ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
「ブルボンさんに、会えるの?」
ライスが聞き返すと、トレーナーは予定表をこちらへ向けた。夏の練習予定の中に、合同トレーニングと書かれている。その隣には、見慣れた名前があった。
「ええ。先方のトレーナーと、お話がまとまりました」
「でも、菊花賞で、一緒に走るのに……」
「ですから、ご相談したのですわ」
トレーナーは、まるでお茶の約束でもしたような顔をしている。ライスはダービーのあと、ブルボンの映像を何度も見た。スタートの踏み出し方。腕の振り方。長い距離を走っても崩れない姿勢。自分の映像と比べていると、気づけば夕食の時間になっている日もあった。そんな相手の横で、走れる。うれしい。けれど、そのためにトレーナーが何を言ったのかと思うと、少し落ち着かない。
「何て、お願いしたの?」
「貴女に勝つために、練習をご一緒したい、と」
予想していたより、ずっとそのままだった。
「お、お姉さま……」
「ご安心なさい。こちらの走りも見ていただきますし、当日の記録も双方で共有します。向こうにも利点がなければ、お受けいただけませんわ」
ライスは予定表をもう一度見た。そこには、走る本数も、休憩も、最後に確かめることも書かれていた。
「ブルボンさんも……いいって?」
「ぜひ、と。楽しみにしているそうです」
ライスの耳が、少しだけ上がった。トレーナーはそれを見て、得意げに椅子へ背を預ける。
「映像ばかり見ていないで、たまにはご本人のお顔もご覧になったらよろしいわ」
*
当日の朝、ブルボンは約束の時間より先にコースへ来ていた。ライスたちを見つけると、ストレッチを終えて立ち上がる。近くには、彼女のトレーナーもいた。挨拶を交わしたあと、ライスのトレーナーは胸に手を添えた。
「本日はありがとうございます。菊花賞で貴女に勝つために、胸をお借りしに参りました」
「承知しています。本日の内容は、マスターから共有されています」
ブルボンの目が、ライスへ向いた。
「よろしくお願いします。ライスさん」
「よ、よろしくお願いします」
ライスの声だけが裏返った。トレーナー同士は、もうコースの状態を確かめに歩き始めている。取り残されて、ライスはブルボンの顔をそっと見た。
「あの……ごめんね」
「何についてでしょうか」
「お姉さまが、あんな……勝つって、最初から」
「対戦相手の目標として、当然と認識しています」
ブルボンは少し首を傾げた。
「ライスさんは、異なるのでしょうか」
「違わない、けど……」
声が小さくなる。ブルボンは返事を待っていた。その目には、からかう様子も、怒っている様子もない。
「ライスも、勝ちたい」
「了解しました」
それだけ言って、ブルボンはウォーミングアップを再開した。ライスは少し遅れて、その隣へ並んだ。
*
最初の周回は、決められたペースで走った。ブルボンの足音がすぐ隣にある。映像では分からなかった呼吸が聞こえる。長い髪が風でこちらへ流れてきて、ライスは思わず見てしまった。
「ライスさん」
「は、はい」
「前方を」
慌てて顔を戻した。コースの外から、トレーナーの声が飛んでくる。
「じっくりご覧になるのは、休憩中になさい!」
頬が熱くなった。ブルボンは何も言わずに、決められたペースを守って走っている。その横顔を、今度は見ないようにした。休憩を挟んだあとの確認では、ブルボンが前、ライスが後ろになった。終盤の決められた区間で速度を上げ、ライスがどう接近するかを見る。ダービーのときと同じ背中だった。けれど、今度は近い。遠くへ逃がさないように、自分の呼吸を確かめながら走る。ペースを上げる目印が来た。ブルボンの足音が変わった。ライスも動く。外側に場所があった。そこへ出れば、横に並べる。
そう思った瞬間、ブルボンの腕が大きく振られた。邪魔になるかもしれない。一瞬、ためらった。その間に、背中が遠くなった。ライスは慌てて追いかけた。もう一度、外へ出る。今度は足を緩めない。差が少しずつ詰まって、終点の目印を越えるころ、ブルボンの肩がようやく近くなった。止まってから、ライスは自分の膝を見た。また、届かなかった。
「後半は、よく詰めましたわね」
トレーナーがストップウォッチを止めたまま、近づいてきた。
「最初に外へ出かけたところ。何かありました?」
「ブルボンさんが、動くかなって……」
「接触しそうでした?」
「ううん。そこまで、近くはなかったけど」
言葉を探していると、ブルボンが隣へ来た。
「私はその時点で、進路を変更する予定はありませんでした」
「あ……うん」
「ただし、ライスさんが並んだ場合は、さらに速度を上げるつもりでした」
「……やっぱり?」
「はい。前へ出られたくなかったためです」
ライスは顔を上げた。何でもないことのように言われた。けれど、ブルボンは今、はっきりと「出られたくなかった」と言った。トレーナーが、コースを指す。
「コースは、先頭の方のお庭ではございませんわ。相手の動きを確かめたうえで、空いている場所なら、貴女もお通りなさい」
ライスは頷いた。もう一度走る前に、ブルボンの方を向く。
「次は……あそこ、入るね」
「では、私は抜かれないように走ります」
返事を聞いてから、ライスは自分のトレーナーを見た。扇子の上から、とても楽しそうな目が見ていた。
「ええ。ようやく、話がまとまりましたわね」
*
最後の確認が終わったとき、ライスはしばらく言葉が出なかった。目印の手前で、ブルボンの隣に出られた。そこからブルボンがもう一度速くなった。ライスも腕を振って、離れないようにした。先に目印を越えたのは、またブルボンだった。けれど今度は、横顔が見えた。あの無表情に見えていた顔が、すぐ近くで変わった。ライスに並ばれた瞬間、唇が強く結ばれた。絶対に前へ出さないというように、足が芝を蹴った。自分を見て、走りが変わった。
「……すごかった」
息を整えながら呟くと、ブルボンがこちらを向いた。
「ライスさんの接近速度も、先ほどより上がっています」
「うん。でも、ブルボンさん、そこからまた速くなって……」
「必要と判断しました」
ブルボンは、自分の手を見下ろした。握っていた指を、ゆっくり開く。
「予定していたより、腕に力が入りました」
「大丈夫?」
「はい。異常はありません」
そこで言葉が止まった。何か考えているらしかったので、ライスは待った。トレーナーたちは少し離れたところで、今の記録を見比べている。
「……練習ですが、負けたくないと思いました」
ブルボンが言った。ライスの胸が、跳ねた。
「ライスも」
「はい」
「横に並べたとき、うれしかったの。でも、すぐに……もっと前に行きたいって、思った」
言うと、足があの場所へ戻りたがるような気がした。もう一度やったら、今度こそ。目がコースへ向いたところで、トレーナーが声をかけた。
「本日の予定は終了ですわ」
「あ……」
「おかわりは、菊花賞でなさい」
ブルボンのトレーナーも頷いていた。ライスは足元を見て、小さく息を吐いた。それから、ブルボンに向き直る。
「今日は、ありがとう」
「こちらこそ。得られた情報は、今後の練習に反映します」
「ライスも。いっぱい、練習するね」
そこで終わりにしかけて、止まった。お姉さまは、最初から言っていた。ブルボンも、目の前で言ってくれた。今度は、自分が言う番だ。
「菊花賞、ライスが勝ちたいです」
ブルボンの目が、まっすぐこちらを見る。
「ブルボンさんより、先にゴールしたい。だから……いっぱい練習して、行きます」
言い切ると、息が苦しくなった。走っていたときとは違う苦しさだった。ブルボンは、はっきり頷いた。
「私も、三冠を獲得するために準備します」
「……うん」
「菊花賞で、会いましょう」
差し出された手を、ライスは握った。どちらの手も熱く、練習で少し汚れていた。横でトレーナーが満足そうにしているのを、今度は恥ずかしいと思わなかった。
*
菊花賞が近づくにつれて、ブルボンの名前を見る機会が増えた。無敗の三冠へ。歴史に名を刻む秋。雑誌の表紙にも、学園の話題にも、同じ言葉があった。ライスはその記事を読むたびに、合同練習の日の横顔を思い出した。あんなに強い子だから、みんなが楽しみにするのも分かる。けれど、あの日から、思い出すのは背中だけではなくなっていた。菊花賞前の取材で、記者はブルボンとの合同練習について聞いた。何を感じたかと問われ、ライスは膝の上で手を揃えた。
「すごく、強かったです。並んだと思っても、また速くなって……」
「やはり三冠への期待は大きいですね。ライスさんも、あの強さを間近で感じられたと」
「はい。あの……」
続きを言おうとしたところで、隣の扇子が閉じた。
「三冠のお祝いは、少々お待ちなさい」
記者がトレーナーの方を向く。
「まだ、菊花賞が終わっておりませんわ」
「ああ、もちろん。ライスさんにも、期待しています」
「ありがとうございます。ぜひ、そちらのお話を」
トレーナーは笑った。声は柔らかいのに、記者の姿勢が少し正しくなった。ライスは、思わず隣を見た。お姉さまは、こちらの返事を待っていた。勝つと言いなさいとも、自分の話に合わせなさいとも言わない。ライスは記者へ顔を戻した。
「ライスは、ブルボンさんに勝ちたいです」
今度は、さっきより声が出た。
「合同練習で、もっとそう思いました。菊花賞で会おうって、約束したから」
「なるほど。三冠を阻む意気込みですね」
少しだけ、違う気がした。ライスが欲しいのは、誰かの記録がなくなったところではない。あの人の前を走って、いちばんにゴールするところだ。
「……1着を、取りたいです」
ゆっくり言い直すと、記者は頷いて、手帳に書きつけた。取材が終わったあと、トレーナーはライスに次の練習時間を伝えた。いつもの声だったので、ライスもいつものように返事をした。それから、少し気になって聞いた。
「お姉さま、さっき……怒ってた?」
「いいえ。あの程度では怒りませんわ」
あの程度、と言われて、ライスは足を止めた。トレーナーは、涼しい顔でこちらを振り返る。
「貴女の取材なのです。貴女の話をしていただかなくては」
「……うん」
ライスは歩き出した。練習の時間まで、まだ少しある。部屋へ戻ったら、自分の映像を見ようと思った。ブルボンと並んだところを、もう一度。あそこから先へ行くために。