れ込んだ。

 

「命令されたらすぐ動け! 何度も言わせんじゃねえ!」

 

「……はい!」

 

私は歯を食いしばった。

 

痛い。

 

身体中が痛む。

 

けれど、立たなければ。

 

姉様の命令なのだから。

 

私は再び床に手をついた。

 

膝を立てる。

 

腰を上げる。

 

銃を支えにして、どうにか身体を持ち上げた。

 

「……はぁ……っ」

 

何とか立てた。

 

私は震える腕で銃剣を構えた。

 

「……立ち、ました……!」

 

姉様は私を見下ろしていた。

 

「……チッ」

 

舌打ち。

 

「最初からそうしろ」

 

「……はい!」

 

「アタシに余計な手間かけさせんな」

 

「申し訳ございません!」

 

姉様はしばらく私を見ていた。

 

そして、剣を下ろした。

 

「……もういい」

 

「……はい」

 

「今日はここまでだ」

 

「かしこまりました」

 

私は姿勢を正した。

 

しかし、銃剣は下ろさなかった。

 

姉様の眉が動く。

 

「……何してんだ?」

 

「構えを解く許可を、まだいただいておりませんので」

 

一瞬、沈黙が落ちた。

 

姉様は私を見た。

 

それから、鼻で笑った。

 

「……ハッ」

 

私は動かなかった。

 

「礼儀だけは覚えたみてえだな」

 

「……はい」

 

「構えを解け」

 

「かしこまりました」

 

私はようやく銃剣を下ろした。

 

腕が重い。

 

肩も痛む。

 

しかし、姉様の前で座り込むわけにはいかなかった。

 

姉様は壁へ向かい、訓練用の剣を戻した。

 

それから懐へ手を入れ、新しい煙草を一本取り出す。

 

火をつける音が、静まり返った訓練場に響いた。

 

姉様はゆっくり煙を吸い込み、吐き出した。

 

「……ヴィオラ」

 

「はい」

 

「お前、パレルモを覚えたいと思ったことはあるか?」

 

「……っ」

 

私は顔を上げた。

 

パレルモ剣術。

 

ボニャテッリ家に伝わる剣術。

 

一族の優秀な者だけが教えを受けることを許される、特別な技。

 

その門を叩けるのは、十八歳以上。

 

そして、才能を認められた者だけだった。

 

私はまだ十五歳。

 

年齢すら満たしていない。

 

しかし、それ以上に大きな問題があった。

 

……才能。

 

「……はい」

 

私は答えた。

 

「いつか、教えを受けたいと考えております」

 

姉様は煙草を咥えたまま、振り返った。

 

「……お前が?」

 

「……はい」

 

次の瞬間、姉様は声を上げて笑った。

 

「ハハッ! 馬鹿言ってんじゃねえよ!」

 

「…………」

 

「お前、自分の腕前分かってんのか?」

 

「……はい」

 

「だったら、何でそんなこと考えられんだよ」

 

姉様は私へ近づいた。

 

「パレルモはな、そこらの雑魚に教える剣術じゃねえんだよ」

 

「……承知しております」

 

「十八になりゃ教えてもらえるとでも思ってんのか?」

 

「……いいえ」

 

「だったら分かるだろ」

 

姉様は煙草を持った手で私を指し示した。

 

「お前みてえな出来損ないに、教える価値があると思うか?」

 

「…………」

 

私は答えられなかった。

 

「おい。返事は?」

 

「……現状では、ありません」

 

「そうだ」

 

姉様は薄く笑った。

 

「少しは自分の立場を理解できたみてえだな」

 

「……はい」

 

私は目を伏せた。

 

壁の奥にある重い扉。

 

パレルモ剣術を教わる資格を持つ者だけが入れる訓練室。

 

そこへ入ることを許された兄様や姉様たち。

 

……私も、いつか。

 

そう考えていた。

 

けれど。

 

「そもそも、お前が何で末娘なのか分かってんだろ?」

 

姉様が言った。

 

私は動きを止めた。

 

「……はい」

 

「言ってみろ」

 

「……私の資質を見て、一族がこれ以上子供を増やす必要はないと判断したためです」

 

「そうだ」

 

姉様は頷いた。

 

その話は、幼い頃から何度も聞かされていた。

 

私が生まれた時、すぐにそのような判断が下されたわけではない。

 

当初は、私にも兄姉たちと同じだけの期待が向けられていた。

 

しかし、成長するにつれて、その期待は失望へ変わっていった。

 

兄姉たちが幼い頃から示していた才能。

 

剣術。

 

戦術。

 

銃の扱い。

 

礼節。

 

私は、そのどれにおいても突出した成果を出せなかった。

 

教えられたことは覚えられる。

 

しかし、それを身につけるまでには、兄姉たちより多くの時間がかかった。

 

努力しても、結果が追いつかない。

 

何度も訓練を受け、何度も叱責され、それでも兄姉との差は埋まらなかった。

 

そして、一族は結論を出した。

 

すでに四人の優秀な子供がいる。

 

これ以上、後継者を増やす必要はない。

 

特に、末の娘程度の資質しか望めないのであれば、なおさらだ。

 

そうして、私は五人兄弟の末娘になった。

 

「お前を最後にして正解だったって、何度言われた?」

 

姉様が尋ねた。

 

「……覚えておりません」

 

「だろうな」

 

姉様は鼻で笑った。

 

「アタシたち四人で十分なんだよ。この家は」

 

「……はい」

 

「お前は余計な面倒を増やさなきゃ、それでいい」

 

「……かしこまりました」

 

姉様は私を見下ろしていた。

 

「勘違いすんなよ、ヴィオラ」

 

「はい」

 

「お前が弱いのは、お前一人の問題じゃねえんだ」

 

「……はい」

 

「お前が外で無様な姿を晒せば、ボニャテッリまで舐められる」

 

「……承知しております」

 

「だったら、せめて家の名を汚すんじゃねえよ」

 

「……かしこまりました!」

 

姉様は煙草を吸い込み、ゆっくりと煙を吐いた。

 

「……チッ」

 

そして、吐き捨てるように言った。

 

「今日もお前のせいで、随分時間を無駄にした」

 

「……申し訳ございません」

 

「アタシが直々に教えてやってんだぞ。少しはまともになれよ」

 

「……はい」

 

「次も同じザマで帰ってきたら、今日程度じゃ済まさねえからな」

 

「……承知いたしました」

 

「銃と服は明日までに直しておけ」

 

「かしこまりました」

 

姉様は最後に煙草を一口吸った。

 

そして、灰皿へ押しつけた。

 

じゅっ、と小さな音がする。

 

「……ヴィオラ」

 

「はい」

 

「これ、片づけろ」

 

姉様は灰皿を指差した。

 

「かしこまりました」

 

私はすぐに灰皿へ向かった。

 

中には、吸い殻が二本。

 

まだ灰が少し温かい。

 

持ち上げようとした時、手が震えた。

 

「……っ」

 

危うく、灰皿を傾けそうになる。

 

「おい」

 

姉様の低い声。

 

「……はい!」

 

「まさか、灰皿一つまともに運べねえのか?」

 

「……申し訳ございません」

 

「灰を床にこぼしたら、お前が全部掃除しろよ」

 

「かしこまりました!」

 

私は両手で灰皿を持ち上げた。

 

手の甲が痛む。

 

肩も、腕も。

 

それでも、なるべく揺らさないようにした。

 

……この煙草は。

 

先ほど姉様がおっしゃっていた。

 

私より価値のあるものだと。

 

ならば、粗末に扱ってはいけませんね。

 

私は慎重に灰皿を運んだ。

 

姉様は、その様子を眺めながら鼻で笑った。

 

「……ったく。そんなもんにまで必死になりやがって」

 

「…………」

 

私は何も答えなかった。

 

姉様から命じられた仕事なのだから、丁寧に行うのは当然だ。

 

使用済みの煙草も、指示された通り処分する。

 

火が完全に消えていることを確認し、灰皿を綺麗に拭いた。

 

そして、元の場所へ戻す。

 

「……片づけが完了いたしました」

 

私が報告すると、姉様は一瞥した。

 

「……ふん」

 

それだけだった。

 

私は頭を下げた。

 

「ご確認、ありがとうございます」

 

姉様はすでに私から興味を失ったようだった。

 

「……下がれ」

 

「かしこまりました」

 

私は深く頭を下げた。

 

そして、訓練場を後にした。

 

廊下へ出た瞬間、足から力が抜けそうになった。

 

「……っ」

 

私は壁へ手をついた。

 

腹が痛い。

 

肩も、頬も、背中も。

 

歩くたびに、身体のあちこちが痛んだ。

 

それでも、姿勢を崩すわけにはいかなかった。

 

……使用人たちが見ています。

 

私は背筋を伸ばした。

 

そして、できる限り普段と変わらない歩幅で自室へ向かった。

 

途中、すれ違った使用人が頭を下げる。

 

「ヴィオラ様」

 

「……ご苦労様です」

 

私は軽く頷き、そのまま歩いた。

 

階段を上がる。

 

一段。

 

二段。

 

三段。

 

「……っ」

 

腹に痛みが走った。

 

思わず手すりを掴む。

 

少しだけ呼吸を整え、それから続きを上がった。

 

……情けない。

 

本当に。

 

姉様は、最後まで息一つ乱していなかった。

 

それなのに、私は。

 

「……もっと、努力しなければ」

 

小さく呟いた。

 

自室へ戻ると、使用人が私の姿を見て顔を強張らせた。

 

「ヴィオラ様。お身体が……!」

 

「問題ありません」

 

私は答えた。

 

「湯と清潔な布を。それから、装備の整備申請書を用意してください」

 

「ですが、お怪我が……」

 

私は使用人を見た。

 

「……聞こえませんでしたか?」

 

「……っ!」

 

使用人が慌てて頭を下げた。

 

「も、申し訳ございません!」

 

「命令を繰り返す必要がありますか?」

 

「いいえ! すぐにご用意いたします!」

 

「よろしい」

 

使用人は急いで退室した。

 

私はその背中を見送った。

 

……まったく。

 

命令されたことを、すぐに実行すればよいものを。

 

私は上着を脱いだ。

 

鏡に映った身体には、いくつもの痣ができていた。

 

肩。

 

腹。

 

脇腹。

 

背中。

 

頬も少し腫れている。

 

私は指で触れてみた。

 

「……痛っ」

 

思わず声が漏れた。

 

……仕方ありませんね。

 

私が未熟だったのだから。

 

私は銃を専用の台へ置いた。

 

続いて、傷ついた上着を丁寧に畳む。

 

明日には修繕へ出さなければならない。

 

そして、報告書も清書しなければ。

 

私は机へ向かった。

 

椅子へ腰を下ろす。

 

「……っ!」

 

腹に痛みが走った。

 

一度立ち上がり、呼吸を整えてから、今度はゆっくり座り直した。

 

机の上に書類を広げる。

 

ペンを取ろうとした。

 

しかし。

 

「……あれ?」

 

右手が震えていた。

 

礼法室で打たれた手の甲。

 

訓練で何度も銃を握り直した指。

 

そこへ力を込めようとすると、痛みが走った。

 

私は左手で右手首を押さえた。

 

……落ち着きなさい。

 

文字を書くくらい、できるはずです。

 

私はペンを握った。

 

そして、報告書の一行目を書き始めた。

 

しかし。

 

「…………」

 

いつもより、文字が歪んでいた。

 

私はしばらくそれを見つめた。

 

……これでは、提出できませんね。

 

書類を横へ置き、新しい用紙を取り出す。

 

もう一度。

 

今度は、ゆっくりと。

 

文字が乱れないよう、一画ずつ丁寧に書いた。

 

『本日の任務は――』

 

そこまで書いたところで、また手が震えた。

 

インクがわずかに滲む。

 

「……っ」

 

私は唇を噛んだ。

 

……こんなことさえ。

 

満足にできないなんて。

 

私はペンを置いた。

 

右手を開き、ゆっくりと指を曲げる。

 

痛い。

 

けれど、動かせないわけではない。

 

……大丈夫。

 

まだ、書けます。

 

私は再びペンを握った。

 

そして、報告書を書き進めた。

 

しばらくして、使用人が湯と清潔な布を持って戻ってきた。

 

私は書類から顔を上げた。

 

「そこへ置いてください」

 

「かしこまりました」

 

使用人は机の横へ湯を置いた。

 

それから、私の手元を見た。

 

「……ヴィオラ様」

 

「何でしょう?」

 

「お手が震えていらっしゃいますが……医師をお呼びいたしましょうか?」

 

「必要ありません」

 

私は即座に答えた。

 

「ですが……」

 

「命令は聞こえましたね?」

 

「……はい」

 

使用人は頭を下げた。

 

「失礼いたしました」

 

私は頷いた。

 

「下がってよろしい」

 

「かしこまりました」

 

扉が閉まる。

 

私は再び書類へ向かった。

 

しかし、その時だった。

 

『……かっこよかったから』

 

不意に、あの言葉が頭に響いた。

 

「…………」

 

ペンが止まった。

 

……レン。

 

昼間、裏路地で出会った少年。

 

痩せた身体。

 

汚れた服。

 

傷ついた左腕。

 

礼儀のなっていない言葉遣い。

 

私が男たちを処罰した時、木切れを構えて抵抗してきた子。

 

勝てないことなど、本人にも分かっていたはずなのに。

 

……本当に、変わった子でしたね。

 

食堂でもそうだった。

 

食事が運ばれてきた途端、夢中で食べ始めた。

 

何度注意しても、すぐに食べ方が乱れてしまう。

 

けれど、私の手元を見て、一生懸命に真似をしていた。

 

『……こう、ですか?』

 

「……ふふ」

 

小さく笑みがこぼれた。

 

……まったく。

 

礼儀というものを、少しは覚えてくれたのでしょうか。

 

私は右手の甲を見つめた。

 

ルクレツィア姉様は、私が礼節を守れなかったから罰を与えた。

 

ヴァレンチーナ姉様は、私が未熟だったから身体に教え込んだ。

 

どちらも、必要なことだった。

 

……あの子も。

 

もし、同じような失敗を繰り返すのであれば、きちんと教え直さなければなりませんね。

 

そう考えた。

 

しかし、すぐに首を振る。

 

……いいえ。

 

もう会うこともないでしょう。

 

あの子は、ただの裏路地の少年。

 

私は情報を得るために食事を与えた。

 

取引は終わっている。

 

それ以上の関係など、ないのだから。

 

私はペンを持ち直した。

 

しかし。

 

『……かっこよかったから』

 

また、あの言葉が浮かんだ。

 

「…………」

 

私は机の横に置いた銃へ目を向けた。

 

黒い銃身。

 

そこに刻まれた、いくつもの傷。

 

姉様たちは、その傷を見て私を叱責した。

 

ヴァレンチーナ姉様は、煙草一本より価値がないとおっしゃった。

 

それは、私の未熟さを考えれば仕方のない評価なのだろう。

 

……けれど。

 

あの子は、同じ銃を見ていた。

 

私が戦うところも。

 

剣を受け流しきれなかったところも。

 

上着を斬られたところも。

 

すべて見ていた。

 

それなのに。

 

『……かっこよかったから』

 

『俺も、あんなふうに戦えたらいいなって』

 

「…………」

 

私は銃を見つめた。

 

……不思議ですね。

 

兄様や姉様たちなら、もっと上手く戦えたはずです。

 

私よりも速く。

 

私よりも正確に。

 

私よりも美しく。

 

敵を圧倒できたでしょう。

 

それなのに、あの子は。

 

私の戦い方に憧れた。

 

……この私に。

 

私はゆっくりと銃身に触れた。

 

昼間の戦闘でついた傷。

 

先ほどまで、見るたびに恥ずかしく思っていたもの。

 

その傷を指でなぞる。

 

「…………」

 

……かっこいい、ですか。

 

そんなふうに言われたことが、今まであったでしょうか。

 

私は小さく息を吐いた。

 

……きっと。

 

あの子は、戦闘技術について何も知らないのでしょう。

 

だから、私程度の技量でも立派に見えた。

 

ただ、それだけ。

 

……そう。

 

それだけのことです。

 

私は銃から手を離した。

 

そして、報告書へ視線を戻す。

 

……忘れましょう。

 

あの子と再会する理由はありません。

 

私には、もっと大切なことがあるのですから。

 

私はペンを持ち直した。

 

震える右手を、左手でそっと支える。

 

一文字ずつ。

 

丁寧に。

 

報告書を書き進める。

 

ようやく最後の一行を書き終えた頃には、夜もかなり更けていた。

 

私は署名欄へペンを運んだ。

 

――ヴィオラ・ボニャテッリ。

 

一族の中で、最も才能のない末娘。

 

名前を書き終える。

 

しかし、ペンを置いた後も、私はしばらく書類を見つめていた。

 

「……レン」

 

小さく名前を呟いた。

 

今日出会った、裏路地の少年。

 

生きるためなら危険な仕事も引き受ける。

 

勝てない相手にも抵抗する。

 

礼儀作法はなっていない。

 

けれど、教えたことはすぐに覚える。

 

そして。

 

私の戦う姿を見て、かっこいいと言った。

 

「…………」

 

私は小さく首を振った。

 

……本当に。

 

変わった子ですね。

 

その名前を覚えていたところで、何かが変わるわけではない。

 

もう一度会うかどうかも分からない。

 

それなのに。

 

『……かっこよかったから』

 

「……ふふ」

 

誰に聞かせるでもなく、笑みがこぼれた。

 

私は慌てて口元を引き締めた。

 

……何を笑っているのでしょう。

 

報告書を揃え、机の端へ置く。

 

そして、明日の訓練予定を確認する。

 

やるべきことは、まだ残っている。

 

私は再びペンを握った。

 

けれど。

 

その夜、最後に思い出したのは、姉様の叱責でも、身体に残った痛みでもなかった。

 

『……かっこよかったから』

 

裏路地の少年が、何気なく口にした一言。

 

私はもう一度、小さく息を吐いた。

 

……次に会うことがあれば。

 

もう少し、まともな言葉遣いになっているといいのですが。

 

そう思いながら、私は机の明かりを落とした。

 

 

 

 

 

 

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