神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
テオからの書状が届いたのは、深淵の縁から戻って三日目の朝だった。
今度は大神官府からの命令ではなく、書記局の印が押された呼び出しだった。坑道と深淵の縁で見たものについて、詳しく話を聞きたい。ついては、前線後方の城塞都市アルセイアにある書記局の分室まで来てほしい。
名指しされていたのは、グレン、ユーリ、リーフェの三人だった。
「名指しが多いね、うちは」とマルタは書状を読みながら言った。
「三人も抜けたら、骸杭の打ち直しが進まないじゃないか」
「俺らがやっときますよ」ドミが手を挙げた。
「お前らがやると杭が曲がるんだよ」
結局、三人は補給所へ向かう荷車に乗せてもらって、アルセイアへ向かった。手綱を握っていたのは前に神骸片を余分にくれた灰色の獣人の補給官で、三人が荷台に乗り込むのを見ても何も言わず、黙って荷車を出した。
アルセイアは、塹壕から半日ほど南へ下った丘の上にあった。白い石を積み上げた城壁が丘をぐるりと囲んでいて、その上から、教会の尖塔がいくつも突き出している。近づくにつれて、城壁の白さが泥と煤に慣れた目には眩しいほどになった。
城門の前には、獣人の門番が二人立っていた。荷車を止めて降りると、門番の一人がまずリーフェに目を留めて、わずかに姿勢を正した。
「エルフの御方。ご用向きは」
「書記局に呼ばれている」リーフェは書状を見せた。
「この二人と一緒だ」
門番はグレンとユーリに目をやって、眉をひそめた。
それから、もう一度リーフェを見た。
「失礼ですが、御家名を」
「ない」
門番の顔から、さっきまでの丁寧さがすっと抜けていった。書状の印を確かめて、それが本物だとわかると、門番は三人の顔を見ないまま顎で門の中を示した。
「人間は、街の中では札を首から下げておけ。書記局の用が済んだら、日が落ちる前に出ろ」
グレンとユーリは、門の脇の箱から木札を受け取って首から下げた。札には「通行」とだけ焼き印が押されていた。リーフェには札は渡されなかったが、門番はリーフェにも、もう御方とは呼ばなかった。
城壁の内側は、前線とは別の世界だった。石畳の通りは掃き清められていて、泥ひとつ落ちていない。通りの両側に並んだ街灯には火が入っていないのに、昼間でも白く柔らかい光を灯していた。通りの角の噴水では、エルフの子どもたちが手のひらに小さな光の玉を浮かべて遊んでいて、その横を、首から同じ木札を下げた人間の荷運びたちが、背中に大きな荷を負って黙々と通り過ぎていった。
ユーリは歩きながら、ずっとまわりを見回していた。居住区の神学校で育ったユーリにとって、祝福種の街に入るのはこれが初めてだったらしい。噴水のそばで、人間の男の子が水を飲もうとして縁に手をかけたのを、通りがかったエルフの女が一言で追い払うのを見て、ユーリは何か言いかけて口を閉じた。
グレンは何度もこういう街を通ったことがあった。雇われて、また次の戦場へ行く。そのたびに見てきた景色と、ここはたいして変わらない。変わったのは、たぶん自分のほうだった。前はこういう街を通るたびに、ニナを連れてくることはできないだろうかと考えていた。今は、年季が明けたらここを歩けるのだと考えている。
書記局の分室は、大神官府の分院と呼ばれる大きな建物の一角にあった。正面の大扉ではなく、建物の裏手に回った小さな通用口の前で、テオが三人を待っていた。
「遠いところをありがとうございます。それから、裏口で申し訳ありません。人間は表の扉からは入れない決まりなので」
「あんたもか」
「私もです」テオはあっさり答えて、扉を開けた。
書記局の中は、紙と埃の匂いがした。天井まで届く棚に、帳面や巻物がぎっしりと詰め込まれている。窓は小さく、昼間なのに灯りがともされていた。何人かの書記が卓に向かって黙々と筆を動かしていたが、耳の形を見るかぎり、人間はテオだけのようだった。
テオは奥の卓に三人を通すと、まず坑道と深淵の縁で見たことを聞き取った。マルタのときと同じように一度も口を挟まず、すべてを帳面に書きつけていく。白銀の騎士がリーフェを「同胞の末裔」と呼んだところで、テオは筆を止めてリーフェを見た。
「失礼ですが、ご家名は」
「ない」門番に答えたときと同じ声だった。
テオはそれ以上は訊かずに、また筆を動かした。続けてグレンが、騎士に刻印を見られて「なぜ、その紋を身に刻む」と問われたことを話すと、テオの筆がもう一度止まった。今度は、さっきよりも長く止まっていた。卓の端に積んであった古い帳面のひとつに、テオの目がちらりと向いたが、すぐに手元に戻った。
「……書き止めておきます」
それだけ言って、テオは帳面を閉じた。それから立ち上がって、棚の奥から、布にくるまれた大きな本を一冊抱えてきた。
「今日お呼びしたのは、これをお見せするためでもあります」
布を解くと、表紙の革が擦り切れた、ひどく古い本が現れた。テオが慎重に開くと、黄ばんだ頁に、褪せた墨で描かれた絵が並んでいた。
「前の活動期、聖暦五百年頃の記録をまとめた図譜です。当時、深淵の縁で戦っていた年季兵や傭兵たちが見たものを描き残して、それを教会がまとめました」テオは表紙に手を置いたまま、少しだけ声を落とした。
「本来は、書庫から持ち出してはならないものです。前線の騎士にも、ここにあることは知らされていません」
テオは頁の余白に書き込まれた細かい文字を指さした。
「絵に添えられた書き込みは、当時の兵たちが自分の手で書いたもので、今はもう使われていない古い人間の文字です。これを読めることが、書記局の務めのひとつになっています」
テオが最初の頁の書き込みを読み上げようとしたとき、横から身を乗り出したユーリが、先に小さく声に出していた。
「……穢れには三つの段がある。群れて歩くだけの下の者、主に形を与えられた中の者、そして主そのもの」
テオが、驚いたようにユーリを見た。
「読めるのですか。神学校では、この文字は教えないはずですが」
「教わってはいません」ユーリは少し決まり悪そうに言った。
「神学校で習った神殺しの話が、どうしても腑に落ちないところがあって、昔のことを自分で知りたくなったんです。居住区の礼拝所に古い祈祷書が残っていたので、それを写しながら覚えました。先生には、余計なことをするなって叱られましたけど」
テオはしばらくユーリの顔を見ていたが、やがて小さく頷いて、図譜をユーリのほうへ少し寄せた。
「続けていただけますか」
ユーリは頁をめくった。現れたのは、獣の胴がいくつもつながった肉の塊の絵だった。表面から腕や脚が生えていて、真ん中に裂け目のような口がある。グレンは思わず息を止めた。坑道の奥で見たものと、ほとんど同じだった。
「混ぜ合わせる主。その眷属は、継ぎ」ユーリが読んだ。「切ってもつながる。焼けばつながらない。触れた者に、蔦の痣を残す」
「継ぎ」とグレンは繰り返した。湿地の死骸も、坑道の壁も、ピートの足首の痣も、ぜんぶその一言につながっていた。
次の頁には、痩せて背の高い人型が描かれていた。腕が天秤のように左右に長く伸びている。ユーリが読むと、選り分ける主、その眷属は間引き、ひとつの種ばかりを狩る、と書かれていた。テオが、獣人の草原の件を思い出したように小さく頷いた。
その次は、穏やかに微笑む司祭のような人影だった。囁き、とその眷属の名が書かれていて、添えられた書き込みには、人の姿で紛れ込む、心臓の音がしない、とあった。北の前線の旅人の話を、三人とも思い出していた。
リーフェが、四枚目の頁で手を伸ばした。
そこには、古い型の鎧を着た兵たちが、隊列を組んで歩いている絵が描かれていた。人間の兵の隣に、エルフや獣人や竜人の兵が並んでいる。眷属の名は、亡霊。同じ戦を何度も繰り返す、と書き込まれていた。そしてその隊列の先頭に、ひとりだけ線を何度もなぞって濃く描かれた騎士がいた。長い耳と、白く塗り残された鎧。その脇に、亡霊の頭、と小さく書かれていた。
リーフェは、その騎士の絵を指でなぞりかけて、触れる手前で止めた。
最後の上位の頁には、揺りかごのような肉の巣と、その中で丸くなっている子どもの姿が描かれていた。眷属の名は仔。見たものを真似て覚える、見つけ次第、まず撃て、と、ほかの頁よりも強い筆跡で書き込まれていた。
ユーリは五体ぶんの頁を読み終えて、次の頁をめくった。そこには絵はなく、余白いっぱいに、乱れた字で短い一文だけが書かれていた。
「主どもは、互いに手を貸さぬ。それだけが救いだ」
ユーリが読み上げると、テオが黙って頷いた。ユーリはもう一枚めくった。その先の頁は白紙だった。さらにめくっても、白紙が続いていた。最後の何枚かは、綴じ糸のところから乱暴に破り取られた跡が残っていた。
「前の活動期がどう終わったのかは、書記局のどの記録にも残っていません」テオは白い頁の上に指を置いた。
「この図譜も、ここで途切れています」
書記局を出たのは、日が傾きはじめたころだった。
テオに案内されて、裏手の通用口へ向かう廊下を歩いていたとき、廊下の先の大扉が開いた。白と金の法衣を着た一団が、静かな足音で入ってくる。テオがすぐに壁際へ寄って、深く頭を下げた。グレンたちも、それに倣った。
一団の真ん中を歩いていたのは、背の高いエルフの男だった。銀色の髪を背中で束ねていて、顔には年齢を感じさせる皺がほとんどない。歩きながら、男の目が壁際の三人をなぞるように通り過ぎていった。グレンの首から下がった木札と、袖口からのぞく刻印の線のところで、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。
男は足を止めずに、頭を下げたままのテオに声だけをかけた。
「記録は済んだか」
「はい」
「ならば、よい」
それきり、男は一度も振り返らずに廊下の奥へ去っていった。一団の足音が遠ざかってから、ユーリが小さな声で訊いた。
「今の方は」
「主席大神官、ヴァレリオ様です」
テオはそう答えて、顔を上げた。グレンは、男の消えた廊下の奥を見ていた。目が合ったのは一瞬だったが、その目には、前線の騎士たちが年季兵を見るときのような侮りもなかった。何もなかった。測るように見て、それで用が済んだという目だった。
通用口の手前まで来たとき、後ろから駆けてくる足音がした。若いエルフの書記が、封書を手にテオのもとへ走り寄ってきた。
「草原からです。急ぎで、と」
テオはその場で封を切った。読み進めるうちに、顔から少しずつ血の気が引いていくのが、グレンにもわかった。
「灰牙族の村が、また一つ滅びたそうです。これで四つ目になります」テオは封書から目を上げずに言った。
「生き残ったのは、たまたま村に来ていた赤爪族の行商人だけだったと」