ポタッ。
「…………」
ポタッ。
「……うるせえな」
俺は頭まで被っていた布をずらした。
外では昨夜から雨が降り続いている。
屋根を叩く雨音に混じって、古い木材が時折、嫌な音を立てていた。
俺が寝床にしているのは、裏路地の奥にある壊れかけた倉庫だ。
奥の棚と壁に挟まれた隙間に布を敷き、木箱で入口を隠している。
まともな住居とは言えないが、人目につきにくく、家賃もかからない。
少なくとも、今まではそれで十分だった。
ポタッ。
「……冷てっ!」
額に水滴が落ちてきた。
見上げると、屋根の隙間から雨水が垂れている。
「……おいおい」
昨日までは、こんなところから水なんて落ちてこなかったはずだ。
俺は寝床を少しずらした。
しかし、今度は足元が濡れている。
壁の亀裂からも水が入り込んでいるらしい。
「……くそっ」
仕方なく布を木箱の上へ移そうと立ち上がった。
その時だった。
ミシッ。
「……ん?」
頭上で何かが軋んだ。
続いて、木の裂けるような音が響く。
バキッ!
「うわっ!」
反射的に身を引いた。
直後、木材が目の前へ落ちてきた。
ドサッ!
「…………」
しばらく動けなかった。
落ちてきたのは、俺の腕ほどの長さがある木片だった。
端には錆びた釘が突き出している。
恐る恐る拾ってみる。
「……重っ」
こんなものが頭に当たっていたら。
「……死んでたんじゃねえか?」
仮に死ななくても、怪我で動けなくなれば同じようなものだ。
こんな場所で倒れていたって、誰も助けに来ない。
俺は木材を床へ置いた。
「……もう駄目だな、ここ」
前から危ないことは分かっていた。
以前、寝床を奪おうとした浮浪者を追い払う時にも、倉庫が崩れそうだと脅したことがある。
けど、まさか本当に天井が落ちてくるとは思わなかった。
「……引っ越すか」
問題は、どこへ行くかだ。
俺は懐から硬貨を取り出した。
百眼が二枚。
あとは細かい硬貨が何枚か。
「……少ねえな」
安宿なら、一日か二日は泊まれるかもしれない。
けど、毎日宿代を払っていたら、いつまで経っても金は貯まらない。
仕事が見つからなかったら、すぐに追い出されるだろう。
「……冗談じゃねえよ」
だったら、また使われていない建物を探した方がいい。
事務所でも倉庫でも構わない。
今度は、もう少し丈夫な場所を。
俺は硬貨を懐へ戻した。
その時、腹が鳴った。
ぐうううっ。
「…………」
……まずは飯代か。
俺は濡れた布を木箱に掛け、雨が弱まるのを待った。
***
「仕事ならあるぞ」
その言葉を聞いて、俺は顔を上げた。
「……本当か?」
「ああ。ただし、いつもの使い走りとは違う」
目の前にいるのは、以前から何度か仕事を頼んでくれるフィクサー事務所の男だった。
口は悪いが、報酬を誤魔化されたことはない。
それだけでも、他の連中よりは信用できる。
「何を運べばいいんだ?」
「今回は荷物じゃねえ。人探しだ」
「……人?」
男は奥の机を指差した。
「詳しいことは、あいつから聞け」
そこには眼鏡をかけた細身の男が座っていた。
三十歳くらいだろうか。
服はきれいで、机には書類が積まれている。
「君がレンかい?」
「……そうだけど」
「ある運び屋の居場所を確認してほしいんだ」
男は机に一枚の紙を置いた。
面長で、少し垂れた目をした男の似顔絵だった。
鼻の横には小さなほくろがある。
「名前はイーノ。二十代半ばで、灰色の上着を着ている。左耳の上が欠けていて、左手の甲には火傷の痕がある」
「……ふーん」
「最後に確認されたのは南の市場だ」
俺は似顔絵を眺めた。
「……何で俺なんだ?」
「君は道や人の顔をよく覚えているそうだね」
「……まあ」
「相手は警戒していて、大人が聞き込みをすると姿を消してしまうらしい。だから君のような子供の方が目立たないと思ってね」
……なるほど。
裏路地じゃ、使い走りのガキなんて珍しくない。
市場を歩いていても、わざわざ気にされることは少ないだろう。
ただ、気になることがある。
「……報酬は?」
「八百眼」
「…………」
俺は男の顔を見た。
「……八百?」
「ああ」
「ただ人を探すだけで?」
「そうだよ」
……高え。
いつもの使い走りとは比べものにならない。
けど、高い報酬には嫌な思い出があった。
「……前に、荷物を運ぶだけで三千眼って仕事を受けたんだ」
「ほう」
「殺されかけた」
俺は傷の塞がった左腕をさすった。
男の表情が少し変わった。
「それは災難だったね」
「だから聞いてんだよ。何でそんなに払うんだ?」
「相手を見つけるのが難しいからだよ。それに、依頼人が急いでいる」
「……捕まえる必要は?」
「ない」
「話しかけなくてもいい?」
「ああ。居場所を確認して報告するだけでいい」
「見つかったら?」
「無理せず戻ってきてくれればいい」
「……捕まったら?」
男は少し黙った。
「安全を保証することはできないね」
「…………」
やっぱり危ねえじゃねえか。
俺は似顔絵を机へ戻した。
「……やめとく」
八百眼は惜しい。
けど、死んだら使えない。
「そうか。残念だね」
男は引き止めなかった。
俺は扉へ向かった。
しかし、その途中で足が止まった。
今朝の倉庫が頭に浮かんだ。
濡れた寝床。
落ちてきた木材。
錆びた釘。
……今夜も、あそこで寝るのか?
また屋根が崩れたら?
俺はしばらく考えた。
八百眼。
これだけあれば、しばらく仕事がなくても飯が食える。
新しい寝床を探す余裕だってできる。
……くそ。
俺は振り返った。
「……一つ聞いていいか?」
「何だい?」
「何でイーノを探してんだ?」
「依頼人が会いたがっているんだ」
「……何のために?」
「詳しい事情は、こちらも聞いていない」
……本当かねえ。
男の表情からは何も読み取れなかった。
俺は少し迷ってから口を開いた。
「……分かった。やる」
「引き受けてくれるのかい?」
「ああ。ただし、危なくなったら逃げるぞ」
「構わないよ」
「戦わねえからな」
「もちろん」
「八百眼も、ちゃんと全額払ってくれよ」
「約束しよう」
俺は似顔絵をもう一度見た。
「……覚えた」
紙を返すと、男は少し驚いたようだった。
「持っていかなくていいのかい?」
「いらねえよ」
「本当に?」
「イーノ。二十代半ば。灰色の上着。左耳の上が欠けてて、左手に火傷。鼻の横にほくろ。最後に見られたのは南の市場だろ?」
男は眼鏡を押し上げた。
「……いい記憶力だね」
「……そうか?」
俺には、あまり実感がなかった。
姉ちゃんみたいに計算できる方が、よっぽどすごいと思うんだけどな。
「……じゃあ、行ってくる」
俺は軽く頭を下げた。
***
南の市場は、いつも人で溢れていた。
食料品。
古着。
機械の部品。
刃の欠けた武器。
何に使うのか分からない薬品。
そんなものが狭い通りに並び、客や運び屋が行き交っている。
「……さて」
俺は周囲を見回した。
灰色の上着を着た男は何人もいる。
……これじゃ分かんねえな。
運び屋なら、仕事を探す場所に顔を出すかもしれない。
そう考え、近くの屋台へ向かった。
「おっさん」
「ああ? 何だ?」
「この辺で荷運びの仕事ってねえ?」
「ガキに頼める荷物なんざねえよ」
「……そっか。じゃあ、運び屋ってどこで仕事探してんだ?」
「向こうの酒場だよ」
店主は通りの奥を指差した。
「昼間っから暇そうな連中が集まってる」
「……ありがとな」
俺は頭を下げた。
酒場へ向かいながら、周囲の道を確かめる。
大きな通り。
狭い路地。
裏口のある店。
建物と建物の間の細い隙間。
何かあった時、逃げ道になるかもしれない。
……覚えとこう。
酒場の前には運び屋らしい大人たちが何人もいた。
俺は少し離れた階段に座り、様子を見ることにした。
しかし、しばらくすると腹が鳴った。
「…………」
……腹減った。
近くの屋台で安いパンを買い、人の出入りを眺めながら食べた。
その日はイーノを見つけられなかった。
ただ、酒場の隣には食堂があり、南側には古い修理工房が並ぶ地区があると分かった。
……明日も来るか。
***
翌日。
俺は酒場の向かいにある屋台の近くで、水を飲みながら通りを眺めていた。
昨日と同じ場所にいると、誰かに覚えられるかもしれない。
……一応、気をつけとこう。
しばらくすると、酒場の扉が開いた。
灰色の上着を着た男が出てくる。
面長の顔。
少し垂れた目。
左耳の上が、欠けていた。
「…………」
……あれ?
男が上着の襟を直した。
その左手の甲には、赤黒い火傷の痕があった。
……いた。
イーノだ。
男は周囲を見回すと、隣の食堂へ入っていった。
俺は水を飲みながら待った。
しばらくして、イーノが小さな包みを持って出てきた。
中身はパンだった。
男は食堂の壁際へ移動し、パンをちぎって食べ始めた。
何度も周囲を見回しながら。
……落ち着きねえな。
その時だった。
「おい、そこの!」
近くの店主が怒鳴った。
イーノの肩が大きく跳ねた。
手に持っていたパンを落としかける。
けど、店主が怒鳴った相手は別の男だった。
イーノは小さく息を吐き、食事を再開した。
「…………」
……何だ、あいつ。
そんなに驚くことか?
よく見ると、男の左手が少し震えていた。
寒いわけでもなさそうだ。
しかも、時々懐から小さな包みを取り出しては、何かを確認している。
……金か?
何かの荷物か?
俺の位置からでは分からない。
イーノはパンを半分ほど食べたところで、残りを包み直した。
……全部食わねえのか。
俺なら、あんな小さいパン一つじゃ足りないのに。
男は包みを懐へしまい、歩き始めた。
俺は少し間を空けてから、その後を追った。
***
イーノは妙な歩き方をする男だった。
真っ直ぐ進んでいたかと思えば、突然角を曲がる。
店の前で立ち止まり、何も買わずに歩き去る。
何度も後ろを振り返る。
……誰かを警戒してんのか?
食堂での様子を思い出した。
何かから逃げているのかもしれない。
俺は少し距離を空けた。
イーノは市場を抜け、古い建物が並ぶ地区へ入った。
昨日のうちに通った場所だ。
この先には細い路地がいくつもある。
……逃げるなら、あっちだな。
そう考えていた時だった。
イーノが突然、来た道を戻り始めた。
「……ん?」
男はさっき通った角を曲がり、別の路地へ入った。
そして、また同じ通りへ戻ってきた。
……何してんだ?
道に迷っているのか?
いや、運び屋がそんなに道を間違えるか?
俺が壁際へ寄った時、向かい側にいた男が顔を上げた。
黒い上着。
短く刈った髪。
腰には刃物。
その男がイーノを見た。
イーノも、一瞬だけそちらへ視線を向けたようだった。
……知り合いか?
けど、二人は声をかけ合わなかった。
イーノはそのまま歩き続ける。
黒い上着の男も動かない。
……違ったか。
俺は再びイーノを追った。
ここまで来て見失いたくなかった。
八百眼。
その金額が頭から離れなかった。
やがて、イーノは古い三階建ての建物の前で立ち止まった。
一階の窓は板で塞がれている。
二階には窓が三つ。
そのうち一つには、内側から黒い布が掛けられていた。
建物の脇には錆びた荷車がある。
……ここか?
イーノは周囲を確かめてから扉を叩いた。
コン、コン。
少し間を空けて。
コン。
中から扉が開く。
俺の位置からでは、相手の顔までは見えなかった。
イーノは何かを話した後、食堂で買ったパンを取り出した。
それを扉の向こうにいる相手へ見せる。
短い会話の後、イーノは建物の中へ入った。
扉が閉まる。
「…………」
俺は息を吐いた。
……見つけた。
場所も覚えた。
建物の特徴も。
これで仕事は終わりだ。
俺は踵を返した。
その時だった。
「……おい」
背後から声がした。
振り返る。
黒い上着の男が立っていた。
さっき、イーノと目を合わせていたように見えた奴だ。
「……何だ?」
俺はできるだけ普通の声で答えた。
「お前、さっきから何してる?」
「……別に」
「別に?」
「仕事探してるだけだよ」
男は一歩近づいてきた。
「……どこの事務所のガキだ?」
「どこにも入ってねえけど」
「そうか」
男は目を細めた。
「じゃあ、何でイーノを追ってた?」
「…………」
……ばれてる。
頭の中が真っ白になった。
「……誰だよ、それ」
俺は首を傾げた。
「人違いじゃねえの?」
「嘘が下手だな、ガキ」
男が手を伸ばしてきた。
「……っ!」
俺は反射的に飛び退いた。
指先が上着を掠める。
……逃げろ!
俺は走り出した。
「おい! 待て!」
待つわけねえだろ!
狭い路地へ飛び込む。
右へ曲がる。
倒れた木箱を飛び越える。
背後から足音が追いかけてくる。
「止まれ!」
「嫌だよ!」
思わず叫んだ。
……止まったら何されるか分かんねえじゃねえか!
次の角を曲がった瞬間。
「……っ!」
濡れた石畳に足を取られた。
壁に肩をぶつけ、そのまま地面へ転がる。
「いっ……!」
右膝に鋭い痛みが走った。
……やべえ!
俺は慌てて立ち上がった。
男が角を曲がってくる。
「このガキ!」
俺は再び走った。
膝が痛い。
肩も痛い。
けど、止まれない。
……どこだ。
どこへ逃げる?
頭の中で、昨日見た道を思い浮かべた。
左は大通り。
右は古い建物の並ぶ細い道。
その先には……。
「……あっ!」
建物と建物の間に、狭い隙間があった。
大人が通るには狭い。
けど、俺なら。
俺は右へ曲がり、その隙間へ飛び込んだ。
身体を横向きにする。
肩が壁を擦る。
「……ぐっ!」
上着が引っかかった。
無理やり引っ張る。
ビリッ。
布が裂けた。
……くそっ!
それでも、何とか抜けられた。
背後で男が怒鳴る。
「おい! 出てこい!」
……出るか、馬鹿!
俺はそのまま走り続けた。
曲がり角を二つ抜け、人通りの多い通りへ出る。
それから少し離れた店の裏へ回った。
「……はぁ、はぁ……!」
息が苦しい。
膝も痛い。
俺は壁にもたれかかり、座り込んだ。
しばらく耳を澄ませる。
足音は近づいてこなかった。
「……はぁぁ……」
大きく息を吐いた。
「……死ぬかと思った」
俺は膝の血を拭った。
……何でばれたんだよ。
その時、イーノの行動を思い出した。
何度も振り返っていたこと。
同じ通りを繰り返し歩いていたこと。
黒い上着の男と、一瞬だけ目を合わせたこと。
「…………」
……あ。
もしかして。
あいつ、俺を試してたのか?
同じ道を歩いて、尾行している奴がいるか確かめていた?
あの男も、俺を見張っていた?
「……マジかよ」
俺は頭を抱えた。
見たものは全部覚えていた。
なのに、その意味が分からなかった。
……いや、考えなかったんだ。
八百眼が欲しくて、イーノを追いかけることばかり考えていた。
「……馬鹿じゃねえの、俺」
兄貴なら、もっと早く気づいたのかな。
そう思った。
けど、今さら考えても仕方ない。
俺は立ち上がった。
膝は痛むが、歩けないほどじゃない。
イーノが入った建物も覚えている。
……報告はできる。
「……ここまで来て、ただで帰れるかよ」
俺は足を引きずりながら事務所へ向かった。
***
「……それは、すまなかったね」
眼鏡の男は俺の怪我を見ると、申し訳なさそうに眉を下げた。
「こちらの見通しが甘かったようだ」
「……本当だよ」
俺は顔をしかめた。
「見つけるだけって言ったじゃねえか」
「無事に戻ってくれてよかった。これを使ってくれ」
男は机の上へ清潔な布を一枚置いた。
「……いいのか?」
「ああ」
「……どうも」
俺は少し迷ってから受け取った。
……案外、まともな奴なのかもしれねえな。
「それで、イーノは見つかったのかい?」
「ああ」
俺は道順を説明した。
三階建ての建物。
板で塞がれた一階の窓。
二階に掛けられた黒い布。
脇に置かれた錆びた荷車。
それから、イーノが扉を叩いた回数まで。
男は時々質問を挟みながら、紙に書き込んでいた。
「……よく覚えているね」
「見たからな」
「建物の中へは入らなかったんだね?」
「入るわけねえだろ。そんな約束してねえし」
「そうだったね。十分だよ」
男は頷いた。
それから、もう一つ尋ねてきた。
「ちなみに、追いかけてきた男の顔も覚えているかい?」
「ああ。黒い上着で、短い髪。右の眉の上に小さな傷があった」
「……なるほど」
「イーノと目を合わせてた気もする」
「そうか」
男はそれも書き込んだ。
俺は少し迷ってから口を開いた。
「……なあ」
「何だい?」
「イーノって、何したんだ?」
「どうして?」
「あいつ、すげえ怯えてたから」
男はしばらく考えていた。
「……詳しい事情は、こちらも分からないんだ」
「……そうかよ」
「ただ、君の情報は役に立ったよ」
それ以上は答えるつもりがないらしい。
俺も聞くのをやめた。
「……で、報酬は?」
「ああ、もちろん」
男は引き出しを開けた。
百眼の硬貨を八枚、机へ並べる。
「八百眼だ」
「…………」
俺は一枚ずつ数えた。
間違いない。
全部で八枚。
八百眼だ。
「……どうも」
硬貨を懐へしまった。
重い。
こんなにまとまった金を、一度にもらったことはほとんどなかった。
「また何かあれば頼みたいんだが、どうかな?」
「……仕事内容を聞いてから決める」
「もちろん。それで構わないよ」
俺は頭を下げた。
扉へ向かおうとすると、男が呼び止めた。
「レン」
「……何だよ」
「君は、人の顔だけでなく、建物の細かい特徴まで覚えているんだね」
「……まあ」
「そういう情報を欲しがる人間は、他にもいるんだよ」
「……例えば?」
「誰がどこへ出入りしているか。荷物がいつ運ばれるか。そういったことを知りたがる人間だね」
「……ふーん」
「君には、そういう仕事の才能があるかもしれない」
「…………」
才能。
俺はその言葉を、頭の中で繰り返した。
……俺にも?
男は小さく笑った。
「もっとも、危険もあるけれどね」
「……分かってるよ」
俺は裂けた上着を指差した。
「今日、嫌ってほど分かった」
***
事務所を出た後。
俺は人通りの少ない場所で、懐の硬貨を確かめた。
八百眼。
間違いなく、八百眼だ。
「……へへっ」
思わず笑みがこぼれた。
……すげえ。
重い荷物を運んだわけじゃない。
誰かと戦ったわけでもない。
ただ、人を見つけて、見たものを報告しただけ。
それで八百眼。
……俺にも、できる仕事があったんだな。
兄貴は十五歳で、もうフィクサーの見習いだ。
姉ちゃんだって十六歳で、事務所の会計をしている。
二人とも、自分の仕事を持っている。
それに比べて、俺は使い走りばかりだった。
……まあ、今も大して変わらねえけど。
でも、俺にも金になるものがあった。
そう思うと、少し嬉しかった。
「……いてっ」
歩き始めると、膝が痛んだ。
裂けた上着も目に入る。
……まあ、楽な仕事じゃなかったけどな。
しかも、黒い上着の男には顔を覚えられたかもしれない。
しばらく、あの辺りは避けた方がいいだろう。
……八百眼でも、安い気がしてきたな。
俺は苦笑いした。
それでも、硬貨を手放すつもりはなかった。
***
帰り道、俺は古道具屋の前で足を止めた。
店先には使い古された武器が並んでいた。
剣。
斧。
短剣。
その中に、小さな短剣が一本あった。
刃は少し欠け、柄も擦り切れている。
「…………」
俺はそれを見つめた。
黒い上着の男に追いかけられた時のことを思い出す。
もし、逃げ道を塞がれていたら。
俺は何もできなかった。
「おい、ガキ」
店主が声をかけてきた。
「買うのか?」
「……これ、いくら?」
俺は短剣を指差した。
「二百眼だ」
「……二百!?」
「中古だから安い方だぞ」
「……高えよ」
「なら買うな」
店主は面倒くさそうに答えた。
俺は短剣を見つめた。
二百眼。
せっかく八百眼も稼いだのに、その四分の一がなくなる。
……もったいねえ。
でも、また追いかけられたら?
今度は逃げ道がなかったら?
「…………」
俺はしばらく考えた。
けど、結局首を振った。
「……今日はやめとく」
「なら、どけ。商売の邪魔だ」
「……はいはい」
俺は店を離れた。
今はまだ、金を使いたくなかった。
まずは新しい寝床を見つける。
武器は、その後でもいい。
……たぶん。
***
それから数日。
俺は使い走りの仕事を続けながら、新しい寝床を探した。
最初に見つけたのは、使われていないフィクサー事務所だった。
二階建ての建物で、古い机や棚も残っている。
屋根も丈夫そうだった。
……いいんじゃねえか?
そう思ったが、階段の下に赤い印が描かれていた。
近くの男に聞くと、以前そこで組織同士の揉め事があったらしい。
今でも関係者が出入りすることがあるという。
「……駄目だな」
俺はすぐに諦めた。
知らない組織の連中と鉢合わせするなんて、冗談じゃない。
次に見つけたのは、市場から少し離れた場所にある古い倉庫だった。
屋根は古いが、大きな穴はない。
壁にも亀裂はあるが、今の倉庫ほど酷くなかった。
奥には、棚と壁に挟まれた狭い場所がある。
木箱を置けば、寝床を隠すこともできそうだった。
……悪くねえな。
俺は何日か様子を見た。
昼間、人の出入りはない。
近所の店主も、しばらく使われていないと言っていた。
ただし、夜も安全とは限らない。
浮浪者が使っているかもしれないし、持ち主が戻ってくる可能性もある。
……でも。
今の倉庫で天井が落ちてくるのを待つよりはましだ。
「……ここにするか」
俺はそう決めた。
引っ越しは簡単だった。
何しろ、持ち物が少ない。
寝床用の布。
水を入れる容器。
拾ってきた小さな道具。
それから、練習用の木の棒。
全部を何度かに分けて運んだ。
新しい倉庫の奥へ布を敷き、木の棒を壁際に置く。
水の容器も、手の届く場所へ。
最後に木箱を動かし、外から寝床が見えないようにした。
「……よし」
俺は腰を下ろした。
……おお。
悪くねえ。
床は乾いている。
風も、前より入りにくい。
それに、天井から嫌な音もしない。
「……へへっ」
少し笑った。
……いい場所、見つけたな。
もちろん、ここだって俺のものじゃない。
いつ追い出されるか分からない。
……だからこそ。
俺は懐の硬貨を取り出した。
***
八百眼の報酬。
もちろん、全部残っているわけじゃない。
飯代や水代。
怪我の手当て。
それから、仕事が見つからなかった日に使った金。
……結構減ったな。
それでも、今までよりは多く持っている。
俺は硬貨を床へ並べた。
……全部ここに置いとくのは、危ねえよな。
前の倉庫だって、浮浪者に寝床を奪われかけた。
今度も同じことが起きるかもしれない。
だったら、金は分けた方がいい。
俺は硬貨を三つのまとまりに分けようとした。
明日の飯代。
しばらく使わない金。
何かあった時のために取っておく金。
「……ええと」
百眼が何枚で。
五十眼が……。
「…………」
途中で手が止まった。
……あれ?
今、何枚数えたっけ?
「……くそ」
俺は頭を掻いた。
……姉ちゃんなら、こんなの一瞬なんだろうな。
昔、姉ちゃんに計算を教わった時のことを思い出した。
『レン、百眼が三枚あったら?』
『三百眼』
『じゃあ、そこに五十眼が二枚増えたら?』
『……ええと』
『もう、ちゃんと考えなさいよ』
……あの時、もう少し真面目に聞いておけばよかったな。
俺は硬貨を種類ごとに並べ直した。
何度か数え直し、ようやく分け終える。
「……よし」
翌日までに、金を別々の場所へ隠すことにした。
一つは新しい倉庫から離れた場所。
もう一つは、さらに別の通り。
どちらも、使い走りで何度も通った場所だった。
ただし、隠すところを誰かに見られたら意味がない。
一つ目の場所へ向かう途中、通りの角で煙草を吸っている男を見かけた。
別に俺を見ているわけじゃなかった。
それでも、その日は引き返した。
……見られたら、面倒だからな。
結局、金をすべて分けて隠すのに、二日かかった。
手元には、当面の飯代だけを残した。
木の棒や布は、新しい倉庫に置いたままだ。
もし誰かが入り込んできても、こいつらは捨てて逃げればいい。
……金だって、本当に危なかったら諦めるけどな。
生きてさえいれば、また稼げる。
俺はそう考えた。
***
翌日。
俺は市場の近くで仕事を探していた。
その時だった。
「……あの運び屋、見つかったらしいぞ」
近くの屋台で、男たちが話していた。
俺は足を止めた。
「運び屋?」
「ああ。灰色の服着た奴だよ」
……ん?
「最近、南の市場でこそこそ隠れてた奴だろ?」
「そうそう。昨日の夜、どっかの連中が連れていったらしい」
「へえ。何やらかしたんだ?」
「知らねえよ。借金でもあったんじゃねえか?」
「……生きてんのか?」
「さあな。連れていかれたところを見た奴がいるだけだ」
男たちは、それ以上興味もなさそうに話題を変えた。
俺はその場を離れた。
「…………」
……イーノ。
あいつ、捕まったのか?
俺が居場所を教えたから?
いや。
分かんねえ。
同じ奴なのかも確かじゃない。
それに、あいつが何か悪いことをしたのかもしれない。
俺は居場所を教えただけだ。
捕まえたわけじゃない。
……そうだろ。
俺は懐へ手を入れた。
硬貨が指に触れた。
あの仕事で稼いだ金だ。
しばらく歩いていると、パン屋が見えてきた。
「……一番安いの、一つ」
「はいよ」
パンを買い、人通りの少ない壁際へ移動する。
俺はそこに座り、パンをちぎった。
一口食べる。
……いつもの味だ。
硬くて、少し酸っぱい。
けど、腹は膨れる。
その時だった。
「…………」
イーノの顔が浮かんだ。
食堂の壁際で、周囲を気にしながらパンを食べていた男。
店主が怒鳴っただけで肩を跳ねさせていた。
そして、残ったパンを建物の中にいた誰かへ見せていた。
……あいつ、何で全部食わなかったんだ?
誰かと分けるつもりだったのか?
……あの建物にいた奴は、どうなったんだろうな。
俺は手元のパンを見つめた。
もし、本当にイーノが捕まったのなら。
あいつは今も、飯を食えているんだろうか。
「……くそっ」
小さく舌打ちした。
……何で、こんなことまで覚えてんだよ。
忘れちまえばいいのに。
俺は残ったパンを口へ運んだ。
最後まで食べた。
別に、俺が悪いって決まったわけじゃない。
イーノが何をしたのかも知らない。
それに、仮に捕まったのが本当でも、俺にはどうにもできない。
あの黒い上着の男にだって勝てなかったんだ。
助けに行くなんて、無理に決まっている。
……仕方ねえだろ。
俺だって、生きていかなきゃならない。
そう自分に言い聞かせ、立ち上がった。
仕事を探さなければならない。
けど、歩き始めてもイーノの顔は頭から離れなかった。
***
夕方。
新しい倉庫へ戻った俺は、入口の様子を確かめた。
誰かが入った形跡はない。
……よし。
奥の寝床へ向かい、木の棒を手に取った。
「……ふっ!」
一歩踏み込む。
突く。
戻す。
もう一度。
「……ふっ!」
……違うな。
俺は棒を下ろした。
思い出すのは、赤い服の少女だった。
長い銃剣を構え、男たちの攻撃を受け流していた。
……ヴィオラ。
「……あの女、すげえよな」
怖かった。
それは今でも変わらない。
男の顎を砕いた音も覚えている。
腕を折られた男の悲鳴も。
……正直、もう見たくねえ。
けど、戦い方はかっこよかった。
それだけは間違いない。
俺はもう一度棒を構えたが、すぐに下ろした。
腕が疲れていた。
無理して怪我をしたら、明日の仕事に響く。
……今日はここまでか。
俺は木の棒を壁際へ立てかけた。
***
夜。
俺は布を被り、寝床へ横になった。
外からは、時折誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。
掃除屋が現れる時間になれば、そんな声さえ消えるだろう。
午前三時十三分から、四時三十四分まで。
その間は、絶対に外へ出ない。
それが裏路地で生き残るための決まりだった。
俺は天井を見上げた。
新しい倉庫の屋根は、今夜も静かだった。
金は別々の場所に隠してある。
明日の飯代も残っている。
木の棒も、布も、水の容器もある。
……前より、少しはましになった。
そう思った。
けど、目を閉じると、またあの男の顔が浮かんだ。
欠けた左耳。
震えていた手。
半分だけ食べたパン。
そして、最後に入った建物。
「……知るかよ」
俺は小さく吐き捨てた。
俺は居場所を教えただけだ。
捕まえたわけじゃない。
そもそも、あいつが何をしたのかも知らない。
……だから、俺は悪くねえ。
そう考えても、男の顔は消えなかった。
「……くそ」
俺は布を握りしめた。
せっかく八百眼も稼いだってのに。
どうして、こんな嫌な気分にならなきゃなんねえんだよ。
今まで、俺には何も取り柄がないと思っていた。
兄貴みたいに危険を察知できない。
姉ちゃんみたいに計算もできない。
喧嘩だって弱い。
けど、今日は違った。
見たものを覚えることが、金になると分かった。
……嬉しかったんだけどな。
俺は小さく息を吐いた。
もし、また同じような依頼を受けたら。
今度はどうするんだろう。
断るか?
それとも、金のために引き受けるのか?
「…………」
答えは出なかった。
……その時にならなきゃ、分かんねえよ。
俺は目を閉じた。
明日も仕事を探す。
飯代も必要だ。
貯金だって、まだ十分じゃない。
それに、あの古道具屋の短剣も気になっている。
二百眼。
今の俺には大金だ。
けど、何度も危ない目に遭っている以上、いつまでも木の棒だけでは不安だった。
……まあ、それは明日考えよう。
俺は寝返りを打った。
すると、またイーノの顔が浮かんだ。
「……ああ、もう」
忘れちまえばいいのに。
あいつの顔も。
震えていた手も。
食べ残したパンも。
……全部。
けど、たぶん無理だ。
俺は、一度見たものをなかなか忘れない。
道も。
人の顔も。
何気ない仕草も。
それが金になると、今日分かった。
でも、金になったからといって、思い出したくないものまで消えてくれるわけじゃない。
「……面倒くせえ才能だな」
俺は小さく呟いた。
それでも。
あの八百眼を返すつもりなんて、なかった。