「……六十眼、か」
俺は手のひらの硬貨を眺めた。
今日の稼ぎは六十眼。
荷物を三か所へ届けて、ようやく手に入れた金だ。
もっとも、昼飯を食べたせいで、手元に残っているのは四十眼ほどしかない。
「……はぁ」
もう少し、楽に稼げねえかな。
俺は硬貨を懐へしまい、市場の端を歩き始めた。
短剣を買ってから、しばらく経った。
あれからも木の棒を振って練習しているが、上達したかと聞かれれば、正直よく分からない。
まあ、当然だ。
棒を振るだけで強くなれるなら、誰だってフィクサーになれるだろう。
それに、練習ばかりしているわけにもいかない。
飯を食わなきゃ死ぬし、寝床だっていつ追い出されるか分からない。
今の倉庫は、まだ誰にも見つかっていないから使えているだけだ。
……せめて、もう少し金があればな。
そう考えた時、ふとヴィオラの言葉が頭に浮かんだ。
『あなたの記憶力は、何かの役に立つかもしれませんね』
「…………」
……記憶力、か。
俺は足を止めた。
そういえば、以前の人探しの仕事でも、俺は覚えていたことを話して金をもらった。
男の顔。
服装。
通った道。
入っていった建物。
あの眼鏡の男は、それを聞いて報酬を払ってくれた。
……待てよ。
あの時は、向こうから仕事を頼まれた。
でも、別に依頼されるのを待つ必要はねえんじゃないか?
俺が見たものを欲しがる奴に、自分から売ればいい。
誰かの居場所でも、通った道でも。
覚えたことが金になるなら、荷物を運ぶより楽かもしれない。
「……そうだよな」
俺は小さく呟いた。
何で今まで思いつかなかったんだろう。
……いや、待て。
一つ問題がある。
「……誰に売るんだ?」
情報を買ってくれる人間。
そんな奴を、俺はほとんど知らなかった。
***
それから二日ほど、俺は仕事の合間に情報を買う人間について聞いて回った。
とはいっても、誰彼構わず尋ねたわけじゃない。
顔見知りの荷運び屋や、何度か仕事をもらった露店商に、それとなく話を聞いただけだ。
「……人探しの仕事って、どこで頼めるんですかね?」
「人探し?」
荷車に木箱を積んでいた男が、俺を見た。
「誰か探してんのか?」
「……まあ、そんなところです」
「フィクサー事務所にでも行けよ」
「……やっぱり、そうですよね」
「金がありゃな」
男は笑った。
……その金がねえから困ってんだよ。
別の男にも聞いてみた。
そいつは面倒くさそうに頭を掻いた後、思い出したように言った。
「そういや、北の方に仲介屋がいたな」
「……仲介屋?」
「仕事を紹介したり、人の情報を集めたりする奴だよ。バロって名前だったか」
「バロ……」
「紙屋の二階にいるって聞いたぞ。まあ、ろくな奴じゃねえらしいが」
「……そうなんですか?」
「知らねえよ。俺は会ったこともねえ」
男は木箱を俺へ押しつけた。
「ほら、仕事中だろ。さっさと運べ」
「……はい!」
俺は慌てて木箱を抱えた。
……バロ、か。
情報を扱っているなら、俺の記憶力にも興味を持つかもしれない。
仕事を終えたら、一度見に行ってみよう。
***
教えられた紙屋は、市場から少し離れた裏路地にあった。
看板は古く、店先には紙束や筆記具が並んでいる。
二階には小さな窓が三つ。
そのうち、一番右の窓だけが開いていた。
……ここか。
俺は向かいの建物の陰から店を眺めた。
いきなり中へ入るつもりはなかった。
どんな人間か分からないし、俺みたいなガキが訪ねても追い返されるかもしれない。
……そうだ。
俺は少し考えた。
俺の売りは記憶力だ。
だったら、それを証明できるものを持っていけばいい。
例えば、バロって男の行動を覚えて、本人に伝えるとか。
いつ、どこへ行って、誰と会ったのか。
それを正確に言えれば、俺がどれくらい物を覚えられるのか伝わるだろう。
……よし。
我ながら、いい考えだ。
俺は店の様子を見ながら、その男が出てくるのを待った。
しばらくして、一人の男が階段を下りてきた。
年は四十くらい。
薄茶色の上着を着て、髪を後ろへ撫でつけている。
右手には革の鞄。
男は紙屋の主人と何か話した後、通りへ出た。
……あいつか?
まだ確信はなかった。
けど、店の主人が相手に頭を下げていたのが気になった。
俺は距離を空けて男の後を追った。
***
一日目。
男は紙屋を出た後、北側の飯屋に入った。
そこで灰色の帽子を被った小太りの男と会い、しばらく話をしていた。
俺は向かいの露店で水を買い、客のふりをして待った。
小太りの男は左手の薬指に指輪をしていた。
灰色の帽子には、後ろ側に小さな破れ目がある。
店を出た後、二人は別々の方向へ歩いていった。
俺は茶色い上着の男を追ったが、途中で人混みに紛れて見失ってしまった。
「……くそ」
俺は舌打ちした。
……まあ、いいか。
今日だけで全部調べる必要はない。
それに、無理に追いかけて捕まったら元も子もない。
俺はその日の尾行を諦め、倉庫へ戻った。
二日目。
午前中は荷物運びの仕事があったため、紙屋へ行けたのは昼過ぎだった。
男は昨日と違う道を通り、赤い看板の店へ入った。
俺は向かいの雑貨屋へ入った。
店先の商品を眺めていれば、怪しまれずに見張れると思ったからだ。
……よし。
ここなら、ちょうど見える。
「おい、ガキ」
「……え?」
振り返ると、店主が俺を睨んでいた。
「さっきから何やってんだ?」
「……えっと、商品を見てます」
「買うのか?」
「……いえ、まだ」
「だったら出てけ。冷やかしならよそでやれ」
「……すみません」
俺は慌てて店を出た。
……ちぇっ。
少しくらい見たっていいじゃねえか。
そう思いながら通りへ目を向ける。
すると、ちょうど男が店から出てきた。
隣には、黒い上着を着た別の男がいた。
右手の甲に古い傷がある。
二人は少し話をしてから別れた。
俺は茶色い上着の男を追おうとした。
しかし、男が突然足を止めた。
「……っ!」
俺も慌てて立ち止まる。
男は通りの向こうを眺め、それからゆっくり振り返った。
……まずい!
俺は近くの露店へ顔を向けた。
そこには古い食器が並んでいた。
「……これ、いくらですか?」
とっさに皿を指差す。
「百二十眼だ」
「……高っ」
「何だと?」
「い、いえ! 何でもありません!」
俺は慌ててその場を離れた。
もう一度通りを見ると、男の姿は消えていた。
「…………」
……見失った。
それに、今のは危なかったな。
前に尾行したイーノも、何度か不自然な動きをしていた。
あの時は気づかなかったけど、今回はどうだ?
……振り返ったのは、俺に気づいたからか?
分からない。
ただ、確かめるために追いかけるのは危険だと思った。
俺はその日の調査を切り上げた。
三日目。
朝から紙屋の近くへ向かった。
男は昼前に出てきたが、すぐに別の路地へ入ってしまった。
後を追おうとしたものの、途中で荷車が道を塞いでいたため、見失った。
……またかよ。
俺は少し腹が立った。
ただ歩いているだけの男一人、まともに追いかけられない。
……俺って、尾行に向いてねえのかな。
そう思いながら紙屋の近くへ戻る。
すると、少し離れた場所に昨日の黒い上着の男がいた。
例の右手に傷がある男だ。
そいつは紙屋の前で立ち止まり、階段を上がっていった。
……なるほど。
昨日会っていた男が、今日はこっちへ来たのか。
俺はそのことも覚えておいた。
結局、三日間で分かったのはそれくらいだった。
男が訪れた場所。
会った人間。
服装や持ち物。
途中で見失った時間も多い。
それに、男を追っていた間は周りの人間まで注意していなかったから、そっちのことはあまり覚えていない。
……でも、十分だろ。
覚えようと思って見たものなら、間違えずに答えられる自信がある。
これだけ言えれば、俺の記憶力も伝わるはずだ。
俺はそう考え、翌日、紙屋を訪ねることにした。
***
「……すみません」
紙屋へ入ると、奥にいた店主が顔を上げた。
「何だ?」
「……バロさんという方に、お会いしたいんですけど」
店主の目が細くなった。
「何の用だ?」
「……仕事の話です」
「お前が?」
「……はい」
店主はしばらく俺を眺めた。
それから、妙に納得したような顔になった。
「……ああ、お前か」
「……え?」
「二階だ。右の部屋に行け」
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
……何だ?
今の反応。
少し気になったが、考えても分からない。
階段を上がる。
二階には細い廊下があり、左右に扉が並んでいた。
俺は右側の部屋の前に立った。
「…………」
……帰ろうかな。
正直、少し怖かった。
けど、ここで帰ったら三日間が無駄になる。
俺は扉を叩いた。
「入れ」
中から声がした。
「……失礼します」
扉を開ける。
部屋には机と椅子があり、壁際には書類の束が積まれていた。
机の上には、開いた帳簿と何枚もの紙がある。
紙には名前や数字、それに見慣れない印が書き込まれていた。
奥の椅子には、見覚えのある男が座っている。
薄茶色の上着。
後ろへ撫でつけた髪。
……間違いねえ。
三日間、見ていた男だ。
その隣には、大柄な男が立っていた。
俺が入ると、そいつは黙って扉の方へ移動した。
「……で?」
机の向こうの男が口を開いた。
「何の用だ?」
「……あの、仕事を探していまして」
「荷運びなら下へ行け」
「……いえ、違います」
「じゃあ何だ?」
俺は唾を飲み込んだ。
「……情報を買ってくれるって聞いたんですけど」
男は俺を眺めた。
「ほう。何を持ってきた?」
「……俺、見たものを覚えるのが得意なんです」
「それで?」
「……だから、その」
俺は少し迷った。
でも、ここまで来たんだ。
言わなきゃ意味がない。
「……三日前、あんたは昼過ぎに紙屋を出て、北の飯屋へ行きましたよね」
男の表情が動かなくなった。
俺は続けた。
「そこで灰色の帽子を被った男と会っていました。左手に指輪をしていた人です」
「…………」
「二日前は赤い看板の店に入って、右手に傷のある男と会っていました」
……よし。
ちゃんと覚えてる。
「それから、昨日は――」
「おい」
低い声がした。
「……え?」
男が俺を見ていた。
さっきまでとは違う目だった。
「誰に命じられた?」
「……はい?」
「誰がお前に俺を調べさせた?」
……え?
「い、いえ! 誰にも!」
「なら、どうして俺の行動を知ってる?」
「……だから、俺の記憶力を――」
「質問に答えろ」
男が机を叩いた。
「ひっ……!」
俺は思わず肩を跳ねさせた。
……何だ?
何で怒ってんだ?
「俺を尾行していたのか?」
「……はい」
「何日だ?」
「……三日、です」
男は俺をじっと見た。
それから、隣の大男へ視線を向けた。
「扉を閉めろ」
「分かった」
大男が扉を閉めた。
がちゃり、と音がした。
そのまま男は扉の前に立つ。
……あ。
まずい。
これ、まずいぞ。
***
「……もう一度聞く」
バロは机に肘をついた。
「誰の使いだ?」
「……違います! 俺は、ただ仕事が欲しくて!」
「俺を三日も尾行したのに?」
「……はい」
「それで、本人に全部喋ったわけか」
「……はい」
男はしばらく黙った。
……怖え。
何か言ってくれよ。
「……馬鹿か、お前」
「…………」
……返す言葉もねえ。
「俺が何をしている人間か、知ってるのか?」
「……情報を買ったり、仕事を紹介したりしているって」
「誰から聞いた?」
「……荷運び屋の人です」
「名前は?」
「……知りません」
「…………」
男が小さく息を吐いた。
「なるほどな」
……何がなるほどなんだ?
俺には分からなかった。
バロは隣の大男へ視線を向けた。
「こいつ、どう思う?」
「昨日も一昨日も、紙屋の前をうろうろしてたガキだ」
「……え?」
俺は顔を上げた。
大男が俺を見下ろした。
「初日に見かけた時は客を待ってるのかと思ったが、次の日も同じ場所にいたんでな」
「…………」
「それで昨日、あの路地で見失ったんだろ?」
「……あ」
俺は思わず声を漏らした。
……見られてたのか。
「何度も振り返ってたな。こっちが気づいてねえと思ってたのか?」
「…………」
俺は黙った。
……くそ。
俺は尾行していたつもりだった。
なのに、向こうは俺を見ていた。
バロが口を開いた。
「俺を調べてる奴がいると聞いてな。誰の差し金かと思っていたんだが」
男は俺を眺めた。
「まさか、自分から訪ねてくるとは思わなかった」
「……すみません」
「謝れば済むと思ってるのか?」
「…………」
俺は黙った。
どうすればいいのか分からなかった。
逃げようにも、扉の前には大男がいる。
短剣なら持っている。
けど、抜いたところで勝てるわけがない。
……ああ、くそ。
何でこうなるんだよ。
ただ仕事が欲しかっただけなのに。
「……あの」
「何だ?」
「……帰っても、いいですか?」
バロは俺を見た。
「まだ話は終わってねえだろ」
「……はい」
……終わった。
俺、ここで死ぬのかもしれねえ。
***
「……で、記憶力がいいんだったな」
しばらくして、バロが口を開いた。
「……はい」
「どれくらい覚えられる?」
「……見たものなら、大体は」
「ほう」
男は引き出しから小さな箱を取り出した。
蓋を開け、机の上に置く。
「見ろ」
「……はい」
俺は箱を覗き込んだ。
中には硬貨や鍵、指輪、釦などが入っていた。
どれも大した価値のなさそうな品物だ。
俺はそれぞれの形や数を確かめる。
硬貨が三枚。
鍵が二本。
釦は……四つ。
その時、男が蓋を閉めた。
「もういい」
……早っ。
「何が入っていた?」
「……硬貨が三枚、鍵が二本、指輪が一つ、釦が四つ、それと小さな金属片が二つです」
バロは蓋を開けた。
中身を確かめる。
「……ほう」
男の眉が少し動いた。
「硬貨の特徴は?」
「……一枚だけ古くて、縁が欠けていました。あとの二枚は同じくらいの大きさですけど、片方に黒い汚れがあります」
「鍵は?」
「……長い方の持ち手に赤い紐がついてました。短い方は先端が少し曲がっています」
「指輪は?」
「……銀色で、外側に細い溝が二本ありました」
バロは指輪を取り出して確かめた。
「…………」
男は俺を見た。
……何だ?
何か間違ってたか?
「こいつはどうだ?」
そう言って、バロは釦を一つ摘まんだ。
「……四つの中で、それだけ穴が三つしかありませんでした」
「裏側は?」
「…………」
俺は少し考えた。
「……分かりません」
「見なかったのか?」
「……箱に入ってたので、裏側までは見えませんでした」
「……なるほどな」
バロは小さく笑った。
「見たものは覚えられるが、見てねえものは分からねえわけだ」
「……はい」
「当たり前といえば当たり前だが」
男は釦を箱へ戻した。
「少なくとも、記憶力がいいってのは本当らしい」
「……はい!」
俺は思わず顔を上げた。
……よし。
これなら、仕事をもらえるかもしれない。
「じゃあ、もう一つ聞くぞ」
「……はい」
「昨日、俺が会った男。何をしに来たと思う?」
「……え?」
「黒い上着の男だ。右手に傷があるって言ったな」
「……はい」
「そいつが何のために俺と会ったか、分かるか?」
俺は考えた。
……何のために?
昨日、あの男は紙屋に入っていった。
その前の日には、バロと赤い看板の店で会っていた。
……でも。
「……分かりません」
「何か渡していたか?」
「……見えませんでした」
「何を話していた?」
「……聞こえませんでした」
「それで?」
「……それだけです」
バロは鼻で笑った。
「じゃあ、お前が知ってるのは、俺がそいつと会ったってことだけだな」
「…………」
……そうなるな。
「それを俺に売って、何になる?」
「…………」
俺は答えられなかった。
確かに、バロ本人は自分が誰と会ったかなんて知っている。
俺がそれを教えても、意味がない。
……あれ?
じゃあ、俺が三日間やってたことって。
「……無駄、ですか?」
俺は恐る恐る尋ねた。
バロは少し考えた。
「俺に売るならな」
「……え?」
「俺の行動を知りたがってる奴になら、売れただろうよ」
「…………」
「もっとも、そんな奴に情報を渡したと知れたら、俺はお前を放っておかねえがな」
……うわ。
俺は思わず顔をしかめた。
「情報ってのは、欲しがってる奴に売るもんだ」
バロは机の上の書類を一枚取った。
そこには、荷車の絵らしきものと、いくつかの印が描かれていた。
「例えば、この印だ」
男は指で紙を叩いた。
「お前には何に見える?」
「……丸の中に、線が二本あります」
「それだけか?」
「……はい」
バロは口元を緩めた。
「だろうな。だが、これを見ただけで金を出す奴もいる」
「……え?」
「どこの荷物か、誰が扱ってるか。知ってる奴には分かるんだよ」
男は紙を裏返した。
「お前が覚えるのは印の形だ。だが、俺が知りてえのは、その印が何を意味してるかだ」
「…………」
……なるほど。
俺は少しだけ納得した。
同じものを見ても、知っている人間と知らない人間では分かることが違う。
バロは俺を見た。
「だから、情報の値段を決めるのはお前じゃねえ」
「……はい」
「少なくとも、今のお前には無理だ」
「…………」
……ちぇっ。
そこまで言わなくてもいいじゃねえか。
けど、反論できなかった。
実際、俺は何がいくらになるのか、全然分かっていない。
***
「……さて」
バロは椅子にもたれかかった。
「名前は?」
「……レンです」
「歳は?」
「……十二です」
「十二か」
男は俺を眺めた。
「家族は?」
「……いません」
「住んでる場所は?」
「……裏路地です」
「どこの?」
「…………」
俺は少し迷った。
倉庫の場所を教えるのは嫌だった。
今の俺には、あそこしか寝る場所がない。
「……決まった家は、ありません」
バロは俺を見た。
嘘だと気づいたのかもしれない。
けど、それ以上は聞かなかった。
「戦えるのか?」
「……いえ」
「尾行は?」
「…………」
俺は少し考えた。
……得意です、なんて言えるわけねえよな。
「……練習中です」
バロが鼻で笑った。
「見れば分かる」
「…………」
……うるせえ。
俺だって、頑張ったんだよ。
「字は読めるか?」
「……はい。難しい字は分かりませんけど」
「計算は?」
「……あまり得意じゃないです」
「何ならできるんだ、お前」
「…………」
……俺が聞きてえよ。
バロはしばらく俺を眺めていた。
その視線が、何となく嫌だった。
人間を見ているというより、店に並んだ品物を確かめているような目だったからだ。
「……おい」
バロは大男へ声をかけた。
「こいつが三日間、誰かと会ってるところは見たか?」
「いや。俺が見てた範囲じゃ、一人だったな」
「誰かに報告してる様子は?」
「なかったと思うぜ。途中で見失った時間もあるが」
「……そうか」
バロは机を指で叩いた。
しばらく考え込んだ後、俺へ視線を戻す。
「……お前が誰の使いかは、まだ分からねえ」
「……本当に、誰にも頼まれてません!」
「それを俺が信じる理由はねえだろ」
「…………」
……そりゃ、そうだけど。
「だが、今ここでお前を始末したところで、金にはならねえ」
俺の背中が冷たくなった。
……始末?
今、始末って言ったか?
バロは気にした様子もなく続けた。
「それに、少なくとも記憶力は使えそうだ」
「……はい」
「なら、試しに働かせた方が得かもしれねえ」
男は薄く笑った。
「妙な動きをするようなら、その時に考えりゃいい」
「…………」
……ああ。
そういうことか。
こいつは俺を信用したわけじゃない。
使えるかもしれないから、ひとまず生かしておくだけなんだ。
……怖えな。
「……それで」
俺は恐る恐る尋ねた。
「……仕事を、いただけるんですか?」
「ああ。ただし、簡単なものだけだ」
バロは机の書類を一枚手に取った。
「どこの誰とも分からねえガキに、大事な仕事なんか任せられるか」
「……はい」
「お前みたいなガキなら、大人が警戒する場所でも入り込めるかもしれねえ。それに、見たものを覚えられるなら、書き留める必要もない」
男は書類を机へ置いた。
「安く使えるなら、それで十分だ」
「…………」
……ああ。
やっぱり、そういうことか。
俺の能力を認めて、仕事をくれるわけじゃない。
安い金で使えるかもしれないから、試すだけなんだ。
……まあ、それでもいいか。
金がもらえるなら、文句はない。
***
「明日の昼、南寄りの通りにある荷車置き場へ行け」
「……南、ですか」
「ああ。何か問題でもあるか?」
「……いえ」
俺は首を振った。
……南か。
前に追いかけられた場所が、そっちの方角だった。
できれば近づきたくない。
けど、今回は人を追いかけるわけじゃなさそうだ。
「青い印のついた荷車が何台か来る。お前は離れた場所から、荷車の数と、積まれている箱の印を覚えてこい」
「……それだけですか?」
「運んできた奴の顔や服装も覚えられるなら覚えろ。ただし、余計なことはするな」
「……追いかけなくていいんですか?」
「追うな。荷車置き場を出たら、そこで終わりだ」
「……分かりました」
……それなら、できそうだな。
前みたいに尾行する必要はない。
指定された場所で見て、覚えるだけ。
俺の得意なことだ。
「……報酬は?」
「四十眼」
「…………」
……安っ!
思わず声が出そうになった。
荷物運びでも、もう少し稼げる。
「……もう少し、何とかなりませんか?」
「ならねえな」
「……でも」
「嫌なら帰れ」
バロはあっさりと言った。
「代わりなんざ、いくらでもいる」
「…………」
……くそ。
足元見やがって。
「それに、お前が本当に仕事をできるかも分からねえ」
バロは俺を見た。
「指定したものを正確に覚えて帰ってきたら四十眼。間違っていれば払わねえ」
「……分かりました」
俺は渋々頷いた。
他に仕事をくれる相手もいない。
ここで断ったら、また荷物運びに戻るだけだ。
「よし」
バロは書類を机へ置いた。
「それと、俺の名前を出すなよ」
「……え?」
「誰に頼まれたのか聞かれても、俺のことは喋るな」
「……はい」
「見つかりそうになったら、仕事を捨てて逃げろ」
「……分かりました」
「捕まって余計なことを喋ったら、四十眼どころじゃ済まねえからな」
「…………」
……うわ。
やっぱり、怖えな。この仕事。
俺は思わず懐の短剣を確かめた。
そんな俺の動きを見て、バロが鼻で笑った。
「その程度の刃物でどうにかなると思うなよ」
「……はい」
「俺はお前を守らねえ。勝手に死なれたら、報酬を払う手間が省けるだけだ」
「…………」
……言われなくても分かってるよ。
俺だって、死にたくねえ。
「……それで、仕事の話は終わりですか?」
「ああ。明日の夕方までに報告へ来い」
「……かしこまりました」
俺は頭を下げた。
バロが少し眉を上げた。
「妙に礼儀正しいな、お前」
「……そうですか?」
「誰に教わった?」
「…………」
俺は少し迷った。
赤い服の少女が頭に浮かぶ。
……言わない方がいいよな。
「……以前、仕事で会った人に」
「ふん。まあいい」
バロは興味を失ったように書類へ目を落とした。
「もう行け」
「……失礼します」
俺は頭を下げた。
扉の前にいた大男が、ようやく道を空けた。
俺はその横を通り、廊下へ出た。
……助かった。
階段を下りながら、思わず息を吐いた。
さっきまで、ずっと肩に力が入っていたらしい。
……危うく殺されるところだった。
もう二度と、あんな売り込み方はしない。
絶対に。
***
「……四十眼、か」
紙屋を出た俺は、歩きながら呟いた。
安い。
荷物運びでも、もう少し稼げる。
それに、三日間も尾行して、危うく殺されかけたんだ。
……割に合わねえな。
それでも、少しだけ嬉しかった。
今回は、誰かに仕事を紹介されたわけじゃない。
自分で考えて、自分から売り込みに行った。
……まあ、殺されかけたけど。
俺は懐の短剣を確かめた。
明日は南寄りの荷車置き場へ行く。
青い印の荷車と、積まれている箱を覚えるだけ。
それで四十眼だ。
「……簡単そうだな」
俺は小さく笑った。
……いや。
簡単だと思って、前も死にかけたんだった。
今度は余計なことをしないようにしよう。
見て、覚えて、帰る。
それだけだ。
俺はそう決めて、倉庫へ向かった。