ライスシャワーのトレーナーは、悪役令嬢みたいな人でした 作:Lagavulin
控室の鏡に、大きな羽飾りが映っていた。青いリボンを結んだ帽子。その下で、お姉さまが襟元の石を整えている。ライスが見ているのに気づくと、鏡越しに目が合った。
「何かしら」
「今日も、見つけやすそうだなって」
「もちろんですわ」
振り返ったトレーナーは、帽子のつばを少し持ち上げた。デビューの日より、飾りが増えている気がする。ライスは笑いかけてから、机の上のコース図へ目を戻した。角が少し丸くなった紙には、合宿先で自分がつけた印が残っていた。
「脚は?」
「軽いよ。朝、歩いたときも」
「それは何より。では、確かめるのはひとつだけ」
トレーナーの指が、坂の先へ伸びる。
「予定した場所へ行けなかったら?」
「そのときに、行けるところを探す。決めた場所だけ見て、無理に出ない」
「ええ」
返ってきた頷きは、それだけだった。ライスはコース図を畳み、お姉さまへ返した。もう、頭の中で何度も走った。けれど、本当のマックイーンはまだ追い越していない。あの坂の向こうで、どんなふうに速くなるのだろう。
「……早く、走りたい」
「まあ」
トレーナーは紙をしまいかけた手を止めた。ライスを見ると、少し口元を緩める。
「困りましたわね。わたくしも、先ほどから時計ばかり見ておりますの」
そこへ、係の人が呼びに来た。2人ともすぐに顔を上げたので、相手が少し驚いた。ライスは立ち上がり、扉へ向かう。廊下へ出る直前、お姉さまの手が、背中に軽く触れた。
「存分に、欲張っていらっしゃい」
ライスは振り返った。
「うん。1着が、ほしい」
*
外は、明るかった。見上げた観客席には、大勢の人がいる。マックイーンの名前を呼ぶ声が、あちこちで重なった。三連覇、と書かれた横断幕も見えた。ライスはその下を通って、待機場所へ向かった。
「ライスシャワー!」
自分の名前が聞こえて、顔を上げた。柵の向こうで、青いタオルが振られている。誰かが、頑張れ、と両手を口に当てていた。ライスも手を上げる。すると、タオルがさっきより大きく揺れた。
歩き出すと、前にマックイーンがいた。こちらを見て、姿勢を正す。ライスはすぐそばまで行ってから、頭を下げた。
「今日は、よろしくお願いします」
「こちらこそ。よい準備ができたようですわね」
「……分かる?」
「ええ」
マックイーンは、ライスの足元へ一度だけ目を落とした。それから、まっすぐに顔を見る。
「私も、よい走りをお見せできると思います」
「うん。楽しみに、してたの」
口にすると、本当にそうなのだと分かった。怖さはある。届かなかったら、どれほど悔しいだろうとも思う。それでも、ここまで来たマックイーンと走りたい。マックイーンは少しだけ目を細めた。
「では、コースで」
「うん」
離れていく背中を、ライスは見送った。もう、目で追うだけではなかった。自分も呼ばれた方へ歩き出した。
*
ゲートの扉が開いた。足元の芝が、次々と後ろへ流れ始める。
『天皇賞・春、スタートしました! メジロマックイーンの三連覇なるか! 菊花賞を制したライスシャワーが挑みます!』
前へ行く子たちを見送りながら、ライスは自分の場所を探した。マックイーンの背中が見える。近づきすぎず、離されず。その先では、メジロパーマーが速い。早くも集団との間に、芝生の色が広がっていく。最初の坂にかかった。ライスは前へ行きたくなる足を抑えた。まだ、先は長い。マックイーンも動かない。前の子が落ち着くのを待ち、同じくらいの間隔を保って坂を越えた。
下りに入る。体が自然に前へ進んだ。足を突っ張らず、勢いを受け止めて、次の一歩へつなぐ。曲がり終えた先に、観客席が見えた。大きな声が、正面から押し寄せてくる。ライスは帽子を探さなかった。今は、前を見る。1度目のゴール板が過ぎて、コースはまた曲がった。マックイーンの足音が、同じ間隔で続いている。ライスも呼吸を合わせ直した。
向こう正面へ出ても、パーマーは前にいた。差はまだ大きい。長い直線の先で、揺れる髪が見える。マックイーンの肩が、わずかに動いた。
来る。足音の間隔が変わる。前にいた子へ、マックイーンが近づいていく。ライスも腕を振った。開きかけた間を埋める。思っていたより速い。坂へ入る前から、息が深くなった。けれど、離れるほどではない。マックイーンの背中が、同じ大きさのまま目の前にあった。ライスはその背中を追い、2度目の坂を上った。脚に重みが増す。前の子が少しずつ横へ流れていく。マックイーンが追い越したあとを、ライスも進んだ。
『マックイーンが動いた! 逃げるパーマーとの差を詰めていきます! ライスシャワーもすぐ後ろ、離れません!』
坂の頂上を越えた。視界が開く。パーマーはまだ前にいる。マックイーンは迷わず、その背中へ向かった。ライスは外側を確かめた。足を置ける。隣の子との間もある。少しずつ進路を外へ移しながら、下りに体を預けた。速くなる足音を、乱さない。マックイーンの背中が、肩に変わっていく。近い。もう少し。
並びかけたとき、マックイーンの顔が見えた。目が、こちらへ動く。ほんの短い間だった。ライスを捉えた瞳が、鋭くなる。すぐに前へ向き直り、地面を蹴る音が強くなった。ライスも、腕を振った。
肩が遠ざかりかける。追う。並ぶために速くなったところから、さらに上げなければならない。息が喉を擦った。下りの勢いだけでは、ついていけない。これが、マックイーン。ライスは歯を食いしばった。見たかった顔を、見せてもらった。ここから先へ行かなければ、ただ驚かせただけで終わってしまう。前方で、パーマーが曲がっていく。差がなくなりかけても、速度は落ちなかった。その横へ、マックイーンが出る。ライスはさらに外を回り、直線へ向いた。
『最後の直線! パーマー、まだ粘っている! マックイーンが並ぶ、その外にライスシャワー! 3人が広がった!』
目の前に、ゴールが見えた。遠い。ここからまだ走るのだと思った瞬間、脚の重さがはっきりした。息を吸う。足りない。腕を引き、もう一度地面を蹴る。
マックイーンが前に出た。ライスは、隣にいた。パーマーの姿が少しずつ後ろへ下がっても、こちらへ迫る足音は消えない。マックイーンの横顔は、まだすぐそこにある。まっすぐ前を見て、懸命に走っていた。抜けない。もう一歩、と思うたび、相手も進む。ライスは顔を上げた。ゴールの向こうの景色が、少しずつ近くなっている。あそこまで。誰より先に、あそこまで行く。
マックイーンの肩が、ほんの少し後ろへ動いた。今、前に出た。確かめるために見直す余裕はなかった。ライスは前だけを見た。後ろの足音が強くなる。追いかけてくる。ここまで走ってきて、まだ、こんなに速くなれる。負けたくない。ライスは、自分の声が漏れるのを聞いた。喉の奥から出た、小さな、熱い声だった。腕を振る。足が着く。次の足を前へ出す。それだけを、繰り返した。
横に、誰もいない。白い線までの距離が、なくなっていく。ライスは最後の一歩を、伸ばした。
『ライスシャワー、ゴールイン! 天皇賞・春を制しました! メジロマックイーンとの激闘を勝ち抜き、春の頂点に立ったのはライスシャワー!』
*
止まってからも、胸の奥が激しく動いていた。ライスは膝に手をつき、息を吸った。すぐには顔を上げられない。芝生の上に落ちた自分の影が、肩と一緒に上下している。勝った。今、ライスが勝った。口にしようとして、息になった。もう一度吸ってから、ゆっくり背筋を伸ばす。観客席を見た。人の顔はまだうまく見分けられない。青い飾りが揺れていた。見つけた。
お姉さまが、立っていた。扇子を脇に挟み、拍手をしている。口が動いた。ここまでは聞こえない。けれど、何を言っているのか、ライスには分かった。ライスは、手を上げた。今度は、初めから高く。
トレーナーの両手が、一瞬止まった。それから、帽子のつばへ触れることも忘れて、大きく手を振り返した。隣にいた人が何か話しかけても、まだこちらを見ている。ライスは、笑った。
「……お見事でした」
声の方を見ると、マックイーンがいた。息は、まだ荒い。ライスと同じように肩を動かしながら、こちらへ近づいてくる。
「おめでとうございます、ライスさん」
「ありがとう……ございます」
マックイーンの目が、ゴール板の方へ動いた。ライスも、そちらを見た。さっきまで、そこへ向かって2人で走っていた。
「下りでいらしたときは、ここから競るおつもりなのかと、思いましたわ」
「……うん。そこから、行きたかったの」
「ええ。よく、分かりました」
マックイーンは息を整え、唇を引き結んだ。その手が、まだ握られている。ライスは何か言いかけて、待った。
「悔しいですわ」
「……うん」
「次は、私が先に参ります」
ようやく顔を上げたマックイーンは、まっすぐにライスを見た。ライスも、その目を見返した。
「ライスも、また勝ちたい」
「ええ。そうおっしゃると思いました」
差し出された手を握る。強い手だった。さっきまで何度も振って、最後までライスを追ってきた手。離したあとも、指先に温かさが残った。
係の人について歩き出すと、観客席から拍手が届いた。名前を呼ぶ声も聞こえた。柵の近くで、マックイーンの旗を膝へ下ろしている人がいた。顔を伏せて、じっとしていた。その隣では、立ち上がって手を叩いている人がいる。ライスは頭を下げた。それから、迎えに来てくれた人の方へ歩いた。
*
「お姉さま」
呼ぶと、トレーナーが近づいてきた。両手を差し出される。ライスは、自分からその手を取った。手袋越しでも、指の力が分かった。
「帰ってきたよ」
「……ええ」
トレーナーはライスの顔を見て、それから脚へ目を落とした。
「痛いところは」
「ないよ。すごく、疲れたけど」
「ええ。でしょうね。あれだけのレースを……」
そこで、言葉が止まった。ライスは見上げたまま、待った。お姉さまの口元が緩む。いったん結ぼうとして、また緩んだ。
「よく、勝ちましたわ」
声が、少し震えていた。
「本当に。よく、あの方に」
「うん」
ライスは握った手を、少しだけ引き寄せた。
「びっくり、してくれたよ」
「見ておりました」
「でも、すぐに速くなって……思ってたより、ずっと、苦しかった」
「ええ」
「最後まで、追いかけてきてたの」
トレーナーは頷いた。ライスがひとつ話すたびに、握った手に力がこもる。
「勝ちたかったから、ライス、もっと走った」
そこまで言うと、お姉さまは顔を少し上へ向けた。帽子の飾りが揺れる。すぐにこちらを見て、いつものように顎を上げた。
「わたくし、たいへん困っております」
「……どうしたの?」
「どこから自慢したらよいか、決められませんの」
ライスは笑った。笑うと息が足りなくなって、少し咳き込んだ。トレーナーが慌てて背中へ手を添える。控室へ向かいながら、まず水を、と係の人へ頼む声まで、弾んでいた。
椅子に座って、ようやく息が落ち着いてから、ライスは隣を見た。トレーナーは帽子を外し、机に置いていた。青いリボンが、少し曲がっている。
「お祝い、するんだよね」
「もちろんです。貴女の体を休めてから、盛大に」
「合宿で、お世話になった人たちも、呼びたいな」
「まあ。素敵ですわね」
「みんなで食べたら、大きいケーキでも、大丈夫だから」
トレーナーは、ゆっくりライスを見た。
「大きいものを、注文してあると思っていらっしゃる?」
「……してないの?」
返事の代わりに、扇子が開いた。お姉さまの目が笑っている。ライスも笑って、コップを両手で持ち直した。あとで、来てくれた人たちへ自分でお礼を言おう。あの坂で練習したとおりに、隣へ行けたと伝えようと思った。
*
会見の部屋へ入る前に、トレーナーが足を止めた。
「お疲れでしょう。長くならないよう、先にお伝えしてあります」
「うん」
「話したくないことまで、無理をする必要はありませんわ」
ライスは頷いた。開いた扉の向こうに、机と椅子が見える。マイクが置かれ、その前で人が待っていた。お姉さまが一歩横へ退いて、ライスを先へ通そうとする。ライスは、その手を取った。
「一緒に、座ってくれる?」
トレーナーが顔を向けた。
「ライスだけだと、お姉さまのこと、上手に話せないかもしれないから」
「……わたくしのこと?」
「うん。今日、どうやって勝てたのか、聞かれるでしょう?」
ライスは手を繋いだまま、中へ入った。トレーナーが隣を歩く。用意された席へ並んで座ると、誰かが、おめでとうございます、と言った。
「ありがとうございます」
自分の声が、マイクを通って聞こえた。思っていたよりはっきりしていた。ライスは机の上へ両手を置いた。最初の質問は、仕掛けた場所についてだった。ライスは少し考え、坂の前からマックイーンを見ていたことを話した。横へ行ったら、どれほど速くなったかも。言葉を探して止まると、記者は続きを待ってくれた。
「早く並びに行く作戦だったんですね」
「はい。ライスが、そうしたいって言ったの。そしたら、お姉さまが……トレーナーさんが、そのための練習を、考えてくれて」
隣で、扇子が少し動いた。
「元の予定を、変えてもらいました。もっと強くなりたいって言ったら、練習するところも、走ってくれる人も、用意してくれて……ライスがやりたいこと、いっぱい、聞いてくれました」
そこまで話してから、ライスはお姉さまを見た。トレーナーは、じっとこちらを見ていた。会見の前に、自分のことが出るとは思っていなかったのかもしれない。
「トレーナーとしては、その変更に迷いは?」
「ありましたわ」
返事は、落ち着いていた。
「ですから、何度も話しました。この子がどこへ行きたいのか、そのために何が必要か。練習で確かめるたびに、こちらの予想を超えてくれました」
トレーナーはライスを見て、微笑んだ。
「今日もです」
カメラの音がした。ライスは少し照れて、前へ向き直った。次の記者が手を上げた。
「菊花賞に続いて、大きな記録のかかった相手を破りました。今は、どんなお気持ちですか」
ライスはマイクを見た。手を置くと、冷たかった。あのとき、ここで謝りそうになったことを覚えている。隣から聞こえた、誇らしく思っているという声も。
「……うれしいです」
顔を上げた。
「マックイーンさんが、すごく強かったから。勝てて、うれしいです」
トレーナーの方を、見なくても言えた。
「菊花賞も、うれしかった。今日も、頑張ってよかったって、思います」
言い終えると、隣で小さく息を吐く音がした。ライスが見ると、お姉さまは胸を張っていた。今にも自分のことのように何か言い出しそうな顔をしている。ライスは、少しだけ笑った。
最後に、2人で写真を撮ることになった。立ち上がり、言われた場所へ並ぶ。カメラを構えた人が、もう少し近くへ、と手を動かした。ライスはお姉さまへ寄った。肩が触れるくらい、そばへ。黒い手袋の指が、隣にあった。ライスはそっと、その手を握った。トレーナーがこちらを向く。カメラの向こうで、誰かが準備をしている間に、ライスは見上げた。
「お姉さま」
「なあに?」
ライスはお姉さまを真似て、背筋を伸ばし、少しだけ顎を上げた。
「ライスを選んで、よかったでしょう?」
トレーナーの目が丸くなった。ライスは、返事を待った。恥ずかしくなったけれど、取り消さずに、待った。お姉さまの顔が、ゆっくりほころんでいく。
「ええ」
握った手に、力が返ってきた。
「わたくしの、自慢のライスシャワーですもの」
正面から、声がかかった。こちらをお願いします、と。ライスはお姉さまと一緒に顔を上げた。繋いだ手をそのままに、レンズへ向かって笑った。