「……ん……」
心は、ゆっくりと目を開けた。
身体が重い。
頭もぼんやりとしていて、すぐには状況を理解できなかった。
最後に覚えているのは、山頂に辿り着いたこと。そして、目の前にいた巨大な赤い鳥の姿だ。
「……あれ?」
視線を上げる。
そこには――。
燃え盛る炎を思わせる、真っ赤な羽毛を持った巨大な鳥がいた。
『目覚めたか、枢流陀一族の末裔よ』
「うおおおおっ!?」
心は勢いよく飛び起きた。
驚きのあまり、反射的に距離を取ろうとする。
しかし、身体が思うように動かない。
「いっ……! くっ……!」
全力疾走を続けた二週間。
その疲労が、まだ身体に残っているのだ。
巨大な鳥は、そんな心の様子を見て、どこか面白そうに目を細めた。
『まだ本調子ではないようじゃな。無理もあるまい』
「…………」
心は呼吸を整えながら、改めて目の前の存在を観察した。
巨大な身体。
燃えるような赤い羽毛。
そして、人間の言葉を話す知性。
間違いない。
ここは、あの蝦蟇が教えてくれた目的地だ。
約一万キロという、ふざけた距離を走り続けて、ようやく辿り着いた場所。
ここにいる存在なら、自然エネルギーについて何か知っているかもしれない。
心はそう考えた。
聞きたいことは山ほどある。
だが、その前に一つだけ確認しておきたいことがあった。
「あの……一つ、質問してもよろしいでしょうか?」
『構わぬ。申してみよ』
心は一度、唾を飲み込んだ。
そして、慎重に尋ねる。
「貴方様は……朱雀……様、なんでしょうか?」
『ほう?』
巨大な鳥の目が、わずかに見開かれた。
次の瞬間、その身体から誇らしげな雰囲気が漂い始める。
『いかにも! 我こそは朱雀一族の長、朱明である!』
「…………え?」
『枢流陀一族の伝承にでも残っておったのか? それとも、我の姿を見て気づいたか?』
「い、いえ……」
心は、思わず言葉に詰まった。
朱雀。
朱明。
そして、朱雀一族。
そこで、心は一つのことに気づいた。
――あ、朱雀って一族名なんだ。
前世の知識では、朱雀といえば中国神話に登場する神獣だ。
だが、目の前の存在は、自らを朱雀一族の長と名乗った。
つまり、この世界では、朱雀という名を持つ一族が存在しているということなのだろうか。
そもそも、忍の世界には尾獣が存在し、妙木山には人語を話す蝦蟇たちがいる。
ならば、朱雀のような存在がいても不思議ではない……のかもしれない。
いや、やっぱり不思議ではある。
かなり不思議だ。
「……そうですか。朱明様、ですね」
『うむ!』
朱明は満足そうに頷いた。
そのときだった。
ぐぅぅぅぅ……。
静かな山頂に、情けない音が響き渡った。
「…………」
心は固まった。
腹が鳴った。
しかも、かなり大きな音で。
『はっはっは! 無理もない。お主、三日三晩も眠っておったからの!』
「み、三日三晩!?」
心は目を見開いた。
そんなに眠っていたのか。
確かに、限界まで疲労していた自覚はある。
だが、まさか三日も意識を失っていたとは思わなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 三日って……!」
心の頭の中で、予定が一気に組み上がる。
中忍試験本戦まで、残り二週間。
ここから木ノ葉へ帰る時間も必要だ。
帰り道が来たときと同じ距離なら、いったい何日かかるのか。
そして、肝心の自然エネルギーの修行は、まだ始まってすらいない。
「……やばい」
思わず、本音が漏れた。
「いや、マジでやばい……」
『何がじゃ?』
「本戦まで、もう二週間しかないんです! ここから帰る時間も考えたら、修行できる時間が……!」
心は頭を抱えた。
せっかく苦労して辿り着いたのに、時間が足りない。
しかも、ここまでの道のりで身体を酷使しすぎた。
今すぐ走って帰ろうとしても、さすがに無茶が過ぎる。
そもそも、帰り道を正確に把握しているわけでもない。
心が頭の中で計算を始めていると、朱明が呆れたように笑った。
『まあ、そう慌てるでない。まずは腹ごしらえを済ませようではないか』
「……食事、ですか?」
『そうじゃ。腹が減っては、考えられることも考えられぬ。お主の身体も休ませねばならぬしな』
確かに、その通りだった。
ここまで果物を食べながら走り続けてきたが、まともな食事を取った記憶はない。
空腹は限界に近い。
心は、ひとまず朱明の言葉に従うことにした。
すると、朱明はふと何かを思い出したように声を上げた。
『……おっと、いかん。この姿のままでは案内するにも少々不便じゃな』
「……姿?」
『うむ。少し待っておれ』
朱明がそう言った直後だった。
ボンッ!
朱明の身体が、白い煙に包まれた。
「えっ?」
心は思わず目を瞬かせた。
煙の向こうで、巨大な影が急速に小さくなっていく。
そして、煙が晴れたとき。
「…………」
心は、言葉を失った。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
艶やかな赤い髪。
長く美しい髪を後ろで束ね、整った顔立ちには、どこか人ならざる者の気配が漂っている。
身にまとっているのは、チャイナドレスを思わせる衣装。
深紅を基調としたその服装は、彼女の髪色と見事に調和していた。
妖艶。
その一言が、最もよく似合う女性だった。
「…………えっ?」
心は、ぽかんと口を開けたまま固まった。
女性――いや、朱明は、そんな心の様子を見て可笑しそうに笑った。
『なんじゃ、その顔は』
「え、いや……えっ?」
『お主らがよく使っておる変化の術じゃよ。元の大きさでは、案内するにも少々不便での』
「……変化の術?」
心は、目の前の女性をまじまじと見つめた。
忍術の変化の術。
自分の姿を別のものに変える、基本的な忍術の一つだ。
だが、今の変化は、ただの変化の術と同じなのだろうか。
あの巨大な鳥が、こんな美女に変わるとは。
そもそも、あの巨体はどうなったのだ。
疑問が次々と浮かんでくる。
だが、その中でも最も気になったことを、心は口にした。
「……あの、朱明様」
『なんじゃ?』
「女性の方……だったんですか?」
朱明は、不思議そうに首を傾げた。
『何を言っておる。どこからどう見ても女じゃろうに』
「いやいやいやいや!」
心は思わず声を張り上げた。
「その口調と、さっきの見た目じゃ、わかんないってばよ!」
『……なんじゃ、その語尾は』
「……あっ」
心は、はっとした。
驚きすぎて、ナルトの口調が移ってしまったらしい。
朱明は一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
『はっはっは! なかなか面白い末裔じゃのう!』
「……すみません」
『謝る必要はない。久方ぶりの客じゃ。これくらい賑やかな方がよいわ』
そう言って、朱明は歩き始めた。
『さあ、ついてまいれ。食事の用意はできておる』
「……はい」
心は、まだ少し戸惑いながらも、その後ろを追いかけた。
こうして、彼の長い旅路は、ようやく次の段階へと進むことになった。
◇
朱明に案内されて辿り着いた場所は、心の予想とは大きく異なっていた。
「……ここは?」
目の前に広がっていたのは、小さな町だった。
いや、かつては町だった場所、と言うべきだろう。
崩れた塀。
屋根が落ちた建物。
雑草に覆われた道。
長い年月、誰も住んでいなかったことは一目でわかった。
ところどころに残っている建物も、壁はひび割れ、木材は腐食している。
人の気配はない。
生活の音もない。
まるで、時間だけが取り残された場所のようだった。
「……廃墟、ですか?」
『そう見えるじゃろうな』
朱明は、少しだけ寂しそうに周囲を見渡した。
『ここは、今では住む者もおらぬ。長い年月が過ぎたからの』
心は、何も言わずに町を見つめた。
ここに何があったのか。
なぜ、誰もいなくなったのか。
朱明の言葉には、まだ説明されていない何かが含まれているように感じられた。
しかし、今は聞かなかった。
まずは、話を聞ける状態になることが先だ。
空腹と疲労で、思考がまともに働いていない。
そんな状態で重要な話を聞いても、頭に入らないだろう。
朱明は、廃墟の中でも比較的状態のよい建物へと向かった。
「この建物は、まだ使えるんですね」
『うむ。昔から、ここだけは手入れを続けておるのでな』
「……朱明様が?」
『そうじゃ』
朱明は何でもないことのように答えた。
そして、扉を開ける。
その瞬間――。
ふわり、と食欲を刺激する香りが漂ってきた。
「……っ!」
心の腹が、再び大きく鳴った。
ぐぅぅぅ……。
『はっはっは! 待たせたのう』
建物の中には、食事が用意されていた。
温かな汁物。
炊き立てのご飯。
焼いた魚。
野菜を使った料理。
どれも、ごく普通の食事だった。
少なくとも、見た目は。
「…………」
心は、思わず警戒した。
普通だ。
あまりにも普通すぎる。
妙木山の蝦蟇たちが食べていたものを思い出す。
原作で見た、あの独特な食事風景。
巨大な虫や、正体のわからない食材が並ぶ光景が、一瞬脳裏をよぎった。
――まさか。
――これ、見た目だけ普通で、実はとんでもない食材が使われてるんじゃ……?
心は、目の前の料理をじっと見つめた。
『どうした? 食べぬのか?』
「あ、いえ……いただきます」
ここまで来て、食べないという選択肢はない。
心は箸を手に取り、まずは汁物を口に運んだ。
「……っ!」
温かい。
出汁の旨味が、疲れ切った身体に染み渡る。
続いて、ご飯を口に運ぶ。
焼き魚をほぐし、野菜も食べる。
「…………おいしい」
思わず、本音が漏れた。
普通の料理だった。
変な味もしない。
妙な食感もない。
むしろ、長い旅路で疲弊した身体が求めていた味だった。
心は、夢中で食べ始めた。
ご飯を食べ、汁物を飲み、魚を口に運ぶ。
久しぶりのまともな食事。
空腹が満たされるにつれて、ようやく頭も働き始めた。
そんな心の様子を、朱明は満足そうに眺めていた。
『お主が目覚めたときに食べられるよう、あらかじめ作っておいたのじゃ』
「……えっ?」
心は箸を止めた。
「俺が起きるタイミングを、わかっていたんですか?」
『いや、正確にはわからぬよ。三日も眠っておったから、そろそろ目覚める頃合いかと思っただけじゃ』
「……なるほど」
心は、改めて朱明を見た。
見た目は若い女性だが、その言動には長い年月を生きてきた存在特有の落ち着きがある。
そもそも、あの巨大な鳥の姿を見れば、ただの人間ではないことは明白だ。
そして、朱明は心が食事を続けるのを見届けたあと、ゆっくりと口を開いた。
『さて……腹も満たされてきたところで、少し話をしようかの』
「……はい」
心は箸を置き、姿勢を正した。
いよいよだ。
この場所について。
朱雀一族について。
そして、枢流陀一族について。
聞きたいことは山ほどある。
だが、朱明が最初に告げた言葉は、心の予想を超えるものだった。
『ここはな……大昔、枢流陀一族が暮らしておった集落なのじゃよ』
「…………え?」
心は、目を見開いた。
「ここが……枢流陀一族の?」
『そうじゃ』
朱明は、懐かしむように目を細めた。
『かつては、多くの者がこの地で暮らしておった。子どもたちの声が響き、家々からは食事の香りが漂い、夕暮れになれば、皆がそれぞれの家へ帰っていったものじゃ』
朱明の声は、どこか遠い過去を懐かしんでいるようだった。
『今のお主には、想像もつかぬかもしれぬな』
「……はい」
心は、静かに頷いた。
彼が知っている枢流陀一族は、すでに滅びた一族だ。
そして、自分はその最後の生き残り。
少なくとも、そう思っていた。
だが、この場所には、一族が暮らしていた痕跡が残っている。
朱明は、その歴史を知っている。
ならば――。
自分が知らない、一族の過去を聞けるかもしれない。
心は、自然と背筋を伸ばした。
「朱明様。教えてください」
『何をじゃ?』
「枢流陀一族は、昔、ここでどんな暮らしをしていたんですか? それに……どうして、ここには誰もいなくなったんですか?」
朱明は、すぐには答えなかった。
その赤い瞳が、窓の向こうに広がる廃墟へと向けられる。
長い沈黙。
やがて、朱明は静かに口を開いた。
『……そうじゃな。まずは、お主の一族が、かつてどのような一族だったのか。それから話すとしよう』
朱明の表情から、先ほどまでの楽しげな雰囲気が消えていた。
『枢流陀一族と朱雀一族……。この二つの一族には、長きにわたる縁があったのじゃ』
心は息を呑んだ。
自然エネルギーを学ぶために辿り着いた場所。
そこで待っていたのは、単なる修行の師ではなかった。
自分の一族の過去を知る存在だったのだ。
心は、朱明の次の言葉を待った。
失われた一族の歴史が、今、明かされようとしていた。