月に変わって⚪︎⚪︎よ! 作:彩葉とヤチヨはどれだけ曇らせてもいい
「―――そういえば、幽くんの誕生日だね」
営業時間も終わりに差しかかった頃。
そんなことを言い出したのは、私のアルバイト先であるBAMBOO cafeの店長だった。
どう考えても私に降りかかる負担がでかすぎるだろ、と内心で怨嗟を吐き出しながら、なんとか乗り切った嵐のようなピークタイム。体力も気力もほとんど残っておらず、へろへろの身体に鞭を打ってレジ締め作業を進めていた矢先のことだった。
「水無月さん、ですか?」
「そうそう、その幽くん」
まあ、幽なんて珍しい名前だ。該当する名前で、私と店長の
六月四日。
それが、私の住んでいるアパートの隣人――水無月さんの誕生日だった。
「今日は幽くん来なかったから、お祝いできないなあ」
「水無月さん、誕生日とかに興味なさそうですもんね」
「そうそう、そうなんだよ。彼が酒寄さんぐらいの頃はまだ覚えてたんだけど、卒業してからはね――――」
店長の話を聞き流しながら、レジ金の金額を確認する。
そんな私の頭の中には、いつもにへらと笑っている水無月さんの姿が浮かんでいた。
そういえば、水無月さんと出会ってから、もう一年以上経つのか。
時間が経つのは早いなあ。
初めて会った頃は、まさかこんなに頻繁に顔を合わせるようになるとは思っていなかった。今では、隣の部屋から物音が聞こえたり、ベランダに人影が見えたりするだけで、なんとなく彼の存在を意識してしまう。
それが当たり前になっていることに、少しだけ不思議な気持ちになった。
そんなことをぼんやりと思っていると。
「――酒寄さんは、なにか渡すの?」
「――っえ? 何をですか?」
「さては、話を聞いてないね……」
色々と考え込んでいたせいで、急に名前を呼ばれてびっくりした。
どうやら、店長の長話を聞き流していたことがバレてしまったらしい。
「おじさん、悲しくなっちゃうなあ」
そう言って、店長は大げさに肩を落とすと、一息ついた。
「幽くんへの誕生日プレゼントだよ」
「あぁ〜。いつもお世話になってるので、せっかくだから渡したいんですけど……」
「けど?」
何か用意しようとはした。
したのだけれど。
思い出す。
あれは、去年のことだ――。
※
「――そういえばなんですけど、水無月さんって誕生日いつなんですか?」
去年の夏休み。
その日はアルバイトもなく、これといった予定もなかった。せっかくの休みを無駄にするのも惜しくて、朝から夏休みの宿題に取り組み、ついでに予習復習までこなすという、我ながら真面目な一日を過ごしていた。
窓を閉め切り、扇風機を全力で回す。
机に向かい続けて、どれくらい経っただろうか。
ふと顔を上げると、グラスに注いでいた麦茶はすっかりぬるくなっていた。勉強に集中しすぎて、飲むことさえ忘れていたらしい。
背伸びを一つして、窓の外に目を向ける。
いつの間にか、空はすっかり暗くなり始めていた。
そのとき、隣のベランダからふわりと
水無月さんだ。
そう思った私は、一日中誰とも話していなかったこともあって、気分転換がてらベランダへ出ることにした。
挨拶もそこそこに、他愛のない世間話を交わす。
特別な話をしていたわけではない。今日の天気だとか、学校生活のことだとか、本当にどうでもいい話ばかり。
それなのに、水無月さんと話していると、気づけば時間が経っている。
そうして、何気ない会話の流れで口にしたのが、冒頭の質問だった。
「……誕生日? なんでまた」
心底不思議そうに、水無月さんが小首を傾げた。
「いつもお世話になってるのでっ。あと、前にお祝いしてもらったので、そのお返しも兼ねて」
「気にしなくていいのに、そんなこと」
そう言って、水無月さんは困ったように笑った。
伸ばした髪の隙間から覗く琥珀色の瞳が、細くなる。先ほどまで手にしていた煙草は、いつの間にか火が消されていた。彼はそれを長い指先で灰皿に押しつけると、こちらに向き直る。
……なんか、一々絵になるな、この人。
まるで、神様が自分の美的感覚を惜しみなく注ぎ込んで作ったような見た目だ。
本当に。
暗くなり始めた景色の中で、宵闇に溶け込むような黒髪が揺れる。角度によって金色にも見える琥珀色の瞳は、少し垂れ気味で、どこか柔らかな印象を与えていた。すっと通った鼻筋に、形の整った唇。線の細い中性的な顔立ちとは裏腹に、肩幅は広く、すらりと伸びた背丈は
何度見ても、見慣れる気がしない。
ふと目が合うと、彼はいつものように柔らかく目を細めた。
……ああ、ずるい。
そんな顔をされたら、こっちまでつられて笑ってしまうじゃないか。
本人はそんな周囲の視線など気にも留めていないのだから、余計に
「あんまり気にしてないから、本当にいいよ。気にしないで」
「良くないですっ。水無月さんが気にしなくても、私が気にするので」
「……そーゆー感じか」
「そーゆー感じです」
私の返事に、これ以上は断れないと悟ったのだろう。水無月さんは小さく息を吐いた。
え、そんなに嫌?
私に誕生日を知られるのが、そんなに嫌なの?
少しむっとしたものの、ベランダの手すりに肘をつき、頬杖をついている彼の横顔を見ていると、そんな感情もどこかへ消えてしまった。
はぁああ? 無駄に面が良いな、この人。
こうして眺めていると、人物画でも鑑賞しているような気分になる。
「――六月だよ」
んん〜〜〜っ??
「…………何て?」
そんな気分が、綺麗さっぱり吹き飛んだ。
あまりにも予想外の言葉に、思わず聞き返す。たぶん、いつもより声も低かった。
「いや、だから。――六月。六月の四日」
続く言葉は、さらに衝撃的だった。
私は机の上に置いていたスマホを取りに部屋へ戻り、画面を確認する。
そこに表示されていた日付は――八月二日。
ほぼ二か月前である。
「は、は――はぁあああ!?」
「……どしたの、急に」
「どうしたの急に、じゃないですよ!? もう過ぎてるじゃないですか!! 二か月も!!」
「まあ、過ぎてるね。あんまり自分の誕生日とか気にしたことないから」
何という男なのだろうか、この人は。
上京してきて以来、何かとお世話になっている。困ったときには助けてくれるし、こちらが何も言わなくても気づいてくれる。以前、私の誕生日を知ったときだって、プレゼントを用意して祝ってくれた。
それなのに。
自分の誕生日は二か月も過ぎてから、他人に尋ねられてようやく答える始末。
どれだけ恩を積めば気が済むのだ、この人は。
――――恩も返せへん子に育てた覚えあらへんよ。
ふと、母の言葉が頭をよぎった。
まさにその通りだ。
けれど、事あるごとにこちらが年下なのを理由に、のらりくらりと恩を返させてくれない。何かお礼をしようとしても、いつも、「大したことじゃない」と笑って済ませてしまう。
そんな私にとって、これは一大
その機会を、まるごと逃していたなんて――。
「……そんな百面相して、どうしたの彩葉ちゃん」
「だ、だれの――――っ!」
誰のせいだと思ってるんだ、この人は!
そう言い返したいのに、本人を目の前にすると、どうにも言葉にしづらい。
結局、勉強机に置いたままの、すっかりぬるくなった麦茶と一緒に言葉を一息に飲み込んだ。
その後、私は一応、遅ればせながら何か贈ろうとした。
けれど、水無月さんはいつもの調子で「気にしなくていいよ」と笑い、こちらが食い下がっても、結局うまくかわされてしまった。
あの人は、そういう人だ。
自分が誰かに何かをしてあげることには何のためらいもないくせに、誰かから何かをしてもらうことには、ひどく遠慮がちになる。
だから、去年は結局、何も渡せなかった。
それが、少しだけ心残りだった。
もちろん、恩返しがしたいという気持ちはある。
でも、それだけではないのかもしれない。
あの人が喜ぶ顔を見たい。
自分が選んだものを受け取って、いつものように笑ってくれたらいい。
そんなことを、あのときから考えていた気がする。
――でも。
今年は、違う。
※
気づけば、レジ締めの手は止まっていた。
「……酒寄さん?」
「っあ、すみません!」
「いやいや。考え事?」
「ちょっと、去年のことを思い出してました」
「そっかそっか」
店長はそれ以上追及することなく、にこにこと笑っている。
「で、どうするの? 幽くんに何か渡すんでしょ?」
「はい。去年は渡せなかったので、今年こそはって思ってます」
「おお、いいじゃない」
「ただ、あんまり大げさなものを渡しても、また遠慮されそうなので……」
「あぁ〜。……幽くんらしいねえ」
店長は苦笑する。
私もつられて、小さく笑った。
高価なものを贈りたいわけじゃない。
ただ、いつもお世話になっている人の誕生日を、今年こそはちゃんとお祝いしたい。それだけだ。
……それに、できることなら。
ほんの少しでも、彼の記憶に残るような一日にできたらいい。
そんなことを考えている自分に気づいて、私はそっと視線を落とした。
「それなら、気負わずに渡してあげたらいいんじゃないかな。あの子も、酒寄さんからなら喜ぶと思うよ」
「……そうだといいんですけど」
「大丈夫、大丈夫」
一拍置いて。
「彼が小さい頃から知っている僕が言うんだ、絶対喜んでくれるさ」
そう言って、店長はいつもの調子で笑った。
閉店作業を終え、店を出る頃には、夜もすっかり深まっていた。
帰宅してから、冷蔵庫を開ける。
中に入っているのは、今日のために用意しておいた小さなホールケーキだ。
去年は、誕生日を知ったときにはもう遅かった。
今年は、ちゃんと当日に渡せる。
それだけのことなのに、妙に落ち着かない。
別に、大したことをするわけじゃない。
ケーキを渡して、おめでとうと言う。それだけだ。
……それだけなのに。
箱の中身を確認する。
苺の並びも、飾りつけも、何度も確認した。崩れていないことは分かっているのに、どうにも気になってしまう。
……喜んでくれるだろうか。
甘いものは嫌いじゃなかったはず。以前、一緒に食べたケーキも美味しそうにしていた。
そんなことまで思い返している自分に、少しだけ苦笑した。
たかがケーキ一つで、何をこんなに気にしているんだろう。
箱を冷蔵庫に戻し、時計に目を向ける。
もう少ししたら、渡しに行こう。
そう思っていた矢先、隣のベランダから窓の開く音が聞こえた。
そちらへ目を向けると、水無月さんがベランダに出てきたところだった。
どうやら、いつもの休憩らしい。
かちり、と小さな音が鳴った。
それから少し遅れ、いつもの煙草の煙がゆらりと揺れ、私のベランダに顔を出していた。
……また吸ってる。
そんなことを思いつつ、私は冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
吸い始めたところ悪いが、タイミングが良い。
今だ――っ!
「水無月さーん!」
ベランダへと飛び出して、隣へ向かって声をかける。
気づいた水無月さんが、私の声に少し驚いたように顔をこちらへ向けた。
目が合う。
いつもの、少し眠たげな琥珀色の瞳。
それだけで、さっきまで胸の中にあった緊張が、別のものに変わった気がした。
「バイトお疲れ様彩葉ちゃん。急にどうしたの?」
「ありがとうございます――じゃなくて。ちょっと、こっちに寄ってきてもらってもいいですか?」
「いいけど」
水無月さんは点けたばかりの手元の煙草を片付けてから、こちらへ近づいてきた。
その姿を見ながら、私は抱えていた箱を差し出す。
「はい。これ、どうぞ」
「……これは?」
心底不思議そうである。
「ケーキです」
「ケーキ?」
「今日、誕生日ですよね?」
そう告げると、水無月さんは一度箱を見下ろし、それから少しだけ目を瞬かせた。
「……ああ。そういえば、今日だったか」
「もしかして、忘れてました?」
「うん。朝、日付は見たんだけどね。それだけ。彩葉ちゃんに言われるまで、すっかり忘れてた」
「もう……」
思わず呆れた声が漏れる。
分かっていたし、去年、誕生日を知ったときにも思ったけれど、この人は本当に自分のことに頓着しない。
でも、そんな彼が私の誕生日を覚えていてくれたことを、私はちゃんと覚えている。
だから、今日くらいは。
彼にも、自分が誰かに大切に思われていることを知ってほしかった。
「去年は間に合わなかったので。今年はちゃんと用意しておきました」
「ありがとう。わざわざ用意してくれたんだ」
「はい。受け取ってください」
「もちろん。大切に食べるよ」
水無月さんはケーキの箱を受け取ると、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
その表情を見ただけで、準備してよかったと思えた。
ああ、やっぱり。
この人の笑った顔が好きだ。
そう思いかけて、私は慌てて別のことを考える。
……いや、好きって、そういう意味じゃなくてっ。
いつもお世話になっている人だから!
大切な隣人だから! だから、喜んでくれると嬉しいだけ!!
そう自分に言い聞かせるように、私は小さく息を吐いた。
これで、去年の心残りも少しは晴れた。
そう思っていたのだけれど。
「……彩葉ちゃん」
「はい?」
急に名前を呼ばれて、どきりと胸が高鳴った。
「これ、今から一緒に食べない?」
「え?」
「せっかくケーキをもらったんだし、一人で食べるのももったいないから。よかったら、うちで一緒にどうかな」
思いもよらない提案だった。
渡して、お祝いの言葉を伝えて。それで終わりだと思っていた。
まさか、彼の方から誘ってくれるなんて。
胸の奥が、ふわりと浮き上がるような感覚に包まれる。
もちろん、ケーキを一緒に食べるくらい、私の誕生日の時にもしたし、ましてや隣人同士なら珍しいことでもない。
……はず。
それでも、彼の部屋で、彼と向かい合って、同じケーキを食べる。
そんな時間を想像しただけで、どうしてこんなに嬉しくなるのだろう。
「でも、私が用意したものですし……」
「だからこそ、だよ。せっかくなら一緒に食べたい」
水無月さんは、何でもないことのようにそう言った。
きっと、深い意味なんてない。
ただ、せっかくもらったケーキだから、一緒に食べようと誘ってくれている。それだけだ。
それでも。
彼の方から一緒に過ごそうと言ってくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「――……ダメ、かな?」
水無月さんの琥珀色の目が、子供のように不安からか垂れていた。
う、うぐぐ。
面が良すぎる、なんだその顔は。ふざけるな、断るつもりもなかったけれどそれは反則だろ!
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
そう答えたら、ぱぁっと目を開けてへにゃりと笑う。
ズルすぎるだろその顔面。
「良かった。合わせるのは紅茶でいい?」
「はい!」
「分かった。――じゃあ、準備しておくから」
水無月さんはそう言って、ケーキを手に部屋へ戻っていった。
私も一度自分の部屋へ戻り、スマホを手に取って隣の部屋に行こうとして――立ち鏡に目が止まった。
鏡の向こう側の私が、こちらをじっと見ている。
――そんなバイト終わりの、ぐしゃぐしゃな髪型でいくつもり?
そう嗜められた気がして、慌てて櫛を手に取った。
鏡の目の前で梳き流す。
前髪を流して、完璧。
ついでに笑顔が上手く作れるか、練習して。
鏡の中の自分に認められてから、ドアノブに手を掛けて外に出た。
夏の夜の湿った空気を吸って、ゆっくりと吐く。
たった数歩の距離なのに、いつもより少しだけ足取りが軽い。
インターホンを押すと、
「はーい、ちょっと待ってね」
彼の声がする。
扉の前で先ほども直した前髪を、スマホを利用して崩れてないか確認する。
初めて水無月さんの部屋に入る、そう思うと不思議と胸が高鳴った。
あれ、よくよく考えなくても異性の人の部屋に上がるのこれが初めてではないか?
もしや
心の中は四面楚歌。
あーでもないこーでもないと自問自答していると、がちゃりと扉が開いた。
「いらっしゃい」
私に扉が当たらないように慎重に開かれ、ひんやりとした空気が私の足元へ当たる。誘われた空間のその隙間から覗いたのは、人懐こいへにゃりとした笑顔。
「お――邪魔します」
声が裏返った。気恥ずかしさでどうにかなりそうなのを押し殺して、靴を揃えて玄関を上がる。
振り返り、顔を上げれば私の限界生活を表す部屋とは打って変わった落ち着いた空間が広がっていた。
部屋の中から、紅茶の香りが漂ってくる。匂いだけで嗅ぎ分けれるほど茶葉の良し悪しはわからないが、落ち着く品のある匂いだ。
テーブルの上には、私が渡したケーキが綺麗に切り分けられており、二人分のカップに水無月さんが紅茶を注いでいた。
全体的に黒と白を使った部屋作り。
セミダブルだろうか、私の寝てる煎餅布団と比べると天と地の差が出るほど、見ただけでわかる良さげなベッド。その横に立てかけられた年季の入ったアコースティックギター、作業用の机には高性能なデスクトップが音を立てて存在感を醸し出していた。
「そんなキョロキョロしても、多分彩葉ちゃんがお気に召すものないとおもうよ?」
そこで、声を掛けられて振り向くと、こちらを見て愉快そうに笑みを浮かべてティーポットを机に置く水無月さんの姿。
「ごめんなさいっ。男の人の部屋に入るの初めてで、つい」
まあ、幼少の頃は兄の部屋に行ってたのだが家族であって男として見た事はないのでノーカウントのはず。
謝りながらも脳内でそんな事を思ってると、水無月さんが、「気にしてないよ」と微笑んだ。
無意識に力んでいた肩から、ふっと力が抜ける。
そこで、改めて部屋の中を見回してみる。
見慣れないものばかりの中で、やっぱり気になるのは、壁際に立てかけられたギターだった。
「水無月さんって、ギターされるんですね」
何気なく口にした言葉だった。
けれど、水無月さんは一度ギターに目を向けると、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「うん。まあ、
「へえ……。なんだか意外です」
「そう?」
「はい。水無月さんって、そういうのをされるイメージがあまりなかったので」
「それはちょっと心外だなぁ」
そう言いながらも、彼は気にした様子もなく笑っている。
詳しく聞いてみたい気もしたけれど、せっかく用意してくれた紅茶も冷めてしまう。
何より、今日は彼の誕生日なのだ。話を聞くのは、また別の機会でもいいだろう。
「ほら、座って。紅茶が冷めちゃう」
「あ、はい!」
促されるまま、水無月さんの向かいの席に腰を下ろす。
目の前には、綺麗に切り分けられたケーキと、湯気の立つ紅茶。
その光景を眺めていると、ようやく今日という日を一緒に過ごしている実感が湧いてきた。
咳払いを一つ、声は裏返らないように……っ。
「こほん。それじゃあ、改めて。――お誕生日おめでとうございますっ! 水無月さん」
「ありがとう、彩葉ちゃん」
そうして、二人でケーキを切り分けた。
フォークを手に取る前に、向かいに座る彼の顔をそっと見る。
いつもと変わらない、穏やかな表情。
今日が自分の誕生日だということさえ、きっと明日には忘れてしまうのかもしれない。
それでも、六月四日という日付を目にした時。
私と過ごした今日のことを思い出してくれたらいいな――少しそう思う。
それに、忘れたとしても今日この時間だけは、私が覚えている。
彼が生まれた日を。
彼がここにいてくれることを。
そして、こうして隣にいられることを。
来年も、再来年も。
こうして彼の誕生日を祝えたらいい。
そんな願いを胸の奥にしまい込み、私は目の前のケーキにフォークを伸ばした。
ケーキを食べ終え、紅茶を飲みながら他愛のない話を続けていたときだった。
ふと、ベッド脇の棚に並べられた品々が目に留まった。
小さなアクリルスタンドに、缶バッジ、ポストカード。どれも白い髪の少女――ヤチヨをモチーフにしたグッズだった。
「あれ……もしかして、ヤチヨのグッズですか?」
「ああ、うん。そうだよ」
「やっぱり! 水無月さんもヤチヨが好きなんですか?」
思わず声が弾んでしまう。
まさか、こんなところでヤチヨの話ができるとは思っていなかった。普段の水無月さんは、あまり自分の趣味について話す印象がない。だからこそ、少し意外だった。
「好き、というか……曲を聴いたり、ライブを観たりするのは好きかな」
「わかります! ヤチヨって本当にすごいですよね。とにかく可愛いくて、どんな表情してても可愛い所しかなくて! と、思ったら徐に凛々しい表情してドキドキさせてきたり! 歌ももちろんよくて、私が一番好きなのはヤチヨのデビュー曲なんです! あれを聞いて私は救われたといっても過言じゃなくて、それに一人一人のファンのことをちゃんと見てくれてて、すごく大切にしてくれるところとか、あんなに大勢の人に愛されているのに、一人ひとりに向き合おうとしてくれるというか――――っ! ご、ごめんなさい」
は、恥ずかしい。
水無月さんとヤチヨについて語れると思わなくて、思わず一息に語ってしまった。
だけど、水無月さんはそんな私を見て、小さく笑った。
「ふふ。好きなんだね、ヤチヨのこと」
思わず全身が熱くなる。
「はい、大好きです」
即答すると、水無月さんはまた穏やかに笑った。
その笑みに居た堪れなくなって、私は話題を変えた。
「でも、結構持ってるんですね。これって全部買ったんですか?」
棚に並んだグッズへ視線を戻しながら尋ねる。
「いや、買ったものもあるし、送られてきたものもあるよ」
「送られてきた?」
「――仕事関係でね。気が引けるから断ってるんだけど、何かにつけてね」
「へえ……! すごいですね。羨ましいです」
「大したことじゃないよ。まあ、あまり詳しくは話せないんだけど」
「あっ、そういうこともありますよね。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって」
「いや、気にしなくていいよ」
それ以上、水無月さんが詳しく話すことはなかった。私も無理に聞くようなことではないと思い、再び棚のグッズへと目を向ける。
「それにしても、ヤチヨのグッズがあるなんて思いませんでした。水無月さんって、普段あまりそういう話をしないから」
「そうかな?」
「そうですよ。なんだか意外です」
「はは。自分から話す機会がなかっただけかもね」
そんなやり取りを交わしながら、ヤチヨの曲やライブの話に花を咲かせた。私がお気に入りの楽曲について熱心に語ると、水無月さんも知っている曲の話を返してくれる。思っていた以上に話が弾み、気がつけば随分と時間が経っていた。
そのときだった。
「あ……そうだ」
水無月さんが何かを時計を見た後に、思い出したように声を上げ、手元のスマコンを手に取った。
「どうかしました?」
「ちょうどいいものがあったんだ」
そう言って、イタズラ少年のような表情を浮かべ、
「実は今日、このあとヤチヨのライブがあるんだけ ど」
「――えっ?」
思わず聞き返してしまった。
「招待されていてね。同行者を一人連れていける枠もあるんだ」
「今日、このあとですか?」
「うん。急な話になっちゃうけど……よかったら、一緒に行かない?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
今日、このあと――?
ヤチヨのライブに……?
………水無月さんと一緒に!?
頭の中で言葉を繰り返して、ようやくその意味を飲み込む。
「い、いいんですか!?」
「もちろん。彩葉ちゃん、ヤチヨのことが好きみたいだし。せっかくなら、一緒に楽しめる人と行きたいから」
「行きたいです! ぜひ行かせてください!」
気づけば、身を乗り出していた。
少し食い気味になってしまったかもしれない。けれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
まさか、こんな機会が巡ってくるなんて。
ヤチヨのライブは、私にとって何よりも楽しみな時間の一つだ。それを今日、水無月さんと一緒に楽しめる。考えただけで胸がいっぱいになる。
「ふふ。それならよかった」
「本当にありがとうございます! まさか今日、ヤチヨのライブに行けるなんて……!」
「誕生日のお礼、ということで」
「えっ、でも……」
「ケーキをもらえただけでも十分嬉しかったよ。だから、これは僕からのお返し」
そう言われて、私は少しだけ言葉に詰まった。
今日のために用意したケーキを、こんなに喜んでもらえただけでも嬉しかった。それなのに、こんな素敵なお返しまでしてもらえるなんて。
「……ありがとうございます」
「うん。じゃあ、そろそろ準備しようか。開演まであまり時間もないし」
「はい!」
弾んだ返事とともに、私もスマコンを取りに玄関先へと向かう。
「ログインしたらすぐの広場で待ってるから」
「――はい! すぐいきます! お邪魔しました!」
逸る気持ちが抑えきれない、ヤチヨのライブだなんて!
サイコーすぎる!
も、もちろん。今日が水無月さんの誕生日だということは、忘れていない。
ちょっとばかし、というかかなり私の方が貰いすぎだと思うけど――
まさか水無月さんの誕生日に、こんな素敵な思い出を一緒につくれるなんて思ってもいなかった。
ケーキを渡せてよかった。
心から、そう思った。
※
「――感謝感激雨アラモードっ! 今日もこんなにたくさんの神々のみんなの声が聞けて、ヤチヨは感激のあまりに泣いちゃいそうです!」
よよよ、とわざとらしく肩を震わせながら、端正な顔立ちにコミカルな涙を浮かべてみせる少女。
「泣かないでヤチヨ〜!」
「大好きだよー!」
先ほどまで彼女のライブに熱狂していたファンたちが、こぞって声援を送る。
その声を受けたヤチヨは、ぱっと満開の笑みを咲かせると、自慢の白髪をふわりと揺らした。
「ありがとうみんな〜! 優しい声援だらけで、ヤッチョは果報者なのです!」
そう言って、彼女は両手を打ち鳴らす。
「名残惜しいけど、今日のライブはここらで一旦クローズ! みんな、また会おうね!」
両手を大きく広げ、観客たちに別れを告げる。
現代風にアレンジされた着物の裾が翻り、足元から桜の花びらが舞い上がった。淡い光を散らしながら花びらが彼女の姿を包み込むと、次の瞬間には舞台からその姿が消えていた。
仮想空間だからこそ可能な演出。
利用者が一億人を超えるこの世界《ツクヨミ》で、管理者として、そして名実ともにトップに君臨する歌姫として。彼女だからこそ魅せられる光景に、思わず感嘆の息が漏れた。
「――凄いな、ホント」
歌声も、パフォーマンスも、観客を巻き込むステージングも。
どれを取っても一級品。画面越しや録音された音源で聴くのとは違う、ライブならではの熱量が確かにあった。
仮想空間であることを忘れそうになるほどの臨場感。
音が身体の内側まで響き、照明が視界を鮮やかに染め上げる。観客たちの歓声さえも演出の一部となり、会場全体が一つの生き物のように熱を帯びていた。
これだけの規模のライブを、たった一人で成立させているのだから大したものだ。
改めて、ヤチヨという存在の大きさを思い知らされる。
周囲を見渡せば、ライブの余韻に浸る観客たちの姿があった。
興奮冷めやらぬ様子で感想を語り合う者もいれば、まだ舞台のあった場所を見つめている者もいる。
その中でもひときわ目を引いたのは、隣にいた彩葉ちゃんだ。
「ヤヂヨォオオオオ――っ!」
よほど感極まったのか、ずびずびと鼻をすすりながら涙を流している。
普段の彼女からは想像できないほどの熱狂ぶりに、思わず苦笑が漏れた。
ライブが始まってからというもの、彩葉ちゃんは終始こんな調子だった。
曲が始まれば目を輝かせ、サビに差しかかれば身体を揺らし、ヤチヨが観客に向かって手を振れば、こちらまで届くはずもないのに一生懸命に手を振り返す。
その姿は、見ているこちらまで楽しくなってしまうほどだった。
まあ、これだけ喜んでくれたのなら、わざわざライブに連れてきた甲斐もあるというものだ。
「喜んでくれたようでなにより」
「っぐす。控えめに言ってサイコーでした! ありがとうございます、水無――ゴーストさん」
差し出したハンカチで涙を拭いながら、彩葉ちゃんが感極まった声で答える。
どうやら、まだ興奮が冷めきっていないらしい。
それにしても、僕のツクヨミでのプレイヤーネームを口にする際、少し言い慣れない様子で言い直したのが気になった。
「いろの言いやすい方でいいよ?」
「いっ、いろ……っ。心遣いは嬉しいですけど、ちゃんとそこら辺の線引きはしっかりしないと」
何気なく呼んだだけなのに、妙に反応されてしまった。
プレイヤーネームで呼ぶことにこだわりがあるのだろうか。
それにしても、やっぱりこの子は僕なんかと比べてよっぽどしっかりしているな、と思う。
現実とツクヨミ。その二つをきちんと区別しようとするあたり、律儀というか、真面目というか。
僕としては、本人が呼びやすいように呼んでくれればそれでいいのだけれど。
そんなことを考えていると、彩葉ちゃんは何かを思い出したように、言葉を続けた。
「それに、ゴーストさんって、見た目ほとんど
「……あぁ、なるほど」
言われてみれば、確かにそうだ。
現実と比べれば、こちらの姿の方が幾分か美麗化されている気はするけれど、違いといえば髪色が白くなっていることと、和装に身を包んでいることくらいだろう。
「でも、よっぽどこっちの方がビジュ良くない? 僕、こんな顔してないと思うよ」
「――……なんだこのクソボケは? いや、ほとんど変わらないですよ」
「なんか、今ちょっと間が凄かったけど……。まあ、お世辞でも嬉しいよ。ありがとうね」
前半の呟きはよく聞き取れなかったけれど、そんなことを言われて喜ばない人はいないだろう。
自分の顔立ちが決して悪くないことくらいは理解している。けれど、だからといって特別なものだとは思わない。
そもそも、今世では顔立ちの整った人間を目にする機会が多い気がする。単に、僕の周囲にそういう人が集まっているだけなのかもしれない。
そんなことを考えていると、彩葉ちゃんが俯き、またしても何事か呟いていた。
何を言っているのかは気になるけれど、本人が聞かせるつもりのない言葉まで無理に聞き出す必要はないだろう。
それにしても、ライブの感想を聞いていると、どうやら彼女は相当なヤチヨのファンらしい。
もちろん、以前から好きなのは知っていたが、実際に目の前でライブを観ている姿を見れば、その熱量は想像以上だった。
「そんなに好きなんだね、ヤチヨのこと」
「もちろんです! 歌もパフォーマンスも最高ですし、何よりヤチヨはファンのことを本当に大切にしてくれるんです!」
先ほどまで涙を流していたとは思えないほど、彩葉ちゃんの声に力が戻る。
「今日だって、あんなにたくさんの人がいるのに、一人ひとりに届けようとしてくれているみたいで……。ああいうところも含めて、大好きなんです」
「なるほどね」
言葉の端々から、彼女がどれだけヤチヨを大切に思っているのかが伝わってくる。
好きなものについて語る人間は、見ていて飽きない。
何より、こんなにも楽しそうに話してくれるのなら、連れてきた側としても嬉しい限りだ。
「また機会があったら、一緒に来ようか」
「えっ、いいんですか!?」
「もちろん。僕も楽しかったしね」
「本当ですか……! 絶対ですよ! 約束ですからね!」
ぱっと顔を輝かせる彩葉ちゃん。
その勢いに、思わず笑ってしまう。
「うん、約束」
そんな他愛のない会話を交わしていると、視界の端でピコン、と通知音が鳴った。メッセージの受信を知らせるマークが表示されている。
「――じゃあ、いろ。そろそろ」
今日は呼ばれてここに来ている。
時刻もちょうど二十二時を迎えようとしていた。
こんな時間まで未成年の女の子を連れ回しているのも、あまり褒められたものではない。そろそろお開きにする頃合いだろう。
「あ、そうですね。――重ね重ねになりますが、私までヤチヨのライブに招待してくれてありがとうございましたっ! 一生の思い出になりました!」
そう言って、彩葉ちゃんは深々と頭を下げた。
アバターの狐耳まで、しゅんと垂れている。
名残惜しそうなその姿がおかしくて、つい笑みがこぼれた。
「大袈裟だなぁ。全然気にしなくていいよ。僕こそ、今日は誕生日ケーキをありがとう」
「いつもお世話になってるのでっ! それより、私の方が貰いすぎというか……」
「祝ってくれて、急な誘いにも乗って一緒にライブも見れて。それに、
「はぇっ!? そ、それは……その、はい。謹んで、善処します」
なんだ、その奇天烈な日本語は。
妙に畏まった返答に、思わず笑ってしまう。
けれど、そういうことなら、これからは少しずつ呼び方も変わっていくのだろう。
今までと何かが大きく変わるわけではない。
呼び方が一つ変わったところで、僕たちの関係が急に別のものになるわけでもないだろう。
それでも、彼女がそうしてくれるというのなら、素直に嬉しいと思う。
「じゃあ――おやすみ、彩葉ちゃん」
そう声をかけて、別れの挨拶を交わす。
今日の誕生日は、いつもとは少し違う一日になった。
ケーキをもらい、誰かと一緒にライブを楽しみ、いつもより少しだけ距離の近い会話をした。
どれも、特別なことのようでいて、振り返れば何気ない出来事なのかもしれない。
けれど、そんな何気ない出来事が、案外心に残るものなのだろう。
少なくとも、今年の誕生日は悪くない。
そんなことを思いながら、僕は彩葉ちゃんを見送った。
最後に、つい癖でリアルネーム呼んじゃったけど――――まあいいでしょ。観客もほとんどいなくなったたし。