憧れは近くて遠い   作:色彩悪夢

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『路地裏の目』

ポタッ。

 

「…………」

 

ポタッ。

 

「……うるせえな」

 

俺は頭まで被っていた布をずらした。

 

外では昨夜から雨が降り続いている。

 

屋根を叩く雨音に混じって、古い木材が時折、嫌な音を立てていた。

 

俺が寝床にしているのは、裏路地の奥にある壊れかけた倉庫だ。

 

奥の棚と壁に挟まれた隙間に布を敷き、木箱で入口を隠している。

 

まともな住居とは言えないが、人目につきにくく、家賃もかからない。

 

少なくとも、今まではそれで十分だった。

 

ポタッ。

 

「……冷てっ!」

 

額に水滴が落ちてきた。

 

見上げると、屋根の隙間から雨水が垂れている。

 

「……おいおい」

 

昨日までは、こんなところから水なんて落ちてこなかったはずだ。

 

俺は寝床を少しずらした。

 

しかし、今度は足元が濡れている。

 

壁の亀裂からも水が入り込んでいるらしい。

 

「……くそっ」

 

仕方なく布を木箱の上へ移そうと立ち上がった。

 

その時だった。

 

ミシッ。

 

「……ん?」

 

頭上で何かが軋んだ。

 

続いて、木の裂けるような音が響く。

 

バキッ!

 

「うわっ!」

 

反射的に身を引いた。

 

直後、木材が目の前へ落ちてきた。

 

ドサッ!

 

「…………」

 

しばらく動けなかった。

 

落ちてきたのは、俺の腕ほどの長さがある木片だった。

 

端には錆びた釘が突き出している。

 

恐る恐る拾ってみる。

 

「……重っ」

 

こんなものが頭に当たっていたら。

 

「……死んでたんじゃねえか?」

 

仮に死ななくても、怪我で動けなくなれば同じようなものだ。

 

こんな場所で倒れていたって、誰も助けに来ない。

 

俺は木材を床へ置いた。

 

「……もう駄目だな、ここ」

 

前から危ないことは分かっていた。

 

以前、寝床を奪おうとした浮浪者を追い払う時にも、倉庫が崩れそうだと脅したことがある。

 

けど、まさか本当に天井が落ちてくるとは思わなかった。

 

「……引っ越すか」

 

問題は、どこへ行くかだ。

 

俺は懐から硬貨を取り出した。

 

百眼が二枚。

 

あとは細かい硬貨が何枚か。

 

「……少ねえな」

 

安宿なら、一日か二日は泊まれるかもしれない。

 

けど、毎日宿代を払っていたら、いつまで経っても金は貯まらない。

 

仕事が見つからなかったら、すぐに追い出されるだろう。

 

「……冗談じゃねえよ」

 

だったら、また使われていない建物を探した方がいい。

 

事務所でも倉庫でも構わない。

 

今度は、もう少し丈夫な場所を。

 

俺は硬貨を懐へ戻した。

 

その時、腹が鳴った。

 

ぐうううっ。

 

「…………」

 

……まずは飯代か。

 

俺は濡れた布を木箱に掛け、雨が弱まるのを待った。

 

***

 

「仕事ならあるぞ」

 

その言葉を聞いて、俺は顔を上げた。

 

「……本当か?」

 

「ああ。ただし、いつもの使い走りとは違う」

 

目の前にいるのは、以前から何度か仕事を頼んでくれるフィクサー事務所の男だった。

 

口は悪いが、報酬を誤魔化されたことはない。

 

それだけでも、他の連中よりは信用できる。

 

「何を運べばいいんだ?」

 

「今回は荷物じゃねえ。人探しだ」

 

「……人?」

 

男は奥の机を指差した。

 

「詳しいことは、あいつから聞け」

 

そこには眼鏡をかけた細身の男が座っていた。

 

三十歳くらいだろうか。

 

服はきれいで、机には書類が積まれている。

 

「君がレンかい?」

 

「……そうだけど」

 

「ある運び屋の居場所を確認してほしいんだ」

 

男は机に一枚の紙を置いた。

 

面長で、少し垂れた目をした男の似顔絵だった。

 

鼻の横には小さなほくろがある。

 

「名前はイーノ。二十代半ばで、灰色の上着を着ている。左耳の上が欠けていて、左手の甲には火傷の痕がある」

 

「……ふーん」

 

「最後に確認されたのは南の市場だ」

 

俺は似顔絵を眺めた。

 

「……何で俺なんだ?」

 

「君は道や人の顔をよく覚えているそうだね」

 

「……まあ」

 

「相手は警戒していて、大人が聞き込みをすると姿を消してしまうらしい。だから君のような子供の方が目立たないと思ってね」

 

……なるほど。

 

裏路地じゃ、使い走りのガキなんて珍しくない。

 

市場を歩いていても、わざわざ気にされることは少ないだろう。

 

ただ、気になることがある。

 

「……報酬は?」

 

「八百眼」

 

「…………」

 

俺は男の顔を見た。

 

「……八百?」

 

「ああ」

 

「ただ人を探すだけで?」

 

「そうだよ」

 

……高え。

 

いつもの使い走りとは比べものにならない。

 

けど、高い報酬には嫌な思い出があった。

 

「……前に、荷物を運ぶだけで三千眼って仕事を受けたんだ」

 

「ほう」

 

「殺されかけた」

 

俺は傷の塞がった左腕をさすった。

 

男の表情が少し変わった。

 

「それは災難だったね」

 

「だから聞いてんだよ。何でそんなに払うんだ?」

 

「相手を見つけるのが難しいからだよ。それに、依頼人が急いでいる」

 

「……捕まえる必要は?」

 

「ない」

 

「話しかけなくてもいい?」

 

「ああ。居場所を確認して報告するだけでいい」

 

「見つかったら?」

 

「無理せず戻ってきてくれればいい」

 

「……捕まったら?」

 

男は少し黙った。

 

「安全を保証することはできないね」

 

「…………」

 

やっぱり危ねえじゃねえか。

 

俺は似顔絵を机へ戻した。

 

「……やめとく」

 

八百眼は惜しい。

 

けど、死んだら使えない。

 

「そうか。残念だね」

 

男は引き止めなかった。

 

俺は扉へ向かった。

 

しかし、その途中で足が止まった。

 

今朝の倉庫が頭に浮かんだ。

 

濡れた寝床。

 

落ちてきた木材。

 

錆びた釘。

 

……今夜も、あそこで寝るのか?

 

また屋根が崩れたら?

 

俺はしばらく考えた。

 

八百眼。

 

これだけあれば、しばらく仕事がなくても飯が食える。

 

新しい寝床を探す余裕だってできる。

 

……くそ。

 

俺は振り返った。

 

「……一つ聞いていいか?」

 

「何だい?」

 

「何でイーノを探してんだ?」

 

「依頼人が会いたがっているんだ」

 

「……何のために?」

 

「詳しい事情は、こちらも聞いていない」

 

……本当かねえ。

 

男の表情からは何も読み取れなかった。

 

俺は少し迷ってから口を開いた。

 

「……分かった。やる」

 

「引き受けてくれるのかい?」

 

「ああ。ただし、危なくなったら逃げるぞ」

 

「構わないよ」

 

「戦わねえからな」

 

「もちろん」

 

「八百眼も、ちゃんと全額払ってくれよ」

 

「約束しよう」

 

俺は似顔絵をもう一度見た。

 

「……覚えた」

 

紙を返すと、男は少し驚いたようだった。

 

「持っていかなくていいのかい?」

 

「いらねえよ」

 

「本当に?」

 

「イーノ。二十代半ば。灰色の上着。左耳の上が欠けてて、左手に火傷。鼻の横にほくろ。最後に見られたのは南の市場だろ?」

 

男は眼鏡を押し上げた。

 

「……いい記憶力だね」

 

「……そうか?」

 

俺には、あまり実感がなかった。

 

姉ちゃんみたいに計算できる方が、よっぽどすごいと思うんだけどな。

 

「……じゃあ、行ってくる」

 

俺は軽く頭を下げた。

 

***

 

南の市場は、いつも人で溢れていた。

 

食料品。

 

古着。

 

機械の部品。

 

刃の欠けた武器。

 

何に使うのか分からない薬品。

 

そんなものが狭い通りに並び、客や運び屋が行き交っている。

 

「……さて」

 

俺は周囲を見回した。

 

灰色の上着を着た男は何人もいる。

 

……これじゃ分かんねえな。

 

運び屋なら、仕事を探す場所に顔を出すかもしれない。

 

そう考え、近くの屋台へ向かった。

 

「おっさん」

 

「ああ? 何だ?」

 

「この辺で荷運びの仕事ってねえ?」

 

「ガキに頼める荷物なんざねえよ」

 

「……そっか。じゃあ、運び屋ってどこで仕事探してんだ?」

 

「向こうの酒場だよ」

 

店主は通りの奥を指差した。

 

「昼間っから暇そうな連中が集まってる」

 

「……ありがとな」

 

俺は頭を下げた。

 

酒場へ向かいながら、周囲の道を確かめる。

 

大きな通り。

 

狭い路地。

 

裏口のある店。

 

建物と建物の間の細い隙間。

 

何かあった時、逃げ道になるかもしれない。

 

……覚えとこう。

 

酒場の前には運び屋らしい大人たちが何人もいた。

 

俺は少し離れた階段に座り、様子を見ることにした。

 

しかし、しばらくすると腹が鳴った。

 

「…………」

 

……腹減った。

 

近くの屋台で安いパンを買い、人の出入りを眺めながら食べた。

 

その日はイーノを見つけられなかった。

 

ただ、酒場の隣には食堂があり、南側には古い修理工房が並ぶ地区があると分かった。

 

……明日も来るか。

 

***

 

翌日。

 

俺は酒場の向かいにある屋台の近くで、水を飲みながら通りを眺めていた。

 

昨日と同じ場所にいると、誰かに覚えられるかもしれない。

 

……一応、気をつけとこう。

 

しばらくすると、酒場の扉が開いた。

 

灰色の上着を着た男が出てくる。

 

面長の顔。

 

少し垂れた目。

 

左耳の上が、欠けていた。

 

「…………」

 

……あれ?

 

男が上着の襟を直した。

 

その左手の甲には、赤黒い火傷の痕があった。

 

……いた。

 

イーノだ。

 

男は周囲を見回すと、隣の食堂へ入っていった。

 

俺は水を飲みながら待った。

 

しばらくして、イーノが小さな包みを持って出てきた。

 

中身はパンだった。

 

男は食堂の壁際へ移動し、パンをちぎって食べ始めた。

 

何度も周囲を見回しながら。

 

……落ち着きねえな。

 

その時だった。

 

「おい、そこの!」

 

近くの店主が怒鳴った。

 

イーノの肩が大きく跳ねた。

 

手に持っていたパンを落としかける。

 

けど、店主が怒鳴った相手は別の男だった。

 

イーノは小さく息を吐き、食事を再開した。

 

「…………」

 

……何だ、あいつ。

 

そんなに驚くことか?

 

よく見ると、男の左手が少し震えていた。

 

寒いわけでもなさそうだ。

 

しかも、時々懐から小さな包みを取り出しては、何かを確認している。

 

……金か?

 

何かの荷物か?

 

俺の位置からでは分からない。

 

イーノはパンを半分ほど食べたところで、残りを包み直した。

 

……全部食わねえのか。

 

俺なら、あんな小さいパン一つじゃ足りないのに。

 

男は包みを懐へしまい、歩き始めた。

 

俺は少し間を空けてから、その後を追った。

 

***

 

イーノは妙な歩き方をする男だった。

 

真っ直ぐ進んでいたかと思えば、突然角を曲がる。

 

店の前で立ち止まり、何も買わずに歩き去る。

 

何度も後ろを振り返る。

 

……誰かを警戒してんのか?

 

食堂での様子を思い出した。

 

何かから逃げているのかもしれない。

 

俺は少し距離を空けた。

 

イーノは市場を抜け、古い建物が並ぶ地区へ入った。

 

昨日のうちに通った場所だ。

 

この先には細い路地がいくつもある。

 

……逃げるなら、あっちだな。

 

そう考えていた時だった。

 

イーノが突然、来た道を戻り始めた。

 

「……ん?」

 

男はさっき通った角を曲がり、別の路地へ入った。

 

そして、また同じ通りへ戻ってきた。

 

……何してんだ?

 

道に迷っているのか?

 

いや、運び屋がそんなに道を間違えるか?

 

俺が壁際へ寄った時、向かい側にいた男が顔を上げた。

 

黒い上着。

 

短く刈った髪。

 

腰には刃物。

 

その男がイーノを見た。

 

イーノも、一瞬だけそちらへ視線を向けたようだった。

 

……知り合いか?

 

けど、二人は声をかけ合わなかった。

 

イーノはそのまま歩き続ける。

 

黒い上着の男も動かない。

 

……違ったか。

 

俺は再びイーノを追った。

 

ここまで来て見失いたくなかった。

 

八百眼。

 

その金額が頭から離れなかった。

 

やがて、イーノは古い三階建ての建物の前で立ち止まった。

 

一階の窓は板で塞がれている。

 

二階には窓が三つ。

 

そのうち一つには、内側から黒い布が掛けられていた。

 

建物の脇には錆びた荷車がある。

 

……ここか?

 

イーノは周囲を確かめてから扉を叩いた。

 

コン、コン。

 

少し間を空けて。

 

コン。

 

中から扉が開く。

 

俺の位置からでは、相手の顔までは見えなかった。

 

イーノは何かを話した後、食堂で買ったパンを取り出した。

 

それを扉の向こうにいる相手へ見せる。

 

短い会話の後、イーノは建物の中へ入った。

 

扉が閉まる。

 

「…………」

 

俺は息を吐いた。

 

……見つけた。

 

場所も覚えた。

 

建物の特徴も。

 

これで仕事は終わりだ。

 

俺は踵を返した。

 

その時だった。

 

「……おい」

 

背後から声がした。

 

振り返る。

 

黒い上着の男が立っていた。

 

さっき、イーノと目を合わせていたように見えた奴だ。

 

「……何だ?」

 

俺はできるだけ普通の声で答えた。

 

「お前、さっきから何してる?」

 

「……別に」

 

「別に?」

 

「仕事探してるだけだよ」

 

男は一歩近づいてきた。

 

「……どこの事務所のガキだ?」

 

「どこにも入ってねえけど」

 

「そうか」

 

男は目を細めた。

 

「じゃあ、何でイーノを追ってた?」

 

「…………」

 

……ばれてる。

 

頭の中が真っ白になった。

 

「……誰だよ、それ」

 

俺は首を傾げた。

 

「人違いじゃねえの?」

 

「嘘が下手だな、ガキ」

 

男が手を伸ばしてきた。

 

「……っ!」

 

俺は反射的に飛び退いた。

 

指先が上着を掠める。

 

……逃げろ!

 

俺は走り出した。

 

「おい! 待て!」

 

待つわけねえだろ!

 

狭い路地へ飛び込む。

 

右へ曲がる。

 

倒れた木箱を飛び越える。

 

背後から足音が追いかけてくる。

 

「止まれ!」

 

「嫌だよ!」

 

思わず叫んだ。

 

……止まったら何されるか分かんねえじゃねえか!

 

次の角を曲がった瞬間。

 

「……っ!」

 

濡れた石畳に足を取られた。

 

壁に肩をぶつけ、そのまま地面へ転がる。

 

「いっ……!」

 

右膝に鋭い痛みが走った。

 

……やべえ!

 

俺は慌てて立ち上がった。

 

男が角を曲がってくる。

 

「このガキ!」

 

俺は再び走った。

 

膝が痛い。

 

肩も痛い。

 

けど、止まれない。

 

……どこだ。

 

どこへ逃げる?

 

頭の中で、昨日見た道を思い浮かべた。

 

左は大通り。

 

右は古い建物の並ぶ細い道。

 

その先には……。

 

「……あっ!」

 

建物と建物の間に、狭い隙間があった。

 

大人が通るには狭い。

 

けど、俺なら。

 

俺は右へ曲がり、その隙間へ飛び込んだ。

 

身体を横向きにする。

 

肩が壁を擦る。

 

「……ぐっ!」

 

上着が引っかかった。

 

無理やり引っ張る。

 

ビリッ。

 

布が裂けた。

 

……くそっ!

 

それでも、何とか抜けられた。

 

背後で男が怒鳴る。

 

「おい! 出てこい!」

 

……出るか、馬鹿!

 

俺はそのまま走り続けた。

 

曲がり角を二つ抜け、人通りの多い通りへ出る。

 

それから少し離れた店の裏へ回った。

 

「……はぁ、はぁ……!」

 

息が苦しい。

 

膝も痛い。

 

俺は壁にもたれかかり、座り込んだ。

 

しばらく耳を澄ませる。

 

足音は近づいてこなかった。

 

「……はぁぁ……」

 

大きく息を吐いた。

 

「……死ぬかと思った」

 

俺は膝の血を拭った。

 

……何でばれたんだよ。

 

その時、イーノの行動を思い出した。

 

何度も振り返っていたこと。

 

同じ通りを繰り返し歩いていたこと。

 

黒い上着の男と、一瞬だけ目を合わせたこと。

 

「…………」

 

……あ。

 

もしかして。

 

あいつ、俺を試してたのか?

 

同じ道を歩いて、尾行している奴がいるか確かめていた?

 

あの男も、俺を見張っていた?

 

「……マジかよ」

 

俺は頭を抱えた。

 

見たものは全部覚えていた。

 

なのに、その意味が分からなかった。

 

……いや、考えなかったんだ。

 

八百眼が欲しくて、イーノを追いかけることばかり考えていた。

 

「……馬鹿じゃねえの、俺」

 

兄貴なら、もっと早く気づいたのかな。

 

そう思った。

 

けど、今さら考えても仕方ない。

 

俺は立ち上がった。

 

膝は痛むが、歩けないほどじゃない。

 

イーノが入った建物も覚えている。

 

……報告はできる。

 

「……ここまで来て、ただで帰れるかよ」

 

俺は足を引きずりながら事務所へ向かった。

 

***

 

「……それは、すまなかったね」

 

眼鏡の男は俺の怪我を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「こちらの見通しが甘かったようだ」

 

「……本当だよ」

 

俺は顔をしかめた。

 

「見つけるだけって言ったじゃねえか」

 

「無事に戻ってくれてよかった。これを使ってくれ」

 

男は机の上へ清潔な布を一枚置いた。

 

「……いいのか?」

 

「ああ」

 

「……どうも」

 

俺は少し迷ってから受け取った。

 

……案外、まともな奴なのかもしれねえな。

 

「それで、イーノは見つかったのかい?」

 

「ああ」

 

俺は道順を説明した。

 

三階建ての建物。

 

板で塞がれた一階の窓。

 

二階に掛けられた黒い布。

 

脇に置かれた錆びた荷車。

 

それから、イーノが扉を叩いた回数まで。

 

男は時々質問を挟みながら、紙に書き込んでいた。

 

「……よく覚えているね」

 

「見たからな」

 

「建物の中へは入らなかったんだね?」

 

「入るわけねえだろ。そんな約束してねえし」

 

「そうだったね。十分だよ」

 

男は頷いた。

 

それから、もう一つ尋ねてきた。

 

「ちなみに、追いかけてきた男の顔も覚えているかい?」

 

「ああ。黒い上着で、短い髪。右の眉の上に小さな傷があった」

 

「……なるほど」

 

「イーノと目を合わせてた気もする」

 

「そうか」

 

男はそれも書き込んだ。

 

俺は少し迷ってから口を開いた。

 

「……なあ」

 

「何だい?」

 

「イーノって、何したんだ?」

 

「どうして?」

 

「あいつ、すげえ怯えてたから」

 

男はしばらく考えていた。

 

「……詳しい事情は、こちらも分からないんだ」

 

「……そうかよ」

 

「ただ、君の情報は役に立ったよ」

 

それ以上は答えるつもりがないらしい。

 

俺も聞くのをやめた。

 

「……で、報酬は?」

 

「ああ、もちろん」

 

男は引き出しを開けた。

 

百眼の硬貨を八枚、机へ並べる。

 

「八百眼だ」

 

「…………」

 

俺は一枚ずつ数えた。

 

間違いない。

 

全部で八枚。

 

八百眼だ。

 

「……どうも」

 

硬貨を懐へしまった。

 

重い。

 

こんなにまとまった金を、一度にもらったことはほとんどなかった。

 

「また何かあれば頼みたいんだが、どうかな?」

 

「……仕事内容を聞いてから決める」

 

「もちろん。それで構わないよ」

 

俺は頭を下げた。

 

扉へ向かおうとすると、男が呼び止めた。

 

「レン」

 

「……何だよ」

 

「君は、人の顔だけでなく、建物の細かい特徴まで覚えているんだね」

 

「……まあ」

 

「そういう情報を欲しがる人間は、他にもいるんだよ」

 

「……例えば?」

 

「誰がどこへ出入りしているか。荷物がいつ運ばれるか。そういったことを知りたがる人間だね」

 

「……ふーん」

 

「君には、そういう仕事の才能があるかもしれない」

 

「…………」

 

才能。

 

俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。

 

……俺にも?

 

男は小さく笑った。

 

「もっとも、危険もあるけれどね」

 

「……分かってるよ」

 

俺は裂けた上着を指差した。

 

「今日、嫌ってほど分かった」

 

***

 

事務所を出た後。

 

俺は人通りの少ない場所で、懐の硬貨を確かめた。

 

八百眼。

 

間違いなく、八百眼だ。

 

「……へへっ」

 

思わず笑みがこぼれた。

 

……すげえ。

 

重い荷物を運んだわけじゃない。

 

誰かと戦ったわけでもない。

 

ただ、人を見つけて、見たものを報告しただけ。

 

それで八百眼。

 

……俺にも、できる仕事があったんだな。

 

兄貴は十五歳で、もうフィクサーの見習いだ。

 

姉ちゃんだって十六歳で、事務所の会計をしている。

 

二人とも、自分の仕事を持っている。

 

それに比べて、俺は使い走りばかりだった。

 

……まあ、今も大して変わらねえけど。

 

でも、俺にも金になるものがあった。

 

そう思うと、少し嬉しかった。

 

「……いてっ」

 

歩き始めると、膝が痛んだ。

 

裂けた上着も目に入る。

 

……まあ、楽な仕事じゃなかったけどな。

 

しかも、黒い上着の男には顔を覚えられたかもしれない。

 

しばらく、あの辺りは避けた方がいいだろう。

 

……八百眼でも、安い気がしてきたな。

 

俺は苦笑いした。

 

それでも、硬貨を手放すつもりはなかった。

 

***

 

帰り道、俺は古道具屋の前で足を止めた。

 

店先には使い古された武器が並んでいた。

 

剣。

 

斧。

 

短剣。

 

その中に、小さな短剣が一本あった。

 

刃は少し欠け、柄も擦り切れている。

 

「…………」

 

俺はそれを見つめた。

 

黒い上着の男に追いかけられた時のことを思い出す。

 

もし、逃げ道を塞がれていたら。

 

俺は何もできなかった。

 

「おい、ガキ」

 

店主が声をかけてきた。

 

「買うのか?」

 

「……これ、いくら?」

 

俺は短剣を指差した。

 

「二百眼だ」

 

「……二百!?」

 

「中古だから安い方だぞ」

 

「……高えよ」

 

「なら買うな」

 

店主は面倒くさそうに答えた。

 

俺は短剣を見つめた。

 

二百眼。

 

せっかく八百眼も稼いだのに、その四分の一がなくなる。

 

……もったいねえ。

 

でも、また追いかけられたら?

 

今度は逃げ道がなかったら?

 

「…………」

 

俺はしばらく考えた。

 

けど、結局首を振った。

 

「……今日はやめとく」

 

「なら、どけ。商売の邪魔だ」

 

「……はいはい」

 

俺は店を離れた。

 

今はまだ、金を使いたくなかった。

 

まずは新しい寝床を見つける。

 

武器は、その後でもいい。

 

……たぶん。

 

***

 

それから数日。

 

俺は使い走りの仕事を続けながら、新しい寝床を探した。

 

最初に見つけたのは、使われていないフィクサー事務所だった。

 

二階建ての建物で、古い机や棚も残っている。

 

屋根も丈夫そうだった。

 

……いいんじゃねえか?

 

そう思ったが、階段の下に赤い印が描かれていた。

 

近くの男に聞くと、以前そこで組織同士の揉め事があったらしい。

 

今でも関係者が出入りすることがあるという。

 

「……駄目だな」

 

俺はすぐに諦めた。

 

知らない組織の連中と鉢合わせするなんて、冗談じゃない。

 

次に見つけたのは、市場から少し離れた場所にある古い倉庫だった。

 

屋根は古いが、大きな穴はない。

 

壁にも亀裂はあるが、今の倉庫ほど酷くなかった。

 

奥には、棚と壁に挟まれた狭い場所がある。

 

木箱を置けば、寝床を隠すこともできそうだった。

 

……悪くねえな。

 

俺は何日か様子を見た。

 

昼間、人の出入りはない。

 

近所の店主も、しばらく使われていないと言っていた。

 

ただし、夜も安全とは限らない。

 

浮浪者が使っているかもしれないし、持ち主が戻ってくる可能性もある。

 

……でも。

 

今の倉庫で天井が落ちてくるのを待つよりはましだ。

 

「……ここにするか」

 

俺はそう決めた。

 

引っ越しは簡単だった。

 

何しろ、持ち物が少ない。

 

寝床用の布。

 

水を入れる容器。

 

拾ってきた小さな道具。

 

それから、練習用の木の棒。

 

全部を何度かに分けて運んだ。

 

新しい倉庫の奥へ布を敷き、木の棒を壁際に置く。

 

水の容器も、手の届く場所へ。

 

最後に木箱を動かし、外から寝床が見えないようにした。

 

「……よし」

 

俺は腰を下ろした。

 

……おお。

 

悪くねえ。

 

床は乾いている。

 

風も、前より入りにくい。

 

それに、天井から嫌な音もしない。

 

「……へへっ」

 

少し笑った。

 

……いい場所、見つけたな。

 

もちろん、ここだって俺のものじゃない。

 

いつ追い出されるか分からない。

 

……だからこそ。

 

俺は懐の硬貨を取り出した。

 

***

 

八百眼の報酬。

 

もちろん、全部残っているわけじゃない。

 

飯代や水代。

 

怪我の手当て。

 

それから、仕事が見つからなかった日に使った金。

 

……結構減ったな。

 

それでも、今までよりは多く持っている。

 

俺は硬貨を床へ並べた。

 

……全部ここに置いとくのは、危ねえよな。

 

前の倉庫だって、浮浪者に寝床を奪われかけた。

 

今度も同じことが起きるかもしれない。

 

だったら、金は分けた方がいい。

 

俺は硬貨を三つのまとまりに分けようとした。

 

明日の飯代。

 

しばらく使わない金。

 

何かあった時のために取っておく金。

 

「……ええと」

 

百眼が何枚で。

 

五十眼が……。

 

「…………」

 

途中で手が止まった。

 

……あれ?

 

今、何枚数えたっけ?

 

「……くそ」

 

俺は頭を掻いた。

 

……姉ちゃんなら、こんなの一瞬なんだろうな。

 

昔、姉ちゃんに計算を教わった時のことを思い出した。

 

『レン、百眼が三枚あったら?』

 

『三百眼』

 

『じゃあ、そこに五十眼が二枚増えたら?』

 

『……ええと』

 

『もう、ちゃんと考えなさいよ』

 

……あの時、もう少し真面目に聞いておけばよかったな。

 

俺は硬貨を種類ごとに並べ直した。

 

何度か数え直し、ようやく分け終える。

 

「……よし」

 

翌日までに、金を別々の場所へ隠すことにした。

 

一つは新しい倉庫から離れた場所。

 

もう一つは、さらに別の通り。

 

どちらも、使い走りで何度も通った場所だった。

 

ただし、隠すところを誰かに見られたら意味がない。

 

一つ目の場所へ向かう途中、通りの角で煙草を吸っている男を見かけた。

 

別に俺を見ているわけじゃなかった。

 

それでも、その日は引き返した。

 

……見られたら、面倒だからな。

 

結局、金をすべて分けて隠すのに、二日かかった。

 

手元には、当面の飯代だけを残した。

 

木の棒や布は、新しい倉庫に置いたままだ。

 

もし誰かが入り込んできても、こいつらは捨てて逃げればいい。

 

……金だって、本当に危なかったら諦めるけどな。

 

生きてさえいれば、また稼げる。

 

俺はそう考えた。

 

***

 

翌日。

 

俺は市場の近くで仕事を探していた。

 

その時だった。

 

「……あの運び屋、見つかったらしいぞ」

 

近くの屋台で、男たちが話していた。

 

俺は足を止めた。

 

「運び屋?」

 

「ああ。灰色の服着た奴だよ」

 

……ん?

 

「最近、南の市場でこそこそ隠れてた奴だろ?」

 

「そうそう。昨日の夜、どっかの連中が連れていったらしい」

 

「へえ。何やらかしたんだ?」

 

「知らねえよ。借金でもあったんじゃねえか?」

 

「……生きてんのか?」

 

「さあな。連れていかれたところを見た奴がいるだけだ」

 

男たちは、それ以上興味もなさそうに話題を変えた。

 

俺はその場を離れた。

 

「…………」

 

……イーノ。

 

あいつ、捕まったのか?

 

俺が居場所を教えたから?

 

いや。

 

分かんねえ。

 

同じ奴なのかも確かじゃない。

 

それに、あいつが何か悪いことをしたのかもしれない。

 

俺は居場所を教えただけだ。

 

捕まえたわけじゃない。

 

……そうだろ。

 

俺は懐へ手を入れた。

 

硬貨が指に触れた。

 

あの仕事で稼いだ金だ。

 

しばらく歩いていると、パン屋が見えてきた。

 

「……一番安いの、一つ」

 

「はいよ」

 

パンを買い、人通りの少ない壁際へ移動する。

 

俺はそこに座り、パンをちぎった。

 

一口食べる。

 

……いつもの味だ。

 

硬くて、少し酸っぱい。

 

けど、腹は膨れる。

 

その時だった。

 

「…………」

 

イーノの顔が浮かんだ。

 

食堂の壁際で、周囲を気にしながらパンを食べていた男。

 

店主が怒鳴っただけで肩を跳ねさせていた。

 

そして、残ったパンを建物の中にいた誰かへ見せていた。

 

……あいつ、何で全部食わなかったんだ?

 

誰かと分けるつもりだったのか?

 

……あの建物にいた奴は、どうなったんだろうな。

 

俺は手元のパンを見つめた。

 

もし、本当にイーノが捕まったのなら。

 

あいつは今も、飯を食えているんだろうか。

 

「……くそっ」

 

小さく舌打ちした。

 

……何で、こんなことまで覚えてんだよ。

 

忘れちまえばいいのに。

 

俺は残ったパンを口へ運んだ。

 

最後まで食べた。

 

別に、俺が悪いって決まったわけじゃない。

 

イーノが何をしたのかも知らない。

 

それに、仮に捕まったのが本当でも、俺にはどうにもできない。

 

あの黒い上着の男にだって勝てなかったんだ。

 

助けに行くなんて、無理に決まっている。

 

……仕方ねえだろ。

 

俺だって、生きていかなきゃならない。

 

そう自分に言い聞かせ、立ち上がった。

 

仕事を探さなければならない。

 

けど、歩き始めてもイーノの顔は頭から離れなかった。

 

***

 

夕方。

 

新しい倉庫へ戻った俺は、入口の様子を確かめた。

 

誰かが入った形跡はない。

 

……よし。

 

奥の寝床へ向かい、木の棒を手に取った。

 

「……ふっ!」

 

一歩踏み込む。

 

突く。

 

戻す。

 

もう一度。

 

「……ふっ!」

 

……違うな。

 

俺は棒を下ろした。

 

思い出すのは、赤い服の少女だった。

 

長い銃剣を構え、男たちの攻撃を受け流していた。

 

……ヴィオラ。

 

「……あの女、すげえよな」

 

怖かった。

 

それは今でも変わらない。

 

男の顎を砕いた音も覚えている。

 

腕を折られた男の悲鳴も。

 

……正直、もう見たくねえ。

 

けど、戦い方はかっこよかった。

 

それだけは間違いない。

 

俺はもう一度棒を構えたが、すぐに下ろした。

 

腕が疲れていた。

 

無理して怪我をしたら、明日の仕事に響く。

 

……今日はここまでか。

 

俺は木の棒を壁際へ立てかけた。

 

***

 

夜。

 

俺は布を被り、寝床へ横になった。

 

外からは、時折誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。

 

掃除屋が現れる時間になれば、そんな声さえ消えるだろう。

 

午前三時十三分から、四時三十四分まで。

 

その間は、絶対に外へ出ない。

 

それが裏路地で生き残るための決まりだった。

 

俺は天井を見上げた。

 

新しい倉庫の屋根は、今夜も静かだった。

 

金は別々の場所に隠してある。

 

明日の飯代も残っている。

 

木の棒も、布も、水の容器もある。

 

……前より、少しはましになった。

 

そう思った。

 

けど、目を閉じると、またあの男の顔が浮かんだ。

 

欠けた左耳。

 

震えていた手。

 

半分だけ食べたパン。

 

そして、最後に入った建物。

 

「……知るかよ」

 

俺は小さく吐き捨てた。

 

俺は居場所を教えただけだ。

 

捕まえたわけじゃない。

 

そもそも、あいつが何をしたのかも知らない。

 

……だから、俺は悪くねえ。

 

そう考えても、男の顔は消えなかった。

 

「……くそ」

 

俺は布を握りしめた。

 

せっかく八百眼も稼いだってのに。

 

どうして、こんな嫌な気分にならなきゃなんねえんだよ。

 

今まで、俺には何も取り柄がないと思っていた。

 

兄貴みたいに危険を察知できない。

 

姉ちゃんみたいに計算もできない。

 

喧嘩だって弱い。

 

けど、今日は違った。

 

見たものを覚えることが、金になると分かった。

 

……嬉しかったんだけどな。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

もし、また同じような依頼を受けたら。

 

今度はどうするんだろう。

 

断るか?

 

それとも、金のために引き受けるのか?

 

「…………」

 

答えは出なかった。

 

……その時にならなきゃ、分かんねえよ。

 

俺は目を閉じた。

 

明日も仕事を探す。

 

飯代も必要だ。

 

貯金だって、まだ十分じゃない。

 

それに、あの古道具屋の短剣も気になっている。

 

二百眼。

 

今の俺には大金だ。

 

けど、何度も危ない目に遭っている以上、いつまでも木の棒だけでは不安だった。

 

……まあ、それは明日考えよう。

 

俺は寝返りを打った。

 

すると、またイーノの顔が浮かんだ。

 

「……ああ、もう」

 

忘れちまえばいいのに。

 

あいつの顔も。

 

震えていた手も。

 

食べ残したパンも。

 

……全部。

 

けど、たぶん無理だ。

 

俺は、一度見たものをなかなか忘れない。

 

道も。

 

人の顔も。

 

何気ない仕草も。

 

それが金になると、今日分かった。

 

でも、金になったからといって、思い出したくないものまで消えてくれるわけじゃない。

 

「……面倒くせえ才能だな」

 

俺は小さく呟いた。

 

それでも。

 

あの八百眼を返すつもりなんて、なかった。

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