憧れは近くて遠い   作:色彩悪夢

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『記憶の値段』

「……六十眼、か」

 

俺は手のひらの硬貨を眺めた。

 

今日の稼ぎは六十眼。

 

荷物を三か所へ届けて、ようやく手に入れた金だ。

 

もっとも、昼飯を食べたせいで、手元に残っているのは四十眼ほどしかない。

 

「……はぁ」

 

もう少し、楽に稼げねえかな。

 

俺は硬貨を懐へしまい、市場の端を歩き始めた。

 

短剣を買ってから、しばらく経った。

 

あれからも木の棒を振って練習しているが、上達したかと聞かれれば、正直よく分からない。

 

まあ、当然だ。

 

棒を振るだけで強くなれるなら、誰だってフィクサーになれるだろう。

 

それに、練習ばかりしているわけにもいかない。

 

飯を食わなきゃ死ぬし、寝床だっていつ追い出されるか分からない。

 

今の倉庫は、まだ誰にも見つかっていないから使えているだけだ。

 

……せめて、もう少し金があればな。

 

そう考えた時、ふとヴィオラの言葉が頭に浮かんだ。

 

『あなたの記憶力は、何かの役に立つかもしれませんね』

 

「…………」

 

……記憶力、か。

 

俺は足を止めた。

 

そういえば、以前の人探しの仕事でも、俺は覚えていたことを話して金をもらった。

 

男の顔。

 

服装。

 

通った道。

 

入っていった建物。

 

あの眼鏡の男は、それを聞いて報酬を払ってくれた。

 

……待てよ。

 

あの時は、向こうから仕事を頼まれた。

 

でも、別に依頼されるのを待つ必要はねえんじゃないか?

 

俺が見たものを欲しがる奴に、自分から売ればいい。

 

誰かの居場所でも、通った道でも。

 

覚えたことが金になるなら、荷物を運ぶより楽かもしれない。

 

「……そうだよな」

 

俺は小さく呟いた。

 

何で今まで思いつかなかったんだろう。

 

……いや、待て。

 

一つ問題がある。

 

「……誰に売るんだ?」

 

情報を買ってくれる人間。

 

そんな奴を、俺はほとんど知らなかった。

 

***

 

それから二日ほど、俺は仕事の合間に情報を買う人間について聞いて回った。

 

とはいっても、誰彼構わず尋ねたわけじゃない。

 

顔見知りの荷運び屋や、何度か仕事をもらった露店商に、それとなく話を聞いただけだ。

 

「……人探しの仕事って、どこで頼めるんですかね?」

 

「人探し?」

 

荷車に木箱を積んでいた男が、俺を見た。

 

「誰か探してんのか?」

 

「……まあ、そんなところです」

 

「フィクサー事務所にでも行けよ」

 

「……やっぱり、そうですよね」

 

「金がありゃな」

 

男は笑った。

 

……その金がねえから困ってんだよ。

 

別の男にも聞いてみた。

 

そいつは面倒くさそうに頭を掻いた後、思い出したように言った。

 

「そういや、北の方に仲介屋がいたな」

 

「……仲介屋?」

 

「仕事を紹介したり、人の情報を集めたりする奴だよ。バロって名前だったか」

 

「バロ……」

 

「紙屋の二階にいるって聞いたぞ。まあ、ろくな奴じゃねえらしいが」

 

「……そうなんですか?」

 

「知らねえよ。俺は会ったこともねえ」

 

男は木箱を俺へ押しつけた。

 

「ほら、仕事中だろ。さっさと運べ」

 

「……はい!」

 

俺は慌てて木箱を抱えた。

 

……バロ、か。

 

情報を扱っているなら、俺の記憶力にも興味を持つかもしれない。

 

仕事を終えたら、一度見に行ってみよう。

 

***

 

教えられた紙屋は、市場から少し離れた裏路地にあった。

 

看板は古く、店先には紙束や筆記具が並んでいる。

 

二階には小さな窓が三つ。

 

そのうち、一番右の窓だけが開いていた。

 

……ここか。

 

俺は向かいの建物の陰から店を眺めた。

 

いきなり中へ入るつもりはなかった。

 

どんな人間か分からないし、俺みたいなガキが訪ねても追い返されるかもしれない。

 

……そうだ。

 

俺は少し考えた。

 

俺の売りは記憶力だ。

 

だったら、それを証明できるものを持っていけばいい。

 

例えば、バロって男の行動を覚えて、本人に伝えるとか。

 

いつ、どこへ行って、誰と会ったのか。

 

それを正確に言えれば、俺がどれくらい物を覚えられるのか伝わるだろう。

 

……よし。

 

我ながら、いい考えだ。

 

俺は店の様子を見ながら、その男が出てくるのを待った。

 

しばらくして、一人の男が階段を下りてきた。

 

年は四十くらい。

 

薄茶色の上着を着て、髪を後ろへ撫でつけている。

 

右手には革の鞄。

 

男は紙屋の主人と何か話した後、通りへ出た。

 

……あいつか?

 

まだ確信はなかった。

 

けど、店の主人が相手に頭を下げていたのが気になった。

 

俺は距離を空けて男の後を追った。

 

***

 

一日目。

 

男は紙屋を出た後、北側の飯屋に入った。

 

そこで灰色の帽子を被った小太りの男と会い、しばらく話をしていた。

 

俺は向かいの露店で水を買い、客のふりをして待った。

 

小太りの男は左手の薬指に指輪をしていた。

 

灰色の帽子には、後ろ側に小さな破れ目がある。

 

店を出た後、二人は別々の方向へ歩いていった。

 

俺は茶色い上着の男を追ったが、途中で人混みに紛れて見失ってしまった。

 

「……くそ」

 

俺は舌打ちした。

 

……まあ、いいか。

 

今日だけで全部調べる必要はない。

 

それに、無理に追いかけて捕まったら元も子もない。

 

俺はその日の尾行を諦め、倉庫へ戻った。

 

二日目。

 

午前中は荷物運びの仕事があったため、紙屋へ行けたのは昼過ぎだった。

 

男は昨日と違う道を通り、赤い看板の店へ入った。

 

俺は向かいの雑貨屋へ入った。

 

店先の商品を眺めていれば、怪しまれずに見張れると思ったからだ。

 

……よし。

 

ここなら、ちょうど見える。

 

「おい、ガキ」

 

「……え?」

 

振り返ると、店主が俺を睨んでいた。

 

「さっきから何やってんだ?」

 

「……えっと、商品を見てます」

 

「買うのか?」

 

「……いえ、まだ」

 

「だったら出てけ。冷やかしならよそでやれ」

 

「……すみません」

 

俺は慌てて店を出た。

 

……ちぇっ。

 

少しくらい見たっていいじゃねえか。

 

そう思いながら通りへ目を向ける。

 

すると、ちょうど男が店から出てきた。

 

隣には、黒い上着を着た別の男がいた。

 

右手の甲に古い傷がある。

 

二人は少し話をしてから別れた。

 

俺は茶色い上着の男を追おうとした。

 

しかし、男が突然足を止めた。

 

「……っ!」

 

俺も慌てて立ち止まる。

 

男は通りの向こうを眺め、それからゆっくり振り返った。

 

……まずい!

 

俺は近くの露店へ顔を向けた。

 

そこには古い食器が並んでいた。

 

「……これ、いくらですか?」

 

とっさに皿を指差す。

 

「百二十眼だ」

 

「……高っ」

 

「何だと?」

 

「い、いえ! 何でもありません!」

 

俺は慌ててその場を離れた。

 

もう一度通りを見ると、男の姿は消えていた。

 

「…………」

 

……見失った。

 

それに、今のは危なかったな。

 

前に尾行したイーノも、何度か不自然な動きをしていた。

 

あの時は気づかなかったけど、今回はどうだ?

 

……振り返ったのは、俺に気づいたからか?

 

分からない。

 

ただ、確かめるために追いかけるのは危険だと思った。

 

俺はその日の調査を切り上げた。

 

三日目。

 

朝から紙屋の近くへ向かった。

 

男は昼前に出てきたが、すぐに別の路地へ入ってしまった。

 

後を追おうとしたものの、途中で荷車が道を塞いでいたため、見失った。

 

……またかよ。

 

俺は少し腹が立った。

 

ただ歩いているだけの男一人、まともに追いかけられない。

 

……俺って、尾行に向いてねえのかな。

 

そう思いながら紙屋の近くへ戻る。

 

すると、少し離れた場所に昨日の黒い上着の男がいた。

 

例の右手に傷がある男だ。

 

そいつは紙屋の前で立ち止まり、階段を上がっていった。

 

……なるほど。

 

昨日会っていた男が、今日はこっちへ来たのか。

 

俺はそのことも覚えておいた。

 

結局、三日間で分かったのはそれくらいだった。

 

男が訪れた場所。

 

会った人間。

 

服装や持ち物。

 

途中で見失った時間も多い。

 

それに、男を追っていた間は周りの人間まで注意していなかったから、そっちのことはあまり覚えていない。

 

……でも、十分だろ。

 

覚えようと思って見たものなら、間違えずに答えられる自信がある。

 

これだけ言えれば、俺の記憶力も伝わるはずだ。

 

俺はそう考え、翌日、紙屋を訪ねることにした。

 

***

 

「……すみません」

 

紙屋へ入ると、奥にいた店主が顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「……バロさんという方に、お会いしたいんですけど」

 

店主の目が細くなった。

 

「何の用だ?」

 

「……仕事の話です」

 

「お前が?」

 

「……はい」

 

店主はしばらく俺を眺めた。

 

それから、妙に納得したような顔になった。

 

「……ああ、お前か」

 

「……え?」

 

「二階だ。右の部屋に行け」

 

「……ありがとうございます」

 

俺は頭を下げた。

 

……何だ?

 

今の反応。

 

少し気になったが、考えても分からない。

 

階段を上がる。

 

二階には細い廊下があり、左右に扉が並んでいた。

 

俺は右側の部屋の前に立った。

 

「…………」

 

……帰ろうかな。

 

正直、少し怖かった。

 

けど、ここで帰ったら三日間が無駄になる。

 

俺は扉を叩いた。

 

「入れ」

 

中から声がした。

 

「……失礼します」

 

扉を開ける。

 

部屋には机と椅子があり、壁際には書類の束が積まれていた。

 

机の上には、開いた帳簿と何枚もの紙がある。

 

紙には名前や数字、それに見慣れない印が書き込まれていた。

 

奥の椅子には、見覚えのある男が座っている。

 

薄茶色の上着。

 

後ろへ撫でつけた髪。

 

……間違いねえ。

 

三日間、見ていた男だ。

 

その隣には、大柄な男が立っていた。

 

俺が入ると、そいつは黙って扉の方へ移動した。

 

「……で?」

 

机の向こうの男が口を開いた。

 

「何の用だ?」

 

「……あの、仕事を探していまして」

 

「荷運びなら下へ行け」

 

「……いえ、違います」

 

「じゃあ何だ?」

 

俺は唾を飲み込んだ。

 

「……情報を買ってくれるって聞いたんですけど」

 

男は俺を眺めた。

 

「ほう。何を持ってきた?」

 

「……俺、見たものを覚えるのが得意なんです」

 

「それで?」

 

「……だから、その」

 

俺は少し迷った。

 

でも、ここまで来たんだ。

 

言わなきゃ意味がない。

 

「……三日前、あんたは昼過ぎに紙屋を出て、北の飯屋へ行きましたよね」

 

男の表情が動かなくなった。

 

俺は続けた。

 

「そこで灰色の帽子を被った男と会っていました。左手に指輪をしていた人です」

 

「…………」

 

「二日前は赤い看板の店に入って、右手に傷のある男と会っていました」

 

……よし。

 

ちゃんと覚えてる。

 

「それから、昨日は――」

 

「おい」

 

低い声がした。

 

「……え?」

 

男が俺を見ていた。

 

さっきまでとは違う目だった。

 

「誰に命じられた?」

 

「……はい?」

 

「誰がお前に俺を調べさせた?」

 

……え?

 

「い、いえ! 誰にも!」

 

「なら、どうして俺の行動を知ってる?」

 

「……だから、俺の記憶力を――」

 

「質問に答えろ」

 

男が机を叩いた。

 

「ひっ……!」

 

俺は思わず肩を跳ねさせた。

 

……何だ?

 

何で怒ってんだ?

 

「俺を尾行していたのか?」

 

「……はい」

 

「何日だ?」

 

「……三日、です」

 

男は俺をじっと見た。

 

それから、隣の大男へ視線を向けた。

 

「扉を閉めろ」

 

「分かった」

 

大男が扉を閉めた。

 

がちゃり、と音がした。

 

そのまま男は扉の前に立つ。

 

……あ。

 

まずい。

 

これ、まずいぞ。

 

***

 

「……もう一度聞く」

 

バロは机に肘をついた。

 

「誰の使いだ?」

 

「……違います! 俺は、ただ仕事が欲しくて!」

 

「俺を三日も尾行したのに?」

 

「……はい」

 

「それで、本人に全部喋ったわけか」

 

「……はい」

 

男はしばらく黙った。

 

……怖え。

 

何か言ってくれよ。

 

「……馬鹿か、お前」

 

「…………」

 

……返す言葉もねえ。

 

「俺が何をしている人間か、知ってるのか?」

 

「……情報を買ったり、仕事を紹介したりしているって」

 

「誰から聞いた?」

 

「……荷運び屋の人です」

 

「名前は?」

 

「……知りません」

 

「…………」

 

男が小さく息を吐いた。

 

「なるほどな」

 

……何がなるほどなんだ?

 

俺には分からなかった。

 

バロは隣の大男へ視線を向けた。

 

「こいつ、どう思う?」

 

「昨日も一昨日も、紙屋の前をうろうろしてたガキだ」

 

「……え?」

 

俺は顔を上げた。

 

大男が俺を見下ろした。

 

「初日に見かけた時は客を待ってるのかと思ったが、次の日も同じ場所にいたんでな」

 

「…………」

 

「それで昨日、あの路地で見失ったんだろ?」

 

「……あ」

 

俺は思わず声を漏らした。

 

……見られてたのか。

 

「何度も振り返ってたな。こっちが気づいてねえと思ってたのか?」

 

「…………」

 

俺は黙った。

 

……くそ。

 

俺は尾行していたつもりだった。

 

なのに、向こうは俺を見ていた。

 

バロが口を開いた。

 

「俺を調べてる奴がいると聞いてな。誰の差し金かと思っていたんだが」

 

男は俺を眺めた。

 

「まさか、自分から訪ねてくるとは思わなかった」

 

「……すみません」

 

「謝れば済むと思ってるのか?」

 

「…………」

 

俺は黙った。

 

どうすればいいのか分からなかった。

 

逃げようにも、扉の前には大男がいる。

 

短剣なら持っている。

 

けど、抜いたところで勝てるわけがない。

 

……ああ、くそ。

 

何でこうなるんだよ。

 

ただ仕事が欲しかっただけなのに。

 

「……あの」

 

「何だ?」

 

「……帰っても、いいですか?」

 

バロは俺を見た。

 

「まだ話は終わってねえだろ」

 

「……はい」

 

……終わった。

 

俺、ここで死ぬのかもしれねえ。

 

***

 

「……で、記憶力がいいんだったな」

 

しばらくして、バロが口を開いた。

 

「……はい」

 

「どれくらい覚えられる?」

 

「……見たものなら、大体は」

 

「ほう」

 

男は引き出しから小さな箱を取り出した。

 

蓋を開け、机の上に置く。

 

「見ろ」

 

「……はい」

 

俺は箱を覗き込んだ。

 

中には硬貨や鍵、指輪、釦などが入っていた。

 

どれも大した価値のなさそうな品物だ。

 

俺はそれぞれの形や数を確かめる。

 

硬貨が三枚。

 

鍵が二本。

 

釦は……四つ。

 

その時、男が蓋を閉めた。

 

「もういい」

 

……早っ。

 

「何が入っていた?」

 

「……硬貨が三枚、鍵が二本、指輪が一つ、釦が四つ、それと小さな金属片が二つです」

 

バロは蓋を開けた。

 

中身を確かめる。

 

「……ほう」

 

男の眉が少し動いた。

 

「硬貨の特徴は?」

 

「……一枚だけ古くて、縁が欠けていました。あとの二枚は同じくらいの大きさですけど、片方に黒い汚れがあります」

 

「鍵は?」

 

「……長い方の持ち手に赤い紐がついてました。短い方は先端が少し曲がっています」

 

「指輪は?」

 

「……銀色で、外側に細い溝が二本ありました」

 

バロは指輪を取り出して確かめた。

 

「…………」

 

男は俺を見た。

 

……何だ?

 

何か間違ってたか?

 

「こいつはどうだ?」

 

そう言って、バロは釦を一つ摘まんだ。

 

「……四つの中で、それだけ穴が三つしかありませんでした」

 

「裏側は?」

 

「…………」

 

俺は少し考えた。

 

「……分かりません」

 

「見なかったのか?」

 

「……箱に入ってたので、裏側までは見えませんでした」

 

「……なるほどな」

 

バロは小さく笑った。

 

「見たものは覚えられるが、見てねえものは分からねえわけだ」

 

「……はい」

 

「当たり前といえば当たり前だが」

 

男は釦を箱へ戻した。

 

「少なくとも、記憶力がいいってのは本当らしい」

 

「……はい!」

 

俺は思わず顔を上げた。

 

……よし。

 

これなら、仕事をもらえるかもしれない。

 

「じゃあ、もう一つ聞くぞ」

 

「……はい」

 

「昨日、俺が会った男。何をしに来たと思う?」

 

「……え?」

 

「黒い上着の男だ。右手に傷があるって言ったな」

 

「……はい」

 

「そいつが何のために俺と会ったか、分かるか?」

 

俺は考えた。

 

……何のために?

 

昨日、あの男は紙屋に入っていった。

 

その前の日には、バロと赤い看板の店で会っていた。

 

……でも。

 

「……分かりません」

 

「何か渡していたか?」

 

「……見えませんでした」

 

「何を話していた?」

 

「……聞こえませんでした」

 

「それで?」

 

「……それだけです」

 

バロは鼻で笑った。

 

「じゃあ、お前が知ってるのは、俺がそいつと会ったってことだけだな」

 

「…………」

 

……そうなるな。

 

「それを俺に売って、何になる?」

 

「…………」

 

俺は答えられなかった。

 

確かに、バロ本人は自分が誰と会ったかなんて知っている。

 

俺がそれを教えても、意味がない。

 

……あれ?

 

じゃあ、俺が三日間やってたことって。

 

「……無駄、ですか?」

 

俺は恐る恐る尋ねた。

 

バロは少し考えた。

 

「俺に売るならな」

 

「……え?」

 

「俺の行動を知りたがってる奴になら、売れただろうよ」

 

「…………」

 

「もっとも、そんな奴に情報を渡したと知れたら、俺はお前を放っておかねえがな」

 

……うわ。

 

俺は思わず顔をしかめた。

 

「情報ってのは、欲しがってる奴に売るもんだ」

 

バロは机の上の書類を一枚取った。

 

そこには、荷車の絵らしきものと、いくつかの印が描かれていた。

 

「例えば、この印だ」

 

男は指で紙を叩いた。

 

「お前には何に見える?」

 

「……丸の中に、線が二本あります」

 

「それだけか?」

 

「……はい」

 

バロは口元を緩めた。

 

「だろうな。だが、これを見ただけで金を出す奴もいる」

 

「……え?」

 

「どこの荷物か、誰が扱ってるか。知ってる奴には分かるんだよ」

 

男は紙を裏返した。

 

「お前が覚えるのは印の形だ。だが、俺が知りてえのは、その印が何を意味してるかだ」

 

「…………」

 

……なるほど。

 

俺は少しだけ納得した。

 

同じものを見ても、知っている人間と知らない人間では分かることが違う。

 

バロは俺を見た。

 

「だから、情報の値段を決めるのはお前じゃねえ」

 

「……はい」

 

「少なくとも、今のお前には無理だ」

 

「…………」

 

……ちぇっ。

 

そこまで言わなくてもいいじゃねえか。

 

けど、反論できなかった。

 

実際、俺は何がいくらになるのか、全然分かっていない。

 

***

 

「……さて」

 

バロは椅子にもたれかかった。

 

「名前は?」

 

「……レンです」

 

「歳は?」

 

「……十二です」

 

「十二か」

 

男は俺を眺めた。

 

「家族は?」

 

「……いません」

 

「住んでる場所は?」

 

「……裏路地です」

 

「どこの?」

 

「…………」

 

俺は少し迷った。

 

倉庫の場所を教えるのは嫌だった。

 

今の俺には、あそこしか寝る場所がない。

 

「……決まった家は、ありません」

 

バロは俺を見た。

 

嘘だと気づいたのかもしれない。

 

けど、それ以上は聞かなかった。

 

「戦えるのか?」

 

「……いえ」

 

「尾行は?」

 

「…………」

 

俺は少し考えた。

 

……得意です、なんて言えるわけねえよな。

 

「……練習中です」

 

バロが鼻で笑った。

 

「見れば分かる」

 

「…………」

 

……うるせえ。

 

俺だって、頑張ったんだよ。

 

「字は読めるか?」

 

「……はい。難しい字は分かりませんけど」

 

「計算は?」

 

「……あまり得意じゃないです」

 

「何ならできるんだ、お前」

 

「…………」

 

……俺が聞きてえよ。

 

バロはしばらく俺を眺めていた。

 

その視線が、何となく嫌だった。

 

人間を見ているというより、店に並んだ品物を確かめているような目だったからだ。

 

「……おい」

 

バロは大男へ声をかけた。

 

「こいつが三日間、誰かと会ってるところは見たか?」

 

「いや。俺が見てた範囲じゃ、一人だったな」

 

「誰かに報告してる様子は?」

 

「なかったと思うぜ。途中で見失った時間もあるが」

 

「……そうか」

 

バロは机を指で叩いた。

 

しばらく考え込んだ後、俺へ視線を戻す。

 

「……お前が誰の使いかは、まだ分からねえ」

 

「……本当に、誰にも頼まれてません!」

 

「それを俺が信じる理由はねえだろ」

 

「…………」

 

……そりゃ、そうだけど。

 

「だが、今ここでお前を始末したところで、金にはならねえ」

 

俺の背中が冷たくなった。

 

……始末?

 

今、始末って言ったか?

 

バロは気にした様子もなく続けた。

 

「それに、少なくとも記憶力は使えそうだ」

 

「……はい」

 

「なら、試しに働かせた方が得かもしれねえ」

 

男は薄く笑った。

 

「妙な動きをするようなら、その時に考えりゃいい」

 

「…………」

 

……ああ。

 

そういうことか。

 

こいつは俺を信用したわけじゃない。

 

使えるかもしれないから、ひとまず生かしておくだけなんだ。

 

……怖えな。

 

「……それで」

 

俺は恐る恐る尋ねた。

 

「……仕事を、いただけるんですか?」

 

「ああ。ただし、簡単なものだけだ」

 

バロは机の書類を一枚手に取った。

 

「どこの誰とも分からねえガキに、大事な仕事なんか任せられるか」

 

「……はい」

 

「お前みたいなガキなら、大人が警戒する場所でも入り込めるかもしれねえ。それに、見たものを覚えられるなら、書き留める必要もない」

 

男は書類を机へ置いた。

 

「安く使えるなら、それで十分だ」

 

「…………」

 

……ああ。

 

やっぱり、そういうことか。

 

俺の能力を認めて、仕事をくれるわけじゃない。

 

安い金で使えるかもしれないから、試すだけなんだ。

 

……まあ、それでもいいか。

 

金がもらえるなら、文句はない。

 

***

 

「明日の昼、南寄りの通りにある荷車置き場へ行け」

 

「……南、ですか」

 

「ああ。何か問題でもあるか?」

 

「……いえ」

 

俺は首を振った。

 

……南か。

 

前に追いかけられた場所が、そっちの方角だった。

 

できれば近づきたくない。

 

けど、今回は人を追いかけるわけじゃなさそうだ。

 

「青い印のついた荷車が何台か来る。お前は離れた場所から、荷車の数と、積まれている箱の印を覚えてこい」

 

「……それだけですか?」

 

「運んできた奴の顔や服装も覚えられるなら覚えろ。ただし、余計なことはするな」

 

「……追いかけなくていいんですか?」

 

「追うな。荷車置き場を出たら、そこで終わりだ」

 

「……分かりました」

 

……それなら、できそうだな。

 

前みたいに尾行する必要はない。

 

指定された場所で見て、覚えるだけ。

 

俺の得意なことだ。

 

「……報酬は?」

 

「四十眼」

 

「…………」

 

……安っ!

 

思わず声が出そうになった。

 

荷物運びでも、もう少し稼げる。

 

「……もう少し、何とかなりませんか?」

 

「ならねえな」

 

「……でも」

 

「嫌なら帰れ」

 

バロはあっさりと言った。

 

「代わりなんざ、いくらでもいる」

 

「…………」

 

……くそ。

 

足元見やがって。

 

「それに、お前が本当に仕事をできるかも分からねえ」

 

バロは俺を見た。

 

「指定したものを正確に覚えて帰ってきたら四十眼。間違っていれば払わねえ」

 

「……分かりました」

 

俺は渋々頷いた。

 

他に仕事をくれる相手もいない。

 

ここで断ったら、また荷物運びに戻るだけだ。

 

「よし」

 

バロは書類を机へ置いた。

 

「それと、俺の名前を出すなよ」

 

「……え?」

 

「誰に頼まれたのか聞かれても、俺のことは喋るな」

 

「……はい」

 

「見つかりそうになったら、仕事を捨てて逃げろ」

 

「……分かりました」

 

「捕まって余計なことを喋ったら、四十眼どころじゃ済まねえからな」

 

「…………」

 

……うわ。

 

やっぱり、怖えな。この仕事。

 

俺は思わず懐の短剣を確かめた。

 

そんな俺の動きを見て、バロが鼻で笑った。

 

「その程度の刃物でどうにかなると思うなよ」

 

「……はい」

 

「俺はお前を守らねえ。勝手に死なれたら、報酬を払う手間が省けるだけだ」

 

「…………」

 

……言われなくても分かってるよ。

 

俺だって、死にたくねえ。

 

「……それで、仕事の話は終わりですか?」

 

「ああ。明日の夕方までに報告へ来い」

 

「……かしこまりました」

 

俺は頭を下げた。

 

バロが少し眉を上げた。

 

「妙に礼儀正しいな、お前」

 

「……そうですか?」

 

「誰に教わった?」

 

「…………」

 

俺は少し迷った。

 

赤い服の少女が頭に浮かぶ。

 

……言わない方がいいよな。

 

「……以前、仕事で会った人に」

 

「ふん。まあいい」

 

バロは興味を失ったように書類へ目を落とした。

 

「もう行け」

 

「……失礼します」

 

俺は頭を下げた。

 

扉の前にいた大男が、ようやく道を空けた。

 

俺はその横を通り、廊下へ出た。

 

……助かった。

 

階段を下りながら、思わず息を吐いた。

 

さっきまで、ずっと肩に力が入っていたらしい。

 

……危うく殺されるところだった。

 

もう二度と、あんな売り込み方はしない。

 

絶対に。

 

***

 

「……四十眼、か」

 

紙屋を出た俺は、歩きながら呟いた。

 

安い。

 

荷物運びでも、もう少し稼げる。

 

それに、三日間も尾行して、危うく殺されかけたんだ。

 

……割に合わねえな。

 

それでも、少しだけ嬉しかった。

 

今回は、誰かに仕事を紹介されたわけじゃない。

 

自分で考えて、自分から売り込みに行った。

 

……まあ、殺されかけたけど。

 

俺は懐の短剣を確かめた。

 

明日は南寄りの荷車置き場へ行く。

 

青い印の荷車と、積まれている箱を覚えるだけ。

 

それで四十眼だ。

 

「……簡単そうだな」

 

俺は小さく笑った。

 

……いや。

 

簡単だと思って、前も死にかけたんだった。

 

今度は余計なことをしないようにしよう。

 

見て、覚えて、帰る。

 

それだけだ。

 

俺はそう決めて、倉庫へ向かった。

 

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