無惨はゆっくりと上体を起こした。
目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。
周囲には一面の草原が広がっている。
遠くを見渡せば、青々とした木々が生い茂る森林があり、そのさらに向こうには大小さまざまな山々が連なっていた。遮るもののない空からは、暖かな陽光が降り注いでいる。
人の姿はない。少なくとも、視界に入る範囲には。
「…………」
無惨はゆっくりと上体を起こした。
どうやら、人の気配すらない場所に飛ばされたらしい。だが、それ以上に気になることがあった。
自分の身体を見下ろした。腕がある。胴体がある。脚もある。先ほどまで跡形もなく消し飛ばされていた首から下の肉体は、何事もなかったかのように完全な形を取り戻していた。
…異常はない。
いや、異常どころか以前にも増して身体の隅々にまで力が満ちている。
「……あれは、夢だったのか?」
思わず呟く。しかし、すぐにその考えを否定した。
「いや……違う」
あれは夢などではない。
確かに現実だった。
そもそも、自分は何をしていた?
執念深く、忌々しい鬼狩りどもと戦っていたのだ。そして、認めたくはないがーー自分は敗北した。
竈門炭治郎にすべてを託し、最後の望みすら打ち砕かれた。
その果てに地獄へ堕ち、閻魔大王と出会い青い彼岸花を与えられた。あれを口にした瞬間に感じた全身を駆け巡る圧倒的な力。
その後、自分の首から下が一瞬にして消し飛ばされたこと。そして、閻魔大王によって見知らぬ世界へと放り出されたこと。
どれもこれも、忘れようとして忘れられるものではない。
「クク……」
無惨の口元がゆっくりと吊り上がった。
「ククク……ハハハ……!」
笑いが漏れる。
久しく感じることのなかった、心の底から湧き上がる喜び。
無惨は天を仰いだ。
その光を、全身で浴びるが肌が焼けることもない。肉体が崩壊することもない。灰となって消え去る気配すらない。自らの手を太陽へと掲げ、指の隙間から差し込む光を眺めた。
「そうだ……これだ……!」
震えるほどの歓喜が込み上げる。
「私は……ついに……!」
ーー太陽を克服したのだ!!
長きにわたって追い求め、どれほどの犠牲を払っても手に入れられなかった究極の力。青い彼岸花によって、ついにその悲願を成し遂げた。
いや、ただ太陽を克服しただけではない。
肉体の性能そのものが、以前とは比較にならないほど向上している。かつての自分ですら完全な存在に近いと考えていた。だが、今の自分はそれを遥かに超えている。
もはや、弱点など存在しない。
鬼狩りどもがどれほど数を揃えようと、どれほど優れた剣士を用意しようと、何の意味もない。
「継国緑壱……」
ふと、その名が脳裏をよぎった。
日の呼吸の使い手。
人間の皮を被った真の化け物。
あの男と相対したとき、無惨は初めて自分が死ぬかもしれないという現実を突きつけられた。あの剣士の刃は、確かに自分の肉体を斬り裂き消えない傷を刻みつけた。身体を分裂させ、逃げ延びることができなければ、あの時点で終わっていた可能性すらある。
だが――。
「今ならば、どうだ?」
無惨は薄く笑った。
仮にあの男が再び目の前に現れたとしてどれほど速く剣を振るおうと、どれほど鋭い斬撃を繰り出そうと今の自分を殺すことなど、もはや不可能だ。太陽を克服し、死という概念からさえ遠ざかった肉体。
あの継国緑壱ですら、今の自分には届かない。
そう考えると、笑いが止まらなかった。
しかしーー。
「…………」
笑みが、ふと消えた。
脳裏に、閻魔大王の姿が浮かび上がる。
青い彼岸花を与えられ、自由になった直後のこと。自分の首から下を一瞬で消し飛ばし、再生すら許さなかった閻魔大王。
…あれは、一体何だったのか。
喜びから束の間、怒りが静かに湧き眉間に皺が入る。
確かに、閻魔大王に首から下を消し飛ばされた。
反応すらできなかった。
再生することも許されなかった。
そして何より、あの閻魔大王には――抵抗する余地すら与えられなかった。
継国緑壱の斬撃には、確かに斬られたという感触があった。
自分の肉体が切断される感覚。命の危機を察知し、逃走を選択する余地。
無惨はそれらを理解できていた。
分裂した肉片のすべてを斬り捨てられたわけでもない。
だが、閻魔大王は違った。
気づいたときには、すべてが終わっていた。
自分が何をされたのかすら分からぬまま、首から下を失っていたのだ。
「…………チッ」
…腹立たしい。
思い出すだけで、腸が煮えくり返る。
あのような存在が、この世にいていいはずがない。
今すぐにでも探し出し、跡形もなく葬り去ってやりたい。
自分を見下し、思いどおりに扱い、まるで虫けらのように別の場所へ放り投げた閻魔大王を。
許せるはずがない。
許していいはずがない。
無惨の拳が、ぎりりと握り締められた。
しかし――。
「…………っ」
その瞬間、身体の奥底から何かが込み上げてきた。
怒りではない。
憎悪でもない。
もっと根源的で、もっと忌々しい感情。
無惨は、それを知っていた。
…忘れるはずがない。
あの時と同じだった。
自分の命が、自分の意思とは無関係に握られている。どれほど力を持っていようと、どれほど優れた能力を備えていようと、相手がその気になれば何もできない。抵抗すら許されず、生殺与奪の権利を完全に奪われる。
かつて、継国緑壱と対峙したときでさえ、ここまでの感覚はなかった。
だが、閻魔大王は違う。
あれは、自分の理解も、自分の力も、自分の存在そのものすら通用しない相手だった。
無惨の額に、冷たい汗が滲んだ。
「…………」
そして、彼はその感情を認めざるを得なかった。
ーー恐怖。
鬼舞辻無惨は、心の底から恐怖していた。
「ふざけるな……!」
無惨は吐き捨てるように呟いた。
認めたくない。
認められるはずがない。
この自分が、誰かを恐れるなど。
だが、短気で、他者を見下し、時として無意味な行動に走ることはあっても、無惨は決して愚かではなかった。自分が敵わない相手と戦うことが、どれほど無意味なのか。それを誰よりも理解しているからこそ、彼は生き延びることに執着してきたのだ。
ならば、答えは一つ。
閻魔大王には、関わってはならない。
怒りに任せて探し出したところで、何の意味もない。仮に再び相対したとして、自分に何ができる?
また一瞬で身体を消し飛ばされるだけではないか。いや、それどころか今度こそ完全に消滅させられる可能性すらある。
そう考えた途端、無惨の顔が歪んだ。
「……クソッ!」
地面を殴りつけたい衝動に駆られたが、無惨はどうにかそれを押し殺した。
そして、ゆっくりと深呼吸する。
…考えろ。
冷静になれ。
閻魔大王が何を考えているのかは分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あれは、自分を殺そうと思えば、いつでも殺せる存在だ。それでも、自分はこうして生きている。
無惨は、ゆっくりと顔を上げた。
…閻魔大王は、自分を地獄から弾き出した。
わざわざ青い彼岸花を与え、望みどおりの力を手に入れさせたうえでこの世界へと送り込んだ。その理由は分からない。だが、少なくとも今すぐ自分を殺すつもりはなかったのだろう。
自分を地獄から追い出した以上、わざわざこの世界まで追いかけてくる理由もない。
無惨は、口元を歪めた。
「フン……くだらん」
…閻魔大王について考えるのは、もうやめだ。
理解できないものを理解しようとしても、時間の無駄でしかない。
それよりも、今は自分の置かれた状況を把握することが先決だ。
無惨は改めて周囲を見渡した。
どこまでも広がる草原に遠くに見える森林と山々。
人間の姿はない。だが、いずれ人間とも遭遇することもあるだろう。
そして、そのときには――。
「ククク……」
無惨の顔に、再び笑みが浮かんだ。
「今度こそ、私の望む世界を作り上げてやる」
誰にも脅かされることのない世界。
誰にも命を狙われることのない世界。
太陽を恐れる必要もなく、弱者に怯える必要もない。この肉体と力があれば、何も恐れる必要などないのだ。
無惨は立ち上がり、全身に降り注ぐ陽光を浴びながら、悠然と歩き始めた。
ここがどこなのか。
どのような世界なのか。
それを知るのは、これからでいい。
今の自分は、かつてないほど強い。
そして、太陽を克服した完全なる存在なのだ。
その事実だけは、何があろうと揺るがない。
――鬼舞辻無惨の、新たな生が始まった。