1.英雄なんていない
波の国、タズナの家。
朝の光が差し込む庭では、四人の下忍たちがそれぞれ修行に励んでいた。
ナルトとサスケは、水面歩行の修行を続けている。
二人とも木登りは完璧に習得したものの、水面歩行はまだ安定しない。チャクラを足の裏に集中させる量を少し間違えるだけで、すぐに水の中へ沈んでしまう。
「くそっ! また沈んだってばよ!」
水から顔を出したナルトが叫んだ。
「うるさい。集中しろ、ナルト」
サスケは水面に立ちながら、足元へ流すチャクラの量を慎重に調整する。
「サスケだって、さっき沈んでたじゃねーか!」
「今は立てている」
「ぐぬぬ……!」
二人は互いを意識しながら、何度も挑戦を繰り返していた。
一方、サクラはすでに水面歩行を完璧に習得している。
今は心の影分身を相手に体術の修行を行いながら、チャクラコントロールによる身体強化を練習していた。
「サクラ、力を入れる瞬間だけチャクラを集中させて。全身に無駄に流す必要はないよ」
「は、はい!」
サクラが拳を繰り出す。
影分身は軽く身をそらしてかわした。
「今のは悪くない。けど、拳にチャクラを集めるのが少し遅いね」
「もう一度お願いします!」
心は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
サクラのチャクラコントロールは優秀だ。だからこそ、身体強化の基礎も順調に身につき始めている。
もちろん、綱手のような圧倒的な怪力には遠く及ばない。
それでも、今のうちから正しい技術を積み重ねていけば、将来は大きく伸びるはずだった。
――その時だった。
「……まだそんなことやってるの?」
庭の入り口から、冷めた声が聞こえてきた。
振り返ると、イナリが立っていた。
彼は修行を続けるナルトたちを、馬鹿にするような目で見ている。
「そんなに頑張ったって、何にもならないよ」
「はあ? 何だよ、いきなり!」
ナルトが水から上がり、イナリに向き直った。
イナリは鼻で笑った。
「英雄にでもなるつもり? そんなの、無理に決まってるじゃないか」
「英雄?」
「そうだよ。強い奴に逆らえば、どうなるか知ってる? 殺されるんだ」
イナリの声には、子供らしからぬ冷たさがあった。
「ガトーには誰も逆らえない。逆らった人はみんな酷い目に遭う。どれだけ頑張ったって、強い奴には勝てないんだ」
「そんなの、やってみなきゃ分かんねーだろ!」
「分かるよ!」
イナリが声を荒らげた。
その表情が、怒りとも悲しみともつかないものに歪む。
「だって……僕は見たんだから!」
ナルトは口を閉じた。
イナリは拳を握りしめ、震える声で続ける。
「昔、カイザって人がいたんだ。血はつながっていなかったけど、僕にとっては本当のお父さんみたいな人だった」
カイザ。
心はその名を聞き、静かに目を細めた。
原作の記憶が正しければ、彼はイナリにとって大切な存在だった。
「カイザは強くて、優しくて……みんなのために戦ってくれた。村の人たちも、カイザを英雄だって呼んでいたんだ」
イナリの声が震える。
「でも、ガトーに逆らったせいで……カイザは殺された」
ナルトは黙って聞いていた。
「みんな、カイザを英雄だって言っていたくせに! いざとなったら、誰も助けてくれなかった! みんな見て見ぬふりをしたんだ!」
イナリの目に涙が浮かぶ。
「英雄なんていないんだよ! 強い奴に逆らったら、死ぬだけなんだ!」
その叫びには、幼い少年が抱え続けてきた絶望が詰まっていた。
イナリにとって、英雄という言葉は希望ではない。
大切な人を奪われた記憶と、誰も助けてくれなかった現実を思い出させる言葉だった。
「だから、そんな修行なんかしたって無駄なんだよ!」
「……ふざけんな」
ナルトが低くつぶやいた。
「何?」
「ふざけんなって言ってんだ!」
ナルトはイナリに向かって一歩踏み出した。
「カイザって人が、どんな気持ちで戦ったのか、オレには全部は分かんねーよ!」
突然の言葉に、イナリは目を見開く。
「でもよ! お前がそんなふうに諦めちまったら、その人が頑張ったことまで無駄になっちまうじゃねーか!」
「……っ!」
「強い奴がいるからって、最初から諦めてどうすんだよ! オレは火影になるんだ! 誰にも認められる、すっげー火影になってやる!」
ナルトは胸を張った。
「だから、オレは諦めねー!」
その言葉に、イナリの顔が歪んだ。
「……馬鹿じゃないの」
「何だと!」
「馬鹿だよ! 何も知らないくせに! 何も失ったことがないくせに!」
イナリは涙をこぼしながら叫んだ。
「お前みたいな奴、大嫌いだ!」
次の瞬間、イナリはナルトの頬を平手で打った。
乾いた音が庭に響く。
サクラが息を呑み、サスケも眉をひそめた。
心は動かなかった。
ここで自分が割って入ることはできる。
けれど、ナルトの言葉まで奪う必要はない。
イナリ自身が、誰かの言葉を受け止めるための時間が必要なのだ。
ナルトは頬を押さえたまま、イナリを見つめた。
「……泣いてんじゃねーか」
「うるさい!」
「泣いてるくせに、偉そうなこと言ってんじゃねーよ!」
「うるさい、うるさい!」
イナリは顔をくしゃくしゃにして、家の中へ駆け戻っていった。
残された庭に、重い沈黙が落ちる。
「ナルト……」
サクラが心配そうに声をかけた。
ナルトは頬をさすりながら、イナリが消えた入り口を見ていた。
「……あいつ、何なんだってばよ」
「大切な人を失ったんだ」
心が静かに答えた。
「それで、もう誰も失いたくないんだと思う。だから、最初から何も信じないようにしているんだろうね」
「だったら、なおさらだってばよ」
ナルトは拳を握った。
「オレたちがガトーをぶっ飛ばして、あいつに見せてやる!」
その目には、怒りだけではなく、強い決意が宿っていた。
心は小さく笑った。
「そうだね。ただし、無茶をして死んだら意味がない。勝つために、ちゃんと考えて戦おう」
「分かってるってばよ!」
「本当に分かってるのか?」
サスケが呆れたように言う。
「何だと、サスケ!」
いつもの言い合いが始まった。
けれど、心はその光景を見ながら思っていた。
――イナリ。お前が信じられなくなったものを、ナルトはきっと真正面から変えようとする。
それが、うずまるナルトという少年なのだから。
2.復活した上忍
昼を過ぎる頃、二階の部屋からカカシが姿を現した。
「お、みんな。精が出るね」
いつもの気の抜けた声。
しかし、顔色は以前よりずっと良くなっていた。
「カカシ先生!」
ナルトが振り返る。
「もう大丈夫なのか?」
「ああ。チャクラもかなり戻った。これなら、任務を続けられるよ」
カカシは軽く肩を回した。
再不斬との戦いで消耗したチャクラは、まだ完全に元通りではない。
それでも、上忍として戦うには十分なところまで回復していた。
心はカカシの歩き方や呼吸を観察する。
「無理はしないでください。まだ本調子ではないでしょう?」
「……君は本当によく見ているね、心」
カカシは目を細めた。
「確かに、完全に元通りというわけじゃない。でも、次に再不斬が来た時、前回と同じようにやられるつもりはないよ」
その言葉に、サスケが反応した。
「次は俺たちも戦う」
「おいおい。相手は霧隠れの抜け忍だよ。君たちだけでどうにかできる相手じゃない」
「分かっている」
サスケは不服そうに答えた。
「だが、前回は何もできなかった。次は違う」
ナルトも大きくうなずく。
「オレだって、今度は足手まといにならねーぞ!」
サクラは二人を見てから、自分の拳を握った。
「私も、できることをします」
心は静かに続けた。
「俺も、タズナさんとみんなを守ります。ただ、再不斬の相手は基本的に先生に任せるつもりです。俺たちは、先生が戦いやすい状況を作る」
「それがいい」
カカシは頷いた。
「相手は経験豊富な抜け忍だ。君たちが成長していることは分かっているけど、実戦では一瞬の判断ミスが命取りになる」
その時、家の中からツナミが顔を出した。
「皆さん、お昼ご飯ができましたよ」
「やったー! 腹減ったってばよ!」
ナルトが歓声を上げる。
だが、心がナルトの様子を見て、少し首をかしげた。
目の下にうっすらと隈ができている。
「ナルト、昨日はいつまで修行していたんだ?」
「え? えーっと……」
ナルトの視線が泳いだ。
「……ちょっとだけ?」
「ちょっとだけ、ね」
心はため息をついた。
昨日、ナルトは水面歩行を安定させようと、影分身まで使って何度も練習していた。
心の影分身が止めに入った時には、本人はまだ続けようとしていたのだ。
「ナルト。修行は量だけじゃない。休息も必要だよ」
「分かってるってばよ……」
「本当に?」
「……分かってるってばよ」
ナルトは小さくなった。
カカシはそのやり取りを見て、苦笑した。
「ほどほどにね。明日、何が起きるか分からないんだから」
その言葉は、思いのほか現実的な意味を持っていた。
再不斬が再び襲ってくるのは、もはや時間の問題だった。
3.眠り続けるナルト
翌朝。
タズナの家には、いつもより早い時間から緊張が漂っていた。
カカシは完全復活とまではいかないものの、戦闘に戻れる状態になっていた。
再不斬と、あの仮面の少年。
二人との再戦が近い。
心はいつものように早朝から起き、体調を確かめると、庭で軽く身体を動かしていた。
サスケもすでに起きている。
サクラは装備を確認し、クナイや手裏剣の位置を整えていた。
ところが――。
「……ナルトは?」
心が尋ねると、サクラが困ったように二階を見上げた。
「まだ寝てるの。昨日、あれだけ修行していたから……」
サスケが鼻を鳴らす。
「馬鹿め。限度も考えずに修行するからだ」
「まあ、あいつらしいけどね」
心は苦笑した。
昨日のナルトは、水面歩行を何としてでも安定させようと、何度も何度も挑戦していた。
失敗しても、転んでも、ずぶ濡れになっても、決して諦めなかった。
その結果、身体の疲労が限界に達したのだろう。
「起こさなくていいのか?」
サスケが尋ねる。
「いや、少し寝かせておこう。昨日の修行で相当疲れているはずだから」
心はそう答えた。
もっとも、ナルトが疲れ切って眠り込むのは原作でも起きたことだ。
再不斬との再戦が迫っているこのタイミングで、ナルトがすぐに動けないのは心配ではあった。
だが、無理やり起こしたところで、集中力も体力も戻らない。
「俺たちでできることをやろう」
心は装備を整えた。
サスケも頷き、サクラも表情を引き締める。
その時、カカシが家の外から戻ってきた。
「みんな、準備はいいかい?」
「はい、先生」
「ナルトは?」
「……まだ寝ています」
サクラが答えると、カカシは一瞬だけ目を細めた。
「昨日、頑張りすぎたかな。まあ、起きたら合流させよう。今は任務を優先する」
「分かりました」
心は頷いた。
ナルトがいない分、前回より慎重に動かなければならない。
しかし、ナルトがいないからといって、彼の努力が無駄になるわけではない。
あいつなら、目を覚ました後、きっと追いつこうとする。
心はそう信じていた。
4.霧の向こうから
波の国の橋へと続く道。
タズナの護衛を続けるカカシたちの前に、濃い霧が立ち込めていた。
「……来たか」
カカシの声が低くなる。
空気が変わった。
森のざわめきが消え、湿った風が頬を撫でる。
心は目を細めた。
――この殺気。間違いない。
霧の向こうから、巨大な刀を肩に担いだ男が現れる。
桃地再不斬。
その少し後ろには、白い仮面をつけた少年が立っていた。
「久しぶりだな、写輪眼のカカシ」
再不斬が口元を歪める。
「今度こそ、その首をもらう」
カカシは額当てをずらし、写輪眼を露わにした。
「悪いけど、前回のようにはいかないよ」
「ほざけ」
再不斬の視線が、カカシの背後にいる下忍たちへと向けられる。
「ガキどもまで連れてきたか。前回の借りを返すには、ちょうどいい」
サスケがクナイを握る。
サクラもタズナの前に立ち、警戒を強めた。
心は半歩前へ出る。
「タズナさんは俺たちが守ります。先生、再不斬をお願いします」
「頼んだよ、心」
カカシが答える。
再不斬の隣にいる仮面の少年は、静かにこちらを見ていた。
心は、その姿を見て内心で警戒を強める。
――あの少年は、ただの補助役じゃない。
前回、再不斬を死んだように見せかけて連れ去った人物だ。油断すれば、こちらの命取りになる。
再不斬が刀を構えた。
「さあ、始めようか」
霧がさらに濃くなる。
カカシと再不斬が同時に動いた。
鋼のぶつかる音が、静かな森に響き渡る。
その瞬間、心はタズナとサクラを守る位置を維持しながら、サスケへ目配せした。
「サスケ。仮面の少年を警戒して。何か動いたら、すぐに知らせてくれ」
「ああ」
「サクラはタズナさんから離れないで。相手が一人とは限らない」
「分かったわ!」
心の緋の眼が、霧の中で鮮やかに輝いた。
再不斬との再戦が始まった。
そして、家で眠り続けているナルトが目を覚ました時、戦いはどこまで進んでいるのか――。
それは、まだ誰にも分からなかった。