第一話 震える手の夢
本局第三訓練区画の天井は高く、照明が模擬市街地を隅々まで照らしていた。
ビルを模した障害物の間を新人局員たちの魔力光が行き交う。
合同模擬戦が始まって二十分。残っているのは赤組の四人と、青組の五人だった。
拮抗した戦況の中、前線から少し離れた、崩れかけた高架。その上で白いバリアジャケットに身を包んだ一人の少女が、目の前に浮かぶウインドウを眺めていた。
もうじき、どちらかが痺れを切らして激突するだろう。だが、それを待っていては消耗戦になる。
相手側、赤組の四人の動きを確かめながら、次の一手を考える。
「レイジングハート、残弾の確認」
『All green.』
返ってきた声に頷き、彼女──高町なのはは視線をウインドウから外し、下へ落とす。
観覧用の通路には、訓練に参加していない局員が何人も集まっていた。腕を組んで見下ろす者もいれば、端末を構えて記録を取る者もいる。その視線は戦況を追っていなかった。白いバリアジャケットの一点に集まっていた。
エース・オブ・エースの復帰戦。
誰かがそう呼んでいたのを、なのはは更衣室の前で耳にしていた。
あの事故から、一年近くが経っている。
十一歳の冬、任務の帰りに正体不明の機体に襲われ、なのはは雪の上に墜ちた。積み重なっていた疲労が限界を越えた結果だった。一時は、もう歩けないかもしれないという宣告まで受けたほどだ。
そこから半年以上、リハビリが続いた。立つことから始め、歩くことを覚え直した。
杖を握れるようになるまでに、さらに季節が一つ過ぎた。
そんななのはに、医療班から復帰の許可が下りたのは、ついひと月前のことだ。いきなり任務に戻ることは認められず、まずは訓練への参加から慣らしていくことになった。今日の合同模擬戦も、その一つだった。
教える側ではなく、新人たちと同じ参加者として。
足は思った通りに動くし、飛行も安定している。
ただ、怪我のあとに身についた癖が一つだけあった。
「ディバイン……」
杖を構え、なのはは一度だけ息を吸って、止める。
肺の奥まで空気が届いたのを確かめてから、桜色の光が杖の先に集まった。
「シューター!」
放たれた誘導弾が、ビルの陰に潜んでいた赤組の二人を撃ち抜く。撃墜判定のブザーが二度鳴り、観覧通路から小さなどよめきが上がった。
吸って、止める。以前のなのはにはなかった〝間〟だった。
魔法の行使に支障があるわけではない。それでも、この一拍がいつか誰かを巻き込むのではないか。
そんな不安が、頭から離れなかった。
誰かに相談しようにも、何をどう話せばいいのか分からなかった。
一瞬、不安に気を取られた隙に、青組の前衛が残りの赤組の二人を仕留めようと、市街地の中央へ押し上げていくのが見えた。
「高町さん、あと二人です!」
通信越しに弾んだ声を上げたのは、前衛を務める新人のティル・ハーゲンだった。配属されて三か月、訓練校を上位で出たと聞いている。
「ハーゲン一士、前に出すぎないで。右のビルの陰、まだ確認できてない」
なのはは配置図を視界の隅に呼び出しながら答えた。
陣形が、どうも気になる。動きの速さからして、あえて誘っているように見える。
「了解です。でも、ここで決めれば──」
言葉の続きは、加速の音にかき消された。
ティルの魔力光が一直線に赤組の陣地へ伸びていく。シールドに回していた魔力を、すべて推進に振っていた。光の尾には、解かれた防御術式の残滓が淡く混じっている。
なのはの目は、ティルの背中ではなく、その先の地面を見ていた。
交差点の角。瓦礫を模したブロックの隙間に、訓練用の設置弾が埋まっている。
開始前の配置図にも記されていた。
そして、ティルの位置からは、ちょうど死角になる。
赤組の二人は、そこまで誘い込むために残っているのだ。
声をかける時間は、もうなかった。
考えるより先に体が動いていた。高架を蹴り、飛行魔法を最大出力で起動する。
風圧が頬を叩き、観覧通路の人影が視界の端を流れた。
設置弾の術式が起動の光を放つ。
ティルが振り返るより速く、なのははその前へ滑り込んだ。
「レイジングハート!」
『Protection.』
桜色の障壁が広がるのと、炸裂は同時だった。
衝撃が障壁越しに腕へ伝わり、肩を抜けて背骨まで響く。訓練用の出力のはずだった。それなのに、足の下から地面が消えたような感覚がした。
──冷たい。
頬に触れた地面の温度を、なのはは覚えている。
雪混じりの風が吹いていた。手足が自分のものではなくなっていく感覚。
指先に力を込めようとしても、どこに指があるのか分からない。
遠くで、誰かが名前を呼んでいた。それがフェイトの声だと分かったのは、ずっと後になってからだ。
最初に降りてきた人影があった。
黒い外套の裾が、視界の端で揺れた。見上げた顔は真っ青で、唇には色がなかった。
それなのに、その声は一度も揺れなかった。
「医療班っ! 座標を送る。三十秒で何が何でも来いっ! 周辺の残存反応は僕が抑える。フェイト! 動かすな。そこにいろ」
叫ぶような声だった。けれど、指示の順番は一つも乱れていなかった。
指示を飛ばしながら、その人の指はなのはの首筋に当てられていた。脈を探る指先が、ほんのわずかに震えていた。
怖いのに、ちゃんと全部を見ている人がいる。
薄れていく意識の中で思ったことが、今になって言葉の形をとった。
「高町さん!」
声に引き戻されて、なのははまばたきをした。
着地の姿勢のまま、片膝が床についていた。障壁はすでに消え、目の前には煙の残る交差点がある。
撃墜判定のブザーは、鳴っていなかった。
「大丈夫ですか」
駆け寄ってきたティルが、なのはの前にしゃがみ込む。バリアジャケットには焦げ跡ひとつない。
なのはは膝に手をつき、立ち上がろうとした。力は入る。痛みもない。
ただ、膝の震えが収まるまで、少しだけ時間が必要だった。
模擬戦終了の合図が響く。残っていた赤組の二人は、混乱の間に別の新人が仕留めていた。
「助かりました」
ティルは額の汗を拭って、照れたように笑った。
「さすがです、高町さん。あんな距離から間に合うなんて」
その笑顔を見た瞬間、なのはの胸の奥で何かが固くなった。
「今のは」
声が、思ったより低く出た。
「助かったんじゃない。運が良かっただけ」
ティルの笑みが、口元に貼りついたまま止まる。
「配置図、見てたよね。あの交差点に設置弾があることも、赤組が二人残ってる理由も。シールドを切って突っ込んだらどうなるか、分かってたはずだよ。私が間に合わなかったら、今ごろハーゲン一士は医療区画にいた。ううん、訓練用じゃなかったら──」
言葉が止まらなかった。周りの新人たちが手を止め、こちらを見ている。観覧通路のざわめきが、潮が引くように消えていった。
ティルは何か言おうとして口を開き、そのまま閉じた。肩が、目に見えて縮こまっていく。
「高町」
背後から声がかかった。
振り返ると、訓練区画を担当する教官が腕を組んで立っていた。
「指導は教官の仕事だ。君は今日、指導を受ける側の人間だ」
「……すみません」
なのはは視線を落とした。教官はそれ以上何も言わず、ティルのほうへ向き直る。
「ハーゲン、後で記録映像を確認しろ。全員、撤収」
更衣室には、誰もいなかった。
ベンチに腰を下ろし、手袋の留め具に指をかける。外そうとして、指がうまくかからなかった。
二度目でようやく外れた手袋の下で、指先が細かく震えていた。
握って、開く。震えは止まらない。
ロッカーの扉の内側には、写真が一枚貼ってある。退院の日に、翠屋の前で家族と撮ったものだ。桃子の手が、彼女の肩に置かれている。
その手が病室で震えていたことを、よく覚えていた。
同じ思いを、誰にもさせたくない。
震える手を膝の上で重ねても、その気持ちだけは揺らがなかった。
飛び込んで助けるだけでは、いつか間に合わない日が来る。今日だって、あと半歩遠ければ届かなかった。
だったら、飛び込む前に止められたらいい。無茶をしようとする誰かに、その先に何があるのかを伝えられたら。
──教導官。
訓練校の案内で見かけただけのその言葉が、初めて輪郭を持って、なのはの中に残った。
本局の食堂は、昼の混雑を過ぎて半分ほどが空席になっていた。
窓際の四人掛けに、なのはは盆を置いた。向かいにはフェイトとはやてが並んで座っている。
「それで、間に合ったんや」
はやてがスプーンを止めて言った。
「うん。ハーゲン一士も怪我はなかった」
「よかった」
フェイトは小さく息をついた。それから、手元のカップに視線を落とす。
「……怒ったって、聞いたよ」
なのはは顔を上げた。
「誰から?」
「訓練区画にいた子が、話してるのを聞いたの。食堂に来る途中で」
はやては頬杖をつき、なのはの顔をのぞき込んだ。
「なのはちゃんの言うてること、間違うてはないと思うよ。設置弾の位置、配置図に出とったんやろ」
「うん。だから言ったの。あれは危ないって」
「せやな。それはその通りや」
はやては言葉を選ぶように、少し間を置く。
「けど、なのはちゃんも無茶やったんちゃう?」
なのはは視線を落とした。
「……私は、間に合ったから」
「今回はな」
はやての声は、いつもと変わらなかった。
フェイトがカップを両手で包む。
「なのは、まだ怖いんじゃない?」
なのはの指が、箸を握ったまま止まった。
「……何が?」
「誰かが怪我をすることも。自分が、また動けなくなることも」
フェイトはなのはを見つめていた。責めるような目ではなかった。
だからこそ、言い返す言葉が見つからなかった。
なのはは盆の上の味噌汁を見つめた。湯気はもう、ほとんど立っていない。
正しいのは分かっている。飛び込んだのは自分で、膝をついたのも自分だ。それでも、胸の奥に残ったものはうまく呑み込めなかった。
「……うん。そうかもね」
それだけ答えて、なのはは冷めた味噌汁に口をつけた。
席を立つとき、フェイトが一度だけなのはの背中を目で追った。何か言いかけて、唇を結ぶ。
はやてがその横顔を見て、フェイトの肘を軽くつついた。
「言いすぎてへんよ」
「……そうかな」
フェイトはカップを両手で包んだまま、なかなか口をつけなかった。
展望デッキの窓の外には、次元の海が広がっていた。
夕方の交代時間を過ぎて、デッキに人影はまばらだった。なのはは手すりに肘を預け、ゆっくりと流れていく光の筋を眺めていた。
「ここにいたのか」
背後からの声に、なのはは振り返った。
黒い制服の上着を腕にかけた少年──クロノが、デッキの入口に立っていた。アースラを離れて別の任務に就いていたのは、半年ほどの間だ。背が少し伸びたように見えた。
「クロノくん。帰ってきてたんだ」
「昼過ぎにな」
クロノは隣まで歩いてくると、同じように手すりに手を置いた。窓に映る横顔は、なのはの記憶にあるものより少しだけ痩せていた。
「新人を怒鳴ったそうだな」
なのはの肩がはねた。
「……もう知ってるの?」
「訓練報告書は回ってくる。映像も見た」
クロノの声に、咎める響きはない。それが、かえってなのはの居心地を悪くさせた。
なのはは窓の外へ視線を戻す。光の筋が一本、ゆっくりと視界を横切っていく。
フェイトとはやてに言われたことが、まだ胸に残っている。それでも、話すならこの人にだと思った。
青ざめた顔のまま、一度も揺れなかった声。あの日、薄れていく意識の中で聞いた指示の一つひとつを、なのはは今も順番どおりに思い出せる。
思えば、最初からそうだった。
ジュエルシードを巡って出会ったときも、闇の書の事件のときも、クロノはいつも一歩引いた場所から全体を見ていた。管理局に入ってからも、迷ったときに道を示してくれたのは、いつもこの人だった。
なのはも、フェイトも、はやても。三人とも、その背中に導かれてここまで来た。
「クロノくん」
「なんだ」
クロノは窓の外を見たまま答えた。
なのはは一度だけ息を吸ってから、口を開いた。
「私ね、教導官になりたい」
クロノは何も言わなかった。窓の外を見たまま、続きを待っている。
なのはは手すりを握る指に少しだけ力を込めた。
「無茶をする人を、止められるようになりたいの。飛び込んで助けるんじゃなくて……その前に」
言葉が途切れた。
格好のいい言葉なら、いくつでも浮かんだ。誰かの役に立ちたい。みんなを守りたい。どれも嘘ではない。けれど、今ここで口にしたいのは、そんな言葉ではない。
なのはは右手を持ち上げ、手のひらを見つめる。
「今日ね、手が震えたの。更衣室で、手袋を外したら」
握って、開く。今は、震えていない。
「私はまだ怖い。……でも、怖いのを知ってるから、無茶する人を止める方法を教えたい」
なのはは顔を上げ、クロノの目をまっすぐに見た。
「私が、助けに行かなくていいように」
クロノは、なのはの視線を受け止めたまま動かなかった。
窓の外の光が、彼女の髪の端を淡く照らしている。その姿に、雪混じりの風の中で横たわっていた小さな体が重なった。
あの日、最初に現場へ着いたのはクロノだった。
通信が途切れたと聞いた瞬間から、着地するまでの記憶はほとんどない。覚えているのは、地面に広がる赤と、首筋に当てた指先に伝わる弱い脈だけだ。
なぜ、止められなかったのか。
疲労の兆候はあった。報告書の数字にも出ていた。それでも、誰もが彼女の強さを信じていて、クロノもその一人だった。
昼過ぎに読んだ訓練報告書を、クロノは思い返した。
記録映像の中で、なのはは新人の背中を追っていなかった。設置弾の位置と、残された赤組の二人と、新人の進路を同時に見ていた。飛び込んだのは反射ではない。場全体を読んだうえでの判断だった。
素質は、本物だ。
しかし、その後の叱り方も映像で見ていた。
正しいことを、正しいまま相手にぶつける。言われた側が何も返せなくなるまで。
執務官になりたての頃、クロノも同じように部下を黙らせていた。間違ってはいない。
けれど、それで相手が変わったことは一度もなかった。
素質だけでなく、悪い癖まで似ている。クロノは思わず、端末から目を逸らしていた。
今、目の前の少女は「怖い」と言った。
十一歳のなのはは、大丈夫だと笑い続けて、限界を誰にも見せなかった。
いや、見せられなかったのだろう。
その彼女が、震えた手を自分から差し出している。
クロノは、すぐには答えられなかった。
ここで断っても、なのはは諦めないだろう。一人で走り出し、一人で抱え込む。誰の目も届かない場所で、また限界を越える。
それだけは、避けなければならなかった。
クロノは手すりから手を離した。
自分が導くのが正解なのかは分からない。
それでも、なのはを一人で走らせるわけにはいかない。
クロノはゆっくりと息を吐いた。
「……来週まで待て」
なのはは目をまばたかせた。
「え?」
クロノはそれ以上何も言わず、上着を肩にかけて踵を返す。
足音が遠ざかり、デッキの扉が閉まる。なのはは手すりを握ったまま、その言葉の意味を測りかねていた。