ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
菊花賞の日、京都レース場には、ブルボンの名前があふれていた。横断幕。応援の声。無敗の三冠という文字。ライスはパドックを歩きながら、そのひとつひとつを見た。自分の名前もあった。青い文字で書かれた小さなボードを、両手で持っている人がいる。目が合って、ライスが少し頭を下げると、相手はボードを高く上げてくれた。勝ちたい。緊張しているのに、その気持ちは消えなかった。
出走前、トレーナーはコースの図を指しながら、最後の確認をした。ブルボンが先頭へ出た場合。別の子が逃げた場合。どちらでも、初めの勢いにつられて脚を使いすぎないこと。
「最後まで走り切れるように、ここまで準備してきました。早く追いつこうとして、使い果たしてはいけませんわ」
「うん」
「その代わり、行くと決めたら、ためらわないこと」
ライスは頷いた。
「ブルボンさん、きっと、また速くなる」
「ええ」
「それも、追いかけるね」
トレーナーはコースの図を畳んだ。
「楽しみにしています」
今日も、そう言ってくれた。
*
『クラシック三冠、最後の一冠! 菊花賞、今スタートです!』
飛び出した直後、ブルボンとは別のウマ娘が前へ出た。先頭を奪って、さらに離していく。ブルボンはその後ろについた。ライスは見失わない位置から、その背中を追った。前の集団にはマチカネタンホイザもいる。誰も、ここで走り終えるつもりはない。最初のスタンド前を通るとき、歓声が大きくなった。ブルボン、と呼ぶ声が重なる。ライスは呼吸を確かめた。急がなくていい。まだ先がある。ブルボンの動きと、自分の足元を、交互に見る。
2周目に入り、向こう正面を進むころには、初めの緊張はなくなっていた。体の内側が熱い。苦しさは増しているけれど、腕は振れる。脚も応えてくれる。ブルボンが動いた。逃げる子との距離が、縮まり始める。ライスも前へ進んだ。ここで離されたら、直線へ向いてからでは遅い。コーナーの外側へ出る場所を選び、少しずつ速度を上げる。
『ミホノブルボン、先頭をうかがう! 三冠へ、ここから抜け出すか!』
下りで体が前へ出そうになる。足だけを急がせず、地面を捉える。周りの足音が速くなり、その中に、自分の足音が混ざっている。ブルボンが先頭へ出た。ライスは外へ進んだ。誰かの許可を待つ暇はなかった。空いている場所へ入り、前を向く。ダービーの直線より、ずっと近くにあの背中がある。その背中が、もう一段、遠ざかろうとした。来た。合同練習でも見た、あの踏み込みだった。ライスは腕を振った。息が胸に引っかかる。脚の奥が痛いほど熱い。もう練習は終わり、という声はかからない。白い線まで、全部使える。
『外からライスシャワー! ブルボンに迫る! マチカネタンホイザも追ってくる!』
ブルボンの肩が近づいた。横顔が見えた。相手も、こちらを見た。その瞬間、ライスはもっと速く走りたいと思った。強いから好きだった。追いかけて、追いかけて、何度も負けた。だから、今日は前へ出たい。半歩。もう一歩。ブルボンの息が、すぐ後ろで聞こえる。抜いた。けれど、終わっていない。気を緩めたら、取り返される。ライスはゴールを見た。あそこまで。あそこまで、誰より先に。
『ライスシャワーが抜けた! ミホノブルボンも粘る! 先頭はライスシャワー――ゴールイン!』
白い線を越えた瞬間、ライスは自分の口から声が出たのを聞いた。
「あ……っ」
勝った。ブルボンより先に、ゴールした。速度を落としながら、何度も息を吸った。脚が震えている。胸が苦しいのに、笑いそうだった。ブルボンも少し離れたところで足を緩めた。ライスはそちらを見て、目が合うと、何か言おうとした。うまく声にならなかった。先に、ブルボンが頷いた。
「……おめでとうございます。ライスさん」
肩が大きく上下していた。握った手が、まだ開いていない。ライスは、同じように息を切らしたまま頭を下げた。
「ありがとう……。ブルボンさん、ありがとう」
そこで初めて、スタンドの音が耳に入った。さっきまでの大きな歓声が、続いていなかった。拍手はある。名前を呼んでくれる声もする。けれど、ゴール前にあれほど重なっていた声の多くが、途切れていた。
「……三冠、見たかったな」
柵の向こうから聞こえた。ライスはそちらを見た。目が合いそうになった人が、顔を背けた。
「何でここで勝つんだよ」
別の声だった。足が止まった。係の人に促されて歩き始めても、その言葉だけが耳に残っていた。何で。ここで。勝ちたかったから。そう思ったはずなのに、笑っていた口元が、だんだん動かなくなった。ブルボンの名前が書かれた横断幕を見た。三冠という文字が見えた。あんなにたくさんの人が、今日を楽しみにしていた。ライスが、先にゴールしたから。喉の奥が冷たくなったとき、拍手が聞こえた。
「おめでとう、ライス!」
トレーナーがいた。柵のそばで、こちらへ向かって両手を叩いている。周りが静かになっても、手を止めなかった。
「見事な走りでしたわ!」
デビューの日と、同じ顔だった。ライスは、近づいてからもすぐには話せなかった。トレーナーが肩にタオルをかけようとして、こちらの顔を見る。
「ライス?」
「お姉さま……ライス、勝ったけど」
言葉が途切れた。喜んでほしかった。青いボードを持ってくれていた人にも、ブルボンにも、トレーナーにも。こんな顔をさせたかったわけではない。
「ライスが、勝っちゃったから……」
トレーナーは、ライスの肩にタオルをかけた。その端を整えてから、しゃがんで目を合わせた。
「ええ。貴女が勝ちました」
その言葉には、何も付け足されなかった。
「菊花賞の優勝者です。ライスシャワー」
名前を呼ばれたら、涙が出そうになった。トレーナーはライスの手を取った。スタンドへ背を向けて隠すことも、急いでこの場を離れることもせず、一緒に歩き始める。また、何か言う声がした。トレーナーの歩幅は変わらなかった。
*
勝利後の取材まで、少し時間があった。控室でライスが着替えを終えると、トレーナーはスタッフと話していた。選手だけでなく、担当トレーナーも同席できるかを確認している。スタッフが出ていったあと、ライスは声をかけた。
「お姉さまも、一緒?」
「そのつもりです。貴女がよければ」
ライスは頷きかけて、止まった。
「さっき、近くの人が……お姉さまのことも、見てた」
「ええ」
「拍手、してたから」
「見えたでしょうね。あれだけ、大きくしましたもの」
いつものように言われて、ライスは唇を結んだ。トレーナーは、隣の椅子に座った。
「ライス。走り終えたとき、どう思いました?」
スタンドを見たときのことが浮かんだ。けれど、その少し前には、違う気持ちがあった。
「……うれしかった」
「ええ」
「ブルボンさんより、先に走れたって。やっと、勝てたって」
言いながら、自分の手を見る。
「うれしかったんだよ」
トレーナーの指が、その手に重なった。
「聞けてよかった」
ライスは顔を上げた。
「そのお話を、してきましょう」
*
取材室には、ライスが思っていたより多くの人がいた。用意された席へ座ると、何度もシャッターの音がした。トレーナーが隣へ座る。広げられた資料の上に、ライスシャワーと印刷されていた。初めの質問には、練習のことを答えた。長い距離でも走りを崩さないようにしたこと。前をよく見て、直線で進む場所を選んだこと。トレーナーが頷いてくれるので、途中で言葉に詰まっても、続けられた。やがて、前の列から手が上がった。
「ブルボンさんの三冠を期待する声が、非常に大きいレースでした。その達成を阻む形になったことについては、どう受け止めていますか」
ライスの指が、膝の上で重なった。さっきの声が、また聞こえた気がした。何でここで勝つんだよ。
「あの、ライス……」
謝ろうとした。そうすれば、少しは怒られなくなるかもしれない。隣から、声がした。
「担当トレーナーとしては、大変、誇らしく思っておりますわ」
ライスは顔を向けた。トレーナーは、質問した人をまっすぐ見ていた。扇子は畳んで机の上に置いてある。口元を隠すものは、何もなかった。
「ブルボンさんは素晴らしいウマ娘です。だからこそ、その方に勝ったライスを、わたくしは誇っておりますの」
ペンが走る音がした。
「結果として、多くのファンの期待を裏切ることになったわけですが」
「三冠を楽しみにしていらした方には、残念な結果でしょう。わたくしたちもダービーで負けた日は、大変悔しい思いをしました」
トレーナーは静かに答えた。
「ですが、その日にブルボンさんへ、勝ったことを謝ってほしいとは思いませんでしたわ」
記者が手元へ目を落とした。トレーナーの声は、少しも小さくならなかった。
「ライスにも、この日を楽しみにしてきた時間がございます。わたくしは、その準備を一緒にしてまいりました。今日、実りましたの。喜ばせていただきますわ」
別の記者が手を上げた。
「トレーナーの方から、三冠阻止を強く意識させていたのでしょうか」
「ブルボンさんに勝つための準備は、徹底して行いました」
「勝利へのこだわりが、ライスさんにも影響したと」
「そうであれば、嬉しいことです」
ライスは膝の上の手を握った。お姉さまの方へ、質問が集まっている。こちらに向いていた視線が、少しずつ隣へ移っている。
「勝つために指導したのは、わたくしです。よい相手を見つけたからといって、遠慮するようなことは教えておりません」
トレーナーが、ライスを見た。
「ただ、最後の直線で踏ん張ったのは、この子です。ブルボンさんの横へ出たときも、抜いてからも。そこは、ライスに聞いていただけるかしら」
振り向いた記者たちを前に、ライスは息を吸った。あの直線。ブルボンの肩。何度も見た、あの踏み込み。
「ブルボンさんが……もう一度、速くなるって思ってたから」
声は小さかった。でも、出た。
「そこを、一緒に走れるように、練習しました。すごく苦しかったけど……今日は、前に出たくて」
机の下で、手に触れるものがあった。トレーナーの手だった。ライスが気づくと、指がゆっくり握られる。
「前に出てからも、追いかけてくるのが分かって……。最後まで、走らなきゃって」
途中でうつむきかけた。繋いだ手に力が入り、ライスは顔を上げ直した。
「いちばんに、ゴールしたかったです」
隣のトレーナーが、頷いた。それから、また正面を向く。
「ご覧いただいたとおりですわ」
後ろの方から、質問が飛んだ。
「そうした姿勢が、傲慢だと受け取られることについては?」
ライスの指が強張った。トレーナーは、少しだけ顎を上げた。背筋が伸びる。レンズがこちらを向き直す音がする。
「傲慢とお書きになって結構ですわ」
ライスは隣を見つめた。
「ライスシャワーを勝たせたかった。そして、今日ほど嬉しい日はない。そこだけは、どうぞお間違えなく」
何度も光が瞬いた。トレーナーは目を逸らさなかった。机の下では、ライスの手を握っていた。
*
取材が終わっても、すぐには帰れなかった。トレーナーは学園の担当者と、廊下の端で話していた。ライスは少し離れた椅子に座り、水を飲んでいた。
「お気持ちは分かります。ただ、あの言い方は切り取られますよ」
低くした声が、耳に届いた。
「ええ」
「ライスさんへの印象まで、厳しくなるかもしれません。もう少し、穏当な表現も――」
「承知しております。言葉の選び方には気をつけますわ。ただ、ライスの勝利を誇っていることは、これからもはっきり申し上げます」
相手が頷くのを見て、トレーナーは続けた。
「わたくしの発言についてのお問い合わせは、わたくしへ。ライスへの取材は、休養を優先して日程を調整してくださいな」
話を終えたトレーナーが、戻ってきた。
「お待たせしました。参りましょう」
「……うん」
差し出された手を、ライスは取った。帰りの車の中で、トレーナーの携帯電話が何度も光った。確認した画面が、隣から少し見えた。ライスの勝利の記事。その下に、トレーナーの顔写真があった。傲慢。開き直り。勝利至上主義。知らない人たちが、さっき聞いた言葉を並べ直している。ライスを勝たせたかったと言った、その人を悪く言っていた。
「……お姉さま」
トレーナーは画面を伏せた。隠すような速さではなく、話を聞くために手を空けたような動きだった。
「なあに?」
「ライスのせいで、お姉さままで……」
続きが言えなかった。トレーナーは少し考えてから、聞いた。
「ライス。今日、わたくしが拍手をしなかったら、貴女はどう思ったかしら」
想像して、胸が痛んだ。柵のそばに立つお姉さまが、周りと同じように黙っている。目が合っても、笑ってくれない。
「……悲しい」
「ええ。わたくしもです」
トレーナーは前へ向き直った。
「せっかく勝って帰ってきてくれたのに。そんな顔でお迎えする方が、ずっと嫌ですわ」
ライスは、繋いだ手を見た。取材室を出てから、一度離れた手を、また握ってくれている。
「貴女の勝利に拍手したことを、後悔する日など来ませんわ」
車の窓に、夕方の光が流れた。ライスは小さく頷いた。すぐに元気な返事はできなかったけれど、手を離したいとは思わなかった。
*
夕食のために予約されていた個室には、白いテーブルクロスがかかっていた。窓際の花も、並べられた食器も、ライスが見慣れたものよりずっと華やかだった。案内してくれた店の人が、おめでとうございます、と頭を下げる。ライスは反射的に頭を下げ返した。トレーナーは、ライスを窓のそばの席へ座らせた。自分も向かいへ座りかけて、何か思い出したように鞄を開ける。
「その前に、これをご覧になって」
取り出したタブレットに、レース映像が映った。ライスの肩が、少し固くなる。けれど画面に映っていたのは、取材室ではなかった。最後のコーナー。外へ出る自分。先頭で直線へ向くブルボン。
「ここですわ」
トレーナーが、映像を止めた。
「ダービーのときより、ずっと滑らかに出られています。覚えていらして?」
「……うん。前が、空いたから」
「そう。空いたところへ、すぐ動けた。ブルボンさんとの距離も、詰めるだけではなく、ちゃんと保てている」
再生すると、画面の中のライスが腕を振った。ブルボンへ近づく。トレーナーが身を乗り出した。
「それから、ここ! ブルボンさんが踏み直したところです」
「うん」
「離されませんでしたわね。わたくし、あそこで声が出てしまいましたの。聞こえまして?」
「ごめん……そこは、聞こえなかった」
「まあ、残念」
残念そうなのは声だけで、顔は嬉しそうだった。
「では、お伝えします。『行きなさい、ライス!』と。少々、大きな声でしたけれど」
「……少々?」
「ええ。隣にいた方が、お席をずらすくらいには」
ライスは、思わず顔を上げた。トレーナーは平然としていた。けれど、その目はすぐ画面へ戻り、抜け出したライスを見て、また笑う。
「ああ、本当によく伸びていますわね。もう一度、見てもよろしい?」
「うん」
同じところを戻す。ブルボンが踏み込む。ライスが離れない。腕を振って、前へ出る。今度は、ライスも自分の走りを見た。
「ここ、すごく苦しかったの」
「ええ」
「でも、ブルボンさんが隣にいて……やっと、ここまで来たって思った」
「そうでしょうね」
「もう少しだけ、前に行きたかった」
トレーナーは頷いた。映像は止めず、最後まで見た。1着のところに、ライスの名前が出た。向かいにいる人が、深く息を吸った。
「よいものを、見せていただきました」
ライスはトレーナーの顔を見た。取材室でも、同じことを言っていた。誰かに聞かせるために言っていたわけではなかった。この人は今、2人しかいない部屋でも、ライスが勝ったところを、何度も見たがっている。
「……お姉さま」
声が震えた。
「ライス、頑張ったよ」
「ええ。存じております」
トレーナーが手を伸ばした。
「ずっと、見てきましたもの」
ライスは、その手を取った。目の前がぼやけた。ブルボンに勝った。欲しかった1着を取った。そのことを口にしても、この人は悲しい顔をしない。
「勝てて……うれしい」
「わたくしも」
トレーナーは、ライスが笑うのを待っていた。泣きながらでも、少し口元が緩むと、こちらまで嬉しくなるような顔で笑い返してくれた。
「さあ。もう少し、喜ばせてちょうだい。今日のために、ずっと貴女を見てきたのですから」
ライスは頷いた。タブレットに手を伸ばして、自分で映像を戻した。
「お姉さま。ここのところ、ライスね……」
最終コーナーの自分を指す。トレーナーが椅子を寄せてきた。今度は向かいではなく、すぐ隣に座った。料理が運ばれてくるまで、2人とも、同じ画面から目を離さなかった。