ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
『ミホノブルボン、先頭! まだ脚色は衰えない!』
東京の長い直線で、ライスはもう何度も前を見ていた。前を行く背中が大きくならない。追うたびに、向こうも同じだけ進んでしまう。届くと思っていた。コーナーを出たときには、まだ力が残っていたし、ここからなら脚を伸ばせると思った。実際に、周りの子たちは抜けた。今、ライスとゴールの間にいるのは、ミホノブルボンだけだ。その、最後のひとりが遠い。
『懸命に追うライスシャワー! しかし先頭はブルボンだ!』
口を開けて息を吸う。腕を振っても、靴が芝を捉える感触が薄くなっていく。あの子は、まだあんなにまっすぐ走っている。もう少し。もう少しだけ。願いながら踏み込んだ足の先で、ブルボンがゴールを駆け抜けた。
『ミホノブルボン、無敗の二冠達成! 日本ダービーを制しました! 2着にライスシャワー!』
続いて白い線を越えたライスは、すぐには顔を上げられなかった。胸が大きく動く。苦しい。けれど、足を緩めたあとも残った苦しさは、呼吸が整うのを待っても消えなかった。デビューのあとも、勝った日ばかりではなかった。今日は、いちばん欲しかったものを、目の前で持っていかれた気がした。
*
「ライス。脚は?」
戻ったところで、トレーナーが待っていた。今日は帽子をかぶっていない。風で乱れた髪を耳にかけながら、ライスの歩き方を見ている。
「痛いところは、ないよ」
「気分は悪くありません?」
「うん」
その返事を聞いて、ようやく肩の力が抜けたようだった。トレーナーはライスの背中にタオルをかけ、腰を下ろせる場所へ連れていく。近くを通った学園の関係者が、ライスに声をかけた。
「惜しかったね。ダービーで2着なら立派だよ」
「あ……ありがとうございます」
頭を下げる。褒めてもらっていることは分かった。デビュー前には、こんなに大きなレースで自分の名前が呼ばれるなんて、想像もできなかった。なのに、笑顔がうまく作れない。トレーナーは相手に会釈を返したあと、ライスの隣に座った。しばらく、何も言わなかった。
「お姉さま」
「ええ」
「ライス……」
ごめんなさい、と言おうとした。その前に、トレーナーが長い息を吐いた。
「ああ、悔しい!」
ライスは顔を上げた。背筋はまっすぐなままなのに、扇子を握った指に力が入っている。今にも誰かへ文句を言いに行きそうな顔だった。
「……お姉さまも?」
「もちろんですわ。勝ちたくて来ましたもの」
「でも、ライス、2着には……」
「ええ。よく走りました。貴女が積み重ねてきたものは、全部見えましたわ」
トレーナーはそこで一度言葉を切り、ライスと目を合わせた。
「そのうえで、悔しいの」
ライスはタオルの端を握り直した。自分の胸に詰まっているものと、同じ名前だった。
「最後、届くかなって思ったの」
「ええ」
「直線に入ったとき、まだ走れるって。ブルボンさんだけになったら……もう少しって、思って」
言葉にすると、さっきの背中がまた目の前に見えた。すぐそこにいるようで、腕を伸ばしても届かなかった。
「全然、追いつけなかった」
声が震えた。トレーナーは、その続きを取り上げずに待っていた。
「ライスも……悔しい」
「ええ」
トレーナーの手が、タオルの上から背中に触れた。
「後ほど、きちんと悔しがりましょう。今は、体を落ち着けることが先ですわ」
水を渡されて、少しずつ飲む。飲んでいる間、トレーナーはライスの肩に手を置いたまま、コースの方を見ていた。その横顔も、ちっとも満足していなかった。
*
着替えを終えて通路へ出たところで、ブルボンと会った。胸元の飾りも、長い髪も、レースのときには背中からしか見えなかったものだ。正面から向き合うと、同じ距離を走ってきたことが不思議になるほど、彼女の姿勢は整っていた。
「本日は、お疲れ様でした。ライスさん」
ライスは足を止めた。
「あ……お疲れさま。ブルボンさん、ダービー……おめでとう」
「ありがとうございます」
言い終えると、また少し胸が痛んだ。けれど、お祝いを言いたくないわけではなかった。強かった。あんなに追いかけても、抜けなかった。隣のトレーナーが、ライスより一歩前へ出た。
「二冠達成、おめでとうございます。最後まで見事な走りでしたわ」
華やかな声とともに、きれいに頭を下げる。さっきまでの悔しそうな顔を見ていたライスは、少し驚いた。
「ありがとうございます」
「後ほど映像を拝見するのが楽しみです。どうすればあの走りを崩せるか、よく考えなくては」
「お、お姉さま……!」
顔を上げたトレーナーは、もう笑っていた。
「まあ。感心しただけで帰るわけにはまいりませんもの」
「承知しました」
ブルボンが頷いた。
「本日のライスさんの追い上げは、確認しています。次の対戦に向け、対策を行います」
「ら、ライスの?」
「はい。追走してくる足音が、最後まで聞こえていました」
ライスは、自分の靴を見た。追いつけなかった。ずっと、遠い背中だった。けれど、あちらにも聞こえていた。
「次も、よろしくお願いします」
ブルボンはそう言って、トレーナーに呼ばれた方へ歩いていった。ライスはその背中を見送り、隣の人の袖を引いた。
「お姉さま。あんなこと、言ってよかったの?」
「何をです?」
「崩す、とか……」
「もちろん。次も気持ちよく逃げていただくお約束など、しておりませんわ」
トレーナーは扇子を開いた。通路の向こうへ去っていく二冠ウマ娘を、その上から見送る。
「素晴らしい方ですわね。負かし甲斐があります」
ライスは、慌てて周りを見た。幸い、今の言葉を聞いている人はいなかった。たぶん、この人は聞かれていても言う。
*
翌日、トレーナー室の画面では、まだダービーが続いていた。ブルボンが先頭でコーナーを曲がる。ライスは少し後ろ。昨日は走ることに必死で見えなかった全体が、今日はくっきりと見える。トレーナーは映像を止めた。
「ここで、少し離されましたわね」
「うん。前の子を抜いたら、ブルボンさんがもう……」
ライスが指さしたところを、トレーナーは別の角度から映した。自分が外へ動く間に、先頭との差が広がっている。
「仕掛ける場所の見通しが甘かった。貴女に渡した指示も、もっと具体的にできました」
「でも、ライスが、うまく走れなかったから」
「貴女の走りにも、直せるところはあります。そこは今から、一緒に見ますわ」
トレーナーは手元のノートを開いた。昨日のうちにつけたらしい印が、何か所もある。
「その前に、わたくしの反省です」
自分の失敗を、こんなにあっさり認める人だと思っていなかった。普段はコースを歩くだけで、他のトレーナーたちが振り返る。取材で「自信はいかがですか」と聞かれると、「ございます」と即答する。ライスを紹介するときには、こちらが恥ずかしくなるほど褒める。今も、声はいつもと同じだった。
「お姉さまは……自分が間違えたって思っても、平気なの?」
「平気なものですか。腹立たしいですわよ」
間髪入れずに返ってきた。
「貴女を自慢するのですもの。わたくしの仕事だけ見劣りしていては、格好がつきませんわ。直せるところは、直します」
画面の中で、ライスが直線へ向く。止まっていた映像が、また動き始めた。
「ここからの走りは、よかった。苦しくなってからも、前を見続けていました」
「でも……」
「ブルボンさんも、よかったのです」
トレーナーは最後まで映像を流した。何度見ても、着順は変わらない。画面の中のライスは、2番目にゴールを通過する。
「今のわたくしたちでは、足りませんでした」
はっきり言われた。痛かった。けれど、目を逸らしたくはなかった。隣の人も、同じ画面を見ている。
「ブルボンさんの強さは、よく分かりました。さて、どうやって勝ちましょうか」
トレーナーが、こちらへ向き直った。ライスはもう一度、停止した画面を見る。自分の前にいるブルボンは、ゴールの先までまっすぐ走っていた。
「……ライス、最後まで走れたよね」
「ええ」
「疲れても、まだ、追いかけようって思えたの。もっと長かったら……」
言いかけて、口を閉じる。昨日のレースが長くなったら、そのまま勝てるという話ではない。ブルボンだって、それに合わせて走る。トレーナーは頷いた。
「菊花賞ですわね」
机の上へ、秋の日程表が出てきた。京都。芝3000メートル。ライスは、その数字を目で追った。
「距離が延びる分、貴女の持ち味を生かせる可能性はあります。ただ、あちらも準備してきますわ。昨日のブルボンさんに勝つだけでは、足りません」
「……うん」
「挑みますか?」
ライスは日程表に手を置いた。トレーナーが何を答えてほしいのかは、分かる。きっと、勝ちたいと言えば喜んでくれる。それを考えるより先に、口が動いた。
「ブルボンさんに、勝ちたい」
言ってしまってから、胸の奥が熱くなった。
「昨日、ライスの足音が聞こえてたって……言ってくれたの、うれしかった。でも、次は」
画面の先頭を指す。
「ライスが、ここを走りたい」
トレーナーは、しばらくその指を見つめていた。それから椅子を引き寄せ、ライスのすぐ隣でノートを開いた。
「では、菊花賞までに、何を変えるか」
ペンが走り始める。ライスも画面へ向き直った。コーナーで遠回りしたところ。追い始めたときの脚の感覚。さっきまでは言えなかったことが、少しずつ言葉になる。話し終えてから、ライスは隣を見た。
「お姉さま、負けるの、すごく嫌いなんだね」
「大嫌いですわ」
すぐに返ってきて、ライスは少し笑った。
「ライスも、嫌だった」
「ええ。よい顔をしています」
トレーナーはペンを止めた。
「2着で満足するには、惜しい子ですわ。貴女は」
ライスは今度こそ、否定しなかった。画面の中の自分を指して、映像を戻してもらう。次は、ここの走り方を変えたい。