ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
日経賞を勝ったあと、ライスの名前を見つけることは、さらに簡単になった。天皇賞の有力候補。三連覇を狙うマックイーンへの挑戦者。以前なら、その文字を見るたびに足が止まっていたかもしれない。今は、書かれているほど自分が強いのか、気になる。
練習では、最後の直線で使うはずだった脚が、残らない。マックイーンの終盤を想定して、早めに速度を上げる。そのまま走り続けようとすると、最後に足が重くなる。逆に、力を残そうと待つと、追いかけ始める場所が遅くなる。
試走を終えたライスの前で、トレーナーはストップウォッチを見ていた。
「……遅かった?」
「最後に、落ちましたわね」
ライスは息を整えながら頷いた。自分でも分かっていた。前へ進もうとしているのに、足が思うほど伸びなかった。
「日経賞では、もっと走れたのに」
「今日の方が、早い段階から負荷をかけています。マックイーンさんは、こちらが息を整えるのを待ってはくれませんもの」
トレーナーは記録をライスへ見せた。終盤へ入るまでの数字は悪くない。けれど、その先が少しずつ落ちている。
「今のままでは、勝ち切るのは難しいと思います」
ライスは紙を見つめた。難しい。前なら、その言葉のあとに、やっぱり、と思ったかもしれない。今、出てきたのは、違う言葉だった。
「もっと、強くなりたい」
トレーナーが、こちらを見た。
「うんと集中して……マックイーンさんと、最後まで走れるようになりたい」
「ええ」
ライスは記録から顔を上げた。
「あのね。合宿、できないかな」
トレーナーの眉が、少し上がった。
「この前、見せてもらったみたいな、坂のあるところで。練習して、休んで……少しの間、それだけにしたいの」
学園が嫌になったわけではなかった。友達とも話したいし、絵本も読みたい。けれど、今は、あの背中を追うことに時間を使いたい。
「ひとりでは、行かないよ」
言い添えると、トレーナーが目を瞬かせた。
「最初に、約束したから。いなくなる前に、お話しするって」
「……ええ。よく覚えていらしたわね」
トレーナーは少し黙って、それから、閉じていた手帳を開いた。
「必要なものを、挙げてちょうだい」
*
翌日の机の上には、施設の資料が3つ並んでいた。ライスはそのうちのひとつを、両手で持ち上げた。坂道の写真がある。舗装されていない周回路と、整備された練習用のコースもある。隣のページには、見たこともないような大きな浴室が写っていた。
「……ここ、全部?」
「滞在中は、貸切です」
トレーナーは電話を終えたところだった。
「食事をお願いする方も、決まりました。脚の状態を見てくださるスタッフにも日程を確保していただいています」
「お姉さま、早いね……」
「時間が惜しいのですもの」
扇子が、机の上の資料を順番に指した。
「こちらは坂が短すぎる。こちらは学園から近いけれど、他の利用者との時間調整が必要。貴女が持っているところが、いちばん条件に合います」
「ここ、曲がりながら下れるんだね」
「ええ。お部屋もご覧になって。落ち着いて休めるように――」
「ここの道、どこにつながってるの?」
ライスはコースの端を指していた。トレーナーは口を閉じた。それから資料を覗き込み、別の地図を出した。
「……こちらの周回路ですわ」
「じゃあ、坂を越えたあとも、そのまま走れるんだ」
「ええ」
顔を上げると、トレーナーは少し呆れたように笑っていた。
「客室の説明を、ひとつも聞いていただけませんわね」
「あ……ご、ごめんね」
「構いません。眠るときには、思い出してくださるでしょう」
ライスは写真をもう一度見た。きれいな部屋だった。けれど、目はすぐに坂道へ戻ってしまう。
「ここで、練習したい」
「では、そういたしましょう。貴女が強くなるための贅沢ですもの。わたくし、こういうお金の使い方は大好きですわ」
トレーナーは電話を取った。料金の説明が始まったようで、相手の話を最後まで聞いてから、日程の確認へ進む。ライスはコースの地図を胸の前で持ったまま、じっと待った。
「ええ。お願いいたします。わたくしの担当が、たいへん気に入りましたので」
その声で、行き先が決まった。
*
合宿先の朝は、学園より静かだった。コースを歩くと、少し湿った土の匂いがする。坂を上った先では、木々の間から空が広く見えた。ライスは足元を確かめながら、下りの曲がり方を何度も見た。併走に協力してくれるウマ娘も、来てくれていた。長い距離のレースを走っていた人たちで、区間ごとに役割を交代しながら、ライスの前を走ったり、横から追いかけたりしてくれる。初日に、ライスはそのひとりへ聞いた。
「もう少し早く、前に出てもらってもいいですか」
「次の1本で?」
「はい。途中で離されたら……どこから追えるか、やってみたくて」
返事の前に、相手はトレーナーを見た。トレーナーは少し考えてから、予定していた内容を指した。
「本数は増やしません。次の確認を、それに替えましょう」
「うん」
最初の試走では、追いつけなかった。次の日には、追いついたあとで脚が止まった。帰ると、食事をして、脚の状態を見てもらい、決めた時間に眠った。目を閉じる直前まで、坂の向こうを走る相手の位置が浮かんだ。
数日後、同じ場所を走ったとき、ライスは自分の足音が変わったのを感じた。下り終えたところで、体がばらばらにならない。そのまま、次の一歩へ進める。前の子が速くなった。ライスは、すぐに追った。近づこうとするだけで脚を使い切らず、肩の後ろへつく。そこから、もう一度、腕を振った。
終了地点を越えても、まだ走れそうだった。ライスは振り返った。トレーナーが、ストップウォッチを見ていた。もう一度ライスを見て、それから、併走してくれた人の方を見る。2人が頷き合った。ライスは近づいていった。
「お姉さま」
「……ええ」
「今の、どうだった?」
「少し、待ってちょうだい」
トレーナーがもう一度記録を見る。その指が、先に書いてあった数字の上で止まった。
「よかったの?」
「よかったですわ」
返事が、少し遅れた。
「わたくしが想定していたよりも」
胸が熱くなった。ライスはコースを振り返った。今、自分が走ってきた坂の先を、風が通り抜けていく。
「じゃあ、ここのところ、変えたい」
トレーナーが顔を上げた。
「どこです?」
「マックイーンさんが前に出るところ。ついていくだけじゃなくて……そのあと、ライスも、前に出たいの」
トレーナーの手が止まった。ライスはコース図を借りて、指を置いた。
「ここで」
*
その日の夕方、テーブルの上には、何枚もの紙が広がった。トレーナーが用意していた作戦では、マックイーンの動きについていき、直線で残った力を使うことになっていた。ライスが指したのは、もっと早い場所だった。
「そこで並びに行くと、外を走る距離も増えます。相手がさらに上げたら、最後まで競り続けることになりますわよ」
「うん」
「今日の練習より、長くなります」
ライスは頷いた。分かっているつもりだった。実際にやってみたら、思っている以上に苦しいかもしれない。けれど、見てきたマックイーンの走りを思い出すと、待つことだけが怖かった。
「後ろで待ってたら、マックイーンさんの走りたい速さのまま、最後まで行っちゃう気がする」
「……ええ」
「隣に行きたい。ライスが来たって、分かるところへ」
ブルボンに並んだとき、相手の走りが変わった。こちらを見て、力を使った。マックイーンに、同じことが通じるとは限らない。でも、ただ追っているだけで勝てる相手だとも、思えない。
「勝つために、ここで動きたいの」
トレーナーは、すぐには答えなかった。ライスも、言い足さずに待った。窓の外で、風が木を揺らしていた。トレーナーは今日の記録と、これまでの記録を並べる。それから、コース図をライスの方へ戻した。
「マックイーンさんが、予想より早く動いたら?」
「無理についていったら、最後まで走れなくなるかもしれない」
「では?」
「離されすぎないようにして……下りで、もう一度近づく」
トレーナーが、別の位置を指す。
「ここで前が塞がったら?」
「空いてる方へ。でも、急に外へ出ない。周りを見てから」
「ええ。では、予定どおり進んだ場合は」
ライスは、自分が選んだ場所へ指を置いた。
「ここから、行く」
トレーナーは長い息を吐いた。
「……ずいぶん、手のかかるご注文ですわね」
ライスの指が止まった。けれど、顔を見ると、お姉さまは笑っていた。
「わたくし、ついていくだけでも大仕事だと思って準備していましたのに。そのうえ、先頭を要求なさるなんて」
ライスは、少しだけ口元を緩めた。
「お姉さまが、勝つためにって……」
「ええ。申し上げました」
トレーナーはペンを取り、自分で書いた線を引き直した。
「承りましたわ」
新しい線が、ライスの指したところから伸びていく。
「貴女がそこへ出るために、残りの練習を組み直します。強く走る日は増やさず、確かめる内容を変えましょう」
ライスはコース図へ近づいた。お姉さまが引く線の横に、自分で印をつける。出走するのが、急に楽しみになった。
*
合宿の終わりに行った最後の強い練習で、ライスは決めた場所から動いた。前を走る相手が速度を上げる。ついていく。坂を下り、外へ出る。横に並ぶ。ここから、まだ走る。無理に歩幅を広げず、地面をしっかり押す。苦しくなっても、前を見た。並んだ相手が、もう一度速くなった。ライスも、動いた。終了地点を越える。
止まるために速度を落としたとき、ようやく周りの音が戻ってきた。誰かが息を吐く音。スタッフが何か言う声。それから、お姉さまの靴音。トレーナーはライスの前へ来ると、顔を覗き込んだ。
「痛みは?」
「ない」
「苦しさは?」
「……いっぱい、走ったから」
トレーナーは一瞬黙って、それから声を立てて笑った。
「ええ。それは、よく分かりました」
タオルを渡され、呼吸が整うまで待つ。隣で、トレーナーがスタッフから記録を受け取った。
「よかった?」
「ええ」
今度は、返事が早かった。
「準備してきたものを、見せていただきましたわ」
ライスは頷いた。マックイーンは、今日の相手より強いだろう。最後にどこまで速くなるのかも、まだ分からない。けれど、行きたかった場所まで、行ける気がした。
「お姉さま。ライス、あそこで、マックイーンさんの顔を見たい」
「ええ」
「追いついて、びっくりさせたい」
トレーナーは、じっとライスを見た。
「……ずいぶん、欲張りになりましたわね」
ライスは少し考えた。最初は、誰かひとりでも喜んでくれたらと思っていた。それが今は、あんなに強い相手を、驚かせたいと思っている。
「だめ?」
「まさか」
トレーナーは、コースの方へ向き直った。
「わたくしも、一緒に見たいですわ。そのお顔」
ライスは笑った。トレーナーも笑ってから、こちらの肩を軽く押す。
「さあ。今日は終わり。ここからは、よい脚で京都へ入ることを考えましょう」
「うん」
坂道に、2人の影が並んだ。ライスはコースをもう一度振り返ってから、お姉さまの隣へ戻った。