水面が、激しく揺れた。
「水遁・渦流弾!」
心が放った水流は、螺旋を描きながら標的へと突き進んだ。
水の塊は途中で複数の流れに分かれ、それぞれが異なる軌道を描く。標的を避けるように回り込んだ水流が、次の瞬間には死角から一斉に襲いかかった。
ドォンッ!
木製の標的が砕け、周囲に水飛沫が舞った。
「……よし」
心は息を整え、手のひらを見つめた。
水の性質変化は、明らかに成長していた。
チャクラの操作精度。 水流の速度。 威力と軌道の制御。
どれも以前より格段に向上している。
もはや、水遁は心にとって得意分野と呼べるものになっていた。
しかし――。
「次は雷……」
心は右手にチャクラを集めた。
バチッ。
「……」
指先に、ほんの小さな刺激が走る。
静電気程度の、ごく弱い放電。
それが今の限界だった。
「もう一度」
チャクラを練り直し、性質を変化させようと試みる。
バチッ、バチッ。
小さな音が鳴るだけで、まともな雷遁と呼べるものにはならなかった。
「くそ……」
心は手を下ろした。
火の性質変化も同様だった。
チャクラを練り上げると、手のひらに熱が生じる。だが、そこから火を生み出す段階には至っていない。
熱を感じることと、火の性質を持つチャクラを自在に操ることは別物なのだ。
そして、土と風に関しては、さらに厳しかった。
いくらチャクラを練っても、明確な変化が起こらない。
手応えすらつかめていなかった。
「水はここまでできるのに、どうして他は……」
心は額の汗を拭った。
緋色の瞳を持つ枢流陀一族。
感情が高ぶることで発現する一族の特性は、身体能力やチャクラ量を大幅に引き上げる。
そして心の場合、五大性質への適性も飛躍的に高まる。
しかし、それは修行を省略できるという意味ではなかった。
適性があっても、技術は自分で身につけなければならない。
分かっている。
頭では理解している。
それでも、焦りは消えなかった。
「……次だ」
心は再び印を結んだ。
◇
一、積み重なる疲労
午前中の性質変化の修行を終えた心は、庭の中央に座った。
「多重影分身の術!」
ボンッ、ボンッ、ボンッ!
白煙とともに、何十人もの心が現れる。
その一部は五大性質変化の修行を継続し、残りは体術や忍術の反復練習へと散っていった。
本体の心は、別の修行に取りかかる。
練。
そして、纏。
チャクラを全身に巡らせるだけでなく、必要な量を安定して維持し、瞬間的な出力の増減にも対応できるようにする。
前世で知っていた念の修行を参考に、忍の世界のチャクラで再現を試みているものだった。
もちろん、念そのものを使っているわけではない。
あくまで、チャクラの制御技術を独自に発展させているのである。
「……堅」
心は全身にチャクラを巡らせ、密度を高めていく。
全身を覆うチャクラを安定させ、外部からの攻撃に対する防御力を高める。
ただ大量に放出するのでは意味がない。
体のどこにも偏りを作らず、一定の状態を保ち続ける必要がある。
チャクラが薄くなった箇所があれば、すぐに調整する。
逆に、一部へ集中しすぎれば全体のバランスが崩れる。
「……まだ甘いな」
心は一度、堅を解いた。
そして、今度は凝の修行に移る。
チャクラを全身へ均等に巡らせるのではなく、視線や意識を集中させた部位へ、必要な量を集める。
まずは目。
緋の眼の力に頼らず、通常の視力と観察力を鍛える。
次に手。
指先にチャクラを集中させ、微細な動きを感じ取る。
そして、足。
踏み込む瞬間に必要な力を集め、動き出しを速くする。
これらの制御が身につけば、体術にも忍術にも応用できる。
修行の方向性そのものは、間違っていない。
実際、練と纏の応用技術はかなり成長していた。
問題は――。
「……っ」
心は眉間を押さえた。
頭の中に、無数の情報が流れ込んでくる。
多重影分身が経験した修行。 それぞれが感じたチャクラの変化。 失敗した原因。 成功した時の感覚。 体術で繰り返した動作。
すべてが、本体へ戻ってくる。
影分身が消えることで経験を一気に取り込めるのは、修行において大きな利点だった。
だが、その利点には代償がある。
情報量が多すぎれば、精神への負担が大きくなる。
しかも心は、複数の修行を並行して行わせていた。
「……はぁ、はぁ……」
呼吸が乱れた。
肉体の疲労なら、まだ耐えられる。
枢流陀一族の身体は、非常に優れた回復力を持っているらしい。最低限の休息と食事を取れば、体の疲労はかなり回復する。
だが、精神は違った。
眠っても、疲労感が抜けきらない。
集中力が落ち、思考が鈍る。
それでも、頭の中には修行の情報が残り続けていた。
まるで、何十人もの自分が一斉に考え続けているかのようだった。
「……まだ、足りないんだ」
心は立ち上がろうとした。
しかし、膝に力が入らず、片手を地面についた。
それでも修行を続けようとした、その時――。
「そこまでだ」
背後から声がした。
心は顔を上げる。
そこに立っていたのは、はたけカカシだった。
◇
二、カカシの制止
「……カカシ先生?」
「やれやれ。少し目を離した隙に、ずいぶん無茶をしているね」
カカシは心の周囲を見渡した。
荒れた地面。 砕けた標的。 水浸しになった修行場。 そして、まだ消えていない複数の影分身。
その光景だけでも、心がどれほど修行に打ち込んでいたかは分かる。
だが、カカシの目は別のものを捉えていた。
心の顔色。
呼吸の乱れ。
そして、普段なら隠せているはずの、精神的な疲労の色。
「今日はもう終わりだ」
「……まだできます」
「できるかどうかを聞いているんじゃない。終わりだと言っているんだよ」
いつもの気の抜けた調子ではなかった。
心は唇を噛んだ。
「でも、時間が……」
「時間?」
カカシは片目を細めた。
「何の時間だい?」
「……」
「最近、ずっとこんな調子だね。睡眠も食事も最低限。休んでいるように見えても、頭の中ではずっと何かを考えている。修行量も明らかに増えている」
カカシは心の正面に立った。
「心。君は、何をそんなに焦っているんだ?」
心は答えられなかった。
これまで、誰にも話してこなかった。
自分が知っている未来のこと。
大蛇丸のこと。
中忍試験で起こるはずの出来事。
前世で見た物語を、そのまま話すわけにはいかない。
そんなことを話せば、説明できないことが多すぎる。
自分が未来を知っている理由を問われたら、どう答えればいいのか。
カカシは、しばらく心の返事を待っていた。
「……話せないことなら、無理にとは言わない」
少しだけ声を和らげる。
「でもね。君が一人で抱え込んで倒れたら、守れるものも守れなくなるよ」
「……先生」
「強くなろうとするのは悪いことじゃない。だけど、今の君は何かに追い立てられているように見える」
心は目を伏せた。
カカシの言う通りだった。
強くなりたい。
仲間を守りたい。
だが、その根底には、知っている未来を変えられないかもしれないという恐怖があった。
原作の展開を知っているからこそ、失敗した時の光景まで想像できてしまう。
サスケが大蛇丸に呪印を刻まれる。
木ノ葉の里が襲撃される。
三代目火影が命を落とす。
そして、サスケが里を去る未来。
それらが、頭から離れなかった。
「……先生」
心は、ゆっくりと顔を上げた。
「信じてもらえるか、分かりません」
「内容を聞く前から、信じないと決めつけるつもりはないよ」
カカシは静かに答えた。
「話してごらん」
心はしばらく迷った。
そして――意を決した。
◇
三、夢の中の蛇
「……夢を見たんです」
「夢?」
「はい。何度も、同じような夢を見ました」
心は言葉を選びながら話し始めた。
「最初は、ただの悪夢だと思っていました。でも、妙に現実感があるんです。目が覚めても、細かいところまで覚えていて……」
カカシは黙って聞いていた。
「夢の中には、蛇のような男がいました。白い肌で、冷たい目をしていて……人間というより、蛇そのものみたいな気配を持った男です」
カカシの表情が、わずかに変わった。
「蛇のような男、か」
「はい。その男は、木ノ葉に近づいていました」
心は一度、言葉を切った。
「……そして、木ノ葉が壊れていくんです」
静かな声だった。
だが、その声には抑えきれない不安がにじんでいた。
「里の中で戦いが起きて、建物が壊れて、人々が逃げ惑っていました。忍たちも、次々に戦いへ巻き込まれていく」
心の手が、わずかに震えた。
「その男は、ただ里を壊したいだけじゃない。何か目的があって、木ノ葉を襲うんです」
「……」
「それから……」
心は、もっとも話すのが怖かった場面を思い出した。
「サスケが、その男に捕まる夢も見ました」
カカシの目が細くなる。
「サスケが?」
「はい。蛇のような男は、サスケに強い関心を持っていました。サスケを自分のところへ連れていこうとしているように見えました」
心は拳を握った。
「俺は、サスケを連れていかせたくないんです」
カカシはすぐには答えなかった。
夢。
蛇のような男。
木ノ葉の崩壊。
そして、サスケが連れ去られる光景。
単なる悪夢として片づけるには、心の様子が真剣すぎた。
「……その男の顔は、はっきり覚えているのかい?」
「はい。細かいところまでは曖昧ですが、特徴は覚えています」
「名前は?」
「分かりません」
心は首を横に振った。
「ただ、夢の中で感じたことは覚えています。あの男は危険です。普通の忍とは違う。正面から戦っても、簡単には倒せないと思います」
「……そうか」
カカシは心をじっと見つめた。
心は、すべてを話したわけではない。
だが、嘘をついているようにも見えなかった。
むしろ、知っていることを話せない苦しさを抱えているようだった。
◇
四、緋色に隠されたもの
(……夢、か)
カカシは心の話を頭の中で整理していた。
緋の眼。
通常時とは比較にならない身体能力。
膨大なチャクラ。
そして、五大性質への高い適性。
枢流陀一族について、木ノ葉が把握している情報は決して多くない。
心本人から聞いた話や、これまでの観察によって分かったことはある。
だが、一族の能力の全容までは分かっていなかった。
(緋の眼には、予知能力まであるのか?)
カカシは、その可能性を考えた。
もちろん、夢を見たというだけで未来予知と断定することはできない。
偶然の一致かもしれない。
何かの情報を無意識に拾い、それが夢に現れた可能性もある。
あるいは、緋の眼にまだ知られていない能力があるのかもしれない。
現時点では、何とも言えなかった。
「心」
「はい」
「その夢を、いつから見ているんだい?」
「……波の国へ行く前からです。戻ってきてからは、前よりもはっきり思い出すようになりました」
「何か、夢の内容が変わった?」
「少しずつ、細かいところが見えるようになっています。でも、全部が分かるわけじゃありません」
心はそう答えた。
それは、嘘ではなかった。
前世で知っている未来を、夢という形に置き換えて話している。
すべてを明かすことはできない。
だが、何も伝えなければ、サスケを守る準備さえできないかもしれない。
「先生。俺は、夢が必ず現実になるとは思っていません」
心は真剣な目でカカシを見た。
「でも、もし本当に起こるなら……何もせずに待っているわけにはいかないんです」
カカシは静かに息を吐いた。
「……なるほどね」
その声は、いつものように落ち着いていた。
「君が焦っていた理由は、少し分かったよ」
「……先生は、信じてくれるんですか?」
「夢が未来を予知しているかどうかは、今の段階では分からない」
カカシは正直に答えた。
「だけど、君が何かを恐れていることは分かった。それに、サスケを守りたいという気持ちもね」
心は黙って聞いていた。
「ただし、ひとつ約束してほしい」
「何でしょう?」
「一人で何もかも背負おうとしないこと。君が見た夢が本当に起こるなら、なおさらだ」
カカシの声が、少しだけ鋭くなった。
「敵がどれだけ強かろうと、君一人で倒さなきゃいけないわけじゃない。仲間を頼ることも、忍に必要な力だよ」
心は、波の国での出来事を思い出した。
自分一人で戦ったわけではない。
ナルトとサスケが白と戦い、カカシが再不斬と戦った。
自分は全体を見ながら、必要な場面で介入した。
それぞれの力があったからこそ、あの結末にたどり着けたのだ。
「……分かりました」
「よし」
カカシは、少しだけ表情を緩めた。
「それと、今日はもう修行禁止。影分身も全部解除して、ちゃんと休むこと」
「ですが……」
「禁止」
「……はい」
「いい返事だ」
カカシは満足そうに頷いた。
それから、ふと思い出したように付け加える。
「蛇のような男については、こちらでも調べてみる。君の話だけで相手を特定するのは難しいけど、気になる情報があれば確認するよ」
「ありがとうございます、先生」
「お礼は、ちゃんと休んでからにしてくれ」
カカシはそう言い残し、修行場を後にした。
◇
五、忍の師として
帰り道、カカシは考えていた。
心が見た夢。
その内容が、もし本当に未来を示しているのなら、無視することはできない。
とりわけ、サスケが何者かに狙われているという点は気がかりだった。
うちは一族の血を引く少年。
写輪眼を持つ、将来有望な忍。
その力を欲しがる者がいても、不思議ではない。
(蛇のような男……)
カカシは、心の話を思い返す。
白い肌。 冷たい目。 人間離れした気配。
そして、木ノ葉を襲う目的を持つ男。
心の夢だけで、正体を決めつけるわけにはいかない。
だが、警戒しておく価値はある。
(緋の眼に予知能力があるのか、それとも別の理由なのか……)
カカシは空を見上げた。
枢流陀一族については、まだ分からないことが多い。
心自身も、自分の能力をすべて理解しているわけではないのかもしれない。
ならば、なおさら注意が必要だ。
心が無理をしている理由を知ることができたのは、大きな一歩だった。
これからは、修行を止めるだけではなく、心が抱えている不安にも目を向ける必要がある。
カカシは、師としてそう考えた。
◇
その頃、心は自宅の縁側に座っていた。
影分身はすべて解除した。
修行も終わり。
今は、ただ静かに休んでいる。
肉体の疲労は、少しずつ抜けていく。
しかし、頭の中にはまだ、分身たちが経験した修行の感覚が残っていた。
(……話してしまったな)
カカシに夢の話をしたことを、心は振り返った。
前世のことも、原作のことも話していない。
それでも、未来に起こるかもしれない危険について、初めて他人に打ち明けた。
少しだけ、胸の重さが軽くなった気がした。
(大蛇丸を倒せるとは思っていない。でも……)
心は、自分の手のひらを見つめた。
(サスケを連れていかせない。木ノ葉を守る。できることは全部やる)
焦りは、まだ消えていない。
緋の眼の力があっても、五大性質変化を自在に扱えなければ意味がない。
練や堅、凝を磨いても、相手の実力が圧倒的なら、それだけで勝てるわけではない。
必要なのは、技術と判断力、そして仲間との連携。
心はゆっくりと目を閉じた。
今は休む。
明日、また鍛えればいい。
自分一人で未来を変えようとするのではなく、仲間たちと一緒に。
そう考えられたことが、今日の心にとっては何よりの収穫だった。
だが――。
心の知らないところで、中忍試験の準備は着々と進んでいた。
木ノ葉の里へ、他国の忍たちが集まり始める。
そして、その中には、蛇のような男の計画につながる者たちもいた。
緋色の少年が見た夢。
それが現実になる日が、少しずつ近づいていた。