神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
深淵の縁までは、前線から北へ丸一日歩いた。
塹壕の列が途切れたあたりから、地面の色が変わっていった。泥の黒さが少しずつ抜けて、灰を撒いたような白っぽい土になる。草は生えていなかった。ところどころに枯れた木が立っていたが、どれも幹の途中から捻じれていて、枝の先がみな同じ北の方角を向いていた。
「気味悪いですね」ピートの痣はもうほとんど消えていて、足取りも軽かった。
「木が、全部あっちを見てる」
「見てるっていうより、引っぱられてるんだろうね」マルタは煙草をくわえたまま、北の空を見上げていた。
「この先に何があるのか、木のほうがよくわかってるのさ」
昼を過ぎたころ、地平線の手前に霧の帯が見えてきた。近づくにつれて、それが霧ではないことがわかった。地面がそこで途切れていたのだ。大地に巨大な刃を入れて切り開いたような裂け目が、右にも左にも、見渡すかぎり続いている。向こう岸は見えず、裂け目の底から白いものが立ちのぼっていて、それが遠目には霧の帯に見えていた。それが深淵だった。
グレンは何度か遠くから眺めたことがあったが、ここまで近づくのは初めてだった。縁から下を覗き込むと、白い靄の奥はどこまでも暗く、底があるのかどうかさえわからない。耳の奥の声が、ここへ来てからずっと、低く唸るように続いていた。
縁の手前、裂け目から百歩ほど離れたあたりは、古い戦場の跡だった。白い土の上に、錆びた槍の穂先や割れた兜が、いくつも転がっている。どれも今の騎士団が使っているものとは形が違っていて、兜は丸く、胸甲には見たことのない紋が打ち出されていた。骨は見当たらなかった。武具だけが、持ち主を置いてきぼりにしたように、そこらじゅうに散らばっていた。
「これ、いつの戦だ」とドミが言って、兜のひとつを足でつついた。
「わからない」ユーリがしゃがみこんで、胸甲の破片の紋を指でなぞった。
「写本で見たことがある気がします。でも、すごく古い……聖連合ができるより前のものかもしれない」
リーフェは少し離れたところで、地面に転がった一本の弓を見下ろしていた。木の部分は朽ちかけていたが、弭に銀の飾りがついている。エルフの弓だった。リーフェは拾おうとはせず、しばらくそれを見つめていた。
最初に気づいたのは、マルタだった。
「おかしいね」マルタは煙草を口から離して、その先を見つめていた。
「さっきから吸ってるのに、減ってないんだよ」
グレンもそれを見た。煙草の先の灰が落ちずに残っていて、落ちたはずの灰まで、いつのまにか煙草の先に戻っている。マルタがもう一度吸い込むと、火は赤く熾ったが、煙草は短くならなかった。
「足跡も」リーフェが後ろの地面を指さした。
振り返ると、白い土の上に残っていたはずの泥鼠の足跡が、踏まれる前の平らな形に、少しずつ戻りはじめていた。
ピートが耳を押さえた。
「聞こえます」
「何が」
「人の声です。たくさん。叫んでる声と、鉄がぶつかる音と」ピートは顔をしかめた。「でも、どこにもいないんです。音だけが、ずっと同じところを回ってる」
霧の帯がこちらへ流れてきて、白いものが地面を這うようにして古戦場を覆っていった。その中に、人影が立ちはじめた。
ひとつやふたつではなかった。霧の中から次々と、鎧を着た兵の影が浮かび上がってくる。足元に転がっているのと同じ、丸い兜に古い紋の胸甲をつけた兵たちだった。人間の兵の隣に、エルフの影や獣人の大きな影が並び、角を生やした竜人の影も混じっている。種族の違う兵たちが、同じ方角を向いて肩を並べていた。
「隠れな」とマルタが低く言った。
泥鼠は錆びた武具の山の陰に伏せた。兵の影たちは泥鼠には目もくれず、北へ、深淵の縁のほうへ向かって進んでいく。先頭の何人かが縁の手前で剣を振り上げ、何もない空に向かって斬りかかって、何かに弾き飛ばされたように後ろへ倒れた。倒れた影は霧に溶けて消え、すぐにまた別の影が霧の中から現れて、同じように進んでいく。
グレンは息を殺して、それを見ていた。何度見ても、動きは同じだった。同じ場所で剣を振り上げ、同じ形で倒れて、同じように霧に溶ける。誰かが昔ここで戦った姿を、何度も繰り返しているようだった。
「亡霊かよ」とダミが囁いた。
「わからない」とユーリが囁き返した。
「でも、あの人たちが戦ってる相手は」ユーリはそれ以上言わなかった。
兵たちが剣を向けているのは、深淵の縁の、さらに向こうだった。そこには何も見えず、裂け目の底から白い靄が立ちのぼっているだけだった。
そのとき、行進する影たちのあいだから、ひとつの影が列を外れた。
白銀の鎧だった。他の兵たちの鎧が霧に滲んでぼんやりとしか見えないのに、その鎧だけは輪郭がはっきりしている。兜の脇から長い耳がのぞいていて、背は高く、手にした長剣は刃こぼれひとつなく光っていた。白銀の騎士は、泥鼠が伏せている武具の山のほうへ、まっすぐに歩いてきた。
「見つかった」ドミが息を呑んだ。
「動くんじゃないよ」マルタが押し殺した声で言った。
「まだ、こっちを見ちゃいない」
だが騎士は迷わずに近づいてくる。白い土の上を歩いているのに、足音はせず、足跡もつかなかった。
騎士は武具の山の三歩手前で止まった。兜の奥の目が、伏せている泥鼠をひとりずつ眺めていき、リーフェのところで止まった。リーフェが、焚べ筒を握る手に力を込めるのがわかった。
騎士の口が動いた。声は霧の向こうから響いてくるように遠く、少しだけ節の違う、古い言葉だった。
「同胞の末裔よ」
リーフェの肩が、びくりと震えた。
「戦は、まだ終わらぬのか」
グレンは考えるより先に、武具の山の陰から飛び出していた。脚の刻印に神骸片を押し当てて白い土を蹴り、騎士とリーフェのあいだに体を割り込ませて、刃筒の筒先の下で灼けた刃を、下から斬り上げる。刃は、騎士に届かなかった。
騎士の長剣がいつ抜かれたのかも、グレンにはわからなかった。刃は長剣の腹に受け止められて、そのまま横へ流される。流された勢いで体が開いたところへ、長剣の柄頭が胸を打った。肋骨が軋む音が自分の耳にもはっきり聞こえて、グレンは三歩ぶん後ろへ飛ばされ、白い土の上に転がった。
腕の刻印にも焚べて起き上がり、もう一度踏み込んで横から薙ぐ。騎士は半歩下がっただけでそれをかわし、長剣の切っ先でグレンの刃を叩き落とした。刃筒が手から離れて、土の上を転がっていく。顔を上げたときには、騎士の長剣がグレンの喉元に向けられていた。
切っ先は、喉の皮膚に触れるか触れないかのところで止まっていた。グレンは動けなかった。数えきれないほど剣を交えてきた者の、迷いのない動きだった。坑道の塊が戦い方を覚えていったのとは、まるで違っていた。
リーフェの焚べ筒が、騎士の兜に向けられていた。双子もユーリも筒を構えていたが、誰も撃たなかった。撃てば、その前にグレンの喉が裂ける。
騎士は切っ先をグレンに向けたまま、兜の奥の目を下へ動かした。グレンの右の前腕、まくり上げた袖の下で、焚べたばかりの刻印がまだ赤く熱を帯びている。騎士の目は、そこで止まった。
「その紋を」古い言葉が、霧の向こうから響いた。
「なぜ、その身に刻む」
グレンは答えられなかった。答えを知らなかった。騎士はしばらく刻印を見つめていて、兜の奥の表情はわからなかったが、長剣の切っ先がほんのわずかに揺れたのがわかった。それから騎士は、ゆっくりと長剣を引いた。
霧が流れて、騎士の輪郭が滲みはじめた。白銀の鎧が、他の兵たちと同じように霧の中へ溶けていく。最後に兜の奥の目が、もう一度だけリーフェのほうを向いた。
「同胞の末裔よ。終わらせよ」
その言葉を残して、騎士は消えた。
霧が引いていくと、古戦場には錆びた武具と白い土だけが残っていた。兵たちの影はどこにもなく、ピートの耳に届いていた声も、もう聞こえないという。泥鼠の足跡は、ひとつ残らず土に戻っていた。
マルタが、くわえていた煙草を指でつまんで見下ろした。煙草は、ここへ来たときと同じ長さのままだった。
「帰るよ」マルタの声がかすれていた。
「見たことは全部、テオの坊やに書き残してもらうからね」
グレンは土の上に転がった刃筒を拾い上げた。柄頭で打たれた胸が、息をするたびに痛む。右の前腕の刻印は、もう熱が引いていた。そこでグレンは、耳の奥の声が止んでいることに気づいた。ここへ来てからずっと低く唸り続けていた声が、騎士が刻印を見つめたあの瞬間から、ひとつも聞こえなくなっていた。何年ものあいだ、焚べた日には必ず聞こえていた声が、刻印を焚べたばかりの今になって、初めて黙っていた。
声が戻ってきたのは、深淵の縁を離れて半日ほど歩いたころだった。前よりも少しだけ、遠いところから聞こえていた。