草原の風が、無惨の頬を撫でた。
目の前には、どこまでも続く緑の大地。遠くには森林が広がり、その向こうには大小さまざまな山々が連なっている。
見渡す限り、人影はない。
「......さて、どうしたものか」
まずは人里を探し、情報を集めるのが先決だろう。一度死んだ身だ。であれば、ここが自分の生きていた時代よりも後の世界であることは間違いない。だが、問題はどれほどの年月が経過しているのかということだ。
数十年か。
数百年か。
あるいは、それ以上か。
地獄に落ちてからの出来事を思い返してみても、正確な答えなど出るはずもない。
そもそも、今いる場所がどこなのかすら分かっていないのだ。
「............」
ふと、無惨は衣服へと視線を落とした。
着ているのは、見慣れた西洋風の衣服だった。
先ほど、閻魔大王によって首から下を消し飛ばされた際、身に着けていた衣服もろとも消滅したはずである。それにもかかわらず、今は何事もなかったかのように元へ戻っている。
肉体だけでなく、衣服まで再生したということなのか。あるいは、閻魔大王が何らかの手を加えたのか。無惨には判断できなかったが、今はさして重要な問題でもない。
「まあ、いい。これならば怪しまれずには済むか......」
少なくとも、裸同然の姿で人里を歩き回る羽目にはならずに済んだ。あとは、余計な騒ぎを起こさずに情報を集めるだけだ。
無惨は歩きながら、今後の方針について思考を巡らせた。今となっては、柱ですら本当に取るに足らない虫ケラ以下の存在だ。あの忌々しい鬼狩りどもが今も生き残っているとは思えない。満身創痍であったし何よりも痣を発現していた。だが、子孫が存在している可能性はある。血を与えた鬼達は全員消滅しただろうが万が一に備え呼吸法ぐらいは残してはいるだろう。
そうなれば、ほんの少し面倒だ。
もっとも――。
「クク......」
無惨の口元が、わずかに吊り上がった。
「今の私に敵う者など、もはや地上には存在しないがな」
太陽を克服した肉体。
以前とは比較にならないほど強化された身体能力。
そして、死という概念さえも遠ざけたかのような異常な生命力。
西洋風に表現するならば、まさしくパーフェクト。
ーー完全なる存在。
長年追い求めてきた悲願は、すでに達成されたのだ。今さら、鬼狩りどもに怯える理由などない。
仮に生き残りがいたところで、こちらから手を出す必要もないだろう。
問題は、それ以外のことだった。
人間。
長年利用してきた存在であり、同時に、幾度となく計画を狂わせてきた存在。
かつての無惨であれば、気に入った人間を鬼へと変え、自身の手駒として利用することに何の躊躇もなかった。
だが、今は違う。
「......わざわざ、あのような連中を増やす必要もないか」
無惨は鼻を鳴らした。
そもそも、今の自分には配下など必要ない。
誰かに命令する必要もなければ、誰かの力を借りる必要もない。何より、どうでもいい虫ケラどもに、この超越者たる自身の血を分け与えるなど、考えただけでも不愉快だった。
もっとも、興味がないと言えば嘘になる。
今の自分の血を人間に与えれば、一体どうなるのか。
以前とは比較にならない力を持つ鬼が誕生するのか。それとも、想像もつかない別の変化が起こるのか。
確かめてみたいという好奇心はあった。
だが――。
「無駄は嫌いだ」
無惨は即座に考えを切り捨てた。
好奇心を満たすためだけに、わざわざ手駒を増やす必要はない。かつての自分は、数多くの鬼を生み出してきた。
しかし、その結果はどうだったか。
上弦の壱であった黒死牟ですら、複数の柱を相手に敗れた。あれほどの実力者でさえ、最後には討ち取られたのだ。
もちろん、黒死牟の敗北には複雑な事情があった。だが、それを差し引いても、無惨が得た教訓は明白だった。手駒など、数を揃えればよいというものではない。個々の能力がどれほど高かろうと、結局のところ、無能な存在は無能なのだ。そして何より、配下を増やせば増やすほど、余計な問題まで増えていく。そんなものに時間を割くくらいなら、自分一人で行動した方がよほど効率的だった。
「今は、いつもどおり高貴な存在を演じておくとしよう」
人間社会に溶け込み、必要な情報だけを手に入れる。無駄に憎しみを買わず、余計な敵を作らない。
実に不本意ではあるが、それが最も合理的な選択だった。そもそも、無惨は鬼狩りどもとの長い戦いを通じて、嫌というほど学ばされていた。
敵を作ることの愚かさを。
そして、思いどおりにならない事態を招くことの煩わしさを。
かつては、人間など恐れるに値しない存在だと考えていた。だが、どれほど弱い存在であろうと、敵に回せば面倒なことになる。
それが大勢となれば、なおさらだ。
そんな面倒事に付き合う理由などない。
「......それにしても」
無惨は、歩きながら自分の身体を意識した。
空腹は感じない。
人間の肉を食べたいという衝動もない。
以前の鬼としての性質が、どこまで残っているのかは分からないが、少なくとも今のところ、人間を捕食する必要性は感じられなかった。
ならば、無理に人を襲う必要もない。
無惨は頭の中で今後の方針を整理し、ひとまず納得した。もっとも、それは相手の態度次第だ。
自分を敬い、余計な干渉をしてこないのであれば、わざわざ殺す必要もない。よほど自分を愚弄する愚かな人間でも現れない限り、今後は誰にも手を出さずに過ごすことにしよう。
無惨は思考を巡らし、今後の方針を決めた。
しばらく考えながら歩いていた、そのときだった。
「............ん?」
視界の端で何かが動いた。足を止め動いた先へ視線を向ける。
周囲には、自身の背丈ほどもある雑草が群生している。草原といっても、どこもかしこも短い草が生えているわけではないらしい。場所によっては視界を遮るほど背の高い草が生い茂っている。
その草むらの一角が、がさりと揺れた。
風が吹いたわけではない。
何かが、そこにいる。
「……何者だ?」
やがて、草むらの奥から一つの影が姿を現した。
それは、無惨がこれまで見たこともない生物だった。
「......何だ、これは?」
思わず、そんな言葉が漏れる。
全長は二メートルほど。
高さだけなら無惨自身よりも低いが、全身の輪郭は異様だった。
後ろ脚で身体を支え、二本の脚で地面を歩いている。特に目を引くのは、その脚に備わった鉤爪だ。
鋭く湾曲した爪が、獲物を引き裂くための道具であることを物語っていた。頭部からは鳥の嘴を思わせるものが突き出している。全体的な特徴だけを見れば、どこか鳥に似ている。
だが、無惨の知る鳥とは明らかに違っていた。
こんな生物は見たことがない。
少なくとも、無惨が生きていた時代の日本で、このような生物を見かけた覚えはなかった。
そもそも、これは本当に鳥なのか。
鳥に似た別の生物なのか。
それとも、知らない生物なのか。
興味深そうに目の前の生物を観察を続ける。
て人間社会の情報を集めるつもりでいたが、まさか人間どころか、見たこともない生物に出会うとは
ここは、一体どのような世界なのだろうか。
閻魔大王は、いったい自分をどこへ放り出したのか。
そんな疑問が脳裏をよぎる。
そして――。
無惨が思考に囚われていた、その一瞬。
目の前の生物が突然動いた。
「............は?」
気づいたときには、遅かった。
生物は地面を蹴り、無惨へと飛びかかってきた。
巨体が視界を覆う。
次の瞬間、無惨は地面へ押し倒されていた。
馬乗りにされたような格好で、謎の生物が無惨を見下ろしている。
無惨は、何が起きたのか理解するまでに一瞬を要した。いや、正確には理解することを拒んでいたのかもしれない。
この私が。
鬼舞辻無惨が。
得体の知れない生物に、地面へ押し倒されている。
それだけでも屈辱的だった。
だが、さらに追い打ちをかけるように、生物は鳥のような嘴を大きく開いた。
どうやら、無惨を捕食対象として認識しているらしい。
狙いは頭部。
どのような生物であれ、頭部は重要な器官が集中する急所だ。獲物の息の根を素早く止めるため、そこへ噛みつこうとしているのだろう。人間であれば、絶体絶命の状況だった。相手は二メートルほどもある未知の生物。突然の襲撃に対応できず、地面へ押し倒された状態で、頭部に鋭い嘴を突き立てられようとしている。逃げることも、抵抗することもできなければ、命を落としてもおかしくはない。
だが――。
鬼舞辻無惨にとって、そんなものは何の意味もなさなかった。
「............」
無惨の顔から、すっと表情が消えた。
目の前に迫る嘴。
自分を獲物としか認識していない生物。
そして、地面に押し倒されたという事実。
それらを認識した瞬間、無惨の胸中で何かが弾けた。
「............貴様」
低く、冷たい声が漏れる。
「誰に向かって、牙を剥いている?」
次の瞬間。
無惨の両手から、無数の触手が生えた。
それは、痣を発現させた柱ですら認識できないほどの速度だった。
空気を切り裂き、幾重にも分かれた触手が、目の前の生物へと殺到する。
回避する余地などない。
反応する時間すらない。
生物が嘴を振り下ろすよりも早く、無惨の攻撃は完了していた。
――ドッ。
鈍い音すら、ほとんど響かなかった。
次の瞬間には、生物の姿が消えていた。
血も、肉片も、何も残らない。
ただ、そこにあったはずの存在が、跡形もなく消し飛んでいた。
まるで、初めから何も存在していなかったかのように。
「............」
無惨は、しばらくの間その場に横たわっていた。
そして、ゆっくりと上体を起こした。
衣服についた草を払い、立ち上がる。
身体に傷はない。
当然だ。
あの程度の生物に、今の自分を傷つけられるはずがない。
そんなことは、最初から分かりきっている。
ーーだが。
「............」
無惨の額には、青筋が浮かんでいた。
怒り。
屈辱。
そして、言いようのない不快感。
あの生物は、自分を獲物だと判断した。
食らおうとした。
この、鬼舞辻無惨を。
太陽を克服し、完全なる存在へと至った、この自分を。
「............クソが」
吐き捨てるように呟く。
油断した。今まで野生動物は自分の姿を認識した瞬間逃げ出し襲ってくることなどなかった。
これほどの屈辱があるだろうか。
無惨は拳を握り締めた。
目の前の生物が消え去った場所を睨みつける。
「この私を......食らおうとしただと?」
声が震えていた。
恐怖ではない。
純粋な怒りだった。
自分は、もはや誰にも脅かされない存在のはずだ。
継国縁壱ですら、今の自分にはおそらく敵わない。
あの忌々しい鬼狩りどもなど、もはや相手にすらならない。
それなのに。
この世界では、名も知れぬ生物に不意を突かれ、地面へ押し倒された。
たとえ傷一つ負わなかったとしても、その事実は変わらない。
「............いいだろう」
無惨は、ゆっくりと顔を上げた。
怒りに歪んでいた表情が、次第に冷静さを取り戻していく。
「まずは、この世界について知る必要があるようだな」
ここがどこなのか。
どのような生物が生息しているのか。
そして、人間はどこにいるのか。
何も分からないまま行動するのは、愚か者のすることだ。人里を探し情報を集める。
その目的に変わりはなかった。
ただし――。
「次に私へ牙を剥く愚か者がいたら、跡形もなく消し飛ばしてやる」
それだけは、心に決めた。
無惨は再び歩き始めた。
果てしなく広がる草原を、人里を求めて。
その胸中には、完全なる存在となった自分への絶対的な自信と、先ほどの屈辱に対する激しい怒りが渦巻いていた。
◇
その後も無惨は探索を続けていた。
人里を探し情報を集める。当初の目的は今も変わっていない。
だが――。
「…………どこまで歩けば人間の一人くらい見つかるのだ」
無惨の口から苛立ちを含んだ呟きが漏れた。
歩けども、人影は見当たらない。それどころか、人間が暮らしていた痕跡すら発見できなかった。
道もなければ建物もない。畑らしきものも、人工的に作られたと思われるものも何一つとして見つからなかった。
見渡す限り広がるのは草原と森林、そして遠方に連なる山々ばかり。まるで、この世界には人間という生き物が存在しないかのようだった。
「…………チッ」
何度目か分からない舌打ちが漏れる。
しかし、彼を苛立たせているのは人間が見つからないことだけではなかった。
周囲を探索しているうちに、彼は何度も奇妙な生物と遭遇していたのだ。
いや、奇妙という言葉では足りない。
先ほど出会った、あの鳥に似た生物。あれと同じような特徴を持つ生物がこの一帯には数多く生息しているらしい。
大きさも姿形も実にさまざまだった。
ある場所では、巨大な身体を持つ生物が地面に生えた草を黙々と頬張っていた。別の場所では、異様なほど長い首を持つ生物が木々の間に立ち尽くしていた。
その首は周囲の木々を見下ろすほどに長い。しかも、こちらに気づいているのかいないのか無惨が近くを通りかかってもほとんど動こうとしなかった。
そして、また別の場所では――。
「ギャアアアアッ!」
「…………またか」
目が合った瞬間、雄叫びを上げながら襲いかかってくる生物もいた。
大きな口を開き鋭い牙を剥き出しにして獲物を仕留めようと突進してくる。その姿は先ほど無惨に襲いかかった生物と同様どこか現実離れしていた。
もっとも、無惨にとってはもはや驚くほどのことでもなかった。
「鬱陶しい」
次の瞬間、無数の触手が生物の身体を貫いた。
巨体が弾け飛ぶ。血肉すら残さず消滅したそれを一瞥すると無惨は何事もなかったかのように歩き出した。
別の生物が襲いかかってきても同じだった。
近づいてきたもの。敵意を向けてきたもの。そして、無惨自身が気に入らないと判断したもの。その悉くを彼は跡形もなく葬り去った。
最初に出会った愚か者の例がある。今さら相手がどのような姿をしていようと警戒を緩めるつもりはなかった。もっとも、警戒というよりは、腹立たしい存在を排除しているだけなのだが。
「まったく……。どいつもこいつも、私を何だと思っている」
この世界の生物は、どうやら自分を見れば襲いかかってくるものが少なくないらしい。自分が何者なのかも知らず、恐れもせず、平然と牙を剥いてくる。
なんとも愚かな生き物たちだ。
もっとも、彼らに無惨の正体を理解しろという方が無理な話なのだが本人にそんなことを考慮する気はなかった。
しかし――。
「…………待てよ」
ふと、無惨は足を止めた。
目の前を横切っていく巨大な生物。その姿を眺めながら彼は何かを思い出しかけていた。
見たことがある。いや、正確には生きている実物を見たことがあるわけではない。
あくまでも書物や模型で目にしたことがあるというだけだ。鬼狩りどもとの戦いや青い彼岸花の研究に没頭していた頃には、さほど気にも留めなかった知識。
だが、今になって考えてみれば――。
「…………恐竜、だったか?」
その言葉を口にした瞬間、無惨の脳裏に遠い過去の記憶が蘇った。
そうだ。確か、私が殺される数年前だっただろうか。書物や模型を通じて、そうした生物に関する話題が急速に広まっていたような気がする。
人間たちが、遥か昔に存在していた生物について研究し始めたのだ。
当時の無惨にとって、それは特段興味を引く話題ではなかった。人間が何を研究しようと、自分の目的とは何の関係もない。
鬼狩りどもを始末し、青い彼岸花を見つけ、完全なる存在へと至る。それ以外のことなど、どうでもよかったのだ。
とはいえ、暇つぶしに一冊くらい読んでみようと思ったことはあった。
確か、手元に恐竜について書かれた書物があったはずだ。遥か古代に存在した生物について、何やら詳しく記されていたような気がする。
しかし――。
「…………猗窩座め」
無惨の眉間に、深い皺が寄った。
そうだ。あのとき、猗窩座がいつもどおり何の価値もない報告を持ってきたのだ。無惨にとっては、聞く価値すらないようなくだらない内容だった。そのせいで苛立ちちょうど手に持っていた書物を破り捨ててしまったのである。結局、最後まで読み切ることはなかった。
今思えば、あのとき少しでも目を通しておけばよかったのかもしれない。もっとも、あの場で猗窩座の報告を聞かされたことを思い出すだけで、今でも腹立たしい気分になる。何百年も何一つ青い彼岸花に関する情報を持ってきた試しがない。そればかりか敵であるはずの鬼狩り供を勧誘する始末だ。金は稼がず女は見逃し、上昇志向こそ評価してやったが何度か上弦の鬼としての再生能力が無ければ討ち取られていた場面もある。甘やかしすぎたのではないか…
「…………まあいい」
過去の記憶を頭の片隅へ追いやる。
重要なのは、そこではない。
恐竜。確か、遥か古代に生息していた生物だったはずだ。
少なくとも、私が生きていた時代にこんな生物がそこら中を歩き回っていたわけではない。書物や模型で存在を知ることはあっても実際に目にしたことなど一度もなかった。それなのに、今いるこの場所ではどうだ。
大小さまざまな恐竜らしき生物が当たり前のように草原を歩き木々の間を移動し、時には無惨に襲いかかってくる。
まるで、彼らがこの世界の主であるかのように。
「…………おかしい」
無惨の表情から、苛立ちが薄れていった。
代わりに浮かび上がったのは、純粋な疑念だった。
何故、このような生物が存在している?
そもそも、ここはどこなのだ?
これまでの行動を振り返る。
青い彼岸花を探すため日本中を歩き回った。自らの血を分け与えた鬼たちを利用し、その目を通じて各地の情報を集めたこともある。人間社会に紛れ込みさまざまな土地を訪れたこともあった。
それほどの年月を費やし、広範囲にわたって情報を集め続けてきたのだ。
ーーそれなのに。
このような生物を見たことは一度もなかった。
噂すら聞いた覚えがない。
仮に、海の向こうにある異国の地だったとしても、これほど規格外の生物が生息しているのなら、何らかの話が伝わっていてもおかしくはないはずだ。
ましてや、これほど多くの種類が存在しているのだ。単に珍しい生物がいるという程度の話では済まない。
この世界の常識そのものが、自分の知っているものとは異なっている。
「…………まさか」
無惨の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。
…いや、まさか。そんなことがあるはずがない。
そう考えようとした。だが、一度浮かんだ疑念は簡単には消えてくれなかった。
自分がいた国ではない海の向こうの世界。それならば、まだ理解できなくもない。
しかし、先ほども考えたとおり、これほど異様な生物が数多く生息しているのなら何らかの情報が伝わっていてもよいはずだ。
では、他に何が考えられる?
目の前を歩く巨大な生物を観察する。
その巨体。異様な姿形。そして、現代の人間が生きた化石として語るような遥か古代の生物たち。
もしも――。
もしも、この場所が。
遥か昔の世界なのだとしたら?
「…………」
無惨は黙り込んだ。
自分が生きていた時代よりも、未来の世界に来た。そう考えていた。
だが、それ自体が間違いだったとしたら?
閻魔大王によって地獄へ落とされ首から下を消し飛ばされ、その後にこの世界へと放り出された。その過程で、時間すらも遡っていたとしたら?
そもそも、あの閻魔大王という存在がどれほどの力を持っているのかすら分からない。
理解できない現象が起きたからといって、それを不可能だと断定することはできないのだ。
「…………ふざけるな!」
無惨の口から、低い声が漏れた。
遥か古代の世界。人間の文明も自分が知る医学も、これまで積み上げてきた知識も存在しない時代。
もし、そんな場所に放り出されたのだとすれば。
人里を探しても見つからないことに説明がつく。見覚えのない生物ばかりが生息していることにも説明がつく。そして、知っている世界の常識がまるで通用しないことにも。
もちろん、まだ確証はない。ただの推測にすぎない。
だが、これまでの状況を考えれば決して無視できる可能性ではなかった。
無惨は、拳を強く握り締めた。
「私が……この私が、そんな時代にいるだと?」
…あり得ない。あってはならない!
私は太陽を克服した。鬼としての長年の悲願を達成し完全なる存在へと至ったのだ。
それなのに、なぜ。こんな場所で得体の知れない生物を相手にしなければならない?
人間を探すことすらままならず、世界の正体さえ分からない。知識も、経験も、これまで築いてきたものも、何の役にも立たないかもしれない。
「…………ッ!」
無惨の顔が怒りに歪んだ。
先ほどの生物に襲われたときとはまた違う種類の怒りだった。
あのときは、己を獲物扱いした愚かな生物への怒りだった。だが今は違う。置かれた状況そのものに対する言いようのない苛立ち。そして、胸の奥底から湧き上がってくる最悪の可能性への拒絶だった。
もし本当に遥か古代の世界なのだとしたら。
私は一体、どれほどの年月を遡ったというのだ?
人間は存在するのか。存在するとしていつになれば自分の知る文明が生まれるのか。それ以前に、この世界から元いた時代へ戻る方法はあるのか。
考えれば考えるほど答えの出ない疑問ばかりが増えていく。
そして、無惨はようやく理解した。
今の自分は何も分かっていない。
どこにいるのかさえ。
「…………閻魔大王」
無惨は、憎々しげにその名を呟いた。
「貴様……一体、私をどこへ送り込んだ?」
問いかけに答える者はいない。
ただ、草原を吹き抜ける風がざわざわと草木を揺らしているだけだった。
遠くでは、巨大な生物が長い首を持ち上げ、空を見上げていた。
その光景を目にしながら、無惨は再び思考を巡らせる。
まだ決まったわけではない。この世界が本当に遥か古代なのか確かめる必要がある。
人間を見つける。情報を集める。そして、置かれた状況を把握する。
それ以外に、取るべき道はなかった。
だが――。
無惨の胸中では、すでに最悪の想定が急速に膨らみ始めていた。
自分が生きていた時代よりも、遥か昔。人間の文明すら存在しないかもしれない、未知の世界。
もし、それが現実なのだとしたら。
この鬼舞辻無惨にとって、これほど不愉快な事態はなかった。
だが、彼はまだ知らない。
この世界が、想像を遥かに超える場所である可能性を。
抱き始めた疑念さえ、ほんの入り口にすぎないということを。