カラン。
俺は掌に載せた硬貨を見下ろした。
百眼が二枚。
合わせて二百眼。
「…………」
……高え。
新しい倉庫に引っ越してから、数日が経った。
以前の倉庫と違って雨漏りはしないし、寝ている間に天井が崩れてくることもない。
少なくとも、今のところは。
仕事も何とか見つかっていた。
ただ、以前より少し面倒になったことがある。
南の市場の一部へ近づけなくなったのだ。
イーノを尾行した時、黒い上着の男に顔を見られてしまった。
あいつが今も俺を探しているのかは分からない。
けど、もう一度見つかったら、今度も逃げ切れるとは限らない。
だから、あの辺りの仕事は避けるようにしていた。
……おかげで、仕事探しが面倒になっちまった。
俺は硬貨を握りしめた。
以前、古道具屋で見つけた短剣。
刃は少し欠けていて、柄も擦り切れている。
お世辞にも立派な武器とは言えなかった。
けど、今まで使っていた木の棒とは違う。
本物の刃がついている。
……買うべきなのかな。
俺はもう一度硬貨を見た。
これだけあれば、しばらく飯を食える。
仕事が見つからなかった時のためにも、貯金は残しておきたい。
それに、せっかく隠しておいた金だ。
必要もないのに使うのは嫌だった。
……やっぱり、やめとくか?
俺は硬貨を布で包み直そうとした。
その時、黒い上着の男の顔が浮かんだ。
伸ばされた手。
追いかけてくる足音。
濡れた石畳で転んだ時の痛み。
「…………」
もし、あの時。
逃げ道を見つけられなかったら。
俺はどうなっていたんだろう。
捕まっていたのは間違いない。
その後、何をされたかなんて考えたくもなかった。
……短剣があったら、違ったのかな。
いや。
たぶん、あの男には勝てない。
相手は大人だ。
俺より背も高いし、力も強い。
短剣一本で勝てるとは思えなかった。
けど、何も持っていないよりはましかもしれない。
相手が近づくのを躊躇するかもしれないし、その隙に逃げられるかもしれない。
……逆に、怒らせるかもしれねえけど。
「……はぁ」
俺はため息をついた。
金は使いたくない。
けど、死にたくもない。
できれば両方どうにかしたい。
……そんな都合のいい話、ねえよな。
俺は布に包んだ硬貨を懐へしまった。
「……行くか」
もう何日も悩んだ。
これ以上考えても、答えは変わらない気がした。
それに、店に行ってみて短剣が売れていたら、その時は諦めればいい。
……いや。
売れてたら、ちょっと残念かもな。
俺は苦笑いした。
***
古道具屋は、以前と変わらない場所にあった。
狭い店先には、使い古された武器や工具が雑に並べられている。
刃の欠けた剣。
錆びた斧。
古い銃の部品。
何に使うのか分からない金属の塊。
その中に、目当ての短剣があった。
「……あった」
俺は小さく呟いた。
以前と同じ場所に置かれている。
どうやら、まだ誰にも買われていなかったらしい。
「おい、ガキ」
店主が声をかけてきた。
無精髭の生えた中年の男だ。
「またお前か」
「……覚えてたのか?」
「短剣を高い高いって騒いでたガキだろ」
「……騒いでねえよ」
「で、今日は何だ?」
俺は短剣を指差した。
「……これ、まだ二百眼?」
「ああ」
「……少しくらい安くなってねえの?」
「なってねえよ」
……ちぇっ。
「……百五十じゃ駄目?」
「駄目だ」
「……百八十」
「しつこいぞ」
「…………」
……くそ。
全然譲る気ねえな、このおっさん。
俺は短剣を見つめた。
柄は黒ずんでいて、握る部分の一部が擦り切れている。
刃にも小さな欠けがある。
鞘だって古びていた。
「……これ、ちゃんと使えるんだよな?」
「飾りじゃねえよ」
「刃、欠けてるけど」
「だから中古なんだろうが」
「……折れたりしねえ?」
「変な使い方すりゃ何だって壊れる」
……そりゃそうだけどさ。
俺は少し迷ってから尋ねた。
「……持ってみていい?」
「刃は抜くなよ」
「分かってるって」
店主は短剣を取り上げ、鞘に収めたまま俺へ差し出した。
俺は両手で受け取った。
「……おお」
思っていたより重かった。
木の棒とは違う。
短いのに、ずっしりとした感触がある。
俺は柄を握ってみた。
少し太い。
でも、持てないほどじゃない。
「どうだ?」
店主が聞いてきた。
「……悪くねえ」
「なら買え」
「…………」
俺は短剣を見つめた。
これがあったところで、すぐに強くなれるわけじゃない。
まともな使い方だって知らない。
それでも。
何もできずに捕まるのは、もう嫌だった。
「……分かった」
俺は懐から硬貨を取り出した。
「……買う」
店主は代金を受け取り、硬貨を確かめた。
「毎度あり」
俺の手元には、古びた短剣が残った。
「…………」
……買っちまった。
本当に。
俺は短剣を見下ろした。
さっきまで店の商品だったものが、今は俺の持ち物になっている。
「……へへっ」
何となく笑みがこぼれた。
初めて自分の金で買った武器だ。
誰かから借りたものでも、拾った棒切れでもない。
俺だけの短剣。
「おい、ガキ」
「……何?」
「抜くなら人のいねえところにしろよ」
「……分かってるって」
「あと、店の前で振り回すな」
「振り回さねえよ!」
……俺を何だと思ってんだ。
店主は鼻を鳴らして、店の奥へ戻っていった。
俺も短剣を懐へしまい、店を離れた。
歩くたび、上着の内側で鞘が身体に触れる。
まだ少し慣れない。
でも、悪い気はしなかった。
……俺も、武器を持てるようになったんだな。
そう思うと、自然と足取りが軽くなった。
***
翌日。
俺はいつものように仕事を探していた。
ただし、今日は懐に短剣が入っている。
鞘に収め、上着の内側へしまっていた。
歩くと、時々その重さが気になる。
……落とさねえよな、これ。
俺は懐を確かめた。
短剣は、ちゃんとそこにあった。
……よし。
何となく安心する。
今までは、危ない相手に出くわしたら逃げるしかなかった。
今も逃げるつもりではあるが、少なくとも何かあった時に抵抗できるかもしれない。
……まあ、使えるかどうかは別だけどな。
俺は市場から離れた商店通りへ向かった。
今日は、ここで荷運びの仕事を探すつもりだった。
南の市場に比べると仕事は少ない。
けど、黒い上着の男に見つかるよりはましだ。
「おっさん、仕事ねえ?」
以前一度だけ荷物を運んだことのある店へ声をかけた。
店主は俺を見ると、奥を指差した。
「ちょうどいい。そこの箱を裏の倉庫まで運んでくれ」
「……いくら?」
「五十眼だ」
「……もう少し」
「四十にするぞ」
「……五十でいい」
……くそ。
相変わらず、値切るのは難しいな。
俺は木箱を抱えた。
「……よいしょ」
思っていたより重い。
両腕で抱え、少しずつ歩く。
その時だった。
コツン。
「……ん?」
懐の辺りで、何かが箱に当たった。
……あ。
短剣だ。
鞘の端が木箱にぶつかったらしい。
俺は少し持ち方を変えた。
けど、今度は短剣の柄が脇腹に押しつけられた。
「……っ」
痛い。
刃が当たったわけじゃない。
でも、硬いものが身体に食い込む感覚があった。
……邪魔だな、これ。
俺は顔をしかめた。
何とか裏の倉庫まで運び、箱を床へ下ろした。
「……ふう」
その時、店主が声をかけてきた。
「おい、ガキ」
「……何?」
「お前、何か持ってるな?」
「……え?」
店主の視線は俺の懐へ向いていた。
上着が少し膨らんでいる。
「……刃物か?」
「…………」
……ばれた。
「……護身用だけど」
俺は答えた。
店主の眉が寄った。
「お前、そんなもん持って何してる?」
「……だから、護身用だって」
「うちの店で妙なことするなよ」
「しねえよ!」
「ならいいが、問題を起こしたら二度と仕事はやらねえからな」
「……分かったって」
店主はまだ不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
俺は報酬を受け取り、店を出た。
「……はぁ」
……何だよ。
別に、誰かを刺そうってわけじゃねえのに。
俺は懐の短剣を確かめた。
持っているだけで少し邪魔だ。
荷物を運ぶ時は特に。
それに、見つかれば相手に警戒される。
……武器を持つのも、面倒なんだな。
そんなことを考えながら歩いていると、通りの向こうから大柄な男がやってきた。
肩幅が広い。
片腕は金属製の義体。
腰には大きな刃物を下げている。
男は何気なく、こちらへ視線を向けた。
「…………」
俺は反射的に道の端へ寄った。
男は俺に興味を示すこともなく、そのまま通り過ぎていった。
……ふう。
俺は小さく息を吐いた。
そして、懐の短剣へ触れた。
……これ持ってても、あんな奴には勝てねえよな。
短剣を抜く前に殴られるかもしれない。
腕を掴まれたら、それで終わりだ。
まして、あの義体で殴られたら。
……考えたくもねえ。
俺は歩き始めた。
少しだけ、がっかりした。
武器を買えば、もう少し安心できると思っていた。
でも、実際にはそうでもないらしい。
……まあ、当たり前か。
昨日まで弱かった俺が、短剣一本で強くなるわけじゃない。
それでも、買ったことを後悔はしていなかった。
今は使えなくても、少しずつ練習すればいい。
……そのくらいは、できるだろ。
***
その日の夕方。
俺は新しい倉庫へ戻った。
入口の様子を確かめる。
誰かが入った形跡はない。
……よし。
奥へ進み、持っていた荷物を下ろした。
寝床用の布。
水の容器。
拾ってきた小さな道具。
練習用の木の棒。
相変わらず、持ち物は少ない。
けど、今日から一つ増えた。
「……へへっ」
俺は懐から短剣を取り出した。
鞘に収まった小さな武器。
古道具屋では、あまりゆっくり見られなかった。
仕事中も、当然抜けなかった。
だから、今日は少し確かめてみることにした。
……まずは、これだな。
俺は短剣を鞘から抜いた。
シャッ。
「……おお」
鈍い光を帯びた刃が現れた。
綺麗な武器ではなかった。
細かな傷があり、刃先も少し欠けている。
それでも、木の棒とは違う。
ちゃんと金属の刃がついていた。
俺はしばらく眺めた。
「……何か、いいな」
思わず呟いた。
別に、立派な武器じゃない。
けど、初めて自分で買ったものだ。
……結構、かっこよくねえか?
俺は少し笑った。
それから立ち上がる。
周りを見回した。
近くに人はいない。
木箱からも離れた。
……これなら、大丈夫だろ。
俺は短剣を握り直した。
……さて。
どうやって使うんだ、これ。
「…………」
買ったはいいが、まともな使い方なんて知らない。
木の棒なら、これまで何度も振ってきた。
でも、短剣は初めてだった。
……まあ。
とりあえず、やってみるか。
「……ふっ!」
短剣を振った。
空を切る。
「…………」
……あれ?
もう一度。
「……ふっ!」
何か違う。
木の棒より短い。
振った時の感覚も、思っていたものとは違った。
俺は刃を見つめた。
……こんな短い武器で、どうやって戦うんだ?
相手が剣を持っていたら、近づく前に斬られそうだ。
それに、腕を伸ばしても、思ったほど遠くまで届かない。
「……うーん」
俺は首を傾げた。
……そういや。
ヴィオラは、もっと長い武器を使っていたよな。
あの時の光景を思い出す。
赤い服。
長い銃剣。
男たちの攻撃を受け流し、その隙に踏み込んでいた姿。
……確か、こう。
俺は短剣を持ち直した。
身体を少し横へ向ける。
一歩踏み出す。
腕を動かした。
その瞬間。
カツンッ!
「……え?」
何かに当たった。
続いて、ガタンと音が響く。
見ると、壁際に立てかけていた木の棒が倒れていた。
「……あっ!」
俺は慌てて短剣を確認した。
「お、おいおい……!」
買ったばかりなのに、もう刃を傷つけちまったのか?
俺は刃を傾け、欠けた部分を確かめた。
元からあった傷。
細かな欠け。
……ええと。
今ので増えたのか?
前からあったのか?
「…………」
……分かんねえ。
いや。
少なくとも、大きな欠けは増えていないように見える。
俺は何度か確かめた。
「……はぁぁ」
よかった。
本当に、よかった。
危うく、初日の練習で短剣を駄目にするところだった。
……やっぱり、ちゃんと使い方を覚えねえとな。
俺は短剣を安全な場所へ置き、倒れた木の棒を拾った。
表面には、小さな傷がついていた。
短剣が当たった場所だろう。
「……危ねえな」
俺は棒を見つめた。
それから、短剣へ目を向ける。
「…………」
……ん?
ふと、あることを思いついた。
そういえば。
あの女が使っていた武器。
長い銃の先に、刃がついていたよな。
俺は木の棒を持ち上げた。
それから、床に置いた短剣を見る。
「…………」
……これの先に、短剣をつけたら?
俺は首を傾げた。
木の棒。
短剣。
長いものの先に、刃をつける。
「……あれ?」
何となく、似たものが作れるんじゃないか?
俺は短剣を鞘に収め、木の棒と並べてみた。
「……おお」
……何か、それっぽくねえか?
俺は少し笑った。
「……へへっ」
いいことを思いついたかもしれない。
けど。
「…………」
俺は短剣を見た。
さっき、木の棒に当てただけで壊れたかと思った武器だ。
それを、わざわざ棒に取り付ける?
……いや、待て。
変なことして壊れたらどうすんだよ。
せっかく買ったのに。
俺は少し迷った。
でも。
ヴィオラが使っていた銃剣を思い出す。
あの長い武器を、軽々と扱っていた姿。
それに。
もし似たものが作れたら、木の棒だけで練習するより楽しいかもしれない。
「…………」
……ちょっと試すだけなら。
「……少しくらい、いいよな?」
誰に言うでもなく呟いた。
***
しばらくして。
「……おお」
俺は完成したものを見つめた。
木の棒の先に、短剣がついている。
倉庫に残っていた古い紐を使い、どうにか取り付けてみたのだ。
もちろん、本物の銃剣とは全然違う。
あの女が使っていたのは、長い銃の先に刃がついた立派な武器だった。
こっちは、ただの木の棒。
しかも、先についているのは中古の短剣だ。
……でも。
「……へへっ」
結構、かっこよくねえか?
俺は少し離れて眺めた。
棒の先に刃がついている。
少なくとも、さっきまでの棒切れよりは武器らしく見えた。
「……悪くねえな」
俺は少し得意げになった。
……あの女が見たら、どう思うんだろうな。
もしかしたら、少しくらい褒めてくれるかもしれない。
……いや。
無理か。
あの女、結構厳しかったし。
俺は思い出して、少し顔をしかめた。
でも。
自分で作ってみると、なかなか嬉しいものだった。
俺は完成した銃剣もどきを眺めながら、あの日のヴィオラを思い出した。
相手の剣を受け流し、滑るように踏み込む姿。
……あれ、本当にかっこよかったよな。
少しだけ、胸が弾んだ。
「……よし」
俺は慎重に持ち上げた。
その瞬間。
ぐらり。
「……ん?」
先端が傾いた。
「…………」
俺は持ち直した。
すると、今度は短剣の付け根が少しずれた。
……あれ?
何だ、これ。
ちゃんと取り付けたつもりだったんだけど。
もう一度、ゆっくり傾けてみる。
ぐらり。
「…………」
……おい。
これ、外れたりしねえよな?
俺は慌てて床へ下ろした。
先端が重い。
少し動かすだけで、短剣がぐらつく。
これを振ったら、どこへ飛んでいくか分からない。
……危ねえな。
俺は少し考えた。
もう少し工夫すれば、何とかなるかもしれない。
けど、そんなことをして短剣を壊すのは嫌だった。
それに、自分が怪我をする可能性もある。
……それじゃ意味ねえだろ。
「……駄目だな、これ」
俺は諦めた。
短剣を取り外し、刃を確かめてから鞘へ戻す。
……よし。
大丈夫そうだ。
それだけで、少し安心した。
俺は木の棒を拾った。
「……はぁ」
結構いい考えだと思ったんだけどな。
見た目は、そこそこよかった。
……たぶん。
けど、実際に使えるかどうかは別だった。
俺は少し残念になった。
……まあ、仕方ねえか。
俺は木の棒を構えた。
一歩踏み込む。
「……ふっ!」
突く。
戻す。
……違う。
もう一度。
「……ふっ!」
やっぱり、何かが違う。
あの女はもっと自然に動いていた。
俺みたいに、無理やり腕を伸ばしていなかった。
……いや。
簡単そうに見えただけか。
本当は、何年も練習しているのかもしれない。
そりゃ、そうだよな。
俺が数日真似したところで、同じように動けるはずがない。
「……どうやってんだろうな」
俺は棒を見つめた。
今度は少しゆっくりと構え直した。
突いて、戻す。
足を動かす。
……うん。
やっぱり難しい。
でも、悪くない。
今はこれでいいだろう。
いつか、もう少しましに動けるようになればいい。
……まあ、無理して怪我するのは嫌だけどな。
俺は棒を下ろした。
腕が少し疲れていた。
今日は、ここまでにしよう。
明日も仕事があるかもしれない。
練習で腕を痛めて、荷物を運べなくなったら困る。
俺は木の棒を壁際へ立てかけた。
そして、短剣をもう一度手に取った。
古びた鞘。
擦り切れた柄。
小さな武器。
「…………」
……何か、嬉しいな。
俺は少し笑った。
強くなったわけじゃない。
誰かに勝てるようになったわけでもない。
それでも、自分の武器が一つ増えた。
今は、それだけで十分だった。
***
それから二日後。
俺は商店通りで、使い走りの仕事を引き受けていた。
内容は簡単だった。
店で預かった小さな包みを、指定された場所へ届ける。
危ない荷物ではないか、最初に確認した。
店主は面倒くさそうにしていたが、普通の機械部品だと説明してくれた。
……まあ、絶対じゃねえけど。
少なくとも、前みたいに高すぎる報酬を提示されたわけじゃない。
報酬は六十眼。
使い走りとしては悪くない。
俺は包みを届け、受け取りの確認を済ませてから帰り道についた。
「……ふう」
仕事も終わった。
今日はもう、危ないことをしなくていい。
そう思っていた。
その時だった。
通りの向こうに、赤い服が見えた。
「…………」
……ん?
俺は足を止めた。
黒と赤を基調とした服装。
銃剣のついた長い銃。
周囲の人間が、少し距離を空けて歩いている。
……親指か。
俺は視線を逸らした。
別に、親指の人間に近づく理由なんてない。
あいつらは、俺みたいな裏路地のガキが気軽に話しかけていい相手じゃない。
それに、機嫌を損ねれば何をされるか分からない。
……関わらねえ方がいいな。
俺は通りの端へ寄った。
その時だった。
ふと、見覚えのある横顔が目に入った。
赤い服。
長い銃剣。
それから、少し高い位置にある顔。
「……え?」
俺は思わず見直した。
親指の構成員は三人。
そのうちの一人。
他の二人よりも若い少女。
見間違えるはずがなかった。
……ヴィオラ?
「…………」
俺は足を止めた。
あの女だ。
間違いない。
以前、俺を助けた少女。
男たちをあっという間に倒し、礼儀を教え込んでいた、あの女。
……うわ。
本当にいた。
何でこんなところにいるんだ?
親指の仕事か?
……いや。
そんなこと、俺には関係ねえだろ。
俺はすぐに視線を逸らした。
見つからないうちに通り過ぎよう。
あの女には助けてもらった恩がある。
それに、正直言って、戦い方はかっこよかった。
けど。
だからといって、わざわざ近づきたいとは思わない。
男の腕や顎を砕いた時のことは、今でも覚えている。
礼儀を間違えたら、俺だって同じ目に遭うかもしれない。
……よし。
このまま通り過ぎよう。
俺は何でもないふりをして歩き始めた。
その時だった。
「……レン?」
聞き覚えのある声がした。
「…………」
……え?
俺は足を止めた。
ゆっくり振り返る。
赤い服。
長い銃剣。
そして、見覚えのある顔。
少女がこちらを見ていた。
「……げっ」
思わず声が漏れた。
少女の眉が、わずかに動いた。
「……今、何と言いました?」
「……あ」
……まずい。
俺は慌てて背筋を伸ばした。
親指の礼儀。
目上の人間には敬意を払う。
勝手に話を遮らない。
質問されたら、すぐに答える。
……覚えてる。
ちゃんと覚えてるぞ。
「お、お久しぶりです。ヴィオラさん」
俺は頭を下げた。
「……ふむ」
少女は俺を上から下まで眺めた。
以前と変わらず、赤と黒の服を着ている。
長い銃剣を持つ姿も、記憶にあるものと同じだった。
「……以前よりは、身なりがましになりましたね」
「……ありがとうございます」
……いや。
別に褒められるほど変わってねえけど。
俺はそう思った。
もちろん、口には出さなかった。
ヴィオラの隣にいた二人の構成員が、こちらを見た。
一人は少し不思議そうな顔をしている。
もう一人は、俺を見て小さく鼻を鳴らした。
「……お知り合いですか?」
構成員の一人がヴィオラへ尋ねた。
「以前、少し関わった子供です」
「……そうですか」
男はそれ以上聞かなかった。
……よかった。
何もされないらしい。
俺は少し安心した。
けど、その時。
「……レン」
「は、はい」
「今は何をしているのですか?」
「……仕事の帰りです」
「仕事?」
「はい。使い走りをしていました」
「……そうですか」
ヴィオラは短く答えた。
そして、俺の服へ視線を移した。
上着は相変わらず古い。
以前破れた部分には、自分で当て布をしてある。
縫い目は少し曲がっているが、穴は塞がっている。
……何見てんだろうな。
俺は少し落ち着かなくなった。
「あの……」
「何ですか?」
「……もう、帰ってもよろしいでしょうか?」
俺は頭を下げた。
別に、失礼なことは言っていないはずだ。
仕事も終わったし、早く倉庫へ戻りたい。
それに、腹も減っている。
……何より、怖え。
ヴィオラは少し考えた。
「……構いませんが」
「……はい」
……よし。
俺はもう一度頭を下げた。
「失礼します」
そう言って、踵を返そうとした。
しかし。
「……待ちなさい」
「…………」
……え?
俺は足を止めた。
「……はい?」
ヴィオラの視線は、俺の懐へ向いていた。
……あれ?
何だ?
俺は反射的に上着を押さえた。
そこには、短剣が入っている。
ヴィオラの目がわずかに細くなった。
「……その懐にあるものは、何ですか?」
「…………」
……げっ。
ばれた。
「……ええと」
「質問に答えなさい」
「……た、短剣です」
俺は慌てて答えた。
ヴィオラは少し黙った。
それから、俺の懐をもう一度見た。
「……短剣?」
「……はい」
「あなたが?」
「……はい」
……何だよ。
そんなにおかしいか?
俺だって、武器くらい持つだろ。
……まあ、買ったばっかりだけど。
ヴィオラは少し考えた。
「……そうですか」
そして、淡々と言った。
「では、少し話をしましょう」
「…………」
……何で?
俺、何かしたか?
俺は思わず、隣にいる二人の構成員を見た。
二人とも、こちらへ視線を向けている。
……まずい。
すごく、まずい気がする。
逃げたい。
……すげえ逃げたい。
けど。
目の前の少女から逃げ切れる気は、まったくしなかった。
俺はゆっくり頭を下げた。
「……かしこまりました」
そう答えるしかなかった。
ヴィオラは短く頷いた。
「結構です」
……ああ、くそ。
せっかく今日は、平和に仕事が終わったと思ったのに。
俺は懐の短剣を意識した。
何日も悩んで、ようやく買った武器だ。
昨日、初めて振ってみた。
木の棒に当てて慌てたり、銃剣もどきを作ってみたりもした。
少しだけ、強くなれたような気さえしていた。
けど。
今、目の前にいる少女に対しては。
これっぽっちも、安心できなかった。