「……いってえ」
腕を動かした途端、左腕に鋭い痛みが走った。
俺は思わず顔をしかめる。
「……くそっ」
巻いていた包帯を少しずらすと、その下には赤く細長い傷が残っていた。
血はもう止まっている。
けど、傷口はまだ完全には塞がっていない。
無理に動かすと、皮膚が引っ張られるような痛みが走る。
「……あの野郎」
思い出すのは、俺を斬った男の顔だった。
たった三千眼。
荷物を運ぶだけの仕事。
それを引き受けた結果、俺は殺されかけた。
……やっぱり、あの仕事は受けるんじゃなかった。
今さら後悔したところで、金が戻ってくるわけでもないけど。
俺は包帯を巻き直した。
「……よし」
少し緩い気もするが、何もしないよりはましだろう。
前に、あの女が巻いていたやり方を思い出す。
傷口に布を当てて、その上から包帯を巻く。
強く締めすぎないようにして、最後に結ぶ。
……確か、こんな感じだったはずだ。
俺は何度か結び目を確かめた。
「……まあ、いいか」
包帯を巻き終え、周囲を見回す。
薄暗い倉庫。
天井の一部は崩れ、壁にも大きな亀裂が入っている。
使われなくなってから、相当な年月が経っているのだろう。
床には木材や鉄くずが散乱し、隅には古い木箱が積み重なっていた。
その奥。
崩れた棚と壁の間に、人一人がようやく横になれる程度の隙間がある。
そこが、今の俺の寝床だった。
「……寒ぃ」
俺は拾ってきた布を肩へ掛けた。
朝になったばかりだというのに、倉庫の中はひんやりしている。
壁に空いた穴から風が吹き込むたび、積まれた木箱が小さく軋んだ。
……いつか崩れたりしねえだろうな。
少し心配になる。
けど、他に行く場所もない。
ここは通りから見えにくい。
入口には錆びついた鉄板が倒れかかっていて、知らない奴なら中に入ろうとも思わないだろう。
しかも、奥の寝床は木箱に隠れている。
少なくとも、通りを歩いている奴らからは見えない。
……まあ、見つからねえ保証なんてないけど。
俺は寝床から這い出した。
今日も仕事を探さなければならない。
昨日はろくに稼げなかった。
一昨日も、似たようなものだ。
このままじゃ、また飯が食えなくなる。
「……はぁ」
俺は懐を探った。
硬貨が数枚。
それを掌に並べる。
「……ええと」
一枚。
二枚。
三枚。
……これが百眼で。
こっちが五十眼。
だから……。
「…………」
俺はしばらく硬貨を見つめた。
「……まあ、パン一つくらいは買えるか」
細かい計算は諦めた。
とにかく、金が少ないことだけは分かる。
俺は硬貨を懐へ戻した。
それから、倉庫の隅に立てかけた一本の木の棒へ目を向けた。
長さは俺の胸くらい。
昨日、道端で拾ったものだ。
折れた家具の脚らしい。
少し曲がっているが、握れないことはない。
「…………」
俺は棒を手に取った。
そして、あの日の光景を思い出す。
赤い服。
長い銃剣。
男たちの剣を受け流し、あっという間に倒していった少女。
……ヴィオラ。
「……こう、だったか?」
俺は棒を右手で握り、前へ構えた。
あの女は両手で銃を持っていた。
けど、今は左腕が痛い。
仕方なく右手だけで構える。
「……ふっ!」
一歩踏み込んで、棒を突き出した。
……遅え。
もう一度。
「……ふっ!」
今度は少し勢いをつける。
しかし、踏み込んだ足が床の木片を踏んだ。
「うわっ!」
身体が傾く。
慌てて左腕で壁を支えようとした。
「いっ……!」
傷が痛んだ。
俺はその場に尻餅をついた。
「……っ、くそ!」
痛え。
尻も痛いし、腕も痛い。
何なんだよ。
たった一歩踏み込んだだけじゃねえか。
俺は木の棒を見つめた。
……あの女は、あんなに簡単そうにやってたのにな。
「……やっぱ、難しいな」
俺は小さく呟いた。
棒を脇に置き、ゆっくり立ち上がる。
……まあ、いい。
今日は仕事だ。
練習なんて、飯代を稼いでからにしよう。
俺は倉庫の入口へ向かった。
崩れた鉄板の隙間から外を確認する。
通りには誰もいなかった。
……よし。
俺は身体を横にして隙間を抜け、裏路地へ出た。
「駄目だ」
仕事を探し始めて間もなく、荷運び屋の親父にそう言われた。
「……何でだよ」
「その腕だよ」
親父は俺の左腕を指差した。
「怪我人に荷物なんか任せられるか」
「もう血は止まってるって!」
「だったら、こいつ持ってみろ」
親父は足元の木箱を指差した。
結構大きい。
中には金属の部品が詰まっているらしい。
「……持てばいいんだな?」
「ああ」
俺は木箱の両端を掴んだ。
「……よっ!」
持ち上げようとする。
……重っ!
左腕に痛みが走る。
「っ……!」
思わず力を緩めてしまった。
箱が傾く。
「おいおい!」
親父が慌てて箱を押さえた。
「ほら見ろ! 危ねえじゃねえか!」
「……今のは、ちょっと持ち方が悪かっただけだ!」
「馬鹿言え。商品を壊されたらこっちが損するんだよ」
「……ちぇっ」
「怪我が治ったらまた来い」
親父はそう言って、俺を追い払った。
俺は仕方なく歩き始めた。
……くそ。
仕事がねえ。
怪我をしていると、まともに荷物も運べない。
かといって、他にできることも限られている。
「……参ったな」
俺は腹を押さえた。
ぐう、と小さく鳴った。
……朝飯、食ってねえんだよな。
仕事が見つかれば、昼には何か食えると思ったんだけど。
仕方なく、別の通りへ向かった。
「おい、そこのガキ!」
しばらく歩いたところで、店先に立っていた男に声をかけられた。
「……何だ?」
「暇か?」
「仕事ならするぞ」
「なら、こいつを届けてこい」
男は小さな封筒を差し出した。
「南の通りにある修理屋だ。報酬は百眼」
「……百眼?」
「ああ」
俺は封筒を見た。
薄い。
重くもない。
これなら左腕が痛くても大丈夫そうだ。
「……分かった」
「場所は分かるか?」
男は道順を説明し始めた。
俺は黙って聞いた。
南へ二本。
壊れた看板のある角を曲がる。
その先にある赤い扉の店。
「……分かった」
「本当か? 地図は?」
「いらねえよ」
「……大丈夫か、お前」
「道は覚えたって」
俺は封筒を受け取ろうとした。
しかし、その前に一つ気になることがあった。
「……なあ」
「何だ?」
「報酬は百眼で間違いねえよな?」
「そう言っただろ」
「後から手数料とか引かねえよな?」
「……は?」
男が怪訝そうな顔をした。
俺は続ける。
「配達料とか、紹介料とか、そういうの」
「んなもんねえよ。届けたら百眼だ」
「……本当だな?」
「ああ! しつけえな!」
「……分かった」
俺は封筒を受け取った。
……確認は大事だ。
前に六十眼も引かれたことがあるからな。
しかも、その後は三千眼に釣られて殺されかけた。
……もう、あんな目には遭いたくねえ。
「……じゃあ、行ってくる」
「ああ。寄り道すんなよ」
俺は軽く手を振り、歩き始めた。
届け先までは、それほど遠くなかった。
言われた通りの道を進むと、赤い扉の修理屋が見つかった。
「……ここか」
扉を叩く。
中から、作業着を着た男が顔を出した。
「何だ?」
「配達です」
俺は封筒を差し出した。
男は受け取ると、中身を確認した。
「……ああ、これか。ご苦労さん」
「……どうも」
俺は軽く頭を下げた。
男は少し驚いたように眉を上げた。
「お前、ちゃんと挨拶できるんだな」
「……そりゃ、まあ」
「この辺のガキにしちゃ珍しい」
……何だよ。
俺だって、挨拶くらいできるって。
そう言い返しかけて、口を閉じた。
『年上の相手に対して、その口調は失礼です』
……ああ。
また、あの女の声が。
「……失礼します」
俺はもう一度頭を下げた。
男は面白そうに笑った。
「おう。また何かあったら頼むわ」
……おっ。
仕事、またもらえるのか?
悪くねえな。
俺は少し気分を良くして店を後にした。
「……百眼」
戻ってきた俺に、男は硬貨を一枚差し出した。
俺はすぐに受け取った。
「……どうも」
「おう。ちゃんと届けたみてえだな」
「当たり前だろ」
「……ったく、生意気なガキだ」
男は笑った。
「また頼むことがあるかもしれねえ。その時はよろしくな」
「……おう」
俺は硬貨を懐にしまった。
……よし。
今日の飯代は確保できた。
これならパンが買える。
それに、まだ少し金が残るかもしれない。
俺は近くのパン屋へ向かった。
買ったのは、一番安いパンだった。
硬くて、少し酸っぱい。
けど、腹が減っている時には十分だ。
「……うめえ」
俺は歩きながらパンをかじった。
……その時だった。
横から、小さな子供がこちらを見ていることに気づいた。
俺よりさらに小さい。
七つか八つくらいだろうか。
痩せた身体。
汚れた服。
目は、俺の持っているパンに釘づけになっていた。
「…………」
俺は足を止めた。
子供は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
……何だよ。
欲しいのか?
俺はパンを見下ろした。
まだ半分以上残っている。
……けど。
「……悪いな」
俺は小さく呟いた。
「俺だって腹減ってんだよ」
子供は答えなかった。
その場で、俺を見ていた。
……くそ。
嫌な気分だ。
俺は視線を逸らし、歩き始めた。
何歩か進んだところで、もう一度振り返る。
子供は別の通行人へ視線を向けていた。
……まあ、そうだよな。
この辺じゃ、珍しいことじゃねえ。
俺だって、食い物が欲しくて他人を見つめたことくらいある。
けど、だからって誰かが恵んでくれるわけじゃない。
俺は残ったパンを握り直した。
「…………」
しばらくして、人通りの少ない場所へ移動した。
壁を背にして座る。
そこで、もう一度パンを取り出した。
……あの女は、食事は逃げねえって言ってたっけ。
俺はパンを見つめた。
「……逃げねえけど、取られることはあるんだよな」
小さく呟く。
俺はパンをちぎった。
それから、少しずつ口へ運んだ。
……ああ。
こういう食べ方だったか。
あの食堂で、何度も注意されたのを思い出す。
背筋を伸ばせ。
口に物を入れたまま話すな。
急いで食べるな。
……面倒くせえ女だったな。
俺は苦笑いした。
けど、仕事先で丁寧に話すと、少しだけ相手の態度が変わることも分かった。
……意外と役に立つもんなんだな。
教えられた時は、骨を折られたくなくて必死だったけど。
俺は最後のパンを口へ運んだ。
それから数日。
左腕の傷は、少しずつ塞がっていった。
けど、仕事が安定したわけじゃない。
ある日は荷運び。
ある日は使い走り。
仕事が見つからず、半日歩き回るだけの日もあった。
報酬を払ってもらえないこともあった。
「……百五十眼?」
俺は掌に置かれた硬貨を見つめた。
「おっさん、二百眼って言っただろ」
「荷物が一つ少なかったからな」
「俺が運ぶ前から、そうだったじゃねえか!」
「知らねえよ。文句があるなら返せ」
「……っ」
俺は口を閉じた。
目の前の男は、俺よりずっと大きい。
腰には短い刃物を下げている。
周囲には男の仲間らしい奴も二人いた。
……ここで揉めたら、金どころじゃなくなる。
俺は硬貨を握りしめた。
「……分かりました」
「最初からそう言え」
男は鼻で笑った。
俺は頭を下げ、その場を離れた。
「…………」
路地を一つ曲がったところで、ようやく息を吐いた。
「……くそったれ」
五十眼。
たった五十眼。
でも、その五十眼があれば、明日の飯が少しは楽になった。
……悔しい。
けど、殴られるよりはましだ。
俺は懐の硬貨を確かめた。
「……次から、あの男の仕事は受けねえ」
顔は覚えた。
声も。
腰に下げていた刃物も。
あいつがいた店の場所も。
……忘れねえからな。
俺はそう決めて歩き始めた。
一週間が過ぎた頃。
俺は、いつもの倉庫へ戻ってきた。
日はまだ落ちていない。
日中に稼いだ金でパンを買い、残りは懐へしまってある。
……今日は悪くねえ日だったな。
そう思いながら、倉庫の入口へ近づいた。
その時だった。
「……ん?」
足が止まった。
入口に倒してあった鉄板の向きが変わっている。
……あれ?
俺、こんなふうに置いたっけ?
いつもは、右側の角が壁に寄りかかっている。
けど、今は少し手前に倒れていた。
誰かが動かしたように見える。
「…………」
俺は足元を見た。
地面には、見覚えのない足跡があった。
大きな靴跡。
一つじゃない。
少なくとも、二人分はあるように見えた。
……誰か入ったのか?
俺は少し迷った。
中には、俺の寝床がある。
拾ってきた布。
水を入れた容器。
それから、練習用の木の棒。
大したものは置いていない。
けど、俺にとっては大事なものばかりだった。
……まさか、盗られた?
俺は入口へ近づきかけた。
しかし。
中から声が聞こえた。
「……ったく、汚ねえところだな」
「でも、奥は雨が入らねえぞ」
「おお。こりゃ使えそうだ」
男の声。
二人。
……まずい。
俺は慌てて壁際へ身を寄せた。
中を覗く。
薄暗い倉庫の奥で、男が二人、積まれた木箱を動かしていた。
一人は大柄で、片手に鉄の棒を持っている。
もう一人は痩せているが、腰には刃物を下げていた。
……何だ、あいつら。
男の一人が、俺の寝床に置いてあった布を拾い上げた。
「……誰か住んでんのか?」
「浮浪者だろ」
「ガキかもしれねえな。こんな小せえ寝床だし」
「だったら好都合じゃねえか。追い出せばいい」
二人は笑った。
「…………」
俺は壁の陰で息を呑んだ。
……冗談じゃねえ。
そこ、俺の寝床だぞ。
勝手に入ってきて、何してんだよ。
俺は拳を握った。
……けど。
二人とも大人。
片方は鉄の棒。
もう片方は刃物。
こっちは十二歳。
まともな武器もない。
……勝てるわけねえ。
俺は唇を噛んだ。
それでも、ここを取られたら困る。
他に眠れる場所の当てなんてない。
夜になったら、どこへ隠れればいいんだ?
……くそ。
俺はしばらく考えた。
正面から追い出すのは無理だ。
なら、どうする。
……どうすりゃいい?
俺は周囲を見回した。
崩れかけた壁。
錆びた鉄板。
床に散らばった木片。
……あいつらを追い出せるようなものは、何もない。
「…………」
その時、男たちの会話が聞こえた。
「ここ、夜も大丈夫なんだろうな?」
「知るかよ」
「掃除屋が来たらどうすんだ?」
「入口塞いどきゃ平気だろ」
「……それで済むのか?」
「知らねえって」
俺は顔を上げた。
……あ。
そうだ。
あいつら、ここを知らねえ。
どこから入ったら安全なのかも。
どの壁が崩れかけているのかも。
何が危ないのかも。
……俺は知ってる。
俺は倉庫を見上げた。
屋根には、大きな穴が空いている。
奥の壁は、強く押せば崩れそうなくらい傷んでいた。
そして、入口の近くには、以前使われていた古い警告板が転がっている。
……確か、あれには。
俺は警告板へ視線を向けた。
文字の一部は錆で読めなくなっていたが、危険を知らせる印が描かれていた。
昔、近所の男が話していたことを思い出す。
この倉庫は、屋根や壁が崩れかけているせいで、誰も使わなくなった。
だから、人も近づかない。
俺はそれを知っていた。
……そうだ。
本当に危ねえ場所なんだよな、ここ。
あいつら、それを知らねえだけで。
俺は少し考えた。
それから、入口から十分離れた位置へ移動した。
「おーい!」
俺は倉庫へ向かって声を張り上げた。
中の男たちの動きが止まる。
「……あ?」
「誰だ?」
俺はすぐには姿を見せなかった。
「そこ、使わねえ方がいいぞ!」
「……何だ、ガキか?」
男の一人が入口へ近づいてきた。
俺は距離を保ったまま続けた。
「その倉庫、壊れかけてるんだよ!」
「んなもん見りゃ分かるわ!」
「違うって! 奥の壁、昨日も崩れてたんだ!」
……嘘だ。
昨日、壁は崩れていない。
けど、傷んでいるのは本当だ。
男たちは顔を見合わせた。
「……マジか?」
「知らねえよ」
俺は入口近くの警告板を指差した。
「そこに危険って書いてあるだろ!」
男が警告板を見た。
「……あ?」
「屋根も落ちかけてるし、奥の壁も危ねえんだよ!」
「……おい」
痩せた男が、もう一人へ声をかけた。
「確かに、奥の壁はやべえんじゃねえか?」
「……そうか?」
「さっき木箱動かしたら、上から埃が落ちてきたぞ」
……おっ。
効いてるか?
俺は少しだけ期待した。
しかし、大柄な男がこちらを向いた。
「……おい、ガキ」
「……何だ?」
「お前、ここに住んでんのか?」
「……っ」
まずい。
俺は一瞬黙った。
男が笑った。
「なるほどな。追い出されたくねえから、脅かしてんのか」
……ばれた?
俺は慌てて首を振った。
「ち、違うって!」
「だったら中に入ってみろよ」
「……は?」
男は鉄の棒を肩に担いだ。
「危ねえってんなら、どこが危ねえのか案内してみろ」
……嫌だ。
近づいたら、殴られる。
俺は一歩下がった。
男が目を細める。
「……何だ。やっぱ嘘か?」
「……いや」
俺は周囲を見回した。
逃げ道はある。
細い路地を抜ければ、人通りのある通りに出られる。
……よし。
俺は男たちから距離を取ったまま、倉庫の屋根を指差した。
「じゃあ、屋根見てみろよ!」
「……屋根?」
「真ん中の梁、曲がってるだろ!」
男たちが顔を上げた。
屋根を支える太い木材。
その一部は、確かに大きく歪んでいる。
「……ああ?」
「前にここへ入った奴が、梁が折れかけてるって言ってたんだ!」
これも、半分嘘だった。
そんな奴は知らない。
けど、梁が傷んでいるのは間違いない。
「……本当かよ」
痩せた男が呟いた。
大柄な男はしばらく屋根を見つめていた。
その時。
ギシッ。
倉庫の中から、小さな音が響いた。
「……っ!」
俺も思わず肩を跳ねさせた。
……何だ、今の。
男たちが一斉に天井を見上げた。
ギシ、ギシッ。
風に揺らされた木材が軋んでいるらしい。
普段から聞こえる音だ。
けど、初めて聞く奴には不気味だろう。
「……おい」
痩せた男が大柄な男の袖を引いた。
「やめとこうぜ」
「……チッ」
「寝てる間に潰されたら洒落になんねえよ」
「……分かったよ」
大柄な男は苛立たしげに舌打ちした。
それから、俺を睨んだ。
「おい、ガキ」
「……何だよ」
「お前、ここ使ってんだろ」
「…………」
俺は答えなかった。
男は鼻で笑った。
「まあいい。こんなボロ倉庫、欲しけりゃくれてやる」
……別に、あんたのもんじゃねえだろ。
そう言い返したくなった。
けど、我慢した。
男たちは俺の寝床から拾った布を放り投げると、入口から出てきた。
俺はすぐに道を空けた。
二人が近づいてきた時には、壁から離れて距離を取る。
男たちは俺を一瞥しただけで、通りの向こうへ歩いていった。
俺はその背中を見送った。
完全に見えなくなるまで、動かなかった。
「…………」
それから、ようやく息を吐いた。
「……はぁぁ……」
足から力が抜けそうになる。
……助かった。
本当に、助かった。
俺は壁にもたれかかった。
……怖かった。
もし、あいつらが本気で怒っていたら。
もし、嘘がばれた後に追いかけられていたら。
たぶん、俺は勝てなかった。
「……くそっ」
俺は額の汗を拭った。
……危ねえ。
もう少しで、寝床を取られるところだった。
でも。
「……追い払えた、よな?」
俺は倉庫を見た。
男たちはいない。
寝床も残っている。
荷物も、ほとんどそのままだ。
……よし。
俺は小さく笑った。
「……へへっ」
正面から戦わなくても、何とかなるもんだな。
俺は拾ってきた布を集め直し、寝床へ戻した。
……ただ。
屋根が危ねえのは本当なんだよな。
俺は上を見上げた。
さっきまで安心していたのに、急に不安になってきた。
「……ここ、本当に大丈夫か?」
しばらく考えた。
……まあ、今すぐ崩れるわけじゃねえだろ。
たぶん。
俺はそう自分に言い聞かせた。
それから、もう一度入口を塞ぎ直した。
今度は、外から見ても誰かが出入りしたように見えないよう、鉄板の角度を元に戻しておいた。
そして、床に落ちていた自分の木の棒を拾った。
「…………」
俺は棒を見下ろした。
……結局、こいつは一度も使わなかったな。
けど。
それでよかったのかもしれない。
俺は棒を寝床の脇へ立てかけた。
二週間目に入ると、左腕の傷はほとんど塞がった。
まだ強く引っ張ると痛むが、軽い荷物なら問題なく運べる。
おかげで、仕事の幅も少し増えた。
しかし、だからといって金が貯まるわけでもなかった。
食費。
水。
包帯の代わりに使う清潔な布。
時々、どうしても必要になる道具。
稼いだ金は、すぐになくなっていく。
「……はぁ」
俺は掌の硬貨を数えた。
……少ねえな。
昨日は結構働いたはずなんだけど。
まあ、仕方ねえ。
食わなきゃ死ぬんだから。
俺は硬貨を懐へ戻した。
そして、通りの向こうにいる男たちへ目を向けた。
四人。
全員、汚れた上着を着ている。
一人は酒瓶を持っていて、残りの三人は周囲を見回していた。
……何やってんだ、あいつら。
俺は少し離れたところから観察した。
男の一人が、通行人の鞄へ視線を向ける。
別の男は、その通行人の進む方向を見ていた。
……ああ。
物取りか?
俺は足を止めた。
……いや。
決めつけるのは早えか。
ただ道端に集まってるだけかもしれない。
しばらく様子を見る。
すると、男の一人が路地の奥へ移動した。
残った三人のうち、二人も少しずつ位置を変えている。
……何だ?
俺は男たちの位置を頭の中で並べた。
一人が路地の出口。
二人が通りの両側。
もう一人が、通行人の後ろ。
……あれ。
これ、まずくねえか?
そう思った瞬間だった。
男の一人が通行人へぶつかった。
「おっと、悪いな」
「……何だ?」
通行人が足を止める。
その背後から、別の男が近づいた。
「……っ」
俺は反射的に一歩下がった。
……やっぱり。
あいつら、仲間だ。
その直後。
男たちは通行人を取り囲んだ。
「ちょっと話があるんだけどよ」
「……何だ、てめえら」
通行人が声を荒らげる。
俺はそれ以上見なかった。
すぐに踵を返し、別の道へ向かう。
……危ねえ。
もう少し近くにいたら、俺まで巻き込まれていたかもしれない。
俺は歩きながら、さっきの男たちの動きを思い返した。
最初から、あの通行人を狙っていたのか。
それとも、たまたま金を持っていそうな奴を選んだのか。
……分かんねえな。
でも、四人が別々の位置に動いたのは覚えている。
ああいう動きをしている連中には、近づかない方がいい。
俺はそう決めた。
その日の夕方。
俺は倉庫の近くで、木の棒を構えていた。
「……ふっ!」
一歩踏み込む。
突く。
戻す。
もう一度。
「……ふっ!」
最初の頃よりは、少し動きやすくなった。
けど、相変わらず動きは遅い。
棒を突き出すたびに身体が前へ傾く。
……これじゃあ、相手に避けられたら終わりだな。
俺は棒を下ろした。
思い出すのは、ヴィオラの銃剣術だった。
あの女は、俺みたいに無理やり突き出していなかった。
相手の動きに合わせて、身体をずらしていた。
剣を受け流し、相手が崩れたところへ踏み込んでいた。
……あれ、どうやってんだろうな。
俺は棒を構え直した。
右足を少し引く。
肩の力を抜く。
……いや、抜きすぎると棒が落ちるか。
「……うーん」
何となく、しっくりこない。
俺はもう一度突きを繰り出した。
「……ふっ!」
……駄目だな。
それでも、続けた。
うまくできないなら、できるようになるまでやるしかない。
……まあ、無理して怪我したら仕事ができなくなるから、ほどほどにしとくけど。
俺は額の汗を拭った。
「……あー、腹減った」
結局、練習をやめた理由はそれだった。
三週間目。
その日は、少し離れた地区まで封筒を届ける仕事を請け負っていた。
届け先は、小さなフィクサー事務所。
道は複雑だったが、一度説明を聞けば十分だった。
「……ここだな」
俺は建物を見上げた。
三階建て。
一階には雑貨屋。
二階にはいくつかの事務所が並んでいる。
俺は階段を上がり、指定された部屋の扉を叩いた。
「すみませーん」
中から声がした。
「はい、どうぞ」
俺は扉を開けた。
「配達です」
机の向こうに座っていた男が封筒を受け取る。
「……ああ、これか。ご苦労さん」
「どうも」
軽く頭を下げる。
男は何も言わず、再び仕事へ戻った。
俺は扉を閉め、階段を下りた。
……よし。
あとは戻って報酬をもらうだけだ。
そう思って建物を出た。
その時だった。
「……ん?」
通りの向こうに、見覚えのある後ろ姿が見えた。
数人の男女が、武器を持って歩いている。
フィクサーらしい。
その中の一人。
黒っぽい上着。
腰に下げた武器。
少し猫背気味の歩き方。
……あれ。
俺は足を止めた。
「……兄貴?」
小さく呟いた。
間違いない。
兄貴だった。
兄貴は十五歳。
俺より三つ年上で、今はフィクサーの見習いとして働いている。
昔から、妙に危険を察知するのが上手かった。
俺が何も気づかないような場所でも、兄貴だけは嫌な予感を覚えるらしい。
『レン、あっちの道はやめとけ』
子供の頃、何度もそう言われた。
『何でだよ?』
俺が聞き返すと、兄貴は大抵こう答えた。
『何となくだ』
……何となくって何だよ。
昔はそう思っていた。
けど、兄貴の言う通りにして助かったことは何度もあった。
俺には、そういう勘はない。
危ないと思った時には、もう手遅れ。
この前だってそうだった。
……三千眼、欲しかったな。
いや、違う。
もうあんな仕事はごめんだ。
俺は小さく首を振った。
そして、兄貴の方を見た。
兄貴は年上のフィクサーと話していた。
どうやら、何かの依頼中らしい。
……元気そうだな。
少し安心した。
俺は近くの荷車の陰へ移動した。
……別に、隠れる必要はない。
そう思った。
けど、足は勝手に荷車の陰へ向かっていた。
兄貴に見つかったら、何を言われるだろう。
今、どこで暮らしているのか。
何を食っているのか。
どんな仕事をしているのか。
きっと、色々聞かれる。
家を追い出されたことも、知られるかもしれない。
……嫌だな。
兄貴はまだ十五歳だ。
フィクサーの見習いで、自分の生活だって大変なはず。
姉ちゃんも十六歳で、事務所の会計をやっている。
二人とも、働いて何とか暮らしているんだ。
……俺まで頼るわけにはいかねえ。
俺は荷車の陰から、もう一度兄貴の方を見た。
「……っ!」
兄貴が突然、足を止めた。
年上のフィクサーが何か言っている。
けど、兄貴は答えなかった。
その視線は、少し離れたところにいる二人組へ向けられていた。
二人とも男。
一人は背が高く、もう一人は少し小柄。
どちらも、腰に武器を下げている。
……何だ?
俺は目を細めた。
兄貴が年上のフィクサーへ何かを告げた。
年上の男が表情を変える。
そして、周囲の仲間たちへ小さく合図を送った。
……あれ?
何かあんのか?
次の瞬間だった。
向かい合っていた男の一人が、突然武器を抜いた。
「……っ!」
俺は息を呑んだ。
しかし。
兄貴は、すでにその場所から動いていた。
相手が武器を抜く直前。
ほんの少し早く、一歩横へ移動していたのだ。
刃が空を切る。
「……え?」
俺は思わず声を漏らした。
……何で?
何で兄貴は、あいつが武器を抜くって分かったんだ?
男は続けて剣を振ろうとした。
だが、兄貴は無理に反撃しなかった。
すぐに距離を取り、年上のフィクサーの後ろへ下がる。
「下がれ!」
年上のフィクサーが叫んだ。
続いて、その男が前へ踏み込む。
剣がぶつかる音。
短い怒声。
もう一人のフィクサーも加わり、男を押さえ込んだ。
もう片方の敵も抵抗しようとしたが、別のフィクサーが武器を向けると、大人しく両手を上げた。
……終わった。
思ったより、あっさりしていた。
けど。
俺は兄貴を見つめていた。
……すげえ。
あの男が武器を抜く前から、兄貴は動いていた。
しかも、無理に戦わなかった。
一度距離を取って、年上のフィクサーに任せた。
……あれ。
俺がやろうとしてることと、同じじゃねえか?
いや、違うか。
兄貴は、危ないことが起こる前に分かってる。
俺は、危ない目に遭ってから逃げる。
そこが全然違う。
「……どうやってんだろうな」
小さく呟いた。
その時だった。
兄貴が、ふとこちらを向いた。
「……っ!」
俺は反射的に荷車の陰へ引っ込んだ。
……やべえ!
見つかったか!?
心臓が跳ねる。
しばらく息を殺していた。
足音が近づいてくる。
……まずい。
逃げるか?
いや、逃げたら余計に怪しまれる。
俺は身体を縮めた。
しかし。
「おい、ガキ。邪魔だ」
聞こえてきたのは、知らない男の声だった。
「……あ?」
顔を上げる。
荷車の持ち主らしい男が、俺を見下ろしていた。
「荷車動かすぞ。どけ」
「……あ、はい」
俺は慌てて立ち上がった。
男は舌打ちしながら荷車を動かし始める。
俺は再び通りへ目を向けた。
兄貴たちは、すでに歩き去ろうとしていた。
……よかった。
見つからなかったらしい。
俺は小さく息を吐いた。
そして、兄貴の背中を見送った。
……兄貴。
元気そうでよかった。
そう思った。
声をかけたい気持ちはあった。
久しぶりに話したかった。
最近、どんな仕事をしているのか。
見習いは大変なのか。
姉ちゃんは元気なのか。
聞きたいことは、結構あった。
けど。
「…………」
俺は動かなかった。
兄貴が角を曲がり、見えなくなるまで。
ずっと、その場に立っていた。
「……さて」
俺は小さく呟いた。
「戻るか」
仕事の報酬を受け取らなければならない。
……そうだ。
今は、それが先だ。
俺は兄貴が消えた方向に背を向けた。
その日の夕方。
いつもの倉庫へ戻った俺は、木の棒を構えていた。
「……ふっ!」
踏み込む。
突く。
戻す。
もう一度。
「……ふっ!」
今度は、さっき見た兄貴の動きを思い出した。
相手が武器を抜く前に、少し身体をずらしていた。
……あれ、どうやって分かったんだ?
俺は棒を下ろした。
自分の手を見る。
別に、何かが変わったわけじゃない。
兄貴みたいな勘が、急に身につくわけでもない。
……じゃあ、どうする?
俺はしばらく考えた。
それから、昼間の男たちを思い出した。
武器を抜いた男。
その前に、兄貴が動いた。
……あの時。
男は、確か腰の方へ手を伸ばしていた。
いや、違う。
その前に、少し肩が動いたような……。
「…………」
駄目だ。
そこまでちゃんと見てなかった。
俺は小さく舌打ちした。
……次からは、もっとよく見よう。
俺には兄貴みたいな勘はない。
だったら、見て覚えるしかない。
誰がどこを見ているのか。
どこに手を伸ばしているのか。
どんな時に武器を抜くのか。
……そういうのを覚えとけば、少しはましになるかもしれない。
俺は棒を構え直した。
「……ふっ!」
もう一度、突く。
ただし、今度は突いた後にすぐ身体を引いた。
相手が反撃してくると考えて。
「……おっ」
少し、動きやすい。
いや。
本当に正しいかどうかは分かんねえけど。
俺は小さく笑った。
「……まあ、やらねえよりはましだろ」
それから、もう一度だけ踏み込んだ。
四週間目。
最初にヴィオラと出会った日から、もうすぐ一か月が経とうとしていた。
俺の生活は、相変わらずだった。
朝になれば仕事を探す。
見つかれば働く。
稼いだ金で飯を買う。
残った金は、なるべく使わないようにする。
日が暮れる前には、倉庫へ戻る。
そして、少しだけ練習する。
それだけの毎日。
けど、何も変わらなかったわけじゃない。
まず、左腕の傷がほとんど治った。
次に、仕事を選ぶようになった。
報酬が高すぎる仕事には、なるべく近づかない。
依頼人の顔や場所は、ちゃんと覚えておく。
怪しい奴らが集まっていたら、近づかずに別の道を使う。
それから。
……逃げ道も、少しは意識するようになった。
前までは、何かあってから逃げていた。
今は、危なそうな場所へ入る前に、どこから逃げられるか考える。
……まあ。
考えたところで、毎回うまくいくわけじゃねえけど。
「……ふっ!」
俺は倉庫の裏で木の棒を突き出した。
一歩踏み込む。
戻す。
少し身体をずらす。
もう一度。
「……ふっ!」
最初の頃よりは、多少動けるようになった。
踏み込んだだけで転ぶことも減った。
腕も、前ほど痛まない。
それに、棒を持ち上げたまま動ける時間が少し長くなった気がする。
……それだけだけど。
俺は棒を下ろした。
額の汗を拭う。
「……はぁ」
息が上がっている。
足も疲れている。
……弱えな、俺。
そう思った。
けど、すぐに首を振った。
……仕方ねえだろ。
まだ一か月だ。
まともな先生もいない。
本物の武器だって持ってない。
これで急に強くなったら、逆におかしい。
俺は木の棒を見下ろした。
「……ヴィオラ、か」
小さく呟く。
あれから、一度も会っていない。
別に、会いたいわけじゃない。
……いや。
ちょっとだけ、戦い方を聞いてみたい気はする。
銃の持ち方とか。
足の動かし方とか。
相手の剣をどうやって受け流すのかとか。
でも。
「……やっぱ、怖えしな」
俺は苦笑いした。
あの女に会ったら、また礼儀だ何だって言われそうだ。
それに、下手なことを言ったら腕を折られるかもしれない。
……冗談じゃねえ。
できれば、遠くから見ているだけで十分だ。
俺は棒を構え直した。
あの日の戦いを思い出す。
赤い服。
長い銃剣。
男たちの攻撃を受け流し、あっという間に倒していく姿。
……かっこよかったな。
それは、今でも変わらなかった。
あの女が怖いことと、戦い方がかっこいいことは別だ。
俺はそう思っている。
「……ふっ!」
もう一度、突く。
戻す。
身体をずらす。
「……ふっ!」
……うん。
全然違う。
ヴィオラの動きには、まだまだ程遠い。
けど。
「……いつか」
小さく呟いた。
いつか、あんなふうに戦えたら。
兄貴みたいに、危ないことを先に察知して。
あの女みたいに、相手の攻撃を受け流して。
誰かに守ってもらわなくても、生きていけるくらい強くなれたら。
……いいよな。
俺は木の棒を下ろした。
その時だった。
ぐううううっ。
腹が鳴った。
「…………」
俺は自分の腹を見下ろした。
「……腹減った」
……そういや、昼飯食ってなかった。
今日は仕事が長引いたんだった。
俺は棒を壁に立てかけた。
「……飯、買ってくるか」
懐には、今日の報酬が少し残っている。
安いパンなら買えるだろう。
……肉は無理だな。
あの時の食堂、美味かったなあ。
思わず思い出した。
温かいスープ。
柔らかいパン。
焼き目のついた肉。
そして。
『食事は逃げません。落ち着いて食べなさい』
「…………」
俺は顔をしかめた。
「……何で飯を思い出すたびに、あの女まで出てくんだよ」
小さく悪態をつく。
……まあ、いいか。
俺は棒を倉庫の奥へしまい、通りへ向かった。
パンを買って戻る頃には、日が傾いていた。
俺は倉庫の入口へ近づき、いつものように周囲を確認した。
誰もいない。
鉄板の位置も変わっていない。
足跡も、特に増えていないようだった。
……よし。
俺は隙間から中へ入り、奥の寝床へ向かった。
途中、上を見上げる。
傷んだ梁が、薄暗い天井を支えている。
……まだ崩れてねえな。
当たり前か。
俺は寝床へ腰を下ろした。
買ってきたパンを袋から取り出す。
硬い。
冷たい。
けど、昨日のものよりは新しそうだ。
「……いただきます」
小さく呟いた。
……あれ?
俺、いつからこんなこと言うようになったんだ?
まあ、いいか。
俺はパンを小さくちぎった。
口へ運ぶ。
ゆっくり噛む。
飲み込む。
……うめえ。
あの食堂のパンには敵わねえけど。
それでも、腹が減っている時には十分だ。
俺は壁にもたれかかり、パンを食べ続けた。
途中で、ふと兄貴のことを思い出した。
あの日、通りの向こうで見た背中。
相手が武器を抜く前から、身体をずらしていた。
……あれ、どうやってたんだろうな。
俺も、いつかできるようになるんだろうか。
「…………」
少し考えた。
けど、答えは出なかった。
俺は残ったパンを見つめた。
兄貴はフィクサーの見習い。
姉ちゃんは事務所の会計。
二人とも、自分の仕事を持っている。
それに比べて、俺は。
……まだ、ただの使い走りだ。
危ない仕事を見分けるのも下手。
喧嘩も弱い。
計算も苦手。
金もろくに稼げない。
「……ちぇっ」
俺は小さく舌打ちした。
……でも。
一つだけ、分かったことがある。
あの女に助けられた時。
俺は、自分じゃ何もできなかった。
木の棒を持って抵抗したところで、あっさり壊された。
手首を掴まれたら、動くこともできなかった。
……あんなの、もう嫌だ。
死にかけるのも。
誰かに助けてもらわなきゃ生き残れないのも。
何もできずに震えるだけなのも。
「……強くなりてえな」
ぽつりと呟いた。
別に、ヴィオラみたいに誰かの骨を折りたいわけじゃねえ。
兄貴みたいに、立派なフィクサーになれるかも分からない。
ただ。
次に誰かが俺を殺そうとしてきた時。
逃げるだけじゃなく、何とかできるようになりたい。
……いや。
逃げるだけでもいい。
でも、ちゃんと逃げ切れるくらいには、強くなりたい。
俺は残ったパンを口へ運んだ。
ゆっくり噛む。
飲み込む。
そして、立ち上がった。
「……よし」
明日も仕事を探そう。
金を稼いで、飯を食って。
それから、練習だ。
いつか、本物の武器も買えるといいな。
……いや、先にもう少しましな寝床を探すべきか?
俺は天井を見上げた。
傷んだ梁。
雨漏りする屋根。
崩れかけた壁。
……うーん。
やっぱり、寝床の方が先か?
でも、本物の武器も欲しい。
「…………」
俺は懐の硬貨を確かめた。
……全然足りねえな。
俺は小さくため息をついた。
「……姉ちゃんに計算教わっときゃよかった」
今さら言っても仕方ねえけど。
俺は寝床の横に置いた木の棒へ目を向けた。
細い棒。
何度も地面にぶつけたせいで、先端が少し欠けている。
それでも、まだ使える。
「……まあ、いいか」
今は、これで十分だ。
俺は棒を壁際に立てかけた。
それから、入口を隠している木箱の位置を確かめる。
外から寝床が見えないように。
誰かが入り込んできても、すぐには気づかれないように。
……よし。
俺は寝床へ潜り込んだ。
その夜。
遠くから、酒に酔った男の怒鳴り声が聞こえた。
続いて、何かが割れる音。
誰かの悲鳴。
そして、足音。
俺は布を被ったまま、耳を澄ませた。
……嫌な音だな。
けど、外へ出るつもりはなかった。
夜の裏路地には、昼間とは違う危険がある。
特に、掃除屋が現れる時間帯は絶対に外へ出てはいけない。
午前三時十三分から、四時三十四分まで。
その間は、どんな物音がしても隠れている。
それが、俺の決めたことだった。
……まあ、今はまだその時間じゃねえけど。
それでも、外へ出る理由はない。
俺は寝返りを打った。
その時、木の棒が目に入った。
一か月前には、なかったものだ。
ただの棒切れ。
まともな武器でもない。
誰かと戦えば、簡単に折られるかもしれない。
それでも。
俺は、その棒を見つめた。
……一か月前の俺よりは、少しくらいましになったんだろうか。
戦い方なんて、まだ分からない。
兄貴みたいな危険を察知する勘もない。
ヴィオラみたいな銃剣術も使えない。
だけど。
怪しい仕事を少しは疑うようになった。
危なそうな奴らから距離を取ることも覚えた。
倉庫を奪われそうになった時は、戦わずに追い払うことができた。
……まあ、運がよかっただけかもしれねえけど。
それでも、今日はこうして生きている。
「……へへっ」
俺は小さく笑った。
……悪くねえじゃん。
少なくとも、死んではいない。
俺は目を閉じた。
すると、あの日の光景が浮かんだ。
赤い服。
背負った長い銃。
無駄のない動き。
剣を受け流し、相手を倒す姿。
……かっこよかったな。
俺はそう思った。
けど。
「……あんな女になりてえわけじゃねえんだよな」
小さく呟く。
俺は男だし。
それに、誰かの骨を平然と砕くような奴にもなりたくない。
……いや。
そうしなきゃ生き残れない時が来るかもしれねえけど。
できれば、そんなことはしたくねえ。
俺は布を頭まで被った。
……まあ、難しいことは明日考えよう。
まずは飯代だ。
それから、寝床。
武器は……その次か。
いや、やっぱり欲しいな。
「……くそ。金が足りねえ」
誰もいない倉庫で、小さく悪態をついた。
それから、もう一度目を閉じた。
明日も仕事がある。
寝坊したら、飯代が稼げなくなる。
……そろそろ寝るか。
暗い倉庫。
壁の向こうを通り過ぎる足音。
風に揺らされ、時折軋む木材。
いつもと変わらない、裏路地の夜だった。
俺にはまだ、まともな武器もない。
戦い方も知らない。
誰かに勝てるほど、強くなったわけでもない。
それでも。
いつか。
あのかっこよかった背中に、少しでも近づけたら。
……いいな。
そう思った。
けど、その前に。
明日も生きていなければならない。
何をするにしても、それが一番大事だ。
俺は布を握り直し、身体を丸めた。
そして、いつものように物音を立てないよう気をつけながら、ゆっくりと眠りについた。