憧れは近くて遠い   作:色彩悪夢

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『届かない背中』

「……いってえ」

 

腕を動かした途端、左腕に鋭い痛みが走った。

 

俺は思わず顔をしかめる。

 

「……くそっ」

 

巻いていた包帯を少しずらすと、その下には赤く細長い傷が残っていた。

 

血はもう止まっている。

 

けど、傷口はまだ完全には塞がっていない。

 

無理に動かすと、皮膚が引っ張られるような痛みが走る。

 

「……あの野郎」

 

思い出すのは、俺を斬った男の顔だった。

 

たった三千眼。

 

荷物を運ぶだけの仕事。

 

それを引き受けた結果、俺は殺されかけた。

 

……やっぱり、あの仕事は受けるんじゃなかった。

 

今さら後悔したところで、金が戻ってくるわけでもないけど。

 

俺は包帯を巻き直した。

 

「……よし」

 

少し緩い気もするが、何もしないよりはましだろう。

 

前に、あの女が巻いていたやり方を思い出す。

 

傷口に布を当てて、その上から包帯を巻く。

 

強く締めすぎないようにして、最後に結ぶ。

 

……確か、こんな感じだったはずだ。

 

俺は何度か結び目を確かめた。

 

「……まあ、いいか」

 

包帯を巻き終え、周囲を見回す。

 

薄暗い倉庫。

 

天井の一部は崩れ、壁にも大きな亀裂が入っている。

 

使われなくなってから、相当な年月が経っているのだろう。

 

床には木材や鉄くずが散乱し、隅には古い木箱が積み重なっていた。

 

その奥。

 

崩れた棚と壁の間に、人一人がようやく横になれる程度の隙間がある。

 

そこが、今の俺の寝床だった。

 

「……寒ぃ」

 

俺は拾ってきた布を肩へ掛けた。

 

朝になったばかりだというのに、倉庫の中はひんやりしている。

 

壁に空いた穴から風が吹き込むたび、積まれた木箱が小さく軋んだ。

 

……いつか崩れたりしねえだろうな。

 

少し心配になる。

 

けど、他に行く場所もない。

 

ここは通りから見えにくい。

 

入口には錆びついた鉄板が倒れかかっていて、知らない奴なら中に入ろうとも思わないだろう。

 

しかも、奥の寝床は木箱に隠れている。

 

少なくとも、通りを歩いている奴らからは見えない。

 

……まあ、見つからねえ保証なんてないけど。

 

俺は寝床から這い出した。

 

今日も仕事を探さなければならない。

 

昨日はろくに稼げなかった。

 

一昨日も、似たようなものだ。

 

このままじゃ、また飯が食えなくなる。

 

「……はぁ」

 

俺は懐を探った。

 

硬貨が数枚。

 

それを掌に並べる。

 

「……ええと」

 

一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

……これが百眼で。

 

こっちが五十眼。

 

だから……。

 

「…………」

 

俺はしばらく硬貨を見つめた。

 

「……まあ、パン一つくらいは買えるか」

 

細かい計算は諦めた。

 

とにかく、金が少ないことだけは分かる。

 

俺は硬貨を懐へ戻した。

 

それから、倉庫の隅に立てかけた一本の木の棒へ目を向けた。

 

長さは俺の胸くらい。

 

昨日、道端で拾ったものだ。

 

折れた家具の脚らしい。

 

少し曲がっているが、握れないことはない。

 

「…………」

 

俺は棒を手に取った。

 

そして、あの日の光景を思い出す。

 

赤い服。

 

長い銃剣。

 

男たちの剣を受け流し、あっという間に倒していった少女。

 

……ヴィオラ。

 

「……こう、だったか?」

 

俺は棒を右手で握り、前へ構えた。

 

あの女は両手で銃を持っていた。

 

けど、今は左腕が痛い。

 

仕方なく右手だけで構える。

 

「……ふっ!」

 

一歩踏み込んで、棒を突き出した。

 

……遅え。

 

もう一度。

 

「……ふっ!」

 

今度は少し勢いをつける。

 

しかし、踏み込んだ足が床の木片を踏んだ。

 

「うわっ!」

 

身体が傾く。

 

慌てて左腕で壁を支えようとした。

 

「いっ……!」

 

傷が痛んだ。

 

俺はその場に尻餅をついた。

 

「……っ、くそ!」

 

痛え。

 

尻も痛いし、腕も痛い。

 

何なんだよ。

 

たった一歩踏み込んだだけじゃねえか。

 

俺は木の棒を見つめた。

 

……あの女は、あんなに簡単そうにやってたのにな。

 

「……やっぱ、難しいな」

 

俺は小さく呟いた。

 

棒を脇に置き、ゆっくり立ち上がる。

 

……まあ、いい。

 

今日は仕事だ。

 

練習なんて、飯代を稼いでからにしよう。

 

俺は倉庫の入口へ向かった。

 

崩れた鉄板の隙間から外を確認する。

 

通りには誰もいなかった。

 

……よし。

 

俺は身体を横にして隙間を抜け、裏路地へ出た。

 

「駄目だ」

 

仕事を探し始めて間もなく、荷運び屋の親父にそう言われた。

 

「……何でだよ」

 

「その腕だよ」

 

親父は俺の左腕を指差した。

 

「怪我人に荷物なんか任せられるか」

 

「もう血は止まってるって!」

 

「だったら、こいつ持ってみろ」

 

親父は足元の木箱を指差した。

 

結構大きい。

 

中には金属の部品が詰まっているらしい。

 

「……持てばいいんだな?」

 

「ああ」

 

俺は木箱の両端を掴んだ。

 

「……よっ!」

 

持ち上げようとする。

 

……重っ!

 

左腕に痛みが走る。

 

「っ……!」

 

思わず力を緩めてしまった。

 

箱が傾く。

 

「おいおい!」

 

親父が慌てて箱を押さえた。

 

「ほら見ろ! 危ねえじゃねえか!」

 

「……今のは、ちょっと持ち方が悪かっただけだ!」

 

「馬鹿言え。商品を壊されたらこっちが損するんだよ」

 

「……ちぇっ」

 

「怪我が治ったらまた来い」

 

親父はそう言って、俺を追い払った。

 

俺は仕方なく歩き始めた。

 

……くそ。

 

仕事がねえ。

 

怪我をしていると、まともに荷物も運べない。

 

かといって、他にできることも限られている。

 

「……参ったな」

 

俺は腹を押さえた。

 

ぐう、と小さく鳴った。

 

……朝飯、食ってねえんだよな。

 

仕事が見つかれば、昼には何か食えると思ったんだけど。

 

仕方なく、別の通りへ向かった。

 

「おい、そこのガキ!」

 

しばらく歩いたところで、店先に立っていた男に声をかけられた。

 

「……何だ?」

 

「暇か?」

 

「仕事ならするぞ」

 

「なら、こいつを届けてこい」

 

男は小さな封筒を差し出した。

 

「南の通りにある修理屋だ。報酬は百眼」

 

「……百眼?」

 

「ああ」

 

俺は封筒を見た。

 

薄い。

 

重くもない。

 

これなら左腕が痛くても大丈夫そうだ。

 

「……分かった」

 

「場所は分かるか?」

 

男は道順を説明し始めた。

 

俺は黙って聞いた。

 

南へ二本。

 

壊れた看板のある角を曲がる。

 

その先にある赤い扉の店。

 

「……分かった」

 

「本当か? 地図は?」

 

「いらねえよ」

 

「……大丈夫か、お前」

 

「道は覚えたって」

 

俺は封筒を受け取ろうとした。

 

しかし、その前に一つ気になることがあった。

 

「……なあ」

 

「何だ?」

 

「報酬は百眼で間違いねえよな?」

 

「そう言っただろ」

 

「後から手数料とか引かねえよな?」

 

「……は?」

 

男が怪訝そうな顔をした。

 

俺は続ける。

 

「配達料とか、紹介料とか、そういうの」

 

「んなもんねえよ。届けたら百眼だ」

 

「……本当だな?」

 

「ああ! しつけえな!」

 

「……分かった」

 

俺は封筒を受け取った。

 

……確認は大事だ。

 

前に六十眼も引かれたことがあるからな。

 

しかも、その後は三千眼に釣られて殺されかけた。

 

……もう、あんな目には遭いたくねえ。

 

「……じゃあ、行ってくる」

 

「ああ。寄り道すんなよ」

 

俺は軽く手を振り、歩き始めた。

 

届け先までは、それほど遠くなかった。

 

言われた通りの道を進むと、赤い扉の修理屋が見つかった。

 

「……ここか」

 

扉を叩く。

 

中から、作業着を着た男が顔を出した。

 

「何だ?」

 

「配達です」

 

俺は封筒を差し出した。

 

男は受け取ると、中身を確認した。

 

「……ああ、これか。ご苦労さん」

 

「……どうも」

 

俺は軽く頭を下げた。

 

男は少し驚いたように眉を上げた。

 

「お前、ちゃんと挨拶できるんだな」

 

「……そりゃ、まあ」

 

「この辺のガキにしちゃ珍しい」

 

……何だよ。

 

俺だって、挨拶くらいできるって。

 

そう言い返しかけて、口を閉じた。

 

『年上の相手に対して、その口調は失礼です』

 

……ああ。

 

また、あの女の声が。

 

「……失礼します」

 

俺はもう一度頭を下げた。

 

男は面白そうに笑った。

 

「おう。また何かあったら頼むわ」

 

……おっ。

 

仕事、またもらえるのか?

 

悪くねえな。

 

俺は少し気分を良くして店を後にした。

 

「……百眼」

 

戻ってきた俺に、男は硬貨を一枚差し出した。

 

俺はすぐに受け取った。

 

「……どうも」

 

「おう。ちゃんと届けたみてえだな」

 

「当たり前だろ」

 

「……ったく、生意気なガキだ」

 

男は笑った。

 

「また頼むことがあるかもしれねえ。その時はよろしくな」

 

「……おう」

 

俺は硬貨を懐にしまった。

 

……よし。

 

今日の飯代は確保できた。

 

これならパンが買える。

 

それに、まだ少し金が残るかもしれない。

 

俺は近くのパン屋へ向かった。

 

買ったのは、一番安いパンだった。

 

硬くて、少し酸っぱい。

 

けど、腹が減っている時には十分だ。

 

「……うめえ」

 

俺は歩きながらパンをかじった。

 

……その時だった。

 

横から、小さな子供がこちらを見ていることに気づいた。

 

俺よりさらに小さい。

 

七つか八つくらいだろうか。

 

痩せた身体。

 

汚れた服。

 

目は、俺の持っているパンに釘づけになっていた。

 

「…………」

 

俺は足を止めた。

 

子供は何も言わない。

 

ただ、じっと見ている。

 

……何だよ。

 

欲しいのか?

 

俺はパンを見下ろした。

 

まだ半分以上残っている。

 

……けど。

 

「……悪いな」

 

俺は小さく呟いた。

 

「俺だって腹減ってんだよ」

 

子供は答えなかった。

 

その場で、俺を見ていた。

 

……くそ。

 

嫌な気分だ。

 

俺は視線を逸らし、歩き始めた。

 

何歩か進んだところで、もう一度振り返る。

 

子供は別の通行人へ視線を向けていた。

 

……まあ、そうだよな。

 

この辺じゃ、珍しいことじゃねえ。

 

俺だって、食い物が欲しくて他人を見つめたことくらいある。

 

けど、だからって誰かが恵んでくれるわけじゃない。

 

俺は残ったパンを握り直した。

 

「…………」

 

しばらくして、人通りの少ない場所へ移動した。

 

壁を背にして座る。

 

そこで、もう一度パンを取り出した。

 

……あの女は、食事は逃げねえって言ってたっけ。

 

俺はパンを見つめた。

 

「……逃げねえけど、取られることはあるんだよな」

 

小さく呟く。

 

俺はパンをちぎった。

 

それから、少しずつ口へ運んだ。

 

……ああ。

 

こういう食べ方だったか。

 

あの食堂で、何度も注意されたのを思い出す。

 

背筋を伸ばせ。

 

口に物を入れたまま話すな。

 

急いで食べるな。

 

……面倒くせえ女だったな。

 

俺は苦笑いした。

 

けど、仕事先で丁寧に話すと、少しだけ相手の態度が変わることも分かった。

 

……意外と役に立つもんなんだな。

 

教えられた時は、骨を折られたくなくて必死だったけど。

 

俺は最後のパンを口へ運んだ。

 

それから数日。

 

左腕の傷は、少しずつ塞がっていった。

 

けど、仕事が安定したわけじゃない。

 

ある日は荷運び。

 

ある日は使い走り。

 

仕事が見つからず、半日歩き回るだけの日もあった。

 

報酬を払ってもらえないこともあった。

 

「……百五十眼?」

 

俺は掌に置かれた硬貨を見つめた。

 

「おっさん、二百眼って言っただろ」

 

「荷物が一つ少なかったからな」

 

「俺が運ぶ前から、そうだったじゃねえか!」

 

「知らねえよ。文句があるなら返せ」

 

「……っ」

 

俺は口を閉じた。

 

目の前の男は、俺よりずっと大きい。

 

腰には短い刃物を下げている。

 

周囲には男の仲間らしい奴も二人いた。

 

……ここで揉めたら、金どころじゃなくなる。

 

俺は硬貨を握りしめた。

 

「……分かりました」

 

「最初からそう言え」

 

男は鼻で笑った。

 

俺は頭を下げ、その場を離れた。

 

「…………」

 

路地を一つ曲がったところで、ようやく息を吐いた。

 

「……くそったれ」

 

五十眼。

 

たった五十眼。

 

でも、その五十眼があれば、明日の飯が少しは楽になった。

 

……悔しい。

 

けど、殴られるよりはましだ。

 

俺は懐の硬貨を確かめた。

 

「……次から、あの男の仕事は受けねえ」

 

顔は覚えた。

 

声も。

 

腰に下げていた刃物も。

 

あいつがいた店の場所も。

 

……忘れねえからな。

 

俺はそう決めて歩き始めた。

 

一週間が過ぎた頃。

 

俺は、いつもの倉庫へ戻ってきた。

 

日はまだ落ちていない。

 

日中に稼いだ金でパンを買い、残りは懐へしまってある。

 

……今日は悪くねえ日だったな。

 

そう思いながら、倉庫の入口へ近づいた。

 

その時だった。

 

「……ん?」

 

足が止まった。

 

入口に倒してあった鉄板の向きが変わっている。

 

……あれ?

 

俺、こんなふうに置いたっけ?

 

いつもは、右側の角が壁に寄りかかっている。

 

けど、今は少し手前に倒れていた。

 

誰かが動かしたように見える。

 

「…………」

 

俺は足元を見た。

 

地面には、見覚えのない足跡があった。

 

大きな靴跡。

 

一つじゃない。

 

少なくとも、二人分はあるように見えた。

 

……誰か入ったのか?

 

俺は少し迷った。

 

中には、俺の寝床がある。

 

拾ってきた布。

 

水を入れた容器。

 

それから、練習用の木の棒。

 

大したものは置いていない。

 

けど、俺にとっては大事なものばかりだった。

 

……まさか、盗られた?

 

俺は入口へ近づきかけた。

 

しかし。

 

中から声が聞こえた。

 

「……ったく、汚ねえところだな」

 

「でも、奥は雨が入らねえぞ」

 

「おお。こりゃ使えそうだ」

 

男の声。

 

二人。

 

……まずい。

 

俺は慌てて壁際へ身を寄せた。

 

中を覗く。

 

薄暗い倉庫の奥で、男が二人、積まれた木箱を動かしていた。

 

一人は大柄で、片手に鉄の棒を持っている。

 

もう一人は痩せているが、腰には刃物を下げていた。

 

……何だ、あいつら。

 

男の一人が、俺の寝床に置いてあった布を拾い上げた。

 

「……誰か住んでんのか?」

 

「浮浪者だろ」

 

「ガキかもしれねえな。こんな小せえ寝床だし」

 

「だったら好都合じゃねえか。追い出せばいい」

 

二人は笑った。

 

「…………」

 

俺は壁の陰で息を呑んだ。

 

……冗談じゃねえ。

 

そこ、俺の寝床だぞ。

 

勝手に入ってきて、何してんだよ。

 

俺は拳を握った。

 

……けど。

 

二人とも大人。

 

片方は鉄の棒。

 

もう片方は刃物。

 

こっちは十二歳。

 

まともな武器もない。

 

……勝てるわけねえ。

 

俺は唇を噛んだ。

 

それでも、ここを取られたら困る。

 

他に眠れる場所の当てなんてない。

 

夜になったら、どこへ隠れればいいんだ?

 

……くそ。

 

俺はしばらく考えた。

 

正面から追い出すのは無理だ。

 

なら、どうする。

 

……どうすりゃいい?

 

俺は周囲を見回した。

 

崩れかけた壁。

 

錆びた鉄板。

 

床に散らばった木片。

 

……あいつらを追い出せるようなものは、何もない。

 

「…………」

 

その時、男たちの会話が聞こえた。

 

「ここ、夜も大丈夫なんだろうな?」

 

「知るかよ」

 

「掃除屋が来たらどうすんだ?」

 

「入口塞いどきゃ平気だろ」

 

「……それで済むのか?」

 

「知らねえって」

 

俺は顔を上げた。

 

……あ。

 

そうだ。

 

あいつら、ここを知らねえ。

 

どこから入ったら安全なのかも。

 

どの壁が崩れかけているのかも。

 

何が危ないのかも。

 

……俺は知ってる。

 

俺は倉庫を見上げた。

 

屋根には、大きな穴が空いている。

 

奥の壁は、強く押せば崩れそうなくらい傷んでいた。

 

そして、入口の近くには、以前使われていた古い警告板が転がっている。

 

……確か、あれには。

 

俺は警告板へ視線を向けた。

 

文字の一部は錆で読めなくなっていたが、危険を知らせる印が描かれていた。

 

昔、近所の男が話していたことを思い出す。

 

この倉庫は、屋根や壁が崩れかけているせいで、誰も使わなくなった。

 

だから、人も近づかない。

 

俺はそれを知っていた。

 

……そうだ。

 

本当に危ねえ場所なんだよな、ここ。

 

あいつら、それを知らねえだけで。

 

俺は少し考えた。

 

それから、入口から十分離れた位置へ移動した。

 

「おーい!」

 

俺は倉庫へ向かって声を張り上げた。

 

中の男たちの動きが止まる。

 

「……あ?」

 

「誰だ?」

 

俺はすぐには姿を見せなかった。

 

「そこ、使わねえ方がいいぞ!」

 

「……何だ、ガキか?」

 

男の一人が入口へ近づいてきた。

 

俺は距離を保ったまま続けた。

 

「その倉庫、壊れかけてるんだよ!」

 

「んなもん見りゃ分かるわ!」

 

「違うって! 奥の壁、昨日も崩れてたんだ!」

 

……嘘だ。

 

昨日、壁は崩れていない。

 

けど、傷んでいるのは本当だ。

 

男たちは顔を見合わせた。

 

「……マジか?」

 

「知らねえよ」

 

俺は入口近くの警告板を指差した。

 

「そこに危険って書いてあるだろ!」

 

男が警告板を見た。

 

「……あ?」

 

「屋根も落ちかけてるし、奥の壁も危ねえんだよ!」

 

「……おい」

 

痩せた男が、もう一人へ声をかけた。

 

「確かに、奥の壁はやべえんじゃねえか?」

 

「……そうか?」

 

「さっき木箱動かしたら、上から埃が落ちてきたぞ」

 

……おっ。

 

効いてるか?

 

俺は少しだけ期待した。

 

しかし、大柄な男がこちらを向いた。

 

「……おい、ガキ」

 

「……何だ?」

 

「お前、ここに住んでんのか?」

 

「……っ」

 

まずい。

 

俺は一瞬黙った。

 

男が笑った。

 

「なるほどな。追い出されたくねえから、脅かしてんのか」

 

……ばれた?

 

俺は慌てて首を振った。

 

「ち、違うって!」

 

「だったら中に入ってみろよ」

 

「……は?」

 

男は鉄の棒を肩に担いだ。

 

「危ねえってんなら、どこが危ねえのか案内してみろ」

 

……嫌だ。

 

近づいたら、殴られる。

 

俺は一歩下がった。

 

男が目を細める。

 

「……何だ。やっぱ嘘か?」

 

「……いや」

 

俺は周囲を見回した。

 

逃げ道はある。

 

細い路地を抜ければ、人通りのある通りに出られる。

 

……よし。

 

俺は男たちから距離を取ったまま、倉庫の屋根を指差した。

 

「じゃあ、屋根見てみろよ!」

 

「……屋根?」

 

「真ん中の梁、曲がってるだろ!」

 

男たちが顔を上げた。

 

屋根を支える太い木材。

 

その一部は、確かに大きく歪んでいる。

 

「……ああ?」

 

「前にここへ入った奴が、梁が折れかけてるって言ってたんだ!」

 

これも、半分嘘だった。

 

そんな奴は知らない。

 

けど、梁が傷んでいるのは間違いない。

 

「……本当かよ」

 

痩せた男が呟いた。

 

大柄な男はしばらく屋根を見つめていた。

 

その時。

 

ギシッ。

 

倉庫の中から、小さな音が響いた。

 

「……っ!」

 

俺も思わず肩を跳ねさせた。

 

……何だ、今の。

 

男たちが一斉に天井を見上げた。

 

ギシ、ギシッ。

 

風に揺らされた木材が軋んでいるらしい。

 

普段から聞こえる音だ。

 

けど、初めて聞く奴には不気味だろう。

 

「……おい」

 

痩せた男が大柄な男の袖を引いた。

 

「やめとこうぜ」

 

「……チッ」

 

「寝てる間に潰されたら洒落になんねえよ」

 

「……分かったよ」

 

大柄な男は苛立たしげに舌打ちした。

 

それから、俺を睨んだ。

 

「おい、ガキ」

 

「……何だよ」

 

「お前、ここ使ってんだろ」

 

「…………」

 

俺は答えなかった。

 

男は鼻で笑った。

 

「まあいい。こんなボロ倉庫、欲しけりゃくれてやる」

 

……別に、あんたのもんじゃねえだろ。

 

そう言い返したくなった。

 

けど、我慢した。

 

男たちは俺の寝床から拾った布を放り投げると、入口から出てきた。

 

俺はすぐに道を空けた。

 

二人が近づいてきた時には、壁から離れて距離を取る。

 

男たちは俺を一瞥しただけで、通りの向こうへ歩いていった。

 

俺はその背中を見送った。

 

完全に見えなくなるまで、動かなかった。

 

「…………」

 

それから、ようやく息を吐いた。

 

「……はぁぁ……」

 

足から力が抜けそうになる。

 

……助かった。

 

本当に、助かった。

 

俺は壁にもたれかかった。

 

……怖かった。

 

もし、あいつらが本気で怒っていたら。

 

もし、嘘がばれた後に追いかけられていたら。

 

たぶん、俺は勝てなかった。

 

「……くそっ」

 

俺は額の汗を拭った。

 

……危ねえ。

 

もう少しで、寝床を取られるところだった。

 

でも。

 

「……追い払えた、よな?」

 

俺は倉庫を見た。

 

男たちはいない。

 

寝床も残っている。

 

荷物も、ほとんどそのままだ。

 

……よし。

 

俺は小さく笑った。

 

「……へへっ」

 

正面から戦わなくても、何とかなるもんだな。

 

俺は拾ってきた布を集め直し、寝床へ戻した。

 

……ただ。

 

屋根が危ねえのは本当なんだよな。

 

俺は上を見上げた。

 

さっきまで安心していたのに、急に不安になってきた。

 

「……ここ、本当に大丈夫か?」

 

しばらく考えた。

 

……まあ、今すぐ崩れるわけじゃねえだろ。

 

たぶん。

 

俺はそう自分に言い聞かせた。

 

それから、もう一度入口を塞ぎ直した。

 

今度は、外から見ても誰かが出入りしたように見えないよう、鉄板の角度を元に戻しておいた。

 

そして、床に落ちていた自分の木の棒を拾った。

 

「…………」

 

俺は棒を見下ろした。

 

……結局、こいつは一度も使わなかったな。

 

けど。

 

それでよかったのかもしれない。

 

俺は棒を寝床の脇へ立てかけた。

 

二週間目に入ると、左腕の傷はほとんど塞がった。

 

まだ強く引っ張ると痛むが、軽い荷物なら問題なく運べる。

 

おかげで、仕事の幅も少し増えた。

 

しかし、だからといって金が貯まるわけでもなかった。

 

食費。

 

水。

 

包帯の代わりに使う清潔な布。

 

時々、どうしても必要になる道具。

 

稼いだ金は、すぐになくなっていく。

 

「……はぁ」

 

俺は掌の硬貨を数えた。

 

……少ねえな。

 

昨日は結構働いたはずなんだけど。

 

まあ、仕方ねえ。

 

食わなきゃ死ぬんだから。

 

俺は硬貨を懐へ戻した。

 

そして、通りの向こうにいる男たちへ目を向けた。

 

四人。

 

全員、汚れた上着を着ている。

 

一人は酒瓶を持っていて、残りの三人は周囲を見回していた。

 

……何やってんだ、あいつら。

 

俺は少し離れたところから観察した。

 

男の一人が、通行人の鞄へ視線を向ける。

 

別の男は、その通行人の進む方向を見ていた。

 

……ああ。

 

物取りか?

 

俺は足を止めた。

 

……いや。

 

決めつけるのは早えか。

 

ただ道端に集まってるだけかもしれない。

 

しばらく様子を見る。

 

すると、男の一人が路地の奥へ移動した。

 

残った三人のうち、二人も少しずつ位置を変えている。

 

……何だ?

 

俺は男たちの位置を頭の中で並べた。

 

一人が路地の出口。

 

二人が通りの両側。

 

もう一人が、通行人の後ろ。

 

……あれ。

 

これ、まずくねえか?

 

そう思った瞬間だった。

 

男の一人が通行人へぶつかった。

 

「おっと、悪いな」

 

「……何だ?」

 

通行人が足を止める。

 

その背後から、別の男が近づいた。

 

「……っ」

 

俺は反射的に一歩下がった。

 

……やっぱり。

 

あいつら、仲間だ。

 

その直後。

 

男たちは通行人を取り囲んだ。

 

「ちょっと話があるんだけどよ」

 

「……何だ、てめえら」

 

通行人が声を荒らげる。

 

俺はそれ以上見なかった。

 

すぐに踵を返し、別の道へ向かう。

 

……危ねえ。

 

もう少し近くにいたら、俺まで巻き込まれていたかもしれない。

 

俺は歩きながら、さっきの男たちの動きを思い返した。

 

最初から、あの通行人を狙っていたのか。

 

それとも、たまたま金を持っていそうな奴を選んだのか。

 

……分かんねえな。

 

でも、四人が別々の位置に動いたのは覚えている。

 

ああいう動きをしている連中には、近づかない方がいい。

 

俺はそう決めた。

 

その日の夕方。

 

俺は倉庫の近くで、木の棒を構えていた。

 

「……ふっ!」

 

一歩踏み込む。

 

突く。

 

戻す。

 

もう一度。

 

「……ふっ!」

 

最初の頃よりは、少し動きやすくなった。

 

けど、相変わらず動きは遅い。

 

棒を突き出すたびに身体が前へ傾く。

 

……これじゃあ、相手に避けられたら終わりだな。

 

俺は棒を下ろした。

 

思い出すのは、ヴィオラの銃剣術だった。

 

あの女は、俺みたいに無理やり突き出していなかった。

 

相手の動きに合わせて、身体をずらしていた。

 

剣を受け流し、相手が崩れたところへ踏み込んでいた。

 

……あれ、どうやってんだろうな。

 

俺は棒を構え直した。

 

右足を少し引く。

 

肩の力を抜く。

 

……いや、抜きすぎると棒が落ちるか。

 

「……うーん」

 

何となく、しっくりこない。

 

俺はもう一度突きを繰り出した。

 

「……ふっ!」

 

……駄目だな。

 

それでも、続けた。

 

うまくできないなら、できるようになるまでやるしかない。

 

……まあ、無理して怪我したら仕事ができなくなるから、ほどほどにしとくけど。

 

俺は額の汗を拭った。

 

「……あー、腹減った」

 

結局、練習をやめた理由はそれだった。

 

三週間目。

 

その日は、少し離れた地区まで封筒を届ける仕事を請け負っていた。

 

届け先は、小さなフィクサー事務所。

 

道は複雑だったが、一度説明を聞けば十分だった。

 

「……ここだな」

 

俺は建物を見上げた。

 

三階建て。

 

一階には雑貨屋。

 

二階にはいくつかの事務所が並んでいる。

 

俺は階段を上がり、指定された部屋の扉を叩いた。

 

「すみませーん」

 

中から声がした。

 

「はい、どうぞ」

 

俺は扉を開けた。

 

「配達です」

 

机の向こうに座っていた男が封筒を受け取る。

 

「……ああ、これか。ご苦労さん」

 

「どうも」

 

軽く頭を下げる。

 

男は何も言わず、再び仕事へ戻った。

 

俺は扉を閉め、階段を下りた。

 

……よし。

 

あとは戻って報酬をもらうだけだ。

 

そう思って建物を出た。

 

その時だった。

 

「……ん?」

 

通りの向こうに、見覚えのある後ろ姿が見えた。

 

数人の男女が、武器を持って歩いている。

 

フィクサーらしい。

 

その中の一人。

 

黒っぽい上着。

 

腰に下げた武器。

 

少し猫背気味の歩き方。

 

……あれ。

 

俺は足を止めた。

 

「……兄貴?」

 

小さく呟いた。

 

間違いない。

 

兄貴だった。

 

兄貴は十五歳。

 

俺より三つ年上で、今はフィクサーの見習いとして働いている。

 

昔から、妙に危険を察知するのが上手かった。

 

俺が何も気づかないような場所でも、兄貴だけは嫌な予感を覚えるらしい。

 

『レン、あっちの道はやめとけ』

 

子供の頃、何度もそう言われた。

 

『何でだよ?』

 

俺が聞き返すと、兄貴は大抵こう答えた。

 

『何となくだ』

 

……何となくって何だよ。

 

昔はそう思っていた。

 

けど、兄貴の言う通りにして助かったことは何度もあった。

 

俺には、そういう勘はない。

 

危ないと思った時には、もう手遅れ。

 

この前だってそうだった。

 

……三千眼、欲しかったな。

 

いや、違う。

 

もうあんな仕事はごめんだ。

 

俺は小さく首を振った。

 

そして、兄貴の方を見た。

 

兄貴は年上のフィクサーと話していた。

 

どうやら、何かの依頼中らしい。

 

……元気そうだな。

 

少し安心した。

 

俺は近くの荷車の陰へ移動した。

 

……別に、隠れる必要はない。

 

そう思った。

 

けど、足は勝手に荷車の陰へ向かっていた。

 

兄貴に見つかったら、何を言われるだろう。

 

今、どこで暮らしているのか。

 

何を食っているのか。

 

どんな仕事をしているのか。

 

きっと、色々聞かれる。

 

家を追い出されたことも、知られるかもしれない。

 

……嫌だな。

 

兄貴はまだ十五歳だ。

 

フィクサーの見習いで、自分の生活だって大変なはず。

 

姉ちゃんも十六歳で、事務所の会計をやっている。

 

二人とも、働いて何とか暮らしているんだ。

 

……俺まで頼るわけにはいかねえ。

 

俺は荷車の陰から、もう一度兄貴の方を見た。

 

「……っ!」

 

兄貴が突然、足を止めた。

 

年上のフィクサーが何か言っている。

 

けど、兄貴は答えなかった。

 

その視線は、少し離れたところにいる二人組へ向けられていた。

 

二人とも男。

 

一人は背が高く、もう一人は少し小柄。

 

どちらも、腰に武器を下げている。

 

……何だ?

 

俺は目を細めた。

 

兄貴が年上のフィクサーへ何かを告げた。

 

年上の男が表情を変える。

 

そして、周囲の仲間たちへ小さく合図を送った。

 

……あれ?

 

何かあんのか?

 

次の瞬間だった。

 

向かい合っていた男の一人が、突然武器を抜いた。

 

「……っ!」

 

俺は息を呑んだ。

 

しかし。

 

兄貴は、すでにその場所から動いていた。

 

相手が武器を抜く直前。

 

ほんの少し早く、一歩横へ移動していたのだ。

 

刃が空を切る。

 

「……え?」

 

俺は思わず声を漏らした。

 

……何で?

 

何で兄貴は、あいつが武器を抜くって分かったんだ?

 

男は続けて剣を振ろうとした。

 

だが、兄貴は無理に反撃しなかった。

 

すぐに距離を取り、年上のフィクサーの後ろへ下がる。

 

「下がれ!」

 

年上のフィクサーが叫んだ。

 

続いて、その男が前へ踏み込む。

 

剣がぶつかる音。

 

短い怒声。

 

もう一人のフィクサーも加わり、男を押さえ込んだ。

 

もう片方の敵も抵抗しようとしたが、別のフィクサーが武器を向けると、大人しく両手を上げた。

 

……終わった。

 

思ったより、あっさりしていた。

 

けど。

 

俺は兄貴を見つめていた。

 

……すげえ。

 

あの男が武器を抜く前から、兄貴は動いていた。

 

しかも、無理に戦わなかった。

 

一度距離を取って、年上のフィクサーに任せた。

 

……あれ。

 

俺がやろうとしてることと、同じじゃねえか?

 

いや、違うか。

 

兄貴は、危ないことが起こる前に分かってる。

 

俺は、危ない目に遭ってから逃げる。

 

そこが全然違う。

 

「……どうやってんだろうな」

 

小さく呟いた。

 

その時だった。

 

兄貴が、ふとこちらを向いた。

 

「……っ!」

 

俺は反射的に荷車の陰へ引っ込んだ。

 

……やべえ!

 

見つかったか!?

 

心臓が跳ねる。

 

しばらく息を殺していた。

 

足音が近づいてくる。

 

……まずい。

 

逃げるか?

 

いや、逃げたら余計に怪しまれる。

 

俺は身体を縮めた。

 

しかし。

 

「おい、ガキ。邪魔だ」

 

聞こえてきたのは、知らない男の声だった。

 

「……あ?」

 

顔を上げる。

 

荷車の持ち主らしい男が、俺を見下ろしていた。

 

「荷車動かすぞ。どけ」

 

「……あ、はい」

 

俺は慌てて立ち上がった。

 

男は舌打ちしながら荷車を動かし始める。

 

俺は再び通りへ目を向けた。

 

兄貴たちは、すでに歩き去ろうとしていた。

 

……よかった。

 

見つからなかったらしい。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

そして、兄貴の背中を見送った。

 

……兄貴。

 

元気そうでよかった。

 

そう思った。

 

声をかけたい気持ちはあった。

 

久しぶりに話したかった。

 

最近、どんな仕事をしているのか。

 

見習いは大変なのか。

 

姉ちゃんは元気なのか。

 

聞きたいことは、結構あった。

 

けど。

 

「…………」

 

俺は動かなかった。

 

兄貴が角を曲がり、見えなくなるまで。

 

ずっと、その場に立っていた。

 

「……さて」

 

俺は小さく呟いた。

 

「戻るか」

 

仕事の報酬を受け取らなければならない。

 

……そうだ。

 

今は、それが先だ。

 

俺は兄貴が消えた方向に背を向けた。

 

その日の夕方。

 

いつもの倉庫へ戻った俺は、木の棒を構えていた。

 

「……ふっ!」

 

踏み込む。

 

突く。

 

戻す。

 

もう一度。

 

「……ふっ!」

 

今度は、さっき見た兄貴の動きを思い出した。

 

相手が武器を抜く前に、少し身体をずらしていた。

 

……あれ、どうやって分かったんだ?

 

俺は棒を下ろした。

 

自分の手を見る。

 

別に、何かが変わったわけじゃない。

 

兄貴みたいな勘が、急に身につくわけでもない。

 

……じゃあ、どうする?

 

俺はしばらく考えた。

 

それから、昼間の男たちを思い出した。

 

武器を抜いた男。

 

その前に、兄貴が動いた。

 

……あの時。

 

男は、確か腰の方へ手を伸ばしていた。

 

いや、違う。

 

その前に、少し肩が動いたような……。

 

「…………」

 

駄目だ。

 

そこまでちゃんと見てなかった。

 

俺は小さく舌打ちした。

 

……次からは、もっとよく見よう。

 

俺には兄貴みたいな勘はない。

 

だったら、見て覚えるしかない。

 

誰がどこを見ているのか。

 

どこに手を伸ばしているのか。

 

どんな時に武器を抜くのか。

 

……そういうのを覚えとけば、少しはましになるかもしれない。

 

俺は棒を構え直した。

 

「……ふっ!」

 

もう一度、突く。

 

ただし、今度は突いた後にすぐ身体を引いた。

 

相手が反撃してくると考えて。

 

「……おっ」

 

少し、動きやすい。

 

いや。

 

本当に正しいかどうかは分かんねえけど。

 

俺は小さく笑った。

 

「……まあ、やらねえよりはましだろ」

 

それから、もう一度だけ踏み込んだ。

 

四週間目。

 

最初にヴィオラと出会った日から、もうすぐ一か月が経とうとしていた。

 

俺の生活は、相変わらずだった。

 

朝になれば仕事を探す。

 

見つかれば働く。

 

稼いだ金で飯を買う。

 

残った金は、なるべく使わないようにする。

 

日が暮れる前には、倉庫へ戻る。

 

そして、少しだけ練習する。

 

それだけの毎日。

 

けど、何も変わらなかったわけじゃない。

 

まず、左腕の傷がほとんど治った。

 

次に、仕事を選ぶようになった。

 

報酬が高すぎる仕事には、なるべく近づかない。

 

依頼人の顔や場所は、ちゃんと覚えておく。

 

怪しい奴らが集まっていたら、近づかずに別の道を使う。

 

それから。

 

……逃げ道も、少しは意識するようになった。

 

前までは、何かあってから逃げていた。

 

今は、危なそうな場所へ入る前に、どこから逃げられるか考える。

 

……まあ。

 

考えたところで、毎回うまくいくわけじゃねえけど。

 

「……ふっ!」

 

俺は倉庫の裏で木の棒を突き出した。

 

一歩踏み込む。

 

戻す。

 

少し身体をずらす。

 

もう一度。

 

「……ふっ!」

 

最初の頃よりは、多少動けるようになった。

 

踏み込んだだけで転ぶことも減った。

 

腕も、前ほど痛まない。

 

それに、棒を持ち上げたまま動ける時間が少し長くなった気がする。

 

……それだけだけど。

 

俺は棒を下ろした。

 

額の汗を拭う。

 

「……はぁ」

 

息が上がっている。

 

足も疲れている。

 

……弱えな、俺。

 

そう思った。

 

けど、すぐに首を振った。

 

……仕方ねえだろ。

 

まだ一か月だ。

 

まともな先生もいない。

 

本物の武器だって持ってない。

 

これで急に強くなったら、逆におかしい。

 

俺は木の棒を見下ろした。

 

「……ヴィオラ、か」

 

小さく呟く。

 

あれから、一度も会っていない。

 

別に、会いたいわけじゃない。

 

……いや。

 

ちょっとだけ、戦い方を聞いてみたい気はする。

 

銃の持ち方とか。

 

足の動かし方とか。

 

相手の剣をどうやって受け流すのかとか。

 

でも。

 

「……やっぱ、怖えしな」

 

俺は苦笑いした。

 

あの女に会ったら、また礼儀だ何だって言われそうだ。

 

それに、下手なことを言ったら腕を折られるかもしれない。

 

……冗談じゃねえ。

 

できれば、遠くから見ているだけで十分だ。

 

俺は棒を構え直した。

 

あの日の戦いを思い出す。

 

赤い服。

 

長い銃剣。

 

男たちの攻撃を受け流し、あっという間に倒していく姿。

 

……かっこよかったな。

 

それは、今でも変わらなかった。

 

あの女が怖いことと、戦い方がかっこいいことは別だ。

 

俺はそう思っている。

 

「……ふっ!」

 

もう一度、突く。

 

戻す。

 

身体をずらす。

 

「……ふっ!」

 

……うん。

 

全然違う。

 

ヴィオラの動きには、まだまだ程遠い。

 

けど。

 

「……いつか」

 

小さく呟いた。

 

いつか、あんなふうに戦えたら。

 

兄貴みたいに、危ないことを先に察知して。

 

あの女みたいに、相手の攻撃を受け流して。

 

誰かに守ってもらわなくても、生きていけるくらい強くなれたら。

 

……いいよな。

 

俺は木の棒を下ろした。

 

その時だった。

 

ぐううううっ。

 

腹が鳴った。

 

「…………」

 

俺は自分の腹を見下ろした。

 

「……腹減った」

 

……そういや、昼飯食ってなかった。

 

今日は仕事が長引いたんだった。

 

俺は棒を壁に立てかけた。

 

「……飯、買ってくるか」

 

懐には、今日の報酬が少し残っている。

 

安いパンなら買えるだろう。

 

……肉は無理だな。

 

あの時の食堂、美味かったなあ。

 

思わず思い出した。

 

温かいスープ。

 

柔らかいパン。

 

焼き目のついた肉。

 

そして。

 

『食事は逃げません。落ち着いて食べなさい』

 

「…………」

 

俺は顔をしかめた。

 

「……何で飯を思い出すたびに、あの女まで出てくんだよ」

 

小さく悪態をつく。

 

……まあ、いいか。

 

俺は棒を倉庫の奥へしまい、通りへ向かった。

 

パンを買って戻る頃には、日が傾いていた。

 

俺は倉庫の入口へ近づき、いつものように周囲を確認した。

 

誰もいない。

 

鉄板の位置も変わっていない。

 

足跡も、特に増えていないようだった。

 

……よし。

 

俺は隙間から中へ入り、奥の寝床へ向かった。

 

途中、上を見上げる。

 

傷んだ梁が、薄暗い天井を支えている。

 

……まだ崩れてねえな。

 

当たり前か。

 

俺は寝床へ腰を下ろした。

 

買ってきたパンを袋から取り出す。

 

硬い。

 

冷たい。

 

けど、昨日のものよりは新しそうだ。

 

「……いただきます」

 

小さく呟いた。

 

……あれ?

 

俺、いつからこんなこと言うようになったんだ?

 

まあ、いいか。

 

俺はパンを小さくちぎった。

 

口へ運ぶ。

 

ゆっくり噛む。

 

飲み込む。

 

……うめえ。

 

あの食堂のパンには敵わねえけど。

 

それでも、腹が減っている時には十分だ。

 

俺は壁にもたれかかり、パンを食べ続けた。

 

途中で、ふと兄貴のことを思い出した。

 

あの日、通りの向こうで見た背中。

 

相手が武器を抜く前から、身体をずらしていた。

 

……あれ、どうやってたんだろうな。

 

俺も、いつかできるようになるんだろうか。

 

「…………」

 

少し考えた。

 

けど、答えは出なかった。

 

俺は残ったパンを見つめた。

 

兄貴はフィクサーの見習い。

 

姉ちゃんは事務所の会計。

 

二人とも、自分の仕事を持っている。

 

それに比べて、俺は。

 

……まだ、ただの使い走りだ。

 

危ない仕事を見分けるのも下手。

 

喧嘩も弱い。

 

計算も苦手。

 

金もろくに稼げない。

 

「……ちぇっ」

 

俺は小さく舌打ちした。

 

……でも。

 

一つだけ、分かったことがある。

 

あの女に助けられた時。

 

俺は、自分じゃ何もできなかった。

 

木の棒を持って抵抗したところで、あっさり壊された。

 

手首を掴まれたら、動くこともできなかった。

 

……あんなの、もう嫌だ。

 

死にかけるのも。

 

誰かに助けてもらわなきゃ生き残れないのも。

 

何もできずに震えるだけなのも。

 

「……強くなりてえな」

 

ぽつりと呟いた。

 

別に、ヴィオラみたいに誰かの骨を折りたいわけじゃねえ。

 

兄貴みたいに、立派なフィクサーになれるかも分からない。

 

ただ。

 

次に誰かが俺を殺そうとしてきた時。

 

逃げるだけじゃなく、何とかできるようになりたい。

 

……いや。

 

逃げるだけでもいい。

 

でも、ちゃんと逃げ切れるくらいには、強くなりたい。

 

俺は残ったパンを口へ運んだ。

 

ゆっくり噛む。

 

飲み込む。

 

そして、立ち上がった。

 

「……よし」

 

明日も仕事を探そう。

 

金を稼いで、飯を食って。

 

それから、練習だ。

 

いつか、本物の武器も買えるといいな。

 

……いや、先にもう少しましな寝床を探すべきか?

 

俺は天井を見上げた。

 

傷んだ梁。

 

雨漏りする屋根。

 

崩れかけた壁。

 

……うーん。

 

やっぱり、寝床の方が先か?

 

でも、本物の武器も欲しい。

 

「…………」

 

俺は懐の硬貨を確かめた。

 

……全然足りねえな。

 

俺は小さくため息をついた。

 

「……姉ちゃんに計算教わっときゃよかった」

 

今さら言っても仕方ねえけど。

 

俺は寝床の横に置いた木の棒へ目を向けた。

 

細い棒。

 

何度も地面にぶつけたせいで、先端が少し欠けている。

 

それでも、まだ使える。

 

「……まあ、いいか」

 

今は、これで十分だ。

 

俺は棒を壁際に立てかけた。

 

それから、入口を隠している木箱の位置を確かめる。

 

外から寝床が見えないように。

 

誰かが入り込んできても、すぐには気づかれないように。

 

……よし。

 

俺は寝床へ潜り込んだ。

 

その夜。

 

遠くから、酒に酔った男の怒鳴り声が聞こえた。

 

続いて、何かが割れる音。

 

誰かの悲鳴。

 

そして、足音。

 

俺は布を被ったまま、耳を澄ませた。

 

……嫌な音だな。

 

けど、外へ出るつもりはなかった。

 

夜の裏路地には、昼間とは違う危険がある。

 

特に、掃除屋が現れる時間帯は絶対に外へ出てはいけない。

 

午前三時十三分から、四時三十四分まで。

 

その間は、どんな物音がしても隠れている。

 

それが、俺の決めたことだった。

 

……まあ、今はまだその時間じゃねえけど。

 

それでも、外へ出る理由はない。

 

俺は寝返りを打った。

 

その時、木の棒が目に入った。

 

一か月前には、なかったものだ。

 

ただの棒切れ。

 

まともな武器でもない。

 

誰かと戦えば、簡単に折られるかもしれない。

 

それでも。

 

俺は、その棒を見つめた。

 

……一か月前の俺よりは、少しくらいましになったんだろうか。

 

戦い方なんて、まだ分からない。

 

兄貴みたいな危険を察知する勘もない。

 

ヴィオラみたいな銃剣術も使えない。

 

だけど。

 

怪しい仕事を少しは疑うようになった。

 

危なそうな奴らから距離を取ることも覚えた。

 

倉庫を奪われそうになった時は、戦わずに追い払うことができた。

 

……まあ、運がよかっただけかもしれねえけど。

 

それでも、今日はこうして生きている。

 

「……へへっ」

 

俺は小さく笑った。

 

……悪くねえじゃん。

 

少なくとも、死んではいない。

 

俺は目を閉じた。

 

すると、あの日の光景が浮かんだ。

 

赤い服。

 

背負った長い銃。

 

無駄のない動き。

 

剣を受け流し、相手を倒す姿。

 

……かっこよかったな。

 

俺はそう思った。

 

けど。

 

「……あんな女になりてえわけじゃねえんだよな」

 

小さく呟く。

 

俺は男だし。

 

それに、誰かの骨を平然と砕くような奴にもなりたくない。

 

……いや。

 

そうしなきゃ生き残れない時が来るかもしれねえけど。

 

できれば、そんなことはしたくねえ。

 

俺は布を頭まで被った。

 

……まあ、難しいことは明日考えよう。

 

まずは飯代だ。

 

それから、寝床。

 

武器は……その次か。

 

いや、やっぱり欲しいな。

 

「……くそ。金が足りねえ」

 

誰もいない倉庫で、小さく悪態をついた。

 

それから、もう一度目を閉じた。

 

明日も仕事がある。

 

寝坊したら、飯代が稼げなくなる。

 

……そろそろ寝るか。

 

暗い倉庫。

 

壁の向こうを通り過ぎる足音。

 

風に揺らされ、時折軋む木材。

 

いつもと変わらない、裏路地の夜だった。

 

俺にはまだ、まともな武器もない。

 

戦い方も知らない。

 

誰かに勝てるほど、強くなったわけでもない。

 

それでも。

 

いつか。

 

あのかっこよかった背中に、少しでも近づけたら。

 

……いいな。

 

そう思った。

 

けど、その前に。

 

明日も生きていなければならない。

 

何をするにしても、それが一番大事だ。

 

俺は布を握り直し、身体を丸めた。

 

そして、いつものように物音を立てないよう気をつけながら、ゆっくりと眠りについた。

 

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