文学少女なツガイの彼女は編集の私への愛が重い 作:流星の民(恒南茜)
「私、伝説の人扱いじゃないですか」
「あらら。バレちゃった?」
全然焦りなんて感じられない口ぶりで、結生さんはにやぁっと笑ってみせる。
この間と同じお堂の階段に腰を下ろして、モゾリと身体を動かして……むしろ私に気付いて欲しかったのだろうか。
「わかりますよ。これが私を詠んだ歌だってことぐらい……。そのうえで、伝説の──
美しくて評判だった娘・
この市川市に伝わる有名な昔話、その一節だ。そして、私たちが挑戦している『手児奈文学賞』の名前はここに由来するわけで、名実ともに彼女は伝説の人ということになっている。
これは恐らく、そんな手児奈伝説と私を重ねた歌だ。
私が結生さんの立場だったら、本人にあなたのことを詠んだんですよなんて、恥ずかしくてバレてほしくないなと思ってしまうけれど。
「なーんだ。そこまでわかっちゃってるんだね」
ぺろりと舌を出す程度で済ませてしまうんだとしたら、よっぽど結生さんは肝っ玉が強いのか、お茶目に誤魔化してるだけなのか……どちらにせよ、私とは全然違う人種なのだと思う。
だからこそだろうか、なおのこと対抗心が湧いてくるような気すらするのだ。
『桜追い 水面に躍り 跳ぶ君よ 揺らぐ容貌 散るに能わず』
彼女が詠んだ歌の解釈という、その一点においては。
「……この間、私が死のうとしていた瞬間のことですよね?」
「ごめんね、勝手に切り取って。でもさ、あたし思っちゃったんだよね」
『揺らぐ容貌 散るに能わず』──結生さんが伝えたいことはわかる。
それゆえに、伝えるという面において彼女は優秀な人なのだ。……私を勝手に使っただとか、そういうことは置いておくとして。
「──散って欲しくないぐらい、綺麗だなって」
ぽつりと呟く結生さんの横顔。彼女にしては殊勝なその口ぶりが、どうにも気にかかった。
私が命を絶とうとしていたこの場所には、『真間山弘法寺』という名前の他に、手児奈を祀る『手児奈霊堂』としての側面もある。
きっと、そこからの連想でもあったのだろう。
「……そんなこと、言われても……困ります。しかも、手児奈と同じぐらい……その、綺麗っていうのと掛けたんでしょう? 何というか、言い過ぎじゃないですか」
「そんなに言いすぎかな?」
「はい。キザですし、口説き文句過ぎますし。私には、そんな……」
ただ、私はそれを贈られるに値する人なのか。
何というか、結生さんはいつも好意全開で、熱烈で……それでいて、買い被りすぎている。
「なるほどね。じゃあ、他にツッコミたいところはある? あたしじゃ、ここまでで限界なんだけどさ。椎ちゃんは強敵だし、勝つためにはまだまだかなって」
だって、そうだ。そこで頷けるぐらい、贈られたものを押し返すぐらい。
そんなことができるほど、私に価値はない。
「……私は、これでいいと思っています。勝手に使われたのは不服ですけど……切り取った情景も、その上で抱いた感情も、市川と掛けるという要件もすべて満たしていますし。私がチェックした分には、どこも差し支えないと言いますか……」
きっと結生さんの抱く信頼は、私に対してではなく、鶴ノ宮が今まで培ってきたネームバリューによるものだから。
でも、鶴ノ宮に相応しくないという烙印を家から押された私には、レギュレーションや最低限の体裁以上に踏み込める箇所なんてないと、そう思うのだ。
精々私にできる仕事としてはこの短歌を戦うためのリングに上げてやるぐらいで、そこから先でどう頑張るかは本人の問題というか、そうだ。負けた時の責任を取る術を私は持ち合わせていない。
「差し支えない、じゃダメでしょ? それじゃ刺せない、勝てない。違う?」
「でも……それは作家自らの満足の問題でしょう? 私がこれ以上関わるべき領野では……」
「もっともだね。逢依ちゃんの言ってることはすっごい正しい。距離の置き方も、踏み込み方も、責められないための最善手ってカンジ。でもね──」
だから、作品としての体裁を守りつつ、最大限作家性を保てている今が一番──と、思っていたのに。
しなやかな五指が私へと伸びる。手を取って、絡めて。その冷んやりとした体温に一瞬ゾッとする。
「あたしが逢依ちゃんに頼みたいのはただのチェック係じゃないの。もっと、色をつけて欲しい。上から塗りつぶして欲しい。それが引っかき傷だって、あたしには受け入れる準備があるよ」
つ、と。手の甲をなぞって、軽く爪を立てて、結生さんは微笑んで見せる。
だけれど、昨日の気まぐれ猫ちゃんみたいな見ていて和むものではない。
むしろ、細められた瞳はなおさら鋭く、冴え冴えと澄んでいた。触れたら怪我するとわかっている刀身。だけれど、研ぎ澄まされて綺麗な、そんな切っ先みたい。
「だから……ねぇ。逢依ちゃんがしたいことを、教えて?」
「本当に、いいんですか……?」
「もちろん。あなたは、そのためにいるんでしょ?」
昨日目にしたノートが脳裏をよぎる。もしも、結生さんの作品を更に自分好みにできるのならば。
ただでさえ私を突き刺す、結生さんを。更に私が磨いてもいいというのならば──。
「……わかり、ました」
怪我を承知で、手を伸ばしてしまう。
「あの、ここからお伝えするのはあくまでも私個人の感想です。ですから、あんまり真に受けられても困るというのは前置きしておくんですけど……」
「そーいうのは無駄だよ? 悪いけど、あたしは逢依ちゃんの言うことを真に受けるつもりだから。ちゃんと考えて、発言してね?」
「っ、責任重大ですね……」
思わず一歩後退り、深く吸った息で肺がミシリと膨らむ。
よっぽどそんなの大変だ。逃げ出したくもなるけれど……。
かと言って、ここまで言い切って、結生さんが今更それを許してくれるわけがないだろう。
私は──やるしかないのだ。
「私が知る結生さんの弱点は、インパクト不足だと思います。今回だって、情景を経て感情を抱くという曲線は綺麗です。でも──それじゃ、爪は立てられません」
──短歌。
五七五七七──31音によって織りなされる歌。
五七五と14音分短い川柳・俳句が余韻の文学だとするならば、短歌に求められるのは物語性だ。
場面を切り取り、そこに感情をプラスする。場面と、感情と──そこから、記されていない大部分を受け取り手に想像させるのが私たちの仕事となる。
「そのうえで、短歌はその名の通り小説よりは遥かに短い。だからこそ、長い尺をもって感情を組み立て、山場で叩くという結生さんのやり方は、ここでは通用しないんです」
以前見せてもらった結生さんの小説で見つけてしまった粗があるとしたらそこだ。
少女が夢を見るまでを着々と積み重ね、クライマックスでレトリックを叩きつけ、読者の目を釘付けにする……。確かに私は惹かれたけれど、裏を返せばそれはクライマックスまで読まなければ拾えないものでもある。
「……さすが、言ってくれるね。じゃあ、逢依ちゃんだったらどうする?」
ならば、やり方は簡単だ。短歌が僅か一場面しか切り取れない文学だとするのならば……結生さんの一番の強みを叩きつける形にすればいい。
「……『感情』です。一番頭にそれを突き出して、そこに至るまでの過程を情景で補足していく。それが、結生さんの強みが一番出るやり方で」
そして、私自身が人と競うとするのならば。
結生さんの言う通り、誰かにこの歌を突き刺すとするのならば──。
「私にとっての──勝つための、短歌です」
◇ ◇ ◇
『完成! 無事提出できました〜!』
続いて姿を現したキャラクターは『ありがと』と口にしている。なんだ、私と違って結生さんはスタンプ持ってる組かぁ……なんて、どうでもいいことは置いておいて。
思わず肺から空気が抜けるように漏れた嘆息は、私にとって安堵の印だったのだろう。
自室のベッドに身体を投げ出すと、天井近くまで伸びる本棚が映る。
やたらと大きくて、それでも、一冊も本を詰められていないそれは今のところ役割を為していない。いつかは本棚ごと撤去する予定すらあったぐらいだ。
けれど、曰く『手児奈文学賞』の受賞作品は冊子にまとまるらしい。その時は新しい一冊がそこに並ぶのか……不相応な妄想が膨らんだせいで、思わずブンブンと首を横に振る。
『それで、逢依ちゃん。こないだはごめんね?』
スタンプから一拍遅れて届いたメッセージをじっと見つめる。
どうにも目が離せないまま、指先だけが画面の上で滑って、結局は打ち込んだ文字を全て消してしまった。
──逢依ちゃんは、この先も作品に関わっていくべきだよ。
完成した歌を前に、ぽつりと結生さんが零した言葉。
そんなに満足そうな顔をした覚えはない──と言いたいところだったけれど。
『散るなかれ 桜の君よ 浜濡らす 手を握れぬは まだ美しき』
『散るなかれ』という感情から始めて、最後は『君』の『美しき』で締める。私の提案に対して、結生さんが書き加えたのは、浜に打ち上げられた手児奈の亡骸を前にした時の情景だ。
つまるところ、より感情を際立たせるための改変。
あの時の感触は確かに覚えている。吊り上がった口角、出来上がった歌を前にして肌が粟立つ……つまるところ、興奮していたのだろう。
そして、それを結生さんは察していたのだ。確かに私は見抜かれていたのだ。
──そんな簡単に、言わないでください。
払い除けた手の感触は、どうにもこびりついたまま。
見透かされて堪るか、自分の選択を出会ったばかりの結生さんに崩されて堪るか。
その瞬間、私自身のアイデンティティーが強く悲鳴を上げていた。だからこそ、仕方のないことだったんだ。
『別に、もう私も気にしていませんから』
既読がついてしばらく、ホッとする犬のスタンプが送られてきて私もようやく一息吐く。
私だってこういう時にスタンプが送れたら、きっと安心させられていたんだろうけど……と思いつつも、それは流石に絆されすぎだろう。だって、私たちはあくまでも今回だけの縁なのだから。
だけれど、もしもさっきの妄想が叶ったとしたら。
賞を獲って、一冊、実績として本棚に刻まれたとしたら? 不相応な妄想に慌てて首を横に振る。
期待するだけ失望は大きくなる。そもそもとっくに諦めた夢なはずだ。
なのに、理性的な頭とは反対に頬はどこかカッと熱い。
それをぎゅっと押さえると、胸の内で燻るものが確かな熱を訴えてきて、余計に強く巡った血が身体を温めるだけだった。
「──
「はい。けれど、気を抜くつもりはございません。まだまだ私たちは若い。ここで喜んでいたら精進できかねますから」
夕食の席は淡々と続く。家族の中で顔を上げていないのは私だけだろう。
父から私の双子の姉──
華々しいことであるはずなのに、会話の一ネタとして説教とともにサラリと流されてしまう。
「お父様こそ、作家様との新作がミリオンセラーを記録したとのこと、おめでとうございます」
「先生の作品は素晴らしかった。私も全力を尽くした。ゆえに、これも通過点に過ぎん。先生は、今年もいくつかの賞を所望されているからな」
何かを果たしたという話と、創作論。己の身を高め、その結果を報告する──それが、我が家の夕食の場だった。
「それでは、私は部屋に戻ろう。気を抜かずに引き続き精進することだ、茉依」
「はい。当然です」
席を立ち、階段の方に向かおうとして──不意に父は立ち止まった。
「それから……逢依も。勉強
ようやく思い出したというように、茉依に向けたものとは違う、幾分か柔らかな──外行きの声音で、父はそう告げた。
「……はいはい。わかっておりますってば」
私が放った言葉に、父はきゅっと眉根を寄せる。
私だって、こんな風に父に強く出たことはなかったから、正直言って口の中はカラッカラだった。ツンツンと茉依にお腹を突かれなくたって、既に自分がしでかしたことの重さはわかっているつもりだ。
「……言葉遣いには気をつけることだ。文を編まない身だろうと、鶴ノ宮の品位を下げるな」
そうして階段を昇って部屋へと消えていく父。その背を送りながらぼんやりと考えていた。
夕飯中はずっと無視してきたクセに今更……とか、黒い感情がいっぱい噴き上がってばかりで。
燻っていたものの正体を、紅潮した頬がはっきりと伝えてくる。たぶん、結生さんの作品に抱いたものは、そんな歌を共に編めた自分自身への僅かな自身とともに、胸に灯ったものは。
それをきっと──期待というのだ。
◇ ◇ ◇
『結果発表、今日ですね』
それは普段よりもずっとソワソワとした朝だった。
学校代表の発表当日。自転車から降りて校舎に向かう時間ですら胸の鼓動が収まらなくて、気を紛らわすためにそんな一文を結生さんに送る。
『もしかして、逢依ちゃん。緊張してたりする?』
『……それはそう、ですけど。でも、結生さんだって緊張してるんじゃないですか?』
見透かされたせいで少しの苛立ち。そこにNO!とばってんを作る犬のスタンプ。
『あたしが受けた理由、わかる?』
『椎さんのせい、でしたよね?』
そこでもすかさずNO。それなりに考えての返信だったのに、あんまり軽く結生さんはあしらってくる。
椎さんは面倒くさい……と私に吹き込んできたのは結生さんだ。
けれど、言われても見れば結生さんが勝負を受ける必然性は確かにない。既に彼女は椎さんに嫌われきっているわけだし、今更面倒くさいも何もないだろう。
『では、どうして受けたんですか?』
『逢依ちゃんのためだよ。受けたのも、あの歌も全部、ね』
まさかそこで私の名前が出てくるだなんて。想像していなかったせいで、思わず身体がきゅっと強張る。
『……押し付けっていうんですよ。そういうの』
かろうじて送れたのは、そんな一文だけだった。
『そっか。じゃあ、押し付けついでにもう一回聞かせて?』
『何ですか?』
『創作、本当にやめるつもり?』
今度は、何も返せなかった。
だって、私たちは一度それで揉めたのに。どうしてまた聞いてくるのか。
一切の意図が読めないメッセージなんて不気味以外の何でもない。スマホの画面を消し、黙々と脚を前へと運ぶ。
ただ、だとしても。
この後の結果次第では、もしかしたら、答えを返せるかもしれない。
あの日灯った期待は数日経った今日ですら、まだ光を放っていたのだ。
「え」
──『鷹峰 結生 落選』。
その瞬間に、ふっと掻き消えるまでは。
最初、選ばれた作品の隣に椎さんの名前が載っているのを見た時も、まだ戸惑いが勝っていた。
私は提出した瞬間を見たわけじゃない。だから、何か不備があったのかもって、落選作品一覧に視線を移して──そこで、はっきりと結果は示された。
『散るなかれ 桜の君よ 浜濡らす その亡骸は 未だ
末尾の七七は、私たちが一緒に考えたものではない。
提出作品として確かに完成していたその歌は、散った『君』──つまり、私が醜いと歌っている。
それは、私が知らない歌になっていたのだ。
「……なんだ」
結果発表から何時間も経って、放課後になってもなお気持ちは晴れない。
胸の中には、何もなかった。喪失感も、悔しさも、怒りも、何もかもがなかった。
ペダルを漕ぐ両の足。その爪先は綿を詰められたみたいにふわふわと軽く、神経を通さない。
伸縮する肺は、その激しい動きに反して私の頭には何の感覚も訴えかけてはこないまま。
帰路に寝そべる長い下り坂は、我が家の門限のことを考えるとやっぱり都合がよかった。
結生さんと出会った日から共に短歌を編み上げる日々で、私は何度小言を言われたことか。
それすらも無駄な摩耗だった気がして、なおさらバカバカしさが増していく。
家は私を必要としなかった。学校代表にすら選ばれなかった──思い出したくないことなんてたくさんあるけれど、そんなものは所詮自分のステータスに関するものでしかない。
『あなたとはもう、物語を作りたくない』
過去のツガイから言い放たれたその瞬間。決定的な断絶だった。
一生涯を共にするのだと思って生きてきた人間から受けたその通告が、どれほど強く胸に突き刺さったことか。私の全身を貫く支柱があるとするのならば、体内を弄られてそれを思いっきりぶっこ抜かれる感覚。
だから、もうこの世界には関わらないでおこう。これ以上、胸を刺し貫かれるようなことがあったら、きっと立ち直れないから……そうして、距離を置こうと思っていたのに。
もう一度、前にしたそれは──『醜い』宣言は、断絶だったのだろうか。
『逢依ちゃんのためだよ』
何が私のためだ。そんなの、嘘っぱちじゃないか。
ぎゅっと私を取り囲むような閉塞感、それに駆り立てられるようにしてぎゅっとペダルを深く踏み込む──その瞬間だった。
「わっ」
気の抜けたような声しか出なかった。跳ね上がった前輪が、ふらりと横を向く。伴って後輪も躍りだし、その末に私は空を向いた。
目の毒になるぐらいに強く照りつけた西日が網膜を焼いた瞬間、私の身体は宙を舞い、重力に引かれる。
物語を読むのも作るのも好きだった。そう言いきったっていい。
だとしても、好きだからそれを続けなきゃいけない理由なんてない。この世界に片足を突っ込んでいたからこそわかる。廃業した作家も、彼らに伴って身を引いた編集者も──たくさんいるのだ。
あるいは、もう一度死を選ぶことだってできるかもしれない。
大丈夫だ、今度こそ結生さんに邪魔されなさそうな場所で。
人も、自分も。信じるに足るものなんてないのだとしたら──私は。
今度は声すら出なかった。どしゃりと、アスファルトに叩きつけられた右肩が熱い。
直後に痛みが襲ってきて思わず呻く、じんわりと傷口に滲む赤は、止めどなくその面積を広げていく。
もう、どうだって良かった。このまま終わってしまっても良かった。
瞼を閉じれば真っ暗になる視界、横たえた身体。むしろこちらの方がずっと安らぐ。
何も目に入れず、何も経験せず──傷つかない生き方は、どれだけ良いだろう。
「つっ」
──ズキリ、と。肩口に鈍い痛みが走った。
浮かされたような熱さの中で麻痺していた感覚が、脊髄を這いずって達してしまう。膝も、腕も、脇腹も、それはやがて全身に伝播していく。
どくどくと零れていく熱さに、唸るように鳴り響く心音に叩き起こされるように、瞳を開いた瞬間だった。
一冊のノート。ひび割れたアスファルトの真上で、私と一緒に投げ出されたものが映った。
結生さんから預かっていたものだ。そういえば、まだ返し忘れていたっけ。
私と同じく開かれたその身を、紙面を横たえて砂まみれになったそれは、しかし痛みを訴えることも呻くこともない。
「っ、う、あ……」
もしもあれが私だとしたら……あんな無様な姿を晒して耐えられただろうか。
今も脳内で反響するのは『醜い』という言葉。書いた相手の顔が浮かべばこそ、躊躇いが私の前には立ちはだかっていて、だとしても……放っておけるか。
握った拳が砂利を掴む。けれど、肩がミシミシと軋むぐらいに伸ばしきって──手は届く。
──目が見えなくても、上を見ろ。
飛び込んできたものがあった。
パサリと開けた一ページ。そこに並んだ文字列は上向きに引力を放つ。
宇宙に夢を見て、視力を失って、それでも、駆けた少女。そうだ、彼女は見つけたのだ。
『それでも、私はもう一度星を睨んでいたい』
ぽつぽつと煌めくもの。夕暮れに、沈む太陽に負けずに輝きを放つもの──星を、睨んだのだ。
上向いた視線が縫い留められる。すぼんだ視界ですら捉えられるぐらいに、そこには無数の星が浮かんでいた。
──そこに間違いなく星はあるはずだから。
ぼやけた視界のど真ん中に映せ、その光彩を瞬かせろ。そうすればまだ夢が見られる──。
続く一節が、私の瞳をこじ開ける。
あの日、桜が示すページを追ったその瞬間に、私は確かに引き止められたんだ。
それから結生さんの言葉に踊らされて、結局はもう一度作品と向き合うことになって、そして、もう一度裏切られた……そう、思っていたけれど。
裏切ったのは、私の方じゃなかったか。
本当に良いものを作りたい、ここにしがみつきたい、期待したいと必死だっただろうか。
……違う。
最初から、ずっと。私は綺麗に幕引きをすることだけを考えていた。
覚えている限りの最後の創作は、ツガイとの断絶で幕を閉じた。
だから、そんな苦い思い出をすすげたら。学校代表を決める勝負とは言えど、それに便乗する形で──ましてや、自分を象った歌で満足に終えることができたら。
そんなの、誰だって憧れるに決まっている。
ものづくりの世界に果てはない。どれだけ成功したところで後期には散々の批判とともに失敗した人だって私は知っている。
成功したって幸せになれないからこそ、後味が──どう終われるかが、大事だったのに。
私自身も、せめて綺麗に終われればと……そう、思っていたのに。
「なに、してるんだ……私」
そんなの、視力を無くした彼女に比べて舐めすぎている。
終わりよければ全てよしで終わらせようとする私は、あんまりに『醜い』んじゃないか。
「……くそ」
全身を燃やさんと駆け巡る熱が、ブクブクと噴き上がる血液が、今の私を良しとしない。口を衝いて出た言葉は、確かな質量を持って舌先で跳ね回る。
腕を、爪先を、腫れた皮膚がヒリヒリと、行使された筋肉がミシミシと、立ち上がるのは決して容易ではない。
何でそんな思いをしてまで立とうとするのか、助けが来るまで寝そべっていてはいけないのか。
少し経てば今よりも辛さの引くやり方があるはずだ。もっと苦しまない生き方だって──。
「……ぜったい」
だから、なんだ。それまで誰かが来るまでまた身を横たえたままでいるのか。
もしも手を差し伸べてきたのが、家族の誰かでも? ……結生さんでも?
膝を曲げる、膝小僧がアスファルトに擦れて痛いけれど、両の手でぐっと身体を押し上げる。皮膚に石ころが食い込んだところで知るか。醜いままでいるよりはずっとマシだ。
「絶対、絶対、絶対絶対絶対──っ」
大人からすれば短い人生だろうが、私にとっては一生分だった。
背伸びして精一杯頑張ってきて、それが全部否定されたんだ。そりゃ死にたくもなる。
『ダメでしょ──死んじゃっ!』
なのに、あなたが終わらせてくれないんだもの。
だったら……だったら、私にできることなんて一つしか残っていないじゃないか!
「わたしは──勝つんだぁぁぁぁっっ──!!!!」
全部、全部憎かった。
成功する家族も、星を睨む少女も、微笑む結生さんも。
その全員に今の私が負けっぱなしなのだとしたら。あっと言わせなくて何が人生だ。
叫びはバネに、膝を跳ね上げ、押し出されるようにして立ち上がる。
『言葉遣いには気をつけることだ』──叩き込まれてきた教えが、その一息で遠く、遠くへと吹き飛んでいく。
カーカーと、夕空に鳴くカラス。その真っ黒な羽はひどく汚れていて、それでも負けじと声を上げる。
だから、私も叫んでやった。両の拳を突き上げて。戻ってやる、やってやる、勝ってやる!
胡乱げな視線が私を取り囲む。下校中の生徒、地域の人たち──こんなことをやっている私は、はしたないなんてものじゃなかった。
けれど、これからやろうとしていることは──創作の世界に戻ることは、より多くの視線に囲まれることを意味する。
家族からは疎まれるだろう、鶴ノ宮の落ちこぼれが、と、顔も知らぬ誰かに笑われるかもしれない。
それなのに、そんなたくさんの”敵”を塗りつぶして、私の瞼の裏では結生さんが今も笑っている。
死んじゃダメ──と、私の腕を掴んで引っ張り上げて、尻もちをついたままほっとしたように笑うその顔がまだ離れない。
『創作、本当にやめるつもり?』
スマホを開けば、結生さんからのメッセージが会話の最後に鎮座している。
それは相変わらず私を試しているようで、それでも、『醜い』という言葉もこびりついていて。
だから、指先を躍らせた。負けてやるかと打ち込んでやった。
『やめません!』
既読がつくまで時間はかからなかった。まるでずっと私とのトーク画面を見ていたかのように、ぱっとスタンプが送られてくる。
親指を立てた犬のキャラクター。その調子はなぜだか軽くて、まるでこうなるとわかっていたようで──。
『いつものところで待っててください』
その瞬間に、はたと気づく。
間髪おかずにメッセージを打ち込み、スマホをカバンにねじ込んだ。
これまでのしつこいけれど私には好意的だった結生さんは、私に『醜い』だなんて言う人だっただろうか。
私があの短歌に思い入れを持っていたこと、そして、そこでメッセージを突きつけることで
立たせた自転車にまたがった勢いのまま、踏みつけたペダル。それを交互に深くへ、まだ痛む脚を押し込む。
散々、やらないの? 諦めるの? と問いかけてきたあの人が、一番だった。
私の考えが正しければ、確かにあの歌は私のためのものだ。ただ、その代償に……彼女は自分を犠牲にしたことになる。
「どうして、ですかっ」
向かう先はとっくに決まっている。あの寺へ、結生さんのところへ。
私を散々焚き付けておいて、自分はフェードアウトなんて……許して堪るか。
負けてやらない、勝ち逃げさせない、逃がしてやらない──!
Uターンした先、そびえ立つ上り坂は高い。筋肉の裏側で激しく駆動する骨が悲鳴を上げる。膝なんて擦りむいたばっかりだ。ヒリヒリヒリヒリ、今にも焼けただれそうだ。
だけれど、私自身から立ち上る熱に比べればそんなものはまだ冷たい。
胸から零れた血が。堪えていた痛みが熱となって、天高くもうもうと蒸気を吹かす。
私自身はまだまだかもしれないけれど、そうして噴き上がった熱情の一端だけは。
もしかしたら、星にすら届いていたかもしれなかった。