神骸を焚べよ ~祝福なき傭兵たちは、今日も地獄の最前線を往く~ 作:匿名希望()
「グレンだ」
マルタは火のついていない煙草をくわえたまま、ふうん、とだけ言った。
背の刻印が切れてくると、脇腹の傷が自分のものに戻ってきた。グレンは塹壕の壁にもたれて座りこみ、両手を見た。指先が勝手に細かく跳ねている。拳を握っても、開いても、止まらない。刻印を焚べた日は、毎度これだった。
マルタが腰の袋から針と糸を出して、グレンの前にしゃがんだ。
「脱ぎな。縫ってやる」
「自分でやれる」
「その手でかい」
グレンはシャツをまくった。マルタは傷を確かめてから、腿と背中の刻印に目をやった。刻印の線の上だけ、皮膚が火ぶくれのように赤く盛り上がっている。
「焦げてるじゃないか」
「いつものことだ」
「刻印持ちの古株は、みんなそう言うんだよ。そのうち頭の中までいつものことになる」
針が脇腹を出入りしはじめた。お世辞にも上手いとは言えない縫い方で、針が通るたびに、グレンは膝の上の拳を固くした。
「下手だな」
「うちには本職がいるんだよ。神学校帰りの坊やでね、あいつがいりゃもう少しましに縫ってもらえた。運が悪かったと思いな」
ピートは離れたところで、泥の詰まった自分の爪を見ていた。指先がまだ震えていた。
「……いま、俺、死んでましたよね」
「さあな。伏せてなきゃ、髪くらいは焦げてた」
「髪くらいで済んでました?」
「済んだことにしとけ。それより、重いのが三つって言ったのはお前だろ。あれがなきゃ俺も出遅れてた」
ピートは泥だらけの手で鼻をこすった。
耳の奥で、何かが鳴りはじめたのはそのときだった。雨でも、詠唱の残りでもない。どこか遠くで、誰かが聞き取れない言葉を、同じ調子で繰り返している。焚べ筒だけの日なら、夕方になってかすかに聞こえる程度のものだ。刻印を焚べた日は、それが日の高いうちから来る。今日は近く、なかなか止まなかった。
グレンは目をつぶって、脇腹を出入りするマルタの下手な針のほうに意識を寄せた。そのうちに、声は途切れた。
日が落ちる前に、核の回収があった。焼け焦げた異形の腹を短剣で裂いて、拳ほどの黒い塊を取り出す。核と呼ばれるそれを査定官のところへ持っていけば功績点になり、功績点がたまれば、そのぶん年季が減る。
猪もどきの核は、ほかのものより二回りは大きかった。三つ放りこんだだけで、麻袋がずしりと重くなった。
「大物ですね」ピートの声が弾んだ。
マルタは返事をしなかった。
査定は塹壕の後ろの、祝福種の査定官が詰める天幕だった。獣人の査定官は麻袋の中身を卓にあけ、ひとつずつ爪先で転がしては帳面に書きつけていく。猪もどきの核のところで、爪が止まった。
「これはどこで」
「東の突出部。骸杭の手前だ」
「炎の雨の着弾範囲だな」
査定官は大きな核を三つ、卓の端へ押しやった。
「騎士団の戦果として記録する」
「そいつらは雨が降る前に死んでた」
「それを証明できる者は」
グレンはマルタを見た。マルタは天幕の入口の柱に寄りかかって、火のついていない煙草を指のあいだで転がしていた。
「年季兵の証言は、証言にならない」査定官は、グレンが口を開く前にそう言った。「残りは九。小隊で分けろ」
天幕を出ると、雨はほとんど上がっていた。
ピートは二人の前を、肩をいからせて歩いていた。
「隊長」振り返らないまま、ピートが言った。
「何か言ってくれてもよかったじゃないですか」
「言ったら、九が六になるだけさ」
「なんでですか」
「口答えする年季兵の核は、なぜか焦げて見えるようになるんだよ」マルタはそこでやっと煙草に火をつけた。
「先週は、うちの双子の核がまるごと騎士様の戦果になった。騎士様は塹壕にもいなかったのにね」
核ひとつで、年季はおよそ二日減る。九つを三人で分ければ一人三つ、六日ぶんだった。あの三頭が認められていれば、と考えかけたところで、グレンは数えるのをやめた。
その夜、壕の灯りが落とされてから、グレンは外套の内側から手紙を出した。読み返しすぎて、折り目が擦り切れかけている。暗くて字は見えないが、最後の一行は覚えていた。
兄さんがどこにいても、ちゃんと帰ってきてくれるなら、それでいいです。
眠れなかった。目をつぶると、耳の奥の声がまた寄ってくる。昼ほど近くはないが、止む気配もない。藁の上で天井の板を見上げているうちに、我慢がきかなくなって、グレンは外套を羽織って壕を出た。
雨は止んで、雲の切れ間に月が出ていた。焦げた湿地が、ところどころ鈍く光っている。グレンは胸壁を越えて、昼の戦場へ下りていった。どこへ行くつもりもなかったのに、足は声のするほうへ向いていた。
泥に半分沈んだ死骸のあいだを抜けていくと、突出部から外れた窪みに、死骸がひとつ転がっていた。ほかと同じように焼け焦げていたが、形が違う。四つ足の胴の脇から、腕が一本生えていた。細く長い指に、薄い爪。エルフの腕だ。その付け根のすぐ下には、太く節くれだった指の、人間の手がもう一本埋まっていた。縫いつけた跡はどこにもなく、皮膚は初めからそうだったみたいに、なめらかにつながっていた。
十九年、あちこちの戦場で死骸は見てきたが、こんなものは一度もなかった。
背後で泥を踏む音がした。マルタが、煙草の火を手で囲いながら立っていた。
「眠れないのかい」
「隊長こそ」
マルタはグレンの隣まで来て、死骸を見下ろした。驚いた顔はしなかった。
「ここ半月で三つ目だよ。前の二つは騎士団に報告したけどね。誰も見に来やしなかった」
そのとき、焦げた人間の手の指が一本、泥の中でゆっくりと曲がった。