『あれは、人の歴史が大きく動き始める、ほんの少し前のことじゃった……』
朱明は懐かしむように目を細め、ゆっくりと語り始めた。
『ある時、一人の男が町に来おった』
「町……?」
『うむ。今のお主が見ておる廃墟のことじゃ。あの頃は、枢流陀一族が暮らす、賑やかな町じゃったよ』
朱明は窓の外へ目を向けた。
今では草木に覆われ、かつて人々が暮らしていた面影すらほとんど残っていない。
しかし、朱明の目には、当時の光景がはっきりと浮かんでいるのだろう。
『その男はのう……見た目こそ、人間の老人のようであったが、人間離れした神々しさと、不気味さを併せ持った、なんとも奇妙な姿をしておった』
「人間離れした……?」
『頭には二本の角が生えており、目には縞模様があった。さらに、額にももう一つの目があったのじゃ』
「……っ!」
心は息を呑んだ。
二本の角。
縞模様の目。
そして、額にある第三の目。
その特徴を聞いた瞬間、心の脳裏に、一人の人物の姿が鮮明に浮かび上がった。
大筒木ハゴロモ。
忍の歴史に名を残す、六道仙人。
かつて十尾と戦い、その力を封印し、忍宗を人々に広めたとされる人物。
そして、母である大筒木カグヤから受け継いだ力を持つ、伝説の存在。
(ハゴロモ……六道仙人……!)
心は驚きを押し殺した。
まさか、こんな場所でその名が出てくるとは思っていなかった。
しかも、朱明の話が本当なら、彼女はハゴロモ本人と面識があるということになる。
(いや、待て。ここは妙な場所だ。妙な場所どころじゃない。妙な鳥が喋ってる時点で、俺の常識なんて役に立たないけど……)
目の前にいる朱明も、ただの鳥ではない。
人の姿に変化し、何百年、あるいはそれ以上の時を生きている。
そんな存在が語る歴史だ。
心は、口を挟まずに続きを待った。
朱明は、心の驚きに気づいているのかいないのか、昔を懐かしむように話を続ける。
『自分たち以外で初めて人間を見た枢流陀一族は、警戒よりも好奇心のほうが勝っておった』
「……警戒しなかったんですか?」
『もちろん、最初から誰もが無警戒だったわけではないぞ。じゃが、あの一族は昔から好奇心旺盛でのう。未知のものを恐れるより、知りたいという気持ちが強かったのじゃ』
朱明は小さく笑った。
『それもそのはずじゃ。この近辺だけではない。蝦蟇どもの住処にも、くそ蛇のところにも、腹黒いナメクジのところにも、人間など一人たりともおらなんだ』
「……くそ蛇って、大蛇丸みたいな言い方ですね」
『大蛇丸? なんじゃ、その大層な名前は』
「い、いえ。こっちの話です」
危うく余計なことを口にするところだった。
朱明は不思議そうに首を傾げたものの、すぐに話へ戻った。
『とにかくじゃ。この獣たちの楽園、さまざまな生き物がそれぞれの住処を持つこの地に、人間として暮らしておったのは枢流陀一族だけじゃった』
心は周囲を見渡した。
確かに、ここには人間の町があった。
そして、今もなお、普通の動物とは異なる力を持つ生き物たちが存在している。
妙な話ではあるが、少なくとも朱明の言葉には一貫性があった。
『ワシら朱雀一族は、もちろん警戒しておったよ。何しろ、突然現れた得体の知れぬ男じゃからな』
「それはそうですよね」
『じゃが、枢流陀一族とその男が打ち解けるのは、驚くほど早かったわ』
「そんなにですか?」
『うむ。男は自分の名をハゴロモと名乗った』
その名前を聞き、心は改めて背筋を伸ばした。
やはり、間違いない。
大筒木ハゴロモ。
この世界において、忍の歴史の始まりに深く関わった人物だ。
(まさか、枢流陀一族が忍宗の教えを受けていたなんて……)
心が知っている歴史には、枢流陀一族の存在など出てこない。
そもそも、ハゴロモと直接関わった一族が、現代まで生き残っているなど聞いたこともなかった。
もちろん、それは心が前世で知っていた物語に限った話だ。
この世界には、知られていない歴史がまだまだ存在するのかもしれない。
『ハゴロモは、忍宗という教えを人々に伝えるため、旅をしておるのだと言っておった』
「忍宗……」
『そうじゃ。人と人とをチャクラでつなぎ、互いに理解し合うための教え。少なくとも、あの男はそう説明しておったな』
朱明は腕を組んだ。
『最初は、一人の枢流陀がハゴロモから教えを受けた。それを見た別の者が興味を持ち、また一人、また一人と教わっていった。気づけば、最後には枢流陀一族の全員が、ハゴロモから忍宗を学んでおったわ』
「一族全員が……」
『うむ。ハゴロモは、教えを乞う者を拒まなかった。年齢も、立場も関係なく、誰にでも分け隔てなく教えておったよ』
心は、原作で語られた六道仙人の姿を思い返した。
忍宗は、本来、戦うための技術ではなかった。
人々がチャクラを通じて互いを理解し、心をつなぐための教えだったはずだ。
それが時代を経るにつれ、忍術という戦いの技術へと変化していった。
(……そうか。枢流陀一族は、その始まりに立ち会っていたのか)
『そして、ハゴロモは忍宗だけではなく、外の世界についても教えてくれた。ワシらの知らぬ土地があり、さまざまな人間が暮らしておることをな』
朱明は、どこか嬉しそうに微笑んだ。
『枢流陀の者たちは、外の世界の話を聞くたびに目を輝かせておった。山の向こうには何があるのか。海の向こうには何があるのか。自分たちと同じように暮らす人間は、どんな生活をしておるのか。知りたいことが尽きなかったのじゃ』
「……なんだか、想像できます」
心自身、前世の記憶があるからこそ、知らない世界を知りたいという気持ちはよく分かった。
そして、ハゴロモは枢流陀一族に、もう一つのものを与えていた。
『あの男は、枢流陀一族に自分のチャクラを分け与えておった』
心の表情が変わる。
「チャクラを……分け与えた?」
『そうじゃ。忍宗を教える過程で、チャクラを分け与えておったのじゃよ。ワシは詳しい仕組みまでは知らぬが、あの男はそれを自然なことのように行っておった』
心は自分の掌を見つめた。
枢流陀一族の緋の眼。
自然エネルギーを取り込み、それを自分たちの力へと変換する性質。
そして、ハゴロモから与えられたチャクラ。
それらが、どこかでつながっているのだろうか。
しかし、今の時点では答えが見つからない。
「そのチャクラが、緋の眼に関係していたんですか?」
心の問いに、朱明はすぐには答えなかった。
『……それについては、もう少し先の話じゃ』
「分かりました」
心は、それ以上追及しなかった。
朱明が隠しているのは、単に知らないからではない。
話す順序があるのだろう。
今は、彼女の言葉を最後まで聞くべきだった。
『しばらくして、ハゴロモが再び旅に出ることになった』
朱明は、ゆっくりと言葉を続けた。
『すると、枢流陀一族の者たちは、そろってこう言いおった。自分たちも外の世界を見てみたい、とな』
「……全員で、ですか?」
『全員じゃ』
朱明は呆れたように笑った。
『あの一族は、昔から一度決めたら聞かぬところがあってのう。ハゴロモが何度も説得したようじゃが、結局、誰一人として残ろうとはしなかった』
「それで、一族全員が旅に出たんですね」
『そうじゃ。ワシらには、旅から戻ってくると告げてな』
朱明の笑みが、ほんの少しだけ曇った。
『じゃが、ワシは心配でたまらなかった』
心は黙って彼女を見つめた。
『あの男が悪人だとは思わなかった。枢流陀の者たちも、心からハゴロモを信頼しておった。それでも、ワシらの知らぬ外の世界へ、あれほど大勢の者が一度に出ていくのじゃ。何が起こるか分からぬ』
朱明は、かつての自分を思い出すように目を伏せた。
『そこでワシは、ハゴロモが教えておった忍宗の知識を頼りに、今でいう口寄せの術につながる契約を、枢流陀一族と結んだのじゃ』
「それが……俺がここへ来られた理由ですか?」
『そうじゃ。もっとも、当時の契約が今のお主の使う口寄せの術とまったく同じ仕組みだったわけではない。長い年月のうちに、術の形も変わっていったのじゃろう』
朱明は心の顔を見た。
『それでも、契約は残った。お主がここへたどり着けたのも、そのつながりがあったからかもしれぬな』
心は、以前この場所を教えてくれた蝦蟇の言葉を思い出した。
あの蝦蟇は、枢流陀一族と朱雀一族の間に古い契約があることを知っていた。
だからこそ、心をここへ導いたのだ。
「……そうだったんですね」
『それでも心配は消えなかった。じゃから、ワシは眷属の中から何匹かを選び、密かに枢流陀一族のあとを追わせた。無事に旅をしておるか、何か困ったことが起きておらぬか、様子を見るように頼んだのじゃ』
朱明の声は淡々としていた。
だが、その言葉の裏には、長い年月を経ても消えない心配がにじんでいた。
『枢流陀一族は、何年もの間、外の世界を旅しておった。さまざまな土地を訪れ、さまざまな人間と出会い、時には争いに巻き込まれることもあったようじゃ。それでも、あの一族は旅を続けた』
「ハゴロモと一緒に?」
『最初はな。じゃが、いつまでも一緒に旅をしていたわけではない。ハゴロモにも、やらねばならぬことがあったのじゃろう』
朱明は一度言葉を切った。
『そして、ある時。枢流陀一族は、一つの土地に腰を落ち着けることにした』
「集落を作ったんですね」
『そうじゃ。理由は、子供が生まれたからじゃった』
心は目を見開いた。
『それまでの旅は、大人たちにとっては楽しいものだったのじゃろう。じゃが、子供が生まれれば話は変わる。安心して暮らせる場所が必要になる。あの一族は、ようやく自分たちの住処を作ることにしたのじゃ』
朱明の表情が、ゆっくりと変わっていく。
懐かしさの奥に、悲しみが浮かんでいた。
『そして、その子供が生まれた時……ワシの眷属から報せが届いた』
「どんな報せだったんですか?」
朱明は、心の瞳をまっすぐに見つめた。
『その子供の目は、緋色ではなかった』
「……え?」
『青かったのじゃ』
心は思わず息を止めた。
『それまでの枢流陀一族は、誰もが生まれながらに緋の眼を持っておった。例外など、一人もおらなんだ。じゃが、その子供は違った。お主と同じように、青い目をしておったのじゃ』
心は、自分の瞳に触れた。
普段は青く、感情が高まれば緋色に変わる。
それが、自分たち枢流陀一族の特徴だと思っていた。
しかし、朱明の話が正しければ、かつての一族は違ったのだ。
生まれた時から、誰もが緋の眼を持っていた。
それが、ある時を境に変わった。
「……その子供が、最初だったんですか?」
『そうじゃ』
朱明は静かに頷いた。
『生まれながらに緋の眼を持たぬ、初めての枢流陀一族。その子供の誕生こそが、すべての始まりじゃった』
心の胸が、どくんと鳴った。
なぜ、緋の眼は発動型になったのか。
なぜ、昔の枢流陀一族と今の枢流陀一族では、瞳の性質が異なるのか。
その答えが、ようやく見え始めていた。
「朱明様……その子供は、どうなったんですか?」
朱明は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開く。
『その子供は、青い瞳のまま育った。そして……』
朱明の声が、わずかに震えた。
『その子供の誕生を境に、枢流陀一族の運命は、大きく変わっていったのじゃ』
心は、言葉を失った。
目の前の朱明は、長い時を生きてきた存在だ。
その彼女が、今なお悲しみを浮かべるほどの出来事。
それが、自分の一族の歴史に刻まれている。
心は、拳を握りしめた。
「……続きを、聞かせてください」
朱明は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
『うむ。すべて話そう。なぜ緋の眼が変わったのか。そして、枢流陀一族が何を失ったのかもな』
彼女は窓の外に広がる廃墟を見つめた。
『あの子供が生まれた時、まだ誰も気づいておらなんだ。あれが、長い悲劇の始まりになるとは……』
かつて賑わっていた町には、今や誰もいない。
残されたのは、朽ちた家々と、長い時を生きる朱雀一族の記憶だけだった。
そして、その記憶の先には――心がまだ知らない、枢流陀一族の真実が待っていた。