神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
前腕の刻印に押し当てた結晶が、皮膚の下で溶けた。続けて腿に、最後に背中の刻印に押し当てたとき、グレンは自分の体がどこから始まってどこで終わっているのか、一瞬わからなくなった。
腕からも脚からも背中からも、熱が胸のほうへ寄ってきた。それが心臓のあたりでぶつかって、塊になって居座る。息を吸おうとしても、肺が膨らまない。膝が勝手に折れかけて、グレンは焚べ筒を床に突いて体を支えた。
耳の奥で、声が溢れていた。もう遠くで誰かが繰り返している声ではなかった。塊の何十という口から吐き出される声と、自分の頭の内側で鳴る声とが、同じ拍子で重なっていて、どちらがどちらなのか区別がつかない。言葉も、さっきよりはっきり聞き取れた。ひとつに、と声は言っていた。わかれたから、争うのだと。ひとつにもどれば、もう誰も争わずにすむのだと。
塊の顔たちが、グレンを見ていた。さっきまでピートを呼んでいた口が、今はみんなこちらを向いている。肉の表面から伸びた腕が何本も、ゆっくりと差し出されていた。掴みかかってくるのではなく、迎え入れるように手のひらを開いている。
足が一歩、前に出た。グレンには、自分がそうしようとしたのかどうかがわからなかった。
懐の中で、何かが肋骨に当たった。ニナの手紙の角だった。何度も読み返して擦り切れかけた紙の、折り目の硬いところ。兄さんがどこにいても、ちゃんと帰ってきてくれるなら、という一行だけが、頭の中を埋める声のなかで、くっきりと読めた。この肉に混ざってしまえば、居住区の施療院の、あの薄い毛布の寝台の脇へ戻ることは、もう二度とできない。
グレンは差し出された手のひらを、灼けた刃でまとめて薙ぎ払った。
「ピート」
声を張り上げたつもりが、ひどくかすれていた。
「心臓は、どっちへ逃げる」
床に押さえつけられたまま、ピートが目を閉じた。痣のある脛が、包帯の下で脈打っている。唇がかすかに動いている。自分の足の拍動を数えていた。
「グレンさんが左から掘ると、右の奥に逃げます」ピートは目を開けた。
「さっきもそうでした。掘られた反対のほうへ、ずるずるって」
「なら、右に待ち伏せを置く」
グレンが振り返ると、マルタはもう最後の包みを手にしていた。
「右の奥ってのは、どのへんだい」
「あそこです」
ピートが顎で示したのは、塊の右の脇腹の、床に近いあたりだった。
「心臓が逃げてくると、あの辺の肉が膨らむはずです」
マルタは煙草を口の端に移した。
「あそこまで這っていって、こいつを押し込んで、合図で火を入れる。それでいいんだね」
「隊長、無茶です。床から継ぎが」ユーリがマルタの袖を掴んだ。
「無茶じゃない年季兵の仕事なんて、あたしは見たことないよ」
「援護する」リーフェはもう火室に一粒落としていた。
「残りの四粒で、隊長に伸びる腕は全部落とす」
「俺らも行きます」ドミが腰の小さな焚べ筒を構えた。「大筒の仇だ」
アイレンは黙ったまま、剣を構え直した。炎は糸ほどの細さだったが、まだ消えてはいなかった。
マルタが床を這いはじめた。双子がその両脇について、床から湧き出す継ぎを撃ち払っていく。リーフェの杭が、マルタの頭上から伸びてくる腕を一本ずつ撃ち落としていった。
グレンは左の窪みに戻って、刃を叩き込んだ。
手応えが、さっきまでとはまるで違った。腕の刻印がもたらす力が、刃を肉の奥へ奥へと押し込んでいき、一太刀でさっきの三太刀ぶんの深さが抉れる。剥がれ落とされる前に裂け目へ筒先を押し込んで撃つと、光の杭が内側で弾けて、熱い汁が顔に飛び散った。背中の刻印のおかげで、顔を伝う汁の熱さも他人事だった。ぬかるんだ肉の床を、脚がしっかり噛んでいた。
塊が悲鳴を上げた。何十という口がいっせいに、声にならない声で叫んでいる。左の脇腹の肉が大きく波打って、奥のほうで何かが右へずれていくのが、刃越しに伝わってきた。
「逃げてます!」ピートの声が飛んだ。
「右へ、右の下へ!」
グレンは攻め手を緩めなかった。逃げる核を追い立てるように、左からさらに深く掘り込んでいく。
右側では、マルタが塊の脇腹にたどり着いていた。膨らみはじめた肉に小刀を突き立てて切れ目を入れ、そこへ布の包みを押し込む。導火の紐を引き出しながら這い戻ろうとしたとき、床から伸びた肉の帯がマルタの足首に巻きついた。ドミの撃った杭が帯の根元を焼き飛ばし、ダミがマルタの襟首を掴んで引きずる。
「隊長、早く!」
「わかってるよ、うるさいね」
マルタは床に転がったまま、くわえていた煙草を紐の端に押しつけた。火が紐を走って、塊の右の脇腹の、膨らんでいた肉の真下で埋め火が弾けた。白い火柱が肉を内側から突き破り、逃げ込んできた核の行き場を真正面から塞いだ。
グレンの刃の先で、肉が大きく震えた。右へ逃げようとしていたものが炎に押し返されて、左へ、グレンのほうへ戻ってくる。
「来ます!」ピートが叫んだ。
「グレンさんのほうに、まっすぐ!」グレンは最後の肉の壁を刃で切り開いた。
その奥に、それはあった。人の頭ほどもある黒ずんだ心臓が、逃げ場を失って、肉の中で激しく脈打っている。それが打つたびに、空洞全体が一拍遅れて震えた。心臓のすぐ上の肉からは、エルフの手が一本突き出していた。空洞の入口から見えていた、銀の指輪をはめた手で、細い指が心臓を抱えるように曲がっている。
心臓のまわりの肉が、いっせいにグレンへ向かって伸びてきた。腕も肉の帯も、今度は迷わなかった。刻印の線を撫でるのでも、手のひらを開くのでもなく、グレンを心臓ごと抱え込もうとしていた。耳の奥の声は、ひとつに、というただ一つの言葉だけになっていた。
アイレンが、左手の銀の指輪を親指でなぞった。糸ほどだった剣の炎が、最後にひときわ強く燃え上がる。アイレンはグレンの肩越しに剣を突き出して、伸びてきた肉をまとめて焼き払った。
「行け」
グレンは最後の一粒を刃の根元の窪みに押し込み、赤く灼けた刃を黒い心臓に突き立てた。手応えは、思ったよりも軽かった。刃が殻を焦がしながら沈んでいき、切っ先が奥の何かに届いたところで引き金を引く。光の杭が心臓の内側で弾けて、黒い殻が内側から裂けた。
塊の顔たちが、いっせいに口を開いた。今度は言葉ではなく、何十という喉から、長い長い息が漏れていった。風が狭い坑道を抜けていくような音で、その中にひとつだけ、かすれた声が混じっていた。あつい、とその声は言って、それきり何も言わなくなった。
まわりの拍動が途切れていった。すぐそばの音から順に消えていって、空洞を満たしていた心臓の音が、ひとつずつ減っていく。最後に残ったのは、自分の心臓の音と、少し遅れて壁際でピートが吐き出した、震える息の音だけだった。
グレンは突き出していたエルフの手に、とっさに手を伸ばした。指輪をはめた指を掴むと、手は付け根のところで脆く千切れた。それを外套の中へ突っ込んだところで足元の肉がずるりと崩れ、裂け目の縁がグレンの上へ落ちてきた。駆け寄った双子が二人がかりでグレンの腕を掴んで引きずり出す。グレンの体が裂け目から転がり出たのと、塊が最後の息を吐くように大きくしぼんだのとは、ほとんど同時だった。
グレンは床に膝をついたまま、しばらく顔を上げられなかった。
三つの刻印の上で、皮膚が火ぶくれになりかけていた。両手は、握ろうとしても指が曲がらずに、膝の上で勝手に跳ねている。目の奥がちかちかして、空洞の灯りが二重に見えた。耳の奥の声はまだ鳴っていて、さっきほど近くはなかったが、消えてもいなかった。
「立てるかい」
見上げると、煙草をくわえたマルタが手を差し出していた。外套の裾が焦げていて、頬に煤がついている。グレンはその手を掴んで立ち上がった。
「三つ全部やって、まだ立てるとはね。あんた、ほんとに人間かい」
「たぶんな」
マルタは鼻で笑って、空洞の入口のほうを顎でしゃくった。坂の口を塞いでいた肉の壁は、茶色く縮んで、ところどころに穴が空きはじめていた。
「帰るよ。置き土産は、帰り道の分がまだ残ってる」
空洞の天井から、岩の欠片がぱらぱらと落ちはじめていた。塊が支えていたものが、崩れはじめていた。泥鼠は縮んだ肉の壁を焼き払って、坂を駆け上がった。ユーリがピートを背負い、双子が両脇からグレンを支える。坂を上りきったところでマルタが立ち止まり、支柱の陰から伸びている紐に煙草の先を押しつけた。来るときに一本ずつ埋めてきた置き土産が、後ろから順番に弾けていった。
坑道の入口の隙間を抜けたとき、外はもう夜が明けかけていた。
崩れた坑道の入口の前で、泥鼠はしばらく誰も口をきかずに、それぞれ地面に座り込んでいた。双子は背中合わせにもたれかかっていて、少し離れたところでは、アイレンが地面に突き立てた剣の柄に額をつけていた。
ユーリは自分の足首をめくって、肉の帯に巻かれた跡を確かめた。赤みはもう引きかけていて、痣のような線は浮いていなかった。小さく息を吐いてから、ピートの包帯を解く。胸の隠しから結び目を作った糸を取り出して、くるぶしから痣の先端までまっすぐ当て、しばらく見つめてから、もう一度当て直した。
「ひとつ、戻ってる」ユーリの声がかすれた。
「昨日の晩より、結び目ひとつぶん短い」
ピートは自分の足を見下ろした。痣の色は、昨日より薄くなっていた。
「もう、聞こえないです。心臓の音。全部、静かです」
それを聞いて、双子の片方が背中合わせのまま、空に向かって長い息を吐いた。もう片方が「お前、泣いてんのか」と言い、「泣いてねえよ」と言い返す。どちらがどちらなのかは、やっぱりわからなかった。
グレンは外套の中から、千切れたエルフの手を取り出した。手はもうからからに乾いていて、ほとんど重さがない。細い指から銀の指輪を抜き取ると、内側に何かの紋が細かく彫り込まれているのが見えた。
グレンが指輪を差し出すと、アイレンは顔を上げて、そのまま表情を止めた。しばらくそうしていたが、やがて手を伸ばして指輪を受け取り、内側の紋を一度だけ見てから、何も言わずに拳の中へ握り込んだ。
「礼は言わない」声の端が震えていた。
「頼まれたわけじゃない」
アイレンは指輪を握ったまま立ち上がり、グレンに背を向けた。グレンは泥鼠のところへ戻ろうとして、三歩目で膝が抜けた。地面がいきなり顔の前に来て、誰かが自分の名前を呼んでいた。