文学少女なツガイの彼女は編集の私への愛が重い 作:流星の民(恒南茜)
それは、堪らなく優しい物語だった。
空を目指して、視力を失い、何もかもがその手から零れ落ちてもなお、星を睨み返した少女のお話。
『あの、結生さん。渡したいものが……』
短歌を作っていた最中、一度渡そうとしたノートは結局カバンから出てくることはなかった。
『あ、ごめん。逢依ちゃん。ちょっと待ってね』
あまりにもその横顔が綺麗だったから。
創作用ノートを前に、ツンと尖ったその瞳も、集中したように引き結ばれた口元も。
だから、どうにも話しかけられないまま、機を逃してしまって。
結生さんが書いたものと現実は乖離している。
どこまでも無慈悲で、運命もクソもなくて、逆張ってでも嫌な未来を突きつけてくる、そんな場所。私たちを縫い止めるそれと真っ向から結生さんは戦い続けていた。
『じゃーん、完成! 短歌、これでどうかな?』
眩いばかりの笑顔を浮かべ、ブンブンと感想をねだっては尻尾を振ってくるみたいな……そんな仕草で渡されたものに、一つずつ指摘をしていく。
けれど、それを受け止める結生さんは、ちっとも妥協なんてしないとばかりに真剣な眼差しで私を見つめていて。
だから、私はあの日々の中でもう一度夢を見られた。
戻ってきてもいいって、そう思わせてくれたあなただって──あの物語と同じぐらい、優しかった。
◇ ◇ ◇
「結生さん。あの歌はどういうことですか」
ストッパーをかける時間すらもどかしくて自転車を投げ出す。
ガシャンと後ろで倒れる音を無視して駆けた先、いつものお寺のいつもの境内。そこにはやっぱり結生さんがいた。
「ああ、逢依ちゃん。さっきのメッセージ見たよ?」
「ええ。でしたら、私が言いたいことももうわかっているでしょう?」
いつもより強めに詰め寄ったつもりだったけれど、それでも結生さんは飄々と受け流す。
このままじゃ埒が明かないから、私は本題に踏み込むことにした。
「誤魔化さないで教えてください。どうして、
ぴたりと、結生さんの表情は微笑のまま固まってしまう。
頬を掻くのは、どうにも誤魔化しようがないな、なんて困っているからだろうか。
「散々しつこく、あなたは私に帰ってくるように言っていました。『醜い』だって、そのうちの一つだった。私が気にして帰ってくると思ったから、あんな歌にした。違いますか」
その瞳には、星が散っていた。
見開かれた結生さんの瞳はもうはぐらかしてやろうなんて気すらなく、私の視線を捉えてしまう。
きっと、この上なく真面目な表情だったのだ。
「歌が完成した時のあなたの顔は歪んでいた。諦めきってたときの方がよっぽど綺麗だったよ。だから……悔いを残してやろうって、そう思ったんだ」
──私が、この世界に戻ってくるように。
半端に綺麗に終わらせてやらないもんね、と。結生さんが言っているのはそういうことだ。
諦めたら一生醜いまま──そう考えた時、私がどうするかをきっと知っていたから。
『醜い』を楔として私の胸に刺してしまえば、どちらに傾くかがハッキリ決まるから。
勝ってもなお、私はまだどうするかふわふわと悩んでいたかもしれない。
けれど、劇的な負けの前では別だ。実際、その悔しさをバネにして私はここに戻ってきた。結生さんの目論見は成功したことになる。
「だからって、そんなの……わざわざ、どうしてっ」
けれど、私に合わせてリライトされた歌はもはや手児奈の歌としての側面を失いつつあった。
誰のことを歌っているかわからないのであれば、市川の歌としては不合格だ。
だとすれば、賞に出るための要件を満たせない。負けたのだって当たり前になってしまう。
「どうしてっ、あなたまで悔しい思いをする必要があるんですか……!? これは、あなたの歌なんですよ!?」
今回の賞は椎さんから突きつけられた戦いでもあったのだ。それを結生さんは放棄してみせた。
自分の名義で訳がわからない歌を出してまで、私を引き止める道理なんてないはずなのに。
「確かにね、逢依ちゃんと完成させた歌を使ってれば勝っていたかも。でもさ、言ったでしょ? 逢依ちゃんのためだって。それにね」
そうだ。それなら結生さんは何も損しない。私と手を結んだ目的だって元はそこにあったはずだ。
「──あたしさ、創作やめるつもりだから」
頭の芯がピリリと痺れる。
自己犠牲をもって私を救おうとした結生さんの姿には確かな危うさがあった。だからこそ、放っておけなくてここまで来たのだけれど。
だとしても、ここまでとは。何を言っているのかわからなくて上滑りした言葉が、私の鼓膜に何度も跳ね返ってきていた。
「元々、あたしね。『よだか文学賞』を獲るのが夢だったんだ。逢依ちゃんも知ってるでしょ?」
『よだか文学賞』──宮沢賢治の名著を掲げた高校生限定の文学賞だ。それも、私営のコンテストの中でもトップクラスに難易度が高いと言われている。
それこそ、鶴ノ宮のツガイからもそうそう受賞者は出ないほどだ。高校生の間という限られた期間で結果を残すというのはそれだけ難しいことだから。
痺れた頭でもそれだけのことはぱっと浮かんだ。
こくりと頷くと、やっぱりと言うように結生さんははにかんでみせる。
「でも、ぜーんぜん届かないまま。一昨年も去年も一次落ちしちゃって。なのに、全然現実味がなくてさ。あたし、今年が最後なんだって」
ゆるりと三日月を象るその瞳はしかし、確かな潤みを帯びていた。
けれど、それすらも奥に引っ込めると彼女の瞳はまたキラキラと輝きを湛えてみせるのだ。
「鶴ノ宮のコにこき下ろしてもらえば諦めつくかなって思ってたのに。結局、感想聞きそびれちゃったね?」
その瞬間に合点がいく。星を睨む話。手渡されたノートに記された小説。
あれが、投稿作だったのだ。だとすれば、私とあの物語との出会いは……結生さんの終わりのために組まれていたことになる。
「でもね、どっちにせよおしまい。自分の勝ちにすら執着できないあたしは、夢なんて見るもんじゃないよ」
結生さんは、綺麗だった。
諦めきっただろうその表情には一点の陰りすらもなくて、清々しそうな微笑みは眩いばかりに瞳を焼く。
「ね、ここまで聞いちゃったら諦められないでしょ? 逢依ちゃんはあたしの分まで、頑張っていくんだよ!」
だから、ここで終わった物語を私が継ぐ。
あの手この手で結生さんは私を絡め取っていた。もう絶対にこの世界を離れられないように、私が物語と一緒にいるための理由を作ってくれた。
諦めようとしている人を引き止めること。それがどれだけ不毛なことか私は知っている。
ついこの間、結生さんに飛び込みを阻止されて、挙句、今だってこうやって散々引き止められて……鬱陶しいって思ったことがないかと言えば、嘘になる。
だから、理解がある行動をするのならば、ここは結生さんを静かに送り出すべきなのだ。
ありがとうございます、だろうか。
頑張ります、だろうか。
彼女の物語のその最後の一行。
私が刻むべきセリフは、どれだっただろうか。
「──ふざけたこと抜かさないでくださいっ!!」
どんな言葉よりも真っ先に口を衝いて出たもの。
全身の腫れや痛みなんて知らない!というぐらいの尋常でない熱が、喉を焼いている。
結生さんが呆気にとられている顔なんて初めて見た。私を手のひらの上で散々転がしてきた彼女が、理解できないとでも言うように目を見開いていた。
「あなたの自己満足に私を巻き込まないで。一人助けて綺麗に幕引きができるなんて、継承して終わりだなんて! そんなのフィクションでしかあり得ませんっ!」
次から次へと言葉は出ていく。だってそうだ、やっぱりそうだ。
私の悩みは本物だった。それを自分が気持ちよく終わるための材料にして、ぱっと幕引きしてやろうなんて都合がよすぎる。
しかも全部、私の感情を読み切って、こうするのが一番いい幕引きだとか。
「あなたは私の作者なんかじゃない。私の気持ちは、私が決めますから──」
そんなの、あなたにわかるわけがない。
カバンに手を突っ込み、触れた感触。まだ砂塗れで、血すらこびりついたボロボロの紙束。
引き抜いたノートを掲げる。重なった紙が夕日を夕日を映して、幾重にも煌めいて。それは私にとっての星だった。
「──ここで生きてる、私を見て。結生さんっ!」
開いたページは、確かに私の指が覚えてくれていた。
差し出すと言うより押し付けるようにして、困惑したような結生さんでは私にそれを跳ね返すことなんかできない。
受け取って、抱いてしまえばもう終わりだ。
あとは字書きの性とでも言うべきものか。右から左へ、彼女の視線は滑っていく。
次第に曇っていく表情はしかし、上から下へと辿るに連れて、僅かな綻びを見せるのだ。
「……気、遣ってくれてるんでしょ?」
「これを書いたのは、あなたと出会ったその日です。他人同然の人に向けて、私がお世辞を使うわけないでしょう?」
「……そうだよね。逢依ちゃんったら、辛辣だもん」
じゃあさ、と。小さく呟いてそれっきりだった。
ぱくぱくと開く口は、それ以上言葉を紡がない。左から右へ、その瞳はもう文字なんて追っていないようだった。
ただ、きっと。そこにあるものをどう捉えればいいのかわからないとでも言うように、幾度も紙面の上で視線を巡らせるだけ。そこに湛えられた光は潤んでしまえば揺らぎ出す。
「あたし、わかんないよ。こんなに言われて……どうすればいいかなぁ。自分への期待すら裏切ってばっかだったのに……逢依ちゃんのこれは、あたしには重すぎてっ……!」
感想。それが、あの日渡された小説の末尾、空っぽだったページに私が書き記したものだった。
気になった点も、良かった点も、思いつく限り書き綴った。
たとえば、話の作りはよい。だけれど、話自体のエンジンがかかるのは遅めだ、とか。手放しに褒められることばかりでなかったのは確かだったから。
それでも、結びの一文。
総評として私が残すべき言葉に、多くはいらない。
「それでも、受け止めてください。私は──これが好きです」
『私はこの作品が好きです』──小説において絶対評価は存在しない。
読む人によって面白さなんていくらでも変化しうる、誰が読んでも傑作なんてものはあり得ない。
けれど、それゆえに。
賞でどんな評価を受けようが、結果が出せずに燻っていようが……私が読むうえで、そんなのは関係ない。
ドン底にいて、僅かな希望も打ち砕かれて突っ伏した私に星があることを教えてくれた。
小手先のテクニックだけではない、確かな引力で私の瞳に光を注いでくれた。
「……私だって、ずっとそうでした。信じていた縁も失って、もう人の作品に関わる資格なんてないと思ってたのに……あなたが、星を睨む少女が、引き戻してくれたから!」
そうだ、絶対に許してなんかやらない。
他者との評価に、見えない未来にもがき苦しまなきゃいけない創作の世界で、私がもう一度生きていかなきゃいけないんだとするのなら──その道連れにぐらい、なって欲しい。
「だから、まだまだ一緒に地獄を見てください。思うように編めず、評価は振るわず、将来もまっさらで……それでも、期待しているよって嘯いてくれる。そんな力が、あなたにはありますから! ──一生分の責任、取って欲しいんです!」
霞んだ視界の中では、結生さんの表情はちっとも捉えられない。
それでも、手を伸ばした。
思い出すのは絶縁された時の瞬間。過去に手を跳ね除けられた時の痛みが皮膚を焦がす。
けれど、それすらも乗り越えろと。私を引っ張り上げてくれたのは、あなただ。
「お願いします──私のツガイに、なってください」
それは鶴ノ宮にとっては、その生涯を私にください、ということ。
出会ったばかりで投げかけるには重すぎるかもしれないけれど。
それでも、私も結生さんももう一度星を睨むため、立ち上がるのならばこうするしかないと思った。
答えを待つ時間が怖い。ふわふわと内蔵が浮き上がるような、落ち着きのない時間。上を向けず、伸ばした手には未だ何の感触も触れない。
けれど、私が待っていたものよりも先に聞こえたのは、ぷっ、と小さく空気が抜けたような音だった。
「ぷっ、あは、逢依ちゃん……プロポーズ、下手すぎじゃない? 地獄がどうとかって、びっくりしちゃうよ。でも……そう、だね」
くしくしと涙を拭って顔を上げると、結生さんは笑っていた。
その顔をくしゃくしゃにして、涙に濡れた瞳を細めて、笑い声をちっとも堪えることすらせずに。
「……そこまで言われちゃ、あたしも参っちゃうよ。だからね。謹んで、お受けします」
ありがとうございます、だとか。私が何か答える間もなかった。
こちらに一切主導権を渡さず、柔らかな、少し湿った感触が私の手の甲に触れる。
リップ音、そして、上目遣い。つまり、結生さんが今何をしたか理解する以前に、頭はショートしたようで。
「……き、キス、しました……?」
「ん。これぐらいはいいでしょ。一生涯賭けるんだったら、あたしも覚悟を決めなきゃなって」
「だ、だからって……急すぎますってば。だって、私……ハジメテ、なんですよ……?」
やだ。自分がどんな顔をしているか考えたくもない。
蕩けそうな頭で、かぁっと血が昇った頬がどうなったかなんて……絶対、変な顔をしているに決まっているから。
「そんなこと言ったら……こっちだって初めてだよ。逢依ちゃんはあたしのこと何だと思ってるの……」
「い、いえ、そういう意味で言ったわけではなく……」
「なーんて。冗談だよ。逢依ちゃんがいい子だって、あたし知ってるし」
「だ、だから、そういうのも恥ずかしいんですってば……」
けれど、立て続けに話す結生さんだって普段よりもずっと口数が多い。
なんだ、この人も私と同じぐらいこういう時には初心になるんだ……って。そう思えば、何だかこちらも笑えてきてしまう。
「ま、あたしも逢依ちゃんには嫌われたくないしね。そういうの、気をつけてみることにするよ」
「……ええ。一々心臓に悪いのでお願いします。慣れていないので」
「慣れてないの? それはそれで、どんどん褒めて伸ばしてあげたくなっちゃうけどなぁ」
何というか、褒めて伸ばすと言われてしまうとそこまで悪くは捉えられなくなってしまう。
簡単な言葉の置き換えではあるものの、結生さんらしい。
ただ、そんな風に私に接してくる人だから……一緒にいてもいいと思えてしまったのだろう。
褒められるのは慣れていないけれど、嫌いではないし。
「あたしも、逢依ちゃんに好かれるように頑張るから。ここから二人でやってやろうよ!」
こつん、ぶつけ合った拳と拳は、五指を絡め合うような甘さを持たない。
一転したその硬さは、熱さは、私の胸にもとっくに火を焚べている。
「ええ。私にも叶えたい夢がありますもの!」
鶴ノ宮としての矜持も、『よだか文学賞』への想いも。
ただ、確信があった。この地獄みたいな世界でも、深い地の底からでも、二人で手を伸ばせば。
星にだって届くのだ、と。
◇ ◇ ◇
「鶴ノ宮 逢依! いるわよね!?」
まさしく嵐だ。結生さんとツガイになった次の日、教室に殴り込んできた彼女が誰か、確かめるまでもない。……椎さんだ。
クラス中の視線が一斉に私に注がれるから、逃げるだなんてもっての外で。
「……何の用でしょうか」
「あなた、聞いたわよ。結生センパイと生涯の契りを結んだって!」
「どうして、それを……」
「それは……言えないけど。とにかくっ、今日は伝えたいことがあるの」
困ったように巡った瞳は、しかし、私を真っ直ぐに捉えると今度こそ離してくれない。
「あなたのこと。絶対に、許さないから!」
叩きつけられたそれが、激情が私を貫く。
何のことかわからない。けれど、昨日から散々浴びてきた感情を、交わした契りを思えばこそ、こんな当たり屋みたいな真似をされて、怯むわけにはいかなかった。
「わ、私だって……負けてやりませんからっ!」
今度はクラス中の視線どころか、廊下を歩く生徒の視線すら私を向く。
それでも、もう恥ずかしくはなかった。
再起も、怨嗟も。あらゆる感情を燃料として。
回り始めた車輪は、擦れ合う度に錆を落とす。今までたっぷり燻ってきた分を取り返すために。
かくして、まずは椎さんを睨みつけるところから。
私の青春は駆動し始める。