神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~   作:匿名希望()

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新入り

雨は三日前から降りっぱなしだと、案内役の少年は言った。

塹壕の底には踝まで泥水が溜まっていて、板を渡した足場はとうに沈んでいた。グレンは背嚢の肩紐を掛け直して、少年の後ろを歩いた。壁の杭のあいだから水が染み出していて、土が崩れたところには誰かが慌てて土嚢を詰めていたが、それも半分は流されかけていた。

 

「第四小隊はこの先です。泥鼠って呼ばれてて……あ、俺が言い出したんじゃないですよ。俺が来たときにはもうそう呼ばれてたんで」

「誰が言い出したんだ」

「さあ。隊長は、たぶん最初の隊長だろうって」

 

少年はピートと名乗った。十五だというが、十二、三にしか見えない。支給の外套の袖を三重に折り返しているのに、まだ指先しか出ていなかった。

 

分かれ道で、エルフの兵士が二人、湯気の立つ杯を手に立ち話をしていた。二人の頭上にだけ雨が落ちてこない。雨粒は二人に届く手前で横へ逸れて、足元の地面まで乾いていた。ピートは目を伏せて足を速め、グレンもそれに合わせた。

 

「グレンさんは、前もどこかにいたんですか」

「あちこちにな。雇われて、仕事が終われば次に行く」

「じゃあ、なんで年季兵に……あ、すいません。聞いちゃいけないって言われてるんでした。年季兵になった理由は聞くなって、隊長が」

 

十年、功績次第ではもっと早く年季が明ければ、家族ごと市民権がもらえる。祝福のない人間が人並みの身分にありつく道は、それしかない。訊くまでもない、という意味の決まりだった。

 

グレンは何も言わずに歩いた。懐の手紙の角が、歩くたびに肋骨をつついた。

泥鼠の壕は、塹壕の脇を掘り広げて板の屋根を渡しただけの穴だった。入口の麻布をくぐると、獣脂の灯りの煤と、湿った毛織物の饐えた臭いが、まとめて鼻に入ってきた。

 

奥の木箱に、女がひとり腰かけていた。白髪を短く刈り込んでいて、頬に古い火傷の痕が斜めに走っている。五十をいくつか越えた年格好で、口に煙草をくわえていた。壕の中にはほかに誰もおらず、壁際に寝床がわりの藁の束が並んでいるだけだった。

「ピート、拾ってきたのはそれかい」

「新入りのグレンさんです、隊長」

「見りゃわかるよ」

女はグレンの配属票を灯りに近づけて、目を細めた。

 

「傭兵歴十九年……二十七で十九年ってことは、八つのころから戦場か。北の氷原から竜人の内戦まで渡り歩いて、で、なんでそんな男が年季兵なんかに落ちてくるんだい」

「理由は聞かない決まりだと聞いた」

「あたしが決めた決まりだ。あたしは破っていいんだよ」

「金じゃ買えないもんが要る」

「みんなそうさ」

 

女はそれで配属票を胸の隠しにしまい、マルタと名乗った。この小隊の隊長で、ここに来て十四年目だという。年季は十年のはずだとグレンが言いかけると、マルタは煙草の先を向けてそれを止めた。

 

「一回目は満了したよ。いろいろあって戻ってきた。その話は、あんたが生き残ってたら酒の席でしてやる」

「ほかの連中は」

「四人いるけど、西の坑道の掃除に駆り出されてる。戻るのは早くて明後日だね。挨拶はそのときでいいし、名前もそのとき覚える。来た日に死ぬやつの名前まで覚えてたら、きりがないんでね」

 

ひどい言い草だが、腹は立たなかった。マルタの目は、話しながら、外套の擦り切れた肘と、腰の焚べ筒とを確かめていた。よその戦場を渡ってきた傭兵上がりは、自分のやり方を変えられずに早死にする。年季兵の古参が新入りの傭兵を見る目は、どこでもそういうものだった。

 

荷を下ろす間もなく、入口の麻布が外から乱暴にめくられた。

銀の胸甲をつけたエルフの騎士が、雨の中に立っていた。髪にも肩にも、雨粒ひとつついていない。騎士は壕の中を一瞥して、鼻にしわを寄せた。

 

「第三防衛線に群れが来る。泥鼠は東の突出部に入れ。詠唱が終わるまで持たせろ」

「三人でですか」

「両隣に第二と第五がいる。足りないとは聞いていない」

騎士はグレンに目を留めたが、名前は訊かずに麻布を落とした。

 

「アイレン様です。ああいう人なんです」ピートが声をひそめた。

「ああいうのは、どこにでもいる」

 

グレンは背嚢から自分の焚べ筒を出した。銃身を肘から先ほどの長さに切り詰めて、筒先の下に分厚い刃を据えつけてある。研ぎ直しを繰り返すうちに、刃の幅は最初の半分ほどになっていた。前にいた傭兵団では、誰が言い出したのか、刃筒と呼ばれていた。

 

東の突出部は、塹壕が敵側へ鉤のかたちに張り出したところで、三方が湿地だった。雨で百歩先も見えない。両隣の胸壁には、それぞれ別の小隊が伏せていた。

胸壁の外には膝の高さの杭が並んでいて、杭と杭のあいだに薄い膜が張っていた。雨粒が当たるたびに、膜の上で小さな光が散る。杭の頭に埋めた神骸片が尽きると膜も消えるのだと、ピートが教えてくれた。骸杭というらしい。

 

マルタが袋から神骸片を掴み出して、二人に八つずつ配った。小指の先ほどの、くすんだ乳白色の結晶だった。異形の腹から取れるこれを、教会は神の亡骸のかけらだと教えている。人間がそれを焚べて戦うことを嫌う祝福種は多いが、戦場で止める者はいない。止めたら前線がもたない。

 

「杭はもって半刻だ。切れる前に戻りな。戻れなかったやつは、戻れなかったやつだよ」

「それ、毎回言いますよね」

「毎回戻れなかったやつがいるからね」

マルタは袋を腰に括りつけて、胸壁を越え、湿地のほうへ這い出していった。

 

「隊長は何を」

「埋め火です」ピートは胸壁に耳を押し当てたまま答えた。

「神骸片を泥に埋めておいて、群れが上を通ったら火を入れるんです。うまくできるのは隊長だけですけど」

「火はどうやって入れる」

「隊長の煙草です」

グレンは外套を脱いで胸壁に掛け、シャツの袖を肘の上までまくった。

前腕の内側から肘まで、黒い線を何重にも絡ませた刺青が走っている。古い傭兵がよく彫っていた刻印で、いまの年季兵には彫る者がほとんどいない。

 

ピートがそれを見て口を開きかけたが、そのまま目を閉じて、また胸壁に耳をつけた。

「……来ます。四つ足が多いです。重いのが、右から三つ」

湿地の向こうで、水を踏む音が重なりはじめた。

最初に雨の向こうから出てきた異形は、鹿に似ていた。似ているのは脚の数と首の長さだけで、頭のあるべきところには、人の手のひらに似たものが五枚、花弁のように開いていた。後ろに、狼とも猪ともつかない四つ足が群れになって続いている。どれも、部品をどこかで取り違えたまま組み上げてしまったような形をしていた。

 

「初めてか」

「三回目です。でも、慣れないです」

「慣れなくていい。慣れたやつから先に死ぬ」

言ってから、昔の上官の口癖をそのままなぞっていたことに気づいて、グレンは舌打ちしたくなった。

 

後方の高台で、エルフの魔導兵たちの詠唱が始まった。低い歌のような声が、雨音の下から届く。あれが終わるまで、ここで止めておかなければならない。

 

いつの間にか戻っていたマルタが、胸壁の陰で煙草を強く吸い、赤く熾った先を紐の端に押しつけた。火は泥の上を走り、群れの先頭の足元で、泥が内側から膨らんだ。白い火柱が、二本、三本と立て続けに噴き上がった。

グレンは焚べ筒の根元に神骸片を一粒落として、引き金を引いた。掌に鈍い震えが来て、筒先から光の杭が飛ぶ。火柱を抜けてきた鹿もどきの胸に杭が突き立って、開いていた五枚の手のひらがゆっくり閉じた。

 

ピートも撃っていた。半分は外れていたが、手は止まらない。両隣の小隊の焚べ筒も光りはじめて、湿地のあちこちで泥と肉が跳ね上がった。

ピートの言った重いのは、それでも止まらなかった。荷車ほどもある猪に似た異形が三頭、焼けた仲間の死骸を踏み越えて、骸杭へまっすぐ突っこんできた。先頭の一頭が膜に頭から当たると、膜は大きくたわみ、杭の頭の結晶がぎしぎし鳴って明滅した。二頭目が同じところに当たれば、そこは抜ける。抜けた先にいるのは、この三人だった。

 

グレンが胸壁に足をかけると、マルタが「新入り」と呼んだ。

「杭が切れる前に戻る」

言いながら、右の腿に彫った刻印に神骸片を押し当てた。結晶が皮膚の下へ沈んでいく感触のあとで、腿の骨の芯が急に熱くなった。熱は膝の裏を回って、くるぶしまで一気に下りてくる。次の一歩で、グレンは胸壁の上から湿地の泥まで、ふつうなら三歩かかるところを跳び越えていた。

 

膜をたわませていた一頭目の横腹に回りこんで、筒先を押しつけたまま撃った。光の杭が至近から脇腹を抉り、獣は甲高く鳴いて膜から頭を抜いた。こちらを向いた鼻面の、ちょうど開いた口の中にもう一発撃ちこむと、杭は後頭部へ抜けて、一頭目はそのまま泥に沈んだ。

 

二頭目は、もう膜まで十歩もない。

グレンは走りながら、刃の根元の窪みに神骸片を押しこんだ。鉄が低く唸って、刃が赤く灼けていく。正面から行けば牙に引っかけられる。泥に足を取られたふりをして半身をずらし、すれ違いざまに、前脚の付け根の殻の継ぎ目へ刃を叩きこんだ。灼けた刃が殻を焦がして沈み、獣は自分の重みで横倒しになった。

 

刃を引き抜いたところで、三頭目の牙が左の脇腹を裂いた。外套を脱いでいたぶん、牙はまともに肉まで来た。脇から腰へ、温いものが流れていく。グレンは背中に手を回して、肩甲骨のあいだの刻印に神骸片を押しつけた。脇腹の痛みが、急に他人の傷を横から眺めているくらいの遠さになった。

 

三頭目は泥を蹴って向きを変え、もう一度突っこんできた。グレンは動かずに待ち、牙が届く寸前で身を沈めて、灼けた刃を下から顎へ突き上げた。刃が顎の裏から口の中へ抜けたところで、もう一度引き金を引く。光の杭が頭の中で弾けて、三頭目は膝から崩れた。

 

まだもがいている二頭目の首の後ろを断ってから振り返ると、杭の頭の光が目に見えて弱っていた。後方の詠唱が、急に高くなった。

グレンは走った。腿の熱がまだ抜けず、泥を蹴るたびに膝の裏が軋む。胸壁に手をかけて体を引き上げ、ちょうど顔を出していたピートの襟首を掴んで、二人で塹壕の底へ転げ落ちた。

 

「伏せろ!」

 

空が白くなったのは、その直後だった。エルフの魔法は炎の雨になって、湿地一面に降り注いだ。異形の焼ける臭いが雨に混じって、胸壁の上を熱風が吹き抜けていく。右隣の胸壁で、伏せそこねた誰かが叫んでいた。

 

熱が引くまで、三人とも泥の底に伏せたままでいた。マルタが先に体を起こして、胸壁の上から焦げた湿地を眺め、転がっている三頭の巨体と、泥の中で肩を上下させているグレンとを見比べた。くわえていた煙草は、雨と泥ですっかり消えていた。マルタはそれを指でつまんで捨て、新しい一本を出しながら言った。

「……あんた、名前なんだっけね」

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