神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
坑道から戻った日の夕方、グレンは熱を出した。
壕に帰り着いて藁の上に横になったところまでは覚えている。そこから先は、目を開けるたびに灯りの色が違っていた。ユーリが濡らした布を額に載せては取り替え、誰かが水を飲ませてくれた。刻印の三か所は焼き鏝を押し当てられたままのように熱く、夜になると手の震えがひどくなって、毛布の端を握っていることもできなかった。
耳の奥の声は、熱のあいだずっと続いていた。坑道の中で聞いたほど近くはなかったが、眠りかけるたびに、ひとつに、と囁いてくる。そのたびにグレンは目を開けて、壕の板の天井を見つめた。
熱がようやく引いたのは二日目の朝で、目を開けると、枕元でピートが膝を抱えて座っていた。
「起きた」とピートは言って、それから慌てて壕の入口のほうへ振り返った。
「隊長、グレンさん起きました」
「見りゃわかるよ」と入口のほうからマルタの声がした。
ピートはグレンの顔を覗き込んでから、何か思い出したように、自分のズボンの裾をまくり上げた。包帯はもう巻いていなかった。くるぶしの上に、蔦が這ったような線が指二本ぶんほど残っているだけで、色も、薄く日焼けした跡くらいにまで褪せていた。
「毎晩、ユーリさんが糸で測ってくれてるんです。一晩に結び目ひとつずつ短くなってるって」
「そうか」
「グレンさんのおかげです」
「隊長の埋め火のおかげだ。お前の耳もな」
ピートは少し照れたように鼻をこすって、裾を下ろした。
マルタがやってきて、藁の脇の木箱に腰を下ろした。煙草に火をつけて、ひと口吸ってから言った。
「あんたが寝てるあいだに、片がついたよ」
「どうなった」
「命令なしに坑道に入った件は、なかったことになった。アイレン様がね、騎士団に報告を上げたんだよ。坑道の調査は自分の判断で泥鼠を率いて行ったもので、奥にいた穢れの討伐は騎士団の戦果である、ってね」
グレンは天井を見たまま、しばらく黙っていた。
「つまり、手柄は騎士団のもんか」
「そういうこと。命令違反は帳消し。そのかわり、手柄も帳消しさ。功績点は一粒もついてない」マルタは煙を吐いた。
「その代わり、年季も延びてない。罰を食らうはずだったのが、何もなしで済んだんだ。上出来だよ」
壕の隅で、双子が揃って鼻を鳴らした。
「上出来なもんか」とドミが言った。
「俺らの名前で残った記録、何だと思います?」
「大筒一門、年季兵の過失により喪失」とダミが続けた。
「なくしたんじゃねえよ、食われたんだよ」
「書き直してもらえよ。食われた、って」
「査定官が書くかよ、そんなこと」
マルタはそれを聞き流して、グレンのほうを見た。
「アイレン様に礼を言うかどうかは、あんたが決めな。あたしはもう言ったけどね。黙って頷いただけだったよ」
グレンは右手を持ち上げて、指を握ったり開いたりしてみた。まだ細かく震えている。年季は一日も減っていない。それでも延びてはいない。ニナのことを考えれば、喜ぶべきなのか悔やむべきなのか、よくわからなかった。
その晩、グレンは壕を出て、少し歩いた。
熱の名残で足元がまだおぼつかなかったが、壕の中にいると、声が藁の中からでも這い上がってくるような気がした。胸壁沿いに塹壕を歩いていくと、丘の上の騎士の天幕に、まだ灯りがともっているのが見えた。
天幕の入口の布が、少しだけめくれていた。中で、アイレンが卓に向かって座っているのが見える。書き物をしているのではなかった。燭台の明かりに、何か小さなものをかざして、じっと見つめている。坑道で渡した、銀の指輪だった。
グレンが立ち去ろうとしたとき、アイレンが顔を上げた。目が合った。アイレンは指輪を握り込んで、立ち上がり、入口の布を自分の手でめくった。
「何の用だ」
「騎士団の手柄になったそうだな」
「不満か」
「いや。助かった」
アイレンは眉ひとつ動かさなかった。
「礼は言わないと言ったはずだ。お前も言うな。私は自分のためにしたことだ」
「指輪のためか」
アイレンの手が、握り込んだ拳の中でわずかに強張った。しばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「この指輪のことは、誰にも言うな」
「言う相手もいない」
アイレンはそれ以上何も言わずに、布を落とした。灯りの漏れる隙間がなくなって、天幕は暗い丘の上の影に戻った。
テオがやってきたのは、その翌日の昼だった。
前と同じように馬に乗ってきて、前と同じように泥のついた裾を気にする様子もなく、壕の前で馬を降りた。今度は木箱は持っていなかった。かわりに、分厚い帳面を小脇に抱えていた。
「坑道でのことを、最初から伺えますか」
マルタが話し、ピートが心臓の音のことを話し、双子が大筒を呑まれたときのことを話した。テオは一度も口を挟まずに、すべてを帳面に書きつけていった。焼けた肉を脱ぎ捨てたこと、核が逃げたこと、ピートが呼ばれたこと。グレンの番になって、刻印の線に腕が触れようとして止まったことを話すと、テオの手が一瞬止まった。
「塊は、何か言っていましたか」
「なぜ、わかれる。ひとつになれば、もう争う必要もない。最後のほうは、ひとつに、とだけ」
テオはそれを書きつけてから、帳面を閉じた。
「騎士団の報告では、坑道の奥にいたのは大型の穢れで、騎士アイレンの指揮のもとに討伐された、とだけ記されています。書記局には、今いただいたお話のほうを残します」
「残して、それで何か変わるのかい」とマルタが言った。
前にも同じことを訊いたのを、たぶん覚えていて言っていた。
テオは少し考えてから、答えた。
「書記局の記録では、上位の穢れそのものは、三百年近く確かな記録がありません。眷属と思われるものの報告も、その後はまれに散発的にあった程度で、ここ数十年はほとんど途絶えていました」
「眷属?」とユーリが訊き返した。
「上位の穢れが形を与えた、配下のようなものです。詳しいことは、いずれ」テオは帳面の表紙に手を置いた。
「それが、この半年ほどで、各地から報告が上がりはじめています。北の前線では、心臓の音がしない旅人が村に紛れ込んでいたという報告がありました。獣人の草原では、ひとつの部族の村だけが、続けて三つ滅んでいます。ほかの部族の村は、すぐ隣にあっても無傷のままで」
壕の中が静かになった。双子も、カードを繰る手を止めていた。
「そこへ、坑道の件です」テオは言った。
「上位の穢れの本体が、三百年ぶりに確かに確認されて、しかも年季兵の小隊の手で討たれた。これは、変わるかどうかではなく、もう変わりはじめていることの記録です」
テオは懐から、封蝋のついた書状を取り出して、マルタに差し出した。封蝋には、教会の紋が押してあった。輪の重なっていない、前にテオの木箱で見たのと同じ紋だった。
「大神官府からです。泥鼠は傷が癒え次第、深淵の浅層の縁を調べるように、と」
マルタは書状を受け取ったが、封を切らずに手の中で裏返した。
「深淵の縁ってのは、あの裂け目の、すぐ手前のことかい」
「はい。この数か月、浅層の縁で、古い型の鎧を着た兵の姿を見たという年季兵の報告がいくつか届いています。近づくと、霧のように消えてしまうそうです」
「休ませる気はないんだね」
テオは、少しだけ目を伏せた。
「ヴァレリオ様は、休む時間はあまり残っていないとお考えです」