ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
春の予定を決めるための紙に、ライスはまだ何も書いていなかった。日経賞。その先にある、天皇賞・春。トレーナーが用意した候補には、ほかのレースも載っている。ライスはそちらの説明を読もうとして、また、天皇賞のところへ目を戻した。
「そちらは、もう覚えてしまったのではなくて?」
向かいから言われ、ライスは顔を上げた。トレーナーが、お茶を飲みながらこちらを見ている。手元の画面には、メジロマックイーンのレースが一時停止されていた。このところ、何度も見ていた映像だった。
「……マックイーンさん、すごいね」
「ええ。並の準備では、勝負になりませんわ」
トレーナーは画面をこちらへ向けた。終盤で前へ出たマックイーンが、そのまま後ろを突き放している。
「長い距離を走ったあとに、これだけ動ける。貴女の持ち味と、真っ向からぶつかる相手です」
「うん」
ライスは膝の上で指を重ねた。どれだけ追いかけても離されるのだろうか。それとも、ブルボンと走ったときのように、隣へ出られるのだろうか。考えていると、脚が少し落ち着かなくなる。けれど、マックイーンの映像の下には、三連覇への期待と書かれていた。
「あの……ほかのレースでも、いいんだよね」
「もちろん。目指したいものがあれば、そちらも検討しますわ」
「……うん」
紙の端を指でなぞる。トレーナーは、すぐに次の候補を勧めてはこなかった。
「ライス」
「はい」
「何か、気にかかることが?」
ライスは黙った。菊花賞のあと、取材の申し込みは以前より増えた。お姉さまが断るものもあった。答えた話が、違う意味の見出しになった日もあった。それを見るたびに、ライスは取材室で握ってもらった手を思い出した。天皇賞で勝てば、今度は三連覇がなくなる。マックイーンを応援している人は、たくさんいる。
「お姉さまが……また、嫌なこと、言われるかもしれないから」
やっと言うと、トレーナーはカップを置いた。
「ライスが勝ったら、また、ああなるのかなって」
「その心配をしてくださっていたのね」
ライスは頷いた。
「お姉さま、いっぱい頑張ってくれたのに。勝って、うれしいって言ってくれたのに……」
誰かに嫌われても平気だとは思えなかった。お姉さまが気にしていない顔をするからといって、嫌な言葉が届いていないわけではない。
「……嫌じゃないの?」
聞くと、トレーナーは眉を上げた。
「嫌ですわよ」
ライスは顔を上げた。
「褒められる方が好きに決まっております。せっかくなら、見る目のある立派なトレーナーだと、盛大に書いていただきたいわ」
あまりにはっきり言われて、返事に困った。トレーナーはライスの持っていた紙を、机の中央へ戻した。
「ですから、腹も立ちます。自分の言っていないことまで言ったように書かれたときなどは、特に」
「……うん」
「ただ、菊花賞の日に戻れたとしても、わたくしは同じように貴女を褒めます」
ライスの目を見て、言った。
「貴女の隣は、わたくしが自分で選んだ席ですもの。風当たりを理由に、ほかへ移るつもりはございませんわ」
ライスはうつむいた。頭では分かっても、好きな人が傷つけられるところを、また見たいとは思えなかった。トレーナーは紙の隣へ、ペンを置いた。
「貴女が、どこを走りたいか聞かせて。そのうえで、わたくしにも選ばせてちょうだい」
ライスは、停止した画面を見る。マックイーンが、前を走っている。
「……天皇賞」
「ええ」
「マックイーンさんと、走ってみたい」
声にすると、隠していたものが一度に出てきた。
「映像を見るたびに、ライスだったらって思うの。ここで離されないかなって。ここまでついていけたら、最後は……って」
指が画面へ伸びる。
「勝てるか、分からないけど。勝ちたい」
トレーナーは、その指を見て微笑んだ。
「では、ご一緒します」
返事が早くて、ライスは目を瞬かせた。
「それで、いいの?」
「ええ。わたくしも、その勝負が見たいのですもの」
トレーナーは日程表を引き寄せた。
「ライス、ひとつだけ」
「はい」
「わたくしの評判を取り返すために勝たなくては、などとは考えないでちょうだい」
見透かされて、ライスは口を閉じた。
「天皇賞で負けたとしても、菊花賞の優勝が間違いになるわけではありません。今日、次のレースを選んでいるのです」
ライスは、ペンを取った。天皇賞・春の名前に、丸をつける。その丸は、少し大きくなった。
*
マックイーンに挑戦を伝える機会は、思っていたより早く訪れた。数日後、ライスはトレーナーと一緒に、メジロ家の屋敷へ招かれていた。春の予定について話したいと連絡したところ、ちょうどマックイーンが帰ってくる日に、時間を取ってもらえたのだ。門を入ったところで、ライスは少し足を遅くした。庭が広い。建物まで続く道の両側に、きれいに手入れされた木が並んでいる。玄関へ案内される間、靴が汚れていないか、何度も気になった。
「お姉さま……こういうところ、よく来るの?」
「お茶に呼んでいただく機会は、ございますわ」
「緊張しない?」
「少し」
意外で、隣を見た。トレーナーは、いつもより念入りに整えた髪に触れる。
「これから、メジロ家の大切なレースを勝ちに行く、とお伝えするのですもの。身だしなみにも気を配らなくては」
「お姉さま……!」
思わず声が大きくなった。案内をしていた人が振り返り、トレーナーは何でもないように微笑む。ライスは、もう少し小さく歩いた。応接室で待っていたマックイーンは、立ち上がって2人を迎えた。
「ようこそ。お越しくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただきまして」
「こ、こんにちは。今日は、ありがとうございます」
頭を下げると、マックイーンはやわらかく微笑んだ。
「どうぞ、おかけになって。今日はライスさんとお話しできるのを、楽しみにしておりましたの」
部屋には、天皇賞の記念写真が飾られていた。中央で笑うマックイーン。その周りにも、嬉しそうな顔がある。ライスは、その写真を見つめてしまった。
「前回の天皇賞のあとですわ」
視線に気づいたマックイーンが言った。
「家の皆も喜んでくれまして。次は3つ目を持って帰ると、約束していますの」
ライスは、小さく頷いた。ブルボンが三冠を目指していたときにも、きっとこういう約束があった。そのとき隣で、カップが受け皿へ戻る音がした。
「素敵なお写真ですわね」
トレーナーが言った。
「ええ。大切にしています」
「うちにも、飾ってありますの。菊花賞の写真を」
ライスは隣を見た。トレーナーは、穏やかに話していた。マックイーンの写真を褒めたときと、同じ顔だった。
「ぜひ拝見したいですわ」
「もちろん。ライスがたいへんよい顔をしておりますから」
マックイーンがこちらへ微笑む。ライスは、自分たちの写真を思い浮かべた。表彰のあと、まだ少し泣きそうな顔で、お姉さまの隣に立っている。あの写真も、飾っていいものだ。カップに触れていた指の力が、少し抜けた。
「さて、春のことですけれど」
トレーナーが姿勢を正した。用意していた話を始めようとしている。ライスは、その声に重ねるように口を開いた。
「あの」
2人の顔が、こちらを向いた。急に恥ずかしくなった。でも、この話は、自分でしたかった。
「ライスが、走りたいんです」
「天皇賞を、ですか?」
「はい」
ライスはマックイーンを見た。
「マックイーンさんと、天皇賞で走りたいです。すごく強くて、追いつけるか分からないけど……勝ちたいです」
マックイーンは黙って聞いていた。
「お姉さまにも、そう言いました。だから……今日は、そのことを、言いに来ました」
言い終えると、膝の上の手が熱くなった。マックイーンは、少しだけ目を細めた。
「ええ。お待ちしておりました」
ライスは顔を上げた。
「菊花賞を拝見して、いずれ長い距離でご一緒するだろうと思っていましたの」
「……ライスと?」
「もちろん。あの終盤の伸びは、忘れられませんわ」
胸が高鳴った。マックイーンはカップを置き、ライスへ向き直った。
「ただ、私も勝ちます。三連覇は、どうしても成し遂げたい」
「……はい」
「春までに、十分に仕上げていらして。私も、そのつもりで準備いたします」
ライスは頷いた。怖かったはずなのに、今は、帰ったら走りたくなっている。隣で、トレーナーが静かに笑う。
「頼もしいお返事ですわね」
「そちらこそ。ライスさんのお話を伺う限り、遠慮はなさらないようで」
「ええ。次は、メジロに勝ちますわ」
ライスはまた、息をのんだ。マックイーンは目を丸くしたあと、まっすぐ笑い返した。
「そう簡単には、差し上げませんことよ」
お姉さまは満足そうだった。ライスも、少しだけ笑ってしまった。
*
帰りの車で、ライスは天皇賞のコース図を開いた。マックイーンの映像で気になっていたところを、指でなぞる。お姉さまが、隣から覗き込んできた。
「先ほどのお話、立派でしたわ」
「……緊張した」
「ええ。よく分かりました」
ライスは図から顔を上げた。
「お姉さま、何か言おうとしてた?」
「たくさん」
「ごめんね。ライス、途中で……」
「構いませんわ。話したいことを話してもらって、たいへん愉快でした」
トレーナーは窓の外へ目を向けた。まだ、笑っている。ライスはコース図を机代わりの膝へ広げ直した。
「あのね、ここの坂」
「ええ」
「マックイーンさん、ここを越えてから速くなってるよね。ライスも、ついていけるようにしたい」
「では、戻ったら確かめましょう」
「うん。それから――」
話し始めると、いくつも聞きたいことが出てきた。トレーナーは手帳を開き、ときどき質問を挟みながら、ひとつずつ書き留めていく。屋敷の門は、もう見えなかった。ライスはコース図の先へ、指を進めた。