ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
「もう1周なさるおつもりなら、おやめなさい」
声は、コースのすぐ外から聞こえた。ライスシャワーは肩を跳ねさせ、足を止めた。息がうまく吸えない。膝に手をつこうとして、慌てて背筋を伸ばす。
「あ、あのっ、ごめんなさい。もう、使っちゃいけない時間でしたか……?」
「消灯までは、まだありますわ」
外灯の下に、女の人が立っていた。艶のある髪が、左右で大きく巻かれている。襟元には深紅の石。細いヒールの靴も、黒い手袋も、夜のトレーニングコースでは見たことのないものだった。その人は片手に閉じた扇子を、もう片方にストップウォッチを持っていた。
「最後の直線、足が流れていました。今夜はそこまでにしておきなさい」
「……見て、たんですか?」
「ええ。もう少し早く声をかけるつもりでしたけれど」
その人はストップウォッチへ目を落とし、口元をわずかに緩めた。
「見入ってしまいましたわ」
ライスは、自分の後ろを見た。コースには誰もいない。
「貴女のことです。ライスシャワーさん」
名前まで知られている。ライスがますます小さくなると、女の人は首から下げていた身分証を持ち上げた。トレセン学園のトレーナー。その文字を見て、ようやく少しだけ息ができた。
けれど、次の言葉で、また喉が詰まった。
「今日の選抜レース。貴女を見に来たのですけれど」
「……ごめんなさい」
視線が靴の先へ落ちた。土で汚れた、自分の靴。今日はこの靴で、みんなと一緒に走るはずだった。出走する子たちが集まっているのを、離れたところから見ていた。名前を呼ぶ声も聞こえていた。そこまで行って、どうしても近づけなかった。
「ライス、出られなくて……」
「存じています」
「だから、その……選抜レースは、もう終わっちゃって」
「ええ。ですが、わたくしはまだ選び終えておりませんの」
ライスは顔を上げた。女の人は、ごく当然のことを言ったような顔をしていた。
「来週の朝の練習、お時間をいただけるかしら。まずは疲れを取って、それから改めて走りを見せていただきたいのです」
「え……」
「普段は何時から? 朝食の前なら、その後の予定も調整いたしますわ。ああ、まずは今日までの練習内容を――」
「あ、あのっ」
扇子が止まった。待ってくれている。ライスは両手を握った。
「ライス、選抜レースにも、出られなかったんです」
「それも伺いました」
「また、怖くなっちゃうかもしれなくて」
「では、何が怖かったのかも伺いましょう」
「それに……」
言いたくない。この人は、ライスを見に来たと言ってくれた。今の走りにも、見入ったと言ってくれた。そんな人に、自分から教えなければならない。
「ライスと一緒にいると……悪いことが、起きるから」
手袋の指が、扇子の柄をなぞった。
「悪いこと?」
「お友だちが転んじゃったり、大切なものが壊れちゃったり……。ライスが何かしようとすると、いつも、みんなに迷惑をかけちゃうの」
話し始めると、言葉は簡単に出てきた。もう何度も、胸の中で繰り返したことだった。今日だって、自分が走ったせいで誰かが転んだらと思った。選んでくれた人をがっかりさせたらと思った。大勢の人が見ている前で、自分が本当に誰も幸せにできないと分かってしまったら。怖くなって、逃げた。そうして夜になってから、誰も見ていないコースに来た。
「……だから、ライスはやめた方が、いいと思います」
最後まで聞いていたトレーナーは、静かに扇子を開いた。
「なるほど」
ライスは唇を噛んだ。
「それで、今夜は何が起きましたの?」
「……え?」
「わたくしは先ほどから貴女とおりますけれど」
ライスは、あたりを見回した。誰も転んでいない。何も壊れていない。ただ、選抜レースを台無しにした自分と、それを知らずに見に来てくれた人がいる。
「でも、今日、せっかく来てくれたのに……」
「会えましたわ」
扇子が、ぱちりと閉じた。
「こうして」
きっぱり言われて、ライスは返す言葉をなくした。トレーナーはコースへ目を向ける。
「先週の朝、貴女の練習を見ました。後半になっても、足運びが乱れなかった。前を走る子との距離も、きちんと見ていましたわね」
覚えている。何人かで一緒に走った日だった。前の子が少しずつ遠くなって、追いかけたくて、けれど近づきすぎたら邪魔になる気がして。
「もっと伸びる、と思いました。だから、選抜レースを楽しみにしていたのです」
ライスはもう一度、コースを見た。さっきまで、自分が走っていた場所。
「そして今夜も、貴女はここに来た」
トレーナーの声が、少しだけ低くなった。
「走るのをやめたい子の目ではありませんでしたわ」
胸の奥を、指でそっと押された気がした。今日、逃げたことはなくならない。怖かったことも、誰かに迷惑をかけるかもしれないことも、変わっていない。でも、夜になって靴紐を結んだとき、考えていた。もっと速く走れたら。次こそ、ちゃんと走れたら。
「……ライス」
喉の奥に引っかかっていた言葉が、ようやく出た。
「ライス、誰かを幸せにできるウマ娘に、なりたくて」
トレーナーは黙って聞いていた。
「絵本の、青いバラみたいに……。走ってるところを見て、誰かが喜んでくれたら、いいなって」
話しながら、恥ずかしくなった。レースに出ることもできなかったのに。今日まで誰にも言えなかった、大きすぎる願いだった。
「まあ」
目の前の人が、目を輝かせた。
「それなら、ちょうどよろしいわ」
「……ちょうど?」
「わたくし、貴女が勝つところを見たいのです」
迷うところなど、ひとつもない声だった。
「青いバラですもの。咲いたところを見たら、きっと自慢せずにはいられませんわ。わたくしの担当ですと、皆様が覚えてしまうまで、何度でも」
ライスはまばたきをした。
「……ライスを?」
「ええ」
「自慢……できるかな」
「そのために、わたくしがおります」
トレーナーはライスの正面へ来た。近くで見ると、襟元の石は思っていたよりずっと大きかった。まっすぐに見下ろしてくる目には、困っている様子も、気を遣っている様子もない。
「ただし、わたくしは欲張りですわよ。デビューだけで満足するつもりはありませんし、せっかくなら大きなレースを勝ちたい。相応の練習はしていただきます」
「は、はい」
「それから、痛いところや具合の悪いところを隠すのは禁止。怖くなったときは、いなくなる前に話すこと」
今日のことを言われている。ライスはうつむきかけて、なんとか頷いた。
「……はい」
「わたくしからも、練習の目的と、貴女に何を期待しているかをお話しします。分からなければ何度でもお聞きなさい」
そこで、差し出された。黒い手袋に包まれた手。
「わたくしの担当になりませんこと?」
ライスは、その手を見つめた。自分の手は、汗と土で汚れていた。服で拭おうとして、服も汚れていることに気づく。トレーナーは急かさなかった。しばらくして、手を引こうとした。
「今夜すぐに決めなくても――」
「ま、待って」
ライスは一歩、前に出た。
「ライス、また怖くなると、思うの」
「ええ」
「きっと、いっぱい迷惑も……」
「そのお話は、先ほど伺いましたわ」
少し困ったように言われて、ライスは口を閉じた。言うべきことが、違った。顔を上げる。
「ライスの、トレーナーさんに……なって、ください」
黒い手袋に、そっと指を重ねた。すぐに握り返された。思っていたより、ずっと力強く。
「喜んで」
トレーナーは微笑んだ。
「詳しい手続きは明日。それから、今夜は脚を冷やさないこと。帰り支度をなさい」
「あの、手袋……汚れちゃった」
黒い布に、薄く土の跡がついていた。トレーナーは自分の手を見て、それからライスを見た。
「洗いますわ」
それで、その話は終わりになった。
*
翌朝、ライスは教えられたトレーナー室の前に着いた。扉の向こうから、声が聞こえる。
「ええ、担当は決まりました。ライスシャワーです」
ライスは、ノックしようとした手を止めた。
「選抜レース? 出ていませんわ。わたくしが直接、走りを拝見しましたの」
少しの間があった。
「ええ。楽しみにしていてちょうだい」
昨日と同じ、自信に満ちた声だった。電話が終わるのを待って、扉を叩く。中に入ると、机には契約の書類と、今週の予定表が並んでいた。ライスの名前が、いちばん上に書いてある。トレーナーはライスを椅子へ招いた。
「よく眠れました?」
「……ちょっとだけ、どきどきして」
「まあ。わたくしもですわ」
意外で、顔を見た。トレーナーは悪びれもせず、目を細める。
「貴女の出たいレースを伺ってからと思っていたのに、先にあれこれ調べてしまいましたの」
机の端に、レースの日程表があった。いくつもの印と、細かい書き込み。ライスはそれを見ながら、差し出されたペンを両手で受け取った。
*
「苺とチョコレート。どちらがお好き?」
デビュー戦の朝。控室で、ライスは自分の耳を疑った。
「……え?」
「ケーキですわ」
トレーナーは、いつもより華やかな帽子をかぶっていた。つばの飾りが揺れるたび、ライスの視線もそちらへ動く。
「本日の祝勝会に。せっかくですから、貴女の好きなものにいたしましょう」
「しゅ、祝勝会……?」
「ええ。お店には連絡してあります。大きさを決めかねておりますけれど、やはりお祝いですし――」
「ま、待って、トレーナーさん」
ライスはゼッケンの端を握った。
「まだ、走ってないよ……?」
「存じております」
「勝てるかも、分からないのに」
自分の声が、思ったより小さかった。朝から、何度も同じことを考えている。相手の子たちは、みんな強そうだった。大きなレース場にはたくさんの人がいて、知らない音があちこちから聞こえてくる。上手にスタートできるだろうか。練習したとおりに、走れるだろうか。ここまでしてくれたトレーナーさんを、がっかりさせないだろうか。
トレーナーは開きかけた扇子を閉じた。
「ライス。最後の練習で、何を言いました?」
「……脚が、軽かったって」
「その前は?」
「いつもより……遠くまで、走れそうって」
「そう。わたくしも、そう思いました」
扇子の先が、ライスの靴を指した。
「貴女の走りを、毎日見てきました。今日の相手のことも調べました。そのうえで、勝てると思っておりますの」
顔を上げると、トレーナーは少しだけ笑った。
「楽しみなのですわ。ようやく、皆様に見ていただけるのですもの」
ライスの指が、ゼッケンから緩んだ。
「……そんなに?」
「ええ。ですから、少々浮かれております」
その帽子も、そうなのだろうか。思わず見上げてしまうと、トレーナーは得意げにつばへ手を添えた。
「よくお分かりになりましたわね。初陣ですもの」
「お帽子……すごく、目立つね」
「貴女からも見つけやすいでしょう?」
大きな羽飾りが、ゆっくり揺れた。たぶん、観客席のどこにいても分かる。ライスの口元が、少し緩んだ。トレーナーはそれを見てから、椅子を寄せた。
「さて。最初のコーナーまでのこと、もう一度確かめましょうか」
ケーキの話はいったん終わりになった。スタートのあと、周りが速くても無理についていかないこと。前が詰まったとき、慌てて動かないこと。最後の直線に入ってからのこと。何度も話してきた作戦だった。ライスが言葉につかえると、トレーナーは同じところをもう一度確かめた。分かったところは、すぐ次へ進んだ。
呼び出しの声がしたとき、さっきより息がしやすくなっていた。立ち上がったライスを、トレーナーが見送る。
「では、ライス」
「はい」
「戻ってきたら、ケーキのお返事を」
ライスは一瞬、言葉に詰まった。それから、小さく頷いた。
「……うん」
*
ゲートの中は、思っていたより狭かった。隣で、誰かが脚を踏み替える。金属が鳴る。観客席のざわめきが、遠いのか近いのかも分からない。
ライスは前を見た。芝生がずっと続いている。ここを走る。選抜レースの日、立てなかった場所に、今日は立っている。
ゲートが開いた。体が動いた。すぐ横を、別の子が前へ出ていく。つられて脚を速めかけ、息を吐いた。
『スタートしました! 各ウマ娘、まずは先行争い!』
初めから、追いかけすぎない。前にはまだ何人もいる。後ろから近づく足音もある。誰かとぶつかりそうな気がして肩が縮むたび、顔を上げて、実際の距離を確かめた。走れる。自分の足を置くところは、ちゃんとある。
最初のコーナーを曲がると、少しずつ、周りが見えてきた。前の子の背中。揺れる尻尾。芝を蹴る足。練習でも、見てきたものだった。脚は動いている。苦しくなりすぎていない。前の子が少し離れた。慌てずに、歩幅を伸ばす。離れた分が、ゆっくり戻ってきた。
大丈夫。トレーナーさんに伝えたくなった。ちゃんと、走れているよ。
最後のコーナーが近づいた。前の集団が動き始める。ライスも追いかけた。さっきまで余裕のあった息が、急に熱くなる。
直線に入った。外側に、進める場所が見えた。練習で何度も、前に出るところを確かめた。早すぎても、遅すぎてもいけない。残っている力を、ここで使う。
ライスは腕を振った。ひとり、追い越した。もうひとり。先頭の子が、まだ前にいる。
『外からライスシャワーが上がってきた! 先頭まで、あとわずか!』
追いつきたい。その背中を目がけて、地面を蹴った。差が詰まる。相手も気づいて、もう一段、速くなる。苦しい。脚が重くなってきた。息を吸っても足りない。
横に並んだ。ほんの少し、ライスの方が前に出た。その瞬間、遠くにあったゴールが、はっきり見えた。誰の背中も、間にない。
このまま、いちばんに。ライスは歯を食いしばった。白い線が、足の下を通り過ぎた。
『ライスシャワー、先頭でゴールイン! 競り合いを制して、デビュー戦を勝利で飾りました!』
すぐには、走るのをやめられなかった。何歩も進んで、少しずつ速度を落として、それからようやく後ろを振り返る。係の人が、こちらへ来るように手を振っていた。自分を指さすと、頷いてくれた。掲示板を見た。いちばん上の番号と、自分のゼッケンを、何度も見比べた。
「……ライス、が」
勝った。口にしようとしたとき、観客席から声が飛んできた。
「よく走りましたわ、ライス!」
見つけるのに、帽子はいらなかった。トレーナーが立っていた。扇子を脇に挟んで、両手で拍手をしている。帽子の羽が大きく揺れているのに、気にしていない。ライスと目が合うと、もっと大きく笑った。
「おめでとう!」
周りの人が、何人も振り向いていた。トレーナーは、そちらへまで胸を張る。
「わたくしの担当ですの!」
そこまでは、よく聞こえた。ライスは熱くなった頬を両手で押さえた。もう一度観客席を見ると、まだ拍手をしていた。こちらが見るたび、嬉しそうに頷いてくれる。
ライスは、そっと手を上げた。するとトレーナーは、隣の人に何か言いかけていたのをやめ、すぐに手を振り返した。ライスも、もう少し高く、手を上げた。
*
戻ってきたライスを、トレーナーは両手を広げて迎えた。
「お見事でしたわ!」
「あの、ライス……」
「見ておりました。最初に抑えたところも、直線で進路を選んだところも!」
近づくより先に、トレーナーの方がやってきた。ライスの両手を取って、目を覗き込む。
「最後、相手の子もよく粘りましたわね。あそこからもうひと伸びできたのは、貴女が力を残していたからです」
「あ、うん。最後のところ、練習みたいにって……」
「ええ、ええ! そのとおりでした。ああ、映像を早く見たいわ。今度は貴女と一緒に!」
話しながら笑って、またライスの顔を見る。ライスが何か言おうとすると、ちゃんと待つ。でも、その口元はどうしても緩んでしまうようだった。
「……トレーナーさん」
「なあに?」
「うれしい?」
目を丸くされた。それから、トレーナーは顎を上げた。
「ご覧のとおりですわ!」
高らかに言って、ひと息ついて。ライスの手を、もう一度握った。
「とても、嬉しい」
ライスはうつむいた。目の奥が熱かった。苦しいからではなかった。失敗したからでも、誰かに謝らなければいけないからでもなかった。自分が走って、この人が喜んでいる。そんなことが、本当に起きた。
「ライスも……」
言いかけて、鼻をすすった。
「ライスも、うれしい」
「ええ」
「勝てたの、うれしい」
「ええ。よく頑張りました」
涙がひとつ、靴の先に落ちた。トレーナーは片手を離し、ハンカチを取り出した。ライスに渡して、もう片方の手は繋いだまま、しばらく待ってくれた。目元を押さえると、布からやさしい匂いがした。
顔を上げる。トレーナーは、まだ嬉しそうだった。
「あの……」
「はい」
「お姉さま、って……呼んでも、いい?」
言ってから、頬が熱くなった。トレーナーの口が少し開いた。今日は初めて、すぐに返事が来なかった。
「変、かな……」
「いいえ」
今度の返事は、早かった。トレーナーは扇子を開いて、口元を隠した。
「もう一度、呼んでちょうだい」
ライスは繋いだ手を見た。それから、その人を見上げる。
「……お姉さま」
扇子の向こうで、目が細くなった。
「ええ。何かしら、ライス」
「あのね」
まだ、伝えていないことがあった。
「ケーキ……苺が、いいです」
扇子が下がった。お姉さまは、声を上げて笑った。
「承りましたわ! では、とびきり大きなものを!」
「お、大きさは、普通で……!」
「まあ。初勝利ですのよ?」
ライスは、慌てて続きを言おうとした。けれど、目の前の笑顔を見ていたら、自分も笑ってしまった。これからレースを勝っていったら、どんな大きさのケーキになるんだろう。